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[ビスカリアの星]■七八.


山河に黄昏が降りた。
海底に落ちるようなその静寂に、その名は呼ばれた。
シュヴァラーン。
シュヴァラーン------
 「シュヴァラーン・ハクラン・チェンバレン」
変わった名だと、その名を呼ぶたびに少年は思う。
風貌とあわせて、何処の誰とも分からない風来坊。
老人たちの話によれば、その氏、ヴィスタチヤ帝国成立以前にこの大陸の北の方に
郷をもっていた族の一つが、彼の祖先ではないかという話だった。
それなら、シュヴァラーンは、ジュピタ皇家やフラワン家や
アルバレス家よりも、または、ここエスピトラルよりも、隣のカルタラグンよりも、或いは
古コスモスよりも、もっと昔の時代に栄えていた王国の末裔なのだろうか。
 「シュヴァラーン。ごはんだよ。母さんが今夜は野兎の煮込みだって」
粗末な家に漂っていた夕餉のにおい。
少年はシュヴァラーンの姿を森に探した。
たとえ夜遅く、母さんの部屋から、母さんとシュヴァラーンの睦みあう声が
聴こえてきたとて、それが何だろう。今までだって、入れ替わり立ち代り、
村の男たちが母さんの処にしのんで来たじゃないか、豚みたいな連中が。
でも、そうしないと穀物の配分が減ってしまう。父さんが病で死んでから、
僕と母さんがこの村においてもらうには、それは避けられないことなのだと
村の人たちは誰もが眼を逸らして僕にそう云う。
ねえ、シュヴァラーン。少年は旅の騎士の腕に手を絡ませた。
 「どうしたら、あなたみたいに、強くなれるの」
どうしたら、あなたみたいに、星の恵みが受けられるの。
あなたが母さんと結ばれて、僕たちといつまでも一緒に居てくれるといいんだけど。
 「シュヴァラーン。何処にいるの」
誰かが、狩りをしたのだろうか。夜風に血の臭いが混じっていた。
仕留めた獣をその場で解体する時におなじみの、鼻腔を生臭く満たす、この臭い。
藍色の夕闇の中、空に向かって、少年は声を張り上げた。
 「シュヴァラーン」
天空には金色の星が強く瞬いていた。
ようやく見覚えのある人影を見つけて走り寄ろうとした少年は、そこで脚をとめた。
彼は風の中に立つ星の騎士。
その足許に折り重なる死体は、母の許に通っていた村の男たちだった。
そして少年はシュヴァラーンの眼をみて全てを悟る。
絶命した村人たちと、騎士の間にあって、少年は、あれほど憎んでいた村人たちに近かった。
ああ、僕には分かるよ、シュヴァラーン。今日でもうお別れなんだね。
最後にあなたはそんな方法で、一点の曇りもないその心が下した優しい裁きで、
僕たち母子を救おうとしてくれた。とても、とても、間違えた方法で----------。

 「ユスキュダルの巫女よ」

カリア・リラ・エスピトラルは、ゆっくりと眼を開けた。
夢の波間を漂っているその人に、コスモス領主タイラン・レイズンは
ふたたび呼びかけた。
塔を訪れたタイランは、巫女を囲む薄い帳の前に膝をつき、丁重に繰り返した。
 「巫女よ。帝国皇太子ソラムダリヤ様が、コスモス領にお入りになられます。
  皇太子殿下は、巫女をお見舞いになりたいとのご意向を、引き続き示されておられます」
タイランは、こうして、コスモス城の塔におわす巫女の許へ、さまざまな
報告を行うのが日課となっていた。
 「その儀にともない、ミケラン・レイズン卿より、皇太子殿下ご滞在中のあいだ
  コスモス城の警護にあたるとの通達を正式に受けましてございます。
  これは帝国治安維持を担う、卿の権限において発令されしものなれば、
  無碍にすることも叶わぬかと」
氷漬けの乙女のように、巫女はほとんどの時を寝台か、椅子にすわって過ごしていたが、
タイラン・レイズンが訪れると脚の不自由なその歩のはこび方で彼だと分かるのか、
コスモス領主を迎えて、帳の向こうから、僅かな言葉でそれに応えるのだった。
 「------帝国皇太子」
 「はい」
大きな時の流れのいったい何処から巫女がこの現の中に戻って来るのか、タイランにも
誰にも、それは分からなかった。タイランは控えめに云いそえた。
 「巫女。ただいまは、カルタラグン滅亡より廿年、ゾウゲネス皇帝陛下の御世にございます」
 「夢を、みていました」
巫女カリアがやわらかく微笑む気配があった。
 「とても親しい騎士に、久しぶりに逢えました。わたくしの、星の騎士」
 「星の、騎士」
 「あれは古き国エスピトラルでした。星の騎士はいつも、北より来るのです。
  貴方がたくさんの血を流したその夜こそが、わたくしを呼んだ」
 「巫女」
 「貴方を、北の地に留めておくことができるなら」
それでも、またわたくしは逢うだろう。懐かしい星の騎士に。
カリアはふたたび眼を閉じた。
巫女、とタイランは帳の向こうに向かって、慎重に声を掛けた。
 「巫女。ミケラン・レイズン卿については、如何いたしましょう。
  彼は、わが兄にして、皇帝陛下の忠臣でございます。皇太子殿下の護衛として
  ソラムダリヤ殿下がご滞在の間は、この城の警邏にあたるとのこと」
 「ミケラン……------」
 「はい」
 「あの者がユスキュダルに送ってきた手紙には、溢れるほどの、あの者の
  気高い心がありました」
 「では、巫女は、兄をお信じになられまするか」
タイランは俯いたまま、巫女に訴えた。
 「ジュシュベンダとトレスピアノの国境において巫女を襲撃したるは、わが兄です。
  その兄の真意がまだ不明のままに、ミケラン卿をお膝元にお近づけになるのは、
  いたって危険かと存じます」
おとなしい人物としてしか知られていないタイランは、淡々と、その言葉を紡いだ。
 「巫女。このタイランにお命じあるならば、コスモス軍の力を用い、内外と呼応して、
  わが兄ミケラン・レイズンを成敗いたすことも辞しませぬ」
返事はなかった。
平伏しているタイランに、やがて、しっかりと覚醒した巫女の声がおりた。
 「ヴィスタチヤ帝国皇太子。はるばるようこそ。その方に、お逢いいたしましょう」

塔から自室に戻ったタイランを待っていたのは、例によって、書簡の山であった。
滅多なことではユスキュダルより野に下らぬ巫女がコスモスに座した事実が帝国に
与えた衝撃は大きく、連日連夜、ひと目巫女の姿を見たいとの嘆願があの手この手で
タイランの許へ押し寄せていたが、タイランが相変わらずの黙殺を決め込むために、
最近では、恐喝や悲鳴じみたものまで増加の一途をたどり、コスモス城に届く書簡は
減るどころか、書斎から溢れんばかりになっていた。
秘書が、重要と思われる順に積上げておいた書簡函の山から、タイランは
いちばん上に乗っているものを開いた。
函の紋章は、タイラン自身と同じもの。
内容は、読まなくても分かっている。
ジュピタ皇家を復古させたミケランの功績は、いまだに皇帝の厚志に報いる資格が十分に、
そして無限にある。
弟の説得を諦めたミケランは、コスモス城内部に招き入れられることを断念する代わり、
ソラムダリヤ皇太子が入城することを口実に、皇帝の印璽ないまま、その特権を発揮して、
コスモス城の警護に名乗りを上げたのだ。
コスモス領主に宛てた兄からの手紙は、たいへんに短かった。
いわく、皇太子の行幸にあたり、コスモス城の外郭警備はレイズンが行うこと。
コスモス兵は、城内に配置のこと。
皇太子の側近は近衛兵に限定し、皇太子のお供を仰せつかっているところの
ジレオン・ヴィル・レイズンには、城外での待機を願うこと。
これは、レイズン一国のみが巫女と拝謁叶うがごとき不公平を排除するための
必要なる措置であること。
タイラン・レイズンは額に手をあてた。
一国の代表のみが巫女と拝謁することをよしとしない兄の公平なる配慮は行き届いたものである。
しかしながら、末尾に書かれた兄の要望は、その一文に真っ向から反するものであった。

 『ソラムダリヤ皇太子殿下の御立会いのもと、皇帝陛下の友人として
  ユスキュダルの巫女へミケラン・レイズンより直にご挨拶を致したく、
  コスモス領主殿に、そのおとりはかりを切に願うものである。』

兄のこの要望は受諾しなければなるまい。
ゾウゲネス皇帝陛下の友人であるという贔屓の強みを、これまで、兄は一度たりとも
文書には利用したことはなく、たとえ皇帝陛下の印璽がなくとも、独断が
許されることにおいてすら、踏むべき手順を飛ばしたことなどほとんどなかったのだから。
しかしながら、これは、コスモス領民の感情を真っ向から逆撫ですることでもある。
何といってもミケランこそは彼らが愛したクローバとフィリア領主夫妻を
タンジェリン殲滅戦の余波の中で悲劇の谷底に突き落とした張本人、そやつが
コスモスにのうのうと、ふたたび姿を現そうというのである。
タイランとしては、万全の体制で、それを迎えねばならなかった。
兄の書簡を片付けたタイランは、新しい紙を用意させ、手早く手紙を書き付けると、
控えの者を呼んだ。
 「これを届けておくれ」
 「はい。どちらへ」
 「クローバ・コスモス殿へ」
タイラン・レイズンは鉄筆をおいた。
 「それから城の皆に伝えなさい。近々、クローバ殿が城にお見えになると」
 「クローバ様が」
歓喜の声を上げた後で、はっとなって、下僕は顔を伏せた。
タイランはごく僅かな供回りを除いてレイズン家の者をコスモス城には入れていなかったから、
身の回りの者はほとんど、前領主からの引継ぎであった。
当初はそれもコスモスを懐柔するための策なのであろう、タイランはミケランの密偵なのだろうと
疑っていたコスモスの人々も、タイランの人となりに触れるにつれて、タイランも兄ミケランに
利用されている犠牲者なのだとの見方に改め、最近ではすっかりタイランに同情し、むしろ
タイランはコスモス側の人間だとさえ思うようになっている。
恐縮して、下僕は頭を下げた。
 「申し訳ありません」
 「どうして」
タイランは寛容に、目元を和らげた。
 「この城にいる者たちはすべてクローバ殿の家臣。皆にもそのことを伝えておいで。
  クローバ殿がお越しの際には、はしゃぎすぎて粗相のないように気をつけること」
一人きりになると、タイランは、窓を開いた。
そこからは、中二階になっている庭が見下ろせ、ちょうどそこに、彼が植え替えた
季節の花が蕾をつけていた。
エスピトラル。忘れていた名だった。
二十年前の政変の折、カルタラグンの属領として共に滅びた小さな古国。
瀕死の重傷を負い、湖の別荘に搬送されてきた、幼い姫君。
あの当時、寝所にお届けしたことのある、あの花を、カリア姫はまだ憶えておられるだろうか。
それとも、ユスキュダルの巫女となられた身には、花も、影のようなものだろうか。
故アリアケ・レイズンにも押し花にしてお届けした、あの白い花。
花々は、青空の下に咲きそろい、コスモスの風にそよぐ木陰にやさしく香っていた。
シュヴァラーン。
風の中に少年の声を聴いた気がして、タイランは雲の浮かぶ空を見上げた。
空耳を乗せた風の流れる空は高かった。


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空と陸の二界を棲家とした竜の血の因果か、多くの騎士にとって
海とは生涯、不得手で馴染みのないものではあったが、
海賊を祖に持つオーガススィだけは例外であった。
オーガススィ城の歩廊でシュディリスは柱に身を寄せ、雪山と、海を眺めていた。
三日月形に大陸を囲む山脈の最果ては、遠くの水色の空に先細りするようにして
低くかき消え、どれほど眼を凝らしても、いただく雪冠の終わりが見えない。
豊饒の国土を有するハイロウリーン、海に乗り出したオーガススィ、お伽の国コスモス。
北方三国同盟とは、もともとは、内陸のカルタラグン、タンジェリン、
レイズン、サザンカ、ジュシュベンダ、およびナナセラとフェララへの警戒から結託し、
成立したものなのだという。
 「無論、コスモスはおまけです」
次官サイビスは濃い眉を動かしてあっさり片付けた。

 「コスモスの兵力なぞ、わが国の一個大隊にようやく追いつく程度。
  古コスモス王国として繁栄を誇っていた時代など、ジュピタが興った頃には
  すでに衰退していたといわれております。街中全体が遺跡という他、
  コスモスには何の価値もありません」

コスモスに価値があるとしたら、まさにその、古代王国という点であろう。
ジュシュベンダが土着の豪族アルバレスと結ばれたように、北の領土を
難なく治めるには古き国コスモスを取り込むことが、ハイロウリーンにも
オーガススィにとっても、有効であったのだ。
そのコスモスが、ハイロウリーンとオーガススィの呼びかけに、まったく応えない。
 「領主タイラン・レイズンは何を考えているのやら」
 「何といってもタイラン殿はミケラン卿の実の弟御。タイラン・レイズンが
  新領主となった時点で、北方三国同盟から離反してゆくのは、必然かと」
 「しかし就任直後、タイラン殿からは同盟国として変わりなき付き合いを
   願うとの書面も届いていたのだぞ」
 「建前に決まっておる。その頃から脱退の時期をはかっていたのだろう」
が、タイラン・レイズンは、実兄ミケランからの再三の勧告にも応えず、
巫女を匿い、コスモス城の城門を堅く閉ざしたままである。
 「申し上げます。ソラムダリヤ皇太子殿下、コスモス城にご到着とのこと」
あれこれと憶測をとばしあっていたオーガススィの重臣たちは、その報に
顔を見合わせた。
 「-----ひとまずは、時間ができたというところかな」
 「城の警護は、ミケラン卿が務めているとか。まあ、皇太子がおられるとあっては、
  卿がもっとも適任には違いない」
 「ゾウゲネス皇帝陛下の意向を受けて、皇太子殿下が調停使者としてコスモスへか。
  皇太子殿下がコスモスにおいでの間は、先日のハイロウリーンへ降りかかった
  禍のような、おかしな真似は、誰も起こさぬでしょうからな」
 「その間に、こちらは急ぎ、現地オーガススィ軍の陣建てを」
ミケラン卿がコスモス城の手前にまで迫っていると知った時にはシュディリスもぞっとしたが、
ソラムダリヤ皇太子がコスモス城に無事に入ったということは、今しばらくは、何ごともないと
世論同様、ここは安堵するべきだろう。
ミケラン卿は、かつてソラムダリヤの教師でもあった。ソラムダリヤの身辺警護として
ミケランが出てくることは、過去の式典の例に照らし合わせても、不自然ではない。
もしも卿が強引なことをたくらむならば、皇太子が到着する前に、それを果たしたはずだ。
そこまで立ち聞きしていたシュディリスは衣の裾をひるがえして、その場を後にし、
一人きりになれる廻廊へと出たのだった。

ちょうどつり橋のように、塔と塔を繋ぐ高所の通路である。他にひと気はない。
そこから眺めるオーガススィの海は、午後の光に照り映えて、白い草原のようだった。
反対側は山だった。
聳え立つ巌『竜の褥』をはじめ、景勝というよりは奇観が多い国である。
冬になれば、強風にあおられた雪の舞は、海からも遠い雪山からも
方向の区別なく吹き付けて、上下も分からなくなるという。
宙に浮いたようなその渡り廊下の柱に背をつけ、シュディリスはその名を唇にのせた。
どうして今になって、その名が頭から離れない。騎士の札遊びの中にあった謎の一枚。
シュヴァラーン・ハクラン・チェンバレン。
魔句のような名を口の中にためながら、シュディリスは海を見つめて、柱に額をつけた。
古い時代の星の騎士。
ある決まりごとの中で動かされる騎士の札において、切り方の分からないその札は、
まるで切り方が不明なことにこそ意味があるとでもいうかのようだった。
シュディリスは吐息をついて、廻廊の天井を仰いだ。
こうしていても仕方がないのは分かってはいても、どうもいけない。
波に引きずりこまれて海に落ちる海岸の砂のように、彼の想念は端から崩れた。
午後の陽の落ちる海は、薄色の明暗をひらめかせて雲の下にどこまでも広く、
そこにも答えはなかった。
珍しく、彼は煙草を取り出した。
それは、イクファイファ王子の部屋からくすねてきた噛み煙草だった。
苦味を噛むことで味わう嗜好品であるが、煙のように体内にはのみこまず、果実の種のように
あとで葉屑を吐くことから、行儀が悪いものとされている。イクファイファは自室で人に隠れて
こっそりとやっていたとみえる。あんな見えるところに置いておく方が悪い。
久しぶりの煙草は、舌に刺すような味がして苦かった。
銘柄を見れば、入手困難なフェララ産の品である。
シュディリスは手すりから半身を出して、真下の庭に、苦味ごと唾を吐き飛ばした。
ジュシュベンダに留学中は、友人たちとよくこうして、橋の上から運河に葉屑を
吐き棄てていたものだった。
意地になって、また煙草を噛みしめ、苦々しく海を眺める。
幾度となく、グラナンやパトロベリから慰められもしたのであるが、
詰まらぬことと片付けるには、ジュシュベンダから巫女が自分ではなくクローバ・コスモスを
供に選んで出奔した事実が、ぐずぐずと、まだ相当に重く堪えて、どうしようもない。
要は、これは恋わずらいにつきものの男の弱気なわけで、今すぐにコスモスに
行きたい気持ちとのせめぎあいは、莫迦ばかしくも、シュディリスにとっては大真面目に
苦しいものなのであった。
 「何してるの?」
少女の澄んだ声がした。
下に向かって吐こうとしていた煙草の唾を、呑み込んでしまった。
手すりから身を乗り出したままシュディリスが振り返ると、つり橋のような有蓋廊下の
端に、小さな女の子が立っていた。
 「いま、何を食べてたの。お菓子?」
きちんと編みこんであるその髪の色が、年長の姫君たちと、そして
母やリリティスと、同じであった。
 「イクファイファお兄さまも、ルルドピアスお姉さまも、レーレとブルティの二人の
  お姉さまも、みんなお城からいなくなってしまったのだもの。つまらない」
小トスカイオとスイレン夫妻の間には、まだ乳飲み子の一男と、三人の姫君がいる。
この姫は、レーレローザとブルーティアの妹姫であった。
 「お一人で、どうされました」
後ろ手で煙草の包みを握り潰しながら、シュディリスは身をかがめて、姫と視線を合わせた。
 「シュディリス様、ご機嫌よう」
 「姫も」
 「ねえ、お菓子をたべてたの?」
まさかイクファイファの部屋から盗んできた悪いものを口にしていたとは云えない。
シュディリスは首を振った。姫はシュディリスの背中側に回り込んだ。
 「後ろの手に、なにを隠したの」
シュディリスは笑って首を振った。廊下で追いかけっこになった。
三の姫は、イクファイファにそうするのと同じように、脚を止めたシュディリスに抱きついた。
シュディリスに抱き上げられて、姫はきゃあきゃあと笑い声を立てた。

 「シュディリス様、遊びましょう。シュディリス様は騎士の札遊びをご存知?」
 「いいよ。やろうか」

眼をまるくしている侍女たちを遠ざけて、三の姫の部屋で、札遊びとなった。
おかしなものだ、先刻、ちょうど、騎士の札遊びのことを考えていたところだ。
床に広げた敷物の上に直接坐り、真ん中に積上げた札を任意の数だけ
順番に取っては同数を捨てて、互いの手持ちの札で相手と優劣を競う遊びである。
何枚かを組みにして「勝負」したり、一枚札で「決闘」を仕掛けたりするうちに、
二人とも「勝った!」と云うことがあり、どうやらオーガススィと
トレスピアノでは、札の規則に若干の違いがあることが分かった。
小さな唇に指をあてて、三の姫は考え込んだ。
 「ジュシュベンダ騎士の札はアルバレスの女騎士の札と合わせたら、「紫の婚礼」。
  ハイロウリーンの札よりも強いんじゃないの?」
 「ハイロウリーン騎士の札は三枚集めたら「騎士団」。これはジュシュベンダ騎士の
  札を四枚揃えるよりも強い。ジュシュベンダとアルバレスを合せても、「騎士団」が強い。
  でもハイロウリーンを単札で出すには、オーガススィか、コスモスをつけないと使えない」
 「ええ?」
 「北方三国に勝てるのは、カルタラグン、ジュシュベンダ、レイズンの組み合わせ」
 「そんな約束あったかしら」
 「どうぞ。今のは忘れて」
 「待って。憶えるから」
もとより、騎士の札遊びは噛み煙草同様に、男が好んで嗜むものである。
シュディリスも弟のユスタスと一対一で、または大學時代の寮で学友と
二対二に分かれ、小銭を賭けてよくやった。
これを女の子とやると決まって何も考えずに札を切ってくるのだが、
三の姫のばあいも、ものの見事にそれだった。
少女は、残りの札数と確率に注意を向けることなく、その都度手許で出来たいちばん
いい札で安易に勝負をかけてくるので、かえってシュディリスは意外な展開に翻弄された。
何でそこでそんな妙な組み合わせ。
 「姫」
 「なあに」
 「そこでサザンカを出してしまったら、お手許には聖騎士の札がもうないのでは」
 「どうして」
 「出てしまった札から残りを数えて」
 「あら本当。では、これもシュディリス様の勝ちね」
ひとしきり笑い転げた後で、おひらきとなった。
 「コスモスに赴かれたイク兄さま、大丈夫からしら」
敷物の上に寝そべり、姫は頬杖をついた。
床に散らばった札をかき寄せて、姫は一枚いちまい、取り上げては重ねて積んだ。 
イクファイファ兄さまは、実妹のルルド姉さまだけでなく、私たちまで
『僕の妹』と呼んで下さるのよ。私もイク兄さまのことは、本当のお兄さまだと思っているの。
侍女に云っても笑われるのだけど、叶うことなら、イク兄さまのお嫁さんになりたいわ。
あんなにきれいな妹姫がいらっしゃるのに、イク兄さまは、私たちにもお優しいのだもの、大好き。
そこから先に話が及ぶと、姫は口もとを尖らせた。
 「レーレローザ姉さまはルルドピアス姉さまばかりを大切にして、ちっとも
  私とは遊んで下さらないのよ。そこへいくとブルーティア姉さまは大人だわ。
  でも、もっとお素敵なのはルルドピアス姉さま。ルルドお姉さまってお人形みたい。
  離宮におられることが多いからあまりお話したことがないけれど、お近くで見ても
  まるで夢のような方なのよ。私と一緒に、お花あそびをして下さるの。
  はやく、みんな帰って来ないかしら」
三の姫は、指先で騎士の札を選り分けた。
右に現存している聖騎士家、左に滅亡した聖騎士家。左に、カルタラグンとタンジェリン。
たくさんの騎士の札。過去に生きた彼らの名。
まるで墓碑名を集めたかのような、遠い昔の騎士たちの名。
 「レーレ姉さまとブルティ姉さまとは違い、私は、竜の血が薄いそうなの」
姫は札を積み重ねた。
 「それは幸福なことなの。それとも、不幸なことなの。私には、まだ分からないの」
ほとんどの人間がついには到達することも、知ることもない、星の世界へ。
最後に残ったその札は、右の束にも左の束にも重ねられることなく、姫の手で
シュディリスの前に置かれた。
この札に描かれている謎の騎士は、それを見ただろうか。
真昼の空に星を探すような、声なきその声を聴いただろうか。
北のつめたい風が、星の音を連れて吹きつけるその訪れを。
三の姫は、顔を上げた。
 「シュディリス様」
怪訝そうに、三の姫はシュディリスのそばに膝をすすめた。
青年は、手にした札を凝視していた。
三の姫は、シュディリスの顔をのぞき込んだ。
 「シュディリス様。どうしたの」
騎士の札は、羽ばたこうとする翅のように、何処からともなくしのび入ってきた風に
あおられていた。彼はその声を聴いた。
ふたたびの、あの声を。
ミケラン・レイズンに裏切られました。


「続く]


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