[ビスカリアの星]■七九.
エステラはミケランの愛人であり、ミケランのことを男としても人間としても
心より尊敬し、愛していたが、此度ばかりは、さしものエステラも
ジレオン・ヴィル・レイズンに、やや同情しないでもなかった。
何といっても、コスモス城の手前まで来ての、退去勧告である。
「命令。どこから。ああ、ミケランおじ上からですか」
いそいで、エステラはとりなした。
「命令ではありませんわ。勧告ですわ」
「同じでしょ。ミケラン卿から発せられたものなのだから」
受領した文書をジレオンは手の中で丸めた。
「勧告とは、そうしろという命令の意があってこそ突きつけられるものですよ」
ジレオンは逆にエステラを見つめ返した。
「何ですか、その顔は。笑って笑って、エステラさん。ミケランおじ上か、わたしか、
どちらのことを貴女が心配しているのかは分かりませんが、女から同情される
ことだけは堪えられない。そんな顔をしてこちらを見るのは止めていただきましょう」
「ええ……」
「本当にどうしたのです」
ジレオンは女の顔を見下ろした。
「コスモス観光はこれからですよ。わたしの代わりにコスモス城を
よく見て来て下さいよ。おじ上は貴女が同行していることを知りながら
貴女への言及はなしだった。ということは、エステラ、貴女は殿下と一緒に
お城に入ってもよろしいということです。もっと喜んだらどうですか。
そのほうがわたしも嬉しい。そうだ、これを貴女に返さないと」
ジレオンは扇を取り出した。
それは先日、馬車の中からエステラがジレオンに投げつけたものだった。
「拾わせておきました。おじ上が選んだ品ならば、下民にくれてやるのは
惜しいのでね」
ジレオンは扇をエステラに返した。
エステラには、ジレオンが強がっているとみえた。
ここぞというところでミケランの横槍に従わなければならぬ彼の心情、いかばかりか。
「おじ上に見つかったら殺される。いや、あの人は、笑って見てるかな」
別れの抱擁を、エステラは拒まなかった。
接吻されそうになったところで、エステラは唇の前に扇を立てた。
苦笑して、ジレオンは身を離した。
「旅がご一緒できて、楽しかったですよ、エステラ」
「これから、どうなさいますの。ヴィスタの都にお戻りに」
「いや。コスモスに残ります。ミケランおじ上もよもや、コスモス退去命令までは
出さないだろうからね。ああ、それから、エステラ」
呼び止めておいて、ジレオンは、この男には珍しいことに、何かを迷った。
一歩後ろにさがって距離をとり、ジレオンはエステラをじっと見つめた。
「-----いいや」
「何ですの」
「何でもない。では、お元気で」
きれいな所作で挨拶をする。
そこにいたのは、いつもの、憎たらしいほどに自信家の青年であった。
踵を返した女を、ふたたび、ジレオンは追いかけてきた。
「エステラ。これを持っていて。何かあった時には、これを見せてわたしの名を出すのだ」
無理やりジレオンはエステラの手に短剣を握らせた。
そしてすぐに走り去っていった。
ジレオン・ヴィル・レイズンの剣。
紋章と名が象嵌された剣は、高貴な人の身分を示すものである。
レイズン本家の嫡男であることを強烈に自負しているジレオンにとってこれは、
軍旗にも等しき、大切なものであるはずだ。
それを何故。
エステラが振り返った時には、すでに、ジレオンの姿はそこになかった。
「ジレオンは素直に引きとってくれましたか」
逗留している館の一室で、ソラムダリヤは仕度を整えているところであった。
平生は簡素にしている皇子をすっかり見慣れていたせいか、絢爛豪華な
衣裳を身にまとった彼の姿は、エステラにはひと際、まばゆいものに映った。
そうしてあらたまると、ソラムダリヤ皇子には実に、皇帝家の気品と威厳があった。
皇子は姿見の前からエステラを手招いた。彼はエステラに衣裳を見せた。
「大袈裟でしょう。これでも、格式どおりです」
「ああ、ええ、もちろんですわ。まあまあ、ご立派なこと」
「騎士の礼装よりもずっと重くて閉口です。ところでエステラ、貴女の用意は
まだいいのですか」
「後でいたします。主賓でもあるまいし、たいしてかかりませんわ」
コスモス城の手前で退去勧告を受けたジレオンは、別宿に滞在中の
皇太子への挨拶も許されなかったが、実にあっさりとそれに従い、
従えて来た本家の手勢を率いて速やかに退いていった。
入れ替わりにミケラン卿がコスモス城警護の名目で城前に到着するはずである。
ユスキュダルの巫女の前に。
エステラはそわそわと、落ち着きなく、窓に眼を向けた。
「緊張しますか、エステラ」
「ええ。それは」
「わたしもです」
ソラムダリヤは窓から見えるコスモス城に眼を向けた。
「何しろ、あの城におられるのは、ユスキュダルの巫女なのだから。ジュピタ皇家の
者には、皇祖さま以外、騎士らしい騎士の血が出ませんが、それでも、畏れ多い」
それから、ソラムダリヤは気を引き立てるように、エステラに微笑みかけた。
「貴女がわたしと一緒に城に入ってくれることは、正直いって、かなり気持ちの
助けになっています。引き回してすみませんが、お願いします」
(フラワン家のご令嬢は、ミケランおじ上と一緒にいます)
あっさりとジレオンはそれを教えてくれた。
「もしリリティス嬢と再会したら、どうかジレオンが宜しくと云っていたと。
ご母堂リィスリさまについての現状を令嬢がどこまでご存知かは知りませんが、
リィスリ様は、都のレイズン御用邸で丁重にもてなされておりますと。
おじ上は、リリティス嬢もコスモス城に同伴させる気だろうか。
いずれにせよ、フラワン家の人間はおじ上にとっても貴重な隠し駒に違いない」
(隠し駒)
エステラは、ジレオンが残していった彼の短剣を見つめた。
あの時、ジレオンは何を伝えようとしていたのだろう。
男が時折みせる、真意を決して明かさない怖い顔で、こちらを見つめていた。
(何かあった時には、これを見せてわたしの名を出すのだ)
警告と救済の意味がそこにはあった。何かが起こるということだろうか。
そして、ジレオンはそれを知っているのだろうか。
それならば、それはきっとミケランに深く関わることに違いない。
コスモス城を目前にして、やけに聞き分けよく、ジレオンは退いていった。
(早くいらして、ミケラン様。はやく、この不安をほどいて下さい)
エステラはジレオンの短剣を握り締めた。
鏡の中にいる女の姿を検分しているのは、リリティスではなかった。
ドレスは、男が選んだものだった。
「綺麗にできたね」
背後から男の手がまわると、首飾りがリリティスのほっそりとした首にあてられた。
小さな光を繋げたような宝石は、透きとおるように白いリリティスの肌によく似合った。
ごくわずかな薄化粧。
「お若いのだから、このくらいが丁度よい」
男も、女も、鏡に映る互いの姿から、眼を逸らさなかった。
後ろで首飾りの留め金が留められた。
「見立てが気に入らない?」
「いいえ」
「他の女人なら、いつも新しいドレスを喜んでくれるのだが。ああ、そうか」
両肩に、ミケランの手がのった。鏡の中に二人の姿が重なる。
「騎士装束が、ご希望だったのだね」
「いいえ」
「仕方がないね。せっかく久しぶりにソラムダリヤ皇太子殿下と再会するのだから。
いちばん美しい君を見てもらわないと」
「わたしは、はぐれ騎士として幽閉され、その上ソラムダリヤ様を脅しつけて誘拐し、
一度はフェララに逃亡してのけた、リリティスならぬ、リリティス・フラワンの偽者と
いうことになっていたのでは」
「何度も同じ繰言を。皇子ご自身が、リリティス・フラワン姫を思し召しなのだよ。
何においてもそれが優先される」
「わたしは、皇太子妃になることなど、望んではいません」
「貴女に元気がないと、わたしが皇子から叱責を頂戴することになる」
はぐらかえされて、そればかり。
リリティスは鏡の前から振り返った。ミケランと顔を突合せた。
ミケランは、リリティスの額に額をつけた。
「元気を出したまえ。仮病でもつかうつもりかね」
熱がなくても、あがりそうだった。
ミケランはリリティスの肩に手を添えて、外套を着せ掛けてやった。
「心配しなくとも、ユスキュダルの巫女と皇太子殿下のおわすところほど
安全な場所はこの地上にはないのだよ。少なくとも、ミケラン・レイズンと
一緒にいるよりは外聞もいい」
「コスモス城へ、私も行かなければなりませんか」
「もちろん。君ひとりをこんな僻地に残すわけにはいかないのだし」
訊かなければ。
リリティスは扇を握り締めた。
訊かなければ、これから、この男が何をするつもりなのかを。
かたくなに諸国および実兄ミケランを拒み通してきたコスモス領主タイラン・レイズンが
その城にソラムダリヤ皇太子を通すにあたり、皇子滞在中の城の警護をレイズン分家、
つまりミケランの兵が務めるのだという。
「今上陛下がご在位の間、そして、わたしが存命中に限り認められている
分家の権限を、少々利用させてもらったのだよ」
衝立の向こうから、ミケランは片手を差し出した。
「リリティス、すまないが、そこにある一式を順にこちらへ。ありがとう」
女の仕度ほどではないが、男のそれにもそれなりの手数がかかる。
リリティスは衝立に背中を向けるようにして、平箱の中身を順番にミケランに手渡した。
滞在用に借り上げている田舎屋敷である。
衣裳部屋といっても、鏡と衝立、そこへ衣裳箱を持ち込んだ仮ごしらえのものであった。
衝立ごしに、衣を重ねる軽やかな音がしていた。
「特権といったって、世間が思うほどわたしには実権はないのだよ。
こういうことをするといっそ分家は独立してあたらしい騎士家を作ったら
如何かと厭味がくるのだがね。聖騎士家レイズンの名と、その利用価値を
こちらから捨てて、完全に独立するほどの気概は、わたしにはないね」
ミケランは帯をリリティスの手から受け取った。
「分家が独立したところで、せいぜいが、フェララ、ナナセラ、コスモス、
これら三ツ星騎士家よりも下位だろうからね。弟のタイランについては、今後、
彼が結婚して子を持てば、弟のほうでコスモス家を継ぐということになるのかな。
ぜひそうなって欲しいものだ。彼は過去に負の累積が何もない。最初こそ
反発を受けても、タイランなら無事に乗り切り、コスモスに根付くことが叶うだろう」
タンジェリン殲滅戦に乗じ、殲滅戦に非協力的な態度を示した
コスモスへの制裁として、ミケランは前領主夫人フィリア・タンジェリンを
タンジェリン家の出であるという理由で自害に追いやった。コスモス全土に満ちわたる
ミケラン・レイズン卿への憎悪感情は、実弟タイランへの好意をもってしても緩和も中和も
出来ぬままである。
リリティスは、次の衣裳箱を開けた。
父や兄や弟の着替えを見ていたので、だいたいは、衣を重ねてゆく順番が分かる。
それでも今差し出したものは違っていたとみえて、ミケランはすぐにまた衝立の陰から
催促の手を出した。
「タイランこそ、分家より独立すべきだ。彼自身の人生を生きるためにも。
彼自身は望んではいなくとも、彼の場合は、その未来と機会を最初から
奪われてきたというだけなのだからね」
リリティスは、上衣をミケランに渡した。
「わたしへの憎悪が深いほど、そしてタイランの人柄を知るほど、新領主へは
同情が集まったはずだ。こんなコスモスへ送られてくるとは、タイラン様も
犠牲者なのだ、お気の毒にと。草木を愛でる温和な弟に人は悪意など持ちようもない。
それに、見よ巫女さまがタイラン様のお城に入られた。これは領主さまが良いおひとの
しるしでなくて、なんだろうと。コスモスの人々は、実に素朴だ」
「私も、逢えましょうか」
それを問う、リリティスの声は震えた。
私も、逢えましょうか。あの御方に。一度だけその御声を聴いた。
あれは、ジュシュベンダとトレスピアノの国境の谷間だった。
『ルイさま。あれを。狼煙です。何かあったのです』
『お待ちを、リリティス嬢。これ、嬢。ええい、見に行くだけですぞ』
あれが、全ての始まりだった。
崖下の戦い。あれは、ユスキュダルの巫女と、そしてミケラン・レイズンとの、
最初の戦いだったのだ。そして私はルイさまが止めるのもきかず、その渦にとび込んだ。
何を、誰を、傷つけ、助けることになるのかも知らずに。
「不安かね」
衝立を片手でどけて、身支度を終えたミケランがリリティスの前に立っていた。
光の中に氷片のように浮かび上がる、レイズンの徽章。男は片手に剣を下げていた。
「不安かね、リリティス」
黒と青と銀をちりばめた、騎士装束。
リリティスには初見であるが、それが聖騎士としての準礼装であった。
「このミケランが君を護ってあげよう」
ミケランは、リリティスに微笑んだ。
「もっとも、星の騎士である貴女にこちらがどこまでついていけるものか、
そこは、あやしいところだがね」
不安かね、リリティス。ユスキュダルの巫女に逢うのが怖いかね。
ミケランはリリティスの背を抱いた。
リリティスには、何故か、この男のほうがこれから起こることをひどく怖れているのでは
ないかと、そう思われた。
本当は誰よりも、貴方が怯え、怖れているのではありませんか。
貴方の孤独な闘いは、すべて、未知なるものへの畏怖を知るという、その為
だったのではないのですか。
ミケランはそんなリリティスの眸を覗き込んだ。
「心配いらない。地上を飛ぶ星座、わたしの愛しい星の騎士よ」
リリティスは唇をふるわせた。貴方は、いったい何をしようというの。
男の眼がやわらいだ。
「わたし一人ならば、愚民の起こす妨害行為など意に介さぬが、君の為に
他人の力を借りるという恥を、今回に限りわたしはしのぶ。たとえ、ミケラン卿が
臆したと云われることになろうとも」
「何の話……」
「弟のタイランが、わたしの身を心配して親切にも寄越してくれた同行者がいるのだよ。
彼がコスモス城へわたしたちを護衛し、案内してくれる。君にも縁ある方だ。
朝はやくからご苦労。しかし仲良く再会を祝すというわけにもいかぬかな」
入り口を背にしているリリティスには、誰が入ってきたのか、分からなかった。
ミケランはリリティスの肩に手をおいて、リリティスを振り向かせた。
卑しからぬ風体の、見知らぬ男が腕を組み、扉に凭れて立っていた。
その男が誰なのか、リリティスにはさっぱり分からなかった。
しかし、リリティスはミケランの手から剣を奪おうとした。あの男の、あの紋章。
「お逃げ下さい、ミケラン様!」
「大丈夫。彼は何もしない」
ミケランは男を見遣り、リリティスを抱いたまま、小さく笑った。
「淑女の前でそんな物騒な目つきはよしたまえ。では、お互いに耐えがたきを
耐えしのぶとしようか。貴殿は奥方を殺した男をかつての居城にふたたび
導き入れるという苦行を。そしてわたしは、此処にいるこの可愛い人の為に
貴殿に護衛されて街道をゆくという情けない醜態を。ようこそ、おいで下さった。
息災でなにより。放浪の騎士クローバ・コスモス殿」
「その娘は、誰だ」
クローバはリリティスに顎を向けた。
正装はしていても、この男の風采がそう思わせるのか、どこか粗野で投げやりであった。
うろんげに男はリリティスを見た。
ミケランはにこやかに、リリティスを少し前へと押しやった。
「トレスピアノ領主カシニ・フラワンがご息女、リリティス・フラワン嬢。
母君はリィスリ・フラワン・オーガススィ。貴殿の姉上リィスリ様が生みし姫君だ」
その男、クローバは、眼を眇めただけであった。
「幼くしてコスモスに養子に出された貴方には、リィスリ様の子と聞いてもそうすぐには
釈然としないかな。幸いなことに、この方の存在で少々救われそうだ。
大仰な武装行列も、未来の皇太子妃をお護りするためであると思えば、気分的な
言い訳も立つというもの。彼女を伴えば、城でお待ちのソラムダリヤ殿下もお喜び
下さるだろう」
「未来の皇太子妃……」
「疎遠になっているジュピタ皇家とフラワン家をふたたび結びつける
貴重な御方だ。ゾウゲネス皇帝陛下もお認めである」
初耳であろうそんな話を聞いても、クローバはリリティスを見る眼つきを変えはしなかった。
その視線は、ふたたびミケランの上に戻った。そして、もう一度、リリティスに。
しかし、クローバは横を向いて、呻くように、それしか云わなかった。
「仕度は出来たのか。ぐずぐずするな」
「こういう御方なのだよ」
苦笑して、ミケランはリリティスの片手をとると、腕につかまらせた。
屋敷の前には、コスモスの武装隊が整列して待っていた。
玄関先には婦人用の瀟洒な馬車と、クローバとミケランの、それぞれの馬が
寄せられていた。
この先の沿道には、城に戻るクローバを一目見たいという領民が押し寄せているはずだ。
そして、此処コスモスほど、ミケラン卿への憎しみが強い国はない。
リリティスは、短い間、ミケランと二人きりで暮らした田舎屋敷を振り返った。
過ごした時を、書斎の暖炉に積もったままになっているであろう、夜の灰を。
「ミケラン様」
「大丈夫だよ」
石段の下では、クローバが馬車の扉に手をかけて待っていた。
「君の馬車を囲んで、道中はクローバ殿と仲良く世間話を愉しむつもりだ。
護身用の剣は持ったね。使うこともないだろうが、落ち着くだろうから握っておいで」
クローバが馬車の扉をあけた。ミケランがリリティスに手をかし、ドレス姿のリリティスを
馬車の中に導いた。馬車の扉が閉められた。
二人の高位騎士はリリティスを馬車に乗せてしまうと、互いに背を向けた。
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タイラン・レイズンは配慮が行き届いている。
昨日のこと、近隣からかき集められていたお針子たちは、使者が届けにきた
その長持を見て、一様に安堵した。
祭りの晴れ着は縫えても、格式にのっとった衣裳など、その飾りも刺繍も、
必要なだけの布地の種類も、裁断も、見当もつかない。
城づとめの経験のあるお針子も数名、ひそかに参加していたものの、かつての
勤め先で見ていたものを数日のうちに再現するのは到底不可能だと、最初から
首を振っていたところであった。
もともとが、藝術の国ナナセラの一流職人たちが、注文を受けてから数年越しで
請け負っていたものである。田舎のお針子が、わずか数日で再現できようはずもない。
「どうかしら。今からヴィスタに馬を走らせて、都の仕立て屋さんに頼んだら」
「間に合うわけないわ。どうしましょう」
「布や糸の質からして、もう違うのだもの。新しいというだけのお衣裳で
クローバ様にはおゆるしいただく他ないわね」
てんやわんやしているところへ、その荷は城から届けられた。
長持の中には、前領主の身にまとう一切が、予備も含めて不足なく、全て揃っていた。
女たちは、ほとほと感心してしまった。
タイラン・レイズン様は、本当によい御方。
「身なりなど、どうでもいいとクローバ様は仰るけれど、それではやはりねえ」
「これでもしタイラン様が意地悪なお方ならば、前領主に惨めな想いをさせ、
勝者との差を見せつけてやるいい機会とばかりに、ご自分ばかりが豪勢に
着飾りなさるところだけれどねえ」
「タイラン様のお気遣いに、私たちもすくわれたねえ」
黒に金。
それは、コスモスの色である。
指先に吸い付くような生地の手触り、蜘蛛の糸で縫ったのかとさえ思われるほどに
緻密な刺繍、仕立ての立体的な複雑さ。
長持の中身を一つひとつ取り出して確かめながら、女たちはため息をついた。
そこにあるのは、小なりといえ一国の領主があらたまった場で身につける、
贅を尽くした品々であった。
「前領主のお持ち物だのに、焼却処分もさせずに、お城に保管しておいて
下さったのだねえ。皇太子さまの御前に出るのだもの。これでクローバ様も
はずかしくないお姿でお城にお戻りになれるねえ」
「さあ、火のしをかけておかなくちゃあ」
その翌朝。払暁時刻。
出立を控えたクローバは、首に湿布を巻いた格好で、はやい朝食をとっていた。
「…………」
「大事な朝に、その首はどうしたのだと、訊きたそうだな」
宿にしている農家の一室である。
まだ外は暗い。蝋燭を立てた食卓について肉を齧り、クローバは前に
突っ立っている男たちを不機嫌に睨んだ。
心なしか、その首が片方に傾いている。クローバは次のひと齧りに大きく口を開いた。
「あのう、では、それでその首のお怪我はどうなさったんで」
「そういえば、ここ数日、小傷が絶えないような」
「お前たちに、いいことを教えてやる」
手の甲で口を拭う。
拭ってから、そろそろ行儀よくしなければならぬことに気がついて、
クローバは手近な布巾で口を拭きなおした。そこはもとから大貴族である。
そういった所作も大雑把ながらも、さまになっている。
「いいことを教えてやる」
クローバはその布巾を食卓に放り出した。いいか。よく聞け。
彼は眼つきを険しくした。
「ジュシュベンダのいらくさ隊の女と寝る時には、朝には命がないと思え」
「え」
「愕くぞ。苦しいと思って眼を開けたら、女のなま脚が首に絡んでる」
衝撃発言に、男たちは眼を見開いた。すごいことを聴いた。
彼らの視線は、自然と、部屋の片隅に控えて立っている、美しい女騎士に向いた。
ごくり、と男たちは唾をのんだ。これはどうも。そんなにあれですか。そんなに。
女騎士は、顔を真っ赤にして俯いている。
「んん、ん、クローバ様」
「いいか」
女騎士の必死の制止を無視し、クローバは怖い顔をして、親指でおのれの首を示した。
「これを見ろ。-----俺だから命がある」
「あの、クローバ様」
別間に引き取ったクローバを追いかけて、ビナスティは扉を固く閉めた。
「何と申しますか、あの、本当に申し訳ありませんでしたわ。でもあのような云い方を
されては誤解を生むのではないかと、あの、お怒りごもっともですが、さいわいにして
お怪我はたいしたこともなく、ご機嫌をなおされて。そうだ、窓の外をご覧になって。
夜が明けましたわ。まああいいお天気洗濯日和」
「ビナスティ」
「きゃ。はい」
「寝ていたとはいえ、丸腰で高位騎士に襲いかかろうとは見上げたものだ。
そこだけは褒めてやる。どうやら、いらくさ隊は同室で寝ている男を無条件で
暗殺するように仕込まれているらしいな。イルタルが抱えているお姐ちゃんたちが
どんな連中なのか、これでよく分かったぜ」
「そんな。クローバ様」
居た堪れずに、ビナスティはその場で身をねじり、両手をよじり合わせた。
そりゃあ、ちょっとばかり、私の寝相は悪いですわ。でも浮かれたことをしている
場合ではないとのクローバ様のお云い付けどおり、ちゃんと並べた寝台の端と端に
分かれて、壁際でおとなしくしておりましたわ。
「おとなしくしていた、だと」
クローバは下顎をこすった。そこも、その寝相とやらに膝蹴りされて痛むのだ。
連日、生傷が絶えない。
村の者は何も訊かないが、半笑いのその顔から、彼らが内心で思っていることは
想像がつく。へええ、ビナさんと領主さまのあれは、そんなに。
「お前、どうやったら、緩衝地帯を乗り越えて俺の上に乗っかり、跨り、あまつさえ
足技をかけて男の首をへし折りにかかるような、そんな寝相になる」
「違いますわ。多少はうっかりしていたところへ、クローバ様が賊とお間違えになって
反撃体勢にはいられましたから、寝ぼけたまま私も、しまった賊だわ逃がすかと、
こう脚を、きりきりと」
「眼を開けたら、女の股だ。尻だ。なま脚だ。俺の愕きが分かるか」
大きな家であっても、農家なので、旅籠のように部屋は整っていない。
ハイロウリーンに送られる途上のルルドピアス姫を誘拐後、姫君はそれまで
ビナスティが使っていた部屋に、そしてビナスティは、クローバの部屋へと移っていた。
「ビナさんは、クローバ様のお部屋でいいんじゃないかね。寝台を二つ並べてさ」
この家の者たちが気を利かせたその結果が、今朝の騒ぎだ。
クローバに叱られたビナスティは眸を潤ませた。
それから女騎士は、健気にも声を明るくかえて、両手を打ち合わせた。
「そうですわ、先程、村の女衆たちが昨日の長持を届けなおしに来ましたわ。
お衣裳には、検針の後、あらためて火のしをかけて整えてあります。
まずは、ご入浴、整髪からお仕度をお手伝いいたしますわ。タイラン様の手前
声を大にしては云えませんが、これはコスモス領主クローバ様の城への帰還。
潜伏中の汚れを落とし、お姿よく、ご出立なさいませんと」
クローバ様。領主さま。
皇太子歓迎の為にかつての居城に向かうと聴いて、農家の前には
朝早くから大勢の村人がクローバを見送りに集まっていた。
「クローバ様が、帰ってきた」
「クローバ様だ。領主さまだ」
黒に金。コスモスの色があしらわれた衣裳を堂々と身につけたクローバの姿に、
人々は感激して泣いた。
「行くぞ」
「はい」
僅かな供回りは、タイランから派遣されたコスモス兵で構成されていた。
彼らもまた、その一兵卒までもが、クローバに忠誠を捧げるクローバの兵であった。
「領主さま、領主さま」
演説や挨拶を好まぬ男である。クローバは外套をひるがえし、馬に跨った。
説明はなくとも、これからミケラン・レイズン卿を迎えて、彼と共に城に向かうことを
村人たちは知っていた。クローバは馬首を巡らせた。先に待つものがなんであろうと、
此処は彼の育った国であり、スキャパレリやフィリアがいた国、彼を育ててくれた母国だった。
水色の空には、雪のかけらのような月がまだあった。
「コスモス城へ」
放浪を終えた騎士は朝日の中に踏み出した。
クローバを送り出してしまうと、家の中は静かになった。
留守居のビナスティは、見送りを終えて戻って来た。
柱に背をつけ、靴先で、床の木目模様をたどる。
此処はコスモス。
きっと野山の隅々にまで、クローバ様には亡くした奥方フィリア様との
想い出があるに違いない。
(死ぬなよ)
それは、騎士には不要の言葉。
ビナスティをクローバの側近に加えるにあたり、クローバがビナスティの肩に
手をおいて命じたのは、そのひと言であった。
(-----どのようなお気持ちで、お城からの招待に応じられたのだろう)
古巣といったようなものではない。
コスモス城こそは、クローバが妻フィリアの自害を見届け、その亡骸をミケランの手に渡し、
辺境伯の地位を投げ打って二度とは帰らぬと後にした、その城である。
現コスモス領主タイランは皇太子を迎えるにあたり、正式な招待状をクローバに寄越し、
領内に潜伏中のクローバを賓客として城に招いた。そしてタイランは、その文書中に、
ミケラン・レイズンと共に入城することをクローバに依頼したのである。
(コスモスの人々はミケラン卿を深く憎んでいる。クローバ様と同伴ならば
道中、ミケラン卿に危害を加える者は確かに出ないだろう。しかしこれではまるで
クローバ様は卿の護衛役。タイラン様も、あんまりな)
「構わん」
飛脚から届けられたタイランの手紙を一瞥後、クローバはその名案とも惨いとも
侮辱ともとれる内容を受け入れた。
「クローバ様」
「俺はこれでも前領主だ。コスモス領内で、皇帝陛下の信任篤きミケラン卿が
私的復讐により領民より害を加えられるようなことがあってはならん。
そして頑固で融通のきかぬお前たちは、城への道の何処かでミケラン卿を待ち伏せて、
それを実際にやりかねん。卿と領民の双方を無事にし、卿を無事通過させるため、
その事前措置としてタイラン殿は当然の最善策を提案しているに過ぎぬのだ。
これはタイラン殿の、実兄ミケランよりはむしろ、お前たち領民を想っての
ありがたいご配慮だ。俺の感情など問題ではない」
それを聞いた領民は、みな、咽び泣いた。
おいたわしい、クローバ様。
ミケラン卿に復讐の剣を突き立てたいのは、卿を誰よりも憎まれているのは、
フィリア様を殺された、クローバ様であるはずなのに。
(悪く思わないで下さいよ、ビナさん。ミケラン卿は美人に眼がないというし、
それでクローバ様は、ビナさんをお供から外されたのだ)
城には同行できなかった。ビナスティは、黙って、頷いた。
奥方との想い出がつまったコスモス城に、私ごときが、どうしてクローバ様と入れよう。
ビナスティは気を取り直して背筋をのばし、階段を静かにあがると、
二階の奥の間の扉を小さく叩いた。
「ルルドピアス姫さま」
部屋に入り、寝台に近寄る。ビナスティはそっと姫を起こした。
農家ながらも、感じのよい、素朴な部屋だ。姫君を迎えるにあたっては
一からビナスティが全てを吟味し、家具を揃えさせた。
寝台のルルドピアスはうっすらと眼を開けた。
「ビナスティ……おはよう」
「おねむでしょうか。無理をされなくてもよろしいのですわ」
少女の手が、引き止めるようにしてビナスティの手を握る。
女騎士特有の庇護本能を全開に、ビナスティはルルドピアス姫の寝起きの髪を撫でた。
男の騎士がご婦人にそれをするのと同様に、しばしば、女騎士もかよわき女人に対して
同様の奉仕精神を持つのであったが、ビナスティはそのあたりの感覚が人の倍細やかで、
特に子供や、年下の少女たちが好きであった。
ルルドピアス姫に対してすっかり入れあげているビナスティは、目覚めたばかりの
姫を抱き起こし、大切な壊れ物を扱うように、立てた枕に背をつけさせ、優しく話しかけた。
少女の頬はつめたかった。
「よくお休みになれましたか、姫さま。とてもいいお天気ですわ」
「ビナスティは、よい匂いがします。まるで、夢のつづきみたい」
まだまどろみの中にいるように、ルルドピアスは女騎士の胸にふわりと凭れかかった。
ビナスティは嬉しくなった。
「わたくしではなくて、外の花木が香っているのですわ。後で少し庭に出てみましょう」
「ほんとう?」
「もちろんですわ。ようやくお熱も下がったのですから、お日さまの光を少しは
浴びたほうがお身体にもよろしいですわ。コスモスの野原にはお花がいっぱいですの。
お菓子をたくさん持って、午後はご一緒に、花咲く小道を散歩いたしましょう」
皇女宮のフリジア様もたいへんに可愛らしかったが、ルルドピアス様はまた格別だった。
リィスリ・フラワンに似ているとの風評どおり、これまた何という美しい姫だろう。
フリジア姫の愛らしさがその幼さにあるとしたら、こちらの姫は無垢である。
その姫君が、自分たちがそうしたのだとはいえ供の一人もないままに頼りなく、
縁のないコスモスに留めおかれているのであるから、ビナスティはもう、
主君クローバから「あれは、どういうことだ」と不審がられるほどに、この姫君を熱愛、
雛に餌をはこぶ母鳥のごとく、髪を編んだり食事をさせたり、朝となく夜となく、
べったりと世話を焼いているのであった。
晴れた空を姫君にご覧いただこうと、ビナスティは窓を開いた。
そして、片手で窓枠を上げたまま、身を乗り出した。
「ビナスティ?」
「姫さま。誰か来たようですわ。-----大変、あの方、もしかしたら」
花ざかりの木々の向こうに眼をこらしていたビナスティは、慌てて窓をおろした。
その閉まった窓を、馬上から仰いでいる若者。
ユスタス・フラワンである。
「続く]
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