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[ビスカリアの星]■八.



甲高い歓声とやわらかな足音が、緑の中庭を四角く囲む有蓋回廊に響いた。
庭の中央に据えられた大理石造りの噴水の水はこんこんと湧き、
木々の影を落とすその透明な底には、
中天に上ったその日の太陽が金貨のように小さく揺れて落ちていた。
嬌声がまた上がり、「いやだわ、ミケラン様ったら!」と、回廊を軽やかに走ってくる影があった。
「もう、冗談ばかり仰って。これは罰としてお返ししません」
中流階級の平均的な小屋敷である。
細かな細工が施された高価な鉄筆を爪に色を施した細い指でかかげて、
女は驕慢な可愛い笑顔を作り、唇を開いた。
「返して欲しければ、今夜も、こちらに来ると仰って下さらなければ駄目よ」
それを追って、「おいおい」と、溜息の混じる笑い声がした。
女を追う男のその前に、どれも若く、また軽薄な歓びに顔を輝かせた
女の召使たちが立ちふさがり、
「ミケラン様、ここはお通ししませんわ」
「それよりもお風呂のご用意が出来ておりますわ。微温室はあちらですわ」
きゃあきゃあと邪魔立てをして押し戻す。
ミケラン・レイズンは苦笑をその壮年の顔の上に軽く作り、

「どきなさい。全くこちらの女主人の躾は大したものだ。
 すっかり仕込まれて、わたしの味方をしてくれる者がいないのだから」

はしゃいでいる若い娘たちを押しのけて、女へと手を伸ばした。
女は柱をくるりと回ってそれを避け、微笑んだ。
その拍子に女の羽織る薄物がひるがえり、その紅色がミケランの前をさっと流れた。
その色影に目を奪われて立ち止まった黒髪のこの壮健な男は、一見さしずめ、
高嶺の花に翻弄される寝起き間もない中堅どころの学者といった風情であるが、
もちろんそれはうわべの仮面である。
どのような時にも余裕で構えているのが身上のこの男は、その分、
内心を推し量るあらゆる好奇や猜疑の眼を欺くことに長けていた。
そのミケランが、日に透けて鮮やかに揺れるその薄物の紅影に、ふとこの時、
何かの記憶をまばゆく追う目をして、緑の中にしばし放心した。
それを自分への情だと思い違いをした女は、鉄筆を口元に持ち構え、ますます笑った。
「いかが、ミケラン様」
「まあ、まずは、その煙管を返すのだ」
仕方なさそうにミケランは手を伸ばした。
「それは畏れ多くも皇太子さまより誕生日の贈り物として、直々にわたしが賜ったものなのだぞ」
「あーら、いやだ!」
ミケランの困った顔へ、再び女はほほほと高く笑った。

「皇帝の友人であり、今を時めくミケラン・レイズン卿ともあろう御方が、
 幼少の頃より我子同然に子守をした皇子さまに気兼ねなさるなど。
 こんな小物を、まるで親の形見の品であるかのように、後生大事にされるなど!」
「不敬であるぞ、慎みなさい」
「あら……」

男の声は柔らかかったが、窘められた女は慌てた。
内心の狼狽を押し隠し、ちらちらと女の狡賢しさでミケランの顔色を浅く盗み見ながら、
開いた胸を隠す羽織り物片手で掻きあわせて、女は取り繕った。
「ごめんなさい。少しふざけただけですわ。素敵な筆記具をお持ちだといつも見ておりました」
「分かればいい」
「これ、お返しします」
「あなたにやろう。ただし、皇太子さまにはバレないようにしておくれ」
鷹揚に女の手へ改めて鉄筆を渡してやる。
現金にも女はすぐに態度を変えて、ミケランのその手に手を重ね、可憐な声を出した。
「ね、今夜もこちらにお泊り下さるわよね。お好きなお酒をご用意しておくわ」
「そうはいかん。妻が待っている」
「ああん、憎たらしい人!忙しいと言っては断り、奥様が病気だと言っては断り、
 たまにお渡り下さっても、いつもわたくしを子供扱いして」
「実際にお子様ではないかな。だだなどこねて」
「どうせ妾になるのなら、もっと愛して下さる方がいい」
「昨夜では不満か」
愛人たちは顔を近寄せて隠微にふっと笑い、囁きを交わして、ふふふと笑った。
ミケラン様、と女は真情をこめて、玄関へと歩むミケランを小鳥のように追い、
その腕に取りすがった。

「あのね、出入りの商人から少し聞いたのですけど、
 奥様の病に良く効く薬草が雪山の麓にあるのですって。
 ほら、何といったかしら、何トカの巫女のおわす山のあたり。
 その白い花はそこにしか生えなくて、とても高価なものなのだそうよ。でも試してみては」
「うん」
とっくにそのようなことは知っていたし、
またくだんの薬草も妻の為に大金を払って取り寄せ、惜しみなく試みたことがあったが、
女の親切にミケランは適当に頷いた。
女の話などこちらがひたすら合わせておけばそれで男の役割はほぼ果たしたともいえるのである。
「妻が元気になっても、良いのかな」
「そりゃあそうよ」
話に上の空に見えぬようにすることだけに気を遣えばそれで女の相手は
事足りるとでも言いたげな男に、女はむきになった。
「病人でいることほど辛いことはないわ。
 そんなの生きながらの死と一緒だわ。お気の毒に思います。
 わたくしの母もそりゃあ苦しんで長床に付いて、そのまま死んでしまったの。
 それにしても不思議ね、レイズン様。
 同じ人間に生まれて、誰が不幸で誰が幸福で、誰が健康で誰が宿痾に苦しみ、
 誰が人生に勝ち、誰が負けるかなんて、その幸運と不運の按配を、
 一体、誰が、決めているのかしらね。やっぱり神様かしら」
「わたしには分からんね」
「また、ふざけて!」
「あなたはどうだ。今は倖せなのか?」
「どうかしら」
「それは困ったな」
「でも、わたくしはこう思いますの。倖せになるには、聡明であることや、行いのその善悪、
 性格の良し悪しなんて全然関係ないんですわ。
 特に女は少々おばかさんで欲得に貪欲で、鈍感なほうが、絶対に倖せです」
「つまり、わたしが妻の待つ本宅に戻っても、お手当てが途切れぬ間は不満に思わないとかか」
「逆手にとるなんて。もう、嫌い!」
笑いながら愛人の手を振りほどくと、その手の甲に挨拶の口づけをして、
ミケランは待たせた輿に乗って屋敷を出て行った。
護衛の騎馬に囲まれたそれを見送り、人々の行き交う街路にその姿が完全に見えなくなると、
ミケラン・レイズンの愛人は羽織った薄物を胸元にかき寄せ、ふん、という顔であくびをし、
もう一度休むために踵を返して奥の間に戻りながら、
手近な召使に「これ、あんたにあげるわ」と、もらった鉄筆を下げ渡した。



動き出した輿に雑踏をぬって擦り寄って来た男がいる。
壁の代わりに屋根から左右に涼しげな紗を垂らした輿の中にいるミケランに、男は囁きかけた。
「ミケラン様」
輿の中の椅子に架けて書簡を広げていたミケランは目を上げぬまま、
「女官や従者らは尋問が終わり次第、解放してやれ」と命じた。
ミケランは書面を眺めて顎に指先を当てながら、
「彼らの話が本当なら、どこぞから突然現れた一匹の狐が、
 あれよあれよと言う間に巫女を口に咥えて攫っていったというではないか。
 トレスピアノを包囲したところで土地勘のある者ならば幾らでも抜け道を知っていよう。
 急がば回れだ。厳戒体制で挑むよりも、狐に油断させて出てきたところを捕らえる方が良い。
 その方が背後関係を掴みやすい」
「は」
「それに、巫女ともあろう御方を何処にお連れし何処に匿うつもりかは知らんが、
 あのような世俗を知らぬ貴人連れでは何をするにもはかが行かぬだろうからな。
 すぐに消息は知れるだろう。
 ---------やっかいなのはその狐が、皇帝の手の者だった場合だ」
「は……」
「ま、そちらはわたしが適当に探ろう。
 もっとも皇帝にしろ何処の誰にしろ、これが予め仕組んでいた計らいごとであったならば、
 あまりにも杜撰で、唐突かつ無謀なる大胆不敵な誘拐劇、皇帝の線は心配せずとも良いだろう。
 昨夜の謁見でも、いつもとお変わりなかったしな。
 それにしても山間で巫女を奪うのに失敗したのが返す返すも痛かった」
「………」
「ジュシュベンダ国境警備隊駐在地からは距離があり、
 入り組んだ山渓が仕掛けを容易にしてくれる、かっこうの地点だったがな。
 彼らも不審を覚え、装備と警戒だけは事前に怠りなかったと見える」
「想像していたよりも、かの方の守りについたはぐれ騎士らの腕が立ちました。
 それに加えて狼煙を阻止できず邪魔が入ったことは痛恨の極み。申し訳もありませぬ」
「結果は結果。蛇足で無様で意味のない謝罪は不要だ」
「は」
「トレスピアノか」
書を丸めて脇に退けて一度天井を仰ぐと、ミケランは埃の立つ路へと、
何を考えているか分からぬまなざしを向けた。
「まさかそこから、山道に取り残された彼らを救う手が出たとはな。
 しかも狼煙が上がるのを見て一番手で駆けつけたのは、
 うら若い女騎士だというではないか。
 建国伝説ではないが、よくせきトレスピアノというのは、
 語り草になるような人物を排出する土地柄らしい。
 その若き少女騎士は、オフィリア・フラワンの再来でもあるかのように、
 崖をまっしぐらに降りて来たそうだ。少し、見たかったな」
「そのことで、少々」
「どのことだ?」
ミケラン・レイズンは彼を知る者ならば震え上がるような、静かな目をしていた。
二十歳になるやならずで政変を起こし、
カルタラグンを滅ぼしてジュピタの御世を取り戻した男は、
四十歳を目の前にしても英才の名を欲しい侭にした若き日の熱を失ってはおらず、
むしろそれはいっそう生き生きとして、多くの者が流れ勝ちな過去の名声や
名誉欲、地位安泰よりは、今だ、理知で堅く制御をかけた野望に燃えていた。
宴会で酒を飲む彼は、
酒を飲みながら、集った貴族の品定めを飲み干しているのであり、
愉快に酔いながら内心で冷徹な裁断を下しては、
有益なる人間を確実に取り立てて周りに固めることを怠らなかった。
労を厭わず身軽に飛び回り策謀を巡らすミケランこそは、分家の出でありながら
レイズン家の事実上の家督であり、また政変を共に起こした皇帝の信頼篤き古き友として、
皇帝の片腕であることを知らぬ者はいなかった。
ミケランは指折り数えた。
そのこととは、どのことだ。

「助太刀に入ったのがフェララ剣術師範代ルイ・グレダンだったということか?
 それとも少女騎士に続いて飛び込んで来たフラワン家の兄弟のことか?
 それともジュシュベンダ国境警備隊を率いて現場に参上したのが、
 たまたま遊興で近郊を訪れていたパトロベリ・テラ殿であったことか?
 何とも豪華なる面子だな。
 釣瓶落としに日の暮れるあの日のあの山道に、
 フェララ、ジュシュベンダ、フラワン、レイズン、これらが出揃っていたとはね。
 それともそれも、騎士の信仰を惹きつけていく、あの方の持つ力なのか?
 だからこそ、わたしはその禁忌の神聖に手を触れようとしているのだ」

ふと横を見れば、間者の姿はずっと後方の目立たぬところに引き下がっていた。
その理由はすぐに知れた。
前方からすれ違う輿の一つがこちらに寄って来ると、
同じように輿の屋根から下げた半透明の垂れ幕が開いて、
中から「久しぶりだ、ミケラン卿」と、闊達な若々しい声がしたのだ。
青空には街路樹から飛び立った白い鳥が飛んでいた。
「これは。ソラムダリヤ皇太子。それに、フリジア内親王さま」 
「しっ。お忍びなのだ」
二人乗りの輿の向かいからも、「こんにちは、ミケラン」と、少女が顔を出した。
ミケランはわざと、憂慮深い顔で軽い溜息をついた。
少年の面影を残した当年二十歳のソラムダリヤ・ステル・ジュピタそれに、
十一歳になる妹御フリジアは、
皇帝の親臣ミケラン卿のしかめ面を見て、仲良く(しまった)と顔を見合わせ、
決まり悪げに返礼した。
「ここで逢ったことは皇帝には内緒にしてくれ、ミケラン卿」
ソラムダリヤ皇太子に応えて、ミケランは重々しく云った。
「さあ、どうでしょう。ご存知のようにわたしは、
 皇帝であるお父上に対して進言を許されている数少ない者ですので。
 真昼間に、皇太子ともあろう御方が妹御を連れて、
 このような処を徘徊しているのを知った限りは、
 このまま見過ごすわけにはいかないようです。
 次代を担う御方が近衛兵も連れずに白昼の街中を行かれるなど、
 正しいことでしょうか」
「父上には黙っていて。わたしがソラム兄上に頼んだのです、ミケラン」
左右の耳の横に貝殻のように金色の髪を巻き上げて、そこに花を飾った
小さな頭を傾けて、フリジア内親王は熱心に言い訳をした。
「乳母が病気だと聞いたものですから、お見舞いに行きたいの」
「それはお優しいお心で」
「妹を一人で行かせるよりは、わたしが附いていたほうがいいだろう?」
歳の離れた妹を可愛がっているソラムダリヤ皇太子は兄ぶった。
闊達な性格で、子供の頃から何でも率先して先々にやってしまうようなところがあったが、
それは皇太子となった今も変わらず、むしろ青年の生気に満ちて、
義務は義務としてこなす傍ら、毎日心弾むことを探しているような、真直ぐな青年だった。
(陰気よりはよほどいい。陰気な人間は陰湿で恨み深く疑い深く、扱い難いからな)
と、ミケランは皇太子を観察している。
妹と同じ金髪に貴人の服を合わせたソラムダリヤの今日の拵えは、
派手過ぎず地味過ぎず、
そのままの姿で若い貴族の中に混じれば、
どこにでもいる貴族の若者の一人に見えた。
「妹の乳母には、わたしも世話になったのだ。見舞うのは当然だ」
「高位なる方御自ら先触れなく不意にお出ましになれば、先方は気を遣い、
 かえって病人の疲労と負担となることもあります。
 そのことはお心にとめておられますか」
「ああ、そういうこともあるのかな。それは気がつかなかった」
素直に皇太子ソラムダリヤは額に手おいた。
「しかし、フリジアがどうしてもと云うのでね」
「いいでしょ、ミケラン」
「それでは今日だけは宜しいとしましょう。乳母の君のことはわたしもよく知っています。
 お二方がお越しになり、元気なそのお顔を揃って見せれば、
 あの女性はさぞ歓ばれることでしょう。ただし、長居はしませんように」
「父上には?」
「皇帝陛下には内密としましょう」
「ありがとう。それで、卿はこの辺りに何の用なのだ」
「用が済んで帰るところです。何の用かと訊かれれば、私用です」
「あ、そう」
そういったミケラン卿の素っ気無い、
人の干渉を軽く流すような一面を父同様好ましく思っているソラムダリヤは
気を悪くすることもなく、それ以上追求しなかった。
どのみち、この界隈にミケランが妾宅を持っていることは彼も聞き及んで知っていた。
幼い妹がいる前でまさかそれは訊けないので、
興味はあれでも共犯者宜しく、にまにまとミケランに微笑むにとどめた。
「ミケラン卿、お兄さまの時のように、わたくしにも勉強を教えて下さい」
横合いからフリジアが訴えた。
「教え上手だと聞いています」
「内親王さまには立派な教師をわたしの推薦で揃えております」
「難しくて分からない問題があるの」
「考えても分からなければ、もうその設問は解かなくて宜しい。
 簡単なものだけしっかりと反復して習得されるように。
 内親王さまに必要なのは高等学問ではないのですから」
「では、何が必要なの?」

(男心を掴まえる手練手管と、そのようなものはさも知らぬげに、
 適宜に甘えて媚びる利敏い従順)

口に出してはミケランはこう云った。
「フリジア内新王さまにおかれては、その御歳に必要なことは、
 じゅうぶんに満たされておられます。
 乳母の君を見舞おうとされたそのお優しいお心を、これからも終生お忘れなきように」
「引き止めて悪かった、ミケラン卿。そちの護衛の者の中に見知った者を見たのでね」
「互いにお忍びの場合は声など掛けず行過ぎるのが礼儀というものです」
「うん、今後はそうしよう」
「お兄さま待って、ミケランを呼び止めたのは、わたしが用があったからよ」
動こうとする輿の前壁を叩いて止めて、フリジアはミケランに扇を向けた。
「あのことならいつでもいいではないか、フリジア」
「ご勉学のお話でしたら、申し上げたとおりです」
「違うの、別のこと」
そこでフリジアは少女らしい高く澄んだ幼い声をおもむろに弾ませた。
「ね、ミケラン。ミケランはトレスピアノのシュディリス様を知ってる?」
「は。トレスピアノ」
とぼけて面食らってみせるのへ、
小さな手でもどかしげに膝を叩いてリュティシカは言い募った。
「トレスピアノよ!初代皇妃さまのお国の。そこの領主フラワン家のお世継で、
 十九歳になられるシュディリス様のこと」
「その方が何か」
「お素敵な方なの」
「ご覧になられたのですか」
「ううん、見てない」
「フリジア様、お言葉使い」
「いいえ、見ておりません」
「わたしの近衛兵の一人がジュシュベンダの出身なのだが、それの兄が数年前、
 留学したフラワン家長子の護衛役に抜擢されたことがあるらしくてね」
苦笑して皇太子が説明を引き取った。
「以前、肖像画を送って寄越してきたのを取り出して見ていた時に、
 居合わせた妹の眼にもとまったのだ」
「フラワン家の長子が学問をジュシュベンダに留学して修めたことは存じております」
「その頃の話だよ。
 だから肖像画の彼はまだ少年なのだが、それを見て、これがすっかりのぼせてしまった」
「シュディリスさまはお素敵よ!」
「はいはい、分かったよ。確かに一見の価値のある肖像画だったよ」

適当に妹の膝をあやして叩いておいて、ソラムダリヤは関心を寄せてきたミケランに
それがどのような肖像画かを笑って聞かせた。
「学問所の制服姿でね、髪は銀色、目は少し紫がかった青で、見た目には
 白馬の王子様決定版みたいな彼なんだ。痛い、フリジア、兄を叩いて輿から落とす気か?
 -----それで、その肖像画では何も分からないが、その絵を見る限りでは彼は、
 何だか見えない雨に打たれている憂愁の君といった風。
 きれいな子だよ、男にしておくのが惜しいくらいにね。
 いや、笑い事にしているわけではないんだ。フリジア、怒るなよ。
 もっともシュディリス君は妹の恋心を裏切らず、文武ともに優れているそうだ」
「それはそれは」
「確か彼の母は、カルタラグン王朝時代、
 その美貌で聞こえたオーガススィ家の姫君だ。母親の方なら、卿も知っているのでは」
「生憎と面識には預かりませんでしたが、その姿絵だけは」

ミケラン・レイズンの記憶の中に、ちらっと女の姿が浮かんだ。
リィスリ・オーガススィ。
その名はよく覚えている。何しろこの手で惨殺した翡翠皇子、
カルタラグン家の第二皇子と一時は恋仲だった姫だ。
思いがけずその若き頃の写し絵をコスモス領主城で見かけたものの、
クローバ・コスモスの手によって、その画は焔の中に失われてしまった。
それでは、フラワン家に嫁いだあのリィスリ・オーガススィの生んだ子らが、
この度こちらの計画をおじゃんにしてくれた、フラワン家の三きょうだいというわけか。
ひらりと、また、鮮やかな幻の緋色が、生温かい記憶の闇の中に過ぎていった。
焔に包まれていった絵と、朱に染まって斃れていった翡翠皇子。
(お前を殺してやる、ミケラン・レイズン!!)
血を吐くような女の声、あれは、あの女ではない。
翡翠皇子と別れてトレスピアノに嫁いでいった、オーガススィの姫ではない。
あれは、翡翠皇子の寵愛を最後に受けた、タンジェリンの幼い姫だ。
ちょうど、目の前にいる、この幼いジュピタの姫と同じ年頃だった、あれは。
タンジェリン家に特有の赤みの強い髪を振り乱し、
翡翠皇子を殺したこの身に、ぶつかってきた。
気が触れた獣のように猛然と、永遠に癒えることのない傷にぎらつき、
悲愴の塊のようになって、細剣を突き出して来た。

(タンジェリンの幼姫。ガーネット・ルビリア・タンジェリン)

あれもまた騎士の宿命に生まれた女だ、
ミケランは黒味のまさった琥珀色の目を開いたまま、瞑想した。
十九年経ったのだ。
あれももう、目の前の姫のような幼い子供ではない。
監禁先の城から逃亡して後は、どのような苦節を経てか、ハイロウリーン騎士団に迎え入れられ、
先年のタンジェリン殲滅戦にもその姿を現さず、今だ、生きている。
(この命をヒスイ皇子の仇と狙ってか?-----馬鹿らしい)
しかしそうやって否定するたびに、
ミケランの脳裏には何かの緋色が小さな赤い雷のように走るのだった。
それは忌々しく、幾ら小馬鹿にしても拭い落とせず、
真っ向から自分を睨み据えて責めてくる、気高い何かであった。
(ヒスイ、ヒスイをよくも)
(殺してやる、ミケラン・レイズン!必ず殺してやる!)
自嘲気味にうっすらとミケランは笑った。
人生にはこのくらいの刺激が常に必要だ。
うっとおしいと思えば思うほど、そなたと対決する日が待ち遠しい。
ルビリア・タンジェリン、いかんせん当時のそなたは子供過ぎた。
高位騎士である面子にかけて、さすがに剣合わせて子供を相手には出来なかったが、
成長したそなたがあの日と同じようにもう一度わが目前に現れることでもあれば、
そうだな、その時にはその執念天晴れなりと、その刃の錆びとなってもいいかな。
さあここに来い、ルビリア。
そなたの倖せを踏みにじり、幼かったそなたを復讐の鬼に変えた男に、
わたしがそなたの皇子にしたように、裁きをその手で揮いに来い。
その薄笑みを何かと勘違いして、ソラムダリヤ皇太子は
「シュディリス君のご母堂はそんなにも美人なのか」
羨ましげに訊ねた。
ミケランは請合った。
「探せばどこかの貴族がリィスリ・オーガススィの肖像画を所有しておりましょう」
「まあ幾ら美人でも今はもう十九歳を頭に三人の子供のいる年増だしな、っと」
妹が睨むので笑ってソラムダリヤは口を噤んだ。



「十九歳……」
「は?」
「トレスピアノのシュディリスとやらは、十九歳か。あの政変の年に生まれたのだな」
皇太子と内親王の輿が過ぎ去るのを待って、再び近付いてきた間諜に、
顎に手に当ててミケランはいぶかしげに呟いた。
「奇妙な符号だ。それとも物事が大きく動く時には、こうやって、
 一本の運命の大河にあらゆる河の水が引き寄せられてくるのやも知れぬがな。
 こちらが匂わせもしないのに次々と、深い土の中から一斉に芽吹くかのように、
 同じ手札がまとめて一度に集まってくる。
 フラワン家の子の名などその存在は知れども今まで耳にすることなど滅多になかったのにな。
 -------フラワン家の三騎士か。
 長子シュディリス・フラワン、それに修羅場に一人で飛び込んでいった
 勇敢なる乙女騎士リリティス・フラワン、末弟のユスタス・フラワンか。
 こちらの目論見を台無しにしてくれたにしろ、三人共、行く末頼もしいことだ」
「星の騎士の称号を全員が所有しております」
「そうだったな」
「そのことで、ミケラン様、お耳に入れておきたきことが」
ミケランは、驚きはしなかった。
少なくともそれを聞いて狭い輿の中で椅子から飛び上がったり、慌てたりもしなかった。
先ほど自分が云った運命の奇妙な綾に再び思いを馳せつつ、じっと眼を何かに据えて、
「ほほう」と、低く洩らしたに過ぎなかった。
「確かか」、ミケランは組んだ膝の上で手を組み合わせた。

「しかとはまだ。しかし探りましたらフラワン家の長子があれ以来、確かに姿を消しております」 
「考えにくいことだが頭には入れておこう。
 ふうん、それにしても、ユスキュダルの巫女を拉致し去った狐が他でもない、
 そのフラワン家の若騎士だとは」
「彼らはフラワン領主の地所に一晩宿泊の世話になっておりますれば、
 あるいはもしやその時に、何らかの合意が双方の間につけられたのかも知れません」
「皇帝や我らの魔の手からユスキュダルの巫女をトレスピアノに匿い奉ると?おやおや、それはまた」
ミケランは呆れ返ってみせたものの、しかし、困ったふうでもなかった。
トレスピアノという土地はよほど・・・、と言い掛けて反復になると気がついてそれを止め、
それがまことだとしてもせいぜい血気に逸った若者が単独で起こした、ちょっとした
冒険といったところだろう、と事態を軽く決め付けた。

「トレスピアノを挙げての軽挙ではあるまい。
 お仕置きは据えねばなるまいが、それが本当であれば、
 余計に拉致者の足取りは追いやすい。巫女の玉体ごと、ほどなく保護できよう」
「は」
「巫女だけでなく、連れの騎士にも危害を加えぬよう、厳命を行渡らせておけ」
「は」
「馬鹿者でなければフラワン家のその彼は、自ら正体を明らかにしたりはしないだろうよ。
 出来れば身柄を捕らえた後は適当に言いくるめて、父母の許に返してやろう。
 御輿を襲った山賊らが我らレイズンの手の者だと思っているのならば、
 それはその山賊共が我らの名を騙っただけであり、誤解だとな。
 その後のことはその時だ。これはもう、転がる事態に任せてその都度
 成り行きを見るしかあるまい。こうも次々と予測外の隕石が飛び交うのであればな。
 かといって果報を寝て待つのも味気ない」
ミケラン・レイズンは表情を変えずにすらすらと指示を与えた。
「巫女を奪われた一行の、女官とその他は解放せよ。
 ユスキュダルまで送り届けてやるがよい。
 むざむざと巫女を奪われたはぐれ騎士らは、
 元よりお尋ね者、その罪状を検めた後、
 ヴィスタの都において処刑とす。その旨、広く喧伝せよ」
「ユスキュダルを潜伏地とし、此度の行幸に護衛として同行した騎士らの中には、
 カルタラグンや、先年のタンジェリンの残党が少なからず身元を偽って
 混じっているかと思われます。彼らが取調べに対して素性を明らかにするとは思えませぬ」
「構わん、それでこそ全て極刑でもって臨むのだ。一掃出来て願ったりだ」
「トレスピアノ領主カシニ・フラワンは領内においての彼らの取調べは許可しても、
 身柄の引渡しをいまだ承諾しておりませぬ」
「では、皇帝にお出まし頂こう。勅印を頂けばトレスピアノ領主殿といえども、
 古傷のある彼らを庇い立てする理由もなきこと、ぐずぐずと逆らうこともあるまい。
 何なら、巫女を攫ったご長子の身柄と交換という手もある。
 探索を続けよ。そしてユスキュダルの巫女と狐が見つかり次第、直ちに知らせよ」

屋敷に到着して輿から降りたミケランは、手を叩いて、まず風呂の用意を命じた。
病床にある妻に、愛人の気配を残り香から悟らせてはならぬとの配慮からだった。

(もっとも、とっくに知っていることだろうが)

妻は素知らぬ顔で、ミケランを迎えるであろう。
蒼褪めた頬で、健気にも、か弱く微笑んでみせるだろう。
それこそがどのような言葉よりも、ちゃんと男を自責させることを承知の上で、そうするだろう。
(ああ、全てが面白い)
浴室は財力の証である。
身分が高く財産がある貴族の浴室ほど、広く、明るく、造られた。
香草を浮かべた広々とした湯船に浸かり、
温かな微温室で奴隷に手足を揉ませながら、たっぷりとした日の光が入る
硝子天井を彼は見上げた。
湯気は天井に遮られて円柱の間を雲のように横に流れ、その向こうに空が見えていた。
青空だった。
昼間でも、その星はあるという。
この地上の全てを澄み切って見渡し、尊く輝いて何処かにあるという。
もちろん幾ら眼を凝らして空を見上げようとも、日のあるうちは星は見えなかった。、
(一度だけ見た)
ミケランは眼を閉じた。
閉じた瞼の毛細血管を光が赤く透かせた。
辺境伯クローバ・コスモスが笑っていた。
その後ろに燃えていく一幅の画があった。
ミケランの手の永遠に届かぬところへと焼け落ちていく画布の中の聖女は、
焔を連れて昇天しながらその手で、星を指していた。



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妾宅から帰る途上のミケラン・レイズンが、
ジュピタ皇家の皇太子および内親王と路上で邂逅したその日より、時間は少し戻る。
街道から逸れて野に飛び出したユスタスが最後に振り返ると、あろうことか兄シュディリスが、
輿から巫女を引きずり出して奪い去るところだった。
「うわ、嘘だろ。シリス兄さん」
ユスタスは仰天し、引き返して兄の後を追おうとしたが、辛くもそれを思い止まった。
兄の云うとおり、この騒動の中にフラワン家の者が係わっていてはならないのだ。

「それを自分から反古にして!兄さんちょっと、勝手過ぎだよ」

情けなく口中で怒鳴ると、さて、とユスタスは急展開にどきつく心臓を宥めつつ、
自分の身のふり方を練らねばならなかった。
さて、どうしよう。
女人を掻き抱き飛ぶように森林へと駆け去った不埒者(他ならぬ兄である)を目掛けて
弓が盛大に放たれた。木々に遮られてどれも無駄に終わったその軌跡を越えて、
シュディリスを追う護衛騎士らが小石をまとめて投げるように飛び出して行くのも見えた。
たとえ二人乗りであっても領土に詳しい兄が逃げ切ることをユスタスは疑わなかったが、
さりとて兄が何処へ逃れて行くつもりなのかには、見当のつけようもなかった。
(それでも、一瞬しか見えなかったけど、あれは確かに、そうだ。あのお方だ)
何か軽やかな白い花のようなものが、兄に抱き寄せられていた。
それを見た瞬間、ユスタスは震撼した。
あの御方こそ、ユスキュダルの巫女だ。
兄さんが予想したとおりだ。
あのように騎士の心を震え上がらせるような人が他にいるだろうか。
間違いなく、騎士の聖母だ。
お姿を現すだけでその周りが、さざめいて耀くようだった。
あの巫女がもし死を命じたら、この地上の騎士は、みんな自害するんじゃないだろうか。
幼子が眠るように、あっさりと、そうするんじゃないだろうか。
その柔らかで気高い波動は、遠く離れたユスタスをもふるえあがらせ、静かに貫いたのだ。
(今頃、兄さん、眼が潰れてなきゃいいけど)
人目を引かぬように馬を並足で進ませながら、それしか選択ももはやなく、
ユスタスはフラワン荘に引き返そうとした。
その時、木の葉が奇妙に震えているのに気がついた。
耳を打つ地鳴りに、ユスタスは振り返った。
煉瓦を敷き詰めた街道全体が、細かく、そして徐々に大きく揺れていた。
硬いもので地を激しく打ち付けるその音は、潮となって盛り上がり、間違いなく近付いていた。
その不気味としか言いようのない轟きは、鋼鉄の昆虫が羽根を震わせながら
大群となって畑に押し寄せてくるように、空気を震わせて急激に迫っていた。
「どう、どう!」
動揺する馬を手綱で宥めながら、ユスタスは鞍の上に身を乗り出して街道のはるかを見遣った。
まさか。

(レイズン家の軍勢が領内に無断進入----?)

それを裏づけするように、ひゅんと空を大きく切って大量の矢が落ちてきたのだった。
「わあッ」
避け損ねた旅人が肩に突き刺さった矢に腰を抜かして、悲鳴を上げて転がった。
続いて第二波の矢来が空から雪崩れ落ちてくるのが、黒い幕のように頭上に見えた。
威嚇の為に放たれたその矢は、何人かを射抜きながら、地に突き刺さった。
迫り来る急変に何やら叫びながら、なす術もなく警備隊が馬で動き回る中、
詰め所から続いて放たれた狼煙をユスタスは空に仰いだ。
その煙が落ち切らぬうちに、街道の果てから青光りする武具を携えた騎馬の大群が現れると、
街道を蹄で蹴り上げながら、人を呑み地を覆い、岩を転がす津波の勢いで、
見る見る間に押し寄せて来たのである。
軍勢は左右に分かれてどっと通り過ぎた後、ぐるりと円を描いて街道の人々を取り囲んだ。
恐怖に駆られて、商人、旅人問わず、人々は背中を向けて乱れ足で逃げ出そうとした。
それを追って街道の左右から威嚇の弓が放たれる。
「ひいッ」
「わああ」
恐怖に縮こまる人々を内側に、軍勢は大きな楕円になるように辺り一帯を取り囲んで封鎖し、
袋小路を作った。
「こ、これは何事か。ご説明ありたい」
「トレスピアノは不可侵領であるぞ、そのことを弁えた上でのこの侵入か」
警備隊が割って入るのを、レイズン家の旗を立てた軍勢が先に制した。
先細りした二等辺三角形の旗をずずっと前へ差し出して、
馬上から、
「我らは皇帝陛下より帝国治安平定の信任を受ける、レイズン家騎士団である!」
歩兵を加えた二百騎ほどの騎士団一隊は次々に重たく命じた。
「これは皇帝陛下の命と心得よ、逆らうことは許されぬ」
「身元を検める。ただちに荷を地に置き、一列に並べ」
長槍の先端を人々の頭に向けた。
平生は長閑なトレスピアノである。
領内に居る限り、他国の軍隊を一生見ずに終わる者も多い。
怯えきる人々の中には、恐ろしさのあまりにまだそこから逃れようとする様子を見せるものがいた。
弓矢隊が前に出て、弓を引き絞った。
見せしめに一人が射抜かれる前に、駆けつけたユスタスはその前に飛び出した。
「やめよ!」
少年の声で厳しく一喝する彼に、一斉に矛先が向いた。
顎紐を解いて帽子を脱ぐと、その茶色の髪を軽く振って整え、

「レイズン家の軍隊とお見受けします。隊長はどなたか」

怖気ることなく、ユスタスは馬上から軍勢を見回した。
馬を歩ませ、わざと彼らを眺め回しながら、
こいつが隊長だと目星をつけた男の前で止まると、ユスタスは、
「不可侵領トレスピアノと知った上での侵入ですか。
 街道を荒らし、領民を傷つける許しを一体どこから得たのか、お答え下さい」
ずけずけと口火を切った。
「あなた方がまことにレイズン家の騎士団であるならば、トレスピアノがヴィスタチヤ建国以来、
 たとえ皇帝陛下の軍勢であろうとも先触れなく踏み入ることを許されてはいないことは
 ご承知のことであるはず。レイズン家騎士団は諸国の騎士団より、
 野蛮の謗りを受けることをお望みですか。すぐに武器を降ろして下さい」

異様な落ち着きを見せている目の前のこの小童が一体何者なのかとあやしみながら、
髭をたくわえた隊長は横柄に答えた。
「トレスピアノの領主殿には先にすでにお伝え致した。
 我らレイズン騎士団は帝国に仇なす反逆者の捕縛を目的として、
 この地を訪れたものである。領主殿もこの捜索が正当であることは是認されるであろう」
「僕が聞きたいのは、いったい、誰の許可を得たのかということです」
少しも怖れずにユスタスは続けた。
「反逆者の捕縛を目的としての侵入と云われましたか。
 しかし伝令の使者が通ったのはつい先ほどだ。
 あなた方はまだ領主より返答をもらってはいない。これは不当な振る舞いです」
「うるさいぞ、小僧。おい、こやつを引きずり降ろして縛り上げろ」
「おい、馬から降りろ、小僧」
槍が四方から向けられて、ユスタスを脅した。
ユスタスはおとなしくしてなどいなかった。
息を軽く吐くと、身を沈め、馬を同じ場所で一回りさせて戻る時には、
向けられた長槍の柄を全て叩き落としていた。
「僕に触れるな、下郎」
兄さんならばやはりこうするだろうなあと思いつつ、
ユスタスは押し包んでくる騎士たちの剣を一薙ぎで払うと、隊長の脇に躍り出た。
隊長が剣に手をかける前にすでにもう剣を隊長の喉許に向けていた。
「申し遅れましたが、僕の名はユスタス・フラワン。フラワン家の次男です」
「……これは!」
ユスタスは剣をぐっと前へ押し出し、隊長をのけぞらせた。

一般に、フラワン家の者がどのような位をこの帝国で占めているかといえば、
不文律ながらも、聖騎士家と皇帝の中間、皇帝の外戚といったあたりであった。
初代皇妃以後、幾多の皇妃をジュピタ皇家に上げてきたフラワン家は、
ヴィスタチヤ帝国の象徴の一つとして代々丁重に重んぜられており、
公式の場においては聖騎士家からも第一級の敬意を払われて、
皇帝の前に伺候するようなことがあれば、フラワン家の者が座るその席は
皇帝皇后皇太子の次席に、どの貴族よりも位が一段高くなるように特別に設えられた。
名誉的なものがあるばかりで、帝国の治世に対しては何の行使権限も持っていないにしろ、
帝国法においてもフラワン家の治めるトレスピアノ領土の不可侵は明記されており、
フラワン家の者と知って危害を加えた者には、皇帝に対するのと同等の重罪が科せられるのだった。
それゆえ、ユスタスの周囲は隊長を残して、大きく退いた。
ユスタスはその中で小気味よくはきはきと申し渡した。

「領民に向けているあなたの隊の武器を直ちに下げて下さい」
「…………」
「領土侵入の正当性は、畏れながら皇帝陛下ではなく、僕の父が決めることです。
 お分かり頂けたら、武器を下げ、沙汰をお待ち下さい。
 ここにいる街道の通行人は事態がはっきりするまでこちらで身柄を確保しておくことを
 お約束します。警備隊!」
ユスタスは軍勢に阻まれて押しやられていた国境警備隊を呼んだ。
警備隊が寄って来ると、突然この場に現れたフラワン家子息の姿にまだ絶句している
彼らにユスタスは指示を出した。
「こんにちは」
「居合わせて下さり、た、助かりましたが、しかし一体どうしてこのようなところに、ユスタス様…」
「ご苦労だけど、もう少し働いて。
 おっつけ父もここに来ると思うけど、その間、ここにいる人たちを
 ここから一番近い大きな家、そうだな、
 村長の家が近ければそこに先導して預けて。怪我人優先で。
 それからフラワン家に伝令を出して、全自警団の出動を要請してここに向かわせて。
 フラワン家の名において、不法侵入した偽レイズン家騎士団を監視する」
「あ、あの、ユスタス殿…」
「何か、隊長殿」
まだユスタスに剣の先を向けられたまま、隊長は乾いた声で必死に申し立てた。
「誓ってこれは、皇帝陛下の命により、帝国の治安平定を任ぜられているレイズン家騎士団…」
「分かってるよ、本物の一隊だってことは」
ユスタスは軍勢を見回した。 
最初に見た時より数が減っている。
兄と二人で追尾してきた旅の一行は武装解除されて隅にまとめられており、
空の輿の周囲では兵士に囲まれた女官たちが、すすり泣いていた。
レイズン家の軍隊の数が減っているのは、おそらく、輿の中に誰もいないことを知って、
兄と巫女と、そしてそれを追って行った旅の騎士たちを捕まえるために、
別動で放たれたのに違いない。
(兄さん、無事だといいけど)
やがて到着するであろう父に、何と説明したものか、考えると頭が痛かった。
いずれは巫女を奪ったのがフラワン家のシュディリスだとレイズン家側にも知れるだろうが、それまでは
巫女略取の容疑が兄にかからぬように、努めて公的な立場でいるしかない。
レイズン家側も、兄の憶測が確かならば、皇帝に内密のうちにユスキュダルの巫女を奪おうとした
負い目があるはずである。
互いが知らぬ存ぜぬを決め込むことになるだろう。
顔を曇らせて、ユスタスは兄が消え去った方角を眺めた。






[続く]




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