[ビスカリアの星]■八十.
狭苦しい天幕の中をさらにむさ苦しくするようにして、そこに
集まっているのは、明け方早々から賭博にのめりこんでいるハイロウリーンの
平騎士たちである。
非番の者が深夜にはじめ、それに任務から交代して戻ってきた男たちが
随時加わり、入れ替わり、立ち代り、陣中の賭け場に人が絶えることはない。
さわやかな朝も知らぬげに、
彼らは床にじかに坐り、手許の札を繰り出しては、金の動きに眼を光らせていた。
陣中規則により賭けはご法度である。
もちろん、誰も守らない。
たまには、位騎士までもが「いい加減にしておけよ」と云いながらも
財布片手に参加する。
一度この天幕に入っておきながら勝負から逃げると、くず野郎と呼ばれる。
弱いからといって莫迦にはされないが、つまらない手で小銭を得るよりは
大きく負けるほうが、男が上がる。
危険冒さずして何が勝負の醍醐味かというわけで、たかが札遊びとはいえ
平然を装って札を組んでいる彼らの面の皮の一枚下には、騎士ならではの
闘争心が潜み、相手を睨み殺さんばかりの険悪が場の底に滲むこともある。
「勝った」
「畜生。もう一番だ。組を変えるぞ、くじを引け」
煙管の煙。酒の匂い。男たちの汗のにおい。独特の臭気と熱気がよどんだ
暑苦しいその天幕が、控えめに外から開かれた。
朝の風が流れ込む。
誰かが近づいてくる気配は先刻から承知なので、誰も顔を上げない。
不意打ちの監査ならば、あしおとを忍ばせて来るはずだ。
「エクテマスはいるか」
エクテマスは奥にいた。入り口に目線も向けずに揃えた札を出す。
「サザンカ四枚」
「伏兵だな」
「エクテマス。騎士ルビリアがお呼びだ」
勝負を捨てる代償に、エクテマスは財布を放り出した。袋の口から硬貨がこぼれる。
ハイロウリーンの六王子にして、自ら平騎士に身を落としてる変わり者。
すぐに外に出て行く若騎士の後姿を、残された連中は好奇の眼で送り出した。
「エクテ兄。おはよう」
兄の姿を見かけて弟のワリシダラム王子が声を掛けたが、エクテマスは早足で通り過ぎ、
歩きながら手早く上衣を脱ぐと、手近な水甕から手桶でくんだ水を、頭からかぶった。
呆気にとられてそれを見送っているワリシダラムに、オーガススィの一の姫、
レーレローザが寄り添う。
「どうしたのかしら。ずぶ濡れになって、あんなに急いで」
「どうせ呼ばれたんだろ。ルビリアさんに」
「お呼びですか。ルビリア」
「ご苦労。エクテマス」
他に誰もいない。
朝の光が入る天幕の中で、ルビリアは机に片手をつき、地図を前に俯いていた。
主従騎士は横に並んで、いちまいの紙片を覗き込んだ。
それは、コスモス城の周辺の地図だった。
ルビリアは、まだ髪から水を滴らせているエクテマスがまとってきた匂い、若い連中で
集まってけしからぬことをしていたらしき、煙草だの酒だのの残り香に気がついたが、
地図を見つめたまま拭くものをエクテマスに投げ渡して、それには触れなかった。
(懐かしいわね。まだ少年騎士団にいた頃の彼に、あなたの遊び方には
関与しないけれど、そんな時には水を浴びてから出直して来てと云った。
それを真に受けて、それからずっとそれを守ってる。律儀な弟子だこと)
女の指が地図を辿った。
「ミケラン・レイズン卿がクローバ・コスモスに護衛されて今朝出立したわ。
コスモスの城に向かっている」
「はい」
「襲撃してやりたいところだけど、行列の途中を狙っては、ミケランが不運な英雄に
祀り上げられてしまう。先にも決めたように、それは駄目」
エクテマスは頷いた。
さらに考慮するならば、クローバ・コスモスが護衛についている。
コスモス領民のクローバへの敬慕は篤く、もしもクローバに危害が及ぶことになれば、
コスモスは永久にハイロウリーンを許さないだろう。
ルビリアは、エクテマスの若い顔に顔を寄せて、囁いた。エクテマスは眼を逸らさない。
「コスモス城のまわりはミケラン卿の兵で固められ、あとはコスモス兵と、
皇太子殿下の近衛だけだそうよ。これ、どういうことか分かる。
皇太子訪問に便乗して、ミケラン卿は、まんまとコスモスの中心に居座ったということ。
さてこそ、ここで、ジレオン・ヴィル・レイズンがうまく動いてくれるといい」
ルビリアは放り出したままの書簡函に向けて手をふった。
「ヴィスタル=ヒスイ党は、反ミケランの遺志ありとみた人物には片端から
決起を促す文を出した。私の許にも強烈なのが届いてる」
「拝見しました」
「復讐は我にあり」
「そんな序文であったかと」
「陳腐な文句だこと」
ルビリアは肩越しにその髪をはらった。
「口先だけで気取るだけで終わりならば、世話がないわね。
せめて、ジレオンとやらがこちらを油断させるために愚かな青二才のふりをして
あんなものを書き散らかしたことを祈るとするわ」
エクテマスは地図を一瞥した。ルビリアは手にした鉄筆で、地図を示した。
「言葉に嘘がないというのならば、ぜひともヴィスタル=ヒスイ党には、ここコスモスで、
そのご大層な志を実行してもらいたい。レイズン家が真っ二つに分かれて
本家と分家の撃滅戦になってくれればしめたもの。諸国は手出しをせずに、
自国の守護に徹して静観か、撤退するでしょう」
「ルビリア」
「そうよ」
ルビリアは地図上の城影をなぞった。
「コスモス事変など、最初からありはしない。これは、レイズンの本家と分家の争いごと。
ミケラン卿がまた何か大それたことをしようとしている、畏れ多くもユスキュダルの
巫女に危害を加えようとしていると、そんな根回しをして諸国の不安と結束を煽り立てた
ヴィスタル=ヒスイ党は、騎士国をコスモスに集結させるところまでは首尾よく果たしたわ。
けれど、その見込みは少々甘いわね。本家であれ、ミケラン率いる分家であれ、
いずれの国もレイズンの為にはたらく義理などないのよ。たとえ、ユスキュダルの巫女の
御為であるという大義名分を立てたとしても、ミケランが実際に巫女に危害を加えぬ限りはね」
「教え子の存在が気になります」
「教え子?」
女の青い眸に、エクテマスは頷いた。
「はい。今上陛下の御子にして、次代ヴィスタチヤ帝国の皇帝となられる唯一の男子。
ミケラン卿の教え子とか。皇太子は、ミケランの味方をするでしょう」
「ああ、ソラムダリヤ皇子のことね。まだ乳呑児であれれた頃に、現皇帝ゾウゲネスに
抱かれている姿をお見かけしたわ。宮廷に招かれたゾウゲネス・ステル・ジュピタと、
その御子ソラムダリヤ。あれは、新年の宴だった」
カルタラグン宮廷におけるジュピタ家の扱いは、フラワン家のそれと同様に、丁重を極めた。
白痴が出たことで傍流におかれたとはいえ、数代前に遡れば、もともとはゾウゲネスの
血筋の方がジュピタの直系である。
カルタラグン家が皇帝の代理に乗り出して三世代目にあっても、ジュピタ家は
賓客扱いであった。
「ルビリア。ルビリア。来てごらん。ゾウゲネスのところの赤ちゃんだよ」
「皇子。翡翠皇子。そのように、嬉しそうに」
「皇子が喜んで下さっているので、わが子ソラムも機嫌がよいようです」
「ルビリア、おいで。かわいい男の子だ。見てご覧この小さな手。抱かせてもらってごらん」
「ソラムダリヤ・ステル・ジュピタと申します。ルビリア姫」
「元気な男の子の赤ちゃんだ。ああ、私たちが騒ぐので泣いてしまった。赤子の泣き声」
「赤子の泣き声」
「ルビリア!」
エクテマスが咄嗟に伸ばした腕を、ルビリアは払いのけた。女は顔を覆った。
机の上の地図がおおきくずれて、床に落ち、鉄筆が転がった。
「大丈夫よ」
「ルビリア、椅子を。休んで下さい」
「大丈夫よ、立っていられるわ。ねえ、エクテマス」
「はい」
「赤ちゃんが近くにいるかしら?」
ルビリアは生真面目な顔つきで、弟子を見上げた。
女の青い眼は、エクテマスを見ているようで、見ていなかった。
エクテマスは首を振った。さりげなく女の手首をとり、椅子の背につかまらせる。
過去と現在が交錯し、過去の記憶が勝るのは、この女には常のことであった。
「いいえ。赤子はいません」
少年の頃に女騎士の弟子となった若者は、師よりもすっかり背が高くなり、その手も大きかった。
男の手が女の手を包んだ。
「貴女はいつものルビリアです」
女の顔を見据え、若騎士はルビリアの表情を推し量った。
(気がついたのか。いや、違うな)
(オニキスの子を、胎内に身ごもっていることを)
日夜、ルビリアの健康に留意し、その世話をしているエクテマスだけが、それに気がついた。
細身の女にありがちなことに、誰もまだそれを知らなかった。ルビリア本人も。
女は気分が悪そうに喉を押さえた。
エクテマスはルビリアに水を呑ませた。
「ルビリア、横になっては」
「オニキスが、こう云うの」
髪に指をからめて、ルビリアは笑った。
「ルビリア、ミケラン卿へのそなたの憎しみ、このわたしほど分かる者は
この世にはおらぬぞ」
その時、オニキスはルビリアを抱き寄せた。
「わたしは、弟の翡翠とは違う。そしてフィブラン・ベンダ殿のような理解もなければ、
国許でそなたと愛人関係にあったときく第二王子イカロスのような情熱も、
そなたの弟子エクテマスのような捨て身の若い献身もない。それでも、女ひとりくらいは
倖せにしてやれる」
ルビリア、そなたの為にこれを云うのだ。何よりも、死んだユーリ殿から、それを切に
頼まれたような気がしているのだ。
オニキスはルビリアの頬に手を添えた。
「ユーリ殿に感化を受けたといっては軽率であるが、このわたしとて、男の真摯に
動かされることもある。彼が死の間際に、何かを予感したかのように遺した遺言、
それすら果たせぬでは、さすがに男がすたるわ。
ルビリア、故ユーリ殿の遺言と思ってどうか聞き入れてはくれまいか。
幾つかある選択肢から貴重なタンジェリンの血を後世に残すことを優先にしてはどうなのだ。
それはとりもなおさず、ヒスイの名誉と、カルタラグンの名を世に遺すことにもなろう。
よく考えるのだ、ルビリア。このわたしが側にいて、それを見守ろう」
(爆笑ものだな)
ルビリアからそれを聞かされたエクテマスは、暗いところを見つめた。
(とんだ美談だ。死んだユーリも、にわかにおこった男の純愛に利用され、
その名を持ち出されては浮かばれまい。悲運のカルタラグン皇子を気取るわりには、
オニキスもその程度の男だったか)
床に落ちていた地図を、エクテマスは拾い上げた。
「それで、オニキス様からのその求婚には何とお返事を」
「どうとも。貴方のお父上のフィブラン・ベンダ様との差がよく分かる話だったわ」
ルビリアは地図の位置を丁寧になおし、エクテマスはその上に、重しをのせた。
そして、極度に異端という点で結ばれた天にも地にも二人きりのこの師弟は互いに
視線を交わした。
意思疎通はそれで足りた。
「一行は早朝に出たそうです。そろそろ通過点です」
「遠くから見るだけでいい。当番明けなのに、悪いわね」
「いえ」
エクテマスはすぐにルビリアの仕度を整える為にはたらき出した。
兄がルビリアの馬を引き出してくるのを見て、ワリシダラムは大急ぎで
レーレローザを連れて、駆けつけた。
ワリシダラムは声をはずませた。
「エクテ兄さん、僕たちも一緒に行ってもいいかな。こちらのオーガススィの
レーレローザ姫のことについては、何かあっても僕が責任を持つから」
「好きにしろ」
「レーレローザ、急いで馬を選んで」
ワリシダラムがレーレローザを連れ出したのには、わけがある。
ワーンダンとインカタビア、それに妹のブルーティアのいる第二陣から本陣のこちらに
移されて以後、レーレローザは塞ぎがちで、人質同然の身の上では鬱屈するのも当然ながら、
まるで夢遊病者のように放心していることがあり、それがワリシダラムには心配であったのだ。
(夜はこっそり一緒に寝てるけど。でもそれだけじゃ、埋まらないものもあるんだよな。
何たって、ハイロウリーンの軍中に一人だけだもの。女の子にはきついよ)
手づからレーレローザの馬に鞍をつけてやり、ワリシダラムは、
「乗って!」
レーレローザを鞍に押し上げた。
ハイロウリーン陣から飛び出した四騎をフィブラン・ベンダ以下は愕いて見送ったが、
ルビリアとエクテマスだと知ると、「好きにさせておけ」フィブランは取り合わなかった。
「高位騎士の特権により、単独行動も軍規違反ではない」
それでも、副官は独断で護衛隊を組み、彼らを追いかけさせた。
ルビリア、エクテマス、ワリシダラム、レーレローザは、いずれも優れた馬の乗り手である。
後方から護衛が「お待ち下さい」とわたわたと追いかけてきている、こういった状況は
本能的に好むところであった。
彼らは機嫌よく、ますます馬を駆けさせ、青空の下、コスモスの野を蹴り、追尾を引き離した。
「巧いじゃないか」
世辞ではなく、ワリシダラムは、レーレローザの馬術を褒めた。
不慣れな馬のはずなのに、たちまちのうちに馬の癖を制御し、難しい障害物を
連続できれいに跳び越したレーレローザは、当然といった顔つきで、さらにワリシダラムの馬と
一馬身の差をつけ、引き離した。
すすんで、ワリシダラムは一行のしんがりについた。
特に、ルビリアと兄エクテマスの駆けっぷりには、ワリシダラムは驚嘆した。
それはまるで猛犬を野に放ったがごとき、疾走である。
(偏屈者なんて騎士団の中で見慣れてるけど、兄さんもルビィさんも、
あの人たちはさらにもう一枚、振り切れてるよな)
ごうごうと唸る風の中、剛弓のごとき軌跡を描いて馬を駆る師弟は、きらめく緑の草を
蹴散らして、この地平を一筋に切り裂く矢のように丘陵を駆け抜けた。
やがて、その一行が見えてきた。
「ルビリア、あれに」
「この辺りから見送らせてもらいましょう。下からは見えぬはず」
彼らが手綱を引いたのは、かなり離れた場所の崖の上であった。
遠い街道を行過ぎる、護衛を従えた、ものものしい行列。
その男は、すぐに見分けがついた。瀟洒な婦人用馬車の、すぐ近くに馬を進めている騎馬影。
こちらからは馬車の影に隠れた反対側になっていたが、見え隠れするその姿は、身なりからも
見間違えようもない。
男はちょうど、馬車の中に機嫌よく話しかけ、それから、少し馬を進めて前に出たところであった。
鞍の上で、ルビリアは眼をほそめた。
(久しぶりね)
遠く、眼下のその人影を、ルビリアは凝視した。
その名を幾度、夜の中に刻み付けてきたことか。肌をゆるした恋人のように懐かしい。
(殺してやる、ミケラン・レイズン)
(ルビリア。見てご覧、赤ちゃんだよ。おいで、こっちに来て抱いてみてごらん)
(姫。ルビリア姫。お疲れでしょう。しばらくお眠り下さい。赤子は死産でした)
(------夢の中のことのよう。想い出せない)
「随分とゆっくりとした移動ですね」
馬から下りて、彼らはそれを見送った。
レーレローザとワリシダラムは崖縁に進み出た。
「ねえワリシー、手前の方が、クローバ・コスモス殿かしら」
「ご衣裳から、そうだろうね」
「苦労されたのね。もう少し、若々しい方のように想像していたわ」
「かつての領地を妻殺しの男の護衛をしながら、その男の弟が城主に
取って代わった城へ案内して向かうなど、その心中察して余りあるだろ」
「ジュシュベンダのイルタル様を頼りに亡命したと聞いた時には、このまま
隠居かと思ったけれど」
「ミケランもコスモス領民も知ったことではないと背を向けることも出来ただろうに、
ああして、ミケラン卿と領民の双方の盾となっておられる。ご立派な方だな」
「あの馬車の中には誰が乗っているのかしら」
「婦人用の馬車だよね。誰だろう」
「ミケランの愛人」
ぼそっとエクテマスがそれに答えた。
隣りにいるレーレローザはびくっとした。苦手だわ、この方。
レーレローザはエクテマスの傍から離れ、ワリシダラムの後ろに隠れた。
「愛人を連れてコスモス入り。さすがというか、卿は、面の皮が厚いんだな」
「それにしては随分と馬車の周りが厳重に囲まれていると思わない、ワリシー」
「先の、皇太子殿下のご一行の中にも誰が乗っているのか分からない謎のご婦人用の
馬車があったけれど、ミケランとクローバの両方に護られているなんて、いったい誰だろう」
「-----どうした」
馬車の窓から顔を出して、過ぎ行く遠い崖に眼を向けているリリティスに、思いがけず
クローバが馬を寄せた。
リリティスが熱心に見つめている方角を、クローバも仰いだ。
丘陵と、眩しいほどの、青い空しか見えなかった。
クローバはリリティスを振り返った。
「何か、見えたのか」
「何でもありません」
リリティスはまだ、青い空を見つめていた。
「鳥影か獣の影、何かが見えたような、そんな気がしたのです。クローバ様」
「街中に入ったら、窓を閉めたほうがいいぞ」
「いいえ。クローバ様とミケラン様のお二方が、お外におられるのですから」
クローバは、そんなリリティスを見つめ返した。
オーガススィ家からコスモス家に養子に出たが、もともとクローバは、現トレスピアノ領主夫人
リィスリ・フラワンとは実の姉弟。
リリティスの母がクローバの姉、つまり、リリティスは彼の姪にあたる。
あらためてクローバはリリティスの顔を近くから眺めた。
絶世の美女リィスリの面影が濃厚な美少女というだけでなく、フラワン家の
三きょうだいといえば星の騎士。馬車の中におさまったそのはりつめた横顔の美は、
美姫というだけでない、女騎士としての至上の美であった。
(オーガススィ家は女の上に美形をこしらえる血だな。ルルドピアス姫もこの娘も、
古雅な絵から抜け出してきたようだ。女騎士につきものの悲壮の美も、こうまで精緻だと
何やら神々しいぞ。これに、弟がつくのか。フラワン家の次男はユスタスとかいったな。
二人して、兄を探しにトレスピアノを出たのか。莫迦な子たちだ)
「リリティス姫。-----姫の兄上に、俺は逢ったぞ」
「え?」
「シュディリス・フラワンに逢ったぞ。今は詳しく話せんが、達者だった」
ミケランの眼があるので、そこまでにして、クローバは馬車から離れた。
ふと気がついた。星の騎士は異様に勘がいいときく。
(何が見えた)
もう一度、崖を振り返った。やはり、何も見えなかった。
馬車を挟んで反対側にいるミケランをクローバは見遣った。
馬上のミケランも、その顔を後方の崖に向けていた。
蒼穹に流れる雲の先にあるものが、気になるといった風に。
-------------------------------------------------------
ヴィスタのレイズン御用邸。
リィスリ・フラワン・オーガススィは、傍らの老医師を仰いだ。
床から起き上がり、ドレスをまとい、髪を結い上げた女は、ほとんど気力だけで
そこまでしたのであった。
「スウール・ヨホウ様。許可をいただけますでしょうね」
「奥方さま」
常に明晰で明快な老医師は、椅子に坐らせたリィスリの手首の脈をみながら、首を振った。
「奥方さま。この老体も、あの政変を超えてきた身。奥方さまのお気持ちの一片なりとは
酌めるつもりでおります。その上で申し上げます。
そのお覚悟のほどは、どうぞ、御快復のためにとっておかれますように」
「因果の方から迎えに来たのです。わたくしが逢わずして、誰がお迎えするのでしょう」
「過去を持ち越されることは、ご病状の悪化に繋がること。
医師としては奥方さまにかかるであろうご負担を、看過できませぬ」
「ならば尚のこと、わたくしの意志を汲んで下さいまし。どうか」
「奥方さま」
スウールは衰えのないその眼力をひたとリィスリの上に据えて、穏やかに云い聞かせた。
「奥方さまさえ宜しければ、医師の権限をもって、先方が何ものであろうとも
面会謝絶を申し上げること、可能です。このスウール、それくらいは身をもって
奥方さまのお役に立ちましょう。病人を救うのが医師の使命。お任せ下さい」
「せっかく高座より降りてお越し下さったものを、どうして無碍にできましょう。
寝所ではお迎えできぬ方です。スウール様、どうかお分かり下さい」
少し病み衰えたその横顔に、断固たるものを張り詰めたリィスリは、
その出身オーガススィで刻まれた氷像のような、ひややかな品に満ちていた。
「別室でお待たせしているだけでも、心苦しいこと。こちらの家の方々にも
申し訳ないことです。長くはかからぬことをお約束します」
スウールは無言の礼をもって、貴女の意志を尊重することを選んだ。
その老医師の背後に立つルイ・グレダンに、リィスリが軽く頷いて促した。
それを受けて、ルイはすぐさま、音もなくその室から出て行った。
おしのびでレイズン御用邸を訪れた貴人は最初にそう告げていたとおり、人を介さず、
リィスリと二人きりの対面を望んだ為、室内には他に誰もいなかった。
「リィスリ・フラワン・オーガススィ……」
待っていた貴人は、現れた麗人の姿に動揺し、しばし、絶句した。
貴人はあらためて、その名を呼んだ。
「リィスリ・フラワン。フラワン荘園の奥方よ」
「トレスピアノにこもり切り、宮廷に挨拶にも伺わず、長年非礼を
重ねましたること、夫カシニに代わりお詫び申し上げます」
絶世の美姫と謳われた女は、一輪の花のように、昔と変わらず美しかった。
優美にお辞儀をし、面を上げたリィスリは、真正面からその男を見つめ返した。
「ゾウゲネス・ステル・ジュピタ、ヴィスタチヤ帝国皇帝陛下」
互いに、人生の半ばを過ぎていた。
女の方は、若かりし日、宮廷に大勢いた貴公子たちの一人であったというほどの
おぼろな記憶が貴人の上にあるばかりだったが、男の方は、当時全ての男たちの
憧れの的であったリィスリのことを忘れずに、克明に憶えていた。
カルタラグン宮廷に咲いた氷の花。
「お見舞い下さり、まことにありがとう存じます。客分の身ゆえ、おもてなしも
思うようになりませんが、レイズン家のご厚意に甘え、こうして静養しております」
事前に医師スウールから容態を聞いていたとおり、貴婦人の顔色は蒼く、
やせほそり、その声はか細かった。
ゾウゲネスは、積年の悔いの滲む顔をして立ち尽くしていたが、すぐに手づから
リィスリに椅子を勧めた。初代皇妃オフィリアを出したフラワン家は神聖にして別格。
皇帝といえども、礼を尽くす。
「お掛けに」
「陛下も」
「フラワン家の奥方が都にご滞在とは露知らず。愕きました」
「スウール・ヨホウ様によくしていただいております。内密に願っていたことですが、
如何様にして陛下のお耳に届いたのでしょう。陛下の忠臣であるミケラン卿の隠密とは
さように優秀なのですね。不思議に思われましたが、ここはレイズン本家。
分家のあの方が特に重点をおいて気にかけられていたということでしょう」
「リィスリ・フラワン」
厭味かそうでないのかも判別つかぬ口調で静かに語る貴婦人は、時の王妃のようであった。
ゾウゲネスは感に堪えぬように、眼の前の美しい婦人を見つめた。
「貴家に嫁がれる前の、カルタラグン宮廷における貴女のことを、当時を知る者ならば
忘れるはずもありません。リィスリ姫と、そして翡翠皇子のことを、忘れるはずもない。
辛い想いをさせました」
「全ては過去のこと。今はただ、陛下のお気遣いとお見舞いがありがたいばかりです」
人形のように、リィスリは淡々と形式的な会話を紡いだ。
その眼は、時折、窓から望める庭園の方に向けられていた。
皇帝がご来訪とあって、レイズン御用邸の警固はこちらの棟に集中している。
目立たぬように庭先にも武装兵が配備されているのが、リィスリの眼にも映った。
「対面叶うならば、謝罪と、償いをしたいと願っていたものです」
「ゾウゲネス陛下」
それを遮り、リィスリは、庭から視線を戻した。
医師スウールから決められた時間は少なかったが、できるだけ、リィスリは皇帝を
引きとめようとしているかのようであった。
「陛下。陛下のご厚情にすがることが叶いますならば、わたくし、一つ陛下に
お願いしたいことがございます」
「何なりと」
「わたくしの願いはただ一つでございます。家族がトレスピアノに無事にあること。
荘園の女主人として、妻として、母として、願うはそればかりにございます」
「取り計らいましょう」
「お立場から何も確約できぬことは承知の上で申し上げるのです」
「ご自分を責めぬよう。現在の騒乱の責任は、余とミケランにあるのだ。
フラワン家の方々については、帝国の威信にかけても護るのが筋。
翡翠皇子を殺害した事実が、それで拭われるわけではなくとも」
「誰のせいにするつもりもございません。ヒスイ皇子を奪われたのはわたくしではなく、
タンジェリンの幼姫です」
リィスリは膝の上に重ねた白い手に視線をおとした。
わたくしはその時にはもう、カシニの許に嫁いでおりました。
政変は何ひとつ、わたくしの上には害を及ぼしはしませんでした。あれは流星の年。
翡翠や、一緒に遊んだ友人たちが刃の下に斃れている間も、わたくし一人は、
安全な楽園にいたのです。
祭りの焔。
星吹雪のような、夜の花火と、優雅な音楽。
一人の皇子と、その笑い声、胸の中に閉ざされたままの、永遠の春。
リィスリは繰り返した。
「わたくしは、自ら翡翠の許を辞しました。都には、不在だったのです」
「貴女のそのご自覚こそが、余に、罪の重みを教える」
「過去のことにございます」
わたくしたちは、もう過去の人間です。
「カルタラグンの命運はあの夜に尽き、そしてジュピタ皇家こそはヴィスタチヤ帝国の
正統なる長。永遠なる繁栄は等しく与えられぬものであったとしても、
ああなるより他なかったのでしょう」
同じ想いで、ゾウゲネスとリィスリは視線を見交わした。
たとえ、大勢の人間を二度と戻れぬ谷底に突き落とすものであったとしても。
別棟では、少女と男が向き合っていた。
「ロゼッタ嬢」
「ルイさま。お世話になりました」
「本心を述べれば、反対ですぞ。主治医スウール様も知れば愕かれるであろう。
嬢の怪我はまだ完治をみておらぬものを」
ロゼッタはルイへの返事の代わりに、怪我を負った側の腕を動かして見せた。
黒髪の女騎士は顔をしかめもせずに、その手で剣を剣帯にかけた。
「……やはり、お止めするべきか」
「コスモス情勢は混沌の只中。コスモス赴任中のわが兄カウザンケントからも
早々の退去を促されております。ここはレイズン邸。もとよりサザンカの人間が
居るべきところではありません」
「それを承知で、ジレオン殿は怪我人である嬢を引き受け、騎士の礼節をもって
気兼ねなくと」
「どのみち怪我が軽くなったら、お暇しようと決めていました。本当は
リィスリ様をこちらでお守りしたかったのですが、そのリィスリ様のたっての願いとあらば、
それに従わざるを得ません」
「しかし、急なことでもあり。やはり案じられるところ」
「ルイさま。ルイさまとリィスリ様が、相談して決めて下さったのではありませんか」
ロゼッタは手袋をつけた。
口を使って手首の留め具をはめる。
「皇帝陛下のおしのびに乗じて、お二方がこの屋敷からひそかに私を外に
出してくれようというそのお心、ロゼッタ、生涯忘れません」
ご恩は忘れません。
ロゼッタは独りごちた。
役に立つような顔をして、全力で人を引きずり落とすことが目的の干渉がましい
人間がいる一方で、信頼や友情といった安っぽいものに頼らずとも、こうして静かに、
無言の情愛を寄せてくれる方々もいる。
人の賢さや品位とは、これほどに、残酷なまでの差を生むものだ。
リィスリ様もルイさまも、彼らはただ、研ぎ澄まされた眼で物事をみるだけなのだ。
他人を踏み台にして自分が目立つことばかりを考えているような人間とは違い、
実を積んできた方々こそは、人を尊重することを知り、これほどまでによい運気と勇気をくれる。
まっすぐに立つと、黒髪の女騎士はルイを見上げた。
「ルイさま、私は嬉しい」
「……」
「私は騎士。こうして、ふたたび剣が持てて、心が甦ってくる気分です。
お役に立ってみせます。見送り不要。では、これにて」
「気をつけられよ。無事の脱出を」
「イオウ家の騎士ロゼッタ」
その前に立ちふさがったのは、ジレオンの小姓のアヤメであった。
吹き抜けの寂れた廊下には他に誰もいなかった。
片耳につけた金環を揺らし、アヤメは片手に持った剣を軽く振り回した。
アヤメはゆっくりと進み出た。
「ロゼッタさん。病室に戻って欲しいけど、貴女はきっとそうしない」
「アヤメ」
アヤメは笑顔をみせた。
「国許からの帰宅命令には絶対服従というわけですか。それとも、他に理由があるの。
皇帝の警固で反対側の棟に人員が集中している間に、使われていない厨の門から
外に出ようとは、なかなかよく調べたね。
それでも、僕はジレオン様に仕える身としてそれを阻止しないと。
手紙を書くところを見ていたら両利きのようだけど、双剣の遣い手というほどでも
ないんでしょ。知りませんよ、せっかくそこまで治った肩が、今度こそ壊れても」
廊下の向こうからたっと地を蹴ったロゼッタの影は、赤刃の閃きを引いていた。
空に孤を描く鳥のような素早さで、アヤメも鞘から剣を抜く。
「失礼」
「無茶をして、剣を持つのも辛いだろうに!」
傍目には、少年の胸に少女が飛び込んで、しっかりと抱きついたように見えた。
金属が絡まる音が立ち、二人の息が交わり、互いの頬が触れた。
アヤメはロゼッタの頭を抱え寄せた。ロゼッタはアヤメの胸に顔を埋め、眼を見開いた。
地に落ちた剣は、白かった。
「アヤメ」
「いいんじゃない。行きなよ。僕は貴女を止めない」
「アヤメ。どうして剣を手放した」
「男がいるんじゃしょうがない」
「男」
「うわ言で、彼の名前を呼んでたよ」
「……」
「当たりか。そうかなと思っただけ。そんな顔をしてたから」
ロゼッタはアヤメを近くの柱に凭せ掛け、アヤメの剣をその足許にすべらせた。
少女が駆け去った後、ルイ・グレダンが現れた。
ルイは少年に肩をかした。少年は素直にそれにつかまった。
巨体の男と細身の少年が並んだ様は、大人と子供のようだった。
「せっかくだから貴方も彼女と一緒に行かれたらよかったのに。ルイ・グレダン」
アヤメは自嘲して、ルイを仰いだ。
「皇帝に警備が集中している今が機会ですよ」
「わしは、リィスリ様をお守りするために付いて来たのでな」
男たちはしばらくそこに立ち止まり、耳を澄ました。
特に騒ぎが聴こえてこぬところをみると、無事に厨の門から外に出たのだろう。
一方方向にだけ細く飛び散った血を廊下の床に眺めて、ルイは嘆息した。
「ロゼッタ嬢。怪我をした方の手をつかったとは」
「位騎士のふるう刃は、いかづちが飛んでくるほどの威力があると申しますが、まさにそのとおり。
夢にまで出てきそうな赤光の一撃。スウール様の施術の見事さを恨むべきでしょうか」
「ジレオン殿秘蔵っ子のそなたならば、怪我人をここで食い止め、その脱出を抑えられるだけの
力量はあったはず。さればこそ、ジレオン殿はそなたを都に残したものを。何故、手加減を」
「手加減など」
心外といった顔で、アヤメは手をあげた。指先まで血が伝っていた。
「気合負けです。彼女の眼を見た時に、もう負けていた。斬られて本望です」
「己を知る者こそが強い。アヤメ殿は偉い」
「騎士ロゼッタは死地をくぐったことがあるのでしょうか。あの人にあの怪我を
負わせた相手がそれでしょうか。だとしたら、少し妬けるな」
「あの娘は、いい眼をしておった」
「ええ。まことに」
女騎士と闘い、接近で剣を交わした後は、勝っても負けても、熱いものが身の奥にみなぎる。
それが、あんな純真な女が相手ならば、なおさらだ。
(男がいたのか)
アヤメは吐息をついて、眼を閉じた。いいものを見た。
暗い暗い闇の中でも、いつも迷いなく、何かを見つめている。
一度決めた道を、ひたすら進むばかりの不純を知らぬ愚か者。
彼女は、騎士の眸をしていた。
「第四部・完]
Copyright(c) 2008 Yukino Shiozaki all rights reserved.