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[ビスカリアの星]■八一.


甘党だな。
卓上に並べられた皿から皿へ、しばし、ユスタスの眼はさまよった。
目移りしているのではなく、閉口しているのである。ここは菓子屋か。
 「甘いものはお嫌いでしたか」
 「え、うん。そんなこと、ないよ……」
給仕についた美人騎士に愛想わらいを返しておいて、ユスタスは仕方なく
近くの皿から、小鳥の形をした焼き菓子を手にとった。
甘いものは嫌いではない。が、好んではそう口にしない。
空腹を訴えて出てきたのが、これだったのだ。
(家でもそうだったよな。外から帰ってきたら、リリティス姉さんお手製の
 焼き菓子が待ってたっけ。あれには、かえって喉が乾いたよ)
女騎士と眼が合った。
 「美味しいよ」
 「まあ」
ぱあっと女騎士は笑顔になった。もともとが美人なので、眼も眩むほどの
美女ぶり、ユスタスもつり込まれるようにして笑顔になってしまう。
ビナスティは、それを満足と受け取った。
 「まだまだあるのですわ。全てお召し上がりになって。コスモスは小麦と
  水がいいので、お菓子が美味しくできますの」
 「これ、貴女が焼いたの」
 「ええ、わたくしと、それからルルドピアス姫さまもお手伝い下さいました。
  こちらの、赤い実ののった可愛らしいものが姫さまの作ですわ」
次から次へと甘味をユスタスの前に並べる女は、おもむろに細剣を取り出すと、
色っぽい顔で皿と菓子の厚みをはかったと見るや否や、すすっと菓子を
一瞬で見事な八等分にしてしまう。それはどう見てもお菓子を切るには
ふさわしからぬ剣の妙技で、
 (おいおい)
ユスタスは噴きそうになった茶を辛うじて呑み込んだ。
迷い込んだお菓子の国から窓の外にユスタスは意識を逸らした。林の中に
思いがけず途中で同行になった、連れの騎士を待たせているのである。
 「ご馳走さま」
 「お菓子はお嫌いですか」
ほそい声でユスタスに訊ねたのは、ビナスティではなく、対面の席にいる
ルルドピアス姫であった。
さっきから潤んだ眼でじっとユスタスを見つめていたルルドピアスは、席を外し
かけていたユスタスを、うるっと仰いだ。
 「ユスタスのお兄さま」
 「ああ、そうだね、ごめん忘れてた。赤い実がのったのが君のだっけ」
ユスタスはそれを口に入れて大急ぎで咀嚼した。
ルルドピアスはますますユスタスを見つめる。
 「お口に合いませんか」
何でもない科白であるが、ルルドピアスがそれを云うと、「私のこと嫌いなの?」と
小さな女の子が頼りなく云っているようにきこえる。
ユスタスは首を横に振った。振りすぎて、喉に菓子が詰まった。
外で待っていた騎士は、農家から出てきたユスタスの姿を見ると木陰から
立ち上がった。
 「ユスタス様。如何でしたか」
 「これ」
 「何ですか、これは」
 「お土産のお菓子。ビナスティ・コートクレール嬢のお手製」
 「ルルドピアス姫はご無事で」
 「うん。元気だった」
というより、相変わらず夢の中の子だった。
農家からはこちらが見えないことを確認して、ユスタスは遠慮なく
草地に転がった。女の子女の子した世界を見せられると、毎度ながら、
どうしてこんなに疲れてしまうのだろう。
 「ビナスティのお手製。では、ありがたくいただきます」
 「甘さ控えめで、なのに甘くて、美味しかったよ。食べなよグラナン」
菓子の包みを押し抱いた人物。それは、先日オーガススィから放擲された
ジュシュベンダのグラナン・バラスであった。

国外退去を受けてオーガススィを出たグラナンの足取りからまず辿ろう。
当初、グラナンはそのまま真直ぐにコスモスに入り、郊外のジュシュベンダ陣に
向かうつもりであったところ、途中でジュシュベンダの間諜とすれ違った。
その者の口から、パトロベリ王子がどういう風の吹き回しか、イルタル・アルバレスの
代理として目下現地陣の采配をふるっていることを知らされたグラナンは、馬の
手綱を引いて立ち止まり、少々考えなければならなかった。
 (これは困った。パトロベリ様はああ見えて情と友誼に篤い方だから、
 シュディリス様をひとり異郷に残して帰ってきたと知ったら、動揺必須。
 オーガススィに救助隊でも派遣しかねない)
水の流れの方へと向かい、手近な木に馬を繋いで、グラナンは顔を洗った。
 (では、いっそトレスピアノに向かい、フラワン荘園のカシニさまにご子息の
  無事をお知らせしようか。エチパセ・パヴェ・レイズンに騙されて送られた
  ナナセラの砦城においてシュディリス様はカシニ様に手紙を出されていたが、
  それだけではとても足りず、ご心配であろうから。
  シュディリス様に付き従っていた身としては、ご安否をお伝えする義務がある)
 「ジュシュベンダの人だね」
小川を前にしてグラナンが休憩がてら逡巡していると、不意に後ろから
声を掛けられた。
グラナンは剣に手をかけて振り返った。
少し癖のある茶色の髪をした、凛々しい顔の若者が立っていた。
グラナンはいつでも剣を抜ける間合いをとったが、若者は平然として、散策の
途中ででもあるかのように、両手を下げたままにしている。
 「何用でしょう」
 「剣を下ろしてもらえませんか」
 「何故、ジュシュベンダと」
 「その剣柄に刻まれたジュシュベンダ軍の徽章を見たら、貴方が誰だか、
  誰にでも分かるよ。差し支えなければ、貴方の馬を僕に譲って欲しいのですが」
 「馬を」
 「僕の馬、眼を離した隙に、そこの道で地元の人たちが仕掛けた獣用の
  罠にはまって転倒してしまったのです。脚が折れていたから、可哀想だけど
  ねむらせた。可哀想なことをしてしまった」
 「それは、お気の毒に」
 「金子なら多少は用意できます。馬を譲ってもらえませんか」
押し出しのよさ、その物腰、上品な言葉の抑揚。グラナンはもと、間諜候補である。
若者の流暢な帝国共通語に混じる、ごく僅かな癖も聴き分けた。
 (北部、中部の人間ではない。上層の出。ここに近づくまで、まったく気配を
  感じさせなかった。誰だ、この騎士は)
休憩していた水辺からグラナンは立ち上がった。近くに繋いだ馬がいななく。
 「生憎です。この馬はわたしにとっても必要なもの。事情によっては考えますが、
  名も知らぬ方に譲れるものは持ち合わせてはおりません」
 「名ね」
いい加減うんざり、といった表情で、若者は顔をそむけてしまった。
その不遜な様子、相手が年上の者だろうと誰であろうと、人を従え慣れて
いるらしい物怖じしない態度に、グラナンは興味を惹かれた。
名乗りたくないとは、これまた、理由ありのようである。
 「人に名を尋ねる前に、自分から名乗るべきでした。お察しのとおり、わたしは
  ジュシュベンダの騎士。名をグラナン・バラスと申します」
 「何だって」
続いて起こった若者の変化は、目覚ましいものであった。グラナンに飛びつく
ようにして、彼は声を張り上げた。
 「ジュシュベンダのグラナン・バラスだって!」
 「左様ですが」
 「ではもしや貴方の弟に、僧籍に入られたトバフィルという人がいませんか」
今度は、グラナンの方が愕く番であった。
僧籍に入ったトバフィルは、確かに、彼の実弟である。
 「僕、トレスピアノの、ユスタス・フラワンです」
顔をかがやかせて、若者はグラナンに手を差し伸べた。
 「トバフィルさんは家に遊びに来たことがあります。彼の兄さんにこのような
  ところでお逢いできるとは」
 「家とは……」
 「トレスピアノはフラワン荘園。俗世においでの頃のトバフィルさんは、僕の
  兄のシュディリスと親友であった方。今でもそれは変わりなく、折々に文通を」
茫然としているグラナンの顔を見つめて、少年はその眼元をほころばせた。
グラナン、ともはや隠すこともなく、ユスタスは何ともいえぬ貴人らしい態度で
彼に呼びかけた。
 「貴方はグラナン・バラスですか。本当に。兄シュディリス・フラワンの供をして
  オーガススィにいると僕は聴いていたけれど。鼻の形がトバフィルさんと
  そっくりだね」
 「これはまことに」
グラナンは地に膝をつき、若者が差し出した手をおし抱いた。
 「貴きフラワン家のご次男、ユスタス様……!」
 「此処であったのも何かの縁。悪いけどグラナン、急ぐ用がなければ付き合ってよ」
そして彼らは一路、クローバ・コスモスの潜伏している邑を目指したのであった。

 草地に転がったまま、ユスタスは頭上の梢を見上げた。
ワーンダンとインカタビアは何度も、「フラワン家の貴方さまならば、容易にクローバ
殿の許にまで通してくれるはず」と請合っていたが、周到にもクローバがあちこちに
偽の情報を流し、影武者を立てていた為に、本物が潜伏している邑へ辿りつくのは
手間だった。
 「クローバさんの出立には間に合わなかったな」
 「しかし、ルルドピアス姫がクローバ・コスモスに誘拐された
  事実確認だけは、これで取れましたね」
フラワン家の者だと最初から名乗ったほうが話が早いと覚悟はしていたのだが、
クローバが泊まっている農家を見つけ、その周囲を警固しているコスモス兵に
それを告げる前に、美女が飛び出して来て、あっという間にユスタスは農家の
中に通されたのだった。
それについては、元間諜候補のグラナンは己の不見識を悔しそうに恥じた。
 「騎士ビナスティはユスタス様のことを、ひと眼でユスタス・フラワン様だと
  見分けられたのですね」
 「いや初対面。だけどビナスティは、僕が来ることを知っていたみたいだった。
  ルルド姫が事前に教えてくれていたそうだよ」
 「やがて訪れるであろう若い騎士は、初代皇妃オフィリア・フラワンに
  繋がる方だと、お姫さまからお聞きしておりましたの」
ビナスティは感激の面持ちで、ユスタスの両手を取らんばかりにして
家の中に引き入れた。
 「グラナン・バラスもご一緒なのですか。申し訳ありませんが、騎士グラナンには
  遠慮していただかなくてはなりませんわ。彼はジュシュベンダ騎士ですから、
  彼を通してしまうと、わが君がジュシュベンダと結託しているかのような
  諸国の誤解を招きますもの」
 「ハイロウリーンに移送される途上のオーガススィの姫を略奪しておいて、
  諸国の誤解も何もないだろうに」
 「本当ですわねえ」
ユスタスにお茶を差し出しながら、ビナスティはおっとりと同意した。
そこへ、二階からルルドピアス姫がおりてきた。ユスタスは椅子から立ち上がった。
本当に心配していたのだ。
 「ユスタス様」
抱擁とまではいかずとも、ユスタスはルルドピアスの無事な姿に、心から安堵した。
しかし、ユスタスはそのままそこで固まった。何だろう、彼女、雰囲気が変わった。
 「レーレローザとブルーティアのあの二人も、とても心配していたよ。
  ワーンダンとインカタビアの両名から頼まれて、君の様子を見に来たんだ」
 「私は大丈夫です」
微笑むルルドピアスは、しかし、ユスタスが知っているところの、いつもの
ルルドピアス姫であった。
ユスタス様がおいでになることも、分かっていましたから、と。

起き上がって、ユスタスは草に腰をおろした。白や黄色の花々が咲き乱れる
小川のほとりは、深い緑に包まれて、妖精のふるさとのようである。
 「実のところ、クローバさんに逢えなくて、ほっとしてるけれどね。
  何といっても、僕が介入するのはまずいよ。フラワン家の
  人間は本来、他国間の使者に立つことも許されてはいないんだから」
ユスタスは隣にいるグラナンにおもむろに訊いた。
 「どうしようか」
 「どうしようかと仰られましても」
 「ルルド姫が無事でいることだけは分かったんだし、陣に戻ろうか」
 「ハイロウリーン陣に?」
 「ルビリアのいる第一陣でも、インカタビアとブルーティアのいる第二陣でも」
 「申し上げてよろしければ、トレスピアノにお帰りになるのが一番です」
グラナンはきっぱりと云った。
 「幾ら偽名を名乗られていようと、見る者がみれば分かります。ユスタス様だと
  知れたら、それこそ各国はこうとらえるでしょう。ハイロウリーン側に
  フラワン家がついたと」
 「このまま見捨ててはおれないよ」
 「誰をです?」
 「もちろんルルドピアス姫。かといって強引に連れて帰るわけにもいかないし。
  そうだ、グラナン、君がジュシュベンダ騎士の身分を離れ、一介の
  騎士として騎士道精神を発奮の上、お姫さまをオーガススィに
  送り届けるなんてどうだろう。伝説になるよきっと」
 「そんな無茶な」
 「無理だよね。コスモス兵もけっこう分厚く国境を囲んでいることだしね」
ユスタスは肩を落とした。
 「----このままでも、宜しいのでは」
やわらかな風が吹いていた。典型的なコスモスの田舎、牧歌的な風景である。
農家の窓辺に、ちらりとビナスティの姿が見えた。
花咲く木々に囲まれたその顔は、遠目にも、心を鷲掴みにされるほどである。
 (ついに、クローバ様の許に嫁がれてしまったのか)
全ジュシュベンダ騎士の、憧れの的。
遣る瀬無いまなざしを窓辺のその影にそそいで、グラナンは農家から視線を
逸らし、頭上の木から風に流れ落ちてきた花びらを肩からはらった。
 「申し上げてよろしければ」
 「無礼講だよ。何でも云って」
 「ルルドピアス姫はお国許ではあまりお倖せではなかったご様子。
  無理にお国に戻すことは、かえってご不幸なのではと」
 「実際、どうだったのさ」
ユスタスも膝から花びらを払った。
 「家出するくらいなのだから、かなり深刻な事情があったんだろうけど」
 「そうですね。ルルドピアス様は、あのままではお辛かったでしょうね」
何しろ、ルルドピアスの前には常にスイレン夫人という人物が横合いから
割り込んで立ちふさがっており、聴こえてくるのは本人の声ではなく、スイレン
夫人の弁ばかり、爆音か狂音にまでも音量を最大にして、夫人の口から
ルルドピアスの知り合いの耳に片っ端から吹き込んでいるところの偏見こそが、
オーガススィにおける、ルルドピアスの姿だったのだ。
『ルルドピアスは痛々しくて、可哀想な子なのです』『劣っている子なのです』
『わたくしはルルドピアスに嫌われておりますの。無視されておりますの。
何というか、人の親切が分からない冷え切った心の持ち主というか、もう打つ手が
ないのです。だからどうぞ皆さんで、劣っている痛々しいあの姫にいろいろと
教えてあげて下さいね』
 「親切にしてあげた自分がルルドピアスに嫌われた。そればかりを夫人は
  主張しておられました。お蔭でルルドピアス姫の評判は落ちるところまで
  落とされておりましたね。すっかりいい見世物に」
 「見世物?」
 「教えて下さるのですよ、スイレン夫人がいろいろと。ルルドピアスを見守る会の
  会長なのだそうです。ルルドピアスについて討議し、監督する会。
  会におけるスイレン夫人の口癖は、『ルルドピアスの努力が報われますように』
  だそうです」
 「あはは。なんだそれ。ひどいね。ルルドピアス姫って努力が報われない子なんだ。
  少なくともそう聴かされたら、僕はそういう眼で彼女をみるよ。どれほど人知れず
  あの子が健気な努力をしていようとね」
笑いながらユスタスはぞっとした。
そのたったひと言で、一瞬にして人の努力をすべて無効なものに見せかける
ことができる。いかなる嫉妬と悪意が底にあれば、そんな醜悪きわまりない、
驕り高ぶった集会になるのだろう。
 「そういったことは全てルルドピアス姫ひとりの肩に過負担となって
  押し寄せていたはずです。「親切にしてあげたいだけ」とは聴こえがいいものの、
  本当にルルドピアス姫のことを思いやり、考えてやれる人間であれば
  まずやらないようなことばかり。努力が報われないで欲しい、決して成功しないで
  欲しい、その願いがなければ、そこまで過干渉するでしょうか。
  何故そこまでしてこの方は、故意に極端な『負の印象』をルルドピアス様の上に
  おし被せて、それを云い触らしておられるのか。答えは一つです。
  聴いているだけで、わたしは不愉快でした」
グラナンは回想するだに、けたたましかったスイレン夫人の声が頭痛となって
甦ってくるような気がして、顔をしかめた。
 「どこでそれが分かったかと云われましても」
グラナンは首をひねった。
 「スイレン夫人の言動をみるにつけ、信じるに足る聡明な方だとは
  わたしが思わなかっただけです。『あの姫はやつあたりをするような姫なのです』
  ひたすらにルルドピアスを傷つけ、傷つけることで自分に脚光を集めておられる
  方に対して、好ましい感情は抱かぬというだけです」
ユスタスはグラナン・バラスを見直した。
ブルーティアから少しだけオーガススィ家の内情を聴いていた
こともあり、グラナンの談は真に迫った。
 「すごいね。普通の人はスイレン夫人から聞かされたまんま、吹き込まれた
  その偏見を信じてしまうだろうに」
 「注意して聴いていると、巧妙にルルドピアス姫さまを中傷しておられるものですから」
グラナンは生真面目に云い添えた。
 「どれもこれも結果的にはルルドピアス様の未来の可能性を断ち切り、
  人間関係を片端から壊し、障害の暗い影を差すようなことばかり。
  誰かを見世物にすることで意気揚々と主役の座に躍り出ている夫人の熱弁を
  聴き、一方的なその話を拝聴していると、ルルドピアス姫への印象がひどく偏り、
  孤立に押しやられていることに気がつくのです」
 「さすが、疑ってかかるのが仕事の、もと間諜候補」
 「お褒めにあずかり」
 「でも僕にはどうでもいい。ルルドピアス姫のことが好きだから。で、これから
  どうしようか」
 「そう仰られましても」
 「この邑にいようかな。ルルド姫の護衛騎士がビナスティだけじゃ、ちょっと不安だし。
  もともと、ハイロウリーン軍には成り行きで居たんだ。何の義理もないからね」
ルビリアのことも気になるが、御大将フィブラン・ベンダが到着されたなら、あちらも
一応は大丈夫だろう。
(君も近くにはいないし。ロゼッタ)
ユスタスは木の幹にもたれて、瞼を閉じた。
それにしても、なんだ、そのスイレン・オーガススィというご婦人は。
他人を尊重することを何よりも重んじていたうちの母さんとは随分と違うんだな。
 「ユスタス様?」
 「コスモス兵の動きに、異常はないよね」
 「はい。特に」
なんだろう、いまの。
眉を寄せ、ユスタスは青い草波の向こうに眼を凝らした。
なんだろう、兄さんも、姉さんも、これを聴いただろうか。
 「グラナン。コスモス城はどっち」
 「あちらの方角です。どうされました」
 「なんでもない」
それはとうに過ぎた、トレスピアノでのあの日のことなのに。
峡谷の底の闘い。剣戟のこだま。輿の中から聴こえた、巫女の声。
どうして今頃になって、また想い出すのだろう。

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スイレン・オーガススィは、手紙を握り締めて、咽び泣いていた。
夫の小トスカイオ、イクファイファ王子ともにコスモスに発ち、多くの男衆が
不在の城中であるから、その嘆きぶりも誰憚ることない、見苦しいほどに
手放しなものであった。
 「客人のシュディリス様の前ならば、スイレン様もさほどごねたり、
  錯乱したりはされますまい」
女官たちは示し合わせて逃げてしまい、連れて来られたシュディリスは
スイレンと二人きりで、夫人部屋に残された。
シュディリスはスイレンの悲嘆のもとである手紙をとりあえずは受け取った。
 「ご無事で良かった」
 「無事」
はらはらとスイレンは涙を零しながら、長椅子に大仰に身を伏せた。
イクファイファ王子経由でレーレローザとブルーティアの両名の直筆の手紙も
こうして届いたというのに、よくもまだ、騒ぐことがあるものだ。
ハイロウリーンの第一陣と第二陣にオーガススィの姫君が振り分けられて
留めおかれているというのは忌々しき事態には違いないものの、もとより
二人の姫は、ハイロウリーンに嫁ぐ予定だったのである。
早目に嫁にいったと思えば、と云いかけたが、それもこの場合嘆いている
母親には不適切であるとシュディリスは口にするのを止めた。かといって
他に掛ける言葉も見つからない。
手紙の文面は、姉妹、申し合わせたかのように、ほぼ同じである。
丁重にもてなされていること。
オーガススィ王家の人間として恥ずかしくないようにつとめること。
 「皆さんお元気で。-----これだけ。これだけですわ」
スイレンは嗚咽した。
 「きっと他にも云いたいことがあるのに、あの子たちはそれを書くことを
  許されなかったのですわ。誰にも云えぬほど辛いことがあるのなら、手紙に
  書いてもいいのよ、いつもわたくしがその許可を与えてあげていたというのに!」
 「手紙からは、姫君たちのつつがない様子しか」
 「イクファイファ王子によれば、ブルーティアは第二陣で怪我人の世話を
  させられていたそうですわ」
母親の嘆きはいっそうすごいものになった。
 「何ということでしょう、オーガススィの姫がハイロウリーンのやつばらごときの為に、
  そのむくつけき汚いはだかを見せられて、奴隷のようにこき使われるとは」
 「ブルーティア姫は、自らそうされているのです」
 「いいえいいえ無理強いされたに決まってる。ご想像になって、嫁入り前の
  いとけない娘が男どもの天幕の中に投げ入れられて、赤の他人の男たちの
  手当てをさせられているのですわ。その毛むくじゃらな身体を拭かされて
  いるのですわ。そのような厭わしい汚れ作業、どうして年頃の娘が喜んで
  するでしょう。しかもブルーティアはただの娘ではありません、わたくしの
  生んだオーガススィの二の姫です。ハイロウリーンのこの心ない非道、
  どうしてこのまま捨ておけましょう」
 「お言葉ながら。トレスピアノにおいても、母と妹は救護院を見舞うのを
  領主家の義務としており、看護人のようなことも」
 「トレスピアノのような田舎とはわけが違いますわ!」
失礼である。
しかし、スイレンは己の言葉の結果を吟味するようなゆとりもなく、感情のままに
たて続けに続けた。
 「まるで娼婦がごとき扱い、王族に対するこの侮辱屈辱、オーガススィは
  決して忘れません。ハイロウリーンはこれにて、聖騎士国としての名誉を失い、
  婦女子を粗略に扱って恥じぬ野蛮な盗賊ふぜいに成り下がったということです。
  それにブルティだけではないのですわ、あの子、レーレまでも」
 「あまり大きな声をお出しになってはお疲れに」
辟易しているシュディリスなど眼中にない。
ひたすらにスイレンは、騒ぎ立てている自分の悲嘆に酔っていた。
 「レーレローザ、第一陣に捕えられたあの子にいたっては、おぞましいことに
  ハイロウリーンの王子の慰みものになっているとか……!」
 「まさか」
 「本当ですのよ、ハイロウリーンの末っ子王子、くちばしの黄色い若造が、
  一の姫レーレローザをおのれの天幕に泊まらせて同衾させているのだと。
  イクファイファ王子からの手紙にはそう書いてありました。王族古語で
  書かれてありますが、宜しければお読み下さって結構です」
シュディリスは二人の姫からの手紙に添えられたイクファイファ王子の
手紙を卓上からいそいで取り上げた。

ハイロウリーンと交渉し、いそぎ姫たちの安否だけでも確認したいという
オーガススィからの申し入れはすみやかにフィブラン・ベンダに受け入れられた。
顔を見るだけの短時間という条件つきではあったが、快く、と返事がついた。
オーガススィの使者は、領主トスカタイオの末息子イクファイファ王子。
もとよりハイロウリーンとて、オーガススィと事を構える気はない。
姫君たちを陣に迎えたままでいるのも、オーガススィの周辺にヴィスタル=
ヒスイ党の影があり、両者癒着の疑いが晴れるまでの暫定的な措置である。
フィブランはそこを特に強調した文書を寄越していた。
 「イクファイファ兄さま」
 「ブルーティア」
イクファイファはブルーティアの髪が短くなっていることに、まず愕いた。
 「その髪はどうした、ブルティ」
 「自分で切ったのです。レーレもお揃いです。イク兄さま、お兄さまの
  お友達の騎士ガードはまだ重態で動かせる状態でなく、連れては
  来れませんでした。でも私が看病していますからご心配なく。彼まで
  巻き込んでしまって、ごめんなさい。そしてルルドピアスのことも」
 「僕は怒ってないよ、ブルティ。お前が無事で良かった」 
 「お初に御目にかかります。インカタビア・ベンダ・ハイロウリーンです」
三男ワーンダンに代わり、第二陣を指揮する五男インカタビア王子は、自ら
ブルーティアに付き添って、指定の街道辻でイクファイファを出迎えた。
イクファイファがむっとしたことに、インカタビアはブルーティアの側から
一歩も離れず、それだけでなくブルーティアの肩に手を添えたまま、
 「ブルーティア姫がご無事であることは、これでご確認いただけたと思います。
  姫には怪我人の手当てにもお力添えをいただき、まことに感謝しております。
  大切に陣中にお預かりしております。北方三国に栄えあれ。では」
かなり手短に面会を切り上げてしまい、ブルーティアを促して、護衛ともども、
さっさとブルーティアを連れて引き上げてしまった。
 「彼と親しそうなのを見て、嫉妬した」
 「イク兄さまは、本当のお兄さまのようなもの。インカタビア、貴方とは違います」
帰り道、インカタビアはブルーティアの打ち解けた笑顔をはじめて見た。

第一陣に振り分けられたレーレローザには、さらに愕かされた。
こちらも陣の中にまでは入ること叶わず、街道沿いの旅籠が
面会の場にあてられた。
 「イク兄さま」
馬を急がせてはるばる訪れたイクファイファに、レーレローザは抱きついた。
 「イク兄さま。私、ワリシー王子と婚約しました」
 「なにっ」
昨日の今日でか。
 「天幕も一緒なの。この意味を分かって」
どことなく開き直った風で、レーレローザはいつものごとく、何もかもを一気に
ぶちまけた。
イクファイファは血の気がひいた。その手が剣に伸びる。
 「もしやレーレローザ、お前、ワリシダラム王子に無理矢理なことでも」
 「いいえ」
レーレローザは頬をゆるめて、ばつが悪そうに横を向いてしまった。
どうやら、合意の上のようである。
イクファイファは怒りがこみ上げてきた。もとからレーレローザは軽率だと
思っていたが、ここまで自分本位な、愚かな娘だとは思わなかった。
いったい、いまがどういう状況か分かっているのだろうか。
勝手に家出をした挙句、そのつけは全てルルドピアスに払わせて、己だけは
他国の軍中で男と遊んでいるのだ。
 「レーレローザ」
イクファイファの声は厳しかった。
 「どれほど、お前のお祖父さまや父上に心配をかけたと思ってる」
 「レーレローザ姫を責めずに。イクファイファ王子」
旅籠の居間の扉がその時、開かれた。
イクファイファ王子がそちらへ眼を向けると、武人らしい無駄のない所作で
イクファイファに笑顔向ける貴人がいる。
ゆったりと構え、居ながらにして、人々を敬服さしめる器量を漂わせたその男。
 「イクファイファ王子。すっかり大人になられた。この前お逢いしたのは
  王子が都の学問所に留学される前だったかな」
 「これは、フィブラン様。お久しぶりです」
フィブランは相手が息子ほどの年の者であっても、決して軽んじた態度は
とらぬ男であり、そしてイクファイファも、残念ながら騎士としての竜の血は
薄かったものの、相手が位騎士であろうと、大将であろうと、臆したりは
しない男であった。
彼らは握手を交わした。
 「レーレローザがどうもたいへんにお世話になっているようで」
 「お気楽に。未来の嫁御と思い、大切にあずかっているよ。イクファイファ王子、
  こちらが、うちの末王子だ」
 「はじめまして」
父親の後ろから前に出てきたのは、イクファイファから見れば、まだほんの
少年の、小生意気そうな若い王子であった。
「ワリシダラムです」
 (レーレローザの奴、こんな小童と!)
心配そうに、後ろからレーレローザがイクファイファの袖を引いた。
 「私が悪いのよ。怒らないで、イク兄さま」
 「何で彼が怒るのさ」
ワリシダラムは、その生意気な印象のまま、ついと横を向いてしまった。
彼はレーレローザの口からたっぷりとイクファイファ王子については
聞かされており、妹ルルドピアスのお守りをレーレローザとブルーティアの
二人に押し付けて、本人は女衆の顔色を窺ってばかりいる腰抜け兄貴
としてしか思っていなかった。
(男だろ。あんたがびしっと決めてたら、ルルドピアス姫だって
離宮に下がらなくてよかったはずだ。僕ならそうしたね)
 「悪いことは何もしてないよ。見合いして、許婚になって、順調じゃない。
  ハイロウリーンとオーガススィの婚姻は、もともと用意された筋書きだろ。
  むしろこの人は祝ってくれるべきだよ」
 「これこれ、ちびのワリシー。お前が照れくさいのは分かるがな」
 「実の父でも兄でもないくせに、これ以上、僕たちのことに口を出さないで
  欲しいだけだよ」
挑発的に、ワリシダラムはイクファイファの前でレーレローザを引き寄せた。
 「オーガススィは過保護だね。遠路ご苦労さまでした」
喧嘩売ってんのか。


読み終えたイクファイファ王子の手紙をシュディリスは丸めて戻した。
奥方がさほどに嘆く要素など、どこにも見受けられない。
繰言を止めぬスイレン夫人の嗚咽する背中を見ながら、シュディリスは
暗澹たる気持ちになった。
イクファイファ王子の手紙は、王族にしか解読できぬ、暗号のような
オーガススィ古語で書かれてある。つまり、スイレン夫人がこれほどに
騒いで方々に訴えなければ、だれも何が起こったかなど、知りようもないのである。
その手紙を安易によそ者であるシュディリスに見せただけでなく、しかも極端に
偏った内容で、スイレン夫人はここがわたくしの見せ場とばかりに、ルルドピアス姫
および、自分の娘たちの評判を蹴落としながら、だからわたくしが
あれほど云ったのに、とおのれの親切が相手に拒絶されたことばかりを訴えている。

 「あの子たちが少しでもわたくしに隠し事をしていたからこうなったのです」

スイレン夫人はそれを繰り返した。
 「だから巡り巡って、あの子たちに大きな禍が降りかかることになったのです。
  悲劇です。運命です」
まるで自分は何も悪くないと、そこばかりを熱心に強調したいようであった。
悲劇や運命を姫君たち上に呼び込んだのは、他でもない、この夫人である。
その自分の愚かさを、「悲劇」や「運命」という高次なものにすり替えることで、
いっさいの責任から免れ、派手派手しい話を口にしては、一座の花形気分を
味わい、それにより充足感を得ることに酔っているスイレン夫人は、ますます
勢いづいて涙をこぼした。
 「いってみればルルドピアス姫は孤独を気取り、悲劇に酔っている人間なのです。
  大局をみているわたくしとは違い、自分の姿が見えてはいない狭い世界の
  人間なのです。あの姫から誤解されて、嫌われて。傷つくのはルルドピアスに
  親切にしてあげようとした、純粋なわたくしばかり」
泣き伏してみせた夫人は、ちらりと横目でシュディリスの顔を見た。
根回しの効果があらわれて、期待どおりの自分への降るような
同情や慰め、或いは偏見を煽って誘導したとおりの、ルルドピアス姫の
悪口や悪評判や解説がちょっとでもきけはせぬかと、愉しみにうかがって
いるかのような、そんな澄ましかえった顔であった。
こうやってスイレンは全ての目的を首尾よく果たしていた。
ルルドピアスを蹴り飛ばすことで、おのれが目立つこと、褒め称えられること、
得をすること、これこそがスイレンにとって最高に居心地のよい、満足のゆく
満ち足りた状態であった。
もう少しその場にシュディリスが残って居れば、スイレン夫人の次なる手管、
 「どれほど謝っても、おそらくルルドピアスは許してはくれないでしょう。
  それはルルドピアスの性格に問題があるからなのです」
ルルドピアスへの印象をさらに落とした上で、人々からの慰めと同情を一身に
勝ち得るというスイレンにとって嬉しい見せ場の一幕がひらくのであったが、
スイレンが顔を上げた時、そこにはもう、誰もいなかった。

 「あれは、死ぬまで自覚せぬよ」
居心地がよいという理由で入り浸っているところのイクファイファ王子の
私室にシュディリスが向かうと、そこには先客がいた。
ゆったりとした衣を着て、息子の部屋で寛いでいるのは、オーガススィ
領主トスカタイオだった。
イクファイファが自室に積上げたあらゆるがらくたを見て廻りながら、
トスカタイオは天井からぶら下がっている鳥の骨組みを指でつついて揺らした。
あれ、とはどうやらスイレン夫人のことであるらしかった。
舅であるトスカタイオは滅多なことでは嫁を悪くは云わない人物である。
その彼にしても、このところのスイレン夫人の我がもの顔ぶりには、腹に
据えかねているようであった。
 「繰り返しよるよ。人は痛い目に遭わぬと学習せぬが、元凶の過干渉者だけは
  その当然の負債からも責任からも、永久に免れよるゆえな。
  当たり前だな。彼らが人前に引き出してきて、人々の好奇や偏見を煽りながら
  背中を蹴り付けて叩き落としている『見世物』は、最初から最後まで、
  自分の話ではないのだから」
ゆらゆらと揺れる鳥の模型の影が、部屋の中に飛んでいた。
骨組みは、鳥が滑空する時の、翼を広げたかたちになっていた。
 「二重三重に人に実害を与えながら、自分だけは労せずして得をする。
  そんな方法で自分を目立たせ、誇ろうとしている人間の、なんと空っぽさよ。
  もとより、他人の頭の上で厚顔無恥にも騒いでおるに過ぎぬわ。損はせぬ
  代わりに、一から積上げてゆく人間が得るものには永久に縁がない。
  どちらが幸福で不幸かは、分からぬがな」
シュディリスは、トスカタイオが自分がそうしたように、イクファイファの机の上から
噛み煙草をこっそりとかすめ取るのを見た。
 「領主殿。ここでなにを」
 「息子の部屋に入ってはいかんかな?」
 「本当はご存知なのでは」
 「親だからな」
本当は部屋に入った時から気になっている。シュディリスは極力そちらを
見ないようにしているのだが、城の外に通じる隠し扉の奥からかすかに
響いてくる、この異音。
こともなげにトスカタイオは応えてのけた。
 「工事中だ。工人を入れて、海側の出口を塞いでおる」
 「……」
 「騎士の血にも恵まれず、本人も剽軽に振舞ってはおるが、いい男であろう、
  イクファイファは」
トスカイオは、雑多ながらくたをどけて、隠し扉の前の椅子に腰掛けた。

「続く]


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