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[ビスカリアの星]■八二.


 「それなら、ルルドピアス姫はオーガススィになんか、戻ることないよ」
ビナスティに借りた釣り針に魚の餌の羽虫をつけ、釣り糸を河の流れの中に
投げ込んでから、ユスタスはあまり釣りを嗜んだことがないというグラナンに
釣り竿を持たせた。
 「そのスイレンおばさんは、要するに、ルルド姫のことなんか好きじゃないんだよ。
  あの手この手で、何とかして彼女よりも上に立ちたいだけだろ。あちこちに顔を
  出すことで、影響力のある人物に見せかけたがっているだけというかさ。
  要するにさも自分の関与や功績があったかのような演出がしたいんだろうね。
  尤もらしいことを云ってるわりには、相手のことなんか実際のとこ、何一つ
  気遣っていないじゃないか。巧妙な中傷だよ」
グラナンの隣で、ユスタスも釣り糸を垂らした。
誰かのことが好きで、何かの役に立ちたいのなら、ただその人と一緒に遊んで、
笑顔でいるだろうにね。そしてそういう人にしか、本当に人の為になることは
してあげられないものなのにな。
 「裏で糸を引いたり、偏見を流したり、押しかけ恩人の真似なんかして、
  結局その人は、ルルド姫じゃなくて、そうやって大騒ぎしている自分が好きで、
  自分の美談を売り込みたいだけなんだよ。自分が注目を浴びたい。だから人を
  ちっとも尊重しない。何がなんでも不幸な人や可哀想な人を作り出すことで、
  その人はただ、その自己顕示欲そのままに、自分がお偉くみえそうなところを
  ひたすら熱心に世間に向けて訴えているだけだ。しかも自分は何ひとつ
  傷つくことなく、誰かを人前に引きずり出すことでそれを果たす最悪な人。
  ルルド姫の悪評判が何よりもそれをものがたってるよ。ずっとご自分
  主体で声を大にしているのだから、そりゃあルルド姫の姿も大幅に歪んでくる
  だろうし、夫人のことばを鵜呑みにした人たちから、ルルドピアス姫は必要以上に
  低く、悪く、面白半分な見世物として扱われていたはずだ。彼らの彼女への
  叩きようと、扱いようは、もう対人間ですらなかっただろうね。
  親切ってもっと軽くて、後に残らない、そして相手を尊重した、賢くて優しいものだよ。
  そんなにも悲劇調だったり、ひけらかしたり、人を背中から突き飛ばすような、
  上から目線なものだったりするものか。どんな大仰な偏見や負担を押し被せても、
  その苦労を背負い込まされて人から粗末に扱われるのは自分じゃない、ルルド姫だろ。
  だからいつまでたっても自分だけは痛い目に遭わないで得意でいられる。相手には
  ずっと悪い風ばかりを送っているくせに、善人の仮面をかぶってさえいれば、
  罪悪感を持つことも、人から悪く云われることも、絶対にないんだからね」
ルルドピアスを晒し者にすることで、自分が賞賛と晴れ舞台を得る。
その願望どおり、スイレンは多弁を繰り広げ、得意の根回しによりルルドピアスの
知り合いをことごとく己の味方につけるという方法でルルドピアスを叩き潰すことに
成功したが、これには手痛いしっぺ返しがついていた。
レーレローザとブルーティア、二人の娘の離心である。

 「わしは見てみぬふりをしていた。スイレンがどれほど巧妙な手口で
  ルルドピアスを貶めようとも、次代の領主夫人となる女を叱りつける
  ことは、城の乱れとなるのでな」
その間にも、領主トスカタイオの背後の隠し扉からは鉱山の採掘作業に
似た音がかすかに響いていた。半開きにしてある窓の外からも左官職人の
声がしている。地上でも工事を行うことで、地下の抜け道の工事音を
ごまかしているのだろう、何かを大々的に取り壊しているようだった。
 「イクファイファのあの性格は、まあ元からなのもあるが、ルルドピアスの気を
  引き立ててやろうとした道化がそのまま表の顔になったものであろうよ。
  それはそうと、御曹司殿は、うちの小さい姫と札遊びをされたとか」
小さい姫とは、先日のレーレローザとブルーティアの妹、騎士の札遊びが
苦手な、あの姫のことである。名を、サンシリアという。
 「あの姫の名は、わしが名をつけたのだ」
トスカタイオは好々爺的笑顔になった。いちばん小さな姫であるし、二人の
姉と比べて騎士の血が出なかった少女なので、その可愛さもひとしおなのだろう、
領主の頬はゆるんでいた。
 「サンシリア姫はすっかり御曹司殿のことが気に入って、お嫁さんになりたい
  などと云っておる」
 「シュディリス様からも、お祖父さまに頼んで。お姉さまたちをはやく
  連れ戻してって」
札遊びが終わって姫の部屋から退出しようとすると、身を投げかけるようにして、
サンシリアはシュディリスの腕にしがみついてきた。
 「そうじゃなきゃ、サンシリアも家出しちゃうから」
家出されてはかなわない。
 「姫が家出したら……」
 「したら?」
 「もう札遊びをする気がしない」
そう云うとサンシリア姫は微笑んで、「じゃあお城でいい子にしてるわ」背伸びを
してシュディリスの頬に子供らしい接吻をした。
ここで、「じゃあ貴方が探しに来て」と求めると恋の手管になるのだが、姫は
まださすがにそのあたりには疎いようで、ひたすら無邪気だった。
同じ年頃でも騎士の娘ならば早々に自我を確立して、何事においても
自主独立しているのであるが、シュディリスに懐いて手を繋いでくるサンシリアは、
いかにも愛されて育った末の姫という感じだった。
すべすべとした白い頬をサンシリアはシュディリスの手の甲にすりつけた。
 「シュディリス様も、私をおいて黙ってオーガススィから出て行ったりは
  しないでね」
生憎と、シュディリスはそのつもりであった。
しかし城の抜け道が塞がれたとなっては、そうも云っていられない。
領主がイクファイファの部屋を訪れたということは、シュディリスの脱走を
予期したということであり、工人を入れて道を塞いだということは、やはり彼を
城に留めおくつもりだということだからである。
 「意地悪をしたのではないぞ」
トスカタイオはほのかに笑った。
 「ここから通じておる道は古すぎるのだ。潮が入り込んで岩盤も緩んでおり、
  いつ崩れてもおかしくない。ためしに昔イクファイファを連れて
  通り抜けてみたが、鍾乳石が藪のごとくにそそり立ち、子供は通れても
  大人には通れなんだ。イクの奴はそのことを忘れておるのだ」
 「わたしをオーガススィから出さぬおつもりですか」
 「そのほうがよかろう」
余裕を装った態度でトスカタイオはシュディリスの顔を見つめた。
 「フラワン家のご嫡子を保護するのは、聖騎士家のつとめだ」
 「わたしは一人の騎士です」
 「リィスリの息子だ」
 「母は聖騎士家オーガススィ。父の血統を辿ればオフィリア・フラワン。
  両者の血を受け継ぐ騎士であっても、止め立てすると云われますか」
 「自分がただの騎士ではないと、そう云いたいようだな」
 「いいえ」
 「そうではないか。現にそう云うておる。残念ながら、血統などたいして意味をなさぬよ。
  イクファイファやルルドピアスには、ほとんど騎士の血は出なかったのだからな。
  ルルドピアスはともかく、男のイクファイファの奴はそれで随分と悔しい想いを
  したことだろうな。己よりもずっと身分の低い者たちが位騎士として生きているのを
  横目に見ながら、親族のレーレローザやブルーティアが闘技場で鮮やかな剣技を
  披露して喝采を浴びているのを観覧席から眺めながら、云いようのない辛さと苦さと
  虚しさを味わったことであろうな。せっかく聖騎士家に生まれながら、何故と。
  それなのに、ひねくれもせずに、イクファイファはよく我慢したものよ」
 「そんな者はどこの家にもいます」
 「そうとも。竜神の血は気まぐれだ。ルイ・グレダンのように野から出てくる
  高位騎士もおれば、イクファイファと同じく聖騎士家に生をうけながらも何ら
  騎士の血の恩恵のなかったジレオン・ヴィル・レイズンのような男もおる。
  或いは、そのまま姫君として平穏に生きるところを、途中から修羅の道に入った
  ルビリア・タンジェリンのような女もな」
 「ルルドピアス姫をルビリアのようにしたいとお望みでないのなら、至急、
  コスモスに救援部隊を派遣すべきでは」
 「ルルドな」
息をつき、トスカタイオは脚を組んだ。天井から吊るした鳥の模型が
揺れていた。
 「あの娘もまた、去るべくしてコスモスへ去ったのだ。あれはわしらなどよりも
  ずっと弱くて、そして強い。魂の器からしてつくりが違うのだ。この城では
  どこぞの夫人のような正義を振りかざす俗物が勝者であっても、ルルドピアスには
  もっと細やかなかたちでの物事の明暗が、はっきりと見えていたのであろうな。
  それは人からは憎まれもし、魅せられもするものだ。そしてルルドピアス自身に
  とっては、苦難の道であったろう」
 「他家のことゆえ今日まで黙っていましたが、あまりのなされよう。
  野に降りた姫が、お独りで、心細く迷われているとはお思いにならないのですか」
 「思わぬ」
意外にもきっぱりとトスカタイオは断言し、内情を押し殺した態度で床の一点に
眼を据えた。
 「経験に頼る者は己のものさしでしか物事を見なくなる。自分よりも上の世界が
  あるなどと夢にも思わぬままに、愚かなことを繰り返す。
  ルルドピアスにはそれを超える叡智があった。わしはあの姫が何もかもを
  引き受けた上でオーガススィを出て行ったと、そう思えてならぬ」
 「勝手な責任転換だ」
シュディリスは声を強めた。
 「ルルドピアス姫がもしもわたしの妹ならば、ただちに誘拐者クローバ・コスモスを
  匿っているコスモスに対して宣戦布告をするでしょう」
トスカタイオは顔を上げた。
 「御曹司殿。ルルドピアスのことよりも、ご自身の妹御のことは心配ではないのか」
 「リリティスのことでしたら、ご懸念には及びません」
 「ミケラン・レイズン卿の許にいるとかいないとか。間諜の口から極秘に
  聞いたような気もするが」
 「知っています」
ナナセラの砦でルイ・グレダンからきいた。苦しくシュディリスは眼を伏せた。
 「その話には触れないでいただきたい。我慢なりません。ミケラン卿がフラワンの
  家名に敬意をはらい、リリティスを丁重に保護してくれることを願うばかりです」
 「ほう」
妹想いというにはあまりにも激しい感情がそこに隠れている。オーガススィ領主の
慧眼がシュディリスにそそがれた。
幸い、トスカタイオはそれを理解及ぶ範疇で好意的に解釈した。かつての自分が妹
リィスリに対して抱いていた道ならぬものと、同じものなのだろうと。
 「ミケラン卿はクローバ・コスモスを伴ってコスモス城に入り、ソラムダリヤ
  皇太子殿下の護衛にあたられている。いかな卿でも、他国の庭でおかしな
  真似はするまいよ」
安穏を決め込んだともいえるトスカタイオの顔を、まるでミケランその人であるかの
ように睨み据え、唐突に、シュディリスは或ることを心に決めた。
巫女カリアが故意に自分を遠ざけたという懊悩が、自覚している以上に随分とながく
脚止めになっていたが、ここにきて、何かがふっきれた。開き直ったとも、迷いが
取れたとも、或いはやけになったとも、どうとでも云うがいい。
オーガススィは二重の城壁を建て構え、よそ者の出入りを厳重に調べている。
城の敷地から出て、丘を下ることすらも、正攻法では容易ではないだろう。
ならば、こちらにも考えがある。
イクファイファの私室に響く海側の工事音がシュディリスにそれを促した。
それは実に星の騎士らしい、かのシュヴァラーン・ハクラン・チェンバレンにも
匹敵する、思い切った手段だった。

  
サンシリアは庭で花を摘んでいた。
あれから女官に何度訊いても、ジュピタ皇家の皇太子とフラワン家の
御曹司のどちらが偉いのか、サンシリアにはよく分からなかった。
聖女オフィリア・フラワンがいなければヴィスタチヤ帝国もなかったのだから、
フラワン家の方が皇家よりも偉いのではないのかと思うのだが、そういう
ものでもないようだ。
城には園丁が手入れを欠かさない庭園の他にも、野原のように草花が
生えっぱなしになっている小さな隙間や空き地がたくさんあって、サンシリアは
かつてのルルドピアスがそうであったように、目立たないそういった場所に咲く
花が、整然と並んだ花壇の花よりも好きだった。
 (シュディリス様とルルド姫姉さまってとてもお似合いなのに、リィスリ様が
  フラワン家に嫁がれておられるから、リィスリ様がおいでの間はもう誰も
  オーガススィからはトレスピアノにはお嫁にはいけないなんて、残念)
その残念の中には、ほんの少し、自分のことも入っていた。サンシリアは花占いを
やってみた。願いをかけて、花弁を一枚ずつむしりとる。
 (ジュピタ家、フラワン家、ジュピタ、フラワン、ジュピタ、フラワン。
  あ、フラワン家が残った)
サンシリアはにっこり微笑んだ。
この場にイクファイファがいたら、同じ花を姫に渡して、今度はフラワン家から
一巡してむしってみてご覧と笑って云っただろう。
しかしサンシリアは明るい幸福の星が胸の中に落ちてきたような気がして、ドレス姿で
ふわりと回った。淡い色のそのドレスは、とても姫に似合っていた。
シュディリス様はお優しい方だから好き。イクファイファお兄さまみたいに
私のことを、からかったりはなさらないもの。
 「サンシリア。サンシリア何処なの」
廻廊の奥から母のスイレンの声がした。サンシリアは彫像の後ろに隠れた。
 「サンシリア。また女官から隠れて独りでいるの。何かお母さまに不満があるの。
  何か不満があるならはっきりとおっしゃいな。え、どうなのです。
  黙っていたらいい子に見えるとでも思っているの。貴女のことをこんなにも
  心配して考えてあげているお母さまに恥をかかそうというの。
  誰よりも貴女のことを見守ってあげているのはお母さまでしょう。感謝はないの、
  感謝は。まったく、だんだんとルルドピアス姫に似てきたわ。いかにも自分だけは
  正しいという顔して、あれほど指導を入れてあげても、ちっとも人に感謝しない。
  サンシリア。優しい心があなたにはないのですか、人の助言に耳を貸す素直な
  心はないのですか。なんてひねくれた、性格の悪い子なんだろう、
  わたくしの云うことをきかない、だから努力が報われない子なのでしょうね。
  サンシリア、貴女はお母さまや他人に八つ当たりをするような劣った子なのです。
  異常なところのある子なのです。お母さまが平生からそう云っているとおり、みなも
  そう云っているでしょう。貴女は可哀想な子なのです。
  この調子では、サンシリアを見守る会も作らなくては。
  サンシリアについて討議し、検討する会。これからは、問題があると決まった
  サンシリアの周辺にはすべて顔を出し、あの娘について解説し、わたくしのせい
  ではないのだと誤解を解き、あの娘の指導を頼んでおかなくては。サンシリアの
  周囲の者たちにも、あの娘に注意するようにと警告を出しておかなければね。
  何処にいるの、サンシリア、サンシリア!」

半分以上はよく聴き取れなかったが、サンシリアは顔を曇らせた。
お母さまはまたルルド姫姉さまのことを引き合いに出して悪く云ってる。
レーレローザやブルーティアはこの末妹のことを母親べったりのぼんやりさんとしか
思っていなかったが、サンシリアは姉や周りの者たちが考えているよりも、もっと
ずっと繊細な、女らしくよく気がつく心を持っていた。
それが誰の話であれ、どれほど耳障りのいい美談調であれ、スイレンが傍若無人に
誰かのことを吹聴するのを聴いていると、母の底意にあるその醜さに、サンシリアの
心はぎゅっと苦しくなってくる。
どうしてああまでして、何ひとつ何も善いことをしないご自分が最大の功労者か
苦労人のようにして、ルルド姫姉さまのことで、図々しく振舞っているのかしら。
何がなんでもルルド姫姉さまを異常者や悪人に仕立て上げることで、ご自分が
賞賛されたいみたいだわ。だって本当に人のことを思い遣れる人はあんなことを
決め付けて云ったりしないもの。
お母さまが何と云おうが私はルルドピアスお姉さまのことが好きだわ。
サンシリアはそっと彫像の裏から茂みに隠れ、身をかがめて壁伝いに母の
声から離れた。土についた手が傷み、ドレスの膝が汚れてしまったが、構わなかった。
ルルド姫姉さまは、フラワン家に嫁がれたリィスリ様そっくりだし、お優しい。
 (それにお母さまってお取り巻きが多いわりには、その分だけ、たいしたことないものね)
ようやく母の眼の届かぬところまで辿り着くと、サンシリアは摘んだ花を手に、
人のあまり通らない風吹く道へと出て行った。
そこからは海を一望できた。左右にそびえ立っている白い柱は古代の海の玄関だ。
見晴らしのよいそこから眺める海は、きらきらと青く、いまにも海賊船が現れて、漕手の
掛け声も勇ましくここまで入港してきそうだった。
 「サンシリア姫」
彼の声に、サンシリアは笑顔で振り返った。馬に乗ったシュディリスがいた。
何ひとつ怪しむことなく、集めた花を手に、サンシリアはシュディリスに駈け寄った。
 「シュディリス様」
馬が怖くて大泣きしたのをレーレローザに小莫迦にされて以来、サンシリアは
馬が嫌いであったが、乗り手がシュディリスであるせいか、今日は平気だった。
 「シュディリス様。見て、お花」
 「おいで」
シュディリスは鞍の上から手を差し伸べた。彼は微笑んでいた。手と手が触れたと
思ったら、サンシリアの脚は地から離れて、もう前鞍の上に引き上げられていた。
サンシリアはシュディリスを見上げた。嬉しくてはずむ気持ちの一方で、何となく
怖かった。
 「姫にお願いが」
耳にすごくいい声が落ちてきて、サンシリアはぽうっとなった。銀の雨のような髪が
さらりとサンシリアの頬にあたった。
 「その花束は乗馬には邪魔になる。捨てて」
サンシリアが頷く前に、シュディリスの手が優しく、しかし容赦なくサンシリアから
花束を取り上げて、道に投げ落としてしまった。ばらばらになった花はすぐに
海風に散らされた。
馬はおとなしく歩みはじめた。
 「何処に行くの?」
シュディリス様は、いつものシュディリス様だ。だけど、何となく変だ。馬は何故か、
海へと真直ぐに向かっていた。サンシリアは手綱を操るシュディリスの腕に
しがみついた。鞍の上はかなり高く、しかも揺れている。小さなサンシリアは宙に
浮いている気がした。無理強いされた結婚を嫌がってお姫さまが泣いていると、
いつもお姫さまが可愛がっていた馬が聴き届け、お姫さまを背に乗せて月光の
道を渡り、海中に沈んでゆく。そんな伝説が、オーガススィにはある。
 「何処に行くの。シュディリス様」
返事はなかった。シュディリスは海原に落ちる陽ざしを睨むようにしていた。
そこへ、「お待ちを!」凄い勢いで誰かが坂道を走ってきた。
 

 「御曹司殿が、サンシリアを人質にとっておるだと!」
 「現在、次官サイビス殿をはじめ、兵卒たちがお囲みし、説得にあたっております。
  馬からお降りいただこうにも、姫さまを連れて馬ごと海に入ってしまわれまして」
 「海に」
 「勇士が海にとび込み馬の手綱を引いて浜にお戻りいただこうとしたものの、
  シュディリス様に剣にてあえなく追い払われたよし」
 「何という無茶をするのだ。気でも狂われたか。すぐにお静めするのだ。スイレンは」
 「ちょうど医師の回診のお時間とのことで、まだお知らせしてはおりません」
 「よい。知らせるな。ただでさえ、役立たずは騒がしいのだから」
トスカタイオは寛衣のまま城の階段を駆け下りた。
 「シュディリス様!」
浜では、眉の濃い次官サイビスが、腰まで海に漬かりながら声を枯らして彼に
呼びかけていた。波の中では、厩舎の舎人を散々悩ませた伝説のひねくれ名馬が
シュディリスとサンシリア姫を乗せて、意気揚々と海の中を歩いている。
 「怖い」
サンシリアはシュディリスにしがみついて悲鳴をあげた。足先が波をかぶった。
 「戻って、シュディリス様。岸辺に戻って」
 「泳げない?」
不気味なほどに落ち着いているシュディリスの問いに、サンシリアは必死で頷いた。
内陸が基本のヴィスタチヤ帝国において泳げる姫君などこの世にそうは
いないのであるが、シュディリスは海の国の人間ならば海が平気だろうとしか、
考えてはいなかった。
が、彼は陸に引き返す代わりに、サンシリアを片腕にしっかりと抱くことでそれに応えた。
そんな程度で、幼い姫が安心できようはずもない。サンシリアはとうとう泣き出した。
 「怖い。助けて、お母さま、お祖父さま、サイビス。サンシリア溺れちゃう」
 「姫ーーーっ」
 「莫迦ばかしいぞ。これは、何という騒ぎか」
海岸に辿り着いたトスカタイオは総毛立つ思いで、海中に半ば埋もれている
孫娘の姿を凝視した。長年領主として動揺を表には見せないことには定評のあった
トスカタイオであったが、此度ばかりは、膝から崩れ落ちそうなところをようやく
踏みとどまって持ちこたえるのに、相当な気力を必要とした。
 「舟を出せ。いや、馬でもいい。はようせい。即刻御曹司殿に浜にお戻りいただくのだ」
 「それが」
サイビスが息を切らして領主に訴えた。海に入って馬を追いかけていたので
ずぶ濡れである。
 「近づくとサンシリア様ごと死ぬと云われて」
 「何だと」
かっとトスカタイオは眼を向いた。老いに差し掛かったとはいえ、彼とてもオーガススィ
騎士である。怒り心頭に達して、トスカタイオはざんぶと波間に踏み入った。
 「領主さま。濡れまする」
 「見損なったぞ、シュディリス・フラワン!」
近習を蹴散らして、トスカタイオは腰まで海に入った。馬はまだ遠くにいる。
祖父の姿を見て、サンシリアが手を伸ばして泣いた。
 「お祖父さま」
海風をはね返すほどのびんと張った声を立て、トスカタイオは指を突きつけた。
 「幼き少女を盾にとろうとは、騎士道も地に墜ちた。さほどに情けない男とは
  思わなんだ。云いたいことがあるならば戻ってきてはっきり云え、卑怯者め」
 「何とでも」
シュディリスは海から応えた。
世に開き直るとよく云うが、本当に開き直ることは人間、そう滅多にはない。
オーガススィの人々は、シュディリスの上にそれを見た。領主相手に、完全に
居直っている。
しかもその居直りときたら、何の後ろめたさもない、つけ入る隙のない、もしかしたら
こちらがあちらに対して大悪事を働いたのだろうかと人に思わせるだけの、完全
無欠な、寒々しいまでに堂々たる開き直りっぷりであった。
「何を開き直っとるかーーーッ」
シュディリスは無視した。彼はサンシリアを片腕に馬パトロベリの手綱を操ると、
さらに波をかき分けて深みへと退きはじめた。馬パトロベリは上機嫌で、海って
楽しいなぁ、そんな顔つきで追手を振り切り、沖へと向かう。
 「待て。待て、シュディリス。入水するつもりか。サンシリアを返せ」
 「お祖父さま。助けて。怖い」
 「御曹司。要求は何だ。サンシリアは泳げぬのだ。惨いことをするでない」
海と陸に完全に分かれて、彼等は対峙した。
オーガススィの騎士は体力強化の一環として、遠泳を嗜む。その彼等が
すわ姫君の危機とばかりに海に飛びこもうとしたところ、型どおりシュディリスは
サンシリアの喉許に剣をあてて見せた。実際にはその真似をしただけであったが、
遠目には、剣がぴたりと姫の喉に当たっているように見えた。
 「ひっ」
 「正気とは思えません。御曹司殿は錯乱されたのです」
次官サイビスはあくまでも、実務家であった。
 「馬を狙え」
指を鳴らすと、彼はすぐさま弓隊を用意させた。
 「御曹司殿と姫にはあてるな。よろしいか、オーガススィの兵士らよ。
  あの馬、射られれば必ずやお二方を海中に振り落とす。溺れる前に、
  お二方を海中よりお救い申し上げるのだ。準備はよいな」
 「待てい」
トスカタイオはそれを止めさせた。
 「サンシリアにあたる……わしの、可愛いサンシーに」
 「お祖父さま」
 可哀想に、サンシリアは悲鳴を上げていた。そのドレスはもはや
ずぶ濡れになっており、その小さな顔を覆うものも、涙か波か分からない。
さっきから穏やかな声が、このような状態で聴くにしては異常なほどに優しい、
静かな声が、繰り返しサンシリアを宥めていたのであるが、しがみついている
サンシリアはようやく、それに気がついた。
 「遠くへ行こう。サンシリア」
 「シュ、シュディリス様……」
遠くとは、どこ。
しゃくりあげて、サンシリアは自分を抱いているその人を怖ろしく見上げた。
寄せる波音が静まった。吹き付ける海風に、その人の髪がさあっとなびいた。
やわらかな、そして対象のことなどどうでもいいかのような、そしてその分だけ
少し遠く、淋しく感じられるその人の笑みだった。
 「レーレローザ姫とブルーティア姫のいる処へ」
 「……こ、コスモス?」
 「そう」
よくできたね、とシュディリスはサンシリアを優しく抱きかかえた。
陸を見れば、祖父をはじめ、家臣が青くなっている。どうしてこの状態で
こんなにもこの人は平然と、平静でいられるのだろう。
サンシリアは何となく自分がこの人を支えなくてはならぬのでは
ないかという気がして、胸の中がいっぱいになり、泣き止んだ。
覚悟を決めてしまった男性というものは、ふしぎと女からはいたましく、
そして心騒ぐものである。
 (そうだわ。シュディリス様は、こんなことをするような方じゃないわ)
どうして海の中になんか入ったのか分からないけれど、これしか方法が
なかったのならば、それならばその分だけ、やむ終えない仕儀に追い込まれた
彼の真情がサンシリアにも伝わってくるようだった。
姉たちならば、どうするだろうか。
レーレローザなら、
 「いいわ、さっさと行きましょう。自分たちこそ勝手放題、心ないことを蔭でやったり
  云ったりしているくせに、何一つ悪いことはしたことないなんて顔をしている
  陰険で陰湿なあんな人たちに構ってやることなんかないわ」
ブルーティアなら、
 「覚悟を決めた人に対して何を云っても無駄だから。ここはこの人の思うように
  させて、出方に応じて、後で対処を考えましょう。肝心なのは命があること。
  下手な動きをするよりは、一体何をするつもりなのか見極めるほうが
  先決ですもの」
そしてルルドピアスなら、どうするだろう。
 (ルルド姫姉さまなら、きっとこうする)
サンシリアはシュディリスにしがみついていた手を緩め、力を抜いた。
波はまだ怖かったが、眩暈をこらえ、何とか笑顔を見せた。
 「コスモスに。それなら、サンシリアも行きたいわ」
唇まで青くなっていたが、震える声で、サンシリアはもう少しだけ頑張った。
 「サンシリア、シュディリス様をお一人になどしないわ。私がいれば
  お祖父さまだって貴方に手が出せないわ。だからこれからどうしたら
  いいか、私に云ってね」
 「姫」
 「このお馬さん、このまま海の中を、歩いて行けるかしら」
 「サンシーや。姫や。馬から落ちるのではないぞ」
トスカタイオの引き攣った声が浜風に戻された。
 「領主さま、馬が疲れるのを待ちましょう」
 「姫や、そのまま馬に掴まっておるのだぞ。すぐに、すぐに助けてやるからな」
 「レーレやブルティ姉さまは、私のことを騎士の血のないみそっかすだと云うけれど」
馬パトロベリは姫の意思に応えるかのように器用に波を分けて歩きはじめた。
 「御曹司殿は何処へ向かう気だ。舟、回れ、回り込め」
 「この先の浜辺に兵を配置し、待ち伏せよ」
騒ぎの中、サンシリアは風に顔を上げた。レーレローザやブルーティアには
届かなくとも、幼い彼女とて、聖騎士家オーガススィに生をうけた娘だった。
後にハイロウリーンの賢母として名を残すことになるレーレローザとブルーティア
とは違い、この小さな姫は、年代記にさしたる功績を残すことこそなかったが、
目立たずとも、もっとずっとしなやかな芯を内に持っていた。
 (きっとシュディリス様は近くの浜で私を降ろして、お一人で去ってしまうわ。
  でも、それでいい)
 「私、ちっとも怖くないわ」
風に乱れた髪のまま、サンシリアは前を向いた。濡れないようにドレスの
裾をたくしあげ、サンシリアは手綱を持つシュディリスの邪魔にならないようにした。
 「サンシリア姫」
その人の髪は、海の雫で濡れていた。サンシリアは風向きが変わるたびに眼の前を
過ぎる銀色を、きっと一生忘れないと想った。
 「私の心を連れて、コスモスに行ってね」
サンシリアは強がって涙を堪えた。
海はきらきらと青く、深く、そして小さなサンシリアにはよく分からないことがまだ
たくさんあった。けれど、それでよかった。花占いは、フラワン家を選んでいた。
 「そこまで、サンシリアはこうしてシュディリス様をお護りして、お見送りしますから」

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弟ユスタスがグラナン・バラスと川に、兄シュディリスがサンシリアと海に
いるのならば、リリティスは中庭の、水盤の傍にいた。
コスモス城は、はじめての者にも、安らぎと落ち着きを与える緑の城であった。
歳月に黒ずんだ石垣は苔や蔦に覆われてどっしりと構え、古い様式の
石柱が優雅な影を庭の上に投げかける。
花々の香りも、いかにも素朴で、甘すぎず、香りすぎず、雨の中に咲いて
いるかのように控えめで、野にあるように緑濃く、あるがままにそこにあり、
何もかもが適度に古びて緑に覆われたこの城は、まるで時を止めた妖精の
青い城のようだった。
 (トレスピアノみたい)
どこにも似たところはないのに、リリティスには、ひっそりとそう想われた。
狭間飾りから、そこに巣をつくっている鳥が飛び立った。
 (フラワン荘園みたい。小川の水が流れる、あのお庭。
  お父さまが苦心して古いものを修繕して使っていらした、あの水車)
 (今にも、ユスタスや、兄さんの声がしてきそう。遊びに行こうと)
幼い頃から今までの、あらゆる故郷の想い出が押し寄せて、リリティスの
頬には涙が伝い落ちた。

ミケラン・レイズンおよびクローバ・コスモスらは、ちょうど着任時の
タイラン・レイズンがそうであったように、ごく控えめに、歓迎の大砲も
歓呼の旗ふりも、楽の音もないままに、しかし護衛の兵だけは物々しく
引き連れて、コスモス城の城門をくぐった。
二大貴族に護られて到着した婦人用の瀟洒な馬車は、ゆっくりと
前門の庭に停止した。その扉を手づから開き、降りようとするリリティスの
手をとったのは、皇太子ソラムダリヤその人であった。
 「リリティス」
内心を隠さぬ、高揚した感激を十分に相手に伝えながらも、控えめに、
礼儀ただしく、他の者がいる処ではいつも周囲からどう見えるかに気を
配っているあたりが、この青年らしかった。
取り戻した宝物でも抱くようにして、ソラムダリヤは馬車から降ろしたリリティスを
引き寄せ、その白い手を両手で包んだ。
 「やっと逢えました。フェララのルイ・グレダン邸で別れて以来です」
 「ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ皇太子殿下……」
 「それがわたしの名です」
 「殿下には幾重にもお詫び申し上げます。皇太子殿下とは存じ上げず、
  その節はまことにご無礼を」
 「その事はもう云わない。わたしが貴女を騙していたのですから」
きっぱりとソラムダリヤは遮った。
 「それに、貴女だって悪いのですよ。最初から名乗ってくれれば良かったのに」
はしゃぎ気味に、青年皇太子は自らが運命の恋人と決めたところの美少女の
傍から動こうとはせず、城の中へも彼自身で案内をしようとした
青年がのぼせ上るのも無理はなく、その日のリリティスは、まったく申し分なく
美しかった。
淡い金の髪をまとめ上げ、その眸によく映える上品なドレスを
まとった装いは、豪華な宝石の類をそれ以上そこに付け加えなかった
ミケランの見立ての確かさを裏打ちして、リィスリ譲りのその美貌を文句なく、
内からかがやきが滲み出るようにして、清らかに引き立てていた。
古美に包まれたコスモスの城に佇むリリティスの姿こそは、お伽の国の姫だった。
 「きれいだ、リリティス」
しみじみと見惚れて、ソラムダリヤは重ねて何度も云った。
 「再会できることを信じ、そして愉しみにしたいました。リリティス。
  ようこそ、コスモスへ」
 「クローバ様だ!」
歓声のような、感極まった泣き声のようなものが、わあっとコスモス城から
湧き上がった。
 「クローバ様だ。クローバ様があれに」
 「クローバ様が城にお戻りになられた」
 「本当にクローバ様だ。クローバ様」
それは抑えても抑えきれるものでなく、小さな叫びが寄り集まるようにして、城中を
歓喜と感動で包み込んでいた。
 「すごい人気だ」
性格の良いソラムダリヤは我がことのように顔を明るくして、城を仰いだ。窓という窓、
扉という扉から、城の者が鈴なりになって、あの重苦しい悲劇の出奔以来はじめて
城に戻ってきた彼等のクローバ・コスモスの帰還に狂喜乱舞しているのが見て取れた。
 「クローバ様、クローバ様……!」
 「応えてやりたまえよ」
ミケラン・レイズンがクローバに促した。彼等は馬を降り、小姓が捧げ持ってきた水で
手を洗い、埃を落としているところであった。
 「領主タイラン・レイズン自身が、自分は暫定的かつ、機能的役割の領主であると
  公にしたのだから構うまい。旧家臣たちにとっては、依然として、貴殿がまだ領主
  なのだろうから」
 「……」
喉の奥で低く呻き、クローバは無言で濡れた手を下向きに振った。水気を切って
いるらしかった。ミケランは苦笑した。
 「手拭を嫌がる子供のようだ。慕われる君主の条件の一つに、大人になっても
  愛すべきところのある領主の見本として、項を付け加えておこう」
クローバは黙って城を見上げた。城の外観にも内観にも、領主タイランは
ほとんど何も変更を加えなかったので、つい昨日出たばかりの城のように思えた。
たった今、軽い乗馬から戻ってきたばかりのようだった。窓から、フィリアが手を
振っているような。
懐かしい城だった。城の者たちは、クローバの挙措の逐一に胸を熱くして泣き崩れた。
 「本当に、本当に、クローバ様……」
 「お戻りになられたのだ」
そして此処にもまた一人、涙を浮かべる者がいた。
ミケラン卿の愛人エステラは柱の蔭にいたところを、ミケランに見つけられた。
エステラに気がつくと、誰憚ることなく、ミケランは手袋を片手に、すぐに愛人の
許へと歩いて行った。
 「エステラ。元気だった」
 「ミケラン様」
 「ヴィスタル=ヒスイ党が悪さをせぬかと、ソラムダリヤ殿下が貴女を皇居に
  招いて下さったそうだね。わたしからもソラムダリヤ様にお礼を申し上げて
  おかなければ」
騒ぎ立てることこそなかったものの、エステラはありとあらゆる悪い想像をしては
ミケランの為に道中の無事を祈ってきたのであったから、一行の到着の報を
聴いても、まだその胸は緊張で塞がれたままだった。
警備上の関係でソラムダリヤと共に一足先にコスモス城の敷地内に
入ったエステラは、リリティスを待ち望むソラムダリヤよりも、もっと地に
脚がつかぬ思いで、ずっと不安に耐えていたのだ。
しかし、コスモスの人々がもっとも憎む男は、その敵地において、まるで自宅の
庭にでもいるかのごとく、愛人エステラの背を抱いた。いつもの声、いつもの笑顔、
変わりない態度だった。エステラは身も心もほどける想いで、ミケランの胸に
顔を伏せた。
 「よくぞご無事で……」
 「無事でないわけがない。何といってもクローバ殿が同行してくれたのだから」
ミケランは乗馬用の手袋をひらつかせた。
 「道々見たものといえば、クローバ殿を見て泣き伏す領民の姿ばかりだったよ。
  辺境だけあって、領主と領民の間が近いのだな。いかにも鄙びた良さのある
  単純素朴な、心あたたまる風情だった」
 「そんな、他人事のように」
エステラはミケランをぶつふりをした。ミケランはよけた。
 「弟に逢った?」
 「タイラン様でしたら、内玄関でお待ちです。ひと目のつくところで領主として
  元領主クローバ様を出迎えることはご遠慮なさいましたの。
  貴方の弟さまとはとても思えぬほどに奥ゆかしくて、控えめでいらっしゃる」
 「厭味よりも、笑ってくれるほうが嬉しいのだが」
 「本当に貴方がこうしていて下さるだけで、何もかもがもう大丈夫なのだと、
  そう思えます」
エステラは涙をぬぐって笑顔をみせた。
二人は連れ立って城の中に消えた。
 (一度も。ただの一度も、私のほうを見ては下さらなかった。私を
  ソラムダリヤ様にあずけたまま、それきり、振り返りもしなかった)
水盤の縁に腰をおろして、リリティスは水面を見つめた。
いくら小城とはいえ、城は城、迷路のようで、初日の晩餐以外はその後
ミケランとも、クローバとも、領主タイランとも逢うこともないし、偶然廊下で
すれ違うことも望めない。
食事もそれぞれが個別にとることを求めたので、一堂に会するということも
絶えてない。
クローバ・コスモスにいたっては、「俺はもう領主ではない」の一点ばりで、客室
ではなく城内にある騎士の詰所のような処に引っ込んでしまい、いるのか
いないのかすらも分からない。
ソラムダリヤのたっての希望でリリティスは皇太子とお茶の時間を過ごし、
昼夜の食事も共にし、互いの室も、訪問伺いを立ててすぐに会える距離の
同じ棟の同じ階であったものの、青年皇太子はヴィスタに居た頃と変わりなく
午前中に都から早馬で送らせた書類を片付け、午後にはタイランやミケランと
会談を持ち、いったい彼らで集まって何を相談しているのかはさっぱり分からぬ
ながらも何やらいつも深刻そうであったので、リリティスはますます、男たちの
話の中には入れなくなってしまった。
かといってエステラと話そうにも、今となっては双方に気遣うことも多く、そこは
エステラもよく心得ていて、割り当てられた客室からは出てこない。
初日の晩餐の際に顔を合わせた時にも、遠くの方から、控えめに、そして最高位の
女人に対する礼を年下のリリティスに送って寄越しただけで、あとはミケランの隣の
席に控えて、こちらと視線を合わせることもしなかった。
賢いエステラのことである。
今後も、詮索好きな者共から何を訊かれても、リリティスの一身上に関することに
対しては一切知らぬ存ぜぬを決め込むことだろうと思われた。
  
 (エステラさん。美しい人)

年上の女人への憧れ半分、嫉妬半分、リリティスはエステラのことが羨ましかった。
食事中ミケランが料理について傍らのエステラに向かって何かを囁き、エステラが
それに応えて、二人で顔を見合わせて笑った。たったそれだけのことでも、胸が
えぐられるような気持ちがして、当たり障りのない天候や、コスモスの風土や風習に
ついて交わしている人々の会話も、うわの空だった。
ミケランとエステラの姿を見ているのが辛く、リリティスは、視線をクローバへと移した。
かつて己が領主であった城に客として入り、客人としてその席につく。
それは一体、どのような心境がするものなのだろうか。
屈辱だろうか、苦い悲哀だろうか、それとも、今は亡き奥方フィリアへの愛惜だろうか。
 「クローバ殿。厩舎にいるフェララ産の黒馬が仔馬を生みました。
  とても立派な馬ですね」
 「あれは。フェララのダイヤ大公から送られたもので、あいつで二代目になる。
  そうか。仔馬を生んだのか」
 「明日にでも、是非ご覧になって下さい。母子ともに元気です」
 「そうさせてもらおう」
タイラン・レイズンは控えめであったが、よい主人役であった。彼は元領主
クローバへも隔てのない、穏やかな調子で、当たり前のように感じよく話し掛け、
そしてクローバは内心を窺わせぬ顔つきで黙々と食事を口にはこび、領主タイラン・
レイズンの質問に対しても端的に、しっかりと答えていた。
 (ご立派な方だわ)
ぶっきらぼうすれすれの、しかし不思議と無礼な感じはしない男の態度であった。
領民からとても慕われているというのは偽りなしのようで、ふと見れば、給仕に
ついている者たちの眼も帰ってきたクローバを見つめて潤んでおり、城の外でも
クローバ帰還の報に続々と人々が集まっていて、夜になっても立ち去る気配なく、
仕方なくクローバはタイランが勧めるままに一度二度、城壁の上から彼等の前に
姿を見せてやらねばならないほどであった。
 「クローバ・コスモスに似合いの貴女を探さなければ」
翌朝、ソラムダリヤは人の良さ丸出しでリリティスに持ちかけたものである。
 「騎士家の女人と再婚すれば、コスモスを失った彼も、もう一度新しい位と領土を
  得ることが出来る。誰がいいかな。ミケラン卿と相談してみよう」
 「貴重な聖騎士の血を次世代に伝え残すためにも、それがよろしいかと」
ミケランもそれに応じた。
 「クローバ殿はオーガススィ家からコスモス家に養子に来られた方。いっそ
  オーガススィに復縁というのは如何でしょう」
 「小トスカイオ殿の姫たちは、お二人ともハイロウリーン家に嫁ぐと
  決まっていたのでは」
 「もうお一方、三女のサンシリア姫がおります。もっともこちらの姫は騎士の血が
  出なかったそうですが」
 「打診してみる価値はありそうだね」
ルルドピアス・クロス・オーガススィ姫がクローバ・コスモスに誘拐されたことを
知りながら、それとこれとは別に動くことであるのか、ミケランはソラムダリヤに
そのように応えたそうだ。本人の意思を確認することもなしに平然と事を検討する、
馬の勾配でもあるまいし、リリティスにはもうついていけなかった。
 (それでも騎士家の婚姻とは、もとよりそういうものだわ。私だって同じだわ)
リリティスは中庭の緑の中で虚ろに放心した。この庭は古いままに苔むして、頭上を
覆う木々も、自然の趣きを残したままにされていた。
 (勝手に、いつの間にか、ソラムダリヤ様の許婚にされてしまった。
  何もかもが私をとり残したまま決まってしまい、もう私ひとりの力では動かせない。
  それが帝国の安寧の為と云われてしまったら、もう私の心などないも同然ですもの。
  それに誰もが、それが私にとってもいちばん良いことだと、頭から信じ切っている。
  ソラムダリヤ様は良い方だと思うわ。あの方に反感や悪意など持ちようもないわ。
  けれど、私の心が何かが違うと云っている。何かが相容れないと告げている。
  ソラムダリヤ様が、騎士ではないからだろうか。それとも、私の我侭だろうか。
  誰でも、こうして自分を抑えて生きているのだろうか。クローバ様と亡くなられた
  フィリア様のように相和したご夫婦もいたというのに、ソラム様は私にはもったいない
  ほどに良い御方なのに、これ以上、私は何が不満なのだろう)
 (何がこんなにも哀しいのだろう。どうして、これほどに心細いのだろう)
 「心を深いところまで見つめすぎると、暗闇しか見えなくなるものですよ。星の姫」
男の声は、緑の木が応えたのかとも思われるほどに、穏やかで優しいものであった。
 「人は誰でも独りであり、誰にも、自分自身にも、心の全ては分からぬままに、
  理解及ばず淋しいのだから。それが恋の悩みならば、わたしではとても
  相談相手にはなれぬけれど」
緑を分けてリリティスの傍に歩み寄ったその人は、片脚を軽く引きずっていた。
 「わたしもこの庭が好きでよく来るのです。お邪魔してよろしいかな、リリティス嬢」
 「タイラン・レイズン様……」
青い水をたたえた水盤に映った髪は、レイズン家の特徴である黒髪をしていた。
涙に濡れた顔で、リリティスはその人を仰いだ。


「続く]


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