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[ビスカリアの星]■八四.


ハイロウリーンの総大将フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンは、第一陣を
出立するにあたり、末息子ワリシダラムを残留させることとした。
 「お前は陣に残り、オーガススィの姫を此処でお護りするのだ」
渋々、ワリシダラムは父の命に従った。全員がコスモス城に赴くわけにはいかない。
第二陣にワーンダンとインカタビアがいる以上、第一陣に残る王族は、たとえ
レーレローザのことがなくとも、順当に末っ子の彼しかいない。
 「先方の城にミケラン卿がいることははっきりしておりますのに、ルビリア姫を
  同行させるのですか」
 「ルビリア様は第六王子エクテマス様と共に陣に残して、後方の備えと
  されたほうが宜しいのでは」
側近はフィブランに苦言を申し立てたが、フィブランは人選を変えなかった。
 「卿がいるからこそ、ルビリアを連れてゆくのだ」
 「しかし、何かあったら」
 「ヴィスタル=ヒスイ党の目論見どおり、ミケラン卿は皇帝からも見限られ、
  彼がことを起こすのを今か今かと待たれている状況ですのに」
 「その時こそ、ミケラン卿の成敗は、ルビリアに任せる。ルビリアはその為に
  連れてゆく。煮えきった積年の怨念に終止符を打つとは語弊があるが、
  卿にせよ、ルビリアにせよ、何かのかたちで、区切りと終わりは必要なのだ」
 「留守をまもって陣に残るのは、本来なら年長のエクテマス兄さんのほうが
  相応しいのにな」
コスモス城に行きたいのは誰でも同じ、諦め悪くワリシダラムは不平を述べた。
 「エクテ兄さんがルビリアさんの従騎士である限り、彼の役割もこっちに
  回ってくるんだよね。いいけどさ、べつに」
その彼が荷物をまとめているので、レーレローザは訊ねた。
 「何をしているの、ワリシー」
 「この天幕は君にあげるよ。父上の不在中、留守居役として、もっと大きな
  天幕を用意してくれるそうだから。こんなのただの格好つけだけど、威厳や
  様式美を疎かにすると軍規のみだれのもとにもなるから、仕方ないよね」
大きな荷物の移動は従者に任せて、ワリシーは荷袋を肩にかけた。
 「じゃあ、レーレ。しばらく離れ離れになるけれど」
 「ええ」
二人共、口に出さずとも分かっていた。
状況が変わった限りは、もう今までのようには一緒にはいられない。フィブランが
寛容だったので大目にみられてはいたものの、いくら婚約している仲とはいえ、
天幕を同じにして、親しくしていること自体が不謹慎だったのだ。
ワリシダラムが行ってしまうと、レーレローザは寝台の隅に腰をおろした。
こうして一人になってみると、ハイロウリーンの軍中にただ一人囚われた
オーガススィの人質である身がいっそう侘しく感じられてかなわない。
皇帝陛下の意向により、ハイロウリーンとジュシュベンダの二大騎士国が
コスモス城の包囲に出向くという異常事態について、巧妙にもレイズン家の
ジレオン・ヴィル・レイズンは、皇帝ゾウゲネスにこう申し出たのだという。
 「選抜の騎士団は是非とも、ハイロウリーンとジュシュベンダに。この両国ならば
  互いを牽制し、なおかつ、他国の動きに睨みをきかせることも可能です」
それはいかにも体面から整えてゆくレイズンの遣り口らしかった。
他の国はどうするだろう。
ヴィスタル=ヒスイ党との癒着を疑われている母国オーガススィは、どうするだろう。
ひとまずはハイロウリーンと足並みを揃えて、ハイロウリーンの第二陣付近に
待機のままだろうか。
 「レーレローザ様」
考え込んでいると、控えめに天幕が開き、若い女騎士が顔を出した。
 「これより、こちらに姫さまの調度をお運びいたします。他にご不便はございませんか」
 「いいえ」
 「ワリシダラム王子より頼まれております。何か用があればお申し付け下さい」
自分から断った手前、今さら侍女が欲しいとは云えない。
ワリシダラムの心遣いはありがたいが、実のところ、レーレローザは女騎士を
近づけることが好きではない。憧れのルビリアや妹のブルーティアならともかくも、
他の女騎士は嫌いである。
 (ふうん、これがオーガススィ家の女騎士。へええ、どれほどのものか
  見せてもらおうじゃないの)
大体において、女騎士たちはこちらに過度の期待と要求を押しかぶせ、そのくせ
その裏ではこちらの失策と失敗こそを願い、「オーガススィ家の女騎士といっても
たいしたことはなかったわ」と隙あらば云いたいのである。
ハイロウリーン女騎士の、レーレローザを推し量る顔つきには、隠しても隠し切れない
そんな悪意未満の挑発がどこかに潜んではいた。

 (慣れっこだけど、こうしてオーガススィ家の後ろ盾を離れてみると、鬱陶しいものね。
  一人で生きる女騎士たちがこんな中で生きているのだとしたら、ルビリア姫への
  風あたりなど、もっと手酷く、きついものだったでしょうね)

レーレローザは膝を抱えた。
明日からちょっと表に出て、ハイロウリーン騎士を相手に剣稽古をしてみよう。
そう思い決めると愉快になってきた。
イクファイファ王子に騎士の血が殆ど出なかった為に、実質オーガススィ家を
代表する若騎士といえば、これまで彼女のことであった。
レーレローザ・クロス・オーガススィはイクファイファ王子の代わりに、オーガススィ家の
騎士として常に表舞台に出てきたのであるし、それを支える自負も意地もあった。
別段先刻の女騎士が何をしたというわけではないのだが、ここは一つ、
ハイロウリーンの諸兄らに、聖騎士家の血統というものを見せつけておくべきだろう。
人質としてそれで何が有利になるわけでもないが、厳格な能力差に縛られた
騎士階級においては、竜神の血こそが万の言葉よりも勝るのだ。
 (何といっても、わたしはトスカタイオの孫娘。そして、高位騎士クローバ・コスモスとも
  縁戚にあたる娘だわ。ワリシダラムの為にも、ハイロウリーン騎士団の尊敬は
  勝ち得ていたほうが後々の為にもいい。そうだ、そうしよう)
そう決めてしまうとすっかり楽しくなり、レーレローザはちょうどはこばれてきた
香湯で顔を洗い、櫛で髪を梳かしながら、口笛を吹きはじめた。


七大聖騎士家、カルタラグン、ハイロウリーン、ジュシュベンダ、タンジェリン、
オーガススィ、レイズン、サザンカのうち、カルタラグンとタンジェリンの滅亡後、
代わって幅を利かせてきたのが、大国フェララである。
衛星御三家ナナセラ、フェララ、コスモスのうち、豊かな穀物を生む地の利に恵まれた
フェララは、隣国ナナセラを吸収する勢いで国を大きく拡げ、実質的にサザンカや
オーガススィを凌駕し、伝統のコスモスには格こそ一歩譲るものの、依然として
昇り調子にあった。
 「これ見よがしなほどに大きな陣をとりよって」
そのフェララの陣営を一瞥し、ジュシュベンダの将シャルス・バクティタは
馬上から不満を洩らした。
ハイロウリーンの幕僚ナラ伯ユーリが不審の死を遂げ、下手人にジュシュベンダ
兵が疑われたことから、その誤解を解く会談の場が設けられたのは先日のこと。
会談は射込まれた矢によって中断、シャルスは矢傷を負った。
それをおしてのシャルスの出陣、それはひとえに、パトロベリ・テラの監視のためである。
王族の末席のくせにいっこうに政治の場には姿を見せず、面倒の一切をイルタル・
アルバレスに押し付けてのらくらと遊んでばかりいる青年に対して、生え抜きの武官で
あるシャルスは甘くはなかった。
シャルスは世評および己の善悪でしか物事を裁断しない典型的な盲目人間であり、
パトロベリといえば放蕩者、放蕩者といえば懲らしめてやらねばならぬ悪者、悪者
相手にはこちらの正義を振りかざして何を云ってもやってもよいのだと、本気で信じて
疑っていない心貧しい男であった。
つまり、彼の頭の中には、いみじくもイルタル・アルバレスが看破したような、
「パトロベリ・テラは、わたしの病弱な息子を立てるために、目立たぬように生きてきた
優しい男なのだ」といった思い遣り深い慧眼などはたらく余地もなければ、そこまで
頭の質も良くはなく、とにかくパトロベリは害虫、排除すべき国の恥、他の者が
やらぬのならばわしがやる、とくと思い知らせてやらねばと、そう思いつめていた。
もしも、シャルスがまことにアルバレス王家の為を思うなら、内心思うことがあったとしても
パトロベリにひたすらに尽くし、病弱な主君に代わって盛り立て、少しでも有益な人物と
なるようにと心を砕き、本音はどうあれ、一途に仕えたはずである。
生憎と、シャルスは狭量な、頭の固い、そして否定しようもないあたりで陰湿にねちっこく、
底意地の悪いところのある、年のいった男であった。
 (このような大事の場の指揮権を、あのような若造に取られるとは)
何よりも、そのことに、ふつふつと腹が煮えた。
王族の権限を振りかざし、いきなりコスモスに飛びこんで来たパトロベリであるが、
追ってそれを認めるイルタルの文書も届いたために、正式にも指揮官となっている。
老シャルスとしてはそれが気に入らない。
  (一度たりとも体を張って国を憂いたこともない若造が)
副官のキエフもシャルスの胸中を察するがゆえに、そこはあえて無言である。
そのキエフが馬を引き返してきた。
 「パトロベリ様。前方に、フェララのモルジダン侯のお姿が。パトロベリ様に
  挨拶されたいと」
 「一時停止」
 「停止、停止」
隊列はたちまちのうちに停止した。
フェララのモルジダン侯は背の高いラルゴを連れて、街道筋で待っていた。
隻眼の猛者は、先日シャルス・バクティタが襲撃されたばかりだというのに、或いは
それを考慮してか、ラルゴの他には供も連れず、単身で馬をおりて立っていた。
 「パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダ様」
 「これはどうも」
パトロベリも馬を降りた。
軍属でもなく、しかし領主の代理として軍を率いる王族の端くれであり、かといって
当人はこれまでそれらしき前歴もない評判の悪い遊び人ときては、モルジダン侯も
やりにくいところであろう。
内心おかしく思いながら、パトロベリは自分の方から、年長の侯に歩み寄った。
 「このようなところでお会いできるとは、モルジダン侯」
 「ジュシュベンダ軍がお通りになるというので、ご挨拶をと、お待ちしていたところです」
挨拶を互いに交わし、彼らは儀礼的に手を重ねた。
 「皇帝陛下の命により、これよりコスモス城に向かうところです」
 「このコスモス事変が何事もなく収束に向かうよう、お祈り申し上げております」
何といっても、ジュシュベンダは聖騎士家中の大聖騎家。その王族を前にしては、
フェララ側は一段も二段も下になる。モルジダン侯は頭を下げた。そしてそうやって
腰の低い態度をとりながら、モルジダン侯は密かにパトロベリを推し量った。
 (ほほう)
片方しかないモルジダン侯の眼がほそまった。
 (情けない、悪い噂しか聞こえてこなんだ王子であるが、どうして)
愛想笑いを浮かべている青年は、モルジダン侯がこちらを値踏みしていることを
百も承知で、すっ呆けた笑顔を崩さず、
 「わざわざの挨拶、ご丁寧にいたみいります。では、先を急ぎますので、これにて」
へらへらとその場を簡単に切り上げて、飄々と身を引いてしまった。
 「いかがでしたか」
紫に金銀の鎧装束も堂々と、ジュシュベンダの隊列は過ぎ去った。
ラルゴはモルジダンに訊ねた。
 「その名すら忘れ果てていた日蔭の王子の突然のこの登場。イルタル・アルバレスは
  この段において何を考えているのかと、少々面喰いましたが」
 「あの王子、莫迦ではないわ」
 「後ろについていた老シャルス殿が凄い眼をして、一部始終を逃がすまじ、僅かな
  欠点すらも許すまじとばかりに、王子の背中を睨んでおられましたが……」
 「あれでいて奴も、誰よりも国を想う忠義の騎士ではあるのだ。パトロベリ王子は
  そのこともよくお分かりのようだった。その上でそれを逆手にとり、ああして
  ふわふわされておるのだろう。よきかな」
 「よきかな?」
 「先のサザンカのロゼッタ嬢や、トレスピアノのユスタス殿のような、裏表のない
  真直ぐな若者も得がたいものだ。だが、複雑怪奇な大国を先導するには、ああいう
  曖昧模糊とした善良人間の方がよいこともある。国許のダイヤ公にお伝えせねばな。
  パトロベリ・テラはイルタルのような狐ではないが、狸になる素質は充分であると」
モルジダン侯は口許を笑ませた。


シャルス・バクティタはともかくも、先日ハイロウリーンの第六王子エクテマスの
眼前でハイロウリーンの旗を見事に打ち落としたこともあり、軍内における
パトロベリの評判は、意外にも、そう悪くはなかった。
何といっても、彼らはその眼で、パトロベリの剣の速さ凄さを見たのである。
オーガススィのレーレローザ姫ではないが、優れたる騎士の血の発露は、
万の言葉にも勝るのだ。兵士たちは、隠れたお宝でも見つけ出した子供のようにして
彼らの前に現れた王家の青年に好感を寄せ始めていた。
 「何といっても、豪腕できこえた先々代様のお血筋の方なのだ」
 「素行不良な方としてしか認識していなかったが、英雄ほど若い頃は道を迷うものだ」
 「あれではないか、イルタル様は、パトロベリ様を切り札として、今の今まで
  温存しておられたのでは」
 「ハイロウリーンの白金の旗を斬り落とされた時の格好よかったこと。あちらの王子など
  身動きも出来ずに馬の上から見ているばかりだったではないか。
  軟弱を装われていても、イルタル様と同じく、内には相当に苛烈なご気性を
  秘めておられるに違いない」
などと、あっという間に勝手な風評が出来上がり、もしかしたらパトロベリ・テラは
イルタルに次ぐ次代のジュシュベンダ君主になる御方かもしれないとそんな憶測まで
飛び交うにいたっては、お定まりのご機嫌とりも出てこようもので、特にその憶測と期待は
若手の間において、顕著であった。
 「パトロベリ様、あれに」
そんな若手の一人が、パトロベリに呼びかけた。
いくら裏で騒ごうとも、そこはジュシュベンダ、規律ただしく主君の前では顔を引き締めている。
 「ハイロウリーン軍です」
パトロベリはその方角へと眼を向けた。
白に金。雪山の厳しさに北方の太陽の栄光をかけた騎士団装束も華やかに、雄々しい
一団が整然とコスモスの野を進んでいる。
それを遠くに臨み、ジュシュベンダ騎士らは押し黙った。
敵でもなく味方でもない、しかし闘えと嗾けられたなら、最後の一兵にいたるまで、
騎士としての力の全てをかけて嬉々として挑むであろう、その相手である。
御大将フィブラン・ベンダの旗を掲げ、先頭から末端まで、一騎当千の武者たちが悠然と
丘陵を進むさまは、威圧されるよりは、雌雄を決したい衝動をジュシュベンダ側に与え、
次第にたかまる戦闘意欲をじっと堪えながら、彼らは別方向からコスモス市街へと向かう
好敵手を睨むようにして見送った。
 「あちらでは城の東西に分かれて分宿となるので、邂逅することもありますまいが」
ジレオン・ヴィル・レイズンは皇帝に対して、「誓って、世紀の対決といったような撃滅戦が
両軍の間に起こらぬように、わがレイズンが配慮いたします。もっとも、そのようなこと、
双方もよく承知でしょうが」
と断りを入れたそうであるが、レイズンごときの采配など無用、時がくれば、いつでも来い。
二大騎士国として、そのくらいの気概を掻き立ててくれる、愛憎半ばの宿敵でもある。
ちらちらと輝く鎧のきらめきを遠くに臨むジュシュベンダ兵らの眼は、闘志すら帯びていた。
 「あ、なんてことだ」
と、そこへ突然、パトロベリが素っ頓狂な声を上げて怒り出したので、周囲は愕いた。
 「パトロベリ様?」
 「なんぞ、ありましたか」
パトロベリは何故かたいそう立腹しており、鞍の上に立ち上がらんばかりにして、丘の
向こうへと消えてゆくハイロウリーンに向けて憤りを隠さなかった。
 「見たろう、ルビリア・タンジェリンの旗があった。フィブランの莫迦野郎。コスモス城には
  ミケラン卿がいることが分かっていながら!」
仮にも大国の領主に対して「莫迦野郎」発言。うっかりしていたではすまない
重大な失言である。
シャルス・バクティタが「それみたことか」といった顰め面をしてみせたが、パトロベリの
言い分のほうがここは勝っていた。
 「ルビリアをミケラン卿の前に連れてゆくなど、燃え盛っている火を油の中に
  投げ込むようなものじゃあないか!」
その比喩が適当かどうかはともかくも、それは全員が同じように抱いた危惧であった。
 「そうですねえ」
 「ルビリア殿は高位騎士。そのルビリア殿が見境を失くして暴走した場合に止められる
  騎士となると、ハイロウリーンでも数がちょっと限られますでしょうか」
 「限られるどころじゃあないさ!」
シャルス以下、幕僚たちの眼がパトロベリに集まった。
パトロベリはどうやら、腹の底から怒っており、しかも自分にまったく関係のないあたりで
そこまでの強い怒りに駆られているようであった。
後方でひそひそと囁かれ出していたが、パトロベリは構っていなかった。
 「どうする気だよ。竜神の怒りといって、強い血を持った騎士が怒ったらもう誰にも
  止められやしないんだ。フィブランは何を考えてるんだ、ルビリアを破滅させる気なのか」
 「パトロベリ様」
軽蔑を浮かべて、シャルスが進言した。パトロベリの為ではなく、ことさらにパトロベリの
取り乱しぶりを軍中に印象づける為である。
 「パトロベリ様。進軍を再開させても、もうよろしいですかな。それともまだしばらく、我らは
  こうして時を無駄にし、ハイロウリーンに遅れをとりながら、立ち止まって
  待機しておらねばなりませぬかな」
パトロベリの胸中など、誰にも分かるはずがない。
ふと、醒め切った双眸がパトロベリに思い出された。それはシュディリス・フラワンの
ものではなかった。
倒れる旗の向こうからこちらを見下ろし、冷たく嗤っていたルビリアの従騎士。
 (彼はもしかして、そのためにルビリアの従者なのか。フィブランはそこまで
  考えて、王子の一人をルビリアに付けてるのか?)
もしやの場合、ハイロウリーンの不利益になるような単独行動をルビリアがとった時には、
いつでもルビリアを斬って棄てれるように。
パトロベリは丘陵の彼方を見遣ったが、武具をきらきらと煌かせ、地を這う一尾の
気高い白竜のようにして、ハイロウリーン軍はすでに遠くに去った後だった。

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オーガススィが遠くなる。
峠の突端で馬を一旦停めて、シュディリスはオーガススィを振り返った。
サンシリア姫がオーガススィの救出隊に無事に回収され、祖父トスカタイオに
抱き上げられているのがそこからも望めた。
 「サンシリア。お別れを」
後方に救出隊が見えたところで、シュディリスはサンシリアを
馬から降ろし、また馬に乗ってすぐにその場を離れた。
 「シュディリス様」
サンシリアは何か云いたそうにしていたが、急がれることもあり何も云わず、ただ
小さな手でシュディリスの手を握り締め、自分から手を離した。
海辺の小道には青い草がそよぎ、水気をきった馬パトロベリの毛並がつやつやと
陽に輝いた。
 「さがって。危ない」
 「お気をつけて」
 「ありがとう」
去り往く騎馬の姿を見送って、サンシリアは大きな溜息をついた。
冒険は終わってしまった。
それでも、姉たちと違いほとんど城の中で過ごしている深窓の姫にとっては、
いつまでも忘れられない大冒険だった。
サンシリアはびしょ濡れのドレスをかき寄せて、近くの乾いた岩に腰をおろした。
二重城壁に護られ、何人も監視の眼を経ずしては出入りを許さぬと豪語している
オーガススィの防壁が、こうもあっさりと破られてしまうなんて。
 (まるで、海賊の皇子さまだ)
私を人質にして、舟も使わず、馬ごと海から脱出を果たすなんて、シュディリス様は
型破りな方だ。
ふふふ、とサンシリアは笑って頬杖をついた。とっても怖かったけれど、海から
見た陸があんな風に見えるなんて知らなかった。お城も家も小さくて、海の大きさに
比べたら、今すぐに波の中に沈んで消えてしまいそうに小さかった。
 「サンシリア!」
 「お祖父さま」
サンシリアは手を振った。それから後ろを振り返った。大丈夫、シュディリス様は
もう遠くへ行かれた。
 「お祖父さま」
 「サンシリア、無事であったか」
海岸沿いに馬を飛ばして駆けつけてきたトスカタイオはサンシリアを抱き上げ、
じろりと崖を睨みあげた。
 「あの人攫いは」
 「人攫いだなんて。シュディリス様は、もうずっと前に行ってしまいました」
 「可愛い孫娘を危ない目に遭わせた男にはわしからの挨拶があるぞ。追え」
 「お祖父さまったら。やめて」
サンシリアは祖父の首に腕を回して抱きついた。
 「サンシリアはこうして無事ですから。シュディリス様は何も酷いことは
  なさいませんでした」
 「サンシー、お前には分からぬだろうがな、わしはシュディリス殿をお守りしたく、
  オーガススィにお留まりいただいていたのだぞ」
 「それは、お祖父さまの都合でしょう。
  オーガススィに留まることは、シュディリス様の意志ではありませんでした」
だから、あの人は行ってしまったのです。こんな方法をとってまでして。
わざとらしく、サンシリアはくしゃみをしてみせた。
 「サンシリア」
 「お祖父さま。サンシー、風邪を引いたみたい」
 「これはいかん、城へ戻るぞ、城へ」
慌しく、トスカタイオはサンシリアを抱きかかえて、城へと戻り始めた。
領主とサンシリアが遠ざかる小さな影を見届け、シュディリスは馬首を回した。
さして追捕をかけてこないということは、これで放免されたということだろう。
後からヴィスタル=ヒスイ党に何か問われても、姫を人質にされて勝手に逃げられたと
応えれば、一応の申し訳は立つ。
追ってこないということは、おそらくはリィスリ・フラワンを押さえている
ヴィスタル=ヒスイ党のほうにも何かの変化があったのだ。
リィスリとシュディリスは、オーガススィに協力を強要するための党の人質であったが、
もうそのような頸木などなくとも、ミケランの包囲は成り立つ段階に入ったのでは
ないだろうか。
それは行き逢った農夫たちの口からも知れた。
地図は頭に入れてきたが、念のためにシュディリスは、彼らにコスモスへの道を訊ねた。
 「このまま真直ぐだよ。けれど、二大大国が動きなすってコスモス城を囲むというので、
  道中、検閲が厳しいよ」
 「二大大国」
 「ハイロウリーンとジュシュベンダさね。ハイロウリーンの方は御大将フィブラン様が、
  そしてジュシュベンダの方は、パトなんたらテラとかいう」
 「パトロベリ・テラ」
 「そう。その御方が総指揮官だそうだ。皇帝陛下のご命令によることだそうだよ」
パトロベリが。
農夫たちと別れて、シュディリスは山間に馬を進ませた。健康に一抹の不安がある
イルタル・アルバレスが本国を離れられないとなれば、王族のパトロベリがその任に
あたるのも不思議ではないが、騎士稼業からは逃げ回るのが信条のあの男が、よくも
それを承知したものだ。
ミケラン卿がコスモス・クローバを護衛に従えてコスモス城に入ってから、まだ
これといって動きはない。が、ハイロウリーンとジュシュベンダが他ならぬレイズン本家と
結びついてコスモス城を固めるとあらば、ミケラン卿にはもはや退路がない。
じわじわと薬を効かせるようにして、ヴィスタル=ヒスイ党は反ミケランの結束を
諸国に煽ってきたが、その陰湿さは気に喰わなくとも、なまじ騎士国同士が
一枚岩でないだけに、ひび割れに毒水が浸み込むようにして、ミケランの
排斥意識はこのコスモス事変を契機として一気に高まった、ということだろう。
名目は、コスモス城に皇帝名代大使として入ったソラムダリヤ皇太子殿下と
ユスキュダルの巫女を護るため。その実体は、それに便乗したミケランの追い落としか。
そしておそらくは、ミケラン卿とて、本家と諸国のその動きを誰よりもはやく察知している
はずなのだ。
 -----この離間策を受け、ミケランはどう出る
シュディリスは馬の横腹を蹴って、なだらかな坂を駈けおりた。赤い花の咲く
野が広がった。
それが分かれば誰も苦労をしないと囁かれ、怖れられてきた、この廿年。
それが分かれば、誰も傷つかずにすんだかもしれない、この廿年。 
国を失い愛する人を奪われ、生き地獄に墜ちた人々の怨念を知らぬげに、
男の夢のままに栄えてきたヴィスタチヤ帝国の、この花園の、よそよそしいまでの
和やかな麗しさはどうだろう。
 -----ルビリア。貴女も、そこにいるのですか
散る花びらは何も応えない。ただ小さく、シュディリスは凝固したままの
女の遠い声を聴く。
 -----ヒスイ
 -----ヒスイ、必ず私が


警笛の音が、夕暮れの野に響き渡った。
シュディリスが見遣ると、男が一人、大勢に追われているところであった。
斜光の中、草波をかき分けてこちらへ走って来る。
 「捕まえてくれ!」
追手が怒号を上げ、シュディリスに訴えた。
 「その男を捕まえてくれ!」
 「彼が何をしたのです」シュディリスは問い返した。
夕映え空には風が吹き、色の濃い雲が縺れ合いながら流れていた。
逃げる側は旅人の格好をしていた。追う側は、手に鍬や鋤を握り締めた、近郊の
村の男たちだった。
 「先日、コスモスの野において、ジュシュベンダ将軍シャルス様の暗殺を謀り、
  両軍の会談を壊した者を探しているのだ」
 「その男、森に隠れ潜み、弓矢を持っていた。怪しんで捕まえようとしたら逃げた。
  馬を奪うつもりだぞ、気をつけろ」
気をつけるまでもない。追われる男はすでに脚をとめ、その場で両脚をふんばり、
きりきりと矢をつがえ、その先端をシュディリスに向けていた。
 「馬を寄越せッ」
男は血走った眼でシュディリスに吼えた。シュディリスは男を見つめ返した。
男はもはや躊躇せず、弓を放った。びゅっと飛んだ弓は途中で何処かへかき消えた。
 「断る」
シュディリスは矢を剣で叩き落としてから応えた。
それを見て、村人たちはどよめいた。彼らには、鞍上で若者が剣を抜いたところすら
見えなかったのだ。馬パトロベリなど、侮るように、余所見をしたままである。
 「あの人は、騎士だ」
 「いずれのご家中の御方か」
息を切らして馬を奪おうと反対側に回り込んだ男を、シュディリスは眼で追った。
男は手綱を引っ掴もうとして、馬パトロベリに後ろ脚で遠ざけられていた。
男はまだ若いのだろうが、野宿が相当に長かったとみえて疲れきり、顔も髭に覆われ、
すっかり老け込んでいた。
その男の両目が、馬上にあるシュディリスの顔を見上げて、ふと大きく見ひらかれた。
先刻は逆光だったこともあり、よく見えなかったのだ。夕陽の金色に照らされた
その姿を目の当たりにした男は口を半開きにし、シュディリスの容貌を気持ちが
悪いほどに凝視した。
シュディリスの青い眼が男を見つめ返した。
 「ヒスイ皇子」
男は喉を振り絞ってそう云った。
それから、白昼の幽霊を脳裡から追い払おうとして、切羽詰った様子で男は頭を振った。
 「違う、違う、あれからもう何年も経ったのだ……ヒスイ皇子は死んだはずだ……」
訛りがあって少し聞き取りにくいが、男は、教養のある帝国共通語を使っていた。
シュディリスは迷わなかった。
男と憲兵の間に馬を割り入れ、シュディリスは男に呼びかけた。
 「乗って下さい」
青年の申し出に男は戸惑いを見せたが、すぐに近くの石を踏み台にして
馬鞍によじ昇った。
 「おい!?」
 「騎士殿、何をなさる」
村人たちが追いすがる。後鞍で男が矢を放った。村人は慌てて野に伏せた。
 「待て」
 「さては仲間か」
追っ手にはもう構わず、シュディリスは男を乗せて馬パトロベリを走らせた。
馬パトロベリは逆境にこそ奮起する性格の馬であったので、男二人を乗せたまま、
たちまちのうちに逃げ切った。
 「かたじけない」
森の中でシュディリスは手綱を引いた。馬パトロベリが荒い息を吐く。
男はシュディリスよりも早く自ら馬をおりて、馬を休ませた。馬の首を叩いて
ねぎらう様子も、馬の扱いに慣れている者だった。男は時折後ろを
振り返りながら、礼を述べた。
燦々と森に降る夕陽の絢爛がシュディリスの視界を染めた。男は訊いた。
 「何故、助けてくれた」
シュディリスは近くの小川に馬パトロベリを放し、水を呑ませた。
 「貴方は位騎士だと思ったので。よほどの理由があるに違いないと」
 「位騎士だと何故わかった」
 「わたしが剣を抜いた後は、もう弓を放とうとはしなかった」
 「ああ。そうだ。敵わぬからな」
男は小川の水で口をゆすぎ、それを認めた。川面にゆらゆらと反射する夕陽が男の
顔に疲れた縞模様をつくった。それから男はうっすらと笑った。
 「本音を云えば、久方ぶりに見る凄き太刀筋に、身が竦んだのだ」
 「何処に行かれる途中だったのです」
 「応えなくてはならないか」
 「いえ。いっこうに」
シュディリスはオーガススィの城から持ち出した食料を広げ、男に差し出した。
 「よろしければ」
 「かたじけない」
やがて飢えを満たした男は口許を拭った。
 「ジュシュベンダの将軍を射たのは、わたしかどうかを訊かないのか」
 「興味ありません」
火を熾そうと俯いているシュディリスの横顔をしげしげと見つめて、男は噛み付く
ように云った。
 「カルタラグンの血。その銀髪は、カルタラグンの血だ」
 「そのように、よく云われます」
少し言葉を切ってから、あえてシュディリスは付け加えた。
 「カルタラグンの最後の皇子に、似ているとも」
男は息を呑んだ。
 「やはり」
 「不吉ごととして、誰もはっきりとは云いませんが」
 「そうとも、たいそうよく似ておられる。あの御方に。生き写しのようだ。
  わたしがお仕えした、あの頃のあの方に」
やがて意を決したのか、男はシュディリスにこう名乗った。
ジュシュベンダからやって来た。わたしの名は、サンドライトだ。サンドライト・ナナセラだ。
 「旧カルタラグン領に赴く途中であったのだ」
その眼に涙さえ浮かべて、サンドライトは身を乗り出した。
 「君は、君の親御もしや、カルタラグン騎士ではないのか」
焚き火に火がついた。
そうだと認めたら、どうなるのだろう。
シュディリスは憔悴の目立つサンドライトの顔を見つめ返した。カルタラグンの亡霊。
領土を失い、過去に囚われたまま、この地を彷徨う。
ヒスイ皇子の息子だと認めたら、どうなるのだろう。
この男のこれからに、何か、指標や希望なりと、与えてやれるとでもいうのだろうか。



「続く]


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