[ビスカリアの星]■八五.
少年はその皇子の姿を見かけるたびに、憧れや、敬慕、宮廷の
花形である皇子の近くでお仕えしている誉れ、或いはその王朝に
寄生していた全ての人間が無意識のうちにも心の底で想っていたのと同種の
暗い予感の影を、その薄い色を、うっすらと、心のどこかで覚えたものだった。
あまりにも倖せでありすぎると不安の芽が知らず知らずのうちにはびこるのと同じく、
あまりにも何もかもに恵まれた華やかな皇子に魅せられ、その周囲で笑い
さざめいていた人々の胸のうちに、いつとは知れずしのび寄り、巣くっていた
それは、祭りの夕方や、夏の終わりに感じる秋風めいた寂寥では
なかったかと、今の彼ならば、そう思う。
皇子の笑顔を見ているとそれはたちどころに消えるものの、皇子がいなくなれば
音もなく背後に立ち上がり、迫ってくるような気がしていた、その予兆。
少年が過ごしたカルタラグン王朝の末期を包んでいた耀きは、そういった、
すきま風に消えようとしている蝋燭の最後のともし火、残照のきらめき、それ
そのものであった。
-----ヒスイ、ヒスイ
小鳥のような声がして、ドレスを着た少女が皇子を探して緑の庭を歩いていた。
ナナセラから来た少年に、誰かが教えた。
あちらが、タンジェリン家からお輿入れされるご予定のお姫さまだよ。
「はやめにヒスイ皇子に懐いたほうがよいというので、皇子宮に
上がられたのだ。タンジェリン四姉妹のうち、ヒスイ皇子の妃候補で
あられたご長女フィリア姫は、コスモスのクローバ様の許へと嫁がれたのでな」
「ヒスイ。どこ」
同じ年頃の少女だった。その姿を、少年は眼で追った。
「ヒスイ皇子はルビリア姫さまに付き合って、しばしばこの庭でああして
かくれんぼをされているのだ。あちらのお姫さまをよく見ておくのだぞ、サンドライト。
タンジェリン家に恃みになる騎士が少ないというので、皇子はこうして他の
騎士家から、ルビリア姫をお護りするための騎士を積極的に取り立てて
おられるのだからな」
カルタラグンとタンジェリンの二家が揺らげば、それはカルタラグン
王朝の終わる時。
ルビリア・タンジェリンは騎士家の中から孤立した両家の結びつきを
さらに強めるために、タンジェリンから差し出された姫君であった。
カルタラグンとタンジェリンの癒着と共存。そのことにより、王朝へ向けられる他家の
反感がいっそう募ることは、明白でありながら。
「ヒスイ」
花の影が、日差しに暑い午後の庭に、鉄を撒いたような黒い影を落としていた。
少女は、少年を見向きもせずに通り過ぎていった。
皇子がなかなか見つからないので、探している眼をしていた。青い眼だった。
はぐれ騎士たちが捕われていた砦から、内親王フリジアの手配した女官の
手引きで脱出後、サンドライト・ナナセラはジュシュベンダに向かい、イルタルに
拝謁を願った。
まつりごととは無関係であるべき内親王の耳にヴィスタル=ヒスイ党の思想を
吹き込んだ罪により捕縛されたジュシュベンダ騎士、ビナスティ・コートクレール
の罪状について、イルタルのとりなしを願う為である。
ミケラン独裁体制の現状を憂い、聖騎士国の団結を求めたヴィスタル=ヒスイ党の
回覧文書をイルタル・アルバレスは黙殺したが、それとは別に、イルタルはジュピタ
皇家内部に反ミケラン感情の種を撒くために、フラワン家の御曹司についての
情報を求める皇太子の極秘の求めに応じるついで、自国の女騎士を
都の皇居に渡らせた。
聖騎士家及び、ヴィスタル=ヒスイ党の思惑どおり、ビナスティの
口を通して、内親王フリジアは、皇帝の前でミケラン卿への苦言を口にし、
皇帝ゾウゲネスはフリジア姫が求めるはぐれ騎士たちの釈放願いを退けたものの、
一連のこの流れは、居並ぶ廷臣たちに、反ミケラン勢力の浸透の深さを
強烈に印象づけることとなった。
あらたな政争の始まり、それは、ミケランを排し、聖騎士家の政治舞台への
復帰を意味する。
ヴィスタル=ヒスイ党という実体のないはりぼてを動かして、ジレオンは
ミケランへの反感と危機感を煽り、外堀を埋め、騎士国の意識を固めさせてきたが、
何といってもそれには、ミケランがユスキュダルの巫女を誘拐しようとした
事実が大きくものをいった。
ミケラン卿を退ける。
それは政変後、外枠に置かれ続けてきたレイズン本家の悲願であり、また
聖騎士国の長期的な希求でもあったが、カルタラグン滅亡後、慎重を極めてきた
騎士国にとって、タンジェリンの滅亡とそれに続くユスキュダルの巫女の
誘拐未遂事件は、ミケラン・レイズンへの反目を決定的、急速的に
促したのであり、ヴィスタル=ヒスイ党はここぞとばかりにレイズン本家と
ミケランの反目を強調することで、それを加速させたにすぎない。
ジュシュベンダの女騎士に洗脳されたフリジア姫の、御前会議での
言質、それはそのまま、イルタル・アルバレスが、ミケラン卿を今後は
支持しないことを皇帝に対して明確にした一幕だったのであり、黒幕である
自分の名を表に出すことなく、ヴィスタル=ヒスイ党との関係も拒んだ
かたちにしておきながら、しかし大国ジュシュベンダの今後の
方針をそれとなく、皇帝と諸国に示したものだったといえよう。
哀れなのは、駒にされた女騎士である。
フリジア姫に接近したジュシュベンダの女騎士は、フリジア姫の眼を
サンドライトら、ミケランに捕われた騎士たちの悲惨な境遇に向けさせることで
ミケランの独裁を内親王に認識させ、その良心に強く訴えることに成功したが、
そのために罪をかぶり、獄塔に収監されてしまう。
ことの重大さに目覚めたフリジア内親王は、慌てて獄舎からサンドライトを
密かに逃がし、ジュシュベンダのイルタル大君に直接ビナスティの救済を
求めるよう、彼に依頼。
イルタルは、該当の女騎士はとうの昔に当国に騎士籍なしとして、関与の一切を
撥ねのけたものの、寛大にも、サンドライト・ナナセラに対しては、亡命を認め、
国に迎えると請合った。
サンドライトはそれを断り、ただちにヴィスタの都に引き返した。
騎士の愚直一筋に、単独でビナスティを救い出そうとしたのである。
それを止めたのは、内親王の遣いであった。
ビナスティは獄塔から脱獄を果たしており、フリジア姫の遣いの女官は
それをサンドライトに伝えると共に、都に潜伏している彼に、逃亡資金を与えた。
それは、内親王とはいえ、自由に出来る金銭など持ち合わせてはいない
フリジア姫が、手持ちの宝石を売ることで用意した金だった。
「フリジア姫さまからのお言葉です。ご苦労でした。このまま、遠くへ
逃げてくれるように」
「ビナスティは、いったい何処へ」
「貴方さまのご尽力や、フリジア姫さまの想いが天に通じて、女騎士は都から
逃げることが出来ました。女騎士がジュシュベンダの工作員であったことは
明らかですが、皇帝陛下も本件を黙認したかたちとなっております。
ゆえに、これ以上の詮索は無用。貴方は知らないほうがよいでしょう」
コスモスだ。
直感的にサンドライトはそれを察し、落涙した。
あの美しい女騎士は、愛する男の許へと行ったのだ。
-----ヒスイ、ヒスイ
そう呼んで、姿を消した皇子を探し、陽の翳る庭の中をいつまでも彷徨っていた
あの姫とは異なり、真直ぐに、もう迷うことなく。
フリジア姫の女官と別れたサンドライトは、しばし、街路に立ち尽くした。
青い眼。
ユスキュダルのふもとの村で不遇をかこっている間も、カルタラグン宮廷で
見たあの眸は、それからもずっと彼に付きまとっていた。溶けることのない
呵責の氷として、ひやりと胸を掠め、忘れることはなかった。
(そうだ。あの姫が、まだあの眼をして、戦っているからだ。
俺や他の騎士たちのようにユスキュダルに隠遁することなく、
あれからずっと、遠い北の地で、その騎士の血を燃やして、戦っているからだ。
まだ幼年だからとふもとの村に残された俺とは違い、あの時からずっと
あの姫は騎士として、顔を上げて、逆風の中にたった一人で生きているからだ)
(他の誰もがそうなのだ。仕えるべき主君を、果たすべき願をもった騎士ならば
誰もがあのようにして、迷う事無く、修羅の道を黙って進むのだ。
イルタル・アルバレスも、ビナスティも、そうだった)
(それこそが----それこそが、王冠ある時も、野に朽ちる時にも、
騎士の誉れでなくて、何だろう)
カルタラグン家の騎士になることも、ヒスイ皇子を護ることも、ナナセラ王家の
人間として生きることも出来なかった半端者のこの身を、
ふと気がつけば、どこかから見つめて、問い訊ねてくる、冷ややかな星の青。
サンドライト・ナナセラは、空疎な心を抱え、ヴィスタの都をうろついた。
上位騎士としての血が、農夫となって生きることも、このまま流浪の身として
去ることも、そのどちらも、ゆるさなかった。
レイズンの砦に捕われた騎士たちを鼓舞し、ミケラン卿を斃すべくヴィスタル=
ヒスイ党の救いを信じ、罪に墜ちた女騎士を救い出すと決めた、あれらの一時的な
充足と高揚感はとうに失せ、これで状況は、また元通りだった。
このまま都落ちした身で朽ちてゆくのかと、憔悴の中でのた打ち回っていた、
これまでと同じだった。
都の雑踏の中、彼は歩き出した。
あの女騎士が主君のために命を投げ打ったように、騎士には、その為に
生命を燃やす、至高の対象が何としても必要なのだ。
さもなくば、あり余る力を持て余し、鬼畜と成り果て、浅ましい獣の姿で
地を流離うことになるだけなのだ。
外套の頭巾を深くかぶり、彼は歩いた。
市街の外へと通じる大門が見えてきた。
知らず知らず、サンドライトのその脚は、コスモスへ繋がる街道へと向かっていた。
コスモスへ行けば。
目下、二大騎士団をはじめ、諸国騎士団が集っているところの、コスモスへ行けば。
そこに行けば、何か、見つかるだろうか。
いや、見つけてみせるのだ。
コスモスには、ユスキュダルの巫女がいる。
(巫女の、御許に。今度こそ)
コスモス入りした彼を待っていたのは、ジュシュベンダのシャルス・バクティタ
将軍を射、ハイロウリーンとジュシュベンダの会見をご破算にした不審者を
草の根を分けても狩ろうとしている、あらゆる国の、あらゆる探索者たちだった。
よく、ここまで逃げおおせてこれたものだ。
それが、サンドライトの話を聞き終えた、シュディリスの率直な感想であった。
上位騎士だから可能だったのだろう。サンドライトからは、何人もの人間を
斬って切り抜けてきた、凄みの残滓のようなものが漂っていた。
「コスモス城へ近づくどころか、追われて逃げ回るのが精一杯」
自嘲気味にサンドライトは焚き火に手をかざした。
「情報提供者には高額の褒美金が出るとかで、どいつもこいつも
血眼になっているのだ。もっとも、コスモス領主タイラン・レイズンは
自領における賞金つきの捕り物を、不法であるとすぐさま抗議
したそうだから、ハイロウリーンもジュシュベンダも、表立っては、おとなしいがな」
夜になった森は暗かった。
砂漠で水を見つけた旅人のような狂おしい眼をして、サンドライトは
もう一度シュディリスの方を向いた。
「教えてくれ。御身は、カルタラグンにゆかりの方なのか。
もしや、縁のある方なのか」
「それを聞いて」、シュディリスは膝にあてて枝を折ると、焚き火に枝を足した。
「それを聞いて、どうなさるおつもりなのです」
「もし、君が、カルタラグンの騎士ならば。ヒスイ皇子と縁のある方ならば」
コスモス城に近づきたいのはどちらも同じ。
口に出さぬあたりで、同じ願いを抱えた男二人は、それを敏感に察しながら
互いを探る眼つきになった。
近くの木に繋がれた馬パトロベリは、そっぽを向いて、黒い影になった耳だけを
立てていた。
「上位騎士であるわたしが放った矢を馬上から落とした君の、あの剣さばき。
もしも、君がカルタラグン騎士ならば。それならば」
サンドライトは疲れた顔に、ぎらぎらとした執念をのぞかせて、その宿願ごと
シュディリスの言葉を待った。
彼の眼は、シュディリスの青い眼を食い入るように見つめ、そこから離れなかった。
嵐の過ぎた夜空に、ようやく星を見つけた船乗りのように、想いのたけの
すべてをこめて、サンドライトはシュディリスを睨みつけるようにしていた。
森の木々が、夜風に揺れて、一つの名を寂しく唱えていた。ヒスイ、ヒスイ。
この世お終わりまでそうしているのではないかと思われるほどに、夜の木々は
その名を呼び続けた。
「ヒスイ・ヒストリア・カルタラグン皇子」
その名を、シュディリスは口にした。
サンドライトは、どきりとして、シュディリスを見つめ返した。
シュディリスは顔を上げ、梢の先の星空を追っていた。
ヒスイ。どこ。
シュディリスは死者に敬意をはらい、剣を鞘ごと眼前に立てた。焚き火の焔が
その半身を照らした。彼は云った。
「わたしの名は、シュディリス・フラワン。父はトレスピアノ領主カシニ。
母はリィスリ。しかしそれはわたしの名ではない」
風が止まり、星空がひらけた。
「父はヒスイ皇子。母はハイロウリーンの騎士」
躊躇いを突き放すように、シュディリスは一気に云った。
「シュディリス・カルタラグン・ウィスタビア。赤子の頃はそう呼ばれた。
ですが、フラワン家の子として生きて、一度もそれを疑ったことはありません」
サンドライトは身をふるわせた。
そのサンドライトの真上に、青い星が瞬いていた。
「ヒスイ皇子の。ヒスイ皇子の御子と、そう云われたか」
感動に身を貫かれ、わななきながら、サンドライトは繰り返した。
探していた場所、政変の夜に焔の中で失われた、あの死に場所。
「昨日のことのように想い出す。ルビリア姫を頼むと俺に云われた時の、
あの方のあの声、あの笑顔。では貴方は、本当に」
それ以上、もう何も云えずに、不遇の騎士は日焼けした品のいい顔を
くしゃくしゃにゆがめ、がくりと膝をついた。
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丘陵に、日が暮れようとしていた。
まだうら若い王妃が、侍女を連れて、明るい野道を歩いていた。
丘の向こうには、城があった。
夕焼け雲がまつわっている尖塔は、薄暮の空にくっきりと白く伸びて、
その上に、宵の星が小さく幾つか瞬いていた。
王妃は、天空を仰いだ。
金色の雲が流れる空は、菫色や朱色に染まり、そこに冷たい風が吹いていた。
「流れ星」
流星の影を見た気がして、若い王妃は踏み出した。羊の群れがのんびりと鳴いた。
それは錯覚であったのだが、王妃には見えた気がした。
天頂付近から、すうっと伸びて、コスモスの城へと墜ちてゆく、白く細い、その影が。
「とても、きれいな幻でした。小さな矢のような」
花束を抱えて散歩から戻ってきた王妃の言葉を、若い王は暖炉の傍で聴いた。
少年と少女のうちに夫婦となった二人は、たいそう仲睦まじく、家と家とが定める
婚姻の中でも、もっとも幸福なかたちで結ばれた仲であった。
「流れ星か」
若い王は興味を惹かれた顔をして、もっともそれは、王妃の話に心を傾けて
いることを示す反復であったが、王妃につられて、窓の方へと顔を向けた。
星月夜の晩だった。
「この城の上を過ぎたのか。よい兆しだといいな」
「本当に」
「どうせなら、豊作のしるしだといい」
「あら」
王妃は口許をほころばせ、暖炉の前の椅子に腰を掛けて武具を磨いている
夫の肩に手を添えた。
若い王は無言で、武具の手入れを続けた。
人前でも、こうして二人きりでいる時も、あまり親愛の情を露骨にはしない
夫であったが、若い王妃は、それでもよかった。
暖炉の火影はそんな二人をあたたかい色で包みこんだ。若い二人には
それだけで、もう充分だった。
照れたように、王が後ろにいる王妃に、磨きたての剣を見せた。
「どうだ」
「鏡のようになりました」
「危ないな。すぐに、仕舞う」
「大好きな、あなた」
安らぎの中で、王妃は王に囁いた。わたくし、流れ星に願い事をしました。
「そうか。なにを」
王はますます照れて、ぶっきらぼうになりながらも、剣を鞘に収め、ちゃんと
妻の方へ向き直った。妻はその平らな腹に手を添えて、にっこりと微笑んだ。
ここに、あなたの子が、授かりますようにと-----。
数年後、王は王妃に云っていた。
子など、養子をとればいい。俺がオーガススィからコスモス家の養子となったように。
だから何も気にすることはない。あれだ、こういうことは、どちらの責任でも
ないことだ。子が出来ぬのは、誰の責任でもない。むしろ俺はお前に
すまなく想ってる。
すまないと。
クローバ・コスモスは夜空を仰いだ。黒い影絵となった城の尖塔の上には
星を満たした大空があった。
この城には、故人の想い出が多すぎる。隅々にまで、亡くした妻の姿や声がする。
流れ星などそう珍しくもないというのに、人は何故、それに願いなどを
かけるのだろう。墜ちて、消えてゆくだけのものなのに。
夜の庭に出て、クローバは星空の下にうなだれた。
「サンシリア・クロス・オーガススィと婚約し、新しい騎士家を?」
誰だそれはと一瞬思いかけたほど、耳なじみのない名の一つだった。
そういえば、ハイロウリーンに嫁ぐことが決まった一の姫と二の姫の下に
まだ幼い三の姫がいたはずだ。サンシリアとは、その姫のことか。
(誰に向かって何を云いやがる。愕きだぜ)
クローバは辛うじて抗議をのみ込んだ。
しかしその日の昼間、その話をクローバに持ちかけたソラムダリヤ
皇太子は他意のない笑顔であり、戸惑うのも無理からぬことと年長の
彼に理解まで見せて、穏やかにそれを勧めた。
「ミケラン卿とも相談したのです。このまま、貴方の持つ竜神の血が絶え、
野に消えてゆくのは惜しい。血統の保全こそ、帝国の基盤だ。そうは
思いませんか。オーガススィの姫ならば、貴方とも釣り合いが取れているし、
申し分ないことです。名家の姫君を迎えて、旧カルタラグン領の一部を
貴方の新領地とし、新しい騎士家を興してはどうでしょう」
それをクローバに語るソラムダリヤは、あくまでも、善意で云っているのであった。
庭園の端からは、コスモスの街が一望できた。
「ミケラン卿はもとより、そのつもりでいたそうです。クローバ殿が
ジュシュベンダに迎え入れられて、亡命先のジュシュベンダの
臣となるならばそれもよし、しかし強い騎士の血の永続のためには、
皇帝に認められた新しい騎士家を持つのがもっとも望ましいと。
その場合には、貴方はコスモスの名を棄てることになりますが、もとを
ただせば、貴方はオーガススィ家からの養子です。復縁とは大袈裟ですが
オーガススィ家の姫と結婚することで、晴れて本流にもどってはどうでしょう。
サンシリア姫と結ばれれば、強力な聖騎士家の後ろ盾が出来ることにも
なるのです。悪い話ではないと思うのですが」
「ソラムダリヤ殿下」
「もちろん、貴方が嫌ならば断ってもよいのです。
貴方にはその権利と自由があり、わたしはそれを
重んじています」
にこやかにソラムダリヤはクローバに猶予を与えた。
思いついたことに夢中といった感じすら漂わせて、好青年らしく、皇太子は
クローバの拒絶感には気がつかなかったし、むしろクローバが妻フィリアを
失った過去の不幸については、一寸たりとも触れないようにと、その優しさから
細心の注意で気を配り、あえてそこを無視してすらいた。
「わたしは、気がついたのです」
何かいいことでもあったのか、ソラムダリヤは緑の庭を歩きながら、穏やかな
表情で周囲を見廻した。
午後の陽に照らされた庭園には、たくさんの花が咲いていた。
「身近に愛し愛する人がいるかいないかというだけで、この世はまったく
違ってみえるものだと。それについて、幻想じみた過大な期待や評価を
するものではないのです。愛する人がいたところで、何もかもが単純に
一変することなど、ないとも思います。浮かれ上がり、周囲が見えなくなるほど、
わたしの視野は狭くないつもりです。
その上で云うのですが、誰かを大切に想い、想われることは、人間のごく
基本的な、そしてもっとも尊い希求なのだということが、最近になってようやく
分かったような気がしているのです。
陳腐な言い草でしょうが、もう少し、我慢してきいて。
貴方は騎士、それも高位騎士だから、わたしとはまた違う理想があることだろうね。
きっと独りでも、強く、迷わずに、人として賢く生きていくことも出来るだろう。
貴方が以前と変わりなくコスモス領民から慕われていることといったら、こちらの
胸まで温まる想いがするほどです。だからこそ、わたしはこの話を思いつき、
ミケラン卿に相談までしたのだろうな。この人を、放浪の騎士などのままには
してはおけないと」
しっかりとした声で話しながら、皇子は頭上に咲いている花に眼を留めて、
やわらかな顔をした。
クローバは少しそのことに留意した。
ほんの些細なことではあったが、会話の最中にも、美しいものに眼を
向けるだけの心の余裕と、周囲への気配りがこの皇子にはあるという
ことだからだ。
ソラムダリヤは、皇帝の唯一の男子として生まれた
青年であったが、生まれながらに帝国の将来と重責を
ずっしりと背負わされた立場にしては、実に健やかであり、それは
もともとの彼の聡明さ、善良で謙虚な性格などの素質もあったが、何よりも彼の
教育係であったミケランが極力、彼のその美点的素質を放任の中で伸ばし、いくら
あのままでは頼りない、あれではいけない、成長していないと外部から云われようが、
ソラムダリヤ自身の魅力と努力が十全に伸びるようにと気を配っていたからに
他ならなかった。
それこそが、ミケランがもっとも配慮した、皇子のための教育環境であったし、
これは誰しもが認めるところであったが、ミケランは、皇帝および宮廷人から
成長期のソラムダリヤについて何を尋ねられても、
「良い皇子です」
としか応えることはなく、少々の難点があったとしても、それを口にすることも、
「だからこのわたしが直してやりたいのだ」
「あの皇子はこうすればもっと良くなるのに、それが分かっていないのだ」
「目標がない、可哀相な皇子なのに違いない」
といったような、己の優位をことさらに強調し、ソラムダリヤを劣れる者として
悪評価と共に人前に突き飛ばすようなことも一切しなかったのであり、結果として
皇子の周囲は、皇子に対して、先入観なく皇子のありのままを好意的に見、
引き上げるといった、最良の相乗効果の上昇気流が当時に出来ていた。
そしてソラムダリヤは、それに見事に応えた。
ミケランが影もかたちも師としての名を出してこないために、ともすれば
世間からはもう忘れ去られてはいるものの、ミケランとソラムダリヤは
教師と生徒として、双方の努力により理想的な関係を築いたのであり、
そして皇太子はその成果を、控えめながらも、こうして次々と
開花させようとしていた。
「クローバ、わたしは帝国の皇太子として、誰もが倖せで
あって欲しいと願います。それは理想論であり、現実にはまず
無理であることも、承知しているつもりです。
独りよがりな、言葉に酔っているだけの空々しいものかもしれません。
立場上唱えているだけの空論だと責められても仕方がないと、自覚しています。
だから滅多には口にはしないのですが、二人きりなのだから、今だけは
それも大目にみてくれるように」
クローバは黙っていた。
そんな不敬もふしぎと無礼にはならない寡黙な年長者に、皇太子は
鷹揚に微笑んだ。
かのヒスイ皇子のようなまばゆいほどの華やぎこそなかったものの、ソラムダリヤには
誰に対しても丁寧な態度と、その誠実さを疑いなく信じてもらえるという、得がたい
特質があった。
青年皇太子は、庭園の端から下界を望んだ。城を遠巻きにしてハイロウリーン軍と
ジュシュベンダ軍がそれぞれに旗を立てて布陣しているのがそこから見えた。
それを見つめるソラムダリヤはわずかに厳しい顔をしたが、クローバにも
気づかれぬうちに、すぐに視線をそらして、笑顔にもどった。
「だからね、クローバ。わたしは尚更のこと、貴方にこの縁談を
勧めたいのです」
親しみをこめて、ソラムダリヤはクローバに云った。
「一度無位無官となった貴方が新しく騎士家を持つことについては、外野からの
反発や、反対意見も出てくることでしょう。
オーガススィ家も、サンシリア姫を出すことを、出し渋るかもしれない。
だからこそ、皇太子であるわたしから、この縁談を勧めるのです。
貴方には打ち明けてもよいと思うのですが、実はある女人を、リリティス・
フラワン嬢を、わたしは妃に迎えたいと望んでいます。皇帝陛下もそれを
お認め下さいました」
ソラムダリヤはちょっとはにかみ、節度のうちにも隠し切れない嬉しさを表情に
浮かべながら、浮かれて見えないように慎重に、ひと呼吸をおいた。
きちんと真意が相手に伝わるようにと、ソラムダリヤはクローバの眼を見た。
ヴィスタチヤ帝国の皇太子は凛と声を張った。
「わたしとリリティスの結婚と期を合わせて、貴方とサンシリアの婚姻を
同時に行えば、誰も、何も、ことさらに異を唱えることはないと思います。
祝賀の雰囲気の中で、勢いのまま、新騎士家を設立してはどうでしょう。
挙式の日をわたしたちのものと重ね、それを皇帝の前で執り行えば、
ほぼ反対意見を抑えることが出来るはずです。
ヴィスタチヤ帝国は騎士家に支えられているのです。衰退してゆく一方の
騎士の血を次代に受け継ぐことの重要性については、失礼ながら子の
いない貴方がいちばんよくお分かりでしょう、クローバ・コスモス。
これは強要ではありませんし、返答を急がせるものではありませんが、おのずと
導き出された、よき道の一つだと覚えておいて下さい。少なくとも、わたしは
それを貴方のために祝福し、望みます」
昼間、ソラムダリヤと逢っていた同じその庭を独りで歩き、クローバは
黙然と、剣柄を握り締めた。
庭の草の上に、城の灯りが枯葉色で伸びていた。
野の騎士に落ちた身の上に持ち込まれたソラムダリヤ皇子の話はまったくもって
ありがたいばかりであり、内容もどう吟味しても、騎士の義務としては
当然といったものであった。
彼や、サンシリア姫の意志、双方の年齢差などは問題ではない。これは騎士の血の
保存の為の婚姻なのであり、彼自身の幸不幸にはまったく関係のない、身も蓋もない
云い方をするならば、事務的な作業と割り切るべき事柄だった。
かつて、彼も、そうやってタンジェリンのフィリア姫を妻とし、この城に迎えたのだ。
(それにしても、なんだな。皇太子殿下は、素直といえば素直であられる。
リリティス・フラワンとの婚約で、一本ねじが飛んでしまったのだろう。
ばら色の明日を信じ、夢みて語ることが出来る分だけ、お若いことだ)
やり切れぬあたりを物に当たるでもなく、クローバは木に背を寄せ掛けた。
彼は黒い影になっている城を仰いだ。
(この世でいちばんの大ばか者)
(ジュシュベンダに、ハイロウリーン。ミケランに、あの小生意気なジレオン。
大勢が面を並べて、まるで、この世でいちばんの大ばか者は誰なのかを
このコスモスで競っているかのようだ。外面だけを外聞よく整えて、そのくせ
浮世の浮沈に意地になって、俺も含めて)
クローバの眼に、城と地上の双方の松明の火が映っていた。天頂から鋭く
落ちてそこを横切る星の影などなく、鬱々として、夜の闇に燃えていた。
同じ頃、女官を通して訪れを告げた後で、リリティスの部屋を訪問した
ソラムダリヤは、おもむろにリリティスの両手を握った。
「夜分遅くにすみません。ちょっと顔を見たくなって」
「ソラムダリヤ様」
「あだ名で呼んで」
彼は長椅子に坐ると、リリティスを隣りに坐らせて、その肩に顔を埋めた。
リリティスは愕いて、ソラムダリヤを支えた。どうしたのだろう。
「ソラム」
「昼間、クローバと話した。彼は単純な人だけど、それでもこちらの真意を
見透かされるんじゃないかと、緊張したなぁ」
「え?」
「クローバはきっとわたしのことを、愚かな若造だと思っただろうな。
それこそ何も考えていない、頭の中に夏の花でも咲いた、脳天気な皇子だと。
でもいいのです、肝心なことはクローバに、未来があることを見せること
だったのだから」
身をずらしてソラムダリヤはリリティスの膝に頭を乗せると、リリティスの髪を
指で引っ張り、下からリリティスに微笑みかけた。
不意打ちといってもいいこの親しげな接近に戸惑いながら、リリティスはさせるままに
させておいた。
「クローバ様が、なにか」
「この話、それとなく広めて、ヴィスタル=ヒスイ党にも知らしめておくつもりです」
ソラムダリヤは額に腕をおいた。
「わたしに出来ることなど何もないけれど。捨てばちになるとしたら、
コスモスのために、自己犠牲を厭わぬ人物がいるとしたら、まず真っ先に
クローバだろうからね。縁談の話は、半ば本気で、半ば口実。
よからぬことに彼が利用されないように、皇太子の意向を先に匂わせて
外側から布石を打ったつもりなのです。クローバには未来があるのだ。
彼の努力を無駄にしてやりたいという薄汚い願望のもとに、巧妙な風評を
ばら撒くことで運命を決められてしまった人間などではないのだ。
ここで無駄に命を散らせてはならない」
「殿下……」
「どうしてこんなことを思いついたか、分かりますか。わたしはとても
利己的な人間なのです、リリティス」
「そんな」
「クローバ・コスモスは、トレスピアノ領主夫人リィスリの実の弟。君とも
縁のある人だと思うと、とても見過ごせなくてね」
「ソラム」
「父上が退位されたら、この国は、わたしの統べるものだ。ミケランが
いなくなった時のことを、今から考えているのです。カルタラグン家と
タンジェリン家に代わる新しい聖騎士家を興すことは、新風を吹き込み、
帝国の基盤を再構築する意味からも決して悪いことではない。
その領主として、人望を集める高位騎士クローバほど確かで、相応しい
人間がいるだろうか。ここだけの話、口ばかり動かしているジレオン・ヴィル・
レイズンなどよりは、率直なクローバのほうが、よほど信頼がおけます。
ご意見番として、ぜひ彼が欲しい」
「……」
「最初は旧カルタラグン領を割いての小さな国からの出発となるだろうけど
コスモスも小国だったのだし、一度領主であった身で、しかも彼ほどに
民から慕われる人物ならば、誰よりもうまくいくと思うのです。
わたしと貴女の婚礼の祭りのどさくさに紛れて新騎士家を擁立して
しまえば、誰も文句は云わないでしょう。もちろんこれは、すべてが
片付いて、そして何よりもわたしの妃となる貴女の気持ちが固まってからの
ことだけれど。そろそろ、わたしも今からきちんと将来を見据えて
動いておかなければね」
「あの、それで、クローバ様はなんと」
「返答なし。終始、この皇子はどこまで間抜けなのか、そんな顔をしてたなぁ」
皇子は笑い、心地よさそうにリリティスの膝で眼を閉じた。
礼儀正しくも、ソラムダリヤはそれからほどなくして立ち上がり、夜の挨拶を残して
自室に戻って行った。
一人になったリリティスは、放心し、それから沸きあがってくるあらゆる不吉な
予感や想像をもてあました。
ミケランがいなくなった時。
はっきりとソラムダリヤはそう云った。
急速に男らしいところを見せるようになったソラムダリヤにも軽く愕いたが、それよりも、
ソラムダリヤまでもが、ミケランを見放すつもりなのだろうか。
一方、部屋にもどったソラムダリヤは、上着を脱ぎながら、小さく呟いた。
「二大騎士団ジュシュベンダとハイロウリーンを担ぎ出し、さもこれは聖騎士家の
総意なのだと大局を装いながら、ミケランにクローバをぶつけて、自分の手は
汚すことなく漁夫の利を得ようというのが、ジレオンの目的だろうな。
そうはさせないよ、ジレオン。
何も貴方が気に入らないというのではないけれど、わたしの世となった時に
この調子でレイズン本家が突出して増長しないよう、ここらでくい止めておかないと」
小姓が椅子の背にかけた上着を引き取った。
「あちらに、湯浴みの用意が出来ております」
「ありがとう」
あくびをして、ソラムダリヤは首筋を叩いた。
「続く]
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