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[ビスカリアの星]■八六.


谷あいに、陽が差した。
何百年も前に放棄された寺院の址が、崖の底に白く浮き上がった。
苔に覆われた遺跡は、その柱や、破風に、古代コスモス王国の
様式を色濃くとどめていた。

  -----マリリフト様。カルタラグン騎士、マリリフト様。
 
最近になって立てられた防御柵の向こうから、コスモスの村人が呼んでいた。
呼ばれた彼は、石段を踏み越え、隠れ処の外郭まで出て行った。
 「マリリフト様。都で栄えておられた方々が、このような廃墟で
  雨露をしのばれておられるとは」
 「いや。思ったよりも居心地がよく、不自由ない」
マリリフトは両側にそそり立つ岩崖を見上げた。
日光は乏しく、冷えた風が流れるが、何よりも湿気がないのがありがたい。
森へ出れば、薪を得ることも、狩りもできる。
何よりも、神殿の奥の間に入ってしまえば、あの夜以来、得ようとしても
得ることが出来なかった、静寂と安らぎが手に入る。
 「領主よりの、伝言でございます。
  これは非公式のものと、お心得下さいますように」
村人に身をやつしたコスモスの使者は頭を下げた。緊張の一瞬が流れた。
マリリフトは、窪んだ眼を光らせて、使者の言葉を待った。
 「領主殿は、我らについて、なんと」
 「『諸兄らはいないものとみなす』、と」
 「いないもの」
 「はい。そしてこう仰せでした。お達者であれ、と」
マリリフトは、使者の言葉を黙然として聞いた。
コスモス城よりやって来た使者が峡谷の狭い道を苦労してまた戻り、
引き返していくのを見送って、寺の廃墟から、カルタラグンの騎士たちが
顔を出し、マリリフトの周りに集まってきた。
彼らは一様に憔悴していたが、その矜持はまだ崩れてはいなかった。
 「マリリフト」
 「聴いたとおりだ」
マリリフトは頑健な顔を上げ、騎士たちを見廻した。
声を強めた、その顔面を、陽の光が白く照らしつけた。
 「コスモスの若き領主殿は、ご寛大にも、我らを幽霊と見做して下さるそうだ」
 「幽霊……」
 「そんなかたちで、この寺院の廃墟に棲みつくことを、黙認くださったのだ」
 「追討もせず、領内に迎え入れもしない代わりに、隠れ処を与えて下さると」
 「そうだ」
 「助かった」
弱り果てていた騎士のひとりが地に膝をつき、泣き伏した。
 「助かった。それではもうレイズンに追われることも、レイズンに
  引き渡されることも、ないのだな」
 「街道が封鎖され、もはやユスキュダルへ向かうことは叶わぬと云ったな。
  では取り残された、この僅かな人数で、こんな僻地の廃墟に暮らせというのか!」
 「そうするのだ。巌のように、苔のように、しがみついて生きるのだ」
マリリフトは、反論を封じるように、一同を睨みまわした。
 「誰が知らずともよい。この谷を第二のユスキュダルと定めて、地上最後の
  カルタラグン騎士としての使命をまっとうするのだ。斃れていった盟友たちの
  御霊を弔い、今日限り、俗世のことは忘れ、時を忘れて過ごすのだ。
  それより他に、心狂わずにいる途はない」
 「そんな……」
 「星と語って生きるのだ」
ビスカリアとは、古い言葉で、騎士の真を意味する。その由来は、コスモスの
古語にあるという。
ならば、この地で終焉を迎えるのもさだめだろう。
政変の焔から逃れてきたカルタラグンの男たちは、皆、泣いた。
うなだれて滂沱している彼らを残し、騎士マリリフトは、古い寺院の中に姿を消した。



三日月型に帝国を囲む山脈が、峰を淡いばら色に染めて
朝空の下に連なっていた。朝露に濡れた一面の野は霧が流れた
湿りを帯びて、ところどころに黒土をのぞかせながら、朝日にかすむ
彼方まで、延々とうねり、青空に続いていた。
細い雲が、天空の高いところに流れており、それは竜の影のようだった。
 「皇子」
サンドライト・ナナセラが、前方を指差した。
皇子、というその響きの中には、ようやく主君を得たことによる、隠しても
隠し切れぬサンドライトの喜びがこめられていた。
サンドライトの馬に並んで、シュディリスは顔を向けた。
 「なにか」
 「もうすぐです。もうすぐ、カルタラグンの隠れ里に着きます」
早朝、サンドライトはシュディリスを少しの間森の中に待たせると、自身の
馬を調達して戻って来た。盗んだのではなく、金はちゃんと払ってきたという。
サンドライトは財布を見せた。
 「文無しでしたが、出立前にイルタル・アルバレス様より少なからぬ旅費と、
  フリジア内親王さまからも、ご覧のように、お金を戴いてきたのです」
シュディリスは、馬パトロベリをサンドライトの馬と並べ、丘陵を見渡した。
レイズンの監獄の中でサンドライトが聞き及んだところによれば、その
カルタラグンの隠れ里は、竜の隠れ里と地元の人たちからは呼ばれ、現在地より
ほど近い、コスモス領の国境沿いの谷にあるという。
サンドライトは、その存在を、レイズンの獄中で聞いて知った。
 「政変の後、ユスキュダルには向かわず、北へと逃げた者たちも
  いたのです。彼らはハイロウリーンに助けを求めるはずでした。
  しかしレイズン軍が街道を封鎖する方がはやかった。引き返そうとしても、
  分厚くなる一方の封鎖網を突破する戦力は既に彼らには残されてはおらず、
  彼らはやむなくコスモスの谷に隠れすんだのだそうです。何故ああも
  一夜にして、カルタラグンが滅亡したか」
 「三代続いた奢侈に慣れたカルタラグンには、有事の構えがなかった。
  加えて、カルタラグン領を離れ、ヴィスタの都に居を移した時から、騎士団は
  形骸化の下り道を辿っていたから」
 「そのとおりです」
サンドライトは眼をほそめた。
 「カルタラグン王朝は華やかでした。そこにおけるカルタラグン騎士団とは、
  戦闘兵士というよりは、騎士道の花形として理想の体現化を目指している、
  壁画のような存在でした。外見だけを整えられた、儀仗兵です。
  もっとも、少年だったわたしの心を魅了するには、それで充分すぎる
  ほどでしたが」
一夜明けたサンドライトは、おなじ器に別の魂が乗り移ったかのように
その顔に生気と士気を力強く湛え、きびきびと、それまでのあてどころなく
地を流離う泥人形から、生きる指針をもった騎士へと、鮮やかな変貌を
果たしていた。
もとより上位騎士として、不遇にあっても並外れた品性と精神を保っていた
サンドライトであったから、一度方向性が固まると、目覚しいほどに気力を
取り戻し、血走った眼をして農民に追われていた時の彼とは別の人のような
堂々たる落ち着きをみせて、シュディリスの前にあった。
はぐれ騎士から、その魂を捧げる主を持つ騎士へと変身したサンドライトの
この見事な様子を見ていると、ジュシュベンダのイルタル・アルバレスが
ジュシュベンダの騎士になるようにと、彼を勧誘したのも、あながちお世辞とは
いえなさそうであった。
大勢の騎士を見てきた大君だからこそ、ひと眼みて、たとえ身なりは
粗末であってもその心意気とひめたる力たるや、騎士の中の騎士である、
これやよしと、サンドライトを高く買ったのであろう。
 「シュディリス様。われら二人だけでは、コスモス城へは近づけません。
  ここはひとつ、カルタラグンの隠れ里へ向かいましょう」
 「隠れ里」
 「竜の隠れ里です。ヒスイ皇子の御子が生きていると知れば、
  彼ら、どれほど喜びますことか」
同じ不遇をかこってきた身として、胸を満たす積年の想いがあるのか
それを語るサンドライトの声はつまった。
 「騎士にとって巡りあうべき主君を持たぬことほどの、悲運はありません。
  あり余る力の行方を、見失うことほどの、無残はありません。
  竜の里に隠れた彼らは、野盗の類に成り下がることも出来ぬまま、
  竜神の騎士の誇りを支えとして、今も、そこにいるのです」
 「分からない。コスモスは彼らを放置していたのだろうか」
 「前領主クローバ・コスモス様が評判どおりの御仁ならば、それも頷けるかと」
ああ、そうかもしれない。
クローバの性格を顧みて、シュディリスも、そこは認めた。
クローバは、放逐もせず、擁護も援助もしないかわりに、彼らをそんな
かたちで廿年近く、自領近くに匿ってやっていたのだろう。
不当なる手段で皇帝代行に居座っていた罪状で追い落とされたカルタラグンに
力を貸したり憐れみをかけることは、皇帝側に正義があったその当時、かなりの
危険を伴っていたはずだ。
これが他の領主ならば保身の為にも大急ぎでレイズンに密告し、騎士たちを
引き渡し、褒美を受け取っただろう。
が、クローバは、「黙っていろ」のひと言で、収めてしまったのだ。
シュディリスは呟いた。
 「彼らは、トレスピアノに来ればよかったのに。父上ならば、きっと彼らを
  領内に入れ、亡命を認めただろうに」
 「それはないかと」
サンドライトは眉をひそめた。
 「誰ひとり、それは考えませんでした。トレスピアノ不可侵領は、他でもない
  ジュピタ皇家との結びつきによってそれを認められている自治領です。
  いわば、敵領も同然でしたから」
 「トレスピアノは、旗色を明らかにしたことはない」
 「大挙してカルタラグンの人間がトレスピアノに押しかけ、保護を求めたとしても、
  皇帝皇后、翡翠王子は討ち取られたあとであり、蜂起しようにも、
  トレスピアノはそれをするに適した土地ではありません。フラワン家は
  騎士家ではなく、トレスピアノは騎士領ではない。
  楽園の飼い犬になりさがるよりは、死んだほうが、ましだ」
サンドライトは、最後の語尾を、叩き付けるように絞り出した。
それでか。
長年漠然と疑問であったことに答えが出た。シュディリスは、晴れてきた山を見た。
それで、ルビリアは、トレスピアノへは逃げてこなかったのか。


主従の絆をシュディリスと結ぶにおいて、それをシュディリスに強いた
サンドライトの言い分はこうだった。
 「わたしは、ヒスイ皇子の騎士でした。騎士の誓いにもとずき、その御子である
  シュディリス様にお仕えするのは、当然です」
 「断ったら。つまり、この場で、そなたをカルタラグン騎士より解任したら。
  ナナセラの王子、サンドライト殿」
地に片膝をついたサンドライトは疑うことを知らぬ赤子のような顔で、シュディリスを
見上げ、微笑んだ。やつれた男の頬には、歓喜の涙がふたたび伝い落ちていた。
 「その権限を持ったヒスイ皇子がもうこの世にいない以上、わたしがそう
  望んでいる限り、わたしは死ぬまで、カルタラグン騎士サンドライトです」
星の雨にうなだれるようにしてサンドライトは厳かに俯くと、シュディリスの剣先に
誓いの接吻をした。木々の影が、王宮の柱のように空に伸びていた。
ユスキュダルの巫女を、お救いいたしましょう。
夜の静寂の中、ひそやかに、サンドライトはシュディリスにそう告げた。


馬鞍の上でシュディリスは、つめたい朝風を吸い込んだ。
 (また一つ、余計なしがらみを抱え込んだ)
翡翠皇子の子であることについては、なんの有難味も見出したことのない
シュディリスにとっては、そう思われるのである。
愚痴でもつきたいところであるが、それよりは朝の新鮮な風で胸の中を
あらったほうが、まだいい。
昨夜サンドライトが見せたような、あれほどの信頼、あれほどのひたむきな
献身を、日々、何千何万という騎士たちから捧げられているジュシュベンダの
イルタルや、或いはハイロウリーンのフィブラン・ベンダはご苦労なことだ。
身がもつまいと思われるところを、あれほどの大騎士団を率い、律しているので
あるから、たいしたものだ。
断ることは出来なかった。
翡翠皇子の遺児であると名乗った以上、サンドライトを拒むことは出来なかった。
地上を流離う幽鬼のようなサンドライトのぎらついた眼を見た瞬間、この男に
何が欠けているのかが、欠けた鏡を合わせるようにして、見とおせたせいだ。
それで、つい手を差し伸べてしまった。素性を明かしてしまった。
 (自業自得だ)
黙然と朝露の野に馬を進ませていたシュディリスは、顔を前に向けたまま、
少し馬の歩を落とした。そこは少し窪みの低地になっており、視界が悪かった。
 「シュディリス様」
 「レイズンの哨戒が」
サンドライトは横手から来る六騎をみとめて、眼をすがめた。
 「コスモス領内なのに、勝手な真似を」
シュディリスはサンドライトに続いて、剣柄に手をかけた。主従は一体である。
レイズン本家の旗を立てた哨戒はこちらを指して、何かを云っていた。
停まれという合図を送っている。
 「お待ちあれ。もしや、シュディリス・フラワン様ではあられませぬか!」
レイズン側の隊長が声を張り上げた。
 「オーガススィから失踪された、シュディリス様ではありませぬか!」
 「どうしますか。お探し申し上げていた、と云わんばかりですが」
 「レイズンに用はない」
そうだと応えて、どうなるというのだろう。
ご丁寧にも、コスモス城へ案内してくれるとでもいうのだろうか。
シュディリスは顔を上げた。
ここで捕まっては、終わりだ。
 「竜の隠れ里に逃げ込んでも迷惑がかかる。道を戻って振り切ろう」
 「斬り捨てては」
サンドライトは、はや、剣を抜いていた。
 「ハイロウリーンとジュシュベンダの会見に矢を射込み、会談を台無しに
  した者がまだ捕まっていない現在です。コスモスに駐屯している全軍が
  ぴりぴりしている。ここで彼らを倒しても、疑いは他へ逸れてくれるはずです」
 「フラワン家の御曹司さまではございませんか。もしやそうならば、我らが主である
  レイズン本家ジレオン・ヴィル・レイズン様より、手厚く保護せよとの命を
  受けております」
 「ジレオン。ヴィスタル=ヒスイ党の頭目の?」
しつこい。
都の御用邸に母リィスリを捕え、実兄であるトスカタイオをそれで脅し、
さらにはリィスリの脚止めとして、オーガススィに自分を半軟禁させていたような、
しみったれた陰謀好きの男が、よくもぬけぬけと。今度は何を企んでいるのか。
レイズン隊は応援を求めて、呼子を吹いた。
 「態度は丁重でも、やることは横柄。レイズンらしい」
 「後ろからも、反対側からも、それぞれ六騎来ます。朝から附けられていたのかも」
 「パトロベリ」
パトロベリは、馬である。シュディリスは馬パトロベリをうかがった。
馬は、まったく違う方向へ耳を立てていた。シュディリスはそちらへ眼を向けた。
何も見えない。
 「御曹司殿」
ずらずらと、レイズン隊は低地にいる彼らを押し包んだ。退路は絶たれた。
 「シュディリス様。お逃げ下さい」
サンドライトは剣を顔の前に立てた。
そこへ、朝の野をはしる鳥のように疾走して、坂を下り、彼らの前にとび込んで来た
騎馬があった。乗り手は、黒髪の少女だった。
 「シュディリス様。こやつら、シュディリス様のお手を煩わせるほどの
  相手ではございません」
凛と響く声で、忽然と現れた少女は云った。
 「お探ししておりました。間に合ってよかった」
見たところ、少女はどうやら片腕に若干の不自由があるようであったが、しっかりと
手綱を握り、片手に抜き身をもって、鞍の上で均衡をとっていた。
少女はシュディリスとサンドライトの前に立ちふさがった。
 「ここはお任せを。道を開きます。竜の隠れ里にお逃げ下さい」 
 「君は」
 「ロゼッタ・デル・イオウ」
はっきりとした口調で、少女騎士はシュディリスにそう名乗った。
 「サザンカ家司、イオウ家の者です」
 「勇敢なる乙女だ。しかし、御身ひとりだけでは、これは防げまい」
愕きながらも、サンドライトはロゼッタの剣に剣を重ねて、後ろに押しやろうとした。
逆向きに腕に力がかかったことで、かすかにロゼッタが顔をゆがめた。
シュディリスがそれを見咎めた。
 「その腕。怪我しているのでは」
 「雑兵相手に、剣が遣えぬほどではありません」
シュディリスはロゼッタを庇い、馬パトロベリとサンドライトの馬の間に
挟むようにした。
 「お二方、おさがり下さい」
 「助力してもらう理由がない」
 「イオウ家のご令嬢が、何故ここに」
 「来ます」
奇妙な三人組みとなって、彼らは剣を揃え、レイズン隊を待ち構えた。
足手まといになるかと思われたロゼッタであるが、彼らが護らずとも
無駄のない動きと鋭い剣さばきをみせて、なかなか強かった。
 「腕がいいな」
サンドライトが偽りのない感嘆の声を上げた。
彼らは押し包んでくるレイズン兵を剣の先で軽く蹴散らしながら、突破口を
求めて、すばやく眼を配った。
 「ロゼッタ」
 「シュディリス様」
 「彼らは、わたしには危害を加えない。君こそ、危ない」
光り輝く剣を繰り出し、シュディリスはロゼッタの背後にいた兵を追い払った。
小さく息を切らしながらも、ロゼッタはシュディリスの周囲からレイズン兵を
遠ざけることを止めなかった。
 「先に、竜の隠れ里へお逃げ下さい」
シュディリスはそんなロゼッタの馬の手綱を取り上げるようにして掴んだ。
 「シュディリス様」
 「サンドライト」
 「は!」
三騎馬はだっと駈けだし、一気に草の斜面を上がった。シュディリスはロゼッタの
馬の手綱を放さなかった。
 「サザンカ家の騎士が何故、竜の隠れ里に?」
追いすがるレイズンを振り払い、追いついたサンドライトが訊いた。
レイズンはそれ以上、追っては来なかった。
 「レイズンが退却していく」
 「思いがけず乱闘となったことで、上の指示を仰ごうというのでしょう」
シュディリスがロゼッタの頬についた返り血を拭ってやろうとすると、ロゼッタは
恐縮しながらそれを断り、自分の手の甲でそれをした。
 「幾つだ」
幼く見えるロゼッタに、サンドライトが年を訊いた。
ロゼッタがサンドライトに応えるより先に、前方の丘に、新たな騎士が現れた。
 「あれは、味方です」
ロゼッタはさっと片腕を横にのばして、シュディリスとサンドライトを制した。
馬に乗った騎士は、青空を背に、先ほどからずっとこちらを見ていたようであった。
ゆっくりと、まるで行き合わせただけの者であるかのように、馬上のその男は
草波を分けながら丘をくだり、悠然と三人に近づいてきた。
その者は白髪まじりの頭髪をなびかせ、農夫のような格好をしていたが、
馬鞍にあっては間違えようもなく、騎士の姿勢を保っていた。
男は真直ぐに、シュディリスを目指してやって来た。
ロゼッタがシュディリスの傍らから離れた。サンドライトもそうした。
白髪の男は馬からおりた。そして、シュディリスの馬の前に、膝をついた。
フラワン家の御曹司殿、と男は太い声でシュディリスに呼びかけた。
 「カルタラグン騎士、マリリフトと申します」
男は、そう名乗った。


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くろがね城で、ハイロウリーン第二王子のイカロスは机に向かっていた。
そこは城の中の、王子たちの控えの間で、七つ並んだ椅子のうち、
今いるのはイカロスだけだった。
父フィブランの代理として長兄のケアロスは多忙を極めており、四男の
洒落者カンクァダムは新しい衣裳係と朝から衣裳部屋に篭りきり、三男
ワーンダンと五男インカタビア、それに末の二人エクテマスとワリシダラムは
コスモスに布陣中、他国が羨ましがるさしもの七兄弟も、こうなってみると、
空席だらけだった。
イカロスは筆を走らせた。
七人兄弟の中で、次男のイカロスはその姿、それから声も、もっとも
父フィブランに似ていた。
末っ子王子のワリシダラムなど、子供の頃はよく父親と間違えて兄の
イカロスに抱きついてきたものだ。

イカロスは、密書を書いていた。
何度も迷った末に、彼は筆をとった。海を臨む窓から入るそよ風に、紙面の
端がはためくのを肘でおさえ、イカロスは帝国共通語を書き連ねた。
話すよりも書くほうが数倍難しいといわれている帝国共通語であるが、日頃から
父と兄に混じって政務をこなしていることもあり、母国語同様にすらすらと操れる。
 「過保護」
細い眉をあげて彼を咎める、ルビリア・タンジェリンの顔が光と交錯して、
イカロスの眼前にちらついた。遠い昔、北方の短い夏。
 「うるさいわ。そこを退いて頂戴、イカロス。貴方は過保護だわ」
 「全然分かってないようだから云うけどね。君が好きだからだ」
勢いで、告っていた。
よく云うわ、そんな顔をされると思った。いつものように、それ以上は
無視されて通り過ぎてしまうだろうと。
ルビリアはその場に残り、細い顎をこちらに向けて上げ、その青い眼で
見つめ返してきた。木陰の緑は濃い色を投げかけて、建物の裏手には
北欧の森の香りをつれたそよ風が吹いていた。
少年期の恋、真剣でひたむきな、ほかにはもう何も見えない。
 「過保護なのは、弟がたくさんいるからなのかしら」
 「関係ない」
その青い眼を見ていると、心臓がぎゅっと締る気がした。イカロスは手を伸ばした。
ルビリアは動かなかった。
はねつけられると思った。闘技場で他の男たちにそうするように、ぴしゃっと
やられるだろうと覚悟した。腕の中にルビリアがいることが、信じられなかった。
 「勇敢な人だわ」
 「女騎士に告白するのは、命懸けだから?」
 「貴方が汚名を負うわよ」
 「汚名を負うのは君のほうだ」
 「ハイロウリーン王家を毒牙にかけた魔女」
 「よくお分かりで」
ルビリア姫は色仕掛けでフィブラン様を篭絡し、領内に匿ってもらっているのだ。
そんな汚い噂が絶えない頃だった。
 「前から思っていたけれど、イカロス、貴方はフィブラン様によく似てる。
  こうして眼を閉じて声だけ聴いていると、まるでフィブラン様がそこにいるよう」
ルビリア。北国に燃える華。小さな赤い炎のような君。
墜ちるなら、一緒に墜ちよう。
 「分かってたわ。貴方とユーリが、いつも私に親切にしてくれていたこと。
  莫迦ね、男の人ってみんなそう。いざこうして女が手に入ると、途端に
  そのことが恥ずかしくなって、隠してしまうのね」
痺れるような甘く苦い想いの中で、恋に狂った。
 「まあいいけどな。遊びが終わったら正気に戻れよ、イカロス」
 「第二王子という立場を分かっておいでかい、イカロス。
  お前は許婚との婚儀を控えている身ですよ。あの娘はお前が王子であることを
  利用して、自分を護ってもらおうとしているのです。健気に一人で突っ張って
  みせれば、愚かな男たちがほだされて、庇ってくれることを知っているのです。
  ハイロウリーンを乗っ取ろうとしている、その小汚い手口がみえませんか」
兄ケアロスや母の声が、彼らの仲を裂こうとしても、イカロスはルビリアを
疎んじたことは一度としてなかった。
あれからずっと。そして今も。


鉄筆の先が、紙を少し引っ掛けた。
イカロスは構わずに、そのまま筆を走らせて続きを書いていった。
 「ルビリアと兄上が恋仲であったことは知っています」
弟エクテマスの、無愛想な無表情が、白い紙面に重なった。
いつものように、それがどうした、という顔をしていた。
無関心に、鬱陶しそうに、しかしそれは面には一寸たりとも顕にせずに、
それだけにいっそうこちらを小莫迦にした眼をして、こちらの顔を見ていた。
 「ですが現在、ルビリアのことについて父上から一任されているのは
  従騎士であるわたしです。ルビリアについてのご心配は無用です」
気がつけば弟を殴り飛ばしていた。
 「エクテマスを殴ったですって。よく瞬殺されませんでしたね」
滅多なことでは動じぬカンクァダムが駈けつけて、珍しくも本気で
呆れていたが、いっそのこと斬り合いでもしたいほどの激憤と嫉妬を、
あの時は弟に覚えた。
 ----女ひとり護ることも、繋ぎとめることも出来なかった、不甲斐ない、腰抜け。
エクテマスは彼に、こう云ったも同然だった。
違う。
と云ったところで、不毛なだけだ。
ルビリアを守ることなど、誰にも出来ないのだ。この世の男の誰ひとりとして。
それを知るのか、大地に倒れたエクテマスは、口端から流れる血を
拭いもせずに、何が可笑しいのか声もなく、呼吸をしているだけのように
嗤っていた。

 『竜の隠れ里』
いつ、その存在を知ったのかは忘れた。
ルビリアとはじめて恋仲になった頃だから、その頃だ。
必死で調べた。多分、ハイロウリーンの隠密団よりも熱心に。
ミケラン卿は依然として、時折思い出したようにタンジェリンの姫の引渡しを
要求しており、誇り高い騎士団側からも嫉妬まじりにタンジェリンの女を
追い出せとの声が上がっていた頃だった。
それらを領主フィブランが一人で抑えている格好になっていたが、いつ何時、
時勢の変化によってタンジェリンの生き残りであるルビリアは、領内で処刑、
あるいは都へと護送されるかも分からない。
イカロスはルビリアの逃げ道を確保しておこうとした。
カルタラグンの隠れ里。いざとなれば、ルビリアをそこへ逃がすのだ。
そこならば、カルタラグン宮廷にいたルビリアを知っている者もおり、翡翠皇子の
后候補であったルビリアを匿ってくれもするだろう。
隠れ里へ向かう道筋も、段取りも、頭に叩き込んだ。
さらにイカロスは、極秘に遣いを出して、その当時、隠れ里に潜んでいる
騎士の一人とも、手紙にして一往復の遣り取りではあったが、連絡をとっていた。
だから、あれから十年以上が経過した今でも、こうして、密書が書ける。
  宛、カルタラグン騎士マリリフト殿。
手紙には、まず、その名を記した。はっきりとカルタラグン騎士と書いた。
こちらの最初の結婚と、妻との死別、大人になった男女として関係を戻した
ルビリアとの、二度目の別れ。
いつしかルビリアは名実ともに高位騎士としての不動の地位をハイロウリーンで
得ていたが、イカロスはその間も隠れ里のことは忘れたことがなかった。
ルビリアのことを、忘れたことはなかった。
 (もはや、妄執だな)
自嘲がもれる。
恋に血迷った挙句の、自己満足の執着だ。いじましいことだ。
生真面目なワーンダンやインカタビアらが、イカロスとルビリアの醜聞に対して
控えめにしろ苦言を重ねるのも無理はない。
それでも、
 「狂っているとか」
ルビリアについて卑しい好奇心いっぱいに人からそう訊ねられるたびに、
イカロスは、お前こそ頭がおかしいのではないか、無礼者、といった態度で
報いてやったものだ。
 「まあね、彼女は魅力的な人だから。エクテマスがすっかりあの人に
  骨抜きにされているように、少年の日に胸に刻まれた魔性の恋には、
  つける薬がないようですね」
何ごとにつけ淡白で距離をおいた対応のカンクァダムだけは、皮肉とも
本音ともつかぬことを口にするだけで、他の兄弟のようにイカロスを
止めもせず、応援もしなかったが、そんなカンクァダムやユーリのような男が
実はいちばんルビリアに優しくできるのだろうと、イカロスは思う。
そのナラ伯ユーリも、もういない。

こみあげてくるものがあり、イカロスは筆をとめた。
そしてまた、手紙の続きを書いていった。
親友であったユーリの不慮の死こそが、イカロスにその手紙を
書くことを決断させた。
これが内外に知れたら、王族籍からも、ハイロウリーンからも
追放されること確実だったが、イカロスは、考えた末にそれを選んだ。
 (わたしは、まだ、ルビリアに何もしてやれていない。
  愛する女に、何もしてやれていない)
 ----昔々、カルタラグンの騎士が、オーガススィの姫君に恋をして
城の宴で、吟遊詩人が披露する、古い恋の歌。
イカロスもその顛末は知っている。
オーガススィに侵入したカルタラグンの騎士は、ジュシュベンダ出身の
徒党をつかって街中に火を放ち、その混乱に乗じてオーガススィの姫を
奪ったものの、追っ手に追いつかれて闘死、オーガススィの姫も助からなかった。
裏で糸を引いていたのは、オーガススィ鉱山の情報を求めていた
レイズン家であったといわれている怪事件だ。
何百年も前の古い話だが、隣国なので、当時のことはハイロウリーンにも
伝わっている。国境沿いの物見の塔から、オーガススィの空が明々と
燃えているのを発見した見張りは、オーガススィが海神の怒りに触れて
炎の海の中に沈没していると叫んだという。
  勇敢なる、カルタラグン騎士よ。
迷宮事件入りしたその古い恋の顛末を思い出しながら、イカロスは
手紙の中で、隠れ里の騎士たちに、そう呼びかけた。
  ハイロウリーン第二王子としてではなく、一人の騎士として、わたしは
  これを書く。コスモス事変における当国の対応を離れ、一人の男として、
  諸兄らに、切にこれを頼む。
うっすらとまだ迷いがよぎる。
あれは別の話だと打ち消そうとしても、昔話だと思っても、なぜか、カルタラグン
騎士とオーガススィの姫君の悲惨な結末が、ひたひたと胸を不吉な予感で浸してくる。
それを押し伏せて、イカロスは、顔も知らぬ隠れ里の騎士たちにありたけの
真情をこめて、ある依頼をした。
書き終えた密書を横におき、しばらく逡巡した後に、イカロスは、新しい紙をとりあげた。
続いて彼は、別の者に宛てて、手短な手紙を書きはじめた。
本来であればまず真っ先につけるべき謝罪は、双方の関係と性格を鑑みて、
この際なかったかのように、略すことに決めた。
くろがね城に日は暮れて、城から望む遠い北の海原には、燃え尽きた夕陽が
赤い星のように、孤独に漂っていた。


 エクテマスは、ゆっくりと、イカロスから届いたばかりの手紙を引き裂いた。
コスモス城を前にした陣である。篝火に照らされたその若い顔からは
何ひとつ、内心が窺えなかった。
 「何をしている」
珍しく、父のフィブランがエクテマスに声を掛けた。
エクテマスは、焔から眼を動かさなかった。その足許には焼け落ちた蝶のように
紙片の残骸が固まって落ちていた。
 「先刻、早馬が来ていた。今、火にくべて燃やしたそれは、イカロスからの
  手紙だったのではないのか」
 「父上には、関係ありません」
 「ハイロウリーン領主として訊ねる」
 「イカロス兄上からの手紙です。内容は、忘れました」
 「返事はそれか」
 「はい」
 「まあ、いい。以前イカロスがお前を殴った件について、イカロスが
  謝罪してきたのかと思ったのでな」
エクテマスはフィブランの横をすり抜けようとした。
 「では、これで」
 「エクテマス。オーガススィの姉妹姫との、縁談の件だが」
 「ああ」
エクテマスは、完全に忘れていたことを訊かれたといったような、眠たげな
顔をして、ようやくフィブランに向き直った。
 「インカタビア兄上と、ワリシダラムに、それぞれ任せました。好きにせよとの
  父上からの手紙に、従ったつもりでいます」
 「よいのだな、それで」
 「はい」
好悪すらない、一片たりともそれについては興味がない、そんなエクテマスの
態度であった。篝火の明かりが縁取るその顔は、彫像のように醒めていた。
踏み出したフィブランは、六男の肩にずしりと手をおいた。
 「イカロスが、お前に手紙を寄越す。ルビリアのことに決まってる」
 「父上のご推察にお任せいたします」
 「昔から、イカロスが隠れて何かを図っていたことは知っている」
 「何のことか分かりません」
 「ミケラン卿は眼と鼻の先の、あの城にいる。卿が難癖をつけて
  ルビリアを捕縛にかかってくるような事態となったら、切り結んででも、
  ルビリア護り、逃がせと云ってきたのだろう」
 「いっこうに」
 「構わん。その時は、そうするのだ、エクテマス」
フィブランはすばやくエクテマスの耳にそう云い捨て、立ち去った。
残されたエクテマスは、篝火の焔の揺らぎをしばらく見つめた。赤い炎は夜空に
まっすぐに伸びて、星々の影を黒く消していた。
 (ミケラン卿が、ルビリアを捕縛にかかる?)
エクテマスは笑いながら、地に落ちた手紙の焼け残りを、靴先で踏みにじり、
粉々にした。
誰が止めるか。それでいい。
それでこそ、ルビリアの宿願が叶う時ではないか。


「続く]


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