[ビスカリアの星]■八七.
ミケランは、仮眠から目覚め、身を起こした。
コスモス城は寝静まっていた。
開け放したままの露台から夜半の風が室内に入っており、花瓶に生けられた
花々の影が壁に、天井に、漣のように揺れていた。
隣室の居間では、先刻までエステラが何やらコスモス城の職人とドレスや
飾り物の打ち合わせをしていたが、夜半も過ぎた今はもう、続き部屋になっている
寝所へと下がったようだった。
寝椅子に半身を凭せ掛けて、眼を閉じるだけの短い眠り。
「それでは疲れもとれませんわ」
アリアケや、或いはかつての愛人たちが幾度となく止めるようにと
云っていたが、変わらない昔からの癖。
「眠っている間も、ずっと頭をはたらかせているのではありませんの」
エステラなどはそう皮肉って、眠っているのかどうか確かめるために、猫のように
頭を胸にすりつけてくることもある。
眠りたくても、眠れない。眠りたくない。眠りは、死んでいることと同じだ。
少年の頃、弟のタイランにそう云ったことがある。
残酷なことを口にしたものだ。
タイランこそ、ほとんどの行動を制限されて、病床にあることのほうが多かったのに。
城の中を流れる人口の小川のせせらぎ。
古雅な趣のあるコスモス城は、古びたところも不便な点も多いが、この城を
愛する人々のたゆみない手入れによって、誰にとっても心の故郷ともいうべき
変わらぬ安らぎをはこんでくれる。郷里の祖父母の家にたどり着いたような
憩いをくれる。
丘と森と、北方二国へとつながる清流と。
ヴィスタの都よりも、トレスピアノよりも、このこじんまりとした国の風土はいとおしい。
すぐに退屈するのではないかと思われたエステラですら、
「お伽の国、気に入りましたわ」
ヴィスタとは比べ物にならないほど流行遅れで貧相くさい、良くいえば厭味ではない、
特徴のない衣装にも不平を云わず、古い型紙帖を吟味しては、そこに多少の
工夫を加えて、新しいものを仕立てさせている。
「都のように、飾り立て、おしゃれに気合を入れるのも、そりゃあ
女ですから楽しいわ。ですけれど、このコスモスでは何だかそれも
力が抜けたような。風合いを残した布地の手触りや、丁寧に磨かれた
木製のかんざしの一本に、風や緑としっくりと溶け合うよさがあって、
この国の彼らのようにいろんなことを、些細なことを、
毎日の習慣を、大切にしなければという気持ちになりますの」
「”自然へ還れ”かな」
「何ですの、それ」
「背伸びしたところで、人間の背丈は変わらないということだよ」
エステラは感じ入ったように得心していたが、ミケランはコスモスの魅力を
そうやって認めただけで、それをよしとしたわけではなかった。
彼はやはり、その背伸びが、つまり新進や、変化や、人為的な洗練が
好きであったし、わけても都市工学の最先端と巨額の私財を投じて彼が
理想どおりに再開発したヴィスタの都については、誰よりも深い愛着があった。
かつて黒髪の若者は、長年温めてきた設計図の束を片手に、招聘した
技工師たちの前に現れた。
若者は眼をかがやかせて宣言した。
「千年後にも、その名の残る都にしたい」
その言葉には、誰しもが惹き込まれるような、実現化に向けて迸る夢と情熱があった。
着工は政変の混乱がまだ生々しい時期から始まった。復古した王朝の主導権は
いったい誰が握るのかと他国が右往左往している間にも、昼夜問わず都中に
鳴り響いた施工の音でもって、人々は新時代の訪れを知ったのだ。
(夢の国……夢の王国……命に限りがあるのなら、星の世界には
手が届かぬのなら、せめてもの)
地上に築く砂の楼閣、始動時よりいつかは滅び去ることが包括された、虚しきものとても。
「タイラン様が教えて下さったのですが、酒蔵の奥の奥に
岩盤をくりぬいた古代コスモス王国時代の霊廟があり、そこには
墓を護っている騎士のミイラがあるそうですわ」
「それはすごい、何千年前のものだろうか。ぜひ観に行ってみよう。
リリティスも来るよね」
「どうぞ、殿下たちだけで」
「長い間封鎖されていた地下なら、澱んだ空気が毒になっていることがあるが」
「大丈夫ですわ。タイラン様が既に行って、それを観て帰って来られたのですから。
ね、タイラン様」
「古い文献にその記述があったので、念のために確認をと。奇妙なことに
外側から何重にも封印された痕跡が」
「あらクローバ様だわ。クローバ様、ご機嫌よう。ちょっとこちらにおいで下さいましな。
クローバ様はその霊廟だか霊安室だかを、ご覧になったことがありまして」
「いや。初耳だ」
「地下にあるのですわ、地下に」
「では、拝見するとしよう」
「リリティスもおいで。鼠の屍骸も除去されたということだし、怖くはないようだよ」
興奮気味のエステラを発起人に、二度とはあるまいと思われるような
雑多な面子でぞろぞろと、コスモス城の地下に降りた。
好奇心に満ち満ちた他の面々とは違い、クローバとリリティスは
仕方なくといった顔つきで、二人並んで最後尾から付いてきた。
「いいえ、それがね。自然にミイラ化したようですの。屍蝋というのでしょうか、
脂肪が蝋になって」
いつの間にか仲良くなったらしく、秘密めいた冒険に声を弾ませているエステラと
ソラムダリヤ皇太子を先頭に、タイラン、皇太子の侍従たち、リリティス、そして
しんがりにクローバ。
燭台が照らしたリリティスとクローバの、姪と叔父関係の彼らの、その容貌の相似。
(血脈が受け継がれていくということは、最大の奇跡だ。
命こそ、かたちのない、永遠だ)
自身は子を持たない生涯であるところのミケランは、親子か兄妹に見えなくもなかった
クローバとリリティスの姿を、月光の暗い光の中に想い浮かべた。
(オーガススィの次代領主のご息女サンシリア姫がまだ空いていたとはさいわい。
クローバとサンシリアを娶わせ、そうやってまた、竜神の騎士の血を
後世に遺すことができたら)
いわば代償行為のようにして、ミケランはクローバとサンシリアの婚姻を望んだ。
新たな騎士家の誕生を、健やかな赤子が両名の間に生まれることを。
(街も国も滅びゆく。命の連鎖だけは、永遠だ)
(アリアケ)
(わたしと結びつくことがなければ、貴女も重い病にかかることもなく、
平穏無事に、倖せのうちに生きることができたのだろうか)
そのことを、ミケランは疑ってはいなかった。
ソラムダリヤやフリジア姫をはじめ、他家の子供たちをわが子のようにして可愛がり、
気遣っていた、アリアケ・スワン。
そそぐべき愛情の行き場を失くしたまま、それでも、妻としての貞淑を守っていた女。
このような男一人の為に、とミケランは夜の闇を仰いだ。
このような我侭な、自分勝手な、愚か者一人の為に。
ミケランは乾いた手を額の上にあてた。
(人生とは、何もかもが、劇場のようなものだ)
子供のふり、大人のふり、与えられた役割に相応しい態度と行動。
改革者のふり、夢想者のふり、隠遁者のふり、澄ましかえった常識人のふり。
「……こんな処に。ずっと、ずっと」
「リリティス」
ソラムダリヤがリリティスの手を握る頃には、リリティスの眼は涙で潤んでいた。
それは、涙ぐみこそせぬまでも、封印されてきた霊廟を覗いたその場の全員が
心うたれ、そして厳粛な面持ちで、黙り込んでしまうような光景であった。
酒蔵の第一室、第二室を抜けて、酒樽を退かせることでようやく現れた床の
隠し階段を下り、風だけが抜けている通路を抜けた、その向こう。
二重の煉瓦壁がタイランの指図で壊されており、さらに現れた漆喰の一部に穴を開けて、
ようやくそれは姿を現したのだという。
内部が見れるように、壁の手前には踏み台が添えてあった。
「あらかじめ蝋燭を降ろしておきました。洞窟の内部が、此処から遠眼に
ほんの少し見えます」
タイランが場所を譲り、最初にソラムダリヤが踏み台にのぼった。
皇子は、黙って、次のエステラに台を譲った。
誰もが、無言だった。
その静寂を、堪えかねたリリティスの嗚咽が破った。
「コスモス騎士。ああ、本当に。わたしたちの……」
あとは言葉にならなかった。誰もが、同じ気持ちだった。
騎士でないソラムダリヤやエステラまでもが、眼に涙を滲ませていた。
古代コスモスといえば、ジュピタの若者が七人の騎士を率いて悪竜退治に
乗り出すよりもさらに古い時代のことである。
覗き窓は、洞窟を切り抜いた霊廟の正面に穿たれており、漆喰の封印からは
かなり距離があった。
台座つきの石の棺がぼんやりと見えた。
そしてその前に、ちょうど旅人が樹の根に凭れるようにして、棺に背をもたせかけて
座っている騎士がいた。
「王の亡骸を護っているのだ」
剣を肩にもたせかけ、頭の重みで首を傾けている、その蒼白の顔。
一同は粛然として、壁の前に立ち尽くした。
騎士のミイラは、ほんの少しの間、眠っているだけのようにみえた。
生前の面影をほぼ留め、髪の毛もまだ鮮やかな色を残し、窪んだ眼孔に
薄い影を落としているまつ毛までもが、往時のままのその屍蝋。
竜の血を呑んだといわれる竜神の騎士がこの世に生まれるよりも以前。
それは遠い遠い昔の当時の王に仕え、王に殉じた、騎士の骸だった。
棺の前で永遠の任についているそのミイラは、この世の孤独と苦難を分かち合う、
騎士である彼らにとってこの世でもっとも親しい友だった。敵も味方もない、同族だった。
その末路こそ、万の言葉よりも、彼らをそうあらしめているものに近かかった。
「……タイラン様。この室は、これから」
「皆さんにご覧いただいたところで、もう一度、封鎖してしまおうと思っています」
タイラン・レイズンは、それをクローバの眼を見て告げていた。
タイランは漆喰の壁を撫ぜた。
「なにぶんにも文献が古いので、棺に刻まれた古語から察するしかありませんが、
歴代の王のうちでも、おそらくは、志半ばにして亡くなった古代コスモス王国の
V世の君かと。棺を護る騎士は王の股肱の友にして、一の騎士であった者でしょう。
伝説ですが、V世の君には謀殺の疑いが。コスモス城は何度か増設されており、
ここは古い城郭内の、霊安室だったようです」
「じゃあ……」
時の風が質量もなく、彼らの間を吹き過ぎた。
(コスモスは、王の求めるような急進的な改革など必要とせぬ!)
(霊安室から王の亡骸を盗み出せ。本葬前に毒を盛ったとばれたら後々、我らの
立場が危うくなるぞ)
(薄汚い卑怯者ども、これ以上王は穢させぬぞ。ご遺骸には指一本触れさせぬ。
これより一歩も入るな)
(王よ、安らかにお眠りを。コスモスを隣国と協調させようと試みられた、ながく、
孤独な戦いでございましたな。
子供の頃より、吾らが川のほとりで共に語らった、見果てぬ夢でございました。
このままコスモスを見守ってゆきましょうぞ。最後まで、お供いたしますれば)
「今も、彼らはそこにいるのですね」
「閉じ込めていたものを開放した後なので、あの屍蝋も、遠からず崩れていくかと。
このまま、主従はこの世が終わるまで、此処にあるのがふさわしいかと」
「そうですね」
「タイラン殿、ぜひそのように」
その間、ミケランとクローバは彼らの背後に立っていた。
憎くて憎くてたまらぬであろう、妻フィリアを殺した仇敵を肘の触れ合う距離にして、
クローバは何を思うのか、むっつりと顔を引き締めて、洞窟のある壁を見詰めながら
突っ立っていた。
あれも、おかしな男だ。
ミケランは口許に笑みを浮かべた。
あちらの方が体格では勝るのだ。剣勝負なら負けはせぬが、手を伸ばせば、石階段から
突き落とすなり、掴みかかるなり、一捻りでこちらの息の根を止めることが出来たものを。
仮眠をとっていた長椅子から、ようやくミケランは身を起こした。
凄まじい意志だ、とミケランは地下のミイラ騎士に対して感嘆を惜しまぬ。
生きながら入滅するなど、人にはまず不可能だ。
それは心の強弱ではなく、生き物の本能が、まずそれを許さぬのだ。
或いは、あの騎士は途中で壁を叩き、外に出してくれと懇願したやもしれぬ。
或いは、暗くてよく見えなかったが、あの騎士は早々のうちに自ら命を絶って主の
後を追ったのやもしれぬ。
そう考えるほうが、地下の闇の中で生きながら生き埋めにされて朽ちていく恐怖よりは
数段ましに思えた。
そうだ、生きながら朽ちていくことこそ、何よりも恐ろしい。
「余生だな、ミケラン」
学兄であるゾウゲネス皇帝がよくそう云って、表舞台に戻そうと説得しに来たものだった。
「とんでもない」
ミケランは笑って応えた。
「裏方にいるほうが、諸侯らと顔を突き合わせているよりも、好きなように出来ます」
実際、そうしてきた。
間諜を張りめぐらせることで、椅子に坐りながらでも諸事は手に取るように分かり、
将棋盤を見ているかの如く、先に先に手を打てもした。
それは現場にいては、そこまで容易ではなかったことだ。
実体験にしか価値を見出さぬ人間は、もとより、自我の固執から一歩も出ることなく、
創造力を大幅に欠いているだけのこと。それが、決して行動を疎かにしたことのない
彼の持論であった。
「昔のように、一局お願いします。ミケラン」
駒将棋盤が卓の上にあった。
今日の午後、ソラムダリヤ皇太子が持ち込んだものだ。
召使が捧げ持ってきた駒将棋の道具は、クローバが貸してくれたそうである。
「貴方は忙しいから、なかなか宮廷ではつかまらない。この機会に」
にこやかに駒を並べるソラムダリヤは、かつての教え子であって、
もう教え子ではなく、コスモスで再会した時には、ミケランがおやと思うほどに
一皮剥けて地に足がつき、男らしくなっていた。
根が素直なだけに、リリティス・フラワンを妃に迎えることが非公式のうちに
決まったことが男の成熟に向けてソラムダリヤを大幅に成長させたようで、物腰にも
どことなく頼もしいところが備わってきている。
あくまでも駒を動かして勝敗を競うだけの単純勝負としては、ソラムダリヤは
めっぽう駒将棋が強かった。
慎重に駒を進める皇子に、子供の頃の彼の姿を重ね合わせて、ミケランは微笑んだ。
皇太子などに生まれなければ、その頭脳と勤勉でもって、どこかの工房の
主任技術者にでもなっていた人物であろう。
「クローバ殿に、例の話を持ちかけてみました」
「サンシリア姫との婚儀について?」
「そうです」
朗らかに、ソラムダリヤはその時の様子をミケランに話してきかせた。
「わたしは彼が好きだ」
ソラムダリヤは兵隊の駒を動かした。
彼は努めて世間話だけに話題を限定していた。
「素朴な田舎貴族にみえて、洞察力においても自制力においても、さすがは
高位騎士というべきです。
彼のような、裏表のない信じるに足る人物が、もっと宮廷にいてくれたらと思います。
もちろんコスモスのような田舎であるからこそ、彼の美点は美点のままに生きたのでしょうが、
ジュシュベンダの領主とも親交があり、ハイロウリーンとは盟友。
領主の地位を失ったのも時勢に翻弄されただけで、彼自身にはなんら罪はない。
これでオーガススィの姫を娶れば、彼は一大貴族に返り咲くだろう。
あの人には、その資格があります」
ミケラン。貴方とは違って。
ソラムダリヤは暗にそう云っていた。
そして彼なりの誠意と好意から、どうやら今後何が起ころうとも、かつての
師を庇う立場でいるつもりであることを、こうしてミケランを訪問して
駒将棋などをしながら、それとなく自身にも云い聞かせ、内外にも表明してみせて
いるようであった。
そのことは、ミケランの愛人エステラに対して皇子がはばかりなくみせている
親しい態度にもよく現れていた。
「ミケラン。これから互いに忙しくなるでしょうね。それでも月に一度は、
こうして貴方と語らう時間を持ちたいものです。約束してもらえますか」
「過分なお言葉です、殿下」
「わたしは貴方を父とも思い、頼りにしているのです。ジュピタ皇家を
ふたたび盛り上げ、都においては経済繁栄をもたらしてくれた貴方。
皇帝にかわり、感謝します」
そこには、すでに隠遁が決まった男に対する思い遣りと、叶うならば
引き止めたいという、皇子の情があるようであった。
それから彼らはクローバ・コスモスの将来について、ふたたびあれこれと
気を揉んで、領地や婚姻のお膳立てをはじめた。
クローバと年の変わらぬミケラン自身については、どちらも、一言も口には出さなかった。
いっそのことレイズン分家から離れ、新しい家を興してはどうかといった話も、昔から
ふしぎと、ゾウゲネス皇帝との間にも、一度としておこったことはなかった。
ジレオン・ヴィル・レイズンがエステラに指摘してみせたばかりでなく、
おそらく誰もが無意識のうちに、そのことを望み、そのことを知っていたのだろう。
-----ミケラン・レイズンとは、一代限りの狂い咲きなのだと
「ミケラン様。お飲みものなど、お持ちいたしましょうか」
「いや。朝まで用はない」
控えの間で寝ずの番をしていた召使は蜜蝋を新しいものに取り替えて
芯に火をつけると、一礼してさがっていった。
卓上にそのままになっている将棋盤。昼間の対戦ではソラムダリヤが勝った。
「お見事です」
「これしか誇れるものがわたしにはないから」
謙遜してみせていたが、若者が何ごとかに集中している様子を見ているのは
実に気持がよいものだった。
(ジレオンをはじめ、わたしに息子がいたならば、もう少し後続の成長に対して
こうも目覚しく愕かされずにすんだのかな。貴女はどう思う、アリアケ)
ミケランの口許に微笑が掠めた。
将棋盤の上に倒れている騎士の駒を手にとった。この城の地下で今も王の眠りを
護っている騎士のミイラ。
ミケランは夜の広がる窓を見た。
(騎士の殉教も不可解なら、こちらも最大の謎であられる……)
ユスキュダルの巫女が鎮座している古塔が、蒼白い月光を浴びて静かに建っていた。
それは天海を目指す一本の木のような細い影だった。
騎士の駒を手に、ミケランは眼をほそめた。
(切に願う。このミケラン・レイズンの生涯の最期を飾るのは、騎士の巫女、
わたしの裡なる竜の魂をこれまで守護し支えてきた、貴女であるよう)
ミケランは寛衣の上に上衣を羽織ると机に戻り、「どうしてコスモスに来てまでして
そんなに働かねばならないのかしら」とエステラがふくれ面で文句をつけているところの、
仕事の続きにとりかかった。
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カルタラグン騎士マリリフトは、白髪の混じる頭をシュディリスの前に
深々と下げたままだった。
さわさわと揺れる草と、丘陵におちる雲の影。シュディリスはその騎士を見つめ、
身動きもならなかった。
カルタラグンの亡霊。
此処にいる、この男はまさに、時を超えてシュディリスの眼前に現れた、亡霊だった。
「……」
何かを云おうとしても、出来なかった。
カルタラグン。
それは彼の宿命だった。生れ落ちた時より額に刻まれた、逃れえぬ刻印だった。
物心ついた時には不可領トレスピアノのフラワン家の子であった彼にとって、
カルタラグン王朝の末裔としての自覚など、持とうとしても持ち得ようもなく、
無理やりに呼び起こそうにも、あまりにも郷里は平和で、せいぜいが書物の中に
その数奇と滅亡を追いかけて、本を閉じた時には、「もはや関係なきこと」と、
生存組への同情やいたましさを含めたおのれの欺瞞を打ち消しながら呟くほかない、
どうすることも出来ぬ、遠い出来事であった。
何よりも、ユスタスとリリティスが、それを嫌がった。
カルタラグンなんか忘れてしまってよ、と彼らはいつも言外のところで
兄である彼に対して願っていた。
(いつまでも、僕たちのシリス兄さんでいて)
(いつまでも、僕たちと一緒に)
緑の風の中、木漏れ日の森の中、泳ぐ川の中、考えたり考えなかったり、
大方の時は、完全に忘れ果てていたこと。
それがここに至って彼に追いつき、その襟首を掴んできた。
夢などではない。滅びてもいない。ほら、お前の前に、こうして現のものとして
現れてみせたぞと。
シュディリスは馬パトロベリの手綱を握り締め、硬直していた。
騎士は平伏したままであった。
サンドライトとサザンカのロゼッタは脇に控え、レイズンの追手が来ることを警戒して
周囲に眼を配っていた。
「マリリフト、と云われましたか」
どちらにせよ、こんな野に長居はできない。
シュディリスは胸にもたれる重いものをとりあえずは保留にし、せめてもの
社交辞令的な態度で臨んだ。
「竜の隠れ里から、出てこられたのですか」
「左様です」
重みのある声が、それに応えた。幽霊が口を利いた。シュディリスはぞくりとした。
マリリフトは顔を上げなかった。
都から離れていたわりには言葉がしっかりしているのは、単身ではなく、
集団生活を送っていたからであろう。
蜘蛛の糸の上を歩くような気持ち。シュディリスは言葉を選び、さらに訊ねた。
「ここなる連れの騎士とわたしは、昨日コスモスに入ったところです。
何ら罪をおかしてはおりませんが、コスモス領内を哨戒中のレイズンの
小部隊と行き合い、不幸にして闘いになったところです」
「遠くより、その模様は拝見しておりました」
「助太刀に来てくれたこちらの少女は、サザンカ家司イオウ家の令嬢と」
「そのとおりです。わたしがそれを保証いたします」
「我らに、竜の隠れ里に逃げ込めと」
「是非、そのように」
「貴殿は」
「隠れ里の長をつとめておりますれば」
何と云ったものか。シュディリスはサンドライトと眼を合わせた。
もしもこれが何らかの罠、それこそレイズンの仕組んだ罠であったら。
サンドライトが代わって出てきた。
「貴殿は、まことに、カルタラグンの騎士であられるのか」
「左様」
「ならば、わたしを憶えておられるか。わたしはサンドライト。
この名に、聞き覚えはあられぬか」
騎士はそこで、顔を上げた。サンドライトを見詰めるその眼光は、厳しい
隠遁生活の中で培われ、磨き抜かれた、叡智を秘めた隠者のそれであった。
「サンドライト……」
沈黙は重く、そして真摯だった。
「サンドライト・ナナセラ。ナナセラよりカルタラグン宮廷に上がった少年を、
憶えてはおられぬか」
「おお……」
はじかれたように、騎士は眼をみひらいた。
「あの少年騎士。初めてカルタラグンの門を叩いた時には、
ナナセラの王族であることを示す黄色と銀の頭巾をかぶって、確か、
腕にも同じしるしの腕輪を」
「憶えておられるのか!」
カルタラグン宮廷とは、いわば彼らの忘れえぬ故郷である。今度はサンドライトが
身をふるわせる番であった。
ナナセラ王家から家出してきた少年騎士は当時かなりの話題となったので、知らぬ者は
いないはずとは信じていたが、こうして生身の人間から往時のことに触れられると、
千年の夢が醒めたかのよう。
シュディリスと運命の出会いを果たした時と同じような、濃霧が一息に晴れてゆくような
強い歓喜がサンドライトを包み、彼は顔をかがやかせて、シュディリスを振り返った。
「シュディリス様。この御仁はまっことカルタラグンの方です」
彼らの感動の一欠けらなりと同調できればまた違うのであろうが、シュディリスは
頷くにとどめた。こちらの預かり知らぬ昔を、これはあなた様が主役の舞台ですと
押し付けられているかのような違和感が拭えなかった。
「皆さま」
ロゼッタが注意をひいた。
彼らはとりいそぎ、竜の隠れ里へと向かうことにした。
借り物の馬らしく、ロゼッタが一度乗馬に失敗したので、シュディリスは
その馬の手綱を抑えてやった。
「ありがとうございます」
ロゼッタと眼が合った。
何ともいえない意味深な遠慮を隠した黒い眼だった。恥じらいのような、
親しみのような、それを抱合してなおかつ、尊敬が勝っているとでもいうかのような。
それはつまりこうだった。
(貴方の話は、或る人の口から、たくさんきいています)
こちらから見詰め返すと、それに気が付いたロゼッタは、はじらうようにして
表情を消してしまった。
陽の差さぬ峡谷を辿った奥地へは、細いながらも道が続いており、切り立った
両崖の合間を縫うようにして馬で乗り入れることができた。
こんなところからと思うような森の奥から、岩山に沿うようにして古道を辿り、途中で
幾度か、岩を伝う滝のしぶきとせせらぎを、馬のまま乗り越えた。
竜の隠れ里は、田畑や山林をもった村ではなかった。
岩壁を利用して建てられた古い寺院がその根城であり、外に囲いを設けた他は
時の朽葉に埋もれるままになっている、廃墟であった。
「何人の騎士が」
うそら寒い想いで、シュディリスは訊ねた。
ヴィスタの都から逃げて逃げて、落ち延びて、ユスキュダルにも行き着けず、
こんな処にあれからずっと。
「隠れ里には何人いるのです。カルタラグンの騎士たちは」
「三十名ばかり。病死した者を除けば、ほとんど失われておりません」
「なぜ、ふもとの邑に降りなかったのです」
当時の領主クローバならば、それを黙認したはずだ。
先に馬から降り立ったマリリフトは迂闊に対峙した者が呑まれてしまいそうな
強いまなざしを、谷を這うよわい光に向けた。
それですべてを察して、シュディリスはそれ以上は追求しなかった。
彼らは、死ぬまで騎士として生きたかったのだ。その竜の呪いのままに、半身に等しい
剣を捨て、農夫として野に下ることは自らのその呪いが、許さなかったのだ。
寺院よりも手前に彼らの手で造られた屋根つきの木造厩舎があり、その手前で
一同は馬を降りた。迎えに出た騎士の一人が、シュディリスを見るなり、口を開けて
立ち尽くした。
「フラワン家の御曹司殿」
マリリフトは、丁寧に礼をした。
「ひと眼みた時、わたしも愕きのあまり、夢ではないかと思いました。
こちらのロゼッタ殿より事前に御名をうかがっていなければ、無礼を
はたらくところでございました。あなた様はかつて敬慕していた、我らの
若き皇子に似ておられます。我らの仰いでいた、太陽に」
「その名は承知しているつもりです」
苦くシュディリスは応えた。サンドライトが何か云いたそうにこちらを見ていたが、無視した。
「あなた様は」
「ロゼッタ嬢の言葉どおりです。トレスピアノのシュディリスです」
マリリフトの眼光を真っ向から見返し、
「隠れ里の方々にも、そう紹介して下さい」
シュディリスはそれ以上の詮索を断ち切るようにしてかわした。
雲ひとつない星空が広がる夜だった。
あかるいようでいて、地上には星の光の届かない。
蒼に蒼を重ねた、透明なようでそうでない夜空。峡谷に隠された竜の里にも
空はあり、星はあった。
焚き火に手をかざしていたロゼッタは、近づく足音に、近くにおいていた
剣を引き寄せた。
それからはじかれたように立ち上がった。
「シュディリス様」
「邪魔をしても」
シュディリスは髪をおろし、寛いだ格好で、ふらりとロゼッタの前に現れた。
ロゼッタは直立不動になった。
「どうされました。ご寝所に、何かご不都合でも」
「いや」
「お眠りになれませんか」
シュディリスは焚き火の前の岩に腰をおろし、ロゼッタにもそうするようにと示した。
眉を寄せて、ロゼッタは憂いた。
「申し訳ございません。このような処です。万事につけて行き届かずに、ご不便を」
ロゼッタは途中までしか云えなかった。シュディリスが手を上げて、遮ったのである。
隠れ里には女もいた。
女騎士ではなく、ふもとの村と交流するうちに夫婦になった組がいるためで、女たちは
村と寺院を行き来しているのだそうである。
そのお蔭か、日用品をはじめとして、鄙びた品ではあっても、人間が人間らしく
生活するためのものは、ひととおり揃っていた。
「こちらに辿りついてから半年経った頃でしょうか。クローバ様が、ひそかなご配慮を」
シュディリスの世話係となったホーレイアという名の騎士が、仔細を説明してくれた。
それによれば、付近の村では男手が足りないので、余計な口をきかず、身をやつし、
野良作業に従事することを厭わぬのであれば、たまに手伝ってはもらえないかという
話だったそうだ。
「最初は監視がつきましたが、それもやがてなくなりました。
以来、定期的にふもとの村々とは行き来しております。
コスモスの方々は事情を知りながらも我らに親切で、殿様のお言いつけだからと
衣食をはじめ、過分なものを用意して、時折、寺院まで届けにも来てくれます。
皇帝に知れることになれば、当時の状況では、クローバ様のお立場こそ
危うかったというのに」
「君こそ、眠れないの。ロゼッタ」
「いえ、私は」
サザンカ領にまでその美々しい噂が届いていた貴公子の実物である。
ロゼッタは魅入られるような、怖ろしいような、そんな心地がした。
「外で眠るほうが好きなので。それで、こうして天幕をお借りしております」
「わたしもそうしようかな」
「寺院の中では寛げませんか」
「野宿は、弟のユスタスともよくやっていたから」
どきん、とロゼッタの心臓がはねた。この方は、本当に本当に、あのユスタスの兄君なのだ。
ユスタスの面影をシュディリスの上に探して、ロゼッタはなおさらのことシュディリスから
眼が離せなかった。
焚き火が衰えた。シュディリスは身を屈めると、枝を火に足した。
「私がやります」
「いいから」
「シュディリス様」
「肩。腕。どこを怪我した?」
御曹司は気さくで、くだけた会話はこびが上手だった。
彼の手が伸びてきた、と思ったら、怪我の上に触れられていた。
「包帯がまだ離せぬのに、今日のような無茶を」
「名医に、都のスウール・ヨホウ様に診ていただいて、もうすっかりよいのです」
慌ててロゼッタは身を引いた。シュディリスは首を傾けた。さらりと流れる銀の髪は
星の光を集めたかのようだった。
「都にいたの」
「はい。レイズン本家の、御用邸に」
さっとシュディリスの顔つきが変わった。
「レイズンの」
「はい」
ロゼッタは覚悟を決めた。
この方に打ち明けてしまうのだ、何もかもを。
「母上と、ルイ・グレダンが」
「はい」
その生まれにより、滅多なことでは感情をあらわにしない
シュディリスであったが、レイズン御用邸にリィスリのみならず
ルイまで居ることを、実際に二人に逢った人間の言葉で
証言されては、やはり平静ではいられなかった。
「母上は、」
外部の人間と話す時なので、シュディリスは云い換えた。
「領主夫人は、お元気だったろうか。お加減が悪いように聴いていた」
「お疲れのご様子でしたが、スウール様の話では、静養が肝心だと」
「そんなに」
「長年責任ある立場にあったご婦人は往々にしてそうなるものと。此度は疲労よりは
心労のほうが強いようで、気の病とのおみたてでした」
「わたしのせいだ」
シュディリスは呻いた。
「ユスタスとリリティスもトレスピアノを出奔し、あの母上が、そのままでいるはずはなかった。
とりわけ、リリティスについては、どれほど心配されたことだろう」
「レイズン本家の御用邸へは、ジレオン・ヴィル・レイズン様より直々のご招待で」
ロゼッタはいそいで、とりなした。
「手厚く看護されておられました。ルイ・グレダン様もお傍に」
「ルイ」
「リィスリ様はほとんど供らしい供もいないままにトレスピアノを出て来られましたので、
ルイ殿はナナセラの城砦より、ずっとリィスリ様を保護する騎士として付き従って
おられたようです。リィスリ様は、リリティス様の身を案じ、ミケラン・レイズン卿からの
解放を求めて、卿と対立する本家へ助力を求めるおつもりであったかと」
「ヴィスタル=ヒスイ党」
ぎりりとシュディリスは唇をかみ締めた。
その正体不明の団体のためにオーガススィに足止めされ、また、振り回された。
いかなる理由や大義がそこにあれ、子を探しに彷徨う母親の情を利用し、
オーガススィ領主を脅すのにその名を用い、一国を思うように動かそうとは、
だいそれたを飛び越えた不届き千万。
「ジレオン。彼は、ジュピタ皇家も敬意をはらうところの、わがフラワン家への
尊意を大幅に欠いているとみえる」
シュディリスは低い声を絞り出した。
その不穏な様子にロゼッタが腰を浮かした。
「決して。決してそのような」
「リィスリ・フラワン・オーガススィを傷めつけるということは、フラワン家の
男子のみならず、領主夫人のご実家であるオーガススィ家をも敵に
回したということ。
高名な医師を用意立てたところで、娘を気遣うあまりに心が弱っておられるところの
ご婦人を誘き寄せ、その腐った野心の為に軟禁を果たすとは、未来永劫、
人間の所業にあらず」
「お待ちを」
「帝国をこれほどに引っ掻き回したヴィスタル=ヒスイ党、ぜひとも皇帝陛下の
御前に引きずり出し、その陰湿な悪行を吐かせてみせよう。
その上で頭目のジレオンとやらを、レイズン家およびヴィスタチヤから、フラワン家の
権威をもって、必ずや追放してくれる」
「これは、申し訳ありません。私の説明が悪かったようです。ジレオン殿は決して
リィスリ様を粗略になど扱ってはおられませんでした」
「君はサザンカの人間だ」
「はい」
「当家のことについては黙ってて」
口調は静かであったが、こちらをすっと流し見たシュディリスの青い眸には、反駁を
ゆるさぬ鋭いものがあった。
これは困った。
この御曹司殿は、見かけの優美さを裏切り、かなり苛烈なご気性、ご性格とみえる。
ロゼッタはそれがふしぎと怖くも、不愉快でもなかった。扱いかねてうろたえると同時、
ロゼッタは感動にうたれた。
ユスタスが云っていたとおりだ。
(この御方は竜神の騎士なのだ。真性の、純血の)
あまたの騎士とどう違うのかときかれても、見る者が見れば分かるとしかいえない。
それは決して当人にとっても周囲にとっても、平穏無事を意味しないこともある。
それでもひとたび剣を持った者ならば、それは天頂に輝き続ける星であり、
憧れて止まぬ、ある至純の姿なのだ。
(ユスタスの素直さとも、エクテマスの畸形ともまた違う。この方は、生まれより
額にそのしるしをいただく、まことの星の騎士だ)
(そしてあの人と一緒に育った。ユスタスと……)
「シュディリス様。私はハイロウリーン軍と共にいたのです」
ロゼッタは地に膝をつき、シュディリスを見上げた。ロゼッタは順を追って話した。
サザンカに亡命していたブラカン・オニキス・カルタラグン皇子を護衛し、
旧タンジェリン領に駐屯していたハイロウリーン軍に送り届けたこと。
そこにはルビリア・タンジェリンと、途中で彼らに拾われたユスタス・フラワンがいたこと。
行方不明となっていたユスキュダルの巫女が、クローバ・コスモスに伴われて
コスモス城入りしたところから、各国が浮き足立つようにして、コスモスを目指したこと。
サザンカ部隊は、オニキス皇子の護衛任務を続行し、ハイロウリーン軍と
同行したこと。
「この怪我は、太刀傷。ハイロウリーン第六王子エクテマス殿と勝負して、
彼にやられたものです」
ユスタスの名が出た時と、ロゼッタがそう云った時のみ、シュディリスは
眉を上げたが、あとは何を思うのか、押し黙って聴いていた。
そもそもシュディリスはイオウ家のロゼッタが竜の隠れ里に現れた
事情を聴きに、夜を待って寺院をぬけ出て来たのだ。
ロゼッタが話してくれるほうがありがたい。
「ジュシュベンダに使者として赴いていた兄のカウザンケントが
コスモスへ急ぎ赴任するのと入れ違うようにして、国許に移送される途中、
怪我を負ったわたしは、街道筋でミケラン卿に逢いました」
焚き火の炎が揺れ動いた。
「ミケラン卿は、御妹君リリティス・フラワン様を伴っておいででした。
お二方は、ご存知のように現在はコスモス城におられます。
お城には、調停役のソラムダリヤ皇太子殿下、クローバ・コスモス様、
ご領主のタイラン・レイズン様、以上お揃いになっておられます」
「君は、それから」
「私は、ミケラン卿より紹介状をうけ、スウール・ヨホウ医師に
診ていただくためにサザンカへの帰国を取りやめ、ヴィスタの都を目指しました」
黒髪の女騎士の話ぶりは、よどみなく、無駄がなかった。
飾り気なくはきはきと話すその語感のうちにも、彼女のまっすぐな気性が
仄見えて、どうやらこの女騎士は信じることが出来る人物であると、シュディリスは
真面目に耳を傾けた。
サザンカ騎士団はいったものである。
「わが騎士団は大国に比べれば弱小であるが、一輪の薔薇が咲いている。
白粉も紅もないが、みずみずしく咲く、イオウ家の生んだ自慢の花だ」
「途上、今度はジレオン・ヴィル・レイズン様と邂逅し、いまにして思えば
彼はミケラン卿の動向の観察に向かっていたのではないかと思うのですが、
ジレオン殿はスウール医師ならば、ちょうど御用邸に往診願っているところだと
云って、私を御用邸に引き取って下さったのです。そこに、フラワン家の奥方と
ルイ・グレダン様がいらっしゃいました」
「どうやって、ヴィスタの都を出てきた。君のその怪我はまだ完治していない」
「御用邸からは」
短く切った黒髪に縁取られた女騎士の顔が、怪我の痛みではないものに、少しひき歪んだ。
(ロゼッタさん)
都会の少年らしく、片耳に耳環をつけていたジレオンの隠密アヤメ。
あれから、どうしただろう。スウール様がいるから大丈夫だとは思うが、
剣を折るようなことになっていなければいい。
レイズンの眼を盗んで、私はリィスリ様とルイさまと知り合いになりました、と
ロゼッタは云った。
「リィスリ様のご温情により、私を盾にヴィスタル=ヒスイ党がサザンカ家を
ゆさぶることのないように、ご両名は私の怪我が回復するのを待って、
御用邸から私を逃がして下さったのです。皇帝陛下がリィスリ様を
見舞われたその日、警備の隙をついて」
続けて、ロゼッタは意外なことを云い出した。
「ジュシュベンダのイルタル・アルバレス様、前コスモス領主クローバ・コスモス様、
それから、レイズン本家筋のエチパセ・パヴェ・レイズン様」
「それが何か?」
シュディリスの顔は自然と厳しくなった。
特に最後のエチパセといえば、シュディリス、グラナン、パトロベリに毒を盛り、
旧カルタラグン領からナナセラの城砦へと送り込んだ張本人の出た腹狸である。
しかもそれはクローバの依頼だった。返す返すも憎らしい年長者どもである。
ロゼッタはそれには気が付かず、話を続けた。
「この三名は、留学時期を同じくしたご学友だったとのことで、古くからのお知り合い。
武具鑑定士であるエチパセ殿は、芸術の国ナナセラ王家と親交が深く、
そしてナナセラは、隣国フェララと交流があつい。
その関係で、フェララの剣術師範師であられたルイさまは、昔の文献に
精通されたエチパセ様が口にされた伝説を、フェララのダイヤ公より
伝え聞き、耳にしたことがあったそうです」
シュディリスはわずかに首を傾けた。
ロゼッタは何を云おうとしているのだろう。
「ルイさまは、レイズン御用邸を出る前に、私にその伝説を教えて下さいました」
それこそが、ロゼッタが本国サザンカにも帰らず、コスモスまで辿りつきながらも
兄カウザンケントがいるサザンカ軍と合流しなかった理由であった。
「シュディリス様。この寺院を、どう思われますか」
ロゼッタが野宿のために張った天幕の傍らから、彼らは寺院を振り返った。
銀河の下、岩崖に半分呑みこまれるようにして、灰色の石の屋根と支えの円柱を
晒しているその正面。
シュディリスが騎士ホーレイアに案内されたその内部は、奥が深く、想像よりもずっと
広く、そして古代コスモス王国の栄華の名残を今にとどめていた。
カルタラグン騎士たちは土着宗教の跡地に敬意を払い、清掃を怠らず、
供物を捧げることこそなかったものの彫像や柱をいたずらに傷つけることはなかったので、
円柱の建ち並ぶそこには一種の宗教的な厳かさが、色濃くまだ保たれていた。
竜の隠れ里。
それは竜神の騎士たちが隠れ潜むようになってから名付けられたのではなく、
大昔この峡谷に竜が隠れていたから、その名が残されてきたとのことだった。
「ルイさまも、この寺院にカルタラグン騎士たちが隠れ、露命を繋いでいることは
ご存知ありませんでした。私の目的はカルタラグンの人々を探すことではなく、
ルイさまから話をきいた、この寺院にあったのです。
数ならぬ身ですが私とても騎士のはしくれ。
もしも、本当にユスキュダルの巫女に対して何かの危険があるならば。
もしも、我らの巫女のお命が危うくなるようなことになったなら」
駆けつけようにも、ハイロウリーンとジュシュベンダに囲まれてしまった今の
コスモス城には一介の騎士など到底近づけようもない。正攻法でサザンカ軍と
合流したとて、それは果たせるかどうかは分からない。
寺院を見上げるロゼッタは、信じるものに命をかける騎士の眼をしていた。
ロゼッタが合図を寄越したので、シュディリスはよく聴こえるようにロゼッタの近くに身を寄せた。
間近から彼らは互いの眼を見詰め合った。そこには嘘もなく、疑いもなかった。
シュディリス様。
一呼吸おいて、ロゼッタはシュディリスの耳に唇を寄せた。二つの影が重なった。
焚き火の炎がそれをきいた。
この寺院の地下には抜け道があり、コスモス領内の二箇所の古寺院を
中継地点として、コスモス城の古い霊廟にまで、地下道が通じているのだそうです。
「コスモス城の地下に埋蔵された棺。云い伝えでは、コスモスV世のお墓とか」
「続く]
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