[ビスカリアの星]■八八.
マリリフトや、シュディリス附きの騎士となったホーレイア、そして
サンドライトや他の騎士たちの眼を盗み、シュディリスとロゼッタは
翌朝から、寺院内部の探索をはじめた。
隠れ里の人々はこの時間日課の作業に出ており、早朝の清掃が終わった後の
寺院の中は無人だった。
「隠れ里まで、レイズンが追ってくるかと思った」
「これほどに分かりにくい場所です。隠れ里のことすらも知られていないかと」
二人の声は陰々と天井に響いた。
小さな房をいくつか並べ、大きくは三間に分かれた内部を、カルタラグンの人々は
眠る場所としてしか使っておらず、日中は谷に差し込む貴重な陽の光を浴びるために
ほとんど外で過ごしていた。
古代王国時代の祭事跡地は堅牢な石造りであったために風雨に耐え、また
人里離れた峡谷にあった為に後世の人の手で荒らされもせず、土着の宗教が
この谷から完全に忘れ去られた後にも、内部は千年の昔のままにほぼ保たれていた。
シュディリスは伽藍を見上げ、それからまた床に眼を落とした。
天井付近の小さな採光窓から差し込む光が、寺院の内部に幾筋ものほそい
縞模様を作っており、水を散らしたように床を輝かせていた。
カルタラグンの騎士たちがこの地に辿り着いた時、枯葉や朽ち果てたあらゆるもので
埋もれていたこの寺院もすっかりきれいに清められ、かつての祈りの場としての
役割をふたたび取り戻したかのように、三間構造の寺院内部には宗教的な
建物にふさわしい厳粛と神聖な清潔が、身を押し包むほどに色濃く漂っていた。
「祈りの場。カルタラグンの方々にとっては、まさに、そうではなかったかと」
「そうだね」
シュディリスはひととおり内部を見て回ると、もう一度、奥にある玄室に戻った。
隠れ潜む先が人界から隔絶したこうした神聖な場所であったことが、カルタラグンの
人々の精神を自暴自棄や怠惰に流さず、いつまでも高く保ったのだろうことは
疑いようもなかったが、それは何と時代の流れと切り離された停滞、隠遁を
意味していたことだろう。
古代コスモス王国時代の様式をとどめる石柱をシュディリスは仰いだ。
トバフィルも、このような処で祈りの日々を送っているのだろうか。
大學卒業後、修道院に入ってしまったトバフィル・バラス。
まだまだ学生時代の想い出は身近に親しく、寮で共に過ごした彼らの顔も声も
当時のままに鮮やかではあるけれど、トバフィルだけは、遠くへ行ってしまった。
兄のグラナン・バラスと帝国中を駈け回っていたと知ったら、彼はいったい何と思うだろう。
そのグラナンについても、気がかりではある。
(グラナン。コスモスで待つと云っていた。無事にジュシュベンダ軍と
合流してくれただろうか)
「そのジュシュベンダ軍ですが、領主イルタル・アルバレス様のご親族にあたる
王子が現地指揮をとり、現在コスモス城の東側を固めているとか」
「パトロベリ・テラ?」
イルタルの長子を除けば、アルバレス家の王子といえば彼しかいない。
「はい。担ぎ出されたのではなく、パトロベリ王子自ら、領主代行現地指揮権を
かってのご出陣である由」
あの、パトロベリが。
極楽とんぼのあの男が、よくぞそんな気になったものだ。
「一方コスモス城の西を抑えているのは、ハイロウリーン。第一陣より出立した
御大将フィブラン・ベンダ。そのご子息エクテマス王子。騎士ルビリア、
ブラカン・オニキス皇子もそこに」
「ルビリア・タンジェリン」
「はい。ガーネット・ルビリア・タンジェリン姫の参戦は、各国も愕くところかと」
「彼女は今でもレイズンのお尋ね者であるはず。ハイロウリーンに騎士籍を持ち、
フィブラン殿の保護があるとはいえ、レイズンの真正面に旗を立てに行くとは、
軽率というより、自殺行為」
ロゼッタもそこは顔を曇らせた。
「皇太子殿下がコスモス城にいることで、滅多なことにはなるまいと
フィブラン殿がご判断されたものと考えるより他に」
「顔を見てみたいもの」
それ以上でも以下でもない感情でシュディリスは生母ルビリアに逢いたく想った。
翡翠皇子に似ているらしきこの面でも見たら、翡翠の血を受け継ぐ息子の生存と
引き換えに、その捨て身の復讐劇も止まるだろうか。
シュディリスとロゼッタは玄室の壁と床を一回り見て回った。
「ルビリア様のことは、分かるような分からないような」
竜神の騎士にかけられた呪いは、女の身にこそもっとも禍をもたらす。
ロゼッタは傷ましそうに視線を床に落とした。
「一族郎党を皆殺しにされて、全てを失った御方です。
フィブラン殿はそのこと承知で、その上でルビリア姫をお手許に保護されて
おられるのでしょう。うまく云えませんが、竜神の騎士であろうと
すればするほどに正気を逸脱してゆく一人の気高い女人の、その騎士の心を憐れみ、
本人の気の済むようにさせてやりたいとお考えなのではないかと」
「フィブランは、甘い」
「そうですね……」
ぴしりと遮った思いがけないシュディリスの厳しい反応にロゼッタは愕いて、口を閉ざした。
シュディリスは怒っていた。
フィブラン・ベンダとは面識がないが、領主には領内に保護すると決めた
お尋ね者に対し、いかにいわくつきとはいえ、よりよき道を用意する義務があったはず。
ルビリアが高位騎士なら騎士でそれでよい、タンジェリン王家の血を保全するために、
しかるべき婿でも用意して、タンジェリンの生き残りとしての義務を全うさせるほうが
先ではなかったか。
聖騎士家に生を受けた者として、ルビリアに示唆してやるべき道は他にもあったはず。
さすればルビリアとても、復讐一筋の生き方より他の転機が、新しい風の吹く人生が
あったはずなのだ。
「そのことですが」
シュディリスの顔色を伺いつつ、ロゼッタは家司イオウ家ならではの
情報網が仕入れてきた二、三の逸話を持ち出した。
「タンジェリンは聖七騎士家。遺されたその血統を惜しむ者たちの声により、かなり昔から
そのような動きもハイロウリーン内にはなきにしもあらずだったようなのです。
ですがルビリア姫は、ハイロウリーン家第二王子と早々のうちに恋仲に」
「第二王子?」
「お世嗣のケアロス様とはお年の近い、第二王子イカロス・ベンダ・ハイロウリーン様のことです」
「知らなかった」
「醜聞の類ですから」
確かに、フラワン家を訪れる使節や客人たちならば、あえて貴家に
もたらすことはない類の話ではあった。
第二王子と恋仲になってしまえば、うかつな貴族はもはやルビリアに手が出せない。
それは彼らがまだ十代の学生だった頃だというから、周囲に立ち込めはじめていた
さまざまな動きに対するルビリアの対処手段としては、それしかなかったのだろう
しかも第二王子イカロスの方がどうやら熱心でご執心だったということらしく、ルビリアは
仕方なくイカロスに応えたという形をとりながら、周囲をあっと云わせ、見事にそれらの
思惑を蹴散らしてのけた。
高位騎士として頭角を現し始めていたルビリアを引きずり落とそうという策略も、
タンジェリン家の女ならば嫁に迎えてもよいという貴族の野心も、その双方を
打ち砕き、もしやもしかしたら、このまま第二王子の妃となるのかと思わせることで、
打算的なハイロウリーン内の不満分子も抑えてしまった。
色気仕掛けで男を利用したといえばそれまでであるが、元来、女騎士とは
そういうものである。
「数年後、お二方はルビリア姫から別れを告げて終わったそうです。
傷心のイカロス王子がその後、許婚との最初の結婚をされた時には、既にルビリア様は
軍内でその実力を認められておられました。地位を確立した途端にイカロス王子を
捨てたと、当時ずいぶんとルビリア姫は悪く云われたようです。もっとも、こんなことも
世の悪評の常で、こうだったに違いないと、悪意をもとに無責任に決め付けられて
いるだけに過ぎません。その後イカロス王子が奥方を亡くされてから、お二方は関係を
戻されたこともあるそうですから、純粋に想い合っておられたのも事実なのでしょう」
「それならばイカロス王子は、弟のエクテマスにルビリアを譲渡したりはせぬはずでは」
「それはそうですね」
ロゼッタは困った。話が妙なことになってしまった。
それでなくともルビリアを巡る醜聞は、興味本位のままにとんでもないものが多いのだ。
もともとあまりこの手の艶話や噂話を好まぬロゼッタはぎこちなく云いよどみ、唐突に
ユスタスのことなど想い出しながら、困ってしまった。
報告義務があることなら幾らでも仔細に述べようが、これはただの噂話だ。
(垂れ流しの噂で人を傷つけて恥じぬ巷の人々のような真似など、私はしたくない)
(ただ自分が目立ちたいという理由だけで人の頭を蹴り飛ばし、どれほど人を傷つけても
言い訳だけを重ね上げ、「これも運命」「相手が悪い」と望みどおりの結論を
引き出しては知らん顔をしてしてやったりとほくそ笑む、あんな人間には)
(人を傷つけたことすら「悲劇」と片付け、平気な顔をして生きていく、あんな
卑しい人間にだけはなるまい)
「ロゼッタ」
「はい」
柱の陰でシュディリスがいきなりロゼッタの腕を引いた。
シュディリスが靴先で、柱と壁の合間の床を蹴った。壁の最下部から石材をはめ込んだ
床にかけて、よく見れば周囲に比べて繋ぎ目に不自然な傷がある。
「え。どうして」
「ジュシュベンダは、古代コスモス王国の施工技術を受け継ぐコスモス移民が
その礎を築いた国。古い建築物には共通点がある。ジュシュベンダ大學の学生寮の
敷地にある御堂は、最初のコスモス移民が築いた最古のものといわれていて、天蓋や
三間構造がこちらとそっくりだ」
「まさか、学生寮の御堂にも抜け道が」
「あった。半ば怪談だったけれど。君は怪談は平気?」
「好きとは云えませんが、拝聴します」
-----諸君、右手の奥から二番目の柱の裏を見たまえ。あそこだけよく見れば
色が少し違うだろう。
-----あの床下には昔、抜け道があった。土着の豪族アルバレス一族に迫害されていた
コスモス移民が、いざとなればこの御堂に逃げ込んで、河側、今では運河になっている
あたりだが、そちらへ逃げる為の抜け道を築いていたのだ。
-----ところが、アルバレス一族はそれを知っていた。コスモス移民の娘さんが
アルバレス一族の男にたぶらかされて、その秘密を教えてしまったのだ。
「これは新入生の歓迎の儀式の際に、先輩から教えられる有名な逸話。
ジュシュベンダ大學の七不思議の一つで、題して、『御堂の怪』と」
「それからどうなったのですか」
「抜道は埋め立てられた。コスモスの娘は怒った親族の手で生きたまま
重しをつけられて、河へ投げ込まれた」
「……何となく、先がよめました」
「云ってみて」
「夜な夜な、御堂の床を地下から叩く娘さんの声がする」
「入れて、入れて。朝になると、隠し扉のある辺りの床だけが運河の水で濡れている」
あまり、気持のよい話ではない。
シュディリスは身を屈め、床の隙間に剣の先を入れた。ロゼッタも反対側を試してみた。
「持ち上がりそうです」
「マリリフトはきっとこの道を知っている」
「そうですね。隙間に埃が溜まっていません。現在も抜け道は使えるということです。
きっと時々はこの道から、外部に出ているのではないでしょうか。
マリリフト殿はコスモスの近況について、愕くほど詳しくていらっしゃいました。
里の者の口から情報収集している他にも、この道から外部に出ているのでしょう。
隠れ里にいるわりに彼らが世の動向に詳しいことの理由もこれでつきます」
ロゼッタは慎重に石材をずらした。合間に剣の柄を差し入れて隙間を作ると、
床に這いつくばって下の暗がりをのぞいた。
黒髪を傾け、ロゼッタは眼をほそめた。いい加減な判断は下さぬぞと
決めたように、それは長くかかった。
「階段が見えます」
考え深そうなその顔が明るくなった。
一度蓋を戻してから、ロゼッタはシュディリスに自信をもって告げた。
「通気孔らしき明かりもありました。間違いありません。抜け道です」
「ロゼッタ、君は、ユスタスに気に入られただろうね」
「え」
不意をつかれて、ロゼッタは剣を投げ出しそうになった。
ほとんど髪がつきそうになっている至近距離から、シュディリスはロゼッタを興味深そうに
見つめていた。
外に出ると、いい天気だった。
誘導尋問にのせられるようにして、ロゼッタはユスタスと少なからぬ言葉を
交わしたことをシュディリスに打ち明けなければならなかった。
「ユースタビラと名乗っておいでだったのです」
寺院を見下ろす岩棚には、鳥が運んだ種から草が生えていた。
ロゼッタは膝を抱えた。
「それはフラワン家の先代さまのお名です。もしやと思いました。
いえ、それよりも前に、ユスタス様の口調や、その全体のご様子が、
私にそれを教えてくれました」
「各国に出回っている肖像画は数年前のもののはず。あれからユスタスは
ずっと背が伸びた。領民と混じって遊んできた弟だ。まず分からないだろうに」
「分かります」
ロゼッタは谷に眼を向けているシュディリスをまばゆそうに見上げた。
ユスタスと一緒に育った人だというのに、ユスタスとはまた違う、そして同じ家風の
匂いがする人。
「私がユースタビラの正体を見抜いてしまった時にはお怒りでしたが、
ユスタス・フラワンであるとお認めになってからも、ユスタス様は私に気さくに
接して下さいました。ルビリア様やエクテマス様からも一目おかれておられました。
彼らもユスタス様だと気がついていたようです。星の騎士の皆さまは、やはり、
少しどこか違っておられます。純粋培養のような、荒ぶる竜の魂をそのままに
お持ちのような」
「ルビリアはその時点で、ユスタスをトレスピアノに強制送還してくれればよかったのに」
「さあそれは……騎士の意志は誰にも変えられないと申しますから。ルビリア様も
そこは尊重されて、余計な口出しはされなかったようです」
収穫した野菜を手にしたカルタラグンの男が寺院の前を通り過ぎ、食料貯蔵庫へと
歩み去った。隠れ里の生活は質素ながらも、彼らの矜持と同じように決して荒廃はしておらず、
森の一部を拓いて畑を作り、野生の獣を捕まえて家畜にし、寺院の周囲に
燻製小屋まで作っている。
昨夜の食事も街道沿いの旅籠と比べて遜色のないもので、自家製の酒まで出てきた。
マリリフトを指導者に立てることで彼らは積極的に里の村からの指導を受け入れ、
役割をこなしながら自給自足の規則正しい生活を谷で送っており、そんな
彼らの谷での日々は、剣稽古の時間を除けば、僧院での禁欲的な生活が一番近かった。
それでも、歳月は確実に彼らを老いさせていた。
隠れ里の人々に混じって、サンドライト・ナナセラの姿もあった。
サンドライトはシュディリスの食い扶持の分まで働かんと、カルタラグン騎士に混じって
甲斐甲斐しく薪を割ったり滝から水を運んでいたが、本来であれば彼らのその力、
その活力は、もっと別のことに、名誉のうちにあるべきもののはずだった。
「政変から、もう長い月日が流れたのに」
「はい……」
谷に吹く風が岩棚にいるシュディリスとロゼッタの髪を揺らして過ぎた。
さまざまな想いに駆られて、シュディリスは吐くように云った。
「恩赦が下ってもいい頃だ。カルタラグン家に仕えていたという以外、彼らには
何の落ち度もない、もとより、何の罪もないのだから」
「はい」
「旧カルタラグン領はレイズン家の管轄にあるが、それ以外で、この
コスモスでもいい、安住の地を用意し、せめて彼らの老境は穏やかな
ものであって欲しいと願うことは、無理なことだろうか」
「里の方には何人か子供もいるそうです。もちろんカルタラグン騎士が父だということは
極秘にされていますが。こちらの方々はそれでよしと、すっかり心を決めておられます」
「何とかしてやりたい」
「シュディリス様」
躊躇いがちに、ロゼッタはシュディリスを振り仰いだ。
「彼らの望みは、生涯をカルタラグンの騎士として生きることだけ。それは
サンドライト殿とて同様かと存じます。彼らが求めているのは、昔も今も
騎士としての生きざまを求められる活躍の場。それだけなのです」
活躍の場。
シュディリスは唇を噛んだ。
他でもない、自分なら、彼らにそれを与えてやれるのだ。サンドライトが一夜にして
はぐれ騎士から志ある騎士として相貌を一変させたように、ただ一言、我こそは
ヒスイ・ヒストリアの子であると告げ、わたしに剣を捧げよと命じさえすれば、それは
叶うのだ。翡翠皇子とルビリア姫の間に子がいたことを知らぬまま落ちぶれた、したがって
何の再興の希望もなかった彼らが夢にもみなかった、最も劇的にして、最高のかたちで。
しかしそれを行うことは、今度はフラワン家の名を棄て、フラワン家の人々に
恩を仇で返すような迷惑をかけることになる。
彼はフラワン家の人々を、家族を、ユスタスやリリティスを愛していたので、これまでも
一度たりともカルタラグンの皇子として生きたいなどと思ったこともなく、むしろひたすら
フラワン家の子として、父母の恩に応え、弟妹のために生きたいとすら願ってきた。
ユスタスやリリティスがきょうだいの分を超えて、あまりにも彼を愛し、護ろうとしてくれた為に、
それ以外の道を選ぶことやカルタラグンの名に捕らわれることは、考えるだけでも
ユスタスやリリティスへの裏切りを意味していた。彼自身も、出来ることなど今さら
何もないと、早いうちに思い決めていた。
あの日、トレスピアノを出る前は。
「私ごときが、どうして。フラワン家のご次男であられるユスタス様にまさか。畏れ多い」
弁明こそが、その答えになっていた。
「ユスタスの名を出すたびに、君はその黒い眸に動揺を浮かべるから。
すぐに気がついた」
「ご勘弁を」
ロゼッタは否定したが、シュディリスは好意をもって続けた。
「君が否定しても、ユスタスはあっさり認める。そうだよ、それがどうかした?」
「……」
「今度家に連れて来るから、兄さんも彼女に逢ってよ」
思いがけなく、その兄の口からユスタスの口調をそっくりに真似られて、ロゼッタはうろたえ、
背中を向けた。馬草の束を両手で抱え、ロゼッタはそこに顔を埋めて隠した。
「ユスタス様はご親切にして下さっただけで」
「だろうね」
「もうこのあたりで」
「そうだね」
シュディリスは笑い、馬パトロベリの世話をした。
少々の散歩では足りないらしく、馬パトロベリは鼻先でシュディリスの肩や頭を叩き、
前脚をかいて、こんな窮屈なところは嫌だ、もっと外に出たいとねだった。
「お前をここで放したら、野生の馬になってしまう」
シュディリスは馬パトロベリと顔と顔を突き合わせて云い聞かせた。馬パトロベリは
可愛い眼をして、シュディリスにどしんと体当たりをした。
「パトロベリ」
シュディリスはその茶色の馬をそう呼んで、いたく可愛がっているようだった。
ロゼッタはずっと気になっていたことを、恐る恐る訊ねた。
「シュディリス様。こちらのお馬さまは、パトロベリ殿とおしゃるのですか」
シュディリスは平然とそれを認めた。
「トレスピアノから乗って来た馬を途中で傷めてしまったので、オーガススィへ
向かう途上農家から買い上げた。ナナセラ産の馬だ。
馬パトロベリの名は、グラナン・バラスがこの馬につけた」
内輪受けしている間はともかくも、さすがにそれは今後において
差し障りがあるのではないかと、ロゼッタは心配になってきた。
本人たちの間で冗談が通じているならそれでもいいが、下手をすれば
外交問題である。
「差し出がましいことながら、シュディリス様。そのお馬殿の御名につきましては」
「大丈夫」
馬パトロベリの顔に顔を寄せて、シュディリスは馬を撫ぜた。
何かを予感したものか、パトロベリは先刻から落ち着きなく、草を蹴っていた。
「パトロベリとは、此処でお別れだから」
桶からはみ出た飼葉を掃除していたロゼッタは顔を上げた。
馬パトロベリがその黒い目を(え、なんで)と云いたげにシュディリスに向けた。
「寺院地下のあの抜け道に、この馬は連れては行けない」
「無論それはそうですが……」
ロゼッタは面持ちをあらためた。
「ということは。シュディリス様」
「わたしはコスモス城へ行こう」
動きをとめてしまった馬パトロベリの鼻面にシュディリスは手をおいた。馬はいなないた。
彼はもう一度云った。
「パトロベリ、此処でお別れだ」
「シュディリス様」
「ロゼッタ、君も来る?」
「もちろんです。ですがしかし」
「コスモス城へ」
シュディリスは馬パトロベリの首筋を軽く叩くと、厩舎を後にした。
そこに、全てが待っているのだから。
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ユスキュダルの巫女さまが、ソラムダリヤ皇太子殿下とお逢いになるそうです。
その報が城主タイラン・レイズンよりソラムダリヤにもたらされたのは、そろそろ
コスモスの丘陵に日も沈む頃であった。
赤銅色の円盤が緑の野や森を染めてゆっくりと山際に落ち、赤みを帯びた
濃い影が町に流れ、塒へかえる鳥の群れが西日の中に行過ぎる。
ソラムダリヤは立ち尽くして、タイランの言葉をきいた。
「巫女さまが、わたしにお逢い下さると」
「これより、お支度を」
「支度といって」
皇太子は困惑を隠さず、自身の衣裳を見下ろしてから、近くの侍従を近くに呼んだ。
ユスキュダルの巫女と拝謁叶うことになった。事例がないことだ。
「典範といっても、ないだろうね」
「どうぞ、そのままのお召し物でお気楽に。巫女は御やさしい女人です」
「タイラン。あなたは附いて来てくれるのですか」
「扉の前まではご案内いたします」
「巫女は、わたしと二人きりで、あの塔の中で面談したいとお望みなのですね」
ソラムダリヤは窓から見える、古塔の影に眼を遣った。
表面に蔦を這わせた石壁の塔は千年も前からそこにあったかのように、コスモスの
夕空の下にあった。
「他に気をつけておくこと等ありますか」
「巫女は臥せっておられます。あまり長い時間お過ごしにはなりませぬように」
「分かりました」
ソラムダリヤは緊張で面をあらためた。
立場上、その道の権威だの、聖騎士家の重鎮だの、長年のあいだ歴々と顔を
合わせてきた彼であっても、此度ばかりは身を引き締めてとりかからねばならない。
タイランがしばしば巫女を見舞い、直接語らっているときいていたので、相手も人間、
過剰に怯えたり構えたりすることこそ失礼にあたると、平常心を保つつもりで
今日という日を待っていたものの、それでも膝がふるえそうだった。
騎士でもないこの身が、生きた伝説にこれから逢うのだ。
薔薇色や菫色にかがやく雲の向こうには、そろそろ星が見えていた。
禊といった大袈裟なものではないが、入浴をすませ、都から運んできた
衣裳のうち地味目なものをまとい、支度を終えたソラムダリヤが室を出た頃には、
空はもう星空へと変わっていた。
外では松明を掲げたタイランが待っていた。
「ソラムダリヤ様は、皇帝陛下より、何か伝言など預かっておいででしょうか」
「少しは」
「それではそれをまず、巫女にお伝えになられますように」
わずかな護衛を連れて、彼らは塔へと向かった。
何もかもが古色蒼然としているコスモス城は、日が暮れると、よりいっそう
物語の中の城のようであり、ざわつく草木はそのまま郊外の森へと繋がって、
森の奥深くに潜む古い風を絶え間なく連れてきているかのようだった。
「この塔は、まだ国が小さかった頃、外敵が侵入してきた時に備えて城内の人々が
立て篭もるために築かれたものです。昔はこのあたりに土塁があったとか」
ソラムダリヤに説明するタイランの声もひそやかだった。
長い長い年月が経ったことを示し、四階まで続く螺旋階段は真ん中が磨り減っていた。
「こちらです。わたしは扉の外でお待ちしております」
タイランはソラムダリヤに道を譲り、中に呼びかけた。
「皇太子殿下がお見えです」
後ろで静かに扉が閉められた。
そこは古い時代の装飾柱をたてた、天井の高い室であった。
物がほとんど置かれておらず、燭台の灯りも最低限であり、奥に垂れている帳は
室内を二分し、天蓋つきの寝台を囲むものだった。そして寝台もその帳をすべて
降ろしてあった。
壁や天井に長い影を映す蝋燭の灯りを見るともなしに見ながら、ソラムダリヤは立ち尽くした。
ソラムダリヤ。
空耳ではないかと思われた。しかしソラムダリヤはその場に凍りついた。
かそけきその声には、それだけのものがあった。
薄布の内側から、蝋燭の火を超え、この夜を透して、彼に話しかける女人の声がした。
「ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ……」
その声は、まるで塔にすまう精霊のもののようだった。風もないのに、眼の前の帳が
ふわりと浮き上がり、夜明けの波のように押し寄せてきた。
「ユスキュダルの巫女さま。御前に」
震えている自分の声を、ソラムダリヤは別の人のもののようにして聴いた。
彼は頭を垂れ、わななく身を抑えようと努めた。それでも立ち位置を見失い、
夜の塔の中に浮き上がっているような気がした。
「お召しにより今宵参じました。ソラムダリヤになります。
貴き巫女さまへ、わが父ゾウゲネス皇帝よりもご挨拶を申し上げます」
「ジュピタの若者。懐かしいこと」
ぞぞっと、ソラムダリヤの全身が総毛だった。ユスキュダルの巫女たちは個にして全、
死は死ではなく、すべての記憶を代々共有するといわれている。
「わたしの竜を滅ぼしに、フラワン家の乙女を連れて、また来たの……」
ソラムダリヤは腰を探った。いつもさげている護身用の短剣はそこになかった。
剣はタイランに訊ねるまでもなく、もとより外してきていた。
「ジュピタの若き王子よ」
「巫女」
「わたしの竜を滅ぼした七人の騎士たちはいずこ。竜の焔より身を挺してそなたを庇った、
あの勇敢な乙女は」
「コスモスに。コスモスにおります」
闇の中、皇子は喘ぎ、喉から絞り出すように云った。
「フラワン家の姫も、騎士たちも、皆」
カルタラグン、ハイロウリーン、ジュシュベンダ。
レイズン、サザンカ、オーガススィ、タンジェリン……。
「七人の騎士を連れてわたくしの前に現れたそなた」
「はい」
「ジュピタの若き王子よ。永い命の旅の果てに、わたくしたちは、また逢うことが叶いました」
闇の中に見たこともないほどの美しい翠色がまたたき、そしてそれはソラムダリヤの顔の
すぐ近くにまで寄ってきた。
それが巫女の眸であると気がつくまでのわずかな間に、千年もの時が流れたようだった。
「帝国を統べるジュピタ家の王子。あなたが、ソラムダリヤですね」
人界よりかけ離れたるものから人へ。話しかける今度の声は、穏やかだった。
帳をひらき、歩み寄ってきた女人よりは、たおやかで、気品があり、やさしげだった。
「ユスキュダルの巫女」
「人里とながく離れておりました」
微笑むそのひとは、ソラムダリヤを見詰め、それから近くの一組の椅子へと顔を向けた。
「夜分にご足労をおかけしました。皇太子よ」
夢から引き起されるような想いでソラムダリヤはいそぎ、巫女の為に、椅子を引いた。
巫女が坐るのを見届けてから、ソラムダリヤも椅子にかけた。
これ以上はないというほどに冷たくなっていた心の臓も、畏怖も、恐怖心も、
ようやく次第におさまってきた。小さな卓の向こう、蝋燭の灯りに透かされて見える
そのひとは、女人のようであり、もはや性や年齢のない、いまにも消えてしまいそうな、
何かの化身のようでもあった。
(落ち着け)
気をしずめ、夜の暗さに助けを借りるようにして、ソラムダリヤはようよう云った。
「お逢いできまして、光栄です」
「貴家の方。騎士ではない貴方を、何とお呼びしましょう」
「どうぞ、ソラムダリヤと。----お加減が悪いとおききしておりましたが」
「心配は要りません」
「ユスキュダルの巫女よ」
このような機会は二度とはあるまい。そう心を決めて、塔に入った。
ソラムダリヤは腹に力を入れた。
「帝国皇帝よりの伝言をお伝えいたします。そしてこれは、わたしの願いでもあります。
どうか、巫女のお力をもってして、コスモスに終結したる騎士たちに呼びかけを。
いたずらな騒擾を止め、彼らに国に帰るようにとの、説得を」
巫女の動かない翠色の眸を見ていると、何もない闇と光の空間に向かって喋って
いるような、そんな錯覚に落ちていくようだった。雪のように星の降る、竜の眠る太古の大地に
引き戻されて、初代の巫女と対峙しているかのような、妖しい幻覚に。
「ジュピタの王子よ」
「巫女。貴女がミケラン・レイズン卿の招きにより、ユスキュダルを出てこられたというのは
真のことですか」
巫女はソラムダリヤを見つめ返した。蝋燭の炎は揺らがなかった。
「ミケランが、そう云いましたか」
「いえ。噂です。しかしわたしはここを是非とも確認したい。卿の目的を知りたい。
ミケランがユスキュダルの貴女に、野に降りてくるようにとの手紙を出したのか。
その目的は何なのか。どうか」
やがて、巫女は唇をひらいた。
「彼は、鎮魂と、帝国の平穏の為にと」
「平穏」
「タンジェリン滅亡後、帝国の行く末を案じた騎士国が、にわかに不安を強めたことを
ミケランは承知でした。それは直接的には、ジュピタ家再興の功労者であるミケラン・
レイズンへの不満となって、表層化しようとしていた」
この次はどこの騎士国が潰されてしまうのだろう。そんな漠然とした、そして身近に
迫っていた見えない危機感。騎士たちの胸に浸み込んでいた、滅ぼされた騎士たちへの
同情と、同胞である騎士たちを踏みにじってきたミケランへの憎悪。
「ながく、ミケランがこの次に何をするのか分からないという慢性的な不安感が
この帝国の空に、いつも見えない雲となって、覆いかぶさっていたはずです」
帝国を旧来のかたちに。
騎士国の談合による政治体系に。
その願いは藁に火を落とすだけで一気に燃え上がりそうなところまできていた。
「そうです。それを頃合やよしと煽ったのが、レイズン本家の若者たちが興した
ヴィスタル=ヒスイ党です。巫女よ」
息を呑み込み、ソラムダリヤは顔を上げた。
「巫女。ヴィスタル=ヒスイ党のことも、裏ではミケランが糸を引いていたと思いますか」
「思います」
ソラムダリヤに向き合ったユスキュダルの巫女の双眸は、清んだ星のようだった。
「伝令!」
篝火の影を踏み越え、断りの声を上げながら兵が走っていた。
いったい何事かと、コスモス城を監視しているジュシュベンダ軍の兵たちは
訝しげに顔をあげ、伝令の背中を見送った。
「パトロベリ様」
「直接きくよ。入れてやれ」
夕食後寝台にごろりと横になっていたパトロベリ・テラは、そのままの姿勢で
伝令を天幕の奥の間まで通した。
彼は小姓に髪を切らせ、風呂に入った後で、ついでにいつでもそのまま眠れるように
寛衣姿だった。
そんなところを粗探しの天才シャルス・バクティタなどに見られたら、またしても
「なってない」だの「非常識」だの、たちまちのうちにパトロベリへの反感情が
沸騰するべくして沸騰したことであろうが、陣中、パトロベリとシャルスは互いに
必要がある時以外は決して顔を合わせないようにしていたので、この時間は心配がなかった。
あちこちから届く文書を読むともなく読んでいたパトロベリは、頬杖をついたまま
伝令兵に顔を向けた。
「もっと灯りの近くに」
「は」
伝令が進み出た。隅に控えていた小姓が垂れ幕を下ろした。
肘をついて頭を支えたパトロベリは、いつもそうするように、兵の眼を見た。
それはイルタル・アルバレスが誰かと対面する際に必ずやる
癖であったが、パトロベリは駐屯軍の上に立つにあたり、無意識に
イルタルの真似をするようになっていた。
帝王教育をかじる程度にしかかじってこなかったパトロベリではあったが、
彼なりの繊細な心で、常にイルタルの動向や真情を間近に見ていたからこそ
自然に会得できたことでもあった。
「申し上げます。ミケランの私兵に囲まれた護送馬車が五台、夜をぬって
コスモス城に接近しつつあります」
「あ、そう」
パトロベリの肘の下で書類が音を立てた。パトロベリはのんびりと、今起きたような
顔をつくって、瞬きをした。
「多分その馬車はあれだな。ミケランが領内の砦に抑留だか
何だかしていた、はぐれ騎士たちだろ。ユスキュダルの巫女に附いて
山を降りてきたお尋ね者たちだ」
「は」
「何をする気だろう。全員を釈放して巫女に無条件返還とか。ないか、それは」
「パトロベリ様」
伝令が一礼して去ってしまうと、小姓がパトロベリの為に掛け布を持って近づいてきた。
小姓は慎重に声を掛けた。ごろりと仰向けに寝そべりパトロベリは天井を仰いでいたが、
その眼は先刻とうってかわって思いつめた、暗いものであった。
「悪い報せでしょうか、パトロベリ様」
「はぐれ騎士たちねえ」
パトロベリは顎を撫ぜた。
「素性はばらばらだろうが、どのみちユスキュダルに逃げ込んだお尋ね者たちであることには
変わらない。罪人っちゃ罪人だ。これから何をするつもりだろう。
うーん。ミケランの考えることは極端から極端に飛ぶようで、慎重だからな。
あのおっさんとは長いこと逢ってないけど」
「ミケラン卿と面識がおありだったのですか」
「ジュシュベンダに一度大使として来たよ。当時、僕はまだほんの子供だったけどね」
花の都ジュシュベンダ。
若い頃をジュシュベンダで過ごした者は、その心に一生、春の光を忘れないと
詠われる古い都。塔と運河と霧の街。
(日陰の王子として過ごした僕には、肩身の狭い場所でしかなかったけれど)
これが偉大な皇帝の晩年の愛妾とその子供かと、寄ってくる連中は皆、好奇心と
軽蔑を剥き出しにしていた。母の身分が低いことから、そこには何の遠慮もなかった。
「口先だけの同情や安っぽい理解を押し付けてくる人間が、一番嫌いだったな。
彼らはそんな自分の姿をちゃんとひけらかしていたからね。
人前で僕のことを低く語りさえすれば、何もしない自分が主役になることが
可能なんだから、さぞや楽しかったことだろう。
そんな連中ほど、うだうだと噂を広めて騒ぎ立てるばかりで、本当に人の為に
なることは絶対にしないのさ。どれほどの過負担を相手にかけようが、
それすらも運命や悲劇や、何もかもを、人のせいにして」
天井に揺れ動く火影をパトロベリは見つめた。
(王子といっても、ものの数にもならなかった。ジュシュベンダには、イルタルという、
病弱でも聡明な立派な、年長の王子が他にいた)
「王子パトロベリ」
そんなイルタルは、臣下のいる前では必ずパトロベリを「王子」と呼び、実の兄弟で
あるかのように適度な距離と、親しみをこめて接していた。
他に何をするでもなかったが、そんな方法で、イルタルは宮廷におけるパトロベリを庇護していた。
そなたら、この少年をないがしろに扱うことのないように。そんな言外の圧力を両眼にこめて、
イルタルは故意にそうしていた。
「パトロベリ様」
「飲み物を。何でもいい」
もっとも、イルタルは、パトロベリの母への関心からパトロベリの面倒をみてくれたに過ぎず、
パトロベリを王子と認めていたこと、それですら、自身に万が一のことがあった時の
為に王族を確保しておくための、国を思う領主の打算に過ぎなかった、ともいえる。
「そう思うこと自体、イルタルに対して失礼な話だけどね。あの人はそんな人じゃないし」
物心ついた時にはもう母と二人きりで、父たる先々代はいなかった。
母は母で、貴人たちからはつまはじきにされていた。
花の都、歌の都、古い塔と霧の街。
夕暮れに鳴り出す鐘の音。雪山を染める荘厳な朝焼けと、黄昏の空から舞い降りる銀の雪。
星が散っているようにみえた。
(アニェス……)
雪の上に散った赤い血と、最後の恋。
パトロベリは胸を探った。シュディリスに取り上げられて、そこにはもうその絵姿がないことを
知りながら。
「続く]
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