[ビスカリアの星]■九.
胸にもし、やっと巡り合えた宝物を抱くその時には、
力を篭めるものだろうか、それとも葉先に揺れる露珠に触れるように、
その身も心も、一筋ほども傷つけぬように、触れ合うその僅かを惜しむべきだろうか。
シュディリスは馬乗りに不慣れなかの人を支える手間を、手綱捌きと
さらなる速度に変えた。
一度も振り返らず、追っ手を引き離すことだけに全神経を傾けて、
鞍の前に横坐りし、被衣の下で唇を噛み締めているその怯えも、
背中に回された細い両腕の力の弱さも、
伏せるようにしているその尊き顔も、何もかも、彼は見なかった。
はるか後方で大勢の騎馬が動く音と、続いて激しい剣戟の音がしたが、
それすらも馬を飛ばす彼は顧みなかった。
木立を突破すると、岩盤と岩盤が塞がる崖の間をすり抜けた。
張り出した岩にその端が触れて、巫女のまとう白衣が鞭打たれたような音を立てた時、
息を呑んで巫女はシュディリスの顔を仰ぎ、シュディリスも巫女の無事を咄嗟に見下ろしたが、
双方が見詰め合ったその一瞬の小さな摩擦も、向かい風の中に飛んで、後ろに消えた。
この地方の地形を脳裏に思い描いて、
シュディリスは思い切った道を採り、谷間を抜けると間道からも逸れて、
巫女を連れて道なき道へと馬を走らせた。
岩場を渡り、飛沫を浴びながら滝の淵を通り抜けて、前方に広がる黒い森に飛び込むと、
森の奥へは向かわず、斜面を上へ上へ、そして明るい方へと向かい、
どれくらい走ったか、木々の帳を抜けて、下方と山脈を一望する崖の上へと走り出た。
そこで初めて大きく馬の首を巡らせて停止すると、シュディリスは森の底を打つ音に耳を澄ませた。
追っ手はとっくに振り切った。
風の音しか聞こえない。
鳥の音しか聞こえない。
国境付近で盛んに狼煙が上がっているのが望めたが、
ここからではもうその一筋も、空の傷ほどにしか見えなかった。
シュディリスは狼煙を読み取り、眉を寄せた。
他国の軍隊がトレスピアノの国境を侵すなど、信じがたきことではあったが、
それならば尚のこと、レイズン家の軍勢の侵入前に巫女の身柄を
咄嗟にせよあの場から連れ去ったのは、天助というべきだった。
巫女に手綱を握らせると、シュディリスは馬から降りた。
そして疲れて荒息を吐く馬の轡を宥めて引いて、今度は崖の反対側に森を下りた。
人の通わぬ森の中は薄暗く、そして光が朧に差して、道に光溜りが出来ていた。
倒れて朽ちた木や、硬い枝葉が両側から邪魔をする悪路に差し掛かるたびに
彼は馬の鞍に横坐りしている巫女の姿を振り仰いだ。
振り返るたびに巫女は静かな日暮れの鳥のように、
傾きかけた日の光に真珠色に縁取られ、眩くそこにおわすのだった。
森を貫いて流れる河が見えてきた。
くすむ光が清流に細かな金のさざなみを描いている処で、
シュディリスは馬から巫女を抱え降ろした。
白い花を降ろすように、森の園にそっと抱き降ろした。
馬は水を飲みにひとりで木々の向こうの流れへと歩んで行った。
空は遠く、包む森は見渡す限りに薄暗く重なり続いて、深く寂しく、音もなかった。
崩れ落ちるようにその場に膝をついたのは、シュディリスの方であった。
今さらのように身体が震えるのを堪えるのが精一杯で、
不敬と無礼を詫びる言葉も思い浮かばず、奪った巫女の前にただただ伏して、
唇を噛み締め、彼は固く眼を閉じていた。
緊張の反動で白く霞んだ頭に、せせらぎの音だけがしていた。
その張り詰めた静寂を開いて、曙の白光が瞼を横切った気がした。
どこか遠くで、照り映える夕雲が熔けて散り、金色の糸雫となって
森に降りそそいでいる気がした。
巫女の手が彼に触れていた。
慈愛の雨のように、その声は己の所業を責めるシュディリスに届いた。
幽けき唄となって、あたりの寂しさを共鳴させて、彼に響いた。
「傷ついているのは、貴方の方です。気高き人よ」
顔を上げた。
シュディリスの前に身を屈めた若い巫女は、その、空にも海にも、
地上の何にも比べられない清さで澄み切った緑の瞳で、シュディリス見つめていた。
被りものを頭から被り、足許まで白い衣で覆われているその聖なる方は、
水晶の像のようなほっそりとした姿で、シュディリスの前にいた。
その緑の瞳にはしんしんと吸い込まれていくような硬質の深遠があり、
その雪花の白い顔には、精神の高さが照らす、滲むような光明があった。
瞬きをすることも忘れて、シュディリスは巫女を仰いだ。
それは人のかたちをした一つの叡智であり、清真であり、慧眼だった。
その声音にもその様子にも、人の心を一新に雪ぐような、
黄昏の山際に降る星の光、雪の光そのものの静謐があった。
「よく頑張りましたね------星の騎士よ」
輿から巫女を奪う際に騎士たちから斬られた彼の首の傷に、
巫女はそっと手を当てていた。
傷口からはもう出血が止まっていたが、シュディリスははっとなって、
ユスキュダルの巫女の御手より、身を引いた。
これは不浄の血、貴女には相応しくない。
巫女は微笑み、その歩みを河の淵に運んで膝をつくと、
袖口を濡らして、また戻ってきた。
凝固した首筋の血を拭うそのやわらかな冷たさを、シュディリスは今度は拒まなかった。
近々とあるその顔を、ただ見つめた。
やさしい香り、きっとあの花の香り、あの淡い紫の、
雲がさざめく夕暮れにこそ、空に花開いて美しい。
息が止まる想いがして、気がつくとシュディリスは再び片膝をついて
深く頭を垂れていた。足許に伏してもなお、ユスキュダルの巫女の存在により
森の中に醸し出される至倖至福の振動が彼を夕べの音楽のように打っていた。
空にははや星があった。
宵の星だった。
光が去り闇が来ようとも、闇の中にありて輝くもの。
巫女はその星を背に立ち上がり、
片手を彼の頭上にやさしくかざすと、夕映えの中に告げた。
「地上の法より、人の理より、その心高く保ちて生きる誇りの騎士よ。
今この時より、汝の心はわたくしの視るもの」
「--------」
「いかなる苦難に堕ちようとも分たれることなき絆で結ばれて、わたくしが加護したうもの。
御身を祝福します」
巫女はシュディリスに名を尋ねた。
「わたくしに誓いますか、騎士シュディリスよ」
「この命のある限り」
「みどりごよ、いつか星々は御身が魂を新天地へ導く。
かりそめの寄留より解き放たれし日がやがて来たりなば、その時こそ
御魂に相応しき栄光と安息が与えられる。
地を流離う時にも耐え忍び、決して弱り果てることあるな。
星の無名において授けられしその胸の灯火を、絶やすことなく、保ちたまえ」
「はい」
「これより先、御身が流す血はわたくしの血、その心は、わたくしの心。
嵐にありても見失うことはない。
世々限りなく、わたくしはそなたと共にあります」
不意に、花々がそよいだ。
シュディリスは愕いて立ち上がり、倒れかかる巫女を支えた。
眼を閉じたその顔は蒼褪めて、ほとんど夕闇の棺に入った死人に見えた。
巫女は「大事ありません」、と弱い息で眼を閉じた。
シュディリスは近くの岩に巫女を運んで坐らせると、その影を乱すことすら畏れ多く、
一歩下がって控えた。
そこから躊躇いがちに何か云おうとした彼に、巫女の方から手が差し伸べられた。
シュディリスは求められるまま、その前に膝をつき、その両手を包んだ。
骨の重みも感じられないほど優柔な手だった。
眩しそうに眼を細めて、巫女は暮れゆく深い森の辺りを見回した。
やがて眼前のシュディリスを初めて見るように見い出すと、
磨り硝子の向こうからようやく実体が現れるように、今度はしっかりとした美しい声で、
生身の人として、話しかけてきた。
「お名をもう一度お聞かせ下さい、騎士よ」
「シュディリス・フラワンと申します。トレスピアノ領主カシニ・フラワンと、
オーガススィ家より嫁ぎ来たったリィスリ・フラワン・オーガススィを父母とし、
十九歳に相成ります」
「他の星の騎士はいずこですか。山の間道でわたくしは彼らを見たのです。
きらきらとその命が瞬いていた、貴方の他に二人いました」
「妹のリリティスと、弟のユスタスです」
「それで。心似かよう者に特有の、近しい響きがありました」
「お望みであれば御前に二人を連れて参ります」
やさしく巫女は首を振った。そしてシュディリスの手に預けた手をそのままに、
自身に云い聞かせるように、夢見る瞳で風の中、それを云った。
「この逸脱は長くは続かない。それでも、わたくしはほんの僅かな
この下界での開放の時を尊ぶことにしよう。
何という倖せ。
もう叶うまいと思っていた幼い頃の日々が、馬に乗って駆けている間、
次々と想い出されてきた。
巫女としてユスキュダルに奉納される前の少女だった頃のことが。
風はこんなにも強く、空はこんなにも広く、森の香は過ごした家の暖炉の匂いがする、
この力強く巡る生命の空疎の中に、かつてわたくしもいた」
やさしげな巫女に、シュディリスは恐縮するしかなかった。
白い長裾から覗く、麻布の質素な履物を見てすら、胸が痛んだ。
濯いだ器に水を汲み、果実と供にその膝に差し出した。
主な食料は弟のユスタスの荷の方にあり、何も用意が出来ないことを詫びると、
「潔斎の月には何日の間、何も口にしません」、巫女はそう云って、
半分以上をシュディリスに分け与えてやさしく取らせた。
「このような仕儀に相成り、お休み頂ける幕屋もなく、
女官の一人すら連れて来ることが叶いませんでした。
今晩だけご不自由を御忍び下さい」
痛むほどの静寂に耳を澄まし、完全に追っ手の影がないことを確かめると、
森の奥からシュディリスは巫女の許に戻って云った。
「無粋な騎士ゆえ出来うる限りのことをしても至らないでしょうが、
心をこめてお仕え致します。まずは、このまま水辺の傍にいては夜は冷えます。
何処かにお休み頂ける場所を探して参ります」
巫女は何一つ怖れる風もなく、膝の上で手を重ねたままでいた。
「シュディリス」
「はい」
「貴方とは歳もそう違いません。旅路の間は、わたくしを姉と思って下さい」
「畏れ多いことです」
「姉にそのような口利きはいけません」
「お許しを」
「では、わたくしの名を教えます。ご存知ですか」
「ユスキュダルの巫女、とだけ」
「ユスキュダルでは、わたくしのことを、仕えるものはそこに咲く花に喩えて、リラの君と呼ぶ」
「リラの君」
「それでは呼びにくいでしょうか」
「いえ、そんなことは。------しかし」
「雪山にも春が来る。
蒼い空に枝葉を伸ばし、その花はそこに咲くのです。
憂いを涼しく織り詰めて、忘れた言葉のよう。
夕風に散る花びらが、霊廟の石段にも零れてくる。そんな花です」
「それでも」
「では、巫女になる前の名を教えます。もはや誰からも呼ばれることもないと、
遠い昔に諦めた懐かしい名です。あの鄙びた幼い名。貴方が呼んで下さい」
「それをお望みですか」
「実のきょうだいのように」
「切にそれをお望みであるならば、如何にして断ることが出来ましょうか」
「カリア・リラ・エスピトラル。わたくしの名です」
鳥が鳴き、金と黒が色濃く交錯すると、強く陽が森に翳った。
リラの君カリアは、何故かその時、薄い苦しみを堪えるように、眼を伏せた。
------------------------------------------------------------------------------
シュディリスは馬を連れて来た。
荷を降ろすと、敷布を取り出し、岩陰の平らな地面を選んでリラの君の為にそれを敷いた。
熾した火を見つめているカリアの元に戻ると、
巫女は被衣を取ってその頭を露わにし、就寝のために髪を解いていた。
編み上げて輪冠のようにしていた髪を解き終わると、焔の影にも鮮やかな、
シュディリスと同じ銀色の髪が流れ落ちた。
「御髪のための櫛も鏡もありません。
ですが、母や妹がしていたことを見ておりましたから、どうぞ、これを」
「騎士よ、わたくしは貴方がたの為にこの世に在るのです。
そのように困じ果てさせる為にわたくしは貴方に応えて
附いて来たのではありません」
シュディリスが剣の柄頭から抜き取った高価な飾り紐を差し出すと、
カリアは微笑んだ。
その小さな白い顔には不思議なほどの静かな光があり、このような野宿の際にも、
何事にも左右されぬ信仰に、巫女の心は清く高く保たれているようだった。
シュディリスが背後に立ち、その髪を一つに編むのを手伝うことをカリアは拒まなかった。
侍女がいない時、シュディリスは妹リリティスの髪をそうやって結ってやったことがある。
美しいその髪を片側に寄せてゆるく編み、飾り紐で束ね終わると、不意の衝動に駆られて、
シュディリスは手を離す前にその髪に畏敬のくちづけをした。
やがて背後の暗がりから、シュディリスの思い詰めた声がした。
「カリア。わたしは貴女に嘘をついた。それを告解しても?」
「秘めておくことで平穏が得られることもあります」
「わたしには、妹も弟も、本当はおりません」
焚き火のはぜる音がした。
カリアは何事もないかのようにやさしく問い訊ねた。
「彼らを愛していますか?シュディリス」
まことの同胞でも叶わぬほどに、とシュディリスは迷うことなく答えた。
「互いに想い合い、血の繋がりはなくとも、この天地の何人よりも強い情で結ばれております。
年少のあの二人のためならば歓んで兄の務めを果たすことを、むかし己に誓いました」
「それでは、彼らにとっても貴方は実の兄です」
カリアは赦した。
シュディリスは続けた。
「子供の頃からずっと本当のきょうだいだと信じて睦み合って育ちました。
寄る辺ないわたしにそうして肉親の愛と安定を与えて育んでくれたのはフラワンの養父母です。
十九年前、或る騎士が生後間もないわたしをトレスピアノのフラワン家に預けた。
我が実父は、カルタラグン王朝の第二皇子ヒストリア・ヒスイ・カルタラグン・ヴィスタビア。
謀殺され、生涯を閉じました。
母の名は、ガーネット・ルビリア・タンジェリン。
カルタラグンとタンジェリン、この滅んだ両家が、わたしの血肉の源です」
「そのことを恥じますか?」
「いいえ。断じて」
「では、誇りとしますか」
「フラワン家の名を我が姓として誇らしく名乗ることの、その次に。
そしてミケラン・レイズンの名を聞く度に、復讐を求めて戦く血の重みを自覚する、そのたびに」
「騎士シュディリスよ」
カリアは呼んだ。
明かりの届くところに進み出てきたシュディリスを見つめ、
「ミケラン・レイズンはわたくしを利欲の為に利用しようとしたようです。
それでもわたくしは、ミケラン卿もまた高位なる騎士であり、
その信じるところに従って、カルタラグンを滅したことを疑いません」
何一つ装飾のないつましいほどの身なりをしながらも、
天界の星と呼応しているかのような、どのような宝石よりも澄み切った瞳を
巫女は闇の中にしていた。それは口にしかけたシュディリスの反駁をたちどころに黙らせた。
「どちらの側にもつきません。
ですが、これ以上彼が騎士の心より逸脱し、世を霍乱することあらば、
その時こそわたくしは、いたずらに騎士を滅ぼそうとする者の前に立つでしょう。
代々のユスキュダルの巫女が幾度かそうしてきたように、
悪心を思い止まらせるために人々の前に進み出るでしょう」
「その時には必ずお供つかまつります」、シュディリスは応じた。
「それまでは、どうやら彼に捕まるわけにはいかないようです」
「この命に代えてもお守りいたします」
剣を抜き放つと、それをシュディリスは巫女に捧げた。
炎の映りがその刀身を朱金色に燃え立たせ、それは火の粉を散らしてシュディリスの髪を揺らし、
今にも夜空に羽ばたくと見えて、巫女の手が戻すままに、またシュディリスの鞘に納められた。
巫女は星空を見ていた。
「シュディリス」
「はい、カリア」
「貴方は若くしてミケラン・レイズンに斃された父君の無念を
晴らすために、血の道を往きますか?」
「分かりません。カルタラグンは地上よりとうに消えました。顔も知らぬ父のことです」
「では、現世で再会を望める御母君が、貴方に復讐を求めたら」
「分かりません。彼女は騎士としてハイロウリーンの騎士団にいると聞きます」
「もし母君と敵対することあらば」
「その時にはわたしも騎士として、それが母であろうとその首を討つでしょう」
「輿の中で、貴方の声を聞いた時---------」
森の木々はまるで夜の神殿の柱列のように、辺りを押し包んでいた。
焚き火の揺らぎの中、カリアは白いその手を胸に重ねた。
「こう想ったのです。誰かが苦しみの悲鳴を上げていると」
「悲鳴を?」
シュディリスは愕いてカリアを見つめた。
一行より巫女を奪う際の振る舞いは、たしかにあれは乱暴なものではあったが、
自分は強引はしても、悲鳴などは上げていない。
しかしリラの君には、自分の訴えが、そう聞こえたのだろうか。
「悲鳴とは、どのような悲鳴です」
「分かりません」
「あの時、胸の奥底から突然、強い衝動が湧き上がってきて、
それに従わねばならぬと思いました。貴女を誰にも渡したくなかった」
「わたくしには、外にいるその騎士が酷く苦しんでいるように想えました。
ユスキュダルの門をくぐる多くの騎士がそうであるように、
その従容や忍耐や冷静の下に、誰よりも深い沈黙の亀裂を抱えて彷徨っていると。
誰にも理解されぬそれを、貴方はわたくしに訴えていた」
「よしんばその苦しみがわたしの内に在るとしても、それはわたしのものではなく、
それこそ敗れ去ったカルタラグンやタンジェリンの残滓です」
炎はシュディリスの顔を、光と影に閉ざして塗りこめた。
握り締めた刀の鍔が抑えようもなくかたかたと鳴るのを、
シュディリスは夜の風のせいにした。
「そのような重荷など、フラワンの両親の許で薫陶を受けたわたしには
本来与り知らぬもののはずです。
それでもこの胸に時折走る、得体の知れぬ灼熱の痛みが何であるのかわたしは知りたい。
それは、黄泉よりわたしを報復へと促す死者の怨念ですか、
決してこのままで済ますものかという死人の執念ですか、それとも、
わたしの騎士としての誇りの高さが、若くして惨殺された父の仇討ちを求めて、
裁きを希って止まぬのでしょうか」
(貴方のお父上であられる翡翠皇子は、最後まで、闘って死んだそうです)
(ルビリア姫を逃がし、たった一人で、押し寄せる敵と対峙したのです)
(平生は軽薄を装っておられましたが、彼は竜神の血を引く騎士として立派に死にました)
(貴方が大きくなるにつれ、性格は違うのに時々どきりとするほど、
面差しが似通っていることがある。この母の前でそのように剣の手入れをしていると、
あの御方に見えることがある)
「一体わたしは何に急かされていくのか、どうするべきなのか、道をお教え下さい、カリア。
貴女の供人の中には、カルタラグンの紋所のある剣を所有していた騎士がいた。
彼は何者ですか。
もし彼らが我が亡き父に連なる近しい者であるならば、
わたしは彼らに何をしてやれば良いのですか」
カリアは首を振った。
シュディリスは己を取り戻し、「詮無きことをお聞かせしました」とうな垂れた。
リラの君の手を取って、仮の寝所へと案内した。
風を遮る岩と、樹木が屋根を作っているそこへ横たえ、上から掛け布代わりの
上外套をかけようとすると、カリアは「隣に」と、彼に求めた。
「それは出来ません」
「貴方が休まぬのであればわたくしも安らぎません」
暗闇から水中花のように白い手が伸びると、シュディリスを掴んだ。
抗い難いやさしさに引き寄せられて夜の花が頭を掠めたかと思うと、折り重なって倒れていた。
寝具は一つしかないのだからこうする他ないと巫女が思ったにしろ、
驚懼してシュディリスは飛び起きようとした。
「添い臥しならば、岩の向こうでいたします」
引き下がろうとするそんな彼を、手負いの獣でも宥めるように、巫女は抱え寄せた。
「わたくしは誰ですか」
「尊きユスキュダルの巫女です。騎士の聖母であられる御方です」
「では、何もかも安んじて、おやすみなさい」
揺れた樹木から花びらが降る中、カリアは囁いた。
小さな子山羊を抱いているようだとシュディリスは思った。
子供の頃、リリティスやユスタスがよく兄の寝台で勝手に眠ってしまったが、
その二人を片寄せて一緒に眠った幼い記憶が蘇った。
小鳥が鳴く頃一番早く起きるのはユスタスで、リリティスが一番遅かった。
淡い金髪を乱してぐっすりと眠っている妹は、輝く朝の中、金色の花びらを集めたように見えた。
この状況を見たら、二人は何と云うだろう。
お前たちの兄は、今宵、ユスキュダルの巫女と寝所を共にするようだ。
シュディリスが低く笑うと、カリアはその頬に触れて、頷いた。
剣帯を外して軽装になった。
夜に冷たく香る花が頭上にあり、星空があった。
穏やかにしているカリアは、シュディリスにとって、ほとんど月の幻のように見えた。
「くちづけをしても?カリア」
慌てて付け加えた。
「お休みの。母や妹にはそうします」
差し伸べられたカリアの手を取り、かすかな火影の中で押し戴いたその甲に接吻すると、
「この方が、少しは寒さがしのげましょうから」
横になり、カリアの身体を岩陰に抱き寄せた。
妹リリティスの姿態にすら幾度か想ったことのある罪のない邪まは露ほども想い浮かばず、
抱いているのは精霊のように思えた。
何故か、アニェスのことを想い出した。
雪のように降っている星のせいだろうか。
留学先で雪の中に別れ、心にいつまでも棘となって刺さっている昔の恋が、
ここにきてようやく落ち着いた慰めを得た気がして、シュディリスは眼を閉じた。
眼を閉じても、銀河の星は雪に変わって降っていた。
顔に深傷を負ったあの御方は、誰よりも惨い運命に晒された絶望の果てに、
星々に包まれるこの安らぎを見出していたのだろうか。
だからあのように、寂しい、静かな眼をして、彼女を苦しめたすべてを許し、
毅然として別離を告げたのだろうか。
「夜なのに、蒼い空が見えます。怒りと高潔の蒼空が、暗い森の果てに」
胸の中でカリアが云った。
何かを幻視されているのかも知れない。
かつて覚えのない安らかな眠りに落ちながらシュディリスはその囁きを聞いていた。
「何という深く強い、蒼い色。曇りひとつない。貴方の瞳の色です」。
[続く]
Copyright(c) 2006 Yukino Shiozaki all rights reserved.