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[ビスカリアの星]■九一.


いそぎ防御柵を立て並べ、さらには弓兵を補充し、ハイロウリーン軍セルーイト伯は
完璧な陣構えを保つよう眼を配った。整然たる規律。これがハイロウリーン軍の無敵の強さの
秘訣である。命令伝達の徹底と実行の速さを揺るぎなく保持し、他国と比べても
質の高い騎士を集めた上でそれが完備される時、ハイロウリーンは一軍が一騎士と
なったかのような華麗にして怒涛の猛攻力を誇るのであり、それを知るセルーイト伯は
たとえ小隊の中においても、基盤をゆるがせにはしなかった。
対面にいるは、双璧と謳われるジュシュベンダ軍である。
その紫に金銀の軍旗を遠く睨んで、セルーイト伯はなおさらの如く、敵でもなし味方でもなし、
さりとて手を組んだこともない、並び称されながらも雌雄の決着は避けてきた強国の存在を
強く意識した。
閑をみて、副官がセルーイトに近づいた。
 「セルーイト様。どうなりましょうか」
 「分からん。ジュシュベンダ側の司令官はパトロベリ王子だそうだ。初陣なればこそ
  浮き足立ったおかしなことをするやもしれぬ。よく見張り、必要あらば
  ジュシュベンダをうまく抑えて自重さしめよとのフィブラン様のお言葉だったが」
 「ジュシュベンダが中州のレイズン軍を叩くと?」
 「レイズンがあのままならば、強行も考えられるからな。やつらコスモス領で一体何を
  やっているのだ。しかしミケランの部隊を叩くとなれば、それは皇帝軍に
  弓を引くのと同じことだ。レイズン分家は皇帝警護を預かる特殊な軍なのだから」
 「騎士の処刑をこの朝、あの場所で、ミケラン卿は何故」
 「それがわれらをひきつけておく目的ならば、ミケラン卿はこの間にも、別行動を
  しているということだ」
セルーイト伯はふっと重いため息をついた。
 「コスモス城には、ソラムダリヤ皇太子殿下がおられる。まだか」
 「将軍」
伝令が走ってきた。
 「セルーイト将軍。コスモス城より中州に向けて使者あり。皇太子旗を立てております」
 「きたか」
セルーイトは背筋を伸ばした。鞍を叩いたその声がはずんでいる。
 「皇太子殿下のお使者が出たか」
 「セルーイト様」
 「領主タイラン殿が動かぬ以上、この騒動を止められるのは皇太子殿下をおいて
  他なきところ。殿下はご自身の裁量と責任において、お使者を出して下されたか」
 「しかし、タイラン殿は、何をされているのでしょう」
 「知るか。あれもレイズン家の男だからな。何を企んでいるか分かったものではない。
  ともあれこれで余計な争いは避けられるだろう。ジュシュベンダともレイズンとも
  接触せぬまま終えるのが、わが軍にとって果たすべき第一の義務である」
馬上から首をまわし、セルーイトは末端にいる女騎士の姿をとらえた。
女騎士は先ほどと変わらず、その高貴な従騎士と馬の轡を並べて、まっすぐ前を向いていた。
 「……争いなど、避けて避けて、逃げて逃げて、逃げるがよい。
  その為に戦わねばならぬとなれば、ハイロウリーンは逃げはせぬ。
  決して逃げはせぬ代わりに、犬死もせぬ。だがルビリア姫よ。そなたのそれは
  どう転んでも自滅。復讐ですらないではないか。それがわたしには嫌でならぬのだ」
 「わたしは、ここまできたら、あの方の一念を叶えてやりたいような気もいたします」
副官はなけなしの義侠心を発揮して、セルーイトとは反対意見だった。
 「天晴れなおなご。ルビリア殿も、ミケラン卿を眼の前にして歯がゆいことでしょう」
 「翡翠皇子の無念、タンジェリンの無念を、あの細身にたった一人で背負って
  きた女だからな」
そのどちらもハイロウリーンの我らには肩代わりできなんだ。それがあの姫の悲劇であり、
そしてまた我らにとってもいつまでも、あの姫を観るたびに心に重くもたれてくる、
情けなきことでもあったわ。
 「敵討ち。それならば一人でやれ。ハイロウリーンを巻き込むな」
口に出してはそう云って、セルーイト伯はわずらわしそうに首をふった。


 「皇太子殿下より、お使者!」
中州でこう着状態にあった面々は、使者を迎えて一様に草地に膝をついた。
レイズン軍、ハイロウリーンとジュシュベンダから出されたそれぞれの使者、さらには
クローバ・コスモスである。
 (皇太子だと。領主タイランは何をしている)
朝露に濡れた草に膝をつき、クローバは眼をほそめた。
 (タイラン。兄のミケランと結託し何ごとか企んだか。いや違うな。あの男ならば
  兄の暴挙を止めようとするだろう。そのタイランに動きが無い。城で何かあったな)
 「この騒擾。処刑責任者。出ませい」
 「は」
クローバに「尻尾を巻いて帰れ」と傲岸な態度で接した男が、進み出た。
皇太子の使者は下馬もせず、馬上から「殿下のお言葉である」と告げた。
 「ソラムダリヤ皇太子殿下が事情をききたいとの思し召しである。
  処刑責任者は城に附いてくるよう。他の者は委細明らかになるまで、ここで待て。
  軽挙はあいならん。心せよ」
おかしい。
とはっきりクローバが感じたのはその時だ。
タイランが城に不在であるわけがない。そのタイランが出てこない。
皇太子がここはわたしが収めると領主を留めた可能性もあるが、その場合にも、
旗を立てた使者を同行させるはずである。 
タイラン・レイズンの沈黙。
それはすなわち、ミケラン卿の動向にも深く関わっているのではないのか。
 「クローバ・コスモス殿」
思いがけず皇太子の使者から名を呼ばれた。
皇太子の使者は皇太子その人として扱われる。クローバは頭を下げた。
皇太子の側近頭としてクローバにも見覚えのある、ソラムダリヤよりは年長の青年だった。
育ちのよい青年貴族らしさの中にも、近衛の誇りを滲ませた若き騎士だった。
 「内密の件である。近う」
 「は」
 「クローバ殿。クローバ殿はコスモス軍を動かせますね」使者は囁いた。
 「いや、それは」
 「動かせるか動かせないかを訊いています。できますね」
 「……」
 「コスモス兵は依然として前領主である貴方に忠誠を誓っているはずです。
  クローバ殿。皇太子殿下よりのお達しである。領主タイランが不在のこの折、
  コスモスの城と街を護る者がいる。
  各駐屯軍、城を目指して大挙中。あれらが街中に入れば大混乱となるでしょう。
  クローバ殿。暫定的にそなたをコスモス軍指揮官に。これは皇太子殿下の命令である。
  コスモス兵を率い、いそぎ、コスモス城下を鎮めるよう。これはコスモス領の隅々に
  詳しいものにしか出来ぬことです。お分かりですね」
 「は」
 「各国軍を近寄せぬのが最善であるが、無理でしょう」
近衛騎士は、馬上から街の向こうを眺めた。
 「せめて混乱を最小限に押さえ、民に被害が出ぬよう。
  今からではそれで精一杯かと思います。クローバ殿。すぐに」  
理屈を呑み込むと、もうクローバは躊躇しなかった。
 「クローバさま!」
乗って来た黒馬に跨り、使者を追い抜いて城に戻ったクローバは、馬のまま兵舎の
前庭まで乗り込んだ。
 「俺がいなくなってから編隊に変更はあったか。あれば精通している者を寄越せ」
 「コスモス軍に大幅な変更はありません!」
 「よし、隊長を召集しろ。今から割りふる区画に急行し、道を塞げ。城に迫っている
  各国軍にお引取り願うのだ」
 「隊長召集!」
とても間に合わん。
それを知りながら、クローバは次々と指示をとばした。子供の頃から遊んだ街だ。
城下の路地も小橋もすべて頭に入っている。
 「いいか。小競り合いになったら、すぐに退却し城に戻れ。街中での戦闘は固く禁じる。
  軍を二手に分ける。半分は俺と共に城の防衛にあたるぞ」
 「はっ」
 「待て。城の鐘を鳴らしたのは誰だ」
 「不明です」
 「戒厳令を敷くぞ。これは皇太子殿下の命令だ」
クローバとコスモス軍の関係は、組織化された大国のそれとはまた違い、大工の棟梁と
職人の信頼関係に近いところがあった。それだけにクローバの命令は金科玉条の
ものとなって打てばすぐに轟いた。
クローバは誰かが持ち出してきた黒に金のコスモス兵の鎧をはいた。それしか用意がない
ので仕方が無い。
 「クローバ・コスモス。おんために」
この無位無官の放浪の騎士が彼らが剣を捧げる主君。コスモス兵はクローバに
挙手敬礼すると、すぐに持ち場に散って行った。


 「戦旗が立ちましたぞ」
コスモス城に揚がったその旗を、ジュシュベンダ陣より、シャルス・バクティタは
睨み上げた。
 「おおい。何の戦だ」
片手で目庇をつくり、パトロベリも顔をしかめてそれを見た。
 「僕が教わった帝国法じゃあ、ちゃんと諸国にこれこれこういう理由にて、どこそこと
  戦端を開くと文書を飛ばした上で、戦を構えるのが決まりじゃあなかったのかい」
 「そんな悠長な。どこの国も守ったことはありませぬぞ」
やりこめる機会を逃さず、シャルスは世間知らずのパトロベリ王子の発言を
せせら笑った。こうしてちくちくと揚げ足をとり、この生意気な王子を叩き潰し、捻り潰して
やるつもりだった。もちろんそれは清く正しいジュシュベンダ祖国の為なのだ。
シャルスは鼻をひくつかせた。
 「王子。あの旗の意味が分からぬとは」
 「うん。分からないね」
 「我が軍とハイロウリーンが兵を出しましたから」
横合いからシャルスの副官キエフがたすけ舟を出した。
 「それで」
パトロベリは肩をすくめた。
 「コスモスはレイズン家に乗っ取られ、僕らとハイロウリーンを相手に戦うとでもいうのかい」
 「コスモス領主タイランは、ミケラン卿の実弟ですぞ」
 「莫迦らしい」
 「では現にああして揚がっている戦旗をなんとお思いになられます」
 「タイランは確かにミケランの実弟だけど、それぞれに独立されていて、
  仲はそんなによくないはずだよ。
  こうなる前の段階でミケランが頻々と郊外から送っていた文書も、弟殿はきれいに
  黙殺してのけたそうじゃあないか。あの兄弟が通じ合っている説は却下する」
 「それこそが、レイズン家特有の陰湿な隠蔽工作でないと、誰に分かりますかな」
 「もう一つ」
シャルスの厭味を無視してパトロベリは腕を組んだ。
 「お城には皇太子殿下がいらっしゃる。その城が、戦意を明らかにするはずがない」
 「それは、そうかも」キエフが合点した。
 「ということは、あの旗は戦旗じゃあない」
 「では、何なのです」
 「警告かな。コスモス領民に対する」
パトロベリ王子の言葉を裏打ちするかのように、城から空砲が打ち鳴らされた。
 「平和を謳歌してきたコスモスには、あれしか領民に危機を報せる方法がないんじゃないの。
  あの旗と空砲で、危ないから今日は家から外に出るなと云ってるのさ、多分ね」
 「王子、あれを」
 「コスモス軍が城から出てきましたぞ」
 「当然だろ。あちこちから駐屯軍が押し寄せてるんだ。彼らは関所を設けるつもりなのさ。
  さっき中洲からクローバが城に大急ぎで戻ったろ。おそらく指揮を執ってるのは彼だね」
憤然としているシャルスを無視して、パトロベリは騎馬兵に大きく手を振った。
 「何事もない。その場で待機を続けるよう」
王子の意をくまなく伝えるために、伝令が走っていった。


ユスタス一行は大きく道をそれ、コスモス城下を一望する丘に出た。
突然、領外へと通じる道をとったので、後続のイクファイファ率いるオーガススィは
先が読めず、かなり距離をあけた処で停止し、こちらの出方を伺っているようでる。
 「グラナンが帝国の幹線道路に詳しくてたすかるよ」
ユスタスは後ろを気にしつつ、木陰に入った。朝の丘には涼しい風が吹き、足許には
露をやどした小さな花が揺れていた。
 「サンシリア姫。淋しくしていないでしょうか」
 「え?」
ユスタスが横を見ると、ふんわりと手綱を握ったルルドピアスはまるで此処がお城の
談話室ででもあるかのように優しい顔で云った。
 「小トスカイオお兄さまの三女です。あの子だけお城に残してきてしまいました。
  まだ小さいから」
 「あ、そう」
なんだろ。
サンシリアといえば、レーレローザとブルーティアの妹姫だっけ。
一人で残してきたことに負い目を感じるあたりは優しいルルドピアスらしいけど、でも
こんな時に云い出すことじゃないだろう。
 (コスモス城を見て、オーガススィ城を思い出したのかな。それにしても余裕だな。
  いちいち、ずれてるんだよね。このお姫さま)
 (まあそのへんは、リリティス姉さんもロゼッタも似たようなものだったけど。女の子の
  思考の飛び方は僕にはお手上げだよ。何云ってんのって感じ)
それを顔に出さず、にこやかにユスタスはルルドピアスの馬に馬を並べた。
 「絵本の中に出てくるような、かわいい城だよね。コスモス城は気に入った?」
 「はい」
 「僕はちゃんと君をコスモス城に連れて来たよ」
 「はい。それでこそ、フラワン家の騎士です」
もちあげられて単純に機嫌が良くなった。ユスタスはルルドピアスに笑顔を返した。
本当におかしなお姫さまだよ、この子。
 「----ここからが、問題ですわね」
一方、ビナスティとグラナンの年長組は後方にさがり、声を低めて相談していた。
周辺を警護しているのは、クローバに忠誠を誓うコスモス兵である。コスモス兵に
ジュシュベンダ騎士とオーガススィの姫とフラワン家の御曹司が護衛されているのであるから
後方のイクファイファ王子も動きが取れぬところであろうと、グラナンはいささか王子に
同情した。
 (先刻、目礼のみで挨拶はしたが、イクファイファ王子も複雑なお顔を
 されておられたな。オーガススィで世話になったのに恩知らずと思われている
 ことだろう。王子、申し訳ありません)
生真面目なグラナンは苦しいところであった。
せめてルルドピアス姫のことは必ずお守りしようと、姫の方へ向き直ると、ルルドピアスは
ユスタスと一緒に馬を降り、のんびりと草に腰をおろして花を摘んでいるところだった。
 「グララン」
慌ててグラナンはビナスティに向き直った。
 「コスモスには職業軍人のみで、義勇軍はなかったはず。ということは
  街中を押し通ったとしても、領民からの妨害に遭うことはないのでは」
 「他国に蹂躙されたことのない無防備さが仇になりましたね。コスモス城は
  街に護られているようなものですが、防衛向きではありません。その気になれば、
  どの軍も一気に城に寄せることが可能です」
 「グラナン、あれを。コスモス兵だわ。道を閉鎖している」
 「コスモス城に常駐していた部隊を動員したのでしょう」
丘の突端に馬を進めて、ビナスティは顔を曇らせた。
 「門や橋ごとに分散を余儀なくされた、あれしきの人数で、軍を押し戻せるはずもない」
 「しかしコスモスが出て、皇太子殿下の警護として城に詰めているレイズンは動かずとは」
 「変事に鳴った鐘がもしやユスキュダルの巫女の御身にかかわる一大事では
  なかろうかと、こうして国々が集って来ているのですから、巫女の無事を確かめねば
  とても引き潮にはなりそうにもありませんわね」
 「ビナスティ、あれを」
グラナンが城を指した。
黒に金のコスモスの旗の横に、同じく黒と金の、色配分が違う横長の一旗が揚がる
ところであった。続いて城から空砲が打ち鳴らされた。ユスタスとルルドピアスが顔を上げた。
 「----戦旗!」
 「いや。違います」
グラナンがすぐに云った。
 「皇太子殿下およびユスキュダルの巫女さまがおわす城が戦旗を掲げるはずがない。
  大砲も空砲で、砲台も上を向いています。これは領民への警告でしょう」
 「イクファイファ王子、コスモス城に戦旗あり!」
 「戒厳令だろう。街中で武力行使もありえるという予告だ」
オーガススィ軍イクファイファの部隊もそれを見た。
イクファイファ王子は、手の届くところに妹ルルドピアス姫を捉えながらも、彼らを
囲んでいるのが北方三国同盟先のコスモス兵であるところから迂闊には手が出せず、
もどかしいことこの上ない気持のまま、一行の後を追っていた。
ルルドピアスがまた不意に意識を失って落馬せぬかと心配するのが一番で、その次には、
危険地帯のコスモス城へと妹が向かっていることが不可解で、気がかりであった。
(それなのに、何故だ)
 イクファイファは唇をかんだ。
(ルルドピアスがああしてコスモス城へ向かっていることが、何やら正しいことのように
 思われる。馬を駆るルルドピアスの小さな姿だけが強い光に包まれて、もう誰にも
 妹をこの世に取り戻すことは出来ぬのだと、思い知らされるようだ)
 「あっ、あそこを。グラナン」
街を囲む城壁ともいえぬような低い城壁の一部で、コスモス兵とフェララの使者が
押し問答しているところだった。
もしやクローバ様の姿でも見えはせぬかと馬鞍から身を乗り出していたビナスティは
ほっと息をついた。
 「フェララはあっさりと引き上げたようですわ」
 「形ばかりです。あれは、兵がどれほど詰めているかを確認しにきた斥候でしょう。
  突破するつもりなら、フェララは迷わず突入してきます」
 「ああもう、怖ろしくなってきましたわ」
悩ましい声と顔になって、ビナスティは眉をひそめた。
 「もし各国軍がコスモスの街に押し入るというのなら、どうか抵抗することなく
  お城まで通してしまうといいのですわ。城まで行けば、皇太子殿下も、ミケラン卿も、
  ご領主タイラン様も揃っておりますから、その説得を受け、騎士の皆様がたも
  落ち着かれることでしょう」
 「おそらく、コスモス軍もそのつもりでしょう。どだいあの兵数では防ぎきれるわけもない」
グラナンはビナスティを励ました。
城のタイランがその命令を下したと思っている二人は、タイランの性格を考慮して、
コスモス軍は戦を徹底的に避けるであろう方向で意見が一致した。
 「そのための戒厳令です」

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リリティス、と引き止めて呼ぶ声は、はるか彼方だった。
鳥のように、空を。獣のように、森を。
この身から心だけが先に遠くへと走り去り、それを追いかけているような無我の中、
リリティスはいつどうやってソラムダリヤの手を振りほどいたのか、愕いているエステラの
制止を振り切り、ソラムダリヤの側近から剣を奪って彼らをくぐり抜け、
どうやって回廊を抜けて城の階段を駆け下りたのか、まるで定かではなかった。
 「そこをどいて」
リリティスの姿は流れ星のように城の敷地を駈け、古塔への最短距離をとった。
自分でも何をしようとしているのか分からなかったが、ミケランがそこにいるのなら、
そこへ行かなければならぬ。
 (一体何をしようというのです。ミケラン様)
緑の中を走るリリティスは、朝日の白光の中に古い幻を見た気がした。
 (シリス兄さん……?)
そう思うほど、その影は兄に似ていた。
リリティスを導くように、リリティスを追い抜いてリリティスの前を走り、そして消えてしまった。
シュディリスとユスタスの笑い声がした。騎士の札遊びをしている彼らはその手に
星の騎士の札を持っていた。変な名だと云って見せてくれた。奇妙なことにいつまでも
忘れられない名だった。使い方も、分からない。
 (シュヴァラーン・ハクラン・チェンバレン)
そのリリティスは塔の手前でレイズン兵に阻まれた。
鎧装束は青に黒。青に黒に銀の本家ではない、ミケラン卿の私兵だ。
いつの間にそこに配置されたのか、彼らは朝露の草の上に盾まで構え、すっかり
塔を取り囲んでいた。前面の兵が盾を持ちあげた。
 「おさがり下さい。この先は危険です」
 「危険とはどういうこと。塔へ通して」
厳重警護態勢にある兵たちは、何重にも塔を取り囲んで塔を護り、リリティスを
通さなかった。
 「なんだこれは」
追いついてきたソラムダリヤが息を切らしながら兵を見廻した。
 「何をしているのだ。ミケラン卿は何処にいる」
皇太子の姿にも、兵は不動だった。家柄関係なく能力で取り立てられてきた彼らは
ミケラン卿への忠誠あつく、それはミケラン卿への絶対的な服従と忠誠となって、
ミケランの命令にしか従わないようにできていた。
 「そこを通せ」
 「なりません、申し訳ございません、殿下」
彼らは皇太子にも従わず、道も譲らなかった。
押し通ろうとしたソラムダリヤを、兵士たちは盾を重ねて邪魔をした。
 「そうですか。では、遺憾ながらわたしはわたしの権限をふるいたいと思います」
かなりむっとして、ソラムダリヤは云い渡した。
 「わたしの近衛および、領主タイランからもコスモス兵を借り受け、兵を揃えてまた
  また戻ってきます。それでいいか」
 「リリティス。殿下」
後を追って走ってきたエステラが木陰から現れた。
ミケランの愛人という立場から、「だらしのない女」と呼ばれぬよう、常に人並み以上に
身だしなみに気を遣ってきたエステラであったが、今朝ばかりはそれも返上し、
髪も乱れ、部屋着姿のままだった。
リリティスとソラムダリヤ、その前に盾を並べている兵士を見比べ、すぐに事態を
呑み込んだエステラは、時を無駄にしなかった。
息を整えると、エステラは顔見知りの兵の前に進み出た。
 「エステラです。ミケラン様は塔の中ですか。私ならば入ってもいいかどうか、
  ミケラン様に訊きに行って下さい」
 「エステラ様」
 「何かあったのならば、私はミケラン様のお手伝いをいたしますからと、そうお伝え下さい」
それを、エステラはソラムダリヤとリリティスの方を向いて云った。
兵士同様エステラもまた、どちらかを選べといわれたら、帝国よりもミケランを選ぶ女だった。
それを受けて、エステラの意を伝えに兵士が一人塔の中へと入っていった。

 「やはり、ミケラン卿は塔の中にいるようだ」
塔を見上げ、ソラムダリヤはリリティスに囁いた。
 「いまにわたしの近衛隊が此処にやって来ます。----タイランは、何処だろう」
息を詰めるようにして塔を睨んでいたリリティスの眸が、その時うごいた。
塔にいちばん近い処に詰めている兵士たちがざざっと道を空けた。塔の扉が、開いたのだ。
 「ミケラン様」
包囲網の外からエステラが思わず叫んだ。扉の奥の暗がりから、人影が出てきた。
 「エステラ」
朝日に白くかがやく塔の正面に現れ、エステラに応えたのは、ミケラン・レイズンだった。
塔を降りてきたミケランは、その両腕に、意識のない誰かを抱きあげていた。
人と思しきそのものは、全身を布で包まれており、顔も兵士たちの目から隠されていた。
柔らかな白い布の覆いから、ほんのわずかにのぞいているほそい指先が、それが女で
あることを示していた。
ミケランに続いて、屈強な兵たちが数人がかりで慎重に、別のからだを階段から抱き下ろしてきた。
それが重傷を負ったタイランであることを見てとったリリティスたちは、一瞬ですべてを悟り、
蒼白となった。あれがタイランであるのなら、では、ミケランが抱き上げているあのひとは。
ミケランが両腕に抱き上げているひとは身動きもしなかった。布の端が朝の
清浄な風に流れてひらりと舞った。
 「ミケラン様……!」
泣いていいのか、悲鳴を上げたいのか、リリティスには分からなかった。
天地が真っ暗に閉ざされる気がした。突然、青い空がかき消えたのは、ミケランの許へと
行こうとして、兵に強く押し戻され、転倒したからだ。リリティスは叫んだ。
 「ミケラン様!」
 「エステラ」
ミケランが呼んだのは、リリティスではなく、エステラだった。
兵がさっと分かれ、エステラだけを通した。エステラはソラムダリヤとリリティスにすばやく
目配せをくれて、何とかいたしますと云うようにひとつ頷くと、もつれる足取りで迷わず
ミケランの許へと行った。
 「ミケラン様……」
緊張感や得たいの知れぬ恐怖、不安で、エステラの胸は押しつぶされそうだった。
ひとつの戦いを終えた後の男の顔をして、ミケランはエステラを見た。朝風に黒髪を
なびかせているミケランは、見知らぬ男のようだった。
眩しげにエステラを一瞥して、おもむろにミケランは云い出した。
 「どうしたね、エステラ。今朝は貴女にしてはずいぶんと簡素な格好をされているようだが」
 「そんな」
衣の端を握り締めてエステラは喘いだ。
 「そんなことを云っている場合では。朝からどんなにか」
 「よろしければ、後で兵に命じて貴女の好きなドレスを持って来させよう」
 「どうするつもりですの、これから何処へ。ミケラン様」
恐怖に凍えた眼をして、エステラはミケランが抱き上げている、布に覆われたひとへと
視線を移した。頭の先から足の先まで大切に包まれて隠されていたが、それはどう見ても
女人だった。エステラの声はふるえた。
 「ミケラン様がその腕にお抱きになっている、その方はもしや」
 「ユスキュダルの巫女。カリア・リラ・エスピトラル」
 「ひっ」
ふるえ上がり、エステラは口を両手で覆った。
 「まさか。まさか、死んで、ミケラン様がまさか」
 「生きておられる。お眠りになっているがね。仮死状態だ」
 「仮死状態……ですって」
 「ミケラン」
兵の囲いの向こうから、ソラムダリヤが厳しい声で呼びかけた。
皇太子の背後には皇太子を追ってきた近衛兵が、塔と対峙するように数を
増やしつつあった。
 「ミケラン卿に命じる。ただちに兵を解散させ、わたしに従うよう。わたしに剣を向けた
  時点で貴殿は叛逆者とみなされます」
 「お断り申し上げます。殿下」ミケランは軽く頭を下げて挨拶を返した。
 「ミケラン」
 「殿下の早朝の眠りを妨げましたことは陳謝いたします」
 「ミケラン。貴方の生徒であったわたしの願いです。大事になる前に兵を引き、
  わたしと話し合ってくれるように」
 「殿下。殿下のお優しさだけで、このミケラン、もう十分でございます」
 「そうではない。武力ではなく話し合いで解決したいのだ。ミケラン、貴方が
  腕に抱いているものは、ユスキュダルの巫女なのですか。ご無事なのですか」
 「勝手に塔に入りましたことは申し開きようがございません」
 「それは、ユスキュダルの巫女なのか」
 「互いに、もう語り合うことなどないかと存じます」
 「はぐらかえすな!」
温厚そのもののソラムダリヤが人前で怒鳴ることなど滅多にあるものではなかった。
自制し、ソラムダリヤは再度呼びかけた。それはまるでミケランと彼の年齢が
入れ替わり、父が子に対するような説得であった。
ソラムダリヤはいつの間にか、下にした両手をからだの脇で強く握り締めていた。
リリティスはソラムダリヤがひどく昂奮し、そして何とか自分を抑えているのを
その手のふるえから知ることができた。
ソラムダリヤは息を吸って、おのれを落ち着かせた。
 「悪いようにはしません。話し合いで解決します。まずはそこにいるタイランを
  引き渡して下さい。領主には手当てが必要のようです」

ミケランはそれを受け、担架に移したタイランの身柄だけを送り出してきた。
タイラン・レイズンは深手に応急処置をされていたが、その顔色は蒼かった。
身を朱に染めたそんなタイランの姿に、駆け寄ったリリティスは涙で眼が曇った。
不自由な身で、兄の暴挙を止めようとしたタイランは、無謀ではあったが勇敢に
違いなく、そしてその根底にあったものは、兄への肉親の情であったろう。
 「タイラン様」
 「……地上の星座」
掠れた声で、タイランはリリティスを仰いだ。
 「兄を止めることが出来るのは、星の騎士だけ。どうか」
 シュヴァラーン------
空の彼方から風の中、大昔に生きた子供の声がした。星空を永遠に渡る声だった。
 シュヴァラーン、何処にいるの-------
ソラムダリヤも道を開けさせながら、担架に付き添ってタイランをねぎらった。
 「タイラン。ご苦労でした。貴方がミケラン卿を止め立てしようとして
  斬られたのならば、貴方には何の罪もない」
 「皇太子殿下」
 「分かっています。ミケランを救うよう、全力を尽くします。領主殿をお連れしろ」
鎮痛な面持ちで、ソラムダリヤはタイランを安全な場所に去らせた。
弟タイランが運び去られるのを、囲いの内側からミケランはじっと見ていた。
その間も、その腕の中にある巫女はぴくりともしなかった。先刻から何かの騒ぎが
聴こえてきていたが、城の中から起こっているらしきその騒動も、ミケランが巫女を
捕らえているこの状況の緊迫を解くことはできなかった。
 「エステラ」
 「は、はい」はじかれたようにエステラは顔を上げた。
 「貴女に頼みごとをしたいのだ。危険をともなう。断ってもいい」
 「いいえ、おっしゃって」
エステラはミケランを見つめ返した。さもなくば、どうしてミケランのそばに来るだろう。
 「頼みごとなんて。これまでほとんど頼まれたこともない。
  おっしゃって。そのとおりにいたしますわ」
ミケランはエステラに何か囁いた。それに対してエステラが一度だけ深く頷くのを、
リリティスは離れた場所から胸の痛む想いで見ていた。
彼らは兵を率い、そして奪った巫女を連れて、大波が去るように動き出した。
 「ミケラン、何処へ行く」
兵に隔てられながらソラムダリヤが叫んだ。近衛が剣に手をかけ、皇太子の
命令を求めた。
 「ソラムダリヤ様」
 「駄目だ。ここで弓をひけば、彼と敵味方に分たれてしまう。それに」
去っていくミケランの背中をソラムダリヤは睨んだ。
 「巫女を人質にとられている」
 「皇太子殿下」
そこへ伝令が次々と駈けこんできた。
その報せはソラムダリヤを驚愕させた。
 「申し上げます。コスモス城の西の砦が、ミケラン・レイズン卿の私兵によって
  完全占拠されました」
 「何だって。占拠」
 「その際、城内警護のコスモス兵との間に小競り合い。ミケラン軍優勢にて
  西の砦へ向かう通路は完全に征圧、遮断されました」
 「殿下。領主タイランに代わり、殿下の命でコスモス軍の代理指揮を執っている
  高位騎士クローバ・コスモス殿より伝言。ミケラン軍のこの暴走につき、皇太子殿下の
  ご指示をいそぎ仰ぎたいとのこと。西の丸は篭城用に建設されており、外部からの
  攻略は容易ではなく、攻城兵器を入れるには前面の棟を全面解体せぬ限り、
  ほぼ不可能とのことです」
 「ミケラン卿、ユスキュダルの巫女を連れて西の砦に移動。巫女を人質に立てて
  私兵ともども、西の丸内部に入りました」
 「ソラムダリヤ皇太子殿下」
若々しく、強い声がした。
ざくざくと地を踏み分けてそこに現れたのは、新手のレイズン軍だった。
どちらともなく、リリティスとソラムダリヤは目立たぬように互いの手を握っていた。
ありとあらゆることが一度に起こり、そしてそのどれもが、朝の悪夢のようだった。
現れたジレオンに、ソラムダリヤは低く唸った。
 「ジレオン。どうして此処に」
 「殿下。ご無事で」
申し分のない所作でさっと片膝をつき、皇太子を見上げたのは、ジレオン・ヴィル・
レイズンだった。青と黒と銀に彩られたその鎧姿は、レイズン本家の青年をこの
城に降り立った猛禽のように精悍に飾り立てていた。
 「ジレオン。退去したはずでは」
 「退去は叛逆者ミケラン・レイズンの命によるもの。ミケランが叛逆者となった現在、
  コスモス城および皇太子殿下およびヴィスタチヤ帝国全土の安全保持は、
  すみやかにレイズン本家があずかるものとなりましてございます」
 「言葉に気をつけて下さい。ミケラン卿は叛逆者などではない」
 「いえ」
きらりと目を光らせて、ジレオンは押し出しよくソラムダリヤに云い切った。
 「コスモス領主を害し、ユスキュダルの巫女を奪い去り、西の丸に立て篭もるとは
  申し開きようのない極悪行為。この眼でしかと見届けましてございます。
  レイズン本家は今日この日より分家統領ミケラン・レイズンを一族より永久追放。
  追って皇帝陛下にもミケランにゆるされたる治安維持行使権および一切の名誉の
  剥奪を本家より願い出る所存。ユスキュダルの巫女を奪ったる分家私兵は今後
  ミケラン軍として扱い、全ての騎士国、全ての騎士に弓ひいた帝国の敵とみなします」
 「待ちなさい、ジレオン」
 「叛逆者の討伐を!」
おじおいの関係にあるだけあって、ジレオンの態度には、若き日の
ミケランを彷彿とさせるものがあった。リリティスは眩暈がした。きっとこのようにして、
かつてのミケランも、断固たる態度でカルタラグン討伐に乗り出したのに違いない。
若きジュピタ家の学兄の前に膝をつき、かがやける、強い眼をして、運命の流れを
手中にしたに違いない。
 「ジレオン。早朝から打ち鳴っていた鐘の音は、もしや、貴方の手の者が鳴らしたのか」
 「さいわいにして、城外には頼もしきハイロウリーン軍とジュシュベンダ軍がご覧のように
  待機を終えております」
 「ジレオン」
 「帝国の双璧をなす両軍にも協力を仰ぎ、ユスキュダルの巫女の即時返還と投降を求め、
  西の丸に立て篭もりたる叛逆者ミケランに皇太子殿下からの降伏を呼びかける書文を
  まずはいただきたく思います、殿下」
黒髪を朝風になびかせて、ジレオンはぐっとソラムダリヤを仰いだ。
 「殿下。これはひとえに、ミケランにこれ以上の思い上がった振る舞いをさせぬための
  必要なる措置でございます。まだ今ならば、ミケランから巫女を取り戻し、ミケランに
  これ以上の罪を犯させる愚を、止め立てできるやもしれません。ヴィスタチヤ帝国は
  騎士の国。帝国崩壊の一矢ともなりかねぬ大罪を、彼に犯させてはなりません」
 「大罪。大罪とはなにか」
 「ユスキュダルの巫女殺し、でございます」
ジレオンは立ち上がった。時きたりなば。
正義の裁きを行う者然として、みなぎる自信を隠さぬその姿は、長年不遇に
追いやられていた本家の跡取りとしての鬱屈を、今こそ解き放とうとしていた。


「続く]


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