[ビスカリアの星]■九二.
花色に暗く染まる夕空の下、晩夏の風が木々の合間を吹きすぎた。
塔の前に、その騎士は立っていた。
「どうされた」
若い騎士は振り向かなかった。
草を踏んで近付いて来た王の側近は、城を訪れたよそ者の騎士に
気さくに話しかけた。
「この塔がどうかしたのか」
騎士の答えを待たず、側近は騎士の肩に手をかけた。夕闇が濃くなった。
「王も、そなたを気に入っておられる。このままコスモスに留まってはどうだ。
いろんな国を旅して来たのならば分かるだろう。
北方の田舎貴族どもや、海賊の末裔、ジュピタや豪族フラワン、或るは
エスピトラルや南のアルバレス一族などとは違い、コスモスは歴史ある国だ。
大陸の中心といっていい。王旗にビスカリアの星を掲げるこの城に留まり、
わが王、コスモス三世に仕える気はないか」
その言葉には、熱意の中にも、味方の少ない王を案じる、王の友としての
焦燥が混じっていた。
「王は、お疲れだ」
自身の疲労はおし隠して、王の側近は空を仰いだ。雨のように流れる空の光。
流星はほそく燃え、空を引っかくように流れ去り、消えていった。
「流れ星だ」
無言で夕風に吹かれている若い騎士に、王の側近は微笑みかけた。
「そなたらを何故、星の騎士と呼ぶのかは知らんが、確かに御空のあれに似てるな。
星空にその心は巡り、わたしの言葉など届いていないかのようだ」
星々はやがて銀河となり、ひときわ輝く蒼い星を浮かべて、国土の上に永遠に流れた。
「そうではないか、星の騎士シュヴァラーン」
西の丸と呼ばれるコスモス城の西砦は、外敵からの襲撃に備え、古塔がその
役目を終えると前後して後代に建設された堅牢な砦にして居城の一部である。
裏切りを怖れてか、いつでも立て篭もれるように歴代コスモス領主の私室は
そこに設えられていた。
新たに着任したタイラン・レイズンが、前領主出奔のいきさつを考慮して居室を
東側におき、西棟を使わなかったために、砦は現在も一種の聖域といった扱いで
そのままに残されているはずだった。ミケランはそこを占拠した。
「まずは、ミケラン卿の要求をきくことが肝要です」
本丸に引き上げたソラムダリヤは朝食の席を作戦会議の場に変えて、緊張を隠せぬ
青褪めた顔で左右に云い渡した。
皇子は訊いた。
「タイランの具合は」
「医師の話では命には別状ないと。しかし絶対安静です」
「よほどの目的がなければ、実弟に手をかけるようなことはすまい。
ミケランの決意はそれほど固いものと思って差し支えないと思います」
参加の面子は、皇太子直下の近衛隊に加え、ジレオン・ヴィル・レイズンとクローバ・
コスモス。以上を引き寄せて、ソラムダリヤは強張った顔ではじめた。
「クローバ、街の様子は」
「各軍、外郭の手前で停止を」
「しかし引き上げる様子もありません。さらにはイクファイファ王子率いる
オーガススィ軍まで接近中とか」
「ジレオン。わたしはクローバに訊いています」
「これは失礼を」
「領主タイラン・レイズンの負傷につき、ここにいるクローバ・コスモスがコスモス軍の
代理指揮を執っています。これはわたしの委任によるものであり、クローバ殿が
コスモスの内情と地理に明るいことから決定したものです。今後はジレオンも
そのつもりでクローバに従い、レイズン本家軍との協調をはかって下さい」
「そのように」
「貴方が無断で軍を引き連れて城内に侵入したことについては、
緊急の際です、不問とします」
「かしこまりました」
如才なく皇子に合わせておいて、ジレオンはちらりと、対面のクローバに微笑みかけた。
勝手に俺の領土を土足で踏み荒らしやがってと云いたいところを、もう領主ではないので
文句が云えないといったお顔つきですね、とでも云いたげな揶揄を含む笑みだった。
「使者を立て、レイズン卿と連絡をとりたい。その人選ですが」
一度も立たされたことのない局面に立たされながら、ソラムダリヤはなかなか立派に
立場をつとめていた。
(惑わされるな)
混沌とした状況の中、ソラムダリヤは机の下で手を握った。
(優先順位を決めるのだ。郊外の各国軍についてはクローバが抑えてくれる。
今は考えるな)
皇子は切り出した。
「中洲で処刑を行っていたレイズン部隊については、隊長を呼び出し
刑の中止を求めました。彼らについては、ハイロウリーン軍とジュシュベンダ軍の
一時預かりにしようと思っています。フィブランとパトロベリ王子を後に城に召喚し、
彼らの意見も仰ぎますが、まずは、西の丸に立て篭もりたるミケラン卿の意図を
早期のうちに知ることが先決です」
かといって、使者に立てるに相応しい人材がこれといってない。
最も適任と云えるタイランを除いて、皇帝の片腕であったミケラン卿と釣合がとれ、
望ましくは知己の間柄のうちに対等の会話が成立するような、高い身分や役職を
もつ者がいなかった。
「条件を満たし、またご身分という一点からならば、フラワン家のご令嬢が」
「いや、駄目だ。それくらいならば、わたしが使者になる」
「殿下ご自身が使者に立たれるのは、玉体保持の面から強く反対いたします」
「ハイロウリーンのフィブランに頼めば」
「駄目だ。ハイロウリーンは聖騎士国の筆頭として、かような根回しや駆け引きごとは
武人の恥とばかりに、いっそ清々しいほどに、いつも見向きもしないではないか」
「イルタル・アルバレスならば、適任であったものを」
「いない者を取沙汰しても仕方あるまい」
「俄かに顔を出してきたパトロベリ王子などではこの大任は務まらぬ」
「ガーネット・ルビリア・タンジェリンなら?」
くすっと笑ってジレオンが突然その名を持ち上げた。
「来ておられますよ。すぐ近くに。かの姫に使者としてミケランの前に出てもらえば。
積年の恨みのままに何か思い切った解決策をとってくれるやも」
それ以上はさすがに不謹慎とみて、ジレオンは指先で袖飾りを直すと、知らん顔を
決め込んで黙った。
「……フェララ軍のモルジダン侯はいかがか。隻眼の将軍」
「それはよい。年長者であるし、貫禄充分な確かな人物」
「いや、それもまずい。フェララのダイヤ公とミケラン卿は、かつてどこぞの銀山を
争って、ミケラン卿がその利権を独占。それ以来遺恨があるとかないとか」
「かといって、まだ家督を正式に継いでおらぬサザンカのカイザンケント・
デル・イオウ殿よりはましでしょう」
「ハイロウリーンの大将ではなく、その王子の誰かに頼んでは」
いっこうにまとまりがつかぬかと思われた会議の紛糾も、最終的に、「ではフェララ軍の
モルジダン侯を使者に」との皇太子の鶴の一声で決着がついた。
解散となって歩廊に出たクローバを、「クローバ殿」ジレオンが追ってきた。
仕方なくクローバは脚を止めた。
「兵の配置ですが、皇太子殿下のご命令どおり、クローバ殿に従うつもりです。
かといって我らを厭い、城外へ出すことはご勘弁を」
「半数を街の警護にあてた為に兵数が足りん。手を借りよう」
大またで歩くクローバに合わせて、ジレオンは横に並んだ。
「貴方の指揮下に入れとは、これは殿下に見抜かれたかな」
髪をいじりながらジレオンは笑ってみせた。
「わたしとしてはミケラン卿と貴方を直接対決でぶつけてみたかったのですが。
お世辞ではなく、手負いの牛のようになった今のおじ上を止められるのは
同じだけの力量ある騎士だけでしょうからね。
せっかくの高位騎士同士、語り継がれるような一大勝負になっただろうに」
レイズン本家の御曹司として生まれた高慢と無遠慮を隠すこともなく、
それすらも若さの魅力に変えて、ジレオンは軍装姿をはこんだ。
「思い出した。そういえば貴方は一度、ミケランとの勝負を避けていましたっけね。
その代わりといってはなんですが、コスモスの明け渡しを求めミケランおじ上が
西の砦を訪れた時、美術工芸に造詣の深いおじ上が眼をつけた家宝の名画に
貴方はその場で火を放ってみせたとか。意趣返しですか。絵に罪はないものを、
もったいないことをなさる。放浪の画家が描いた絵なら国宝級だというのに」
「残骸ならあるぞ。欲しいなら持っていけ」
「まさか。どうせなら、その画に描かれた北方の麗人のお血筋をもらいますよ」
まんざらでもなく、ジレオンは自信家らしい戯言を放言しはじめた。
「皇太子殿下とのご婚約がもしも破談となった時には、フラワン家のご令嬢を
わたしの正妻に迎えるのも悪くないなあ。どう思いますか」
「誰のことだ」
「リリティス・フラワン嬢です」
「やめておけ。貴殿とあの娘は相性が悪い」
「ああ、そうですか」
直裁にして無骨なクローバの物言いが可笑しかったのか、ジレオンは快活な
笑い声を上げた。
ジレオンとて聖騎士家の大貴族、妙齢の貴公子である。
ソラムダリヤ帝国皇太子がまだ未婚なために、各家遠慮して婚期をずらしている
傾向があるものの、本来であれば騎士の血の保全を求め、騎士家の男子ならば
早々に妻帯するのが通例。クローバやミケラン、あるいはフィブランや小トスカイオなども、
それぞれ十代半ばのうちに妻を娶っている。
婚約者がいるという話もきかない。ジレオンは何故独身なのだろう。
その答えは、ジレオンの方から打ち明けてきた。
「わたしに、黄金の血が出なかったからですよ」
自嘲と卑屈を混ぜた曖昧な笑みで、ジレオンは黒髪をかきあげた。
レイズン宗家の長子として生まれながら、騎士の血が出なかった。それはこの青年の
性格形成に、正の面からも負の面からも、大きく作用しているようだった。
何といっても竜神の騎士の血は遺伝。
騎士家として家中の騎士を束ねる立場にある者が騎士でないということは、
ジュシュベンダの英明の君イルタル・アルバレスのように必ずしも不利ではないものの、
それも分家に主導権を奪われたかっこうとなっているレイズン本家にしてみれば
跡取りの能力不足は二代続いての日陰者となるには決定打といったところだったのには
違いない。
「わたしに娘を差し出すくらいなら、騎士家は、高位騎士であるおじ上の
後妻の面倒をみて、その後見役を狙うでしょうね」
ジレオンは暗く笑った。
政治を司る名家に生まれ、名門の学問所で優秀な成績をおさめた若者であっても、
ヴィスタチヤ帝国が騎士を尊ぶ限り、その血の薄さは、絶えずジレオンを蝕んできた
ようであった。
「本家は分家に乗っ取られたも同然。そんな家に、どこの有力騎士家が娘を差し出すと
思われます。フェララのダイヤ公ですら、レイズン本家と結びつくことによる将来的な
利を見限り、愛娘をトレスピアノへ嫁がせようとしたほどだ。
オーガススィもしかり。小トスカイオの娘御は二人ともハイロウリーンの騎士と縁組を。
残った三女サンシリアも、皇太子殿下の肝入りで、放浪の騎士である貴方の
奥方候補となっている。騎士家同士の婚姻こそは、帝国を支える竜の血の継承に
欠かせぬものであるがゆえに、それは当然のことでした。
黄金の血の具現化は、一面では、気まぐれも強いものですが、うちは父もわたしも
さらには数代さかのぼって、もう竜の血の恩恵は絶えている様子ときた。
そんな中から分家に高位騎士が現れたのですから、ミケランこそはまこと、レイズンの
期待の星として、家中を掌握してしまうだけの魅了を備えていたのです。
もしもおじ上がもう少し遠慮というものを知り、身の程をわきまえて本家を立てていたならば、
わたしがもし、おじ上の半分でも騎士の血を受け継いでいたならば、話はまったく
違ったでしょう」
「それは気の毒だったな」
男のくせにそんなことを根にもちやがって。
とでも云いたげなクローバの本音をその横顔から察し、ジレオンはふふふと笑った。
「皮肉だな。せっかく高位騎士として生まれながら、子をもうけず、騎士の血については
先のないものとしてその限界を見極め、諦観していた向きのあるおじ上と、聖騎士国の
力と談合による円卓集合政治の復活を求めているわたし。
わたしはおじ上のように、数百年先のことなどは夢にも見ぬし、どうでもいい。
動機など、極めて単純明快なものです。ミケラン卿のお蔭で、身のおき処のなかった
本家の父母のため、本家に尽くしてくれる健気な郎党のために、わたしがこの手で
本家の名誉をかつてのような定位置に再び引き上げたい、その一念です」
「立派なことだな」
クローバは重たい剣を持ち直し、ジレオンには眼もくれず、興味をなくして歩み去ろうとした。
「黒に金。コスモスの軍装がお似合いですね。クローバ・コスモス殿」
その背中に、まだジレオンは言葉を投げかけた。
「素敵だ。帝国中の有為の騎士が、このコスモスに集っている。ソラムダリヤ
殿下が貴方を気に入って、わたしに余計な真似はするなと暗に怖い顔で脅す
ものですから、おじ上潰しに貴方を利用する案は破棄せざるを得なかったが、外には
まだハイロウリーンとジュシュベンダがいる。ナラ伯ユーリが殺害された一件で
互いに禍根を抱くこの二軍が、対立し、功を競って、ミケランを放逐してくれることでしょう。
高位騎士同士の戦い、ぜひとも間近で拝見したいものです。さぞや滑稽だろうから。
それに限らず、あなた方騎士は滑稽ですよ。何をいつも熱くなってるんだか。
自分の姿が見えてないとは、倖せなことだ。わたしもそんな愚か者に生まれたかったな」
柱に背をつけて、くすくすとジレオンは笑い続けた。
愚か者たちはせいぜい頑張って下さいよ。後から得をし、利益と名誉を
独占するのは、指一本動かさずに高みの見物を決め込んだ、このジレオンなのだから。
すみませんね。根回しや讒言によって政敵を叩き潰すのは、レイズンのお家芸。
何食わぬ顔をして、非力なものは非力なものらしく、狡猾に群れて陰口を楽しみ、
これからも誰よりも上等に生きていくつもりですよ。
遠ざかる高位騎士の背中は、そんな青年を拒んでいた。
クローバの姿がすっかり階段の下に消えると、ジレオンは天井を仰いでふっと息を吐いた。
腕を組んで柱に凭れた秀麗なその顔には、嘲笑があった。
(やはりお莫迦さんなのだな、クローバ・コスモス。
ミケランのおじ上ならば、今の話をもう少し注意深く聴いたはずですよ。
洞察力がないのかな)
青年の冷笑には、期待しながらも、そのあてが外れた失望も含まれていた。
ジレオンは軍長靴の踵で床を軽く蹴った。
(おじ上の放逐に、ハイロウリーンとジュシュベンダの名と力を借りることは
皇帝を納得させるための大義上からも必要不可欠。
なれど、両者に手を組まれてはその後のレイズンがやりにくい。
帝国の双璧はあくまでも距離をおいて睨みあっていてくれなければ困るのだ。
ナラ伯ユーリの殺害と、その後に続く両軍の話し合いを剛矢で邪魔立てしたのは
ヴィスタル=ヒスイ党の仕業だと、今のでわたしが自白したも同然だったのに)
「ジレオン様」
「クローバ殿は、引き続き兵舎を本部とされるそうだ」
ジレオンは首元から引き出していた鎖を、襟の中にしまいこんだ。
早馬を使い、本国の母親が寄越してきた、守り札だった。
(こんなものを寄越してくれちゃって)
鎖の先には硬貨ほどの護符がついていた。ジレオンはそれを元通りにおさめると、
青黒銀の武装姿をひるがえし、広間へと戻りはじめた。
「城内警護の配置について指示を受け取りにいくよう」
生まれつきの極悪人でない限り、善人になるよりも悪人になるほうが難しい。
ジレオンは手を広げて、かたちの良い自分の手をちらっと見た。
少しは血で汚れたかと、調べるかのように。
主だった道の閉鎖は、領民を愕かせた。
「兵隊さん、何があったのです」
「あの朝の鐘は何事です。お城で何か」
「家に帰れ、今日は畑にも出てはならん」
コスモス城へ向かうフェララのモルジダン侯は、わずかな供を連れた小隊で、
そんな街中に入った。副官のラルゴはその道中も、背の高いその身を馬鞍の上で
揺らしながら、難しい顔を崩さなかった。
「ミケラン卿の説得ですか」
「形式上必要な過程なのだ。成功するとは、ソラムダリヤ様も思ってはおるまい」
「ミケラン卿がこうと決めたなら、たとえ皇帝陛下であろうとも、何人にも
動かせぬと思いますが。接触自体が難事になるのでは」
「三度の猶予の後は、武力行使が通例であるが、ミケラン卿は巫女を
人質にして立て篭もっているそうだからな」
街角から妖精や鹿が顔を出してきそうな、古い街だった。
隻眼のモルジダンは眼が不自由なことをまるで感じさせぬ手綱さばきで馬を進めた。
落ち着きぶりは、さすがの貫禄である。
その姿に、街を一望する丘の上では、ユスタスが身を乗り出した。
「モルジダン侯だ」
「面識がおありで。ユスタス様」
グラナンが意外そうに訊いた。
「うん。ちょっとしたことでね。隣りにいるあの背の高いのは副官のラルゴさんだ。
皇太子旗を立てた使者に先導されてるってことは、モルジダン侯は
皇太子に呼ばれたんだろうね。皇太子か……」
オフィリア・フラワンなくば、ヴィスタチヤ帝国もない。
聖女に祀り上げられた初代皇妃の生家として、フラワン家は特殊な位置づけにおかれ、
ジュピタ家と婚姻を重ねながら、神聖不可侵領を帝国に保障され、永続してきた。
(翡翠皇子が現皇帝とミケラン卿に謀殺された為に、翡翠皇子の
恋人であった母さんとの間に遠慮ができて、僕が生まれた頃にはすっかり
没交渉だったけどさ。もともとは他の騎士家よりもずっと縁の深い間柄なんだよね。
縁戚といっていい)
(ソラムダリヤ皇子って、お年は兄さんよりも少し上だっけ。
そういえば、兄さんがジュシュベンダ大學に進んだのもヴィスタの王立学問所では
皇太子とかち合ってしまうからというのが理由だった。
過去の遺恨は百年経たないとすっかり消えないとはよく云ったものだよ)
モルジダン侯の姿が建物の影にすっかり見えなくなると、ユスタスは俯き、
それから顔を上げた。何かをふっきった爽やかな顔をしていた。
若者は街を包むように両手を広げ、少しおどけた顔をしてグラナンを仰いだ。
「ねえ、グラナン。ああして早々に道が封鎖されてしまった限りは、僕たちは
これからどうやって城に接近すればいいかな」
「わたしの考えですが」
グラナンは少し云いよどんだ。
近くの木陰では、ビナスティがルルドピアスを休ませて、食事の世話をしていた。
疲れたのかルルドピアスの顔色は悪く、何を見つめているのか、その眸は
怖ろしいほどに清んでいた。
「ああして姫がおられる以上、正面から堂々とが一番ましです」
「同意見だよ」
グラナンと眼が合った。ユスタスは頷いた。
「こっちは女の子連れなんだから、戦いは避けないとね」
「ユスタス様」
「云わなくても分かってる。僕がフラワン家の名乗りを上げて、君たちを連れて行くよ」
そよ風にユスタスは眼を閉じた。
薄翠色にかがやいて、いつもこの胸の中にあるトレスピアノ。
僕たちはこの世のどんな兄弟よりも兄弟だった。リリティス姉さんをそのことで
苦しめてしまうほどに、兄弟だった。ずるい僕はそんなかたちで、兄さんを僕たちに
繋ぎとめておこうとした。愛情のふりをして、兄さんを失いたくないという、子供じみた
僕の我侭のために。
(フラワン家を継ぐべき長子は、本当なら、僕だった)
ユスタスは立ち上がり、草を払った。空は青く、今日もよく晴れていた。
ミケラン軍に奇襲を受けて占拠された西の砦は、静まり返っていた。
コスモスの工人が腕をふるい紙一枚すら入らないほど緊密に石材を積み上げた
堅牢な建造物は、有事においては籠城することを目的として造られただけあって、
一旦外部との通路を遮断してしまえば、攻略は困難である。
「地下道を掘っては」
「それを防ぐために周囲の土中には岩盤を埋めてあるはずだ。坑道を掘り、岩を
掘り出して取り除くだけでも大事業になる」
「城の警護に入ったミケラン軍はあらかじめ西の砦に駐屯していた。
畜生、最初から卿の計画どおりだったというわけだ」
西の丸の天守には、四方に睨みをきかせているミケラン軍の見張りの姿がみえた。
外からうかがえるものといえば、そればかり。下界から人々はその姿を睨み上げ、
ミケランへの呪詛を吐いた。
「現在の負傷者は」
「若干名。ミケラン軍が西の砦を占拠する際、追い出された者たちで、死者はおりません」
「フェララのモルジダン侯が西の丸へ使者に立つそうだ」
西の砦を見つめるクローバの額には、コスモスを知り尽くした者ならではの深刻な
眉間皺が寄っていた。
「俺はいちいち皇太子殿下のご指示を仰がねばならん立場だが、殿下は
俺の裁量に任せると仰せ下さった。「コスモスは貴方のほうが詳しいのだから」と。
その信頼に応えねばならん」
「では、関所をさらに固め、兵も増員し、各軍を寄せ付けぬように」
「逆だ。城まわりに詰め寄せるならほっておけ。密集するに任せておけば混戦状態に
なる愚を恐れ、おのずと各軍自重するだろう。ジュシュベンダとハイロウリーンという
大軍を前にして軽挙を起こす国があるとも思えん。問題は、血気に逸る輩が隊規を離れて
勝手な行動を起こしかねないことだ」
「フィブラン殿が率いるハイロウリーンは心配ないでしょう」
「気懸かりなのは、ジュシュベンダですな。指揮官は初陣のパトロベリ王子とか」
「パトロベリ?」
兵士は不審げに騒ぎ出した。
「先々代のお胤とかいう放蕩王子のことか。遊んでばかりいて、宮廷にも
滅多に姿を見せたこともない」
「幾ら所領地を離れられぬからといって、イルタル・アルバレスも賭けたもの」
「先々代やイルタル殿の聡明さを、そのパトロベリ王子とやらが受け継いでいるとよいのですが」
「クローバ様」
「いや」
彼らをよそに何事かを考え込んでいるようなクローバであったが、厳しい横顔を
見せたまま何も応えなかった。露台の石の手すりに両手をつき、彼はジュシュベンダではなく、
ハイロウリーンの先陣を眼下の視界に睨んでいるのだった。
小川を前に整然と並んでいる白に金。はるか彼方にその騎馬影を彼はとらえた気がした。
小さな焔のようにそこだけが赤く燃えている。亡妻フィリアの末妹こそは、タンジェリンの
悲劇の生き証人であり、その象徴だった。
白竜の鱗に混じった紅一点。その姿一瞥し、
(俺はもうタンジェリンの女の血は見たくない)
手すりの上に拳をおいて空を仰ぎ、誰にともなく、クローバは祈りを吐いた。
「皇太子の御前です。武装解除を願います」
近衛兵に従い、フェララのモルジダン侯らは剣帯を外した。
「おあずかりいたします。返却はお帰りの際に」
まるで皇居ですね、と副官のラルゴがモルジダンに囁いた。
「モルジダン。宮廷以来です。よく来てくれました」
「皇太子殿下。お召しにより、参じました」
おや、とモルジダン侯はその時思ったものだ。ソラムダリヤ様は、どことなく
変わられた。
「数ならぬ身ではありますが、この老体、この大役を謹んでお受けいたします」
「頼みます」
いかつい近衛に囲まれながらも、ソラムダリヤ自身は武装しておらず、
モルジダン侯はそこに、戦いを避けたいという皇子の意志をみた。
白の上下の上から、深紫の衣をかけたソラムダリヤは、思慮深い、そして疲れた、
若き学僧のようだった。
「----おそらく交渉は無駄になるだろう。だがわたしは手を尽くすだけの
手間を惜しもうとは思いません」
近衛の先導により歩廊を歩みながら、副官のラルゴが先刻の対面を
思い出し、感心して主のモルジダンに云った。
「この非常時にも動じず、皇太子さまはしっかりなさっておいででしたね」
「もとの素質もよろしいのであろうが、教育係であったミケラン卿の恩恵だろうな。
気を張り詰めておられたが、さすがの気品を保たれておいでだった」
「おっとりしているように見えて頼もしき御方です」
「お疲れのご様子だったので、退出前に仮眠をおすすめしておいた」
「先は、ながくなりますか」
「ミケラン卿しだいだ。不届き千万な慮外者の洟ったれ小僧めが」
年長のモルジダン侯からすれば、ミケランもまだまだ若輩者だった。
「奴はこの砦の中か」モルジダンは西の丸を睨みあげた。
「これは」
外観をひと目見るなり、うっ、とラルゴが詰まった。
「攻め落としにくそうな砦で」
ハイロウリーン本国のくろがね城を模した西の丸は、戦略上の難攻不落を
可能とする難物なだけあって、さしものラルゴも唸るしかなかった。
まず壁面四方のうちの三方は、森に続く急斜面となり、獣道すらついてない。
一階の鉄門は二重構造になって固く閉ざされており、これは平生から開かずの門。
通常は二階と三階に設えられて、建物と建物を繋いでいる空中歩廊は、
西の丸においては二階の狭い一本しかなく、近づく者は砦の左右の
胸壁から狙いうちに狙われ、柱に隠れて匍匐前進したとしても、正面扉の上に
穿たれた狭窓から鉄矢で順番に追い払われる。
「以前は領主の住居だったそうだ」
「有事における避難所だっただけあって、鉄壁ですな」
手前には建物があり、大掛かりな攻城機を入れる余地がない。
壁面といえば、梯子がかけられぬつくり、さらにはねずみ返しの要領で反り返った
石落としが昇る人を途中で阻む。地中に突破口を掘ろうにも、前述したとおり
岩盤が邪魔をし、では森側から攻め寄せようとしても、まずは兵隊をとおす道を
斧で切り開かねば始まらぬという具合。
「くろがね城もかくや」
「加えて、ユスキュダルの巫女を人質にとられているのだ。手も足も出ぬわ」
そのわりには、歴戦のモルジダン侯は足取りを緩めることなく、まるでご機嫌伺いに
向かうかのように悠然と二階の歩廊をわたり、皇太子の使者であることを示す
小旗を手に西の丸への入り口に立った。
近衛もはるか後方に控えさせ、単身である。
「立て篭もりたる、ミケラン・レイズン卿に告ぐ」
長年フェララ軍を率いてきた腹の底からひびく太い声で、モルジダンは
呼びかけた。初回のところは、ただの挨拶口上である。
「ソラムダリヤ帝国皇太子殿下の命を受け、参上つかまつった。
コスモス駐屯のフェララ軍総司令官、モルジダンである。
ミケラン卿に話し合いに応じる余地はありや否や」
返事を待たず、
モルジダンはさらに一字一句をはっきりと訴えた。
いつどこから弓矢が射掛けられるか分からぬというのに、胸を張ったその姿は
さすがのものだった。
「皇帝陛下より帝国の治安維持をあずかるお立場でありながら、
御身のこの所業はいかなる理由あってのことか。ソラムダリヤ皇太子殿下は
深く憂慮されておられる。そこもとが何を思い、何を欲しておられるか、
使者のわれにまずは明らかにされたい。ユスキュダルの巫女はご無事であるか。
今ならまだ諸国に知られることなく、全てをおさめることも叶うであろう。
きいておられるか、ミケラン卿」
モルジダン侯は隻眼をひたと正面の扉に据えて、さらに声を張った。
「皇帝陛下の片腕、ヴィスタチヤ帝国中興の最大の貢献者として英雄。永遠に
誉高く刻まれるであろう御身の名を、一時の軽挙によりご自身で穢してよいものかどうか
とくとお考えあれ。また、その勝手なる振る舞いにより、いかほどの人命が
危険に晒されるか、ユスキュダルの巫女がそれをおよろこびになるかどうかも、
いまいちどとくとお考えあれ。これ以上は、御身には説明も不要であろう。
返答をいただきにまた戻ってくる。勇気ある決断を期待するものである」
応えは何もなく、扉は開かなかった。
深く一礼して、モルジダン侯は踵を返した。
エステラは、ミケランからのひそかな頼みを受け、ミケランと袂を別った。
古城の面影をそのままに増築を重ねてきたコスモス城は、ミケランが工人を集めて
基本設計を手がけたジュピタの皇居のもつ洗練や高雅とは違い、幅の狭い
小さな階段や無駄な行き止まりを含め、たいそう入り組んでいるつくりである。
ミケランが教えた道順を頼りに、エステラは歩をはこんだ。
怪しまれぬよう、迷わぬよう、何度も下級兵士から誰何を受けるたびに、エステラは
女官のふりを押し通した。
緊張のあまり、喉がからからに乾き、雲を踏んでいるような心地だった。
エステラは後ろを振り返らず、ひたすらその場所を目指した。
城内はコスモス兵とジレオンの兵で占められており、分担と配置を決めて
臨戦体制で城内警護にあたっている彼ら兵士は、どの顔をみても殺気立っていた。
「何処へ行く」
「寝過ごしました。本丸に戻るところです」
眼の前で交差する槍にうろたえたふりをして、あくまでも用事ある者を装った。
皇太子滞在にしたがい大勢の臨時雇いが入っていたこともあり、コスモスの
下級兵士ならばそれで通った。が、さすがレイズン本家の兵は甘くはなった。
「流暢な帝国共通語だな。本当にコスモスの者か」
「ちょっと来い」
「エスター」
「彼女はうちのものです。エスター」
連行されようとしたところを、廊下の向こうから、お仕着せを着た二人の男が
静かに現れてエステラを呼んだ。
それで助かった。
お仕着せを着た男たちは、ミケランの配下の隠密だった。
エスターとは、エステラに与えられた偽名であり、城の者を装って城内に
潜伏しているミケランの隠密たちとの符牒でもあった。
男たちはエステラを間に挟んで、さっさと歩き出した。
「エステラ様。急ぎましょう」
「何名の方が、こうして潜んでいるのです」
「さあ。我々は個別に任務を帯びて動いております。ミケラン様のおんために、
命を捨てる覚悟です」
予定どおりに合流後、彼らは城の地下を目指した。
「お役目ご苦労さまです。料理酒をとりにまいります」
隠密はすでに城内の警護分布図をすっかり調べ上げており、未知な顔がわれ、
不審がられることのないように、コスモス兵を避けてレイズン兵の詰めている
歩廊ばかりを選んで通った。ソラムダリヤ皇太子の近衛にもさいわい行き会わなかった。
彼らは会議中で、それどころではないのだろう。
「エステラ様。これを」
「ありがとう」
あれから着替えぬままだったエステラは外套を受け取り、肩から羽織った。
辿り着いた地下の酒倉は、ひんやりと埃臭く、肌寒かった。
彼らは松明片手に昼なお暗い階段に脚をかけた。
数日前、同じこの階段を大勢で賑やかに降りたことが、夢のようだった。
皇太子を先頭に、クローバもリリティスもいた。あれからタイランがミケランに斬られ、
あっという間に、敵味方に分かれてしまった。
「下まで降りずとも、此処で控えておきましょう。何かあれば、すぐに分かります」
二人の隠密はエステラの為に採光窓の下に樽をはこび、坐る場所を作った。
古めかしい風が下方から侵入者を咎めるように吹きつけてきた気がして、
エステラは身をふるわせた。風には、まだ真新しい漆喰の匂いも混じっていた。
どうしてミケラン様は、こんな場所を見張れと仰せになったのだろう。
真下は、コスモス三世の霊廟だった。
「続く]
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