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[ビスカリアの星]■九三.


立て篭もったミケラン卿に対し、フェララのモルジダン侯が
数度にわたって投降と話し合いを求め、皇太子の意向を伝えるも、
西の砦からの返答はなかった。
その間、コスモス城は時ならぬ賓客をさらに加えて、奔走している
城内の侍従以下はその名をきくなり跳び上がり、まさに息をつく間もない
大忙しとなった。
 「開門したぞ」
 「モルジダン侯に続き、今度は誰だ」
コスモス城のはね橋が上がり、城門が開くのを、城を見守る人たちは
お次は誰が呼び入れられたのかと身を乗り出して注視した。
それは奇妙な一行だった。
護衛に囲まれた一団は装束もばらばらなら、馬も、各軍が備えている
駿馬にほど遠い田舎馬。識別できるような旗印は何もなく、戦場には不似合いな
うら若い乙女を連れており、一行の真ん中にいるその乙女を十重二十重に
囲んで護りつつも、どうやら彼らの中の一番の重要人物は、先頭にいる
身なりのさっぱりした茶髪の若者のようである。
さらにはその後ろに、何故か聖騎士家オーガススィの王子旗を立てた
小隊がくっついており、後方を固めている。
はね橋に向かい、悠々と片手綱で馬を進める茶髪の若者は
これといって威光を利かせるようなこともないのであるが、門前に迎えに出た
城の兵が、額を地にすりつけんばかりにして鄭重を極めた待遇を見せて案内し、
背後に続く王子や聖騎士たちへの挨拶を省いているのにも、人々は愕かされた。
 「誰だ?」
 「さあ」
 「オーガススィのイクファイファ王子では」
 「王子は旗の後ろにおられるぞ。問題なのは、先頭の若いのだ」
 「ちょっと待て。あれは、ビナスティじゃないのか」
ジュシュベンダ陣から声が上がった。
なるほど、小姓姿のうら若い乙女にぴったりと寄り添って、遠めにも美しい
若い女騎士が、雛を守る母鳥のごとく、ゆるやかに馬を進めながら少女の身を
守っているのが遠めにも見分けられた。
 「本当だ、ビナスティさんだ」
 「なんであんなところに」
ざわざわっとジュシュベンダ陣がどよめいた。さらに人々は眼をむいた。
コスモス城は謎めいた茶髪の若者以下を城門の内に鄭重に
迎え入れておきながら、聖騎士家王子イクファイファを外に締め出して、
城門をそこで閉めたのである。
 「えー?」
 「騒ぐな」
シャルス・バクティタ将軍はざわつく陣を一喝した。
 「かの女騎士は除隊した身ぞ。先に迎え入れられた一行にジュシュベンダは
  一切関与しておらぬ。わが軍、およびハイロウリーンが入城を果たしておらぬ
  現段階で、オーガススィ家が閉め出されるのは、当然のことではないか」
 「それにしても、正体不明の一行でしたが。何者でしょう」
キエフはそろっとパトロベリを振り返った。パトロベリの姿は消えていた。
 「あ、これは。パトロベリ王子」
城から締め出しをくらい、道を引き戻してくるイクファイファ王子を追いかけて、
馬を走らせたのは、ジュシュベンダからはパトロベリ王子、ハイロウリーンからは
フィブランの幕やから主君の命を受けてとび出してきた士官の一人だった。
両名は道の途中でかち合った。
ハイロウリーンの士官は相手がパトロベリ王子と知って、おおいに慌てた。
 「御身おひとりとは、危険きわまりない。帰りは護衛をお貸しいたしましょう」
 「いいよ、要らないよ」
 「そうはまいりません」
そこへ、イクファイファ王子の一行が現れた。
 「オーガススィ家の王子である。道をお通しあれ」
 「イクファイファ王子」
パトロベリと士官は我先にと対面を申し入れた。
むっつりと城から馬を引き返してきたイクファイファ王子は、不機嫌を隠さぬ
顔つきで二人の前に自ら出てきた。
 「オーガススィのイクファイファです。わたしに何の用でしょう」
 「王子。城には入れませんでしたか」
 「ご覧のとおりです」
イクファイファは馬から降りることもせず、面倒なことは早く済ませたいと
ばかりに、求められている情報を手短に彼らに伝えた。
 「コスモス城にお入りになったのは、トレスピアノ領主カシニ・フラワンがご次男
  ユスタス・フラワン様です」
 「誰ですと?」
両名にちらと眼をやって、イクファイファはついでに付け加えた。
 「わたしは妹のルルドピアスを城に送り届けに来ただけですので。では」
トレスピアノの次男とオーガススィの日陰の姫との繋がりがさっぱり
呑み込めずに面食らっている二人を残し、北方の王子はさっさと隊を
引き上げて立ち去ってしまった。

ユスタスは、帝国皇太子が待つ、城の小広間に通された。
ソラムダリヤ皇子の隣りには、報せをきいて駈け付けたリリティスもいた。
思いがけぬ弟の登場に声もなく立ち尽くしている姉を一瞥して過ぎ、
 「無理を通しました」
ユスタスは気さくに皇太子の前に進み出た。
公の場においても私的な場においても、ジュピタ皇家とフラワン家は同列である。
皇太子に比べ、ユスタスは簡素な格好をしていたが、若者は物怖じすることなく
親戚に逢うかのような態度で、優雅に挨拶をおくった。
 「お初にお眼にかかります。トレスピアノのユスタス・フラワンです」
 「このようなところで、対面かなうとは」
帝国にとっても皇家にとっても特殊な家の若者を思いがけず迎えた
ソラムダリヤは、目下のところ緊迫的状況ということもあってさすがに
困惑顔を隠さなかったが、迷惑顔もしなかった。
よもや好奇心で遊びに来たわけでもあるまい。彼は、ユスタスが姉のリリティスを
迎えに来たのだと思い、この訪問を好意的に納得していた。
 「フラワン家の方々におかれては、さぞかしご心労の日々であったことかと」
その誠実な人柄から責任まで感じて、皇太子はユスタスに謝罪までしてみせた。
ソラムダリヤは、暖炉の前に立っているリリティスをかえりみて云った。
 「もっとはやくに、フラワン家へはわたしから手紙を書くべきでした」
 「僕は、付添人として来たのです」
悠長な社交を重ねて親睦を深めるような余裕は互いにない。
ユスタスは自分の話を進めた。
 「僕がお連れしたのは、聖騎士家オーガススィのルルドピアス・クロス・
  オーガススィ姫です。後のことは、説明がちょっと難しいんだけど」
ユスタスはどう云ったものかと少し考えたが、城下町の街路を封鎖している
コスモス兵に、「わが名はユスタス・フラワンである。コスモス城に案内を」と
威厳をもって名乗りを上げた時と同じように、ソラムダリヤの眼を見て、
そのまま伝えた。
 「ルルドピアス姫がコスモス城に行かなければと願うので、連れてきました」
広間に沈黙が落ちた。 
それだけでは訳が分からぬ。
だがソラムダリヤは顔に顕すことなく、「そうですか」とだけ応えた。
 「ルルドピアス姫はお疲れのようでした。休んでもらっています」
 「感謝します」
 「残念ですが、本日はご承知のように立て込んでいて、あまり時間もとれません。
  お話は、後ほどルルドピアス姫もまじえて改めてきかせてもらいたいと思います。
  それよりも、ごきょうだいで積もる話もあるでしょう。わたしはひとまずこれで。
  リリティス」
呼びかけられて顔を上げたリリティスの手に、ソラムダリヤは軽く触れた。
 「二人きりにしますが、後は、貴女に頼んでもいいですね」
現実問題、他にもっと気に掛かることを山と抱えたソラムダリヤは、ユスタスに
向かって温雅に会釈すると、気を利かせ、二人を残して小広間を出て行った。
皇太子がいなくなると、途端にユスタスはぱっと顔を明るくして、子供のように
ひとっとびに姉に抱きついた。
 「リリティス姉さん!」
ユスタスに抱きつかれたリリティスは、まだ信じられないというかのように
声を詰まらせた。
 「ユスタス……」
 「そうだよ、僕だよ」
再会の感激に声を弾ませて、ユスタスは両腕で姉を抱きしめ、暖炉の前で
ぐるりと踊った。
 「姉さん、元気だった。ああ、泣いちゃって……」
笑いながら、ユスタスは指先でリリティスの眼に滲む涙をぬぐってやった。
ユスタスは早口に姉を問い詰めた。
 「僕こそ愕いてるよ。これ、どういうことさ。お互い無事でよかったけど、
  まさか姉さんがソラムダリヤ皇太子殿下と仲良くなっているなんて」
 「ユスタス」
 「なんだよ、今の皇太子。去り際に姉さんの方を見つめて、
  『リリティス、後は貴女に頼んでもいいですね』だってさ。
  ずいぶんと彼と親しそうじゃない」
得意の口真似でからかいながら、ユスタスは口笛まで吹いた。 
リリティスの顔は晴れなかった。ユスタスは笑顔を引っ込めた。
姉の様子には、ユスタスがその理由を知らない、憂愁と憔悴があった。
 「なんていうか、とにかく、姉さんに逢えて嬉しいよ」
ユスタスは身をかがめてリリティスの顔を覗き込んだ。
 「心配してたんだよ。どれだけ気にしていたことか。僕や兄さんと違って
  姉さんは女だし、ほとんど外に出たことがないんだし」
 「ユスタス」 
リリティスはユスタスの腕を掴んだ。
母のリィスリに似た顔が、思いつめ、狂おしく青褪めてユスタスを仰いだ。
 「ユスタス」
 「うん……」
 「シュディリス兄さんは」
くると思った質問に、ユスタスは気を引き締めた。
 「ユスタス。シリス兄さんは、貴方と一緒ではないの」
口ごもり、ユスタスは気まずい顔になった。
 「残念ながら一緒じゃないんだ。でも兄さんは無事だよ。それだけは確か」
いそいで、ユスタスはその後を続けた。
 「兄さんと最近まで行動を共にしていたグラナン・バラスという
  ジュシュベンダの騎士がいるから、後で彼から詳しい話をきくといいよ。
  ユスキュダルの巫女を攫った容疑がかかっていた件についてはもう無効だし、
  兄さんの身は大丈夫だと思って」
 「でも」
 「今回のこと、まだ全容がよく分からないけど、願ったり叶ったりだと思うよ、僕は」
扉の方を窺いつつ、ユスタスは声を潜めた。
 「兄さんが翡翠皇子の子であることを問題視し、追尾をしつこくかける
  人物がいるとしたら、それはこの世でミケラン卿だけだ。そのミケラン卿が
  ユスキュダルの巫女さまを監禁したとなれば、彼の破滅は間違いなく決定的。
  いくら皇帝陛下の信任が篤くとも、これ以上の大罪はないのだからね」
 「ユスタス。私は何もかも、ミケラン様が考えた上でのことだと思うのよ」
 「それならそれで、いいじゃない」
姉のうろたえ方の中にある繊細なものなど知りようもないユスタスは、
無責任に断言した。
 「彼が錯乱したのでないのなら、死に場所を求めてるってやつじゃないの。
  道連れのつもりか、ああしてはぐれ騎士の処刑なんかをしてみせて。
  もうちょっと洗練された頭のいい人だと思ってたんだけど、ミケラン・レイズンも
  たいしたことないね。これまでどおり老獪に、帝国の枢機部を動かしていく
  狡猾な政治家なんだとばかり思ってたのに」
 「止めて頂戴」
死に場所という言葉に怖気をふるい、リリティスは悲鳴を上げた。
 「ミケラン様のことをよく知りもしないで」
 「何か悪いこと云った?」
ユスタスは首をかしげたが、彼は姉の様子がおかしいことを、コスモスを
覆っている非常事態のせいにして、それ以上特に不審にも思わなかった。
 「とにかく、ミケラン・レイズンはこれで終わりだよ」
姉の手を優しくとって、いたわりながら、ユスタスは微笑んだ。
精神的にひとまわり成長した彼の眼には、美しい姉のリリティスはいかにも、
守ってやりたくなる肉親でしかなかった。
 「本音を云えば僕はレイズンもコスモスも、どうなろうと知ったことじゃない。
  大切な人が無事ならそれでいい。姉さんの顔をみて、すっかり気分が晴れたよ。
  シュディリス兄さんと僕たちにとっての最大の心配事がこれで消えるんだ。
  お祝いしようよ」
弟の笑顔に応える言葉を、リリティスは持たなかった。
ミケランを案じるあまりに重たく沈んでいる心の裡を、弟に説明することも
出来なかった。ソラムダリヤはミケランとの交渉を求めて奔走しているが、
それも時間の問題であり、ジレオン・ヴィル・レイズンを筆頭に、包囲網は
着々とその準備を終えようとしている。
ユスタスの上機嫌とは裏腹に、リリティスには足許が無くなりそうな、そんな
予感すらしてくるのだった。

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深夜を待とうサンドライトの意見と、夜のほうがかえって物音が響くという
マリリフトの案とがぶつかった。
天井から差し込む光の下に立ち、シュディリスは隣にいるロゼッタに訊いた。
 「君は、どちらがいい」
竜の隠れ里からコスモス城へと続く地下の抜け道は、幅こそ狭いものの
立って歩けるほどの十分な高さがあり、明かり採りの隙間からは新鮮な
日光と外気がたっぷりと流れ込んでいた。この地下道が歳月に耐えて
堅牢なのは、もとは渓谷から水をはこび、上水道を通すための道として
建設されたものだからで、道の中央には、水道管を固定するための
煉瓦の土台がまだそのままになって、等間隔で点在していた。
シュディリスたちとカルタラグンの落武者たちが休憩をかねて脚をとめているのは、
抜け道の中継地点にあたる、古い御堂の下だった。
広場のように空間のひらけた明るいそこで、彼らは斥候からの報告を待っていた。
 「ロゼッタ。君はどう思う」
 「そうですね……」
ロゼッタは慎重に考えるふりをして、まずはさりげなくシュディリスの手を
ほどこうとした。竜の隠れ里からこちら、シュディリスはずっとロゼッタの片手を
握って先に立って歩いていたのであり、今もロゼッタが手をほどこうとしたのを
察したか、
 「だめだ」
強く握り返してきた。彼は青い眼をひたとロゼッタにあてて云いきった。
 「君は、ユスタスからの預かりものだから」
返す言葉もないとはこのことで、ロゼッタはきまりが悪かった。
そうだとも違うとも云えぬこちらの立場を少しは斟酌してくれてもよいものを、
どうも、すっかりユスタスの恋人にされている。
一つには、サンドライト・ナナセラが、「死ね」という眼つきで、ロゼッタを
睨んでいることもある。シュディリスなりに、ロゼッタの安全に気を遣って
くれているのだろう。配慮するだけあって、女騎士に負かされた場合の
騎士の恨みは通例、傷つけられた男の自尊心ごと、根深いのだ。
仕方なくシュディリスと片手を繋いだまま、ロゼッタは応えた。
 「僭越ですが、マリリフト殿と同意見で、私も早朝がよいように思えます」
 「イオウ家のお嬢さんは朝がよいとさ」
早速にサンドライトが歯をむいた。
 「どうせお前は俺が夜と云ったので、何としても深夜には反対なのだろう」
 「違います、サンドライト殿」
 「お静かに」
揉めているところへ、斥候が戻ってきた。
それにより、彼らはコスモス城で何が起こっているかを知ることができた。
 「それでは、コスモス三世の霊廟の壁は、かつてのままだというのだな」
 「はい。古い壁の外側にさらに壁を築いて、再度封印しようとしたところで
  此度の事変となり、工事は中断されているようです」
 「シュディリス様」
今度は、ロゼッタの方からシュディリスの手を握りしめた。
シュディリスの手は冷え切って、固く、そしてふるえていた。
斥候の報告の中に 「ミケラン・レイズン」の名が挙がるたびに、地底の道に
集ったカルタラグン騎士たちは、互いの顔に積年の恨みの炎をともし、
その名を憎しみと共に胸の中で磨り潰した。
ふたたび彼らは、時の車に押されるようにして、地下坑内を歩き出した。
ミケラン卿がユスキュダルの巫女を拉致したという報告は、長い年月を超えて
彼らに政変のあの日のことを、いちどきに思い起こさせるに十分であった。
彼らは地下の道を歩いた。
無言で、憎き仇のその名ひとつを暗闇の先に見据え、二度とかなわぬかと
思われた再会と復讐への期待に、呼吸さえ、焼け付いて止まりそうになりながら。


そろそろ陽が傾いて、野花のそよぐコスモスの丘陵には濃い影が落ちていた。
ハイロウリーンの第一陣に留めおかれているレーレローザは早朝からの
変事に平静ではいられず、ついに天幕をとび出して、ワリシダラムを捜した。
しかし、
 「ワリシー」
ようやく見つけたワリシダラムは、レーレローザに向かって「今は駄目だ」と
いわんばかりに手真似で追い払うだけで、幕僚たちと集まってひそひそと
深刻な顔つきで密談を交わしており、レーレローザを見向きもしなかった。
そうこうするうちにも頻々と伝令が駆け込んできて、押し退けられてしまった
レーレローザは邪険にされた腹いせに足もとの小石を蹴り飛ばした。
 (なによ。第二陣にいるブルティのほうが扱いがましなんじゃないかしら。
  そうよ、あちらの陣にいるのは、ワーンダン様とインカタビア様なんだもの。
  どちらも大人で優しいから、オーガススィ家の姫としても、インカタビア様の
  許婚としても、鄭重にブルーティアのことを扱っているはずよ。
  ワリシーみたいに子供っぽいこともない)
かといって、ワリシダラムの代わりにエクテマスなどが陣の留守居役に
残られてもたまらない。正直、エクテマスがルビリア姫に付き従って陣から
出陣してくれて、彼を苦手とするレーレローザはほっとしたのだ。
得体が知れないというよりも、彼の、あの眼が怖い。
 (まるで煙か霞でも見るかのような、世界に対して無感動な眼つき。それでいて、
  底にこわいものを潜めているのだもの)
レーレローザは女騎士であるからこそ、或る種の勘で、それなりの腕を持つ
こちらに対して一顧だにしなかったエクテマスという男の、透徹されたあの
無関心さが怖かった。
いろいろと積もり積もってきて、レーレローザは拳を握り締めた。
 (……ハイロウリーンは王子たちの雁首揃えて何やってんのかしら。
  せっかくお父さまとイクファイファ兄さまがコスモスに来ているというのに、
  此処にいてはオーガススィ軍の影もかたちも見えない。私だったら
  こんなところにぐずってないで、真っ先に巫女さまをお救いにあがるのに)
オーガススィの一の姫は、気性のままに、苛立ちを堪えかねて声に出した。
 「私なら、巫女さまをお救いできるのに」
レーレローザは雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。
 「男に生まれたら、レーレロードと名乗る。そして離宮に閉じ込められた
  お姫さまを救いに行くの」
ままごとの延長のような子供じみた純真さで、幾度、優しいものばかりで
できたような繊細なあの子に誓ってみせたことだろう。
 (一人前の騎士気取りで、威勢をはって。ずいぶんと私は得意気だった。滑稽ね)
尽きることのない寂寥に、応えてくれる者も此処にはいない。
自嘲したレーレローザは、冷たい風に零れ落ちそうな涙を隠し、
泣かないように顔を上げた。夕暮れに沈んでいくコスモス城の上空は、あまやかな
花色をして、失った日々のように、遠くかがやいていた。
ねえ、ブルティ。もしあのお城に囚われているのがルルドピアスならば、
私たちは、どうしたかしらね。


難攻不落の西の砦に立て篭もったミケランは、分家兵を
要所に配置し、二階の渡り廊下で説得を繰り返すモルジダン侯には
手出しせぬようにと厳命の上、元領主の私室に居を据えて、最後まで
モルジダン侯を黙殺した。
彼はモルジダン侯の口上内容を予測でき、またそれに外れなく、
したがってあらためて聴く必要もなかった。
前領主の室に居を構えたミケランは、過日のこの部屋を、ありありと
思い浮かべることが出来た。
タンジェリン殲滅戦に非協力であったコスモスに対して、コスモスの安泰と
引き換えにレイズンが求めた、フィリア・コスモス・タンジェリンの首。
憔悴した顔に領主の威厳を保ち、立ち尽くしていたクローバ・コスモス。
奥方の遺骸の引渡しを求めて現れたこちらを迎え、壁に架かっていた
美しい絵に火を放ち、無残に焼け落ちる画の前で炯々と両眼を恐ろしく
光らせてにやりと笑ってみせたクローバ。
身分を放棄して風のようにコスモスを出て行った男は、今日という日が
来ることを、不遇の境遇のうちにも、一度でも思い描いたことがあっただろうか。
自害した領主夫人が横たわっていた寝台は、今は寝具がすべて取り去られて、
剥き出しのままになっていた。
 「このような処でお休みいただくのは、申し訳ないことだ」
ミケランは眠るそのひとの顔の上に片手をかざした。夕陽がその手のかたちを
鮮やかな朱金色で縁取った。
 「なれど、貴女ならば前領主夫人の血で穢れたこの場を褥とすることも
  不浄だとはお思いにはならぬでしょう」
寝台に横たわるひとの顔を上から覗き込み、ミケランは、厳かにその名を囁いた。
 「どれほど、お逢いしたかったことか。----カリア・リラ・エスピトラル。
  その名がわたしの生涯に、これほどの重きをなすとは、若い頃のわたしには
  分からなかった」
遠い昔を想い出してそう呟いた男の影の先には、静かに眼を閉じている、
ユスキュダルの巫女がいた。
落日の太陽が、窓硝子を黄金色に染め上げた。そこから落ちる光のひと束が
ちょうど寝台全体を包んでおり、胸の前で手を組んだ巫女はまるで、
影を曳きながら夕暮れの湖に沈んでいこうとしている、静かな幻に見えた。
寝台の傍らに椅子を引き寄せて腰をおろしたミケランは、眠る巫女を近くから見守った。
 「いつの頃からか、いや、物心ついてより、貴女はわたしの心を捕らえて、離さなかった。
  貴女という存在、巫女という記号、その神聖と謎は、わたしの理解を超えていた」
他の一切の感情を欠いた声音だった。
まるで自分自身に話しているかのように、ミケランは眠るひとに語りかけた。
 「ながい間、ずっと想い続けて、貴女はもうわたしの一部になってしまった。
  貴女はまるで、わたしの光だった。この魂に刻まれた、絶対的存在として
  貴女はわたしの胸の底に棲み、この血肉と同化し、そして決して
  わたしの近くにはいなかった。貴女にあの手紙を書いた時も、そうだった」
ミケランは片膝の上で手を組んだ。
椅子の側面には剣が立掛けられていた。
 「タンジェリン殲滅後の帝国の不穏を鎮めることを貴女に願い、哀れな騎士たちの
  救済を願い、ユスキュダルの地からはるばる帝国へとおいでを請いながら、
  わたしは貴女ではなく、まるで、もう一人のわたしに、それを熱心に懇願
  していたような気がしていた。騎士のともしびよ、貴女がその高次的存在で
  ある限り、わたしは貴女という灯によってくまなく照らされている、地を這う影だ」
窓の向こうの黄昏は雲が流れるたびに、めまぐるしくその濃淡を変えた。
非常時とあって、今宵は城の鐘も鳴らされず、下界のコスモスの街も水の底に
沈んだように、しんと静まり返っていた。
お逢いできたなら、貴女にお訊きしたいことが沢山あった、とミケランは
眠る巫女に囁いた。
 「しかしそれももはや、取るに足りぬ塵のようなもの。遠い昔わたしが滅ぼした
  小国の小王女が、こうして当代のユスキュダルの巫女となり、わたしの前に現れたこと、
  それそのものが、わたしの選んできた生と罪のかたちなのだと、そう思える。
  人智を超えた畏怖をこの身に覚えさせる貴き方よ。ユスキュダルの巫女。
  すべての竜神の騎士の頂点に立たれる、星の君よ」
巫女を見つめ続けるミケランの顔を、夕陽があかく照らし、そして鋭い影で包んだ。
この夕べ、この男の顔に浮かんでいるものは、彼自身は認めなくとも、生きている限りは
誰しもに付きまとう、濃厚に堆積した、生命の疲れであった。
しかしそれをもミケランは、彼の中にある強靭な精神で、前向きな彩りに変えていた。
気品ある顔をうつむけ、ミケランは微笑した。
 「人よりも少し我侭で、夢見がちだった男が、誰もが踏むを怖れるところを
  踏み越えて、随分といろんな勝手を果たしてきたものだ。だが夢は、夢のままに
  拡がってゆくばかりで、一つの夢を叶えるたびに、この身はますます希薄に、
  果ては見えなくなる一方だった。終わりのない無限の中で再生を繰り返して
  いるような気がしてならなかった。そして或る日ふと、何もかもに関心を失った。
  それが神の定めたもうた定理ならば、そしてそれが、呪いの血がわたしに科した
  竜神の騎士のさだめならば、確かにわたしは、その罰を受けたのだろう」
俗世間の名声にしがみつかぬ限り、やがては人々の理解からも外れて、この世の
隠者となるより他はない。そんな男の末路をミケランほどに透徹して自覚している
者はこの世におらず、そしてそのことを悟るように、眠る巫女は何も応えなかった。
 (ミケラン……)
ふと聴こえたような気がしたやわらかな女の声は、誰のものかも分からなかった。
胸の前に組み合わされた巫女の両手の上に、夕陽の塊が落ちた。
巫女は、光のかけらを胸に抱いて、瞼を閉じていた。
 「わたしという男の魂を、そうやってずっと抱いて下さっていた貴女には、
  愚かしいことを重ねてきたこんな男の命であっても、他のものたちと同じ
  無に等しき、いとしいものなのだろうか」
うつろうものを見つめ、男は手を組み替えた。
 「それでもまだわたしは、幾ばくかの愉しみを、この命の最期に残している。
  大罪を犯すおののきを歓喜に変えて、わたしは倖せすら覚えている。
  一度たりとも経験のない、未知の幸福感に、今こそ隅々まで満たされている。
  猜疑も、不安も、後悔も。希望も、未来も、欲求もない、まことの恍惚。
  求めても、探しても、ついに得ることのなかった、倖せというものを」
ミケランは静かに剣を取り上げ、持ち上げた。
つめたい鋼に額をおしあて、男は、窓を満たしている蒼色を刷いた黄昏の
光を仰ぎ、凍てついた沼の底から氷色の空を見上げるような、何ともいえぬ
懐かしげな顔をした。
いましばし、この幸福感に浸ることをゆるしていただきたい、とミケランは
巫女にそっと告げた。
 「こんなかたちで手に入れることが叶ったことを、至福に想う。
  わたし自身をこの世界に、ようやく解き放つために、貴女はわたしの手の中に
  降りてきて下さったのだ。こんな静謐な気持ちは、生まれて初めてのように想う。
  安らぎというものがあるのだとしたら、今こそそれを得たのだと想う。
  これで、残されたことを果たすのに、もう何の心残りもない」
夕陽が落ちた。
室が暗くなっても、ミケランは椅子から動かなかった。

      
地下の酒蔵で待機しているエステラは、うたた寝から眼を覚ました。
見張りに立っている男たちが少し休むようにと云ってくれたのを最初は
固辞していたものの、極度の緊張の反動からくる疲れが勝り、ほんの少しと
自分にいい聞かせながら眼を閉じたところ、眠ってしまったようだった。
歴代の酒樽が並んだ地下はひんやりと暗く、床に置いた角燈が四方に
投げかける光が、森の中の焚き火のように淋しく見えた。
冷え込みのほどから、明け方と知れた。エステラは毛布をかき寄せた。
一緒に酒蔵の地下へと降りてきた二人の男は、寝ずの番で起きており、
その物腰や眼光からどうやらこの二名はどちらも上位級の騎士であることが
なんとなしにエステラにも分かった。
ミケランが、この場所を警戒している真の理由は、どうやら誰も知らないようだった。
 「高位騎士といったって、位下の騎士に負けることはあるのだよ」
以前、ミケランはエステラに云ったものだった。
 「もっと詳しく教えて」
エステラは長椅子にかけたミケランの膝にもたれた。
愛人いっても、さまざまだ。
長く寵を繋ぎとめる愛人ほど聞き上手で、打ち明け話の相手としての
側面をもち、男の協力者となる。もちろん秘密厳守であることが信頼される
大前提であり、女がその信頼に誠実に応える時には、女の側に相手への
思い遣りと愛、そして無償の献身がある時に他ならない。
ミケランはそんなエステラの女心もよく分かっているというように、ほのかに笑った。
 「そんな神話があったかな。手練手管で敵の大将の弱みを握り、
  救国の英雄となる美女の物語。怖いものだね、エステラ」
 「ふざけて笑ってないで、教えて下さいな」
得た答えは、短いものだった。気魄。
騎士の札遊びの束から一枚抜きとって、ミケランはそれを卓においた。
 (あの時のミケラン様は、何の札を選んでおられただろう)
思い出そうとエステラが額に指をおいていると、それまで壁際で
黙りこくっていた男たちが、ふと顔を上げた。
階下から怪しい音が聴こえてきたのだ。
地下蔵に降りた彼らは無言で視線を合わせ、黙り込んだ。
一人の男が、慎重に身をかがめ、床に耳をつけた。
 「……」
霊廟の壁が壊されている。と男は口の動きだけでそれを伝えた。
エステラたちはさっと緊張した。
彼らが待機している酒蔵の真下は、コスモス三世の霊廟である。
最初は慎重に、しだいに大胆に、漆喰で固められた霊廟の壁を内側から
引っかいている音が、耳を澄ませば、確かに下から聴こえてくるではないか。
エステラも見物したコスモス三世の霊廟は、石棺と木乃伊を閉じ込めたまま
永久の棺として再度封印されることとなっていたが、現在は施工前の
仮封印をされている状態のはずだ。暗闇の中、木乃伊のいる地下の墓場から
物音が響いてくるというのは、胆の据わった人間が耳にしても、不気味なこと
この上なかった。
二人の騎士は声を潜めて囁き交わした。
 「古地図にある地下抗を進入口にされるかも知れぬという
  ミケラン様の勘は正しかった」
 「こんな古道からわざわざ進入しようとするくらいだ。先方も騒がれて
  困るは同じとみた」
ぎょっとしているエステラの前で、彼らは剣を鞘から抜いた。
 「あなた達」
 「エステラ様は、この階でお待ちになっていて下さい」
 「我らが戻って来ない時には、酒樽の後ろに隠れて、一昼夜様子をみてから
  外に出て下さい。ミケラン様の許に戻るか投降するかは、ご判断に任せます」
待って、と引き止める間もなかった。
騎士は闇の中でも眼が利く。二人の騎士は霊廟へと続く古い階段へと
身をひるがえすと、彼らが下におりたら階段口の上げ蓋を閉め、閂を
かけておくようにとエステラに頼んで、暗い穴の中に姿を消してしまった。
置き去りにされたエステラは緊張と不安を抱えて、人ひとりがようやく立てるくらいの
階段の蓋の上に立った。
この場合、残されるほうが心許ない。
上から誰か降りては来ぬかと、夜明けの近づく外の音に気を配りながら
エステラは落ち着かなく、両手を握り合わせた。
 (騎士の札遊び。ミケラン様が選んだ一枚は、どの騎士の札)
静寂は、ながくは続かなかった。
何故なら、耳を澄ませるまでもなく、地下深くから、「ミケランの兵だ!」という
怒声の叫びと、烈しく打ち交わされる剣戟の音が鈍く響いてきたからだ。
 「ああ、どうしましょう」
地の底の騒音は、酒蔵の門を開かぬ限りそうそう外には洩れまいが、
もしもあの二人の剣士が敗れた場合、最悪、エステラは賊どもの手によって
殺されるか、此処に閉じ込められてしまうかもしれないのだ。
そして固唾を呑んで様子を窺っている限りでは、どうやら侵入者の方が
多勢で、優勢のようだった。
そうこうするうち、石の階段を駈け上がる音に続き、がたがたっと階段の
閉じ蓋が揺れ動いた。
エステラは、護身用の剣を握り締めて閉じ蓋の上に立ち上がり、重し代わりに
わが身を乗せた状態で、「誰ッ」と鋭く誰何した。
蓋の揺れが止まった。
 「開けて欲しい」
思いがけなく、涼やかな若者の声がした。
どうやらエステラをコスモス城の者と思い込んでいるようで、若者は
丁寧な帝国共通語を用い、呼びかけてきた。
 「貴女に危害は加えません。閂を外して下さい」
 「何者です。それが分かるまでは、退くわけにはまいりません」
ミケランの援助で一流の教育を受けたエステラの声の抑揚に
含まれる、上品な感じを聴き取ったものか、若者は蓋を叩くことをぴたりと止めた。
蓋を挟んで、階上と階下に分かれた彼らは、相手の姿も見えぬうちから
互いを探った。
それも束の間だった。
どん、と重い音を立てて、蓋が揺れた。床と蓋の隙間に剣の先を差し込むと
若者は一撃で閂を壊し、相手は女一人とみて、肩と腕を使って力づくで
下から蓋を強引に押し上げた。
 「きゃあ」
床の支えを失くし、後ろ手をついて転んでしまったエステラは、慌てて
護身用の短剣を拾い上げた。柄を握り締めたその手を、すばやく若者の
手が抑えた。おぼろ月夜のような暗い角燈の灯りに、さらりと銀髪が流れすぎた。
 「この城の方ですか」
闘いの音が霊廟のある下方から聴こえてきた。
若者は地下階段の蓋を踵で蹴ってふたたび閉ざし、エステラの方へと
にじり寄ってきた。まだ礼儀を崩してはいないものの、若者の声は鋭かった。
灯に照らされたその顔は、若く、そして不退転の決意がうかがえた。
 「仲間を下に連れて来ています。抵抗は無駄です」
 「何をしにいらしたの」
 「わたしは貴女の敵ではない」
 「敵か否かはわたくしが決めます。何をしにコスモス城へいらしたの」
エステラの声音に潜む何かを感じ取った若者は、ようやく、怪訝そうに眉を寄せた。
マリリフトやサンドライトらを相手どり、獅子奮迅のはたらきをみせている地下の
二騎士はともかくも、眼前の女人は騎士でもなく、また武芸に心得のある者ともみえない。
まさかこのような早朝に、忘れ去られているはずの霊廟を警戒して見張っている
者がいようとは思わなかったが、もしもこの女人がコスモスの者ならば、変事が
起こった時点ですぐさまコスモス兵を酒蔵に呼び込んでいるはずである。
若者は、それはまさしくシュディリスであったのだが、美しい女の腕を掴んで
云ってみた。
 「もし貴女を人質として、このまま表に出て行ったとしたら、どうなりますか」
 「誰も、何も、困りませんわ。貴方とお仲間の方が捕まるだけです」
エステラは勇気を奮い起こした。
 「貴方がもしも、ユスキュダルの巫女を救う目的で忍んでいらした義侠心ある
  騎士ならば、申し上げておきますわ。わたくしは或る方から、此処で或る人物を
  待つようにと仰せつかっておりました。その方でない限り、案内はお断りです」
 「ユスキュダルの巫女の許に案内してくれるのですか。貴女が」
シュディリスは必死の覚悟を浮かべている女を見下ろした。
エステラは眦を険しくし、もう一度云った。ミケランが「もしも」を重ねてエステラに
頼んだ或る秘密を、よもやと思いながらも若者に云ってみた。
 「聖皇妃オフィリア・フラワン様の血統に連なる方でない限りは、お断りですわ」
 「それでは名乗りましょう。シュディリス・フラワンです」
 「えっ」
 「さあ、早く」
他のものすべてを捨てても、求めるものに向かって走る若者は、薄暗がりの中で
その眸をぎらつかせ、エステラの腕を強い力で掴んで促した。
 「連れて行って下さい」
 「わたくしは、わたくしはエステラと申します」
若者に腕を引っ張られたエステラは、まだ愕きながらも、引き立てられるままに
名を教えた。何階層かになっている酒蔵の階段をのぼり、エステラは若者に
打ち明けた。
 「わたくしは長年、ミケラン・レイズン卿の庇護を受けている女です」
シュディリスは、立ち止まった。



「続く]


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