back next top




[ビスカリアの星]■九四.


そうそう、クローバ殿。
ジレオン・ヴィル・レイズンは或る一つのことを、もののついでの
ようにしてクローバにさり気無く訊ねた。
クローバ殿は、もしも両国の指針が分かたれると仮定した場合、
帝国の双璧ジュシュベンダとハイロウリーン、このどちらに
肩入れされますか?
 「何の話だ」
 「たとえ話です。戦略講義でもよくやったでしょう。『もしも』の場合です」
それに対して、意外にも、クローバは即答した。
ジュシュベンダとハイロウリーンがもしも戦争をしたら、どちらにつくか。
これは帝国中の人が、騎士も農民も、王族も市井の商人も、
老若男女問わずもっとも親しみ、また繰り返し論じて飽きることのない
定番の命題であった。
或る者はジュシュベンダと云い、或る者はハイロウリーンを贔屓にする。
ハイロウリーン軍の鋼の精強さを並べ立てる者がいれば、北国の不利を
挙げて、南国アルバレス一族の伝統の結束を得がたいものに数える者が
出てくるという具合で、常に甲乙つけがたく、そして優劣が容易に
つかぬ点にこそこの議論の魅力があるといった類いの、端的にまとめれば、
困った時には時候の挨拶に次いでこの話をふっておけば間違いなしという、
『もしも』であった。
クローバは慣れた口調で答えた。
ハイロウリーンだ。
妥当かつ当然の答えであろう。
コスモスが、ハイロウリーンと北方三国同盟国で結ばれた間柄である限りは、
帝国の北に位置するコスモスは、ハイロウリーン側である。
 「なるほど。いえ、現在のところ無位無官であられるクローバ殿は
  どうなさるのかと興味があったものですから。なにしろ、ジュシュベンダ君主
  イルタル・アルバレス殿とクローバ殿は、ご友人の間柄とお聞きして
  おりましたので」
皇太子の寵がある限り、クローバとは意見を合わせておいたほうがいい。
 「無粋なことをお尋ねいたしました」
ジレオンは、気障な仕草で前髪をかきあげた。


早朝の風が吹いていた。
まだ星の残る空の色は東の方から薄れはじめ、それにしたがって
朝日に輝く雲が、速く、もつれ合うように地平から天頂に吹き寄せ、
暗い中にも燃え上がるような朝焼けの濃淡を、空の世界に生んでいた。
木々のもつれ合う薄暗い森の中に、変化があった。
獣の影と見えたものは、枝を分けて、ようやく森から外に這い出してきた
ひとりの若い娘だった。
葉に擦られてできた頬の切り傷をぬぐうと、乙女は枝に引っかけられて
乱れた衣装束を整え、腰の剣を確かめた。
朝の空に忙しく飛び立つ鳥のはばたきが、コスモスの夜明けを告げた。
木々の梢を透かすようにして、西の丸を仰いだその人影は、リリティスだった。
コスモス城、西の砦。
ミケラン・レイズンが立て篭もるそこは、早朝の静寂の中にもぴんと
張り詰めた緊張感を漂わせ、木陰から全体像を見上げるリリティスの前に
堅牢な石壁を高く、丈夫に、聳えさせていた。
 「背面は未開の森。偵察してきたが、攻略部隊を入れるには
  伐採から始めねば到底無理だ」
 「獣も通わぬほどに木の枝々が絡み合い、地面が大樹の根で波打っている。
  あれでは攻城用の大道具も運び込めぬ」
兵たちの交わす話を耳に挟んだリリティスは、夜明けを待って、ひそかに
城の客室を抜け出した。
 「リリティス様。どちらへ」
 「寝つけないので、少しお城の中を散歩してきます」
供は結構、とリリティスは歩哨に断りを入れた。
 「かつてこの城の内部に、これほどに多くの警備兵がいたことがあるでしょうか。
  タイラン様に代わり、朝の庭に花が開くところを見に行くだけです」
朝露の降りている静かな庭に辿り着くと、リリティスは
剣を隠していた長衣を彫像の陰で脱ぎ捨てた。
庭は、そのまま森へとつながっていた。
リリティスは音もなく走り、そのまま庭から真っ暗な森へと分け入った。
月の光すら遮る暗い森。道なき道をかきわけて、傷だらけになりながら
コスモス城の敷地を回り込んだリリティスは、そこで夜が明けるのを待ち、
冷え込みにふるえながらも、闇と日の出が交わる払暁を待った。
早朝が一番見張りの眼がゆるむ。
白みはじめた空に西の砦の壁の輪郭がぼんやりと
浮かび上がるのを見定めて、リリティスは行動を開始した。
城砦の類いは、通例、地上付近には窓がない。あったとしてもひどく小さく、
片手が出せるほどの幅しかない。
永の平和が見込める国の城ならば大きな窓を作ることもあるが、外敵を防ぐ
目的で建造された古い時代の建造物らしく、コスモス城の西の丸は
その外壁に足掛りにできるような出っ張りを一切排除した、垂直の崖の
ごとき備えとなって、リリティスの前に聳え立っていた。
朝の強い風が吹いた。
それを合図に、リリティスは重しの石を結わえた細綱を、壁に絡みついた
蔦の葉陰から真上に向かって投げあげた。
砦攻略に必要な人数は入ることが叶わずとも、はるか上方にある高窓
にまで届けば、そこから砦の中に侵入できるはずだ。
空が水色に薄れる中、狙いを定めてリリティスが投げた綱は、夜明けの空を
鳥影のように音もなく伸びて、風を切り、吐水口の彫刻の首に上手に巻きついた。
リリティスは間をおかず、迷わなかった。
呼吸を整え、綱を両手で握り締めると、リリティスは綱一本を頼りにして
地上をひと蹴りし、屋上に立つ兵の死角から、騎士の力で砦の壁を
すばやく登りはじめた。
いくら騎士の力をもってしても、不慣れな作業。
リリティスは慎重の上にも慎重を重ねたが、それも誰かに見つかれば
一瞬で台無しになってしまう。
しなやかな獣の動きで、リリティスはひと蹴り、またひと蹴りと、壁を蹴って
上昇の勢いをつけながら、腕の力を緩めずに、険しい壁面をまずは三階の
吐水口まで登りきった。
雲が晴れ、コスモスに朝日が昇った。
遮るものの何もない上空には、ひゅうっと冷たい強風が吹きすぎていた。
リリティスは綱の揺れがとまるまで待ち、あかりを採る小窓の枠に
足先をかけて、小休止した。
時を止めたお伽の国は、早暁の風の中に、静かだった。
見渡す限りの緑に包まれたなだらかな丘陵には、各国軍の構えた天幕が
花のように点在している他は、まだ眠りの中にある。
もう少し城の近くに寄れば、ハイロウリーン軍とジュシュベンダ、それに
中洲に展開したまま据え置きとなっているレイズンの小部隊が三つ巴の
状態のまま夜明けの中の静止画となっているのが森の向こうに望めたが、
それも遠くの点だった。
空と地上の合間に綱一本で身を支えた状態で、リリティスは小さく息をついた。
砦に潜入して、どうなるものでもない。
自分が、ミケランを説得できるとも思わない。
リリティスは上を見上げた。
古い砦にありがちなように、底に近いところは手がかりがなくとも、上の方には
積み上げた石材の乱れが残ったままになっている。
ここからは、壁の石積みの出っ張りと、蔦を綱代わりにして、登っていくしかない。


風が止んだ。
再び、リリティスは外壁を登り始めた。
何をしようというあてもない。ただ、このような暴挙を起こした
ミケランの顔を見、リリティスが知っているはずのあの男の姿を
もう一度この眼で確かめ、その声を聴き、そして叶うことならば、この先
彼の上に降り注ぐであろう、ありとあらゆる糾弾と批難から
あの男をまもってやりたいと願うばかりの、身勝手な、そして抑えようもない
一途な衝動に追い立てられてのことだった。
それは愛でもなく、友誼でもない。
強いて説明をつけるならばこの娘のもって生まれた情の深さや弱さ、或いは
ミケランの内にある心象との類似性、それへの憧憬、
そういったことの全てがこの朝リリティスを動かしているのであり、西の丸へと
引き寄せられてきたリリティス自身にも、それは自覚的な目的や、かたちある
意志にはなっていなかった。
壁面に蔓を伸ばして生い茂っている緑の蔦が、ちょうどリリティスの
姿を天守にいる兵士たちから隠してくれた。
夕暮れ刻に束の間あるような淋しい静寂がこの夜明けにもあった。
世界中の命という命が夜のうちに死に絶えて、ひとりだけ残されたような、
そんな無音の空疎の、時の隙間が。
吐水口の彫刻から再開した壁のぼりは、あとは、壁面の装飾を足場にして
高窓の露台に手を伸ばすばかりだった。
リリティスは、はじめて下を見た。視界に飛び込んできた地上までの
距離感は、下で想像していたよりも迫力があり、大地の方から迫ってくる
感じがした。眩暈でも起こして落下すれば、まず助からない。
露台の底面にまず指先が触れ、そして手すりの柵の根元に手がかかった。
あるか否かの乏しい足場を探りながら、リリティスは露台のふちに両手をかけた。
最後の力を振り絞って両肩から上がろうとしたその時、
 「フラワン家では出入りに窓を使えと、そう教えているのかね」
空が翳った。
手すりを掴んでいる指先が、男の靴底に触れた。
リリティスは頭上を仰いだ。
 「忙しさにまぎれてうっかり訊きもらしていたが、君がけしからぬ方法で
  建物に出入りするのはこれで二度目だよ。答えたまえ。淑女の出入りは
  こうしろと、トレスピアノ領主ご夫妻は君を躾けて育てたのかね?」
リリティスを見下ろしているミケラン・レイズンは無表情だった。
いつもの、「困った子だ」といったような笑みもなく、しかし兵の注意を
こちらに向けさせることもなく、露台の手すりの柵にぶら下がっている
リリティスを俯いて見つめながら、露台にすらりと立っていた。
ミケラン様。
リリティスは男に呼びかけようとして、出来なかった。
ミケランは、リリティスにはもう興味がなさそうな顔をしていた。それが
間違いであることは、リリティスの顔を凝視していることからかろうじて
知れたが、そこにもこれといって目立つ感情はなく、まるで無関心を装って、
その中に彼自身が埋没しているような、そんな印象であった。
 「苦しくはないかね。その姿勢はながくはもたないよ」
事実、身を支えているリリティスの腕は限界が近いことを告げていた。
足先を乗せている壁面の出っ張りも、心もとなかった。
ミケランはリリティスを引き上げてやろうともせずに、今さらあやめる者を
一人増やしたところで、どうということもないといった放心をその顔に
浮かべたまま、リリティスをぼんやりと眺めていた。
 「どうしたのだね、上がって来たいのなら、そうすればよい」
違う。
リリティスはミケランの姿を仰ぎながら、かすかにかぶりを振った。違う、違う。
手すりを握り締めているリリティスの手が汗ですべった。リリティスは柵に
しがみついた。手も足も、今にもずるりと壁から外れてしまいそうだった。
空中に投げ出されてしまいそうだった。此処から墜落すれば、一瞬で死ぬ。
リリティスには、もう自力で自分を露台に持ち上げる力が残されてはいなかった。
手すりを握り締めている手も、木の葉のように小さく震えてきた。ようやくにして
高所にいる恐怖をリリティスは覚え始めていた。
リリティスは小さく喘いだ。強い風が吹きつけた。
 「ミケラン様……」
ミケランは、微笑んだ。
朝の風が男の黒髪を揺らし、リリティスの髪をなびかせた。
 「おいで」
とミケランはリリティスに呼びかけた。そのくせ、手伝おうとはしなかった。
リリティスにはもはやその力がないことを承知で、ミケランはリリティスに微笑み、
砦を登ってきた乙女に両手を広げてみせた。
 「歓迎はせぬが、他ならぬフラワン家のご令嬢の訪問。謹んで、お迎えしよう。
  それとも君は」
うっすらとした笑顔になって、ミケランはその靴底をリリティスの
白い手の上に軽く乗せた。
 「君は自由を得たいと願っていた楽園という名の籠の中の鳥だった。
  その願いどおり、そうなってみるかね」
 「……」
 「墜ちてゆく君が眼に浮かぶ。夜明けの空の色のその髪を
  風に広げて、あっけなく、もう二度と君を取り戻せない彼岸へと
  飛び去ってしまう、その瞬間が」
ミケランはまったく足に力を入れてはいなかったが、男の靴に踏まれている
リリティスの手は、火のように熱くなった。
それなのに、リリティスはどうすることも出来なかった。
辛うじて宙にぶら下がりながら、どうすることも出来なかった。
ミケランに助けを求めることすらも、もう頭には思い浮かばなかった。
朝の風に吹かれながら、露台の底に貼りついたいちまいの羽根のように、
リリティスは風に翻弄され、そしてミケランを仰ぎ続けていた。
ミケランはリリティスの手に足をおいたまま、コスモスの夜明けを眺めた。
これほどに美しい空はなかった。
氷の色をした沈みかけの月が西空にまだ浮かび、雲は、たくさんの船のように
朝日に白く染まりながら、灰水色の空を駈けていた。
ミケランは静かにそれらを見つめ、リリティスに話しかけた。
 「君を、あの御空へと還してあげるのもいいね。別荘にあった、あの翼ある
  古代の彫像のように、この世界に君という若く清い命を解放し、
  はばたかせ、おくり出す」
 「……」
 「君の望みは」
 「……」
手が痺れた。半分落ちかかりながら、リリティスは声をふりしぼった。
 「ミケラン様の思うようになさればいい、命乞いなどしません」
リリティスは眸に涙を浮かべながら、精一杯ミケランを睨み上げた。
 「自惚れないで。私は、ユスキュダルの巫女さまをお助けするために
  来ただけです」
意地か言い訳か。騎士の矜持か。
それを聴いたミケランは、一度も見せたことのない、少年の笑顔になった。
彼は踏みつけていたリリティスの手の上から足を外した。
そして身を屈めると、露台のふちを握り締めているリリティスの手をとった。
 「君はいつも、予期せぬ時に現れるね」
ミケランは腕を伸ばし、リリティスの片腕を両手で掴んだ。
しかし引き上げてやろうとはしなかった。
 「いかなる運命の綾により、君はこうして、この朝、わたしの前に
  もう一度だけ現れたのだろうね」
ミケランの視線は、リリティスを通り越したところに向けられていた。
朝日に眼をほそめたミケランは、リリティスではない、地上の誰かに向かって
話し掛けていた。若々しく、鋭い呼び声が遠くから聴こえてきた。リリティス。
 「リリティス!」
リリティスはびくっと身じろぎした。
 「……いかなる運命が、もう一度、わたしとあなたを現世で引き合わせたもうたのか」
 「リリティス!」
信じられぬというようにリリティスは眼をみひらいた。
不安定な状態から、リリティスは首を振り向け、はるか下方の地上を見遣った。
若騎士が森から現れ、まだ距離のある遠い処から、リリティスの名を呼んでいた。
見間違いようもないその姿。懐かしい声だった。
ようやく異変に気づいた西の丸の兵たちが、ミケラン危うしと見て
露台に押しかけてきた。ミケランは片手で合図を出し、彼らを退かせた。
天守から地上に向かって威嚇の矢が放たれた。
標的となった若い騎士を仲間と思しき騎士たちが取り囲んで庇っていた。
彼らは若い騎士を無理やり押し包んだまま、弓矢の射程距離に入らぬ森の中に
大急ぎで退こうとしていた。抗い、もがきながら騎士が叫んだ。
 「リリティス!」
 「翡翠皇子」
そう呟いたのは、ミケランだった。
ミケランはリリティスの片腕を掴む両手に力をこめた。それは露台に
引きずり上げてやる為の行いではなく、いつでも気持ち一つでリリティスを
落とせるようにするためだった。
 「あっ」
均衡を崩し、リリティスは足場を失った。
今やリリティスはミケランが支えている片腕だけで宙にぶら下がっていた。
咄嗟にリリティスは蔦を掴んだ。リリティスが落ちるとみて、若騎士の必死の
叫びがふたたび風にのった。
 「リリティス!」
ミケランは穏やかな顔で首を傾けた。
 「亡霊が、わたしを迎えにきたのか」
蔦を掴む手は、葉の上をすべるばかりだった。引っ張られている片腕と肩の
痛みに、リリティスは呻いた。
 「兄さん」
壁に頬をつけるようにして、リリティスは間違えようもない
その声の主の名を呼び、悲痛に叫び、助けを求めた。
 「シュディリス兄さん!」

----------------------------------------------------
 
時を少し戻る。
エステラは、明け方の冷気よりもつめたいものに直面していた。
積み重なった酒樽が整然と並ぶ酒蔵の内部が急に圧迫感を
増したようにエステラには思われた。
 「ミケラン卿の友人……」
立ち止まり、振り向いて、こちらに踏み出してきた青年の視線に
エステラはふるえ上がった。
 「貴女は今、そう云われましたか」
何らかの不穏を低く隠した含みのある、ものの云いようだった。
シュディリスはエステラを真正面にとらえた。
 「貴女のお名を、もう一度おききしてもよろしいですか」
 「エステラです」
 「端的にお答え下さい。貴女はミケラン卿の」
 「長年世話になっている、友人です」
意味が通じない相手でもあるまい。
そしてエステラにも、これだけは分かった。
自分は失敗した。
ユスキュダルの巫女の誘拐疑惑がうやむやのうちにも
晴れた以上、ミケラン卿とシュディリス・フラワンの間には
何の問題もないのだと、勝手にそう思い込んでいた。
しかしどう見ても、そう、どう見ても、眼前の若い騎士は、ミケラン卿に
対して並々ならぬ敵意と反感を抱いている。
それも当たり前なのだ、ということに、今さらながらエステラは思い至った。
巫女を奪い、監禁しているという一点のみを取り上げても、ミケランは
万死に値する。巫女に対して振るわれたこの暴力行為を看過する
騎士はこの世にいない。である以上、竜の血を持つこの青年にとっては
ミケランも、ミケランの愛人であるエステラも、同等の憎悪対象であり、
ばっさり斬られても文句はいえない。騎士ではないエステラには
想像もつかぬところで、ミケランは深く、熱く、問答無用で憎まれていると
いうことに思い至らなかったとは、迂闊であった。
エステラの胸に冷たい汗が流れた。
が、エステラは青年の視線を正面から受け止めて、もう一度云った。
 「わたくしはミケラン卿の愛人です。世間でもそう云われております。
  恥じてはおりません」
 「誰も責めてはおりません。そうなのかと思ったまでです」
シュディリスは角燈の灯を掲げ、エステラの美しい顔を照らした。
エステラは嫣然と微笑んでみせた。
 「それで。わたくしが巫女を奪い去ったミケラン卿の愛人だと
  お分かりになったところで、いったいどうなさるおつもりですの」
 「どうもしません。巫女の許へ案内していただきたいだけです」
 「それでは、参りましょう。騎士でないわたくしにはとんと分からぬ話ですが、
  ミケラン様は、星の騎士がこの地に集まることを、ずっと以前から
  予期していらしたようです」
エステラの脳裏に騎士の札遊びの絵柄が散漫に浮かんだ。
巫女の霊声は星の騎士を選んで届くという逸話を、エステラも知っていた。
シュディリスはエステラの肩を掴んだ。
 「なんでしょう。シュディリス様」
 「道順さえ分かればいい。貴女こそ外に出ては身が危ないのでは」
 「そんなこと」
今度のエステラは心からの気丈な笑顔をのぞかせた。
 「少々のとばっちりを怖れては、ミケラン・レイズン卿の愛人はつとまりませんわ。
  ミケラン様は西の砦におられますの。でもひどいわ、シュディリス様を
  西の砦にまでお連れする方法については、教えて下さらなかった。
  わたくしが知恵を絞らなければなりませんわね」
憤慨半分、仕方がない男への許容半分、愛らしくエステラは笑ってみせた。
シュディリスはエステラを見つめ、少しの間、黙っていた。
そして彼はエステラが止める間もなく、地下階段の先刻しめた蓋を開け、
 「ロゼッタ」
と短く下に向かって呼んだ。
すぐに応えがあり、軽やかな足取りで、剣の光をひらめかせながら
階段を駈け上がってくる者がいた。
シュディリスはロゼッタの手をとって酒蔵に引っ張りあげると、エステラに
引き合わせた。
 「イオウ家のロゼッタ嬢です。ロゼッタ、この方を護衛するよう」
ロゼッタと呼ばれる黒髪の娘は、「はい」と小気味よくシュディリスに返し、
エステラにきちんと会釈した。
 「下の様子は」
 「なにぶんにも狭い為、一人ずつしか石棺の間を抜けれません。
  あの二人の騎士、見上げた剣豪。マリリフト殿とサンドライト殿を相手どり、
  すでに手負いの身となりながらも、一歩も退かぬ構えです。私は彼らの
  横合いを走り抜けて階段に辿り着きました」
 「あの……」
出来ればあの方たちを殺さないで、と云いさしたエステラは、
シュディリスとロゼッタの険しい眼光に、それ以上は何も云えなかった。
彼ら二人は特異な気を全身から放っており、騎士ではないエステラには
そこだけが鮮烈な別の色、闇に燃えるほむらに見えるほどだった。
やがて、サンドライトとマリリフトが階段を上がって来た。他数名が
その後に続いた。二人の剣士の冥福を祈って、苦しく眼を閉じ、知る限りの
祈りの文句を胸の中で唱えているエステラをよそに、サンドライトは
意気込んで云った。
 「マリリフト殿によれば、西の丸の背面は未開の森だそうです。
  そちらに突破口がひらけぬか、また、西の砦の全体像をうかがいに、
  わたしが偵察してきます」
 「サンドライト殿、もう一人連れて行ったほうがよい」
 「では、ロゼッタ嬢を」
渋々、サンドライトは一同の中からロゼッタを連れに選んだ。
 「なんでも、木の根や枝葉が絡み合った、すさまじき森だそうですから」
小柄な者がいるほうが便利がよい。
無言でロゼッタは頷き、そして彼らは仲間をそこに残して
酒蔵の階段を昇りはじめた。


頭上を覆ううっそうとした木々の蔽いがようやく開けてきたあたりで
夜明けをしのんで来たサンドライトとロゼッタは脚を止めた。
 「……年代物ですが、堅牢な造りですね」
 「やはり森からの侵入は無理のようだな」
ロゼッタとサンドライトは身を低くして、潅木の陰から西の砦をうかがった。
湿った草土の匂いが身を伏せている二人の鼻腔を掠め、朝空に飛び立つ
鳥の影が視界を暗くした。
 「おい、見ろ」
サンドライトがロゼッタのわき腹を小突いて、砦の屋上近くを指し示した。
露台に男が出ているのが遠くに見えた。
サンドライトは声を潜めてロゼッタの小さな耳に囁いた。
 「----ミケラン・レイズンだ」
 「そのようですね。サンドライト殿は、どうして彼だとお分かりです」
 「俺がレイズン領の国境砦にはぐれ騎士たちと共に囚われていた時、
  視察に来たミケラン卿の姿を見たことがある」
拳を握り締め、ぎらりとサンドライトは眼を怖くさせた。
 「ここに剛弓でもあれば、奴をあの高みから射落してやるのだが」
 「サンドライト殿、様子は分かったことです。見つからぬうちに戻りましょう」
 「待て」
今度のサンドライトの声音には、ただならぬものがあった。
サンドライトが注視しているものを追って横を向いたロゼッタは、
あやうく悲鳴を上げかけた。
酒蔵に残っているはずのシュディリスが、いつの間に出てきたのか
少し離れた森の中に立っていて、彼らの処からは見えない何かを
朝霧を透かして狂おしく凝視しているところだった。
ロゼッタは口の動きと手真似でシュディリスに身を伏せるようにと求めた。
 「シュディリス様、歩哨に見つかります。頭をお下げ下さい」
露草を膝で踏むようにして、ロゼッタはシュディリスの許ににじり寄った。
シュディリスは氷像のように突っ立ったまま、ただ事ではない気配を
全身から滲ませて、顔を上げていた。
 「天守の兵に見つかります。身をお下げ下さい」
ロゼッタは彼が小さく、「まさか」と息を呑むのを聴いた。と思った時には、
像が動き、シュディリスは緑の森を飛び出して、何を見たものか、若獣のごとく
砦に向かって走り出していた。
 「あ、シュディリス様」
 「ロゼッタ、お止めしろ」
サンドライトに怒鳴られるまでもない。ロゼッタはシュディリスの背中を追った。
あちらの方が足が速い。走りながらロゼッタは途中で命の次に大事な赤剣を
地に投げ捨てた。
シュディリスが叫んだ。
 「リリティス!」
絡み合う根を跳び越えて、ロゼッタはその跡を追いかけた。
やがて全体が見えてきた西の丸を見て、ロゼッタも眼を見開いた。
ミケラン・レイズン卿が、高所の露台から女を振り落とそうとしている。
 「リリティス!」
 「シュディリス様、あぶない」
彼らの足許に、砦から放たれた矢が突き刺さった。
ロゼッタは全身でぶつかるようにしてシュディリスの背に抱きついた。
 「伏せて下さい」
 「リリティス!」
シュディリスは、まるで錯乱したかのようだった。
一人では無理とみて、ロゼッタは助力を求めてサンドライトを呼んだ。
リリティス。
彼の妹、そしてユスタスの姉である、リリティス・フラワン嬢のことだろうか。
エクテマスと決闘して傷を負い、国許に戻される途中、街道でやさしい声を
かけてくれた、あの方のことだろうか。
 (まさか。どうして)
脳裏に鳴り響く、その疑問の連打も、次の弓の音で消し飛んだ。
 「森にお戻りを」
腰にしがみついたロゼッタは転がされて、地を引きずられた。
 「シュディリス様。落ち着かれて」
 「リリティス!」
その叫びに応えて、今にも風に吹き消えそうな、若い娘の悲鳴が地上に届いた。
 「兄さん、シュディリス兄さん!」
黒鷲が小鳥を鷲掴みにするように、ミケラン・レイズンはリリティスを捕らえ、
次の獲物を吟味するかのように、地上にいる彼らを見ていた。
 「逃げて。兄さん」
風が吹いた。
名を呼び続ける兄に、リリティスはもう応えることが出来なかった。
落ちてくる妹を受け止めようとするかのように、下で両腕を広げている
若騎士は、狂おしい声をふり絞りながら、矢の嵐の向こう側にいた。
ミケランは彼を眺めた。
彼は、よく通る低い声で下にいる騎士に呼びかけた。
 「妹を助けたいかね」
 「ミケラン・レイズン」
因縁の男二人は、地上と空に分かれて睨み合った。
ミケランは両手でリリティスの片腕をしっかりと掴み、リリティスを空中に
投げ出すことも、露台に引き上げることも出来る態勢のまま、蒼い顔をして
こちらを睨み上げている銀髪の青年に、再会した友人を見るような、
懐かしげな眼を向けた。
 (よろしく、翡翠です)
 (ルビリア、逃げろ!)
夜に揺れる記憶の炎が嗤っていた。
若き日のミケランをめらめらと照らし、達成も栄光も、所詮はそこで満足してしまう
愚か者のものであると、青い眸で冷や水をかけて告げていた。
大事を果たして得意げになっている黒髪の若騎士に、彼が内省的であるがゆえに
これから待ち受けるであろう呪い、その長い長い、虚ろの始まりを、あの夜の
劫火が呪詛の歓喜に踊り狂いながら祝っていた。
 (わたしは剣を持たない。使えるけどね。カルタラグンの血はとても強いのだよ)
 「ミケラン・レイズン!」
地上にいる星の騎士を視野に捕らえ、ミケランはリリティスの腕を掴んでいる
手に力をこめた。強い力がリリティスを引き上げた。露台に降ろされたリリティスは
呼び込まれた兵によって捕らえられ、ミケランと共に、砦の中へと姿を消した。
 「ミケラン!」
シュディリスたち目掛けて雨のように矢が降ってきた。
 「ミケラン。リリティス!」
 「シュディリス様、一旦引き上げましょう」
サンドライトとロゼッタはシュディリスを庇いながら、森へと退避した。


 「ミケラン・レイズンを討伐します」
リリティスが西の丸に捕らえられた報を受け、誰よりも早くそれを
口にしたのは、それまでミケランを庇っていたソラムダリヤだった。
 「ヴィスタの都におわす皇帝陛下にはいそぎ使者を出していますが、
  ことは巫女の御命にかかわる大事。ミケランが失調、または状況判断力を
  欠いたと見做し、わたしの判断で強行手段にでたいと思います。
  異論は」
会議の席に居並んだ者たちから反対の声はなかった。
この場に臨んだ皇太子の顔には、苦渋の決断を下した責任と、罪悪感、
それを上回る重責への緊張が浮かんでいたが、一言一言を熟考をした上で
ひどく慎重に云う性格もあって、彼自身は意識せずとも、それはかえって
聞き手に傾聴を促す、一種の重みと威厳をつくっていた。
ソラムダリヤがこの両日、深く悩み、そして可能な限りことを荒立てることなく
解決に導こうと、誰よりも骨を折っていたことを知らぬ者はいなかった。
「もどかしい」と批難されても仕方ないほどに、彼は順を追ってミケランの
説得と、和の道を探していたのであり、不意打ちに次ぐ不意打ちを受けても
乱れず慌てず、人のせいにせず、じっと受け止めて答えを探す皇太子の姿は、
それまで父陛下に環をかけたお坊ちゃん育ち、悪く言えばぼんくらと
看做していた者たちの心象を、一変させるだけのものがあった。
個性と気性の突出した気の荒い偏屈者の騎士たちを常日頃から
まとめ上げている点の辛いフェララのモルジタン侯などからしても、頼もしく
映るほどに、ソラムダリヤは地に足のついた実務能力でここまでの事を
さばいていた。
しかしながら、それらをことごとく撥ね付けて、故意に最悪の方向へと向かう
かつての師は、まだ足りぬとでもいうかのように、この朝、リリティスまでも
取り込んでしまったのだ。
このことを誰よりも歓んだのは、ジレオン・ヴィル・レイズンであった。
ソラムダリヤの懸想相手、未来のヴィスタチヤ皇后であるフラワン家のご令嬢を
ミケランが攫ってのけたとは、願ったり叶ったり。
ジレオンにとっての最大の障壁は、次代皇帝ソラムダリヤがあの手この手の
讒言にもびくともせずに、ミケランを擁護していたことに尽きる。
鉄壁とみえた皇太子のミケラン贔屓も、皇太子の意中の姫リリティス・フラワン嬢を
不敵にもミケランが人質にしたことで、これでようやくにしてひび割れたのであるから、
ジレオンにしてみれば、祝杯か凱歌でも上げたい晴れ気分であった。
 「これにて、ミケラン・レイズンは極悪人の烙印を自らの額に押したのです。
  お任せ下さい。必ずやリリティス嬢を救い出してみせましょう」
そんな豪語にも気合が入ろうもので、ジレオンは青と黒と銀のレイズン軍
大将装束も華やかに、誰よりも張り切っていた。
一方、
 「クローバ殿」
機の到来に満足げな笑みを口の端に浮かべているジレオンとは対照的に、
クローバは、俯き加減に、むっつりと黙り込んでいた。
 「クローバ?」
クローバは睨むようにして見つめていた長卓の一点から眼を上げた。
天井から吊り下がった燭台の影が、天窓からの光を受けて、楕円形の環を
卓の上に投げかけていた。
ソラムダリヤがクローバの方を向いた。
 「ミケラン討伐において、ハイロウリーンとジュシュベンダ、どちらかの
  軍の力を借りたいと思っています」
無言でクローバは頭を下げた。
 「クローバとジレオンには巫女救出の後援に回ってもらい、ミケラン軍には
  ハイロウリーンまたはジュシュベンダ軍をあてるのが妥当かと考えています」
 「私情をおさえられた、ご英断です」
調子よく、ジレオンが合わせた。
二大聖騎士国を逆賊ミケラン討伐に引き込むことで、正義は帝国中に鳴り響く。
またそれが皇太子の勅命によって果たされたとなれば、ミケランの破滅は決定的。
ジレオンに異論のあろうはずもなかった。
 「皇子。二つのうち一つではなく、両軍ではなりませんのか」と一人が云った。
ソラムダリヤは難しい顔で頷いた。
 「そのほうが望ましいのは確かです。しかし、ハイロウリーンと
  ジュシュベンダ軍の足並みを揃えている時間はありません」
皇子の云うとおりだった。
ハイロウリーンとジュシュベンダは、互いに敬意を持って、不干渉の
距離をおいている犬猿の仲。微妙なところで戦闘方法も気質も違い、
どちらがどちらに呑まれる、或いは譲るということも一切しない拮抗した間柄である。
このややこしい情勢に二軍を投入することは、さすがに困難に思われた。
問題は、どちらを選ぶかである。
単なる役割分担にすぎないと言い訳したところで、誰が見ても花形となるのは
攻略組であり、中州のレイズン軍を抑える側は、貧乏くじであろう。
どちらにするかは、皇太子が決めることであった。
 「コスモスを護るお二方にお訊きます。クローバ。ジレオン。ジュシュベンダと
  ハイロウリーンのどちらが適当だと思われますか」
 「ハイロウリーンを」
ジレオンは自信満々にハイロウリーンを推した。ジレオンが事前に得ていた
確認どおり、クローバも、それに追従した。
 「ハイロウリーンを」
 「では、決まりました」
表情を崩さず、ソラムダリヤはそれを認めた。
 「フィブラン・ベンダに使者を出し、正午までには西の丸の攻略を
  開始したいと思います」
 「承知」
ジレオンとクローバは、皇太子に頭を下げた。



「続く]


back next top


Copyright(c) 2009 Shiozaki all rights reserved.