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[ビスカリアの星]■九六.


一足先にコスモス城へ入城していたフィブラン・ベンダ・ハイロウリーンは、
外塁に囲まれた城の中庭で、それを知った。
 「ジュシュベンダ軍の血の気の多い郎党が、我らもミケラン成敗に
  加えよと入城を求めて城門に殺到したようです」
 「そうか」
フィブランは、そのことについては、さほど気に留めなかった。
ジュシュベンダ本陣を偵察させ、本陣は不動であることを確認した
近衛隊長は、
 「あちらの指揮官であるパトロベリ王子は未熟者ですな。問題児とか」
主君への報告に仕方なさそうに笑ってそうつけ加えた。
それに応じるように、歳若いフィブランの近習騎士が、主の下馬に
手をかしながら、軽蔑を隠さぬ声を出した。
 「自軍の兵を束ねることも出来ぬとは」
 「そう云うな」
フィブランは馬の手綱を近習に渡した。
 「ジュシュベンダ軍が全軍挙げて踏み外さなかっただけ上首尾だ。
  パトロベリ王子はさぞかし、恨まれていようがな」
剣の音に、一同は耳を澄ました。
 「フィブラン様。ジュシュベンダ側が剣を抜きましてございます」
 「橋に押し寄せ、わが軍と交戦に入りました。南の連中は野犬か。
  この大事な時に----」
 「構うな。外を護るセルーイトが何とかしてくれよう。彼ならば
  適度な加減で、ジュシュベンダにお仕置きしてくれる。
  後はセルーイトに任せて、我らは皇太子殿下の許にいそぐぞ」
 「こちらです」
待っていたコスモス兵が、案内に立った。
フィブランの楽観を裏切る変事は、その直後に起きた。
わああっという怒声が空を衝いたと思うや、明らかに音の違う剣の音が
混乱を貫くようにしてもち上がったのだ。
ハイロウリーンの首脳陣らは振り向いた。すると、今度は大岩でも砕けるような
ものすごい音が地と城壁を震わせた。
 「はね橋が」
 「橋が傾いたぞ!」
続けざまに大量の人馬が土砂崩れのように外濠へ水没する音がして、
驚愕している人々のもとにも、溺れる者の悲鳴が聴こえてきた。
それは隼のように城に馬ごととび込んだルビリア・タンジェリンの剣勢と、
従騎士エクテマスが、はね橋の綱を断ち切って起こした騒ぎだった。
そこからでは外の様子が見えなかったが、事態はすぐに知れ渡った。
城内詰めのコスモスの城兵がすぐに駈け付けて、ハイロウリーン軍と
協力し、重たい武具ごと水に沈んだ騎士や馬を引き上げにかかっていると
いうことだった。
 「お濠浚いはジュシュベンダにやらせよ!」
かんかんになって、ハイロウリーン近衛隊長は拳を振り上げた。
 「待機を命じられた嫌がらせかこれは。ハイロウリーンの
  邪魔立てもたいがいにせよ。不快であると、誰ぞあちらの
  大将に伝えて来い!」
 「パトロベリ王子が事態収拾の為に到着した模様」
 「遅いわ」
そこへ、ずぶ濡れになった騎士が、具足から水を滴らせた酷いなりで
フィブランの許に導かれてきた。自力で堀から這い上がってきたその騎士は
よく見ると、刀傷を受けていた。
愛馬を水中に見棄ててまでしてフィブランへの報告を優先した騎士の
顔色は、竜の騎士は水を厭うのたとえどおり唇まで青褪めていたが、
それは水に落ちたばかりではなかった。
 「城内にわが軍より逸脱者が侵入。女騎士です。また、橋を打ち壊した
  従騎士ですが、それは」
ごくっと騎士は喉を鳴らした。
 「----待て!」
接近してくる女騎士に、同僚と合図をかわし、左右から馬を横入れさせて
停止を求めたところを、突入者はまったく速度を緩めることなく突っ込んできて、
彼らの頭上を飛び越えた女騎士が向こう側に降り立ってはじめて、彼は斬られて
いることを知ったという。
唖然茫然としているうちに、橋が傾き、馬を立て直す間もなく、彼は水に落ちていた。
 「フィブラン様。軍規を破った女騎士と従騎士ですが、それは」
ぼたぼたと騎士の装束から水が地に落ちた。
 「よい」
難しい顔を崩さぬまま、フィブランは片手をふった。
 「フィブラン様」
 「分かっている。他に誰がいる」
 「ひとまず、フィブラン様はこのまま皇太子殿下の許へ」
近衛騎士団はフィブランを囲んで、城の上庭へと動き出した。
 「ルビリア・タンジェリンとエクテマス王子については、城内にいる
  コスモス、レイズン両軍にも、保護を願い出ましょう」
 「保護という名の捕り物だがな。犠牲が少ないことを祈るばかりだ」
 「フィブラン様は、このことを予期されていたのでは?」
若い近習騎士が独り言のように隣りで洩らした。
タンジェリンの姫はフィブランの寝床にもぐりこむことでハイロウリーン騎士団の
地位を手に入れた、そんな噂をまだ信じているような尖った声だった。
 「こうなることを願われていたのではないのですか。
  ルビリア殿に、仇をとらせてやりたいとお望みなのでは」
返事はなかった。
フィブランの眼は、そこからは少し離れた、棟と棟とを繋ぐ二階の
渡り廊下に向いていた。剣を手にした、身分賤しからぬ茶髪の若者が、
東から西へと、突風のように渡り廊下を突っ切って過ぎるところだった。
 (フラワン家の……)
それを見て、フィブランは少し眼をほそめたが、何も云わなかった。
 「ハイロウリーン軍総大将フィブラン・ベンダ・ハイロウリーン様」
 「行こう」
白と金の装束がふたたび動き出した。
フィブランは大股に歩をはこび、皇太子の待つ城の中へと入っていった。

フィブランが見かけたのは、まさしくユスタスだった。
 「ユスタス様」
 「グラナンは付いて来るな!」
グラナン・バラスはまだジュシュベンダ軍に籍がある。
フラワン家は中立にして、特定の騎士国を贔屓にすることがあってはならない。
 「では、わたしはジュシュベンダの軍籍をこの場で捨てます」
 「君のところのパトロベリ王子に頼むんだね。下に来てるそうだから」
 「そんな」
 「後で会おう、グラナン。互いに武運があったらね」
どなり返して、ユスタスはグラナンを振り切った。
叙任式と同様、騎士の除隊にも、王族または高位騎士以上の認めがいる。
正式な手順を踏まないと、その騎士の履歴には傷がつくのだ。
迷いに迷った末に、グラナンはパトロベリ王子がいるという城門に向かった。

 「表でハイロウリーンとジュシュベンダが小衝突だそうだ」
 「一番乗り争いとは醜い」

ユスタスが駆け抜けた回廊の、さらに建物を隔てた奥の回廊では、レイズンの
下級兵士が盾と槍を並べて談笑していた。
低く笑う余裕すらあるのは、対ミケランに対する圧倒的優位への安心が
含まれていた。帝国最強と謳われるハイロウリーンを招いての、此度の砦攻め。
勝敗は眼に見えており、その際にはレイズン兵の彼らも褒賞にあずかれる、しかも
現場に出るのはハイロウリーンで、こちらは無傷のまま傍観できるとあっては、
藝術の国ナナセラに次ぐ文弱のレイズンの、さらに西の砦も見えぬ位置に
配置された下位の兵士たちとしては、ただ時が過ぎるのを待っていれば
よいだけなのであった。
が、そんな彼らの気のゆるみは、不穏な気配に破られた。
 「こっちに来るのか?」
城の酒蔵から城内侵入者があったという報を受けた後であった。
レイズン兵は前方に現れた二影に向けて盾を構えた。
 「止まれ」「何者か」
誰何に応える声はなかった。
 「止まれ。この先は通行止めだ。騎士らよ、剣を棄てよ。
  止まらぬと、ジレオン・ヴィル・レイズン閣下の命により武力行使にて
  そこもとらを捕縛する」
先頭に出た隊長の叫びは、瞬く間に剣風の中に消え去った。
 「うわッ」
 「防御を崩すな」
迫り来る騎士たちの手から飛んだ剣の光が、雪嵐のように廊下に影をひいた。
一つは、赤かった。
 「ロゼッタ、二手に分かれるぞ」
 「サンドライト殿」
一度背中合わせになったサンドライトとロゼッタは、呼吸を合わせ、
同時にとび出した。
一刻のち、封鎖線を突破して合流したサンドライトとロゼッタは息を切らしながら、
手近の小部屋にすべり込んだ。
扉に内鍵を下ろしたロゼッタは、声を絞り出した。
 「シュディリス様は、こちらの道でもなかった……!」
 「女と一緒のはずだ。何処へ行かれたのだ」
息をつく間もなかった。扉が打ち壊され始めた。 
サンドライトとロゼッタは窓を押し開いて、兵が室内に踏み込んでくる前に
庭に逃げていった。

  
地下の酒蔵から侵入してきた賊に対して、城内守護にあたるコスモスと
レイズンは、通路という通路に兵を配置することで防御網を築いた。
それに対して、ハイロウリーンは西の砦の前に布陣。
 「皇太子殿下」
白と金の装束が、ソラムダリヤの前に進み出た。
 「わが軍、逆賊ミケランが立て篭もりたる西の丸前に展開を
  終えましてございます」
 「ご苦労。フィブラン。難しいか」
 「ハイロウリーンが落とせなかった城はありません。安んじて、
  我らにお任せ下さい」
フィブラン・ベンダとソラムダリヤは、喩えるなら肉食獣と
草食獣ほどに隔たった気性をもっていたが、勤勉で誠実で、
性格に曇りなく、卑劣なことを好まぬという一点で、すぐに互いを
信頼することができた。
それには、温和で敵をつくらぬソラムダリヤの性格もあれば、人間の真価を
見誤らないフィブランの慧眼もあり、両者は風通しのよい相互理解のうちに
作戦会議を無理なく終えた。
その会議の場に、フィブランはジレオンとクローバの退出を求めた。
 「当然でしょうね。行きましょう、クローバ殿」
なれなれしく、ジレオンはソラムダリヤに見えるようにクローバの腕に
手をかけ、親しいふりを見せつけた。
 「ハイロウリーン秘伝の攻略技術など、他国人である我々には
  教えたくないでしょうからね。こうして連合してみても、根は信用しない。
  それでいい。我ら騎士国は相互監視の関係にあるべきです」
 「殿下」
 「なんでしょう。フィブラン」
人払いをして二人きりとなった会議室にも、外の騒ぎが届いていたが、
フィブランとソラムダリヤは先刻からそれをずっと無視していた。

 ----侵入者は高位騎士。各位に伝える。侵入者は高位騎士。警戒せよ。
 ----酒蔵から城内に上がりたる郎党とは別。連携しておらぬと思われる。
 ----馬で突破されました。ハイロウリーンの女騎士だ!

 「此度のこと、かたちだけでも主要騎士国が参戦したほうがいいと
  考えております」
フィブランは頑健な顔を俯けて、コスモスの地図に手をおいた。
その挙動の逐一には、いかにも武官らしい、惚れ惚れするような気品と重厚さが
具わっており、ジレオンとは違って騎士の血に憧れたことなどついぞない
ソラムダリヤですら、しみじみと見惚れるほどであった。
 「サザンカには街中の橋を、オーガススィには主幹道を、そして
  三ツ星騎士国のフェララとナナセラの両国には、城裏面の塁を、それぞれ
  規定数の兵を供出させて、クローバ殿指揮下のコスモス軍と合流させます」
 「では、その準備が整いしだい、砦攻略を開始するよう」
 「御意」
ソラムダリヤは沈痛な面持ちで、地図を見つめた。
 「犠牲は最小限に。といっても、そなた達には通じぬでしょうが。
  ミケランに率いられたる分家の郎党とて、彼らは皆、誤った指導者に
  率いられただけにすぎぬのです。血に酔うことなきように」
 「ハイロウリーンの騎士は猛犬揃いではありますが、飼いならされております」
 「フィブラン」
 「は」
 「……なんでもない」
暗い顔をして横を向いた若き皇太子に、フィブランは歩み寄った。
男の大きな手がソラムダリヤの手を上から包んだ。
 「殿下。責任をお感じになる必要はありません」
 「わかりますか」
 「殿下の御心には慈悲が満ちておられます。わたしの尊敬するものの一つです」
 「ミケランも、そちの将であるルビリア・タンジェリンにも、双方に責任を感じます。
  そしてルビリアの従騎士にして、そなたの子である、ハイロウリーンの王子にも。
  わたしが気を配っていれば、事前に防げたことが多くあるはずなのです」
一体、何を見ていたのだろう。
クローバの復位と新領地の安堵、縁談についてミケランと相談し、駒将棋を
した時にも、その兆候はあったはずだ。
 (わたしはそれに気がつかなかった。それにリリティスまで)
生真面目な性格そのままに、ソラムダリヤの懊悩は深かった。
囚われたリリティスにもし何かあったらと思うと、こうして手厚く
警護されていることがいたたまれない思いすらする。
 「ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ殿下」
青年の想念をあえて断ち切るきびきびとした所作で、フィブランは
音を立てて地図を片寄せた。
 「過度に感傷的になることが、さらなる混乱と悲劇を
  呼び込む場合もございます。僭越ながら、今がその時かと」
 「そうだ。そうですね」
 「愚息についても、女騎士のことについても、一切の責任はこの身に。
  ハイロウリーン騎士は飼いならされておりますが、
  手綱を自ら咬み切って出てゆく者もいる。それだけのことにございます」
 「……」
 「お疲れですか。何をお笑いです」
 「いや。貴方や、ジュシュベンダを治めるイルタル・アルバレスの眼からみた
  ジュピタ皇家など、わたしなど、赤子のように脆弱な、腰抜けにしか
  見えぬのだろうね。そう思って」
 「わたしには七人の息子がおりますが」
フィブランは、ちょうど五男のインカタビアと同年の皇子を眺め遣った。
 「騎士の血を受けた彼らとは違う、温情と優しさという得がたい
  強さを、殿下はお持ちです。次代の帝国を担われる御方よ。
  調和と友愛なきところに、ヴィスタチヤ帝国もありません。騎士国の
  頂きにあるのは、騎士であってはならない。
  逸脱したカルタラグン家が、破滅をもって、それを示したように」
 「ミケラン・レイズンは、罪人ですか」
額に指をあてて、ソラムダリヤは見えないところで、はらりと涙した。
 「ゾウゲネス父陛下に尽力し、ジュピタ家に皇位を取り戻してくれた
  あの者は、罪人ですか。彼に教えを受けたから云うのではありません。
  こうなってもまだ、わたしにはミケランが悪にも、敵にも思えない」
 「ならば、殿下だけでもそうお考えになることです」
 「つまらぬことで引き止めてすまなかった。もう行って下さい」
 「罪を犯さずに生きる者など、この世にはおりません。ただの一人も」
フィブランは共感も示さず、諭しもしなかった。
 「逆賊ミケランよりも、百倍悪心をもった奸臣が宮廷の中枢にいようとも、
  できることは私心を殺して、よりよいと思うことを選ぶだけです」
 「……ミケランも、同じように云うでしょうね」
疲労の濃く滲む疲れた目をして、ソラムダリヤは苦く笑った。
 「あなたやジレオンやクローバが行うことは、立場が逆ならば、ミケランも
  迷わず行うことなのだ」
涙を拭ったソラムダリヤに、フィブラン・ベンダはいかつく首を振った。
 「いえ。わたしはミケランのような、高邁にして愚者の理想は追ってはおりません」
「御前失礼」、一礼すると、フィブランは退出して行った。
王である、ということは、待つということだ。
ソラムダリヤは黙然と、窓の向こうの西の丸を見上げた。


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クローバ・コスモス!
懇願の叫びが城壁を越えて城内にも伝わってきた。
 「クローバ・コスモス!」
ジュシュベンダ王子パトロベリのその呼びかけに、クローバは
剣を取ると立ち上がった。
 「クローバ様」
従騎士ビナスティは、クローバの腕に触れることすら出来なかった。
ぞくぞくっとビナスティはふるえた。高位騎士同士の戦いほど、無残で、
残酷で、そして全ての騎士から燦然と仰がれるものはない。
ビナスティはそれを知らず、そして見たいとも思わなかった。
クローバ・コスモスの全身からは、触れれば切れそうな、騎士の闘志が
ゆらりと鬼火のごとくに立ち昇っていた。
 (この城に満ちる、この気。この雄たけびを)
残されたビナスティはわななく唇に片手をあてて、叫びそうに
なるのを堪えた。
 (どうか巫女さま。お聴き届けになって下さい。そして彼らを止めて下さい)
ビナスティはクローバが去った歩廊の奥を見詰め続けた。
高位騎士の戦い。それは、無冠の騎士ごときが高みの見物をきめこんで
見守ってよいようなものではない。
古くは、邪魔者の入らぬ山岳や、森の奥でひそかに行われたものだった。
そしてそこから生還する騎士は、ロゼッタがそうだったように、たいていは
酷い傷を負っており、しばしば、誰も帰っては来なかった。
 (それでも、いいから)
誰にも止められないのなら。
 ----私は、クローバ様を護る従騎士なのだから。
誓いの剣を握り締めると、ビナスティ・コートクレールは、クローバのあとを追った。

古代の小城に増築と改築を重ねてきたコスモス城は、初めて足を
踏み入れる者にとっては、迷路であった。
西の砦を目指して進路をとったつもりでも、大きく迂回を余儀なくされる。
急勾配の階段を上がったり下がったり、行き止まりに引き返し、開かずの間が
あるかと思えば、歩き続けるうちに、もう使われていない苔生した
井戸端に出たりする。
さらには城の敷地を横断して流れている小川へと歩廊の果てが
途切れていることすらあるときては、見取り図か、城内に詳しい者の
案内が不可欠であった。
ルビリア・タンジェリンは、最初からそのような面倒な経路を黙殺した。
コスモス城に潜入を果たした女騎士は建物の中には入らず、城壁に
沿って馬をとばし、兵を蹴散らしながら、視界に聳える西の塔を目標とした。
 「侵入者ーッ」
 「ハイロウリーンの女騎士です」
 「高位騎士だぞ!」
ハイロウリーンの高位女騎士。
それが誰を指すのか、知らぬ者はいなかった。
行く手に庭の壁が聳えた。そこからは、馬では進めなかった。
 「ひーっ」
槍を構えて待ち受けるコスモス城護兵の前で、女騎士は髪を鮮やかに
ひるがえして馬からとび降りた。降り切ったと見るや、身を低めて地を蹴り、
兵士たちの視界からかき消えるようにして、女騎士ルビリア・タンジェリンは
猛然と走り出した。
 「うわあっ」
ほとんどの兵には、ルビリアの剣が見えなかった。過ぎる風に血が舞った。
待ち構える兵を、前方に立ちふさがる者を、ルビリアは真正面から斬り倒した。
追撃がないのは、主の後を追うエクテマスが後方を防ぎきっているからだ。
 「皇太子殿下より。侵入者接近中。各位に申し渡す。
  ハイロウリーンの女騎士には投降を促し、
  これより先には入らせず、生かして捕らえよとのこと」
 「出来るかァ!」
 「伝、レイズン軍総大将ジレオン閣下より」
早馬が続々と城の中を駆け回って現場に触れを出して回った。
西の砦に向かうにはそこを通らねばならぬ第一回廊には、列柱回廊の
左右にびっしりとコスモス、及び、レイズン兵が詰めていた。
 「女騎士の生死は問わぬ。が、従騎士の若騎士は可能な限り手篤く保護せよ」
 「保護せよ?」
 「ハイロウリーン家の六男、エクテマス王子のことである。
  が、諸兄ら無理はするな。敵う相手ではない」
高位騎士とは、下級の者たちにとっては、脅威そのものである。
新兵たちの中には、降ってわいた難事に、一突きすれば気絶して
倒れるのではないかと思われるほどに、顔が引き攣っている者もいた。
騎士道の礼節として、弓矢や火器は極力つかえぬ時代のことである。
そこへ、
 「来た」
柱の蔭から、ゆっくりと女騎士が現れた。
指揮官は盾の上から顔を出して、歩いてくる女騎士に呼びかけた。
 「ハイロウリーンのルビリア・タンジェリン殿とお見受けいたす」
光と影の落ちる吹き抜けの廊下に、庭の照り返しを受けて、一輪の花が咲いた。
鬼が来る、と誰かが呟いた。
 「お止まりあれ」
指揮官の声は枯れた。
 「無益な戦いは避け、どうか、お止まりあれ」
兵士たちは、赤く燃える炎を見た。記憶の井戸の底にある、天地を焦がす
日没よりも赤く燃え、揺らめいて暗くかがやく、地上の星を見た。
女騎士は解き放たれた竜の本能と、狂気に眸をきらきらとさせて、あどけなく
微笑んでいた。どうして邪魔をする者がいるの、と不可解げに。女は笑っていた。
やがて半眼になった女騎士は、優美な動きで剣を構え、身を沈めた。
兵士たちが待ち構えている、剣の海へと。
柱という柱に血が飛び散ったのは、瞬く間のことだった。
 「うわあああっ」
 「わああっ」
 「そこまでだ」
乱闘はぷつりとそこで、糸が切れるように中断した。
 「----そこまでだ。ルビリア・タンジェリン」
よく響く低い声に、廊下の床に崩れ落ちていた兵も這いずって
道をあけ、その騎士を通した。
 「クローバ様」
 「クローバ様……」
クローバはルビリアの背に向かって歩いてきた。女騎士は振り返った。
天蓋に跳ね上がった血がぬるい雨のように落ちてきた。
一輪の赤い花が、戦場にぽつんと取り残されて咲いていた。
クローバは眼を眇めた。
亡妻フィリアの面影を女騎士の上に探し、確かめるように。
両者の手には、すでに抜き放たれた剣がさげられていた。
 「騎士クローバ……」
居合わせた男たちの背筋が冷たくなった。
痺れたように彼らはこれから眼前で展開しようとしていることを、耳鳴りが
するような冷たい恐怖とともに、眼に焼き付けた。
クローバ・コスモス。
ルビリア・タンジェリン。
彼らはどちらもその祖に初代の竜騎士を持つ、七つの奇跡をその血潮に
受け継いできた、騎士の中の聖騎士だった。
 「----この城は、俺の城でもなく、こいつらは、俺の兵でもない」
クローバ様、と傷ついたコスモス兵がクローバの名を呼んだ。
 「俺はコスモスの領主ではない。だが、帝国皇太子殿下より
  大命をあずかった騎士である。ルビリア・タンジェリン」
クローバは女騎士に、投降を求めもしなかった。
しばし迷うように、クローバはうつむき、青光りする剣の影に眼をあてていた。
悲劇のタンジェリン四姉妹のうち、上の三名がタンジェリン殲滅戦の犠牲となった。
タンジェリンがそうやって露のごとく潰えるには、あの無慈悲な政変があった。
カルタラグン王朝に上がっていた末のルビリア姫だけが命ながらえて
騎士となり、辛苦の歳月を経て、こうして姉たちの仇を討とうとしている。
フィリアの仇を討とうとしている。
顔を上げた時には、クローバの雑念は消えていた。
 「ルビリア」
フィリア。
お前の夫は、これより人でなしを極める。
 「恨むなら俺を恨め。ハイロウリーンの騎士にして、聖タンジェリンの姫騎士よ」
その称号に、対峙する女騎士は、晴れやかに微笑んだ。

 「うわ……」
手すりから身を乗り出したユスタスは、声にならぬ叫びを上げて
急遽西の砦へ向かう道をそれ、下階の列柱回廊に続く小階段を
三段とばしに駆け下りた。
先刻から方々で巻き起こっている異常な騒ぎに混じって響く一つの名を
ユスタスはひやりとする思いで聴いていたが、下で起こっているあの闘い、
あれが、まさにそれに違いない。
 (止めないと。あの人を)
あの人とは、クローバか。ルビリアか。
どちらにせよ、そんなことは不可能であることは、百も承知だった。
回廊を駆け抜けるユスタスは、目指す前方でこれから起こるであろう
闘いの凄みを想像するだけで、全身の竜の血がぴりぴりと振動するのを
覚えるほどだった。
火炎にまかれるのと同じように、彼の眼には涙まで滲んできた。
 (泣き虫のリリティス姉さんのことは云えないや。僕は、哀しい)
走りながらユスタスは手の甲で涙を拭った。
脳裏にトレスピアノでの兄が、彼らの幼年の頃からの想い出が次々と浮かんだ。
シュディリスは窓辺に立ち、父と母、そしてリリティスと何かを笑いあっていた。

 (僕は哀しい。こんなかたちで、あの人に逢いたくなかった)

闘いの場に割って入ろうとしたユスタスは、もう少しというところで、
柱の蔭からぬっと現れた騎士に行く手をふさがれた。
白と金の装束。
剣そのもののような切れ長の眼が、ユスタスを鋭く見つめてきた。
 「エクテマス……」
エクテマスは、ユスタスの視界を閉ざすように、ゆっくりと柱の影を
踏んで近づいてきた。
エクテマスは主のルビリアとはまた違う、異端の笑みをその唇に薄く浮かべ、
ようやく見つけた獲物でもなければ、再会した知人でもない、そこに
少しはおもしろそうな物があるといった好奇心を眼の奥にきらりとのぞかせて、
ユスタスに近づいて来た。
 「……」
この男がロゼッタをという、生涯拭えぬ男の怒りがユスタスの裡に
ふたたび渦巻いた。
 「邪魔をするな」
二人の騎士は、同時に口を開いた。
 「僕を通せ、エクテマス」
 「何の用で」
エクテマスは、剣先を下から上へと、ユスタスの胸の位置まで上げた。
剣の先にあるエクテマスの貌は、氷像もかくやというほどに怜悧であり、
感情らしいものもなかった。
ユスタスはエクテマスを睨み付けた。てっきり、ルビリアの監視役として
ルビリアの傍にいると思っていた王子だった。その王子が、共に軍規を破り、
鳥を追う猟犬のようにしてルビリアを追い立て、追い込んでいるとしか
ユスタスには思えなかった。
 「……あの人を、何としても制止するべきだった」
 「なぜ」
エクテマスは冷笑を浮かべていた。その冷笑に別の意味を
もたせて、王子はユスタスを見つめ返してきた。挑発にこめられた
淫靡なものをおぼろげに察したユスタスは、臓腑が鉛と変わる想いで
エクテマスを睨み返した。
庭から吹く風に、森の香りが混じり、傷つけられたロゼッタの肌が瞼裏に蘇った。
全身の皮が薄く剥がされるほどの思いで、ユスタスはエクテマスに剣を構えた。
 「エクテマス」
からからに乾いた喉から出た声は、自分のものとも思えなかった。
 「騎士として戦う。だから貴方も、ハイロウリーンの王子ではなく、
  一人の騎士として」
夢の中にいるような視界の揺れは、向こう側で、クローバとルビリアが
伝説の中の闘いのようにして、ついにその剣を合わせたからだった。
下級騎士には、ほぼ不可視である高位騎士の剣の速さを、フラワン家に
代々流れる騎士の血で、ユスタスはそこからでも見分けた。
そして同じ眼で、眼の前の男を。
クローバたちの闘いをユスタスよりも明瞭に追うことが可能ならしき、その眸を。
 (ユスタス様。その男と闘ってはいけない)
ロゼッタが倒れ伏していた。森の木々が葉を散らし、ユスタスを
暗い森の底に沈めてゆく。そんな幻影をユスタスは見た。
からかい、煽るように、エクテマスがユスタスに顎をしゃくった。
寡黙な王子の挑発を振り払うように、ユスタスは顔の前に剣を立てた。
 「エクテマス。戦って欲しい。僕は、ロゼッタ・デル・イオウ嬢の
  名誉にかけて、貴方に決闘を申し込む」
エクテマスは薄く笑っていた。
ルビリアと、あの赤剣の小娘を比べるなど、笑止千万と。
二人の男は柱で間合いをはかるようにして一度遠ざかり、そして地を蹴った。
一撃を受けたユスタスは膝を崩したものの、後ろに跳んで、力をかわした。
 (……これは)
兄のシュディリスの太刀筋とも違う、凄まじきもの。
未知なる力に、ユスタスの全身が総毛だった。エクテマスの剣が頭上にあった。
ユスタスは両手で剣を握り、それを撥ねのけた。だがすでにエクテマスの
次の手がユスタスをぴたりと追って、剣の道を封じていた。
 「フラワン家の血統。さすがだな」
考える間も、見極める間もない。反射的に動くだけだった。
剣光の向こうに、石のように無機質なエクテマスの眼があった。
人間よりも猛禽に似た、竜のまなこだった。ユスタスも同じだった。
かん高い金属音が列柱回路の天井にはね上がった。


見守っている兵たちは、初回の剣合わせのものすごさに、眼をみひらき、
口を開けたまま、凍りついた。
クローバとルビリアは、すれ違うようにして互いの位置を変えた。
軽くはじいた白刃の重みに、両者は強敵に遭遇した時の昂ぶりと
極限までに絞られた緊張を得て、その眼をほそめた。
彼らは、剣柄を慎重に握りなおした。
 「クローバ様……」
場に駆けつけたビナスティは、ふるえる脚をやっと立たせて、息をのんだ。
ルビリア・タンジェリンは、ビナスティが想像していたよりも、もっとずっと
たおやかで、顔立ちには年齢を超えた、或る種の若さ、カルタラグンの
悲劇の痕跡をいまにとどめる、石像のような動かしがたさがあった。
かみ締められた唇と、女の青い眼が、生命を燃やして宝石のように
輝いているのが、ひどく美しく、そして哀しかった。
 (シュディリス・フラワン)
面影を重ねてふと浮かんだその名を、慌ててビナスティは脳裏から
打ち消した。ビナスティは場所を移動し、あえて通路の奥へと向かった。
もしもクローバが斃された場合、彼の従騎士として、ビナスティは
ルビリアに一太刀なりと浴びせ、クローバの後を追うつもりだった。
ビナスティも、コスモス兵も、成人以後のクローバが誰かに負けるところを
見たことがない。
そのクローバは、ルビリアの苛烈な炎を受け止める巌のようにして、女騎士の
前に立ちふさがり、身じろぎ一つせぬままに、両眼をひたと据えていた。
 「あっぱれなる、コスモスの旧領主」
狂気を帯びているとはとても思えぬ、麗しい女の声音だった。
ルビリアは敵手を褒め称えた。
コスモスの人々は、それからも永らく、その声を忘れることはなかった。
 「私の姉上。フィリア・タンジェリンが、貴兄に逢いたいと泉下でお待ちである」
 「俺には聴こえぬ」
クローバは、視界の端にとらえたビナスティの姿を見ぬままに応えた。
ビナスティは両手を握り締めた。
相手が誰であろうと洗練された粗野ともいうべき態度で接する男が、
ルビリアには最大の敬意をはらっていることが、ビナスティにも分かった。
 「しかし貴女にはそれが聴こえるのだろう、騎士ルビリア。
  罪なくして追われたタンジェリンとカルタラグンの無念の声が」
 「……」
 「聴こえるのだろう。亡霊と親しく睦言を交わしてきた貴女には。
  俺はそのことについては何も云わん。
  哀れとも、好ましくないことだとも、俺ごときが、どうこうしてやろうとも」
天井の窓から、流れる雲の影がクローバの顔に落ちた。
彼とても、妻の自害を見届け、国と冠を失ったことのある男だった。
 「俺は誰とでも、他の人間と同じように接するだけだ。それしかできん。
  ある意味俺もまた、飼いならされた狂人だからだ。
  この先へ行くというのならそうすればいい。俺は、それを止めるだけだ」
 「義兄殿は、とても明瞭で分かりやすい指針をお持ちのご様子。悪くない」
ルビリアは艶やかに微笑んだ。
 「コスモス前領主クローバ・コスモス」
女は剣を構えた。その眸の光は鋭すぎた。女は狂っていた。
 「姉上の手紙の中に書かれていた義兄殿。あの押し花。
  タンジェリンの記憶と共にある。御眼にかかれて光栄だった」
両者の剣圧に、石柱が崩れ落ちたかと思われた。
ルビリアの剣光が飛んだ。岩をも断ち割るクローバの豪腕が津波風を起こした。
それを手で防ぐとでもいうかのようにまっすぐに片手を前に立てたルビリアは、
身を傾けてクローバと擦れ違い、反対側の手に持った剣をその影からすべらせた。
クローバの刃を砕くように、女の剣が火の色を引いて過ぎた。
人の眼には、燃え上がる流星が火花を発して流れすぎたと見えた。
 「騎士さま、お待ちを!」
兵士たちが身動きも出来ずに硬直している中、ビナスティはすぐに
ルビリアの前にとび出した。
 「次は私が相手です」
行く手を阻まれたルビリアは、蟲けらでも見る眼つきで、じろりと
ビナスティを眺め遣った。ビナスティは斃されたクローバの生死の状態も
確認しなかった。
 「帝国皇太子殿下の命により、西の砦にはお通しできません」
 「よせ、ビナスティ」
うずくまったクローバが吼えた。
金髪にかこまれた美しい顔をゆがめ、女騎士は無駄と知りつつも
説得の声を張り上げた。白い額に刻まれた罪人の印の古傷をビナスティは
隠そうとしなかった。
 「どうか思いとどまり、投降されよ。御身の身柄は本城においでのソラムダリヤ
  皇太子殿下があずかります。御身のその姿は、愛する者を不条理に喪った
  人々のもつ、癒えることのない姿であること、殿下も心をいため、よくご存知です」
 「生意気な口をお利きだこと。お嬢さん」
 「ビナスティ。よせ」
ルビリアは進んできた。
よろめきながら立ち上がったクローバのわき腹から、血が滴った。
女騎士は進んできた。
その剣が、草を引きちぎるより簡単に、ビナスティを除けようとした。
ビナスティの視力は、跳ね上がったルビリアの剣の軌跡を辛うじて捉えた。
城の尖塔が傾いていった。ビナスティの視界いっぱいに天井が広がった。
ビナスティは突き飛ばされて柱の蔭に仰向けに倒れており、そして
身体の上には、ビナスティを全身で庇っている若騎士がいた。
 「……痛っ」
はあっ、と若者がビナスティの上で息をついた。
高位騎士の剣は揮われたその速さだけでも、ひと肌を切る。女騎士の剣速に
若者は負傷こそ免れたが、からだの上をやすりが通過したような打撃は受けていた。
 「ユスタス様……!」
茶色の髪がビナスティの頬を掠めた。若者は女の顔の左右に手をついて
身を起こすと、ビナスティを覗き込んだ。
 「間に合った。といっても、ぎりぎりだね。頭打たなかった?」
 「は、はい」
 「こんなところをグラナンに見つかったら殺されるかも」
 「ユスタス様、どうして」
 「あの怖い彼との勝負はお預けになったけど」
無念を滲ませて、ユスタスは回廊を眺め遣った。そこにはもうルビリアの姿はなく、
エクテマスの姿も幾多の負傷兵を転々と廊下に転がして、消えていた。
エクテマスと決闘中のユスタスは、クローバが斃されたのを目端に捉えるなり、
瞬時に全てをなげうち、ビナスティ救出に走ったのだった。
エクテマスは何故かそれを止めなかった。
 「いいや。彼とはいつかそのうち。今回は僕の命が助かったのかも知れないし」
 「ビナスティ」
 「クローバ様!」
ビナスティは手負いのクローバに駆け寄った。
まだ闘志を漂わせているクローバの凄惨な顔つきに、騎士の血が反応した
ビナスティは、炎に打たれたように、とび退きそうになった。
支えようとしたユスタスの手を払いのけ、クローバは手近な柱の土台に凭れた。
ぼたぼたっと血が落ちた。
 「誰か!」ビナスティが衛生兵を求めた。
クローバは荒い息をはき、ユスタスを見上げた。ユスタスは顔を厳しくして問うた。
 「貴方は、わざと女騎士を逃がしたね」
ビナスティがはっとなった。
それに対して、クローバは否定も肯定もしなかった。
クローバはユスタスを仰いだ。
 「星の騎士。古きコスモスにも現れたる者よ」
汗ばんだ男の蒼顔がユスタスにそれを促した。通路の奥からは、さらなる
阿鼻叫喚が不気味に響いてきた。
 「とらわれず、留まらず、流れ去る、流星の方々よ」
行け、とクローバは云っていた。
ユスタスは無言で頷いた。そしてルビリアの後を追った。


「続く]


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