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[ビスカリアの星]■九七.


北方聖騎士家オーガススィの姫君。リィスリ・クロス・オーガススィ。
 「はじめまして、翡翠です」
 「トスカ=タイオ様ははるばる連れて来られた美しい妹御がご自慢のご様子」
 「これは珍しいこと、カシニ・フラワン様がリィスリ姫と踊られているわ」
 「さようなら、リィスリ。わたしの氷の姫。倖せに」
 「奥方さま」
 「フラワン家の奥方さま」
----リィスリ・フラワンは、レイズン御用邸の一室で眼を覚ました。
そこがヴィスタの都であると、リィスリ・フラワンが思い出すまでの間、
ジレオンの小姓アヤメと、フェララのルイ・グレダンは、室の片隅に
控えて待っていた。
 「リィスリ様」
 「奥方さま。スウール・ヨホウ医師がじきにおみえですぞ」
 「お仕度を」
小姓のアヤメはロゼッタに斬られた怪我がまだ治っていなかったが、
車椅子を使ってでも用事をはたし、主のジレオンが不在中の御用邸に
不備がないようにと、眼を光らせて気を配っていた。
それを手伝ったのは、ルイだった。
厨房から運ばれてきたリィスリのための茶を整えている侍女たちに
細かな指示をとばしながら、車椅子の上でアヤメはルイに口を尖らせた。
 「元ハイロウリーン騎士にして高位騎士のルイ・グレダン様の手を
  雑用で煩わせるなど。ルイ様は客人なのですよ。
  あとでわたしがジレオン様に怒られてしまいます」
 「その頃には、フラワン家の奥方ともども、もはやこの屋敷をおいとま
  していることでござろう」
ルイは熊のような身体をはこんで、医師の検診の前に婦人の身支度をする
リィスリとの間に衝立を立てた。
 「スウール医師の許可がおり次第、わしはリィスリ様を抱きかかえてでも
  トレスピアノまでお送りする所存ゆえ。止め立ては無用ですぞ」
 「貴方を止めることが可能な人間など、この屋敷にはいませんよ」
アヤメは、衝立の向こうに声を掛けた。
 「リィスリ様。今朝はご気分がよろしいご様子。なにかよい夢でもご覧でしたか」
ルイとアヤメは、返事を待った。
やがて、貴婦人のかすかな声がそれに応えた。
 「懐かしい夢を。カルタラグン王朝の宮廷で踊った日々のことを。
  ……王宮の屋根の上を歩いて、わたくしに逢いに来てくれた人のことを」
 「屋根の上を歩いて?」
 「忘れることのない、あの若々しい軽口。星の残る薔薇色の朝焼けを
  見せてくれた、その横顔を」
夜這い?
アヤメが口の中で呟いたのを、ルイが大きな手で抑えた。
ルイさま、とリィスリが小さく呼んだ。ここに、とルイが大声で応えた。
 「ルイさま。トレスピアノに、帰りたいですね」
 「もちろんです、奥方さま」
ルイは請合った。
 「必ずお連れいたしますぞ。ご夫君カシニ様の許に」
 「泣いておいでなのですか、リィスリ様」
 「胸に迫る懐かしさは、どちらも同じなのに。悔いの重さだけが、違います」
 「悔いなどと。また胸を病まれますぞ、リィスリ様」
 「想い出したせいですね。辛い想い出のはずなのに、夢の中のあの人は
  いつも昔のままなのです。別れを告げる時も、どうしてと想うほどに、
  きっぱりと明るく送り出してくれました」
窓の外に飛び立つ鳥の影が、春に降る花びらのように、リィスリの前に
頼りなく降っていた。それは懐かしい声になり、花に包まれるような幸福感となり、
故人の微笑みとなり、そしてやはり、淡雪のようにリィスリの白い手の中で
とけて消え、遠い想い出となって光の中に去っていった。

さようなら、リィスリ。倖せに。トレスピアノは遠いね、でもまたいつか。
トレスピアノは遠いね、でもまたいつか-------。


 「あの……」
コスモスを一望するような、見晴らしのいい、屋根の上であった。
エステラはごくりと喉を鳴らした。
 「あの、もしや。シュディリス様。まさかこの上を伝って……」
風も、吹いていた。
おそるおそる真下をのぞいて見て、地上の遠さに眼をそむけた
エステラは、泣き顔になって、外にいるシュディリスを見つめた。
シュディリスは先に窓枠を超えて、雨どいを伝い、壁面を回って
棟と棟を繋ぐ有蓋回廊の屋根の上に降り立てるかどうかを試しており、
それから窓の内側に引っ込んでいるエステラの処にまで戻ってきたが、
高所恐怖症のエステラは、それを見ているだけでも、寿命が縮みそうだった。
階下の窓の張り出しの上に立ったシュディリスは青空を背に、手についた
漆喰を両手から払い落とした。
 「カルタラグンの時代」
 「はい……」
 「今は亡き翡翠皇子が、カルタラグン王宮に滞在していた母のリィスリを
  訪問した際のことです。皇子は通常の挨拶を踏まず、盗賊まがいに
  屋根を伝って母の寝所にしのびこんで来たとか」
 「それは浪漫ある素敵なお話ですわね。ですが、それとこれとは……」
 「高い処は苦手?」
 「見てのとおりですわ」
エステラは悲鳴を上げた。
下を見るだけで身がすくむものを、どうしてそんな冒険ができようか。
シュディリスは真向かいに聳え立っている西の丸との距離を眼視ではかった。
それからエステラを振り返った。ここからあそこまで、歩いてすぐだと
云わんばかりだった。
エステラは顔を引き歪めて無言で首を振った。無理。とても無理。
 「……」
 「……」
小鳥がのどかに鳴く空の下、シュディリスとエステラは、窓の内と外で
黙って見詰めあった。
西の砦をめぐる攻防にあたり、砦との交通は二階の渡り回廊一本である。
もともと西の丸は篭城用に築かれた砦であるために、有事においては
焼き落とせるよう、往時は木のつり橋であったというだけあって、難攻ぶりは
徹底している。
その回廊の屋根部分が、どちらの側からも問題度外視されて盲点のまま
放置されているのには、一目瞭然の理由があった。
コスモスの伝統で回廊の屋根は高々と山形に急傾斜しており、天辺に
細い道のようになった一筋の飾り棟はあれど、その幅といえば大人一人が
立つのがやっと、積雪対策としてそれすらもゆるやかに丸みを帯びた
老朽瓦で、いつ崩壊しないともかぎらない。かりに兵が屋根に昇り、一列になって
この天辺を何とか伝い歩いたとしても、到達以前に、順番に西の砦の窓から
ミケランの弓兵の的となり、落とされるだけであることも必定。以上の理由により
突破はまず不可能とあっては、攻略経路にあえて選ぶ将もない。
シュディリスが眼をつけたのはそこだった。
こちらにはエステラがいる。
 「お考えは悪くないと思いますわ……」
半泣きになってエステラは窓枠にすがりついた。
 「あえて口に出されないところが、さすがはフラワン家の方と感じ入って
  おりますけれども、わたくしを人質として前に立てて、矢の盾となさりたいことは、
  その必要性からも効果からも、十分に分かっているつもりですわ。
  ミケラン様の兵はわたくしと分かれば、射るようなことはないでしょうし、
  回廊と違って他に障害のない屋根からなら、面倒もなく、近道ですもの」
 「弁解はしません。女人を利用するなど、卑劣極まりない手口です」
そうこうするうちにも、
眼下では何やら、大騒ぎが起きていた。
 「城に侵入者!」
 「ハイロウリーン軍から逸脱者二名、各隊警戒せよ」
地の底から聴こえてくるような騒動を思案するようにシュディリスは下を向いて
しばし佇んでいた。
が、やがて、
 「エステラ」
やはりこれしかないと決めたものか、彼は断固たる態度でエステラに手を差し伸べた。
 「怖くないから」
そう云われても。
エステラは引き攣った顔で、もう一度下をのぞき、向かいの西の丸を眺め遣ってみた。
シュディリスは近いと云うが、とてもそうは思えない。絶壁に等しい屋根の頂きを
伝い歩くなど、猫でも難しそうだった。エステラは首を引っ込めた。
 「無理ですわ、無理。わたくしは騎士の皆さまのように、身軽ではありませんもの」
 「他に方法がない」
シュディリスは腕を伸ばしてエステラの片腕を掴んだ。
 「大丈夫。ミケラン卿の友人を射ようとする者は、先方の兵にはいない」
 「心配してるのはそこじゃありませんわ。わたくしが足手まといにならぬかと。
  二人とも落ちることだって」
 「まっすぐに歩けば、辿れぬ道ではないと思う。
  誤って足を滑らせたり、足場が崩れても、後ろにわたしが付いているから」
 「崩れる。やっぱり、土台がもろくなっているのですね」
エステラは再度泣き声を上げたが、エステラとても、一刻も早くミケランの許に
戻りたいのは山々である。ついに、外へ誘うシュディリスの手をとった。


鳥の影にしては大きいものを見た気がして、ユスタスは何気なく
顔を上げ、そして屋根の上にうごめくものに、愕然として脚をとめた。
 「うそだろ」
大慌てでユスタスは道を戻り、建物を迂回して、それがもっとよく見える
位置まで庭を移動した。
西の砦に続く、有蓋回廊の切り立った屋根の上に立っている人影、あれは。
 「やっぱり。兄さんだ」
手庇をつくってそれを確認すると、ユスタスは手近な庭煉瓦の上に立ち上がった。
 「兄さん!」
ユスタスは伸び上がって、小さな人影に向けて地上から両手を振った。
窓から引きずり出すようにして女を屋根におろし、少々苛立たしげに
女を励ましている青年、その背格好。それはどう見ても、紛うことなき
彼の兄シュディリス・フラワン、その人だった。
 (ちょっと。そこで何やってんのさ、兄さん)
ユスタスが見ている中で、屋根の高さに動揺した女が均衡を崩し、シュディリスが
すかさず片腕で支えていたが、それは見ている方が悲鳴を上げたくなるような、
実にあぶなっかしい光景だった。危険な状況であることは、崩れ落ちてきた
瓦の欠片からも明らかである。
 「シュディリス兄さん!」
大声を出そうとして、ユスタスは口をつぐんだ。
おかしな注意を引いて、ミケランの弓兵が屋根の上の彼らに狙いを
定めぬとも限らない。
 (何やってんのさ、兄さん。危ないじゃないか。だいたいその運動神経
  鈍そうな女の人、誰なのさ)
見ているうちにも、彼らは綱渡りのように細い梁へと移動して、切り立った
回廊の屋根の上にいよいよ踏み出していた。
風に怯えて、女がぴたりと動きを止めてしまうたびに、女を背中抱きする
ようにして、シュディリスは真後ろから女を前へと押しやっていたが、慎重の上にも
慎重で、いっかな前進していない。
はらはらする思いでユスタスは回廊の屋根がもっとよく見える位置までさがった。
見ようによってはあれは、処刑場に向かう女と、女を追い立てて崖っぷちまで
歩かせる、冷血な獄吏の図に見えなくもない。その獄吏役が彼の兄である。
 「駄目だ、見てられない。怖すぎる」
女がふらつく度に、二人とも落ちるような気がして、ユスタスは顔を覆ってしまった。
そのうち、二人揃って転落するのではないだろうか。
 (多分、シリス兄さんは屋根から西の砦に入るつもりなんだろう。
  あの女の人は人質か何かで、先に歩かせることで弓矢の盾にしてるんだ。
  兄さんらしくない方法だけど、いざとなったらシュディリス兄さん、誰よりも
  結構非情になれる人だもんな)
決して褒めてはいない評価を兄に下して、ユスタスは腕を組んだ。
 (どうしよう、僕もあの屋根に登って、兄さんを追おうか)
気が気でないユスタスは、逡巡の間も手に汗を握る思いで回廊の屋根を
見上げていたが、背後に迫っている騒動の方もそろそろ無視できなくなってきた。
 「この区画で何としても阻止しろ」
 「烏合の衆を通して、これより先を受け持つハイロウリーン軍に笑われるな」
濁流が本流に流れ込むようにして、先刻からルビリアとは別件の派手な闘いが
こちらに迫っている様子なのだ。どうやらそれは、地下の酒蔵から城に上がって
きたとかいう所属不明の騎士たちと、城の防衛にあたっているコスモス軍、及び、
レイズン軍との攻防らしく、謎の騎士団は分散して西の丸を目指し、守備線を
各個に突破しているところのようであった。
屋根の上の兄も気になる。
しかし後ろもかなり気になるユスタスは、何かの予感に後ろ髪を引かれるように
思い切って振り返ってみて、今度こそ、あんぐりと口を開いた。
柱回廊を幾つも隔てた、奥の間で繰り広がっている闘いの、そのど真ん中で
ひときわ赤く輝いている剣。距離が遠くてはっきりと顔は見分けられないものの、
 「ロゼッタ……!」
めざましい活躍で、次々と味方を送り出している女騎士。それは負傷して国に
帰ったはずの、ロゼッタ・デル・イオウであった。
 (どうしてロゼッタ、君が、此処に)
唖然茫然もいいところであったが、どうしてもこうしても、現にそこにそうして
いるものを、自問しても仕方ない。
見たところ、ロゼッタは謎の騎士たちと一緒に行動しており、彼女の仕える
サザンカの騎士を率いているわけでもなければ、単身でもなさそうである。
ユスタスは迷った。
軍が詰めているであろう建物を駆け上がり、自分も屋根に出て、兄シュディリス
の許へ行くべきか。それとも、ロゼッタを助けるべきか。
フラワン家の人間である立場上、そしてロゼッタ側の事情が不明である以上、
そうそう迂闊な選択は出来ない。
 「騎士らよ、止まれ」
 「止まらぬ場合は、武力行使でそこもとらを捕縛する」
見ている間にも、守備隊の制止の声は、剣と剣の絡み合う乱闘の中に
打ち砕かれるようにして虚しく消えていった。
ユスタスは唇をかみ締め、闘っているロゼッタの姿を眼で追った。
エクテマスに斬られた傷は深かったはずであるが、ロゼッタは両利きを生かし、
あぶなげなく剣を揮って、見事に闘っている。
黒髪をひるがえし、清んだ眼をして味方を庇い、次々と難局を切り抜けている。
 (大丈夫だ。ロゼッタは落ち着いてる。何たってあのエクテマスと闘って
  生還した子だ。彼女はいい騎士だ。あの様子なら、大丈夫)
ユスタスは背を向けて、兄のいる棟の方へと脚を踏み出した。
 「----ああ、もう!」
方向転換をすると、剣片手にユスタスは走った。
ロゼッタのいる、闘いの中へと。


地上は大混乱だった。
西の砦へ向かう活路は、ほぼ一本。二階の渡り廊下だけである。
攻防の要となるこの渡り廊下をめぐって、ハイロウリーンとジレオン率いる
レイズン軍は、主導権を争っていた。
ジレオンとしては、ミケラン討伐の矢面に立つのはハイロウリーンであっても、
指揮と陣頭に参加していたという手柄は欲しいところである。
もちろんジレオンはあからさまな行動は取らなかった。
 「聖騎士家レイズン。帝国治安を担う立場上、立ち合わせてもらいます」
図々しく、大役でも帯びた格好をして、前線に親衛隊を率いて
顔を出しただけである。
討伐軍より疎外されたジュシュベンダのシャルス・バクティタ将軍が
憤慨したように、その場にいたかいないかは後々の帝政の覇権を
左右する重大問題。
したがって、ジレオンは何としてもここは顔を売っておきたいのであった。
 「監査役のおつもりか」
 「滅相もない」
回廊を護るフィブランの副将相手に、ジレオンは貴族的な笑みで頭をさげた。
大将のフィブラン・ベンダは、皇太子の許からまだ戻らない。
回廊は支柱と支柱の間を板で塞ぎ、特殊工具を持った攻城兵が
頑丈な砦の扉の近くまで安全に近寄れるよう、回廊の中に回廊を作るようにして
鉄を裏打ちした矢避けの屋根を組み立てようと、その材料を運び上げて
いる最中であった。
 「そういえば、向こうの騒ぎ。そちらの軍の高位騎士ルビリア・タンジェリンが
  軍を脱走して、ミケランの首をつけ狙っているとか?」
ハイロウリーンの落ち度をいやらしく数え上げることで、のらくらと
矛先をかわすふてぶてしいジレオンに、副将は「若造が」と舌打ちをした。
白々しい会話を交わしていたそこへ、一報がもたらされた。
 「屋根の上を渡って、西の丸に向かっている不審者がいるだと?」
回廊に詰めた将たちは、真上の屋根を見上げた。
耳を澄ませると、確かに梁の上をしのび歩いているらしき気配がある。
 「女と護衛騎士の、二人だけか。それしきなら、屋根に兵を繰り出して
  捕り物をするほどのこともない。大勢が押し寄せて暴れることで
  屋根が崩れる方が困る。にしてもあの急勾配の屋根の上を歩くとはな。
  軽業師でもなければ、そのうち足を滑らせて落ちるのではないか」
 「女の方は、ミケラン・レイズンの関係者ではないかと」
 「そうだとしたら、尚更ほうっておけ」
 「放置ですか」
意外にも、ハイロウリーンに文句をつけたのはジレオン・ヴィル・レイズンだった。
彼は柱と柱の間の窓から半身を外に出し、腕組みをして、屋根を睨み上げていた。
ほぼ垂直に見える屋根だった。逆光に、女のドレスの影だけが、辛うじて見えた。
ハイロウリーン兵がジレオンに訊ねた。
 「何か」
 「いや。落ちるのを待つばかりとは、趣味の悪いことだと思ったまで」
ジレオンはぶっきらぼうに、短く応えた。
 「その女、ミケランの愛人に違いないようだ。一緒に砦に入ったとばかり
  思っていた。ミケランの許に行きたいのでしょう」
 (おじ上も、果報者だな)
眼を眩しげに細め、ジレオンは危なっかしく屋根を歩いているエステラの影を
内心ではひどく案じながら追っていたが、やがて、我慢が出来なくなってきた。
ジレオンは兵を呼びつけた。
 「この先に、屋根飾りの木像があるはずだ。避雷針に綱をかけ、縄梯子を
  担いで誰か屋根に登り、女を回収して来い」
命令は直ちに果たされた。
避雷針に投げ上げた綱がうまく巻きつくと、その綱を頼りに、縄梯子を肩に
担いだ兵が崖登りの要領で支柱をよじ登り、そこから屋根を登り出した。
対面の西の丸の兵たちは、まだ距離があることから、弓を構えることもなく
静観しているようだった。
 「エステラ!」
ジレオンは上に向かって声を張り上げた。
 「聴こえますか。ジレオンです。貴女は何をやっているんだ?」
頑丈な梁はびくともしなかったが、上を歩いている者には下からの声が
聴こえているはずだった。
腰に手をあてて、ジレオンはなおも云った。
 「戦の邪魔です。梯子を持たせた兵を登らせましたから、彼に従って
  速やかに降りて来て下さい。これは命令です」
 「エステラ。きかないで」
シュディリスが後ろからエステラに囁いた。エステラは頷いた。
エステラはシュディリスの勧めに従って、高さが眼に入らぬように
両目をかたく閉じていた。そんな女を背中抱きするようにして、シュディリスは
後ろからエステラの腰を支え、切り立った屋根の上をゆっくりと歩かせていた。
それにより眼を閉じたエステラは、シュディリスの導きどおりに、何とかまっすぐに
歩を運んでいるのであった。
とはいえ、風の強さと、眼下の音の遠さで、どれほど高い処にいるのかは
おのずとエステラにも知れる。風が耳を掠めるたびに、エステラは全身を
硬直させてしまい、とても無心にはなれない様子だった。
 「駄目ですわ。もう膝がふるえて……歩けない。落ちそう」
 「支えているから」
 「エステラ、返事は」
真下からジレオンが厳しい声で再度促した。
 「云いたくありませんが、貴女のやっていることは立派な公務執行妨害です。
  貴女までおじ上の罪に連座しなくてもいい。怪我をする前に降りて来て下さい」
 「きかないで。エステラ」
 「は、はい……」
エステラは足場を保つことで精一杯で、ジレオンの勧告に
応える余裕もなさそうだった。
そんなエステラの背を支えているシュディリスは、前方に、屋根を登ってきた
ジレオン兵の姿を捉えた。
シュディリスは剣に片手をかけた。足場は狭く、騎士のようには動けぬエステラと
この場で前後を入れ替わることは不可能である。
兵は急勾配の屋根を登って、エステラの進路に出てきた。
 「ジレオン・ヴィル・レイズン閣下の命令です。両名、速やかに投降し、
  屋根より降りるよう」
 「エステラ。そのまま進んで」
 「後ろにいる従騎士に告ぐ。おとなしく婦人を解放し、無駄な抵抗をやめよ」
兵は状況からエステラがシュディリスに捕まって利用されているものとみて、
エステラにはこう云った。
 「ジレオン閣下が貴女さまを案じておられます」
シュディリスは左右を眺めた。
ほぼ垂直の屋根とあっては、逃げ場はない。退路もない。
もとより、女を矢の盾にするという不本意な遣り方である。
彼一人だけなら、この細い道を走って、あっという間に対面まで辿りつけるだろう。
エステラを渡してしまっても、まだ可能性は残されている。
ジレオンの兵が突然身じろぎしたので、エステラを引き渡すことを
考慮していたシュディリスは顔を上げた。
 「抵抗はおやめ下さい」
兵は、シュディリスではなく、エステラに向かって必死にそれを云っていた。
 「ジレオン閣下の命令です。抵抗はやめ、武器をお捨てになって下さい」
 「お下がりなさい」
わななく声で、エステラはシュディリスから離れ、一歩、切り立った屋根を前に進んだ。
エステラは両目を開き、青褪めた顔ながらも、ふるえる声で兵士に繰り返した。
 「後ろの御方は、あなたごときがどうこうできる身分の御方ではありません。
  あなたこそ、お下がりなさい。無礼者、屋根から降りて」
 「……」
 「この短刀は、ジレオン・ヴィル・レイズンよりわたくしが、もらい受けたものです」
また一歩、エステラは踏み出した。
上空の風に、束ねていた女の髪がばらばらになった。
以前コスモスからの引き上げ命令が出た際に、ジレオンが、何かあったらこれを
見せてわたしの友人と云え、身を護れと、そう云って別れ際にエステラに渡した
ジレオンの護身用の短剣を、エステラは手に握りしめていた。エステラは
その切っ先を兵に突きつけるようにして、兵に迫った。
シュディリスを護らねばという一心で、エステラは無我夢中で高みを踏みしめ、
一人で屋根を歩いていた。
 「主君の剣に刺されるか、それとも屋根から降りて、わたくしたちに道を譲るか。
  一つ云っておきます。もしも後ろの騎士を傷つけたら、あなたも、そしてあなたの
  主であるジレオンにも、厳罰が待っていますよ」
進退きわまった兵は、やむなく剣を抜き放ち、何か云おうとして口を開いた。ところが、
 「ギャ」
風を切る鋭い音がしたと思うや、兵の背に矢が突き立った。
矢に貫かれた兵は絶命し、突き飛ばされるようにして彼らの見ている前で
はるか下の地上へと転がり落ちていった。
 「エステラ」
今のことに愕いて均衡を崩したエステラにシュディリスは駆け寄り、危うく
屋根から落ちかかった女を片腕で抱きとめた。
シュディリスとエステラは、眼前に聳える西の砦を見上げた。
西の砦から弓手が屋根にいるジレオン兵の背を狙って射落としたのだと
理解するまで、シュディリスとエステラは互いを庇いあって屋根に伏せていた。
エステラが喘いだ。
 「ミケラン様……」
砦の窓に一瞬だけ、その男が見えた。ミケランは、二人が無事であることを
見極めると、傍らの兵に何かを命じて、窓から姿を消してしまった。


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ユスタスと別れたグラナンは、主君筋のパトロベリがいるという城門まで
手近な衛兵から馬を借り受けて、急ぎ、城内を突っ切った。
 「ジュシュベンダ騎士グラナン・バラス。外まで通されたい」
コスモス城内に張り巡らされた警備網に引っかかり、制止が
かけられる度に、グラナンはジュシュベンダ軍配給の剣を掲げて、柄頭の
徽章で切り抜けた。
ジュシュベンダ騎士。
そう名乗るのも今日限りで最期かと思いながら、
グラナンは騎士解任を求めて、パトロベリを必死に探した。
 「グラナン、グラナンじゃないか」
門の前は濠から引き上げられたずぶ濡れの兵と馬でまだ混雑しており、
ハイロウリーンとジュシュベンダ、及びコスモスの三軍から出た
救護兵たちで、ごった返していた。
馬から降りたグラナンは国許の同僚を見つけて駆け寄った。
 「パトロベリ王子は、いずれに」
 「待て、グラナン、お前今まで何処に行っていた」
問いには応えず、グラナンはパトロベリの旗の許へと向かった。
エチパセ・パヴェ・レイズンにナナセラの砦に放り込まれた後、
パトロベリとはオーガススィへ向かう道の途上で、喧嘩別れのようにして
別行動となったままである。
そのパトロベリは野に軍旗を立てて、ジュシュベンダ兵の回収と
勝手に暴走した兵を軍規違反名義で拘束する作業に追われていた。
 「パトロベリ様」
グラナンはそこへとんで行った。
草地に拝跪したグラナンをよく見もせずに、パトロベリはせかせかと
グラナンに書類束を押しつけた。
 「グラナンじゃあないか。いいところに来た。僕を手伝え」
久しぶりの再会の感動も何もなく、パトロベリは騎士団の不始末処理に
青筋を立てており、それどころではないようだった。
 「うちの国には運河があるのに、泳げない奴が多すぎる。水に
  落ちたのが分かってて、大量に水を呑む奴があるか」
 「その前に。と申しますか、それより先にパトロベリ様」
グラナンは地に剣を突き立てて、顔を上げた。
 「本日限りで、ジュシュベンダ騎士団を除隊いたしたく、アルバレス家の
  パトロベリ様に除隊願いの受理と、軍籍返上をこの場でお認め
  いただきたく存じます」
 「後で、後で」
パトロベリはグラナンの言い分を完全に無視し、兵を先に通した。
伝令はグラナンの隣りに片膝をついた。
 「報告、パトロベリ様。わが軍の死者は総計で三名です。全員、おそらく
  ハイロウリーンから逸脱した女騎士に斬られたものと」
 「おそらくって何だい。おそらくって。先入観を与えるようないい加減なことを
  云うんじゃあない。それを云ってるのは誰なんだ。ルビリアが斬ったのを
  見た者がいるなら、目撃者の名を揃えて出してくれ」
 「溺死ではなく、鋭き刀傷が致命傷になっているとのことで」
 「だから。それがどうしてルビリアのせいなんだい」
パトロベリは書類を指ではじいた。
 「『おそらく』が許されるなら、じゃあ僕も云おうか。おそらく、その死んだ
  三名の兵と、どさくさに紛れて彼らを殺めた刺客が、この暴走の煽動者だろうね。
  レイズンの工作員が何名ジュシュベンダ軍内にしのび込んでいるのかは
  知らないけれど、口封じの為の暗殺者まで彼らの中には混じってたってことだ。
  ついでに何でもかんでもルビリア・タンジェリンのせいにして、他国の女騎士に
  責任の一切を押し付けるつもりなのさ。
  死体を後で僕が検分してやろうじゃあないか。高位騎士が斬ったものか
  そうでないのかなんて、斬り口を見たら視たら一目瞭然なんだから」
 「パトロベリ様。どうか」
根気よく平伏しているグラナンを、今気がついたというようにじろりと見て、
パトロベリはつけつけと命じた。 
 「回収した連中の中にレイズンの手合いが混じっているはずだ。
  グラナン、まずは点呼した騎士たちを一箇所に集め、元間諜候補の
  知識と勘を生かして、彼らの事情聴取をやってくれ」
 「そこをまげて何とか。仮の除隊認可だけでも」
 「どうせ、ジュシュベンダ騎士の身分を返上して、これからはフラワン家に
  仕えるとか云うんだろ」
癇癪を破裂させて、パトロベリはちょうどそこに本陣からやってきた
副官のキエフに書類を押し付けて振り返った。
 「辞めたいという者を引き止めるほどジュシュベンダ騎士団は騎士の
  数に不自由してないさ。アルバレス家に仕えるよりも、フラワン家の方が
  いいなら、そうすりゃあいい。ところで、シュディリスは?」
 「シュディリス様とは、オーガススィで別れました。
  その代わり、今のわたしはフラワン家ご次男のユスタス様の護衛騎士として
  ユスタス様と共にコスモス城に入っております。貴人の護衛は騎士の義務。
  成り行きではございましたが、軍規違反にはあたらぬかと存じます」
 「誰も罪に問うなんて云ってないだろ。それで」
苦渋を浮かべるグラナンの顔つきに、パトロベリの顔が真面目になった。
パトロベリはそれ以上の長話を打ち切り、即座にその場でグラナンを
解任することを選んだ。
 「事情あってのことじゃしょうがない。特別に許可する。グラナン・バラス。
  パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダの名において、汝を本日付で
  ジュシュベンダ騎士より解任する」
パトロベリ王子は作法にのっとり、グラナンの肩に剣の平をのせ、それから
グラナンの頭上で印を切った。
 「騎士グラナン・バラスよ。騎士として生まれたる御身よ。命尽きるまで
  黄金の血の祝福と、巫女のご加護がこの先にもあるように」
 「ははっ」
グラナンの眼から涙が零れ落ちた。パトロベリはそれをじっと見ていた。
流浪の民を祖にもつバラス家に生を受けたくそ真面目な男が、ようやく築いた
地位を自ら投げ打つには、容易ではない覚悟と決断がいったはずだった。
それをおしてまでして、グラナンはジュシュベンダ籍を抜けると決めたのだ。
パトロベリには止める言葉もなかった。
 「意外だよ。あんたは保守的な上にも保守的な男だと思っていたから。
  ユスタス・フラワンのところに行くのかい」
 「はい」
グラナンはパトロベリに感謝をこめて、頷いた。
 「不可侵領フラワン家の方々は、帝国法により騎士団も近衛兵も
  持つこと叶わず、おひとりです。貴家に生まれた星の騎士の方々を、
  側近の従者として、せめてお護りしたいと思います」
 「そっか。じゃあ、ちょうどいい、グラナン・バラス」
パトロベリはグラナンの腕をとった。
 「僕はまだ、騎士の叙任式を受けてない。パトロベリ王子のままでは、
  具合が悪いことが多すぎる。現在コスモス城には、クローバ・コスモスをはじめ
  高位騎士が何名かいるはずだ。叙任権限を持っている彼らの誰かに
  それを頼みたい」
 「今?」
 「今じゃなくて、いつそれをするんだよ」
切羽詰ったものを隠した声音で、パトロベリはグラナンの襟首を掴んだ。
グラナンが騎士の除隊認可を主君イルタルの係累であるパトロベリに
頼んだように、パトロベリの騎士叙任式にも、通例その身分と能力に相応しい、
しかるべき聖騎士家の王族か、位の高い騎士の後見人が要る。
形式的な伝統とはいえ、誰にそれを頼んだかが重要で、様式を整えておくことは
王族として生きていくパトロベリの今後において、重要な意味を持つのだ。
 「本音はそんなものくそくらえ。だけど、イルタルにこれ以上恥をかかせたくないしね。
  聖騎士家の誰か、もしくは評判の悪くない高位騎士の誰か」
 「しかし。そうはいっても、パトロベリ様」
 「分かるだろ。僕も巫女の許へ行きたいのさ。ジュシュベンダの王族にして
  高位騎士の僕が、かたちだけでも戦の現場にいたとなれば、シャルス・バクティタを
  はじめとする将兵たちの不満も緩和される。また、事後処理においても、
  ジュシュベンダの名誉と体面は国外に保たれる。ことは僕だけのことじゃあないんだ。
  軍内に控えていた工作員を動かして、兵を煽り、入城するハイロウリーンの
  邪魔をしたのは、ハイロウリーンとジュシュベンダの間に決定的な溝と格差を
  作ろうとするレイズンの陰謀に決まってる。ジュシュベンダがこれから相手に
  するのは、ジレオン・ヴィル・レイズンを統領とする、レイズン本家だ。
  初手から、統領ジレオンの思いどおりにさせてなるものか」
がくがくと襟首を揺さぶられたグラナンは、パトロベリの眼に、この王子の
本気を見た。
 「しかし……」
パトロベリを今現在のコスモス城の中に連れて行ったとして、はたして誰が、
利害を超えてそれを引き受けてくれるだろう。
グラナンには、ソラムダリヤ皇太子しか思い浮かばなかった。
 (確かに、殿下なら申し分ない。パトロベリ様のお立場と未来が
  がらりと変わるだろう。だがジュピタ皇家の方はそれを禁じられている。
  その代わり、皇太子殿下の口を通して、しかるべき位騎士に
  頼んでいただけることは出来るかも)
濠から引き上げられて、ずぶ濡れになった騎士が、担架に乗せて
眼の前を運ばれていった。
 (ソラムダリヤ様は、もとからパトロベリ様のことを憎からず、気に留めて
  おられるご様子)
ミケラン討伐において、ハイロウリーンとジュシュベンダ間に不均衡を作った
負い目もあるだろう。これは頼んでみる価値があるかもしれない。
 「パトロベリ様」
それを伝えようとして顔を上げたグラナンは、パトロベリが奇妙な顔をして
グラナンの後方を見詰めていることに気が付いた。
パトロベリは、城から出てきた小さな人影を見ていた。
それだけではなく、あたり一帯の騒音までが、潮が引くようにして静まっていた。
その静寂と沈黙には、音のない雷が地上に鳴り響いたような、畏怖と異常があった。
騎士たちは、負傷した者も、そうでない者も、城から出てきたその影のために、
風に倒れる草木のごとく無言で左右に道をひらいていった。
海が割れるようにして、男たちはパトロベリたちを残して退いた。
 「あれは……」
キエフが震えながら小さな声で呟いた。
その北欧の姫君は、ほとんど人前には姿を見せず、その美貌を雲の陰に
隠したという神話の女神のように、ながらく極光の幻にも等しい噂の中にしか
すんでいない、名ばかりの姫だった。
城の前庭には雲間から光の雪が降っていた。ハイロウリーンの騎士も、
中州に据え置かれたミケラン軍とはぐれ騎士たちも、姫の前に道を開けた。
彼らはそうした。膝をつき、剣を立てて、姫を見送る者もいた。
パトロベリは突っ立って、愕き懼れ、やって来る姫を待っていた。
 「パトロベリ王子」
雪の結晶に色をつけたような、小さな唇がひらいた。
美しい姫君は、かつてカルタラグン王朝を騒がせた絶世の美女リィスリ・フラワン・
オーガススィによく似た姿で、静かに、パトロベリの許へと歩をはこんできた。
コスモスの花々がその姿に祝福を添えた。
 「パトロベリ・アルバレス・テラ・ジュシュベンダ」
透き通るような声で、姫は王子の名を呼んだ。
顔をこわばらせて立ち尽くしていたパトロベリは、ようよう声を振り絞った。
 「オーガススィの姫君。ルルドピアス・クロス・オーガススィ姫」
 「霧と運河と花の都に生まし者よ。貴方の望みを叶えるのは、わたくしでは
  いけませんか」
 「此処は危険です。護衛をつけます、姫、すぐにも城にお戻りを。いや、
  コスモス城も危ない。このまま、わが陣においでいただきたく、お願い申し上げます。
  ミケラン討伐が終わるまで、ジュシュベンダが姫をお守りいたしましょう」
 「パトロベリ」
昨日、わずかな供に護られ、実兄イクファイファ王子に見送られて
コスモス城入りした姫君は、一人きりで忽然と城からその場に現れ、
厳かと幻想をその華奢なからだからあたりにくっきりと映し出していた。
静かに、威厳をもって、姫はゆるゆるとパトロベリの前に歩いてきた。
少女のほそい手がパトロベリに向かって伸びた。パトロベリは我知らず、
空の力に押されるようにして、草地に片膝をついていた。
グラナンが痺れたようになって見守る中、大いなる声がパトロベリの頭上に印を切った。
 「パトロベリ・アルバレス・テラ・ジュシュベンダ。汝を騎士とみとめる。
  黄金の騎士。そなたの血と命は、これより遠き星の御苑にて、永久のものとなる。
  われがそれを認める。われは、ユスキュダルの新しき巫女」
姫がパトロベリを祝福した。居合わせたジュシュベンダ、そしてハイロウリーン、
中州のはぐれ騎士、ミケランの私兵らが、それを見届けた。
コスモスの真上、はるか彼方の空は、青く、青く、輝くように、そこだけが開いていた。


突然に現れた若騎士は見る間にロゼッタを乱闘の中から拾い上げ、
ロゼッタの手を握って走り出した。
 「いいから、ついておいで」
 「ユスタス様?!」
ロゼッタは大慌てでユスタスを引きとめにかかった。
 「ユスタス様、ユスタス」
 「僕だって君がどうしてコスモス城にいるのか、さっぱりだよ。でも君を
  一人にはしておけない。一切の説明は後で。僕と一緒に行こう」
ユスタスは力づくでロゼッタを連れて行こうとした。
その前に、息を切らしてサンドライトが立ち塞がった。
 「待て。その女騎士を何処に連れて行く」
 「サンドライト殿」
 「どさくさに紛れて眼をつけた女騎士を誘拐する気だな。破廉恥者め」
 「どっちが!」
ユスタスは吼え返した。
遠目にも、この騎士とロゼッタが一組となり、呼吸を合わせて闘っているのが
ユスタスには気に入らなかったのだ。
 「そちらこそ、彼女が怪我をしてるからって」
 「何だと」
 「サンドライト殿、これには理由が。彼は貴人です。決してマリリフト殿らを
  裏切るものではありません。この方を傷つけないで。見逃して下さい」
あわやというところで、サンドライトとユスタスの決闘を防いだロゼッタは、
頭を切り替えて、すぐにユスタスと共に戦闘を離脱し、走り出した。
わけは分からないながらも、この生真面目な女騎士はユスタスが
単身でいることに愕き、グラナン同様それが無視できず、何かの目的に
焦っているユスタスに無条件で付き従った。
 「どちらに、ユスタス様。護衛いたします」
 「何のつもりそれ。他人行儀だな。しばらく逢わないと、いちいち
  『はじめまして』に戻っちゃうのかよ」
 「そういうわけでは」
不機嫌丸出しに走るユスタスは引っ張っているロゼッタの手を強く握った。
 「あの人は従騎士と共に西の砦に向かってる。正面から突っ切るはずだ」
 「あの人とは」
 「ルビリア・タンジェリン」
ユスタスとロゼッタは庭の低木を跳び越えて、近道をとった。
ひらりと赤剣が舞ったかと思うと、女騎士はレイズン兵を斬っていた。
 「乱暴だな」
 「こうやって酒蔵からここまで来ました」
 「それでいいよ。一緒に行こう。巫女のいる、西の丸に」
 「来たぞ、ハイロウリーンの脱走騎士だ!」
 「あそこだ。離れないで。あの人たちに付いて行くよ」
ユスタスとロゼッタの前で、ハイロウリーンの白と金の装束が白い鳥のように
西の砦に続く二階回廊を有した建物にとび込んで行った。
 「追いかけて、走って!」
後追いの二人が辿り着いた階段はすでに惨劇が過ぎた後だった。
迷い込んだ鳥が出口を目指して飛ぶように、騎士たちは駈けた。
現れたルビリアの姿を見た二階の回廊は恐慌状態に陥った。
 「錯乱したか、ルビリア・タンジェリン!」
 「彼らを止めよ」
 「六王子エクテマス様がぴったり付いていて、近づけませんッ」
悲鳴が上がったとおり、ルビリアとエクテマスは二人で一つの影となって
立ち塞がる者を瞬時に斬り伏せながら、両幅の狭い回廊を力任せに
直進して走った。
 「慌てるな、砦の扉はミケラン軍によって締め切られて、行き止まりだ」
 「奥に追いつめて捕らえよ。六の王子を傷つけるな」
エクテマスは、ハイロウリーン家第六王子の地位を存分に生かし、ルビリアの
盾となってルビリアを完全にハイロウリーン兵から護っていた。
兵士たちはエクテマスに遠慮して思いきった止め立てが出来ず、廊下中央に
持ち出された制止柵を軽々と跳び越えて突破してゆく彼らを見送るだけだった。
 「あれが、ルビリア・タンジェリンか」
早々に危険地帯から避難していたジレオンは、二階回廊を真横から望む
建物の上階から、過ぎる女騎士の横顔に短く口笛を吹いた。
 「我らの世代にとっては、伝説の女騎士だ。実物を拝めるとは」
 「兄さん!」
ルビリアとエクテマスの後を追って走りながら、ユスタスは真上の屋根に
向かって声を張り上げた。
エクテマスは付いて来るユスタスとロゼッタに気がついていたが、どういう
つもりなのか、わざと勢いを落として、彼らも自らの守備範囲内にルビリアと
共におさめた。エクテマスの剣が閃き、左右の兵が吹っ飛んだ。
ユスタスは叫んだ。
 「シュディリス兄さん!」
ややあって、「ユスタス?」と、信じられぬような様子の応えが、少し離れた
屋根の上からくぐもった音で返ってきた。
 「ユスタス。ユスタスなのか?」
 「シュディリス兄さん、リリティス姉さんが西の丸に囚われた」
眼前に飛び出してきた兵をロゼッタと共に斬りながら、血吹雪をかいくぐって
ユスタスは叫んだ。
 「僕は先に行ってるから。ルビリア・タンジェリンと一緒に、先に行ってるから!」
 「見ろ!」
まさか、と思われた砦入り口の扉が、ルビリアを迎えるように重い音を立てて
開いたのはその時だった。僅かに開いたその隙間を目掛け、ルビリアは一筋の
赤い矢のように真っ直ぐに走った。ユスタスとロゼッタも後に続いた。
 「扉が内側から」
 「破砕槌をもて。突入口を確保せよ!」
それまで静観していたハイロウリーンは、予想外の西の丸の反応に愕いて
一斉に動いた。
速度をゆるめることなく、ルビリアは扉の向こうへとび込んで姿を消した。
剣を手にしたユスタスとロゼッタも閉まりかけている扉の隙間から内側に駈けこんだ。
追いかけるハイロウリーン兵がロゼッタの腕を掴もうとする直前、扉とロゼッタの間に
白と金の装束が振り返って立ち塞がり、鮮やかに兵をはねのけ、ロゼッタを扉の
向こうへ突きとばして押しやった。すれ違うロゼッタはそれが誰かを見分けて
その名を叫び、隙間から手を伸ばしたが、間に合わなかった。
彼らの間に、音を立てて、ふたたび砦の扉が閉まった。特殊工具を持った
攻城兵と追尾の騎士が盾を構えて殺到した。
 「急げ!」
 「王子、そこをお退き下さいッ」
 「エクテマス王子」
ばたばたっと倒れた兵は、砦からの矢ではなく、エクテマスに斬られたものだった。
若き王子はいつもの如く冷淡な顔つきで、回廊を埋め尽くした自軍の兵の前に
血剣をさげ持って立ち、全軍を相手にするのも上等だとでもいうかのように、
背後を守って扉の前から動かなかった。
砦の扉が、ふたたび固く閉まり、閂が下ろされる音が回廊に重く響いた。
 (遠くへ、遠くへ。ルビリア、貴女が夢みてきた、その刻へ)
ルビリアは一度も振り向かず、そしてエクテマスもルビリアを追わなかった。
言葉を交わすことなく扉の内と外に隔てられた彼ら師弟は、運命を承知の
上でそうして別れ、そしてエクテマスは師である女騎士と、これ限り二度と
生きて再会することはなかった。



「続く]


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