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[ビスカリアの星]■九八.


戦時早馬便でハイロウリーン第一陣より第二陣に配送された
配達物には、姉レーレローザからの手紙が混じっていた。
それをブルーティアはインカタビア王子から知らされた。
 「検閲なさいますか」
 「そんな無粋はしないよ。あなた方は客人であって捕虜ではないのだから」
インカタビア王子は手紙をブルーティアの手に渡すと、ブルーティアが
一人きりになりたいだろうからと気を利かせて、天幕から出て行った。
 『親愛なる妹のブルーティアへ。元気でやっていることと思います』
天幕を締め切ると、ブルーティアは椅子に落ち着き、手紙を開いた。
……ブルティへ。
第一陣と第二陣との間に頻々と早馬が往復しているのに便乗して
こっそりと荷袋の中にこの手紙を投げ込むことにしました。
最初はこの手紙も、私はいつものようにオーガススィの古語で
書くつもりだったの。オーガススィ家の王族にしか判読できぬあの言葉は、
暗号の代わりとして私たち姉妹の間ではすっかり定着しています。
ですが、ハイロウリーンの検閲にかかることを考えると、後々あらぬ疑いを
かけられぬよう、帝国共通語を使う方が妥当ではないかと思い直しました。
だからこれは彼らにも読み下せる言葉で書きます。
もっとも第二陣の陣頭に立っておられるインカタビア様と、それから
ワーンダン様の両名は、私たちの手紙に検閲を入れるような真似は
なさらないでしょう。天下のハイロウリーンがオーガススィを怖れていると
思われては心外、そんな大国の意地が彼らにもありましょうから。
だから私は封蝋もしません。

ブルーティアはため息をついた。レーレローザったら。
傍らにおいた革筒を確かめた。手紙を丸めて納める革筒の
開閉口にも、レーレローザがいつも嵌めている指輪を使っての封蝋は
確かに捺された痕がない。「どうぞ中身を検めて下さい」という
レーレローザの意志だろう。
 「封蝋を摸造する専門家くらい、彼らもコスモスに連れて来ていることよ。
  こんな時だもの、いかなインカタビア様でも、何が書かれてあるのか
  気にならないわけがないでしょう。それを、ほら封蝋しないぞ、
  お前たちにも大国の意地があるなら盗み見るような卑劣な真似は
  しないだろう、だなんて挑発的な厭味をわざと書いたりして」
実際に検閲が入ったか否かは不明だが、本来ならば厳重に
封をするところを正反対の方法をとるとは、レーレローザらしい
勝気ぶりだった。
首をふりふり、ブルーティアは続きに眼をおとした。

……こうして貴女に手紙をしたためるのは、目下のコスモス情勢の
ことではありません。
とても私的なこと、小さなことを貴女に伝えるためです。
貴女に手紙を書けるということだけでも、虜囚も同然の身である今の
私には慰めになるのですから、不謹慎だと思わないで。
昨夜、私は、ルルドピアスの夢をみました。
かつて体験したことのない、安らかな、幸福な気持ちで目覚め、そして
それが夢だと私は知りました。
その前に、少しオーガススィの想い出話をしたいと思います。
ブルティは憶えているかしら。
まだ私たちが王女部屋で、寝台を並べて寝ていた頃のことです。私が、
「ねえ、ブルーティア。スイレンお母さまの、ルルドピアスへの態度って……」
常日頃から思っていたことを躊躇いがちにそう云いさしたところ、
貴女は即座に、「そうよ」と同意しましたね。
あの夜初めて、私は貴女と姉妹であることを、心の底から嬉しく思ったの。
あの時ほど、貴女が私の妹であること、そして聖騎士家オーガススィの血を
父方から受け継ぐ、紛れもない姉妹であることを誇りに思ったことはありません。
まだ子供であったということもあり、それまでは両親への遠慮からも、
私と意見が同じ人間などこの世にはいないのだと思っていましたから。

……ブルーティア。ハイロウリーンの本陣へ護送されていく途上
私が思ったことを貴女にも聞いてもらいたいの。
今となっては、反ミケラン・レイズン感情を煽るヴィスタル=ヒスイ党の
執拗な揺さぶりも、当のミケランによる不埒な叛乱行為の発覚により
霧散してしまいましたが、ハイロウリーンが同盟国オーガススィの
出方を疑い、私たちを人質にしたことは事実なのですから、護送と
はっきり書いてもいいでしょう。
スイレンお母さまの、ルルドピアスへの異常ともいえる執着と干渉行為。
あれは全て、スイレンお母さまご自身の、魅力のなさ、自信のなさ、
確固たる人間性を自力で磨いてこなかったが故の、その代償が
根にあるのだろうと、今更ながらに考えています。
お母さまはよく同情深い態度でルルドピアスの話を誰彼かまわずに
吹聴していましたが、あれは全てご自分の虚栄心を満足させる為に
特定の人物の功績や諸事情を不特定多数の人間の前で穢すことで
人々の関心と興味を自分に向けさせる手段だったのではないでしょうか。
一般的にそれは醜聞屋、覗き屋として軽蔑されるものですが、
そうすることで、お母さまは他人を引きずり落とすことで上に立ちたい、
おのれの引き立て役として利用してやりたいという、お母さまの中に
隠れ潜む欲望を満たすことに成功していたのだと思います。
応援するふりをしながら、相手の背中を蹴り付ける。
それらはすべて著しくルルドの印象を損ない、実像を歪め、ルルドピアスを
無理解の中に追い込むという結果で表れていましたが、お母さまは
そうすることでルルドピアスを犠牲にした晴れ舞台を得ているのだと、
最初に看過したのは、ブルティ、貴女でしたね。
 「端的に言うならば、引き立て役にせよ、関係者面にせよ、スイレン
  お母さまは特定の誰かを犠牲にすることで自分自身を売り込む人。
  ご自分の善行や借り物の知識を見せびらかす為に、内心では
  ルルドピアスの失敗や躓きを、誰よりも手ぐすねひいて待ち望んで
  いる人間。だからどれほど親切を装っていようとも、それが
  ルルドピアスの為になることは絶対にないのよ」
スイレンお母さまは、ルルドピアスを晒し者にすることで、ご自身は
まったく傷つくことなく、人々の注目や、共感や、同情を得ていました。
その遣り口は、親切や心配という美談に覆われた、巧妙なもの。
むしろ、スイレンお母さまはご自分の値打ちを少しでも高く良く
世間に見せるために、あえてルルドピアスを不出来な人間、欠陥人間
として強調して云い広めていましたよね。
ルルドピアスが困った立場でいてくれてこそ、ご自身の自慢話が
引き立つのだと、自分本位の優越感にしがみつくようにして。

……スイレンお母さまは、ルルドピアスの些細な欠点を探し出しては、
 「分かってないルルドピアスと分かっているわたくし」
この図式に嵌めこむのがお好きでした。
それはそのまま、ご自身の優越感と自慢話に直結することでしたから、
逢う人逢う人、城中の人間に云い触らされました。
そんな方法でしか自分を誇ることが出来ないとは憐れな話です。しかし
それが表面的にせよ「相談」や「同情」や「親切」というかたちを
借りている限り、ルルドの評判は地に堕ちても、お母さまは誰からも
咎められることはなかった。
巧妙な手口。
 「ルルドピアスのことはわたくしが解説してあげますわ」
お母さまはただ、親身に心配するふりをして、ルルドピアスという
一人の人間を大勢の人間の前に突き飛ばすだけでよかった。
悪意により、一人の人間の尊厳を奪うことが可能だった。
作為を天然で覆っているだけに、誰にも、どうすることも出来ません。
お母さまの割り込みの前と後では明らかにルルドの印象は著しく悪くなり、
交友関係も破綻しているのに、人と人との絆を断ち切って回る本人は
他人の貴重な人生の神のごとき存在になれた喜びと、首尾よくルルドの
努力や命を下に置くことができた喜びだけがあるのです。
この世で最も怖ろしいものは、想像力のない人間、人の立場に立って
物事が考えられない人間、他人を思い遣ることが出来ない人間、
人の命を粗末にする人間です。
 「良識や思いやりの機微をまったく身につけることなく
  自己顕示欲ばかりが肥大化した空洞の大人がいるけれど、
  スイレンお母さまもそれよ。だからルルドピアスに付きまとうのよ」
ブルーティアの見解に私も同意します。
本来ならばご自分に向けられるはずの軽蔑や批難の眼であっても、
ルルドピアスという犠牲を間に置くことで、お母さまは、よく出来た
思い遣りのある婦人の位置に立つことができた。
一度この構図が出来上がると、これは滅多なことでは壊れることはありません。
ルルドピアスの為という名目で、ルルドの周囲を最初に取り込んで
しまっているがゆえに、ルルドの中傷を流しても、それはそんなルルドピアスを
更正させようと頑張っているスイレンお母さまの手柄になり、お母さまの
評判だけが上がってゆくのです。
確かにそれは前向きで、過去を振り返らない、倖せな人生なのかも
しれませんね。人の背中を蹴り付けながら、本人だけは倖せに
生きていけるのですから。

……ルルドピアスの交友関係や行動を常に監視し、ルルドが新しく
知人をつくる度に大急ぎで間に割って入っていったお母さまは、
ルルドピアスの周囲の人間を一人残らず、
『ルルドピアスに指導を与えるわたくしをひけらかす劇場』
の観客にしてしまいました。
そこにはルルドについて語るお母さまはいても、ルルドピアス本人の
姿と声はありません。
お母さまにとって、いちばん怖れること、それはルルドが自分抜きで
誰かと仲良くしたり、認められること。
お母さまにとって、ルルドは孤独で不幸で、困っている状況にあることが
もっとも望ましいのですから、必ずそれは「親切」にも、阻止されるのです。
ルルドピアスが楽しそうにしていると、スイレンお母さまは、
 「ルルドピアスはああやって精神の均衡を保っているのです。あれは
  作り笑顔の、から元気なのですわ。本当は辛いはずなのに。
  隠そうと思っても意外と隠せないものなのですよ。いったい何が
  あったのかはしりませんが、過去にとらわれている愚かな人間なのです。
  何とかしてあげたいのですが、異常な姫で、助言も迫害と感じられるのか、
  まったく聞いてはくれませんの。わたくしに怒っているみたい。
  助けてあげよう、親切にしてあげようとすると、憎まれるだけですの。
  人は一人では生きられないのに、まったく人を受け入れようとは
  しないのですわ。成長を拒むのですわ。だから駄目なのですね。
  このことをぜひ皆さまにも分かっておいていただきたいですわ」
即座に上から目線のおかしな理解や、侮辱を加えずにはいられなかった。
悪い方へと転がさずにはいられなかった。
ルルドピアスが誰かと知り合うたびにすっ飛んでいって、注意事項
という名の偏見を刷り込む時、お母さまは意識下でこう念じており、
それに沿った云い方をするのです。
彼らが、ルルドピアスではなく自分の方に注目し、ルルドピアスに対して
指導・矯正しようとしているわたくしを高く評価して褒めてくれますように。
あなた方が、わたくしの与える情報により、ルルドピアスを疎外したり、
わたくしが吹聴しているとおりの眼であの子を見てくれますように。
そうでなければ、わたくしが嘘をついていたということになってしまう。
……ブルティには分かるわよね。
根幹にあるものは、思い遣りなどではありません。

……動機はどうあれ、それが他者の眼にとって「親切」ならば、正義です。
次代の領主夫人である限り、閉鎖的で女衆の多いオーガススィの城は
スイレンお母さまの独壇場でした。
お母さまが盛んに刷り込み続けていた、ルルドピアスの偏った負の印象、
興味を煽るような奇抜な印象、好奇心を惹くような作り話のすべては
お母さま一人の口から故意に云い触らされているものなのに、誰ひとり
そこに疑問を抱くことはありません。
 「心配してあげただけだ。人に親切にしてはいけないのか」
正面きってそう問われたら、誰でも「いいえ」と答えます。
お母さまは都合が悪くなるとその手の一般論に逃げ込んでいましたが、
それらの噂が故意にお母さまの一人の口から発せられていたことを
考えると、無自覚の悪意では、やはり済まぬかと思います。
万が一それに悪気がないのだとしたら、お母さまはルルドピアスという
見世物を用いることで、善い人間と称えられ、人々の関心を
自分の安っぽい説法に振り向けさせることに対してのみ強い関心があり、
ルルドピアスの人生などには、もとから興味もなかったのでしょう。
その重荷を背負わされるのはルルドであって、お母さまではありません。
傷つけられるのはルルドであって、お母さまではありません。
多分お母さまにとっては、他人の人間関係を操っていることや、情報を
握っているということが、想像以上の価値と意味を持っているのでしょうね。
そのことはお母さまの自尊心を満たす自慢なのですから、当然、お母さまの
解説つきで大勢の前に披露されるのです。
それについても、せめて「わたくしは嘘をついていない」とでも云わなければ
善い人間であるはずの仮面にひびが入りますから、ことさらのごとく、お次は
「嘘をついている」人間を何としてでもこしらえて、自らが負うべき罪を
他人の上にかぶせてゆく方法をとる。
結局のところ、これはスイレンお母さまが自分自身を磨いてこなかった
結果なのだと思います。良しにつけ悪しきにつけ、他人の功績や評判を
利用しなければ、自分が満たされないという……。
通常、心ない非常識と呼ばれる振る舞いであるのに、前述したように
親切や心配の上乗せにより分厚く擬装されてしまうと、お母さまの大演説は
おどろくほどに信頼され、オーガススィ中に浸透していきました。
それらのことがどれほどの過負担をルルドにもたらしたかは、言葉にできません。
私たちがあれほどに愛して止まなかったルルドピアスの美点は、ことごとく、
ルルドピアスのことなど本当はよく知らないお母さまの介入により、いいように
傷つけられ、損なわれていきました。
スイレンお母さまの本質とは、あることないことを云い触らす醜聞屋です。
人の才や努力を私物化し、さも多大な功績者であったかのように
世間に対して吹聴する、ずうずうしい便乗者です。
他人を晒し者にすることで、自分が主役の晴れ舞台をつくる。
そこには、他者への配慮や尊重などは微塵もありません。
あちこちから良く見えるような借り物を総動員した、相対的にルルドピアスを
低い位置に飾り立てた、スイレンお母さまの書割の劇場があるばかりです。


……昨夜、私は、ルルドピアスの夢を見ました。
それは、こんな夢です。
オーガススィの海か、何処かの夜明けの海岸で、ルルドピアスは手に
小さな籠を一つ持って、銀の浜辺に散らばる美しい貝殻を丁寧に
拾っているのです。
一つ一つ、あの子にしかできないような優美な仕草で、ルルドピアスは
小さな貝殻を拾い集めていました。
目立って光っている貝殻も、砂の中に埋もれている貝殻も、どれも
同じように大切そうに、あの子は手籠の中にそっと入れているのです。
最初は、私たちの子供の頃の夢かと思いました。
私たちが、まだサンシリアよりも幼かった頃、馬車を連ねて城の皆で
海に遊びに行ったことがありましたね。
お祖母さまが床についた頃で、城で鬱屈していた子供たちの羽根を
のばしてやろうと、スイレンお母さまがお祖父さまの許可を得て計画した
遠足でした。あの頃はまだ、スイレンお母さまも姑である領主夫人に
気兼ねしてか、後年のような独善的なことにはなっていなかったわ。
日が暮れて帰る頃になって、ルルドピアスが「貝殻が見つからない」と
云い出しました。宝石のような金色の貝殻があったのに、それがどこに
落ちていたのか、見失ってしまったと。
泣きそうな顔になってルルドピアスはイクファイファお兄さまの
手を引き、まだ帰らないでと訴えました。
私たちも乗りかけていた馬車から浜へと戻って行きました。
 「いいよ、探してみよう」
 「ルルド、海に入らないように気をつけてね」
 「どのあたりだったの、ルルド」
ルルドピアスと一緒に、満潮近い浜辺に貝殻を探しました。
正直、見つかりっこないと思いましたが、ルルドピアスに付き合うつもりでした。
朝から遠出した大人たちは、疲れもあり、早く城に帰りたがって馬車の中で
うんざりした顔をしていましたが、王家の男子であるイクファイファお兄さままでが
ルルドピアスに付き合っているとなれば、しばらく待つより他はありません。
あの時の貝殻は見つかったのだったかしら?
私の記憶に残っているのは、夕陽さす砂浜で貝殻を探していた
ルルドピアスの小さな影と、光に縁取られた、祈るようなその横顔です。

そんなルルドピアスの夢から、私はある人のことを想い出したの。
それはイクファイファお兄さまのことです。
どんないびつな貝殻でも優しく扱っているルルドピアスの夢の
横顔こそは、イクファイファお兄さまが、奇行の姫ということに
されていたルルドピアスに対して接していた態度と同じなのでした。
ブルティ、私と貴女は、よく愛すべきイクファイファお兄さまのことを
冗談半分に手酷く扱下ろしたものでしたね。
彼が騎士でないということも手伝って、容赦なく、あの地味目な
従兄殿を莫迦にして笑っていたものでした。
 『イクファイファお兄さまは、ルルドのことが男としてお好きなのよ。絶対よ。
  実の妹でなければ、今頃とっくにルルドに告白しておられるはずよ』
 『でも残念ね。ルルドは私たちのものよ。イク兄さまのような頼りない男に
  大切なルルドを渡してなるものですか。断固阻止よ』
部屋に閉じこもって船や鳥の模型を組み立てている引き篭もり男。
そう云っておおいに笑ったものでした。
彼がルルドを愛していたこと。
それはあながち外れているとは思いません。
お祖父さまが兄妹愛を超えてリィスリ様のことを愛しておられたように、
イク兄さまも、ルルドピアスのことを真実、愛していたのでしょう。
それは私たちのような独善的で、独占欲の強い、ルルドにつきまとって
いくような女の我侭な愛ではなく、ルルドのことを包みこむことの出来る
イクファイファお兄さまという男の愛です。
それは誰にでも可能というわけではなく、イク兄さまが親切な良い人で、
ルルドのことがお好きであったからこそ可能だったことではあるけれど、
醜聞や薄っぺらい人生観を垂れ流してルルドの交友関係を片端から
潰していったスイレンお母さまも、あの兄妹の絆と、イク兄さまの優しい
愛情だけは、ついに奪うことは出来なかったのだわ。
それがどれほど難しくて稀有なことであるかは、スイレンお母さまの
けたたましい偽善と包囲網の手口を長年身近で見てきた私たちが
誰よりも身をもって知っています。

……私たちは莫迦だったわね、ブルーティア。
ルルドピアスを守るなどと、どの口が云えたのか。
私たちが行ってきたことは全てルルドピアスをひどく苦しめる
結果となっただけなのに。
女世界のことには疎いイク兄さまでしたが、彼は事情がどうあれ、
何も訊かず、云わず、ルルドがいちばん喜ぶことをルルドにあげることが
出来る人でした。
ルルドピアスが離宮に去る時も、迷わず附いて行ったイク兄さま。
いつもふざけたことばかりを云って道化になり、ルルドを笑わせていた
あの方のほうが、私たちよりも、お祖父さまや他の誰よりも、ルルドピアスの
助けと支えになっていたことを、認めようと思います。
ひかりの砂浜で貝殻を拾っていたルルドピアスは、やがて手籠を持って
私の夢の中から去ってしまいました。
白い、静かな光に包まれて、見たこともないほどにあの子はきれいだった。
穏やかな銀の波が寄せていたあの場所は、もしかしたら、と想いますが、
やがていつかは砂に埋もれてゆくであろう私たちには、それを知ることも
視ることも、赦されてはいないのでしょう。
私たちのルルドピアスは行ってしまいました。
別れの際に私たちの頬に接吻し、祝福してくれたあの子の真心は、
私の胸の中に白く小さな、あたたかな灯となって今も残っています。
オーガススィの城で過ごした私たち三人の子供の頃の想い出と共に、
それは消えることはないでしょう。
絶えることのない波の音のように、いつまでもいつまでも。

(追伸)
最後に、ブルティ、愕きの知らせがあるのよ。
コスモス前領主コスモス・クローバ様に、新領地の安堵と、再婚の話が
持ち上がっているそうです。
その縁談の有力候補に、なんと妹のサンシリアの名が上がっているとか。
今のところサンシリアには騎士の血が出ていませんが、
 『騎士の血の発露は気まぐれだから、そこは問題にはならぬのでは』
 『クローバ殿は高位騎士。もともとオーガススィ家とはご縁戚でもあることだ。
  生まれる御子は高確率で優れた騎士になるのでは』
ハイロウリーンの連中も、何だかすっかりもう決まったことのように、好ましく
この縁談を受け止めているの。頭にきたわ。
いくら良縁と騒がれても、サンシリアはまだ子供だし、初婚です。
それをクローバ様のような、これから老いる一方のおじさんに嫁がせる?
冗談はやめて。ブルーティアもそう思うでしょ?
第一、誰よりも可愛がっているサンシーをお祖父さまが手放すかしら。
それに期待しましょう。


相変わらず、書きたいことを書いている姉からの手紙であった。
検閲が入ったとしたら、係りは怒涛のようなこのレーレローザの
おしゃべりにさぞや辟易したことだろう。
 『あの時の貝殻は見つかったのだったかしら?』
見つかったわよ、とブルーティアはレーレローザからの手紙を
束ねて紐をかけた。
天幕の内は日差しに明るく照らされて、涼しい風が吹くたびに
波打つ布のさざなみ模様が小魚の影のようにゆらゆらと視界を泳いだ。
貝殻は見つかったわよ、レーレローザ。
子供たちが暮れゆく浜辺で貝殻を探している間、帰城をせかす
護衛や供人たちに、
 「もう少しいいじゃありませんの」
そう云ったのはスイレンお母さまよ。
 「子供の時間は一生に一度。あの子たちの好きにさせてあげましょう。
  見て、沈む夕陽に子供たちの髪が透けて、特にルルドピアスは
  空の光をまとった妖精のように、可愛らしいこと」
お母さまは馬車の窓から、懐かしい、優しいお顔をされて、貝殻を探す
私たちを見ていたわ。だんだんと空の色が昏くなり、青みを増した頃になって、
星の欠片を見つけるように、ルルドピアスがそれを見つけたの。
 「スイレン様、どうぞ」
ルルドピアスは馬車に駈け寄って、それをスイレンお母さまに渡しました。
お母さまはにっこり笑って、「まあ、本当にきれいな貝殻ね。どうもありがとう」
そう云って、砂だらけのルルドの手から貝殻を手の平に優しく受け取ると、
やわらかく微笑まれたわ。
今でも、お母さまはあの日の貝殻を宝石箱に仕舞って持っています。
波音に揺られていた帰りの馬車。
みんながはしゃいで、すっかり疲れて、まだ楽しみが続いているような、
それが終わってしまった寂寥を知るような、そんな安らぎに包まれて、
馬車の窓から遠くなっていく海を見ていたわ。
ルルドピアスが見つけた貝殻のような星が瞬いている、宵空を。
 「私はよく憶えているわよ、レーレローザ」
あの夕暮れの海岸と、金色の貝殻。誰もが倖せだった、一日を。


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一世代前まで、帝国に生まれた幼児たちが読み書きより先に
小唄と共に覚えるものは、騎士家の識別色であった。

 騎士の中の騎士ハイロウリーン、北の太陽、白に金。
 塔と霧の都ジュシュベンダ、運河の紫にアルバレス家の金と銀、
(欠番)
 サザンカの薔薇咲き誇る、紫に赤と金、知と学問のレイズン、青に黒銀。
(欠番)
 海賊の王者オーガススィ、月の銀に波がしらの灰。
 七大聖騎士家の後には三ツ星騎士家、
 古代王国コスモスの古き黒に伝統の金、藝術の都ナナセラを飾るは
 織物の黄色に糸の銀、山の麓のフェララ、緑の大地に小麦の金。
 めぐる、めぐるよ竜の血は。小鳥は歌うよ、七つの星を。

欠番のところには、滅亡した国が入る。
宝石と剣、タンジェリンの赤に銀。
そして青に銀。
それが、今はなきカルタラグン家の色である。
 「あれが西の砦か」
 「酒蔵から侵入した謎の騎士たちと守備軍が、ちょうど衝突している様子です」
ルルドピアス姫の護衛という名目により、姫君と共にコスモス城に入城を
果たした高位騎士パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダは
傍らのグラナンに確認を求めた。
 「いいかい、僕らはルルドピアス姫の護衛騎士だ。姫君を護るのは
  騎士の務めであると、何を訊かれてもこれで押し切るからな」
 「はい。まあ、真意はばればれでしょうけれど」
 「姫」
パトロベリは、ジュシュベンダ騎士に担がせた小さな輿に声をかけた。
 「ルルドピアス姫。騒がしいことですが、ご安心を」
輿の中の姫は、貝殻に隠された真珠のように静かであったが、その時
小さく何かを唄ったようだった。
勇壮なるかなカルタラグン、竜の誇りの青と銀。
パトロベリは砦へと馬を向けた。
 「さて、まずはフィブラン殿を探そうか。もともとルルドピアス姫は
  ハイロウリーン本国に送られるところを、クローバ・コスモスによって
  拉致された御方。姫をお届けにあがりましたと云えば、誰も僕たちを
  邪険に追い払いはしないさ」
ルルドピアスによって高位騎士の位を認められたパトロベリは、あれほど
長年毛嫌いして厭がっていたその称号に、調子よくすぐに適応してしまい、
心まで入れ替わったような、清々しい、あたらしい気分であった。
それはルルドピアスという神秘的な少女によってのみ、初めてパトロベリは
受け取る気になったのであったが、その理由はパトロベリにしか分からず、
またパトロベリにも、うまくは説明できぬことであった。
 「他の誰でもそうなるのかな。太古の青空や、野に吹き渡る、原始の
  強い風が見えたんだ。新緑に洗われるようにして、心が一瞬で
  とけていったよ」
死んだ母や、ジュシュベンダの恋人アニェスを彷彿とさせる、少女の
眸を見た時に。
グラナンはそんなパトロベリに不平を述べた。
 「ところで、騎士団を抜けたわたしなのに、まだ王子の
  お側にいることをゆるされているのは何故でしょう?」
 「僕の趣味」
 「そうですか」
 「あ、グラナン、あの一行はなんだろう」
グラナンは馬を拝領したこともあり、諦めて、パトロベリの関心の先に
あるものを馬鞍の上に伸び上がって確かめた。
見れば、ハイロウリーン軍に囲まれた西の砦に、旗を立てて速駈けで
向かっている麗々しい騎馬隊がある。
 「ハイロウリーン軍の増兵かな。いや、違う」
前方に眼をこらし、パトロベリとグラナンは、同時に声を放った。
 「カルタラグン家の紋章!」
 「どういうことだ」
さてはシュディリスかと、パトロベリはひやりとしたが、すぐに打ち消した。
 「サザンカに亡命し、現在はハイロウリーンに保護されているところの、
  ブラカン・オニキス・カルタラグンだ」
 「間違いないかと」
 「降ろして下さい」
花にぱらりと露が落ちるような感じだった。輿の中から、少女の声がした。
パトロベリがすぐに駈け寄り、輿の垂れ布を引き上げた。
 「姫。どうなさいました」
 「降ろして下さい。彼らを、あなた方を、私は連れて行きます」
パトロベリは、差し伸べられたルルドピアスの白い手を
おし抱くようにして受け取ると、巫女の一の騎士、世界一の
模範騎士のごとく、少女を輿から抱き降ろした。


ルビリアを追い、西の砦内部に入ったユスタスとロゼッタは、小部屋を
いくつか突破した広間で、眼を四方にはしらせて剣を構えた。
回廊の扉を、誰が、何の意図あって、彼らの前にあの時開いたのかは
不明であったが、何となくユスタスには、それがミケラン卿本人の
指図ではないかと思えた。
 「ユスタス様、騎士ルビリアの姿が」
 「いないね。ミケランを探しに行ったんだろう」
 「兵の姿も」
外壁に近い部屋や通路は、防衛上の目的からいつでも外敵に対して
段階的に閉鎖できるよう、鉄鋲を打った降ろし格子や扉を用意してある。
それらも今は強い力に突破されたようになって、すべて半開きのままに
なっていた。
壁や床に飛び散って付着した真新しい血を確かめながら、ユスタスは
竜巻が通り過ぎたような内部の惨状に、暗々たる気持ちになった。
ミケランの私兵といったところで、数は知れている。
内部の防御は思いのほか手薄で、がらんとしており、それがまさに
一度は栄えた人間の、つい先日まで権力の中枢にいた人間の凋落を
示しているようで、ミケランに面識のないユスタスにも、意外なほどに
そのことが辛く思われた。
 「音が反響して、戦闘の位置が分かりにくいですね」
迷路のような古い砦である。
どうやらルビリアは奥へと向かい、兵もそちらへと移動したようだった。
出遭いがしらにルビリアに斬られたと思しき負傷兵たちがそこかしこに
転がっているのを避けて、ユスタスはロゼッタの手を引いた。
 「ルビリアが潜入した以上、兵はミケランいる部屋を重点的に
  護っているはずだ。通路の屋根の上に兄さんがいる。今のうちだ」
簡単な説明で状況をのみ込むと、ロゼッタはユスタスよりも先に立って
三階へ向かう階段を駈け上がった。
突然入ってきた女騎士に外壁を護る兵らが剣を抜いたが、瞬く間に
ロゼッタの赤剣がそれを天井まではねとばした。
 「動くな。両手を頭の後ろに組んで壁に向かえ」
ロゼッタが兵をまとめて退かせると、屋根と向かい合わせになった
壁際の窓から、ユスタスは半身を乗り出して外を見た。
ちょうど眼下に回廊の屋根の端が届いている。
竜骨のごとき飾り瓦を辿っていくと、はたして、全体の半分の処まで
女人を連れて進んできた兄の姿があった。
ユスタスは女を支えている兄に手を振った。
 「兄さん、こっち!」
 「ユスタス」
シュディリスはたいそう愕いて、砦の窓に姿を現した弟の姿を認めた。
同じく愕いたエステラはシュディリスを振り仰いだ。
 「あれは」
 「弟です」
ユスタスは一本の縄のごとき細い屋根の尾根をざっと確かめると、
窓枠に手をかけた。
 「ロゼッタ、しばらく此処を頼むよ。僕は兄さんたちを連れて来る」
兎に角にも、兄と一緒にいる、くどいようだが運動神経の鈍そうな、
失礼ながらも見かけよりも重そうな、遅々として歩の進まないあの女の人を
まずは何とかしなければならない。
ユスタスは屋根にとび降りるつもりで窓枠に立ち上がった。
 「ユスタス」
シュディリスは手を振りかざすと、それを下に向け、身振りでユスタスの
注意を地上に向けさせた。
真下の通路でまだ騒いでいる包囲軍の耳を意識してか、シュディリスは
母のリィスリからフラワン家の子供たちに伝えられたオーガススィ古語を用いた。
 「ユスタス。こちらはいいから」
ユスタスはすぐに兄の話す言葉を解した。
ユスタスを追い払うような仕草を重ねて、シュディリスは続けた。
 「彼らを一人でも砦の中に入れてやって欲しい」
 「彼ら。彼らって、誰のこと」
どのみち、そこからでは破風板が邪魔をしてよく見えない。
ユスタスは身軽さを生かし、回廊の屋根の上に危なげなく降り立った。
あらためてユスタスが下を覗くと、先刻ロゼッタと共に闘っていた
所属不明の謎の騎士たちが、もう砦のすぐ近くまで迫っており、包囲軍の
ハイロウリーンと今にも刃を交えそうな、剣呑な押し問答中であった。
 「彼らは誰なの」
身振りを添えて、ユスタスは下を指した。兄から届いた返答は
思いがけないものだった。ユスタスは耳を疑った。
 「カルタラグンの生き残り?」
 「シュディリス様」
高所恐怖症を一時的に返上したエステラが、うろたえながら
大地の一点を指した。ユスタスも声を上げた。
 「あ、あいつ」
焦れたサンドライト・ナナセラが強引に包囲網の一端を突き崩した
ところだった。しかしさすがの位騎士も、ハイロウリーンの
粒揃いの豪腕騎士の前にはそう易々とことがはこばず、際どいことに
なっては押し戻され、引き戻されている。
 (彼らはカルタラグンの騎士なのか。……どうでもいいよなあ)
極論してしまえば完全なる部外者のユスタスとしては、ロゼッタと
親密にしていた憎たらしい騎士のことなどはあっさりと頭から
締め出してしまうことにして、屋根を難なく伝って走ると、兄の許へ駈け寄った。
 「兄さん!」
 「ユスタス」
青い空に白い雲が流れる、屋根の上の再会である。
ユスタスは満面の笑顔でシュディリスを見た。
思えばトレスピアノに不法侵入してきたレイズン軍から、兄が巫女を奪って
以来である。それでなくとも生い立ちが複雑なシュディリスのこと、あの日以降
ユスタスの抱いてきた心配のほどは並大抵のものではなく、無事にふたたび
逢えたことが、夢のように思われた。
 「ユスタス。変わりなく」
シュディリスも、元気そうな弟に、少し安堵の笑みをみせた。
それも一瞬、フラワン家の兄弟は、同時に口を開いた。
 「リリティスが」
 「姉さんが」
現状と事態の深刻さを互いに共有していることを知ったユスタスは
「兄さん、急ごう」と、急き切って促した。
ユスタスは前に進むと、シュディリスの前にいるエステラに願い出た。
 「失礼します。僕の背に凭れかかって頂けますか。
  貴女をおぶっていくのが安全だと思います」
 「ユスタス。こちらはミケラン・レイズン卿の友人の、エステラ嬢」
兄の紹介を受け、ユスタスはちょっと硬直したが、恭しくエステラの
手をとり、簡単に挨拶の口付けをした。
 「少々のご辛抱を」
 「皆さま、おはやく」
ロゼッタが物入れから縄梯子を見つけ出して下に投げた。
ユスタスはエステラを背負ったまま梯子を昇り、シュディリスが後に続いた。
彼らは無事に砦の中に入ることができた。
 「巫女を探すことが先決だね」
 「何処に閉じ込められておられるんだろう。上階かな」
兵を縛っておいて、四人で次の間へ移ると、物見の張り出し窓から
外の様子が一望できた。
地上から湧き上がった唐突な歓声に、
 「ユスタス様、あれを」
ロゼッタとユスタスは窓に駈け寄った。二人は愕きの声をあげた。
 「カルタラグンの旗だ!」
 「ハイロウリーン軍の中に、カルタラグンの旗が……」
すぐにロゼッタが気がついた。
 「ユスタス様、あれは、ブラカン・オニキス様です」
 「本当だ、オニキス王子だ。戦見物にでも来たのかな」
ユスタスとロゼッタは次の間に移ると、もっと外がよく見える窓を開いた。
旧タンジェリン領のはずれでの初対面よりこの方、思い切り心象の
良くない相手ながらも、ユスタスは現れたオニキスの様子にかつての
オニキスとは違うものを覚えて、見直すような思いだった。
ハイロウリーンの護衛を従えたオニキスは、きらびやかな鎧に身を包み、
カルタラグンの旗を立て、堂々と戦地に乗り込んでいた。
 「オニキス皇子」
 「まことに、オニキス皇子であられまするか」
オニキスの周囲には、泣き咽ばんばかりにカルタラグンの騎士たちが
殺到しており、馬上のオニキスを、それこそかつてのヒスイ皇子の
再来とばかりに仰ぎ見ていた。騎士マリリフトもその中にいた。
 「よくぞご無事で、オニキス皇子」
オニキスが彼らに何か声を掛けると、中には平伏して泣きじゃくる者まで
あらわれた。カルタラグン王朝があった頃は完全にヒスイ皇子の蔭にいた
第一皇子であったが、カルタラグンの残党にしてみれば、ヒスイ皇子との
容貌の類似を含めて、失ったものに巡り合えたかのような、言葉に尽くせぬ
強い感動があるのだろう。
 「オニキス様が。どういうことでしょうか」
 「おそらく下で騒いでいる郎党が、カルタラグン王朝の残党だと
  包囲軍にばれてしまったんじゃないのかな。それで、事態収拾の為に
  カルタラグン王家の生き残りであるオニキス卿のお出ましを
  フィブラン様が願い出たってところじゃないの」
 「ジュピタ皇家の皇太子さまの御前で?」
 「オニキス皇子を呼んだのは、殿下の許可を得てのことだと思う」
ユスタスはオニキスの姿を眺めた。
オニキスは、ルビリアを追って来たのかもしれなかった。
 「あの殿下なら是非ともそうすると思うな。昔にこだわっているのは
  当時を知る上の世代の人たちだけで、皇太子や僕たちにとっては、
  あ、そう、カルタラグンのかつての第一皇子がまだ生きてたの、
  そのくらいの感慨しかないんだし。ミケラン・レイズンの失墜と同時に
  いろんなことが劇的に動き出し、変わっていくのは、当然のことだろうね」 
オニキスはカルタラグンの王のごとく、片手を上げて、かつて王朝に
つとめていた流浪の騎士たちをねぎらっていた。そんなオニキスこそは、
長年の亡命生活による爛れを払拭したかのような晴れ晴れしい
顔つきで、何やら人格が一新したかのように、その態度にも物腰にも、
見栄えのよい、威厳めいた、年相応の重厚なものを漂わせていた。
 (日蔭の第一皇子とはいえ、シュディリス兄さんの伯父上だもんなあ)
ヒスイの御子であるシュディリス兄さんを差し置いて、と悔しがる弟の
身贔屓も、堂々たるオニキスを見ているうちに、雪のように小さくなった。
 「これでオニキスもカルタラグンも、次代皇帝のソラムダリヤ皇子に
  その存在と存続が認められたってことなんだろうな」
ミケランの転落とそれに伴う入れ替わりにユスタスが
思いを馳せていると、何かに仰天したロゼッタがユスタスの袖を引いた。
 「エステラ嬢と、シュディリス様が見当たりません」
振り向くと、二人共、姿を消していた。


砦の壁の外の騒ぎは、リリティスには、まだ見ぬ海の潮騒に思われた。
母が幾度となくフラワン家の暖炉の前で語り聞かせてくれた、海の音。
 「森の木々が風に騒ぐ音に似ています。
  世界の果てから寄せてくる、時の竪琴」
母の静かな口調も手伝って、幼いリリティスにはそれが、何千枚もの
美しい青い布の連なりと、大きな太陽と月の、空をふるわせる
金銀青の唱和に想われたものだった。
そんな追憶も、猛々しく、生々しい戦闘の音が迫るにつれて打ち砕かれた。
リリティスは、緊張に青褪めながら、椅子から立ち上がった。
かつて同じこの部屋でそれを察したクローバのように、優れた騎士のみが
生まれつき持つ予感で、或る気配を室の外に感じ、リリティスは壁に
立てかけていた剣を引き寄せた。
誰か来る。
とても強い騎士が。ここに来る。
扉が開いた。それはミケランだった。
 「ミケラン様……」
無言で室に入ってきたミケランは、リリティスの姿など眼に
入っていないかのようだった。
本家と同じ仕様で意匠された鎧装束に身を包んだミケランは、まっすぐに
巫女の眠る寝台まで近付き、その場で床に片膝をつくと、敬意をこめて
恭しく、これ以上はない厳かな所作で、眠る巫女の衣の裾に出陣の
挨拶の接吻をした。
 「ミケラン様」
用はそれだけであったとみえて、ミケランは立ち上がり、退室しようとした。
リリティスは追いすがった。
 「ミケラン様」
ミケランは巫女の顔に眼を据え、それから、ようやくリリティスに視線を転じた。
かつてこの部屋の壁に架けられてあった聖女の画の面影を、その美しい
裁きと寛恕の神聖の眸を、両者の上に等しく探すように。
旧領主の部屋に意識のない巫女と共に閉じ込められたリリティスは
ミケランの眼光に宿った凄みに打たれたようになって立ち竦んだ。
掠れた声で、リリティスはミケランに問うた。
 「ミケラン様。これから、どちらに……」
それに対して、思いがけなくも、ミケランは気さくな軽い微笑みで応えた。
まるでもうこの世にはいない者に見えた。
 「古い知り合いが来ているのでね。互いに永い夢だった。
  王座の間でお待ちしようと思う」
迫り来る潮のような、はげしい戦いの音が、その刻の到来を告げていた。
それはこの砦中を浸し、廊下という廊下を朱に染め、いかづちのように走り、
鬼火のように剣をふるって、ただ一人の姿を求めているのだった。
何もかもに関心を失くした者がそうするように、ミケランは穏やかに微笑み、
リリティスに貴婦人に対する一礼をとると、踵を返して退室していった。
 「ミケラン様……」
彼に伸ばした手は届かなかった。
リリティスはがくりと膝をついた。
 「巫女さま、おたすけ下さい。私は彼を失いたくありません」
苦悩も限界だった。リリティスは両手に顔を埋めて啜り泣いた。
 ----行きなさい
 「……巫女さま?」
怖ろしい予感に、リリティスは巫女の顔を仰いだ。
ユスキュダルの巫女は生気のない唇の色をして、花の命が
静かに終わるように、ひっそりと息をとめていた。
うろたえて、リリティスは呼んだ。
 「巫女さま、巫女さま」
巫女のかおかたちは、美しいままに、もう現世のものではないようだった。
眼には見えない硝子の柩に覆われたように近寄りがたく、夢の中の
もののように、遠く隔てられていた。
 「巫女さま」
応えはなかった。
 「ユスキュダルの巫女さま」
室内に迷い込んだ鳥のような、明るい影が、不意にリリティスの
手を掠め過ぎた。
リリティスはふらふらと立ち上がり、剣を持つと、そこから出て行った。


位騎士は研ぎ澄まされた感覚で相手の存在を感知する。
ましてや、極度に戦闘に特化し、磨きぬかれてきた騎士ならば。
ルビリア・タンジェリンは、歩廊を走り抜け、王座の間に向かった。
物理的な距離を超え、扉を透かして相手の存在を見ているかのように、
女騎士は強騎士の波長をその全身で察知した。旅路の果てを。
 「そこにいたの」
女騎士は閉ざされた扉に歩いていった。
主の歓喜に同調し、剣がかたかたとふるえていた。
 「タンジェリンの人々よ。父上、母上。そして私の中に
  受け継がれてきたタンジェリンの竜の血よ」
狂気の中に漂う赤い正気だけを女は見詰めて歩いた。
扉の上部に刻まれた古代コスモス王国の紋章が天窓からの光に浮き上がった。
床に女のあし音だけが響いた。氷を打つ雨音のような音だった。それだけが
女の道連れだった。女は赤い唇をひらいた。
 「もう少し待っていて」
 ----ルビリア、逃げろ!
緑の庭に蝶の幻を追うように、女は歩いた。
 「竜の血は死ななかった。眼の前で殺されてしまった貴方に、
  死に際に竜神の降臨を求めた貴方に、あの男の首を捧げる。
  見て、ヒスイ。私は貴方の望みをかなえる。貴方を殺したあの男に、
  私たちの国を滅ぼし、宮殿を焼き尽くしたあの男に、もう少しで
  手が届く。見ていて」
石造の回廊の奥から、誰かを探している切羽詰った声が響いてきた。
若い男の声だった。エステラ、何処です。
 ----かくれんぼしましょう、ヒスイ。最初はヒスイが鬼よ。
 「エステラ、返事を!」
ルビリアは振り向かず、前を見ていた。
一人のまだ若い女が、王座の間の入り口を背にして立っていた。
 「止まって下さい」
ふるえる声を励まして、女は女騎士の前に立ち塞がった。それは
騎士でもなく、コスモスの者でもなかった。ルビリアは、歩みを止めなかった。
女は後ろ手で扉を庇いながら、高位騎士に向けて護身用の剣をかざした。
瀟洒な細工の短剣には、レイズン本家の印が刻まれていた。
 「わたくしはエステラ。ミケラン様には触れないで。後生です、帰って下さい」
ルビリアの顔には何も浮かばなかった。エステラの声などまったく聴こえて
いないかのように、そこに女などいないかのように、女騎士は歩いて来た。
 「貴女の恨みとお覚悟はどうあれ、ルビリアさん」
エステラは気力を奮い立たせ、剣を握り締めた。
騎士は居ながらにして牙を剥いた猛獣よりも怖ろしい。
 「わたくしにも女の意地と愛がある。ミケラン様の味方です。
  ここをお通しするわけにはまいりません」
高位騎士がいかほどのものかをよく知る人間ならば決して出来ないような
無謀であった。エステラは両目を見開いて、その場を退かなかった。
ルビリアも、歩みを止めなかった。
 「退きなさい」
 「退きません」
 「そう」
女騎士は鞭のように剣をひと振りして、剣から血糊や肉片を払い落とした。
その音がまだ耳の底にあるうちに、女騎士は女の握り締める短剣を
通路の奥まではね飛ばしていた。
エステラの命が助かったのは、ひとえに、エステラが騎士では
なかったからだった。胸部に強い一撃を受けて、エステラは床に転がった。
 「お願い」
肋骨でも折れたのか、激痛を覚えた。叫ぼうとしても、掠れた声しか出なかった。
エステラは床を這い、ルビリアの前にもう一度身を投げ出した。
エステラは女騎士の足にすがりついた。
 「お願い。彼を殺さないで」
 ----やめて。ヒスイを殺さないで
 「ミケラン様を殺さないで。彼を愛しています。誰か来て、だれか」
婦女子には保護義務こそあれ、殺傷はご法度。騎士団に属する者ならば
誰でも骨の髄まで叩き込まれる事項どおりに、ひややかにルビリアは
エステラを無視し、跨ぎ越した。
 「待って。やめて」
エステラ。エステラ、何処にいる。
女を探す若い男の声は、正反対の方角へと遠く逸れていくようであった。
 「此処です、シュディリス様。此処です」
女騎士はエステラの涙にも、はぐれた女を探している若者の声にも
構わなかった。ルビリアは王座の間の扉を両手で押し開けた。



「続く]


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