■三一.

 季節問わず、以北の早朝は身が震えるほどに冷え込む。以南では味わえぬ冷気に起こされるようにして、藤子は眼を覚ました。 室内は北向きだったが、日が差し込むだけありがたい。生活のほとんどが地の底であった炭鉱基地のことを思えば、第十三基地は、快適とすらいえた。
 髪を簡単に手で梳いてまとめ、はだしの足を床におろす。水差しの中身を器に注ぐと、水は手の指先をぴりりと打つように冷やして、それはすぐに藤子の体温と同化した。 基地勤務の女子は通常大部屋か二人部屋におさまるが、藤子だけ幹部用の個室を与えられているのは、以南から来た藤子を泳がすつもりなのか、それとも違うのか、 それも藤子にとってはどちらでもいいことだった。
 配給の衣類を揃えて、靴下を履く為に寝台に腰を降ろす。下に着込む肌着は、軍用ということもあり、男物と区別がつかぬような装飾のないものだった。
「下着姿でうろつくなよ!」  昨夜の河上スバルの第一声を想い出して、藤子は我しらず、口許に笑みを浮かべた。扉が叩かれたので、てっきり当番の女子かと思った藤子が「どうぞ」と 促すと、入って来たのは、スバルだったのだ。
 藤子とスバルはしばらくの間、見詰め合っていた。次の瞬間、スバルは藤子を前述の台詞で叱り付けたのだ。藤子の私室である。廊下をうろついていたわけでもない。 うろたえた若者の理不尽な直情は、女からすれば、かわいい、と思われても仕方がないものだった。
「失礼したわ」
 怒られたからというのではないが、藤子は落ち着いて、スバルの見ている前で上着を肩にかけ、脱ぎかけていた靴を履き直した。 一日の労働の後で疲れてもいたし、早く室内に備え付けのシャワーを浴びたかったが、 眼の前にはスバルが半端な彫像のごとく立ち尽くしている。藤子はスバルが何か云うのを待った。その平静さがスバルをムカつかせたらしい。
「誰もいないからって、安心するなよ」
「……」
「だらしがないぜ」
 云いがかりだと、反論する気も起らない。
(彼とわたしは、相性が悪いのかしら)
 幾度となく反芻した疑問を、再度、藤子は想ってみる。美藤さまと同じ剣を遣う者でありながら。
 女の思い上がりと、嗤うといいわ。
 藤子は顔を洗った。アルミ製の器に湛えられた水は、銀色を帯びて今朝も暗い。あの時、わたしは確かに嬉しかったわ。彼が来てくれるのを待っていたから。
「何か、わたしに御用かしら」
「ああ」
 ぶっきらぼうにスバルは応え、もののついでを装った態度で、藤子の室を眺め回した。扉を後ろ手で閉めたのは、スバルだった。 それきり所在なく藤子の顔を見たり、かと思えば床に視線を落とす。こうして改めて近くで見ると、あぶないほどに若い、そんな若者だった。
(変な人)
 口には出さぬ藤子の独り言を敏感に察して、「何だよ」スバルの顔がこちらを向いた。藤子が無言でいると、スバルは口を曲げたまま、 「悪かったな。礼儀知らずで。上方の作法なんか、俺は知らないから」
 突然、挙動不審になり、早口で何かを懸命に断りはじめた。
「扉。こういう時は、開けておくべきなのか」
「こういう時……」
「あんたと、つまり、女と二人きりになる時だ。半開きにしておいたほうがいいのか」
 そんな質問をされるとは思わず、藤子は面食らった。
「どちらでも構わないわ」
 基地での日常生活に配慮も何もあったものではないことは、スバルがいちばんよく知っているであろうに。
「内密の話があるなら、閉じておいた方が都合がいいわ」
「じゃあ、閉めておくぞ」
 念押しをしてどうするつもりなのか。突然の訪問におけるスバルの意図については薄々察してはいたが、 藤子は自分からは訊ねず、寝台の端に腰を降ろしたままでいた。微弱な発電力ではあるものの、電灯は点いている。
「あのさ」
 待っていると、スバルは話し始めた。もしかすると極度の恥ずかしがり屋なのではないのかと思うほどの、ぎこちない切り出し方だった。 まるでこの若者は藤子のことを怖れてでもいるかのようだった。『瑞巌』の遣い手、以北軍のエースが。
 スバルの用件については見当がついていた。わざとこちらからは水を向けずに待った甲斐があり、スバルは本題に触れてきた。
「妹の千鳥のことだけど」
 藤子のいる寝台とは対面の壁に凭れて、スバルは上着の物入れを探った。煙草を探すような仕草だった。
次の名を云いたくないのが丸わかりのしかめっ面で、スバルはついに訊いた。
「バルトロメウから、その後、何か連絡があったか?」
 よくできました。教師の気分で、藤子はスバルを見上げた。失望させるのはしのびないけれど。
「いいえ」
 二人の影が、滲みのような模様を床につくってる。みるみる気落ちしていくかと思えば、スバルは固い表情のままだった。藤子は胸を突かれた。
「バルトロメウは、こう云ったわ」
 弱音や心情を女相手に吐露するのは、この若者にとっては、格別にしんどいことなのだ。妹のことを誰よりも案じている彼だ。察してやれぬ自分が悪かった。
「連絡がなくとも動きがないとは思わないで欲しいと。いかなる報告であれ、人を介して基地に届けることは避けようと思う。 疑いがかかると、互いに身動きがとれなくなるからと」
「個人的に亞多良と通じていると疑われるってことか」
「ごめんなさい」
「あんたが謝ることじゃない。そのくらいは最初から覚悟の上だ。でもそれなら、どうやって結果を知ればいい」
「彼がきっと巧く考えてくれるわ」
 藤子は請け合った。
「バルトロメウは、亜多良の船を束ねている実力者なの。海の男たちは、 わたしたちが想像する以上の、固い結束で結ばれている。人攫いの組織にも顔が利く彼なら、千鳥ちゃんの行方を必ず探し出してくれます」
「信用してるんだな。あいつのこと」
 若者の口調に混じる嫉妬に、藤子は気づかなかった。藤子は首を振った。
「信用しようと、決めたから」
「へえ……」
 厭味たらしく語尾を伸ばして、スバルは顎をそらした。一気に空気が悪くなった気がして、藤子は話題を変えた。
「久しぶりね。スバル君」
 スバルは眼を剥いて、まじまじと藤子を見返した。入室してから何分経ったと。が、藤子はあくまでも天然である。
「わたしも訊きたいことがあったわ。いいかしら」
「いいよ」
「『銀華』を操縦してきた、左大臣という方のことだけど。あの方はどういう方なのかしら」
「興味があるわけ」
「軍事秘密に関わることならば、質問は控えるけれど」
「この質問に対する回答は、対価交換といこう」
「交換?」
  「以北軍のことを教えるならば、その代わりにあんたの口から、以南軍のことを訊きたいね」
 藤子は膝の上で重ねていた両手を動かした。スバルは曖昧な顔つきで藤子の出方を待っていた。
 以南軍の情報。ぴんからきりまである。二階堂や桐生、或いは伊達奥州ならともかくも、スバルの場合は純然たる、興味本位に過ぎぬのだろう。以北とは違う青空と 樹木の広がる、あの南国。
「何でもいいよ」
 藤子の沈黙を警戒ととったか、スバルは軽く云った。話下手の自覚はないが、雑談が許される環境には育たなかった藤子にとっては、これは難しい申し出だった。
「困るなら、やめとこう」
「待って」
 出て行こうとするスバルを引き留め、藤子は立ちあがった。スバルは脚を止めた。
「本当は他に何か、わたしに話があったのではないのかしら」
 思いつきというよりは、女の勘がそう云わせた。スバルは近くから藤子を見下ろし、何かを云いかけ、それを止めた。 まだ名のつかぬ、覚醒未満の、しかし男と女の間に生まれることがあるそれが、予感のざわめきとなって心の奥深くで羽ばたきしながら、二人をよそよそしくさせていた。
 無意識のうちに、藤子はスバルの胸板を美藤のものと比較していた。心細い時に泣いて飛びこむはずの胸だった。美藤さまもそうしていいと、そうして欲しいと 何度も云って下さった。結局、一度も出来なかったけれど。
 今なら?
「千鳥は生きている」
 扉に手をかけ、スバルは藤子を近くから見詰めた。
「あんたが千鳥に渡した護符。あれが、千鳥を護ってくれている。そんな気がするんだ」
 身支度を整えた藤子は、いつものように、『さざなみ』を引き寄せた。室の中央に正座して剣を床におき、無我の一刻をもつ。これは昔から続けている、 身を清めた後の朝晩の儀式のようなものだった。それから藤子は神に祈るように、剣に向かって頭を下げた。
 どうか河上千鳥が彼の許に、河上スバルの許に、無事に戻りますように。


 昨日、日没時を狙ってスバルが藤子の室を訪れたのは、その時間なら夕食前で皆が忙しく、ひと眼につきにくいと考えたからだ。 小細工としてスバルは書類挟みを抱えて行ったので、該当の棟に入ることも容易かった。
 藤子の室の扉を叩く前、相も変わらずスバルはいろいろと余計なことを考えた。だいたいにおいて女と名のつく生き物がやや苦手である上に、 特別だと意識する異性、つまり、千鳥や藤子を前にすると、どういうわけか出来ることが出来なくなる。基本中の基本、何気ないご機嫌伺いすら。
 だが扉の前でたんまり逡巡したわりに、いざ入室を果たすと、そこにいた藤子の態度は大人らしく落ちついており、きれいな眼をじっとこちらにあてて、 年下のスバルを遊ばせているような余裕すらあった。そういえば、この女、こう見えて、以南から脱出してきた女だった。
 (変な女)
 相手にされていないと思った若者の鬱憤は、ことさらの意地となり、藤子への態度のまずさとなり、その反動として当然ながら、今日のスバルは落ち込んでいた。
「スバル君、昨日、お姫さまの室に行ったでしょう」
「何の用だったの、ねえねえ何の用」
 何処から見ていたのだと思うほど、女どもにがっつり目撃されていたことにも閉口だった。何分にも、藤子は以南の人間であり、客人なのか 人質なのか、はたまた亡命者なのか判然とせぬ立場であるが故に、さしものお喋り好きの詮索女たちも藤子には気易く声を掛けるというわけにはいかないらしく、 満たされぬその不足分をスバルから得ようと、実にくどい、しつこい。
「スバル」
「すまん、俺が全て悪かった」
「何よ、その過剰防衛反応」
 スバルの前に現れた六車澪は、両腕を上げて顔を覆ったスバルの手をぴしゃりと叩き、容赦なく背中を押した。
「例の左大臣が、『瑞巌』の遣い手をお呼びよ。格納庫で待ってるって」
「俺を」
「他に誰がいるのよ。お待ちかね」
「澪も来るのか」
「お茶くみにね。さっき戸口の処から左大臣のご尊顔をチラ見したわ。以前聴いたお声のとおりの、苦味ばしった渋いおじさまよ」
 気のせいか、澪の声が期待の高まりで上ずっている。
 渋いおじさまか。
 俺もそんな男だったなら、魁代藤子に対しても、もっとうまくやれるんだろうか。俺の前ではいつも、がっちがちに澄まし返っているあのお姫さまも、 他の男となら、花ひらくように違う顔を見せるのか。毛利美藤の前でなら。
 都合のいい男の妄想と、嗤うがいいさ。
 おこぼれにあずかりたいものだという、本音のあたりを押し殺し、スバルは澪を連れて急いだ。
「一応という但し書き付きだけど、分かったぞ、左大臣の正体」
 情報収集にかけては右に出る者のいない宗次が飛んで来たのは、一昨日のことだ。
「よく分かったな」
「聞いて愕け」
 宗次はスバルと虎市を狭苦しい用具置場に誘い入れた。何でも宗次は、掃除当番を代わってもらうことで、 左大臣が上部と話している最中の、談話室の隣室にしのび込んだらしい。
「結論から云うと、左大臣は陸奥丸さまとは関係なかった。伊達奥州さまの乳母の息子だ」
「奥州さまの乳兄弟か」
 スバルと虎市はうなった。
「なるほど。お年も近いな」
「奥州さまとは、ご兄弟のように育った時期もあるらしい」
「綽名が左大臣なのはどうしてだ。本名は」
 そればかりが気になるスバルが訊くと、宗次は首を振った。
「そこなんだが。分からない」
「なんだ」
「替え玉というのはどうだ」
 虎市が鋭いところをみせた。 「御年も格好も近く、遠眼には、奥州さまに見えなくもない。乳母の子にして幼年時代は共にお育ちだった。となれば、いざとなれば奥州さまの替え玉として 機能している面をお持ちの方だと考えられる」
「あ、そうか」
「名を伏されているのも、その為か」
 スバルは考え込んだ。虎市の説には説得力があるが、それならそれで、そういう方がいるともっと噂になってもよさそうなものだ。
「ほとんど、以北にはご不在だったとのことだ」
 宗次がそれに答えをくれた。
「諸国遊覧の旅がお好きで、以北にはたまにしか帰国しない。だから俺たちのような若組にとっては、彼を知らなくても不思議はないってこと」
「顔、見た?」
「見た見た。横顔だけな。俳優みたいな奴。悪役やってるんだけど善玉みたいな役の」
 どんな奴だ。
 それも今から分かることだ。格納庫が見えてきた。
「待って、スバル」
 手を繋いだ澪を引きずるようにして、スバルは脚を速めた。


 名がその者の人となりを示すものならば、巌とは、よく云ったものであった。藤子の兄、魁代巌は、 己にも他者にもきつい性格、冗談の一つも云わず、笑わず、人生すべてこれ自己鍛錬と主家への忠義で凝り固まって 出来たような、岩のような男であった。
 こういった人物に対して、たいていの人は下世話根性から漠然と疑問に思う。それで、風流の道の方はどうなのだと。
 謎である。
 どうせ巌のことであるから、仕えている毛利美藤が嫁取りをせぬ間は自らもその方面をなきものと、頑強に思い定めているのであろう。 そこからしてこの御仁は偏屈で、お堅い。血の繋がらぬ藤子という妹を身内に持ちながらも、妹との道ならぬ恋にはまるでもなく、むしろ藤子が国中で 騒がれるような美人であればあるほど、不要な汚点として、藤子を憎まず藤子の美質を疎ましく思うような、美的感覚の歪んだところさえあった。
「かつて、二度だけ、負けた」
 怖い眼をますます怖くして、巌はそう云い、何処か分からぬ辺りをぎりりと見詰める。一度目は霧立大和に。二度目は毛利美藤に、剣で勝負して負けたというのである。  人生完勝などあり得ないのであるから、そういうこともある。が、巌にとってそれは、庭の大木に頭をぶつけて悔いても足りぬほどの、 自分を責めて止まぬ何かであるらしかった。周囲が疲れる。
 幸いなことにというか、辛うじてというべきか、そんな巌であるが「負けた」と心底思い、技量及ばぬことに納得すると、 自己嫌悪はそれとしても、素直に相手を立て、敬服するという、よいところがあった。 例え魁代家が美藤を不吉なものとして好ましく思わずとも、巌は自分を負かした年下の美藤に仕える道を独断で選び 現在に至っている。そこにもそういった当人の、自分にも他人にも厳しいが故のある種の潔さ、苛烈にして峻厳な、自律の基準が起因していると思われる。
 巌の美藤への忠節はそこからきている。
 裏目に出るとこれまた、武士をあっさり廃業して医者の途を選んだ霧立に対して、自分を負かした男がなんたることだ、そんな複雑な憤慨を起こして 激昂するのだからややこしい。ややこしいが、一面では堅物であっても信頼のおける男だという風評も立つ。翔の監視役である宮田とはまた違う、忠勤の士として 巌の評価は高い。余計な無駄口を叩かず、怯まず、まさに巌の如き姿勢をもって、以南の底を支えている剣士である。
 その巌が、佩刀『雷電』を携えて、ぶらりと翔の前に立っていた。
「来てもらおう」
「……」
 いかに千客万来どんと来いの翔であっても、連続して男の客人は嬉しくない、ましてや、以前藤の庭でやりあった因縁の相手ともなれば、歓迎しようはずもない。
「どうも」
 ボケて通じる相手でもない。ついでに先日の美藤といい、今日の巌といい、主従ともどもお前たちは訪問の際、どうして庭から現れるのだ。
(以南の武士といえば、もっと明るく豪快で、臓腑に響く明解な理論をもった論客であり、その反面、肩を組んで酒を酌み交わすような人懐っこさがあると 聞いていたが、すっかり騙されたぜ)
 ぼやきたくもなる。もっともそれは以南から見た以北武士の印象についても同様な虚像が健在で、やれ寡黙だが芯は熱いだの、謙虚で羞恥心が強く女の尻に敷かれることを好み、 自慢話を恥とするだの、翔からすれば笑い飛ばしたくなるような偏った話になっている。
「血相を変えて一体どうされました。魁代どの」
 特にいけないと思うのは、彼らの眼付だった。以北武士の眼光が剃刀のように鋭いものであるならば、以南武士のそれは、 南の太陽を吸い込んで濡れ光る、黒い金剛石のようだ。底が知れない。
「お附き合い願おう」
「待って下さい」
「願おう」
 このやりとりは、すでに何度目かを数えていた。
「あの、魁代どの。呼び出しは構いませんが、この件、もちろん厳島さまには無断なのでしょう」
「貴殿は知らずともよいことだ」
「そうはいきません」
 いきなり現れて、外に連れ出そうとは、乱暴にもほどがある。翔の身の振り方一つで、以北に迷惑がかかるかも知れぬのだ。
「押しかけとは穏やかではありませんね」
「訊ねたいことがあると申したまでのこと」
 (剣『雷電』片手に、殺意満々で、何を云うだ)
 閉口しながら、翔は他に助けを求めることにした。
「個人的な尋問はご容赦願います。ちょっと失礼。宮田さーん、宮田さーん」
 この局面を切り抜けるべく、翔は庭に控えている宮田を呼んだ。
「宮田さん。すみませんが、魁代どのを玄関までお送りして……」
「九遠どの、ごめん」
 どん、と巌は縁側を一跳びに越え、八艘跳びもかくやの早業で片脚を翔の膝前に降ろすと、翔に迫った。翔は動かず、揃えた正座の膝を崩さなかった。さすがは主従だ。 美藤とやることがそっくりだ。
「御用向きは、分かっています」
 近寄って来た宮田を片手の動きで制し、翔は坐ったままで巌と対峙した。逆光になっているせいで、のしかかる巌の黒眼がさらに不気味に光り、暗い。
「きっと、何か誤解されているのでしょう」
「しらばっくれるか」
 はなから巌は聞く耳を持ってはいなかった。その表情はあくまでも岩である。翔は巌を見詰め返した。
「美藤さまに何やら吹き込んだのではないのかとお疑いなのでしょう。ご尤もです。何といっても魁代殿は美藤さまの一の武士ですから、 お役目柄、知らぬことがあれば気になるのも当然です」
 巌の眼がほそくなった。
「得体の知れない害虫は、早々のうちに懲らしめたくなるもの」
「私情はまじえぬ」
 思いっきり私情じゃないか、と返してやりたいところを堪え、翔はあくまでも下手から説得を試みた。
「わたしではなく、美藤さまにお確かめになって下さい。京都潜入は、美藤さまが云い出したことです。わたしは美藤さまの計画に愕き、個人的な意見として、 そのような隠密行動には一言反対はしましたが、意見を差し挟める立場でもありません。なので、聞かなかったことにしますと、お答えしました」
「美藤さまは、貴殿もひそかに京に連れて行くと仰せだ」
「出来るはずもない」
 少しは考えろ、血の気の多い莫迦野郎が。ここばかりは、翔も声を荒げ、巌を睨み返した。
「魁代どの。事情ありこの身は以南にあれど、わたしは以北軍の武士です。以南の方のご命令に従う義務は、たとえそれが毛利家の方からの頼みであっても皆無かと存じます。 美藤さまがわたしを相手に、京行きの御心積もりを打ち明けられたことについては、それはそれ。わたしは知りません。以南の問題に首を突っ込み、関わる気は毛頭ありません。 ましてや、京の都に同行させるなど、 美藤さまの真意がどこにあるものか、わたしの方こそお訊ねしたいくらいです」
「貴殿が美藤さまを騙し、唆したからであろうが。京に行くふりをして、逃亡するつもりであろう」
「話にならないな」
 手を打って、翔は宮田を再度呼んだ。だが宮田は、巌を庭から退けようとはしなかった。
「ご入り用かと思いまして」
 翔と巌の間に片膝をつき、無愛想に宮田が差し出したものは、翔の『響』だった。
「ちょっと、宮田さん」
「お家お取潰しとなろうとも、魁代さまは、間違えたことをなさる御方ではございません」
 何をどう聴いたらそうなるのだと云いたくなるような言い草で、宮田は巌の肩をもった。陰気に宮田は眼を伏せた。 事が発覚した際には、巌と共に罪に連座することも厭わぬらしかった。
「ご不都合あるようでしたら、個人的な試し合いということで、よろしいかと」
「わたしは闘いませんよ」
 そんな翔の言葉を裏切り、『響』が熱くなっていくのが感じられた。それは翔自身と連動していた。それを見抜いたものか、巌は言葉を重ねた。
「美藤さまは貴殿を連れて、本気で京に行くおつもりだ」

 ……いつか、血の華が咲くわ。わたしは平気。でもその時には、一緒にいてね。

 ごめん、澪。それから、スバル。基地のみんな。
 巌の『雷電』を前に、『響』が鞘の中でかたかたと闘いを求めて鳴っている。その音を遠く聴きながら、翔は以北の仲間に謝った。 魁代巌は眼を眇めて、庭に立ち、翔を待っていた。庭は、眩しかった。
(先に謝っとく。再会の約束は守れないかもしれない)
 鬱屈を振りほどいて一息つくと、翔は『響』の鞘を払い、抜き身を掲げた。太陽を刺すようにすうっと伸びた白刃の清さを、宮田が隅の日蔭から凝視しているのが視界の隅に 引っかかった。軽く剣を振り、翔は庭に降り立った。柳の枝を扱っているようだと揶揄された、その太刀捌きだった。
 そうさ、『響』。お前だけは誤魔化せない。俺こそ、この時を待っていた。


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