[レムリアの湊]
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Yukino Shiozaki

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■U.


 夜明けの風の中、傭兵は階段をのぼっていた。
急坂もないのに、やたらと坂道や石段の多い街である。
馬や馬車が通る幾本かの大道は別としても、街路に入れば、すべて坂と階段で
繋がれているといっても過言ではない。陸側からの敵にそなえ、騎馬を分散し、
容易に進入できないようにと築かれた大昔の知恵がそのまま残っているせいだ。
 ラション家の屋敷は、ハレを一望する丘の中腹にあった。
海側に防壁を張り巡らせ、ハレの街を複雑な迷路にした功労者の一族は、代々、
ハレを一望する高台に居を構えており、そのラション家の当主ホトーリオ・ラションと
ジャルディンは誼がある。
 今朝方、娼家の窓から眺めた海の上空の朝焼けはもう随分と色あせて、
うっすらと青く晴れてきていた。
グリッターこと赤毛のグリタンザには、夜にもう一度戻ってくることを約束した。
お代をおこうとすると、朝っぱらから化粧の濃い腰の曲がった婆が、
「ラション家のお殿さまとお知り合いとか。どうぞご贔屓に」
 出立前にまとめて払ってくれればよいと云ったので、ついでに今夜の予約も入れておいた。
 夜よりも、明け方のほうが波音が響く。
船乗りだったこともあるのに、あるいはそのせいか、朝の海を見ても、沖に停泊中の帆船をみても、
何の感慨もわかなかった。帆を上げたそれらの船は、長い長い航海の末に、
つかの間の休息をハレで得て、またふたたび帆をひろげて大海へと乗り出してゆく。
空と海の狭間を快速ですべる胸のすくような見た目とは裏腹に、船での生活は単調で、
かと思うと暴風雨の中、すれすれまでに傾斜した甲板の上で土砂降りの雨に叩かれながら
荒波と格闘することもあった。そしてようやく嵐が静まってみれば、隣りで頑張っていた何人かは
確実に波に浚われて姿を消していた。
 船乗りとして生きたあの数年は、後宮で生まれ育った黒髪の少年を根底から変えた。
交替でとる眠りとて安らかとはいかず、薄暗い下層甲板は波の揺れに合わせて、ぎぎ、ぎぎぎ、
と耳ざわりな音を立て、それは巨大な虫が船の中をみしみしと不気味に這い、
壁を喰む音に聴こえたものだった。
硬くて塩からいばかりの食事、濁りきって何かがわいた泥水のような飲料水、
垢とねずみとあらゆる汚濁。大勢の召使にかしずかれ、贅沢になれた身には
とりわけ地獄としか思えぬ日々であったが、やがてそれにも慣れた。
母の死後、一種の麻痺をおこして何も感じなくなっていた心は、海と風の中で
べつのものに研磨され、磨かれようとしていた。
吐くたびに胃の腑がただれるような船酔いの苦しみにのたうちまわっていた少年をからかい、
皮鞭で罰していた荒くれ船乗りたちは、或る日を境に少年の顔つきがしっかりとしたものに変わり、
飛来してきた鞭の先を彼が素手で掴んで止めてみせた時より何も云わなくなった。
漆黒の黒髪をなびかせて動索をたぐり、風向きに応じてすぐさま的確を行う少年の姿には、
一同を魅了してしまうような、生まれながらの一匹狼の孤立があった。
そしてそれは船乗りや傭兵の世界においては瞬時に男たちを掌握し、尊敬を勝ち得る、
王の風格とも同義だった。
 航海が好きかと訊かれたら、好きだと少年は応えた。
どことなく尊大で、へりくだることを一切せず、しかし仲間はよく助けた。
少年は船倉で博打を覚え、より巨きな船へと乗り移ることを繰り返し、寄航先の島では
船乗りのやるひととおりの経験をもった。
そのくせ、操帆中に足場綱から水夫が落ち、はるか下方の甲板でへしゃげるのを見た時も、
見せしめの鞭打ち刑にも、それを見ている間、彼だけは毛筋ひとつ動かさなかった。
生まれた時から陰謀に首まで漬かってきた少年にとって、血まなぐさい陰惨無残など
父王が王子たちに見せてきた処刑の様子に比べれば、何ほどのものではなかったのだ。
 女ばかりの後宮から、男ばかりの船へと移ったジャルディンの眼に映ったものは、
過去を吹き払う力強い潮風と、帆桁の高みから眺めるこの世界の、途方もない空漠だった。
波のうねりに放り上げられるたびに、帆を翼に変えて、空に吸い上げられるような解放を覚えた。
ばら色の払暁も、水色に澄み切る朝も、太陽に落ちて呑まれたかのような夕焼けも、
声なき声で叫ぶような大海の風の唸りと共に、豊かで雄々しく、美しいばかりだった。
ジャルディンは星空を仰いだ。胸に焼け落ちるようなその昏い寂寥こそを、彼は愛した。
どんな生き方もどんな死に様も、夜空を埋め尽くす星と同じく、
どれも同じで、どれもが一つきりだった。

 ------ただで賭けのかたに取られてたまるものか。あたしと勝負しない。黒髪の少年よ。

 囃し立てる口笛と共に現れた女は、腰に手をあてて、片手に剣を握り締めていた。
ジャルディン、まさかお前が一人の女につかまるとは思わなかった情けないと、
後から散々船乗りたちに嘆かれたり、ひやかされたものだった。
 「海賊にそなえて、この島の女はみんな強いぞ。気をつけろ」
 右に左に前に後ろに、互いに長剣を打ち付けて切ったはった、「危ねえ」酒場中の人間を
表にたたき出し、椅子という椅子を蹴散らすような大乱闘の末に、
誤って柱に剣を突き刺した女の腰を突き飛ばすように抱いて、床に倒れこんだ。
女はもう息が上がっていた。卓上の盃からこぼれた酒の雫がむき出しにした女の胸につめたく落ちた。
消えた灯りの煙が細くたなびく中、紫の煙に包まれて、賭けに負けた男の女をそうやって解放した。
 女は、グリタンザと名乗った。
後にグリタンザは、
「あの頃のあんたはまだ背が高いばかりのひよっ子に見えたのよ。とても若かった」
 勝てると思っていたのか、悔しそうにジャルディンに打ち明けたものである。
 本人の希望のままに島から近くの港へと送り届けたが、グリタンザは付き合いやすい女だったし、
ジャルディンとて必ずそこに帰るわけでもなく、要は船乗りにはよくある男と女の数年だった。
(ジャルディン。黒髪の少年を探してる異人がいたわよ。
知らないと云っておいた。翠の眸に浅黒い肌。特徴がそっくりだったけど、
あんたの肩には刺青なんかないと、そう云って追い払った)
 グリタンザは何かを知っている眼で、肩に火傷の跡がある少年を何気なく見つめていた。


 「ジャルディン。おはよう」
 ハレ領主ラション一族のすまう丘の上の屋敷に辿り着いたジャルディンを迎えたのは
昨日無事に此処を訪ねていた、エトラであった。
古代の別荘風に彫像を配した庭に面した露台で、エトラは朝食をとっていた。
涼しげな木々には剪定と手入れが行き届き、山から引き込んだ真水を満たした長方形の人口池は
珍しい花を咲かせながら、青い鏡のように朝の空を映している。
朝だというのに設えられた卓には結構なご馳走が並んでおり、召使に勧められるままに
ジャルディンも卓についた。
いつもの旅の続きのように、向き合って食事をとった。
 「市場で貴方とはぐれた後、ここの場所を訊いたの。ジャルディンの友人だと云ったら、
すぐに邸内に通して歓待してくれたわ」
「ラション家を訪問すると、よく分ったな」
「前の町で、あなたがハレから来た人に、領主ホトーリオをはじめとするラション家の方々が
つつがないかどうかを訊いていたじゃないの」
 ふと見れば、平生はあまり好まないはずの薄切り肉や食後の甘い焼き菓子も
エトラは平然と給仕に頷いて皿にとらせている。よほど口に合って旨いのか。
意外に思って見ていると、
「香辛料を使った肉料理や砂糖漬けのお菓子はほかに比べて値が高いと、あなたが云ったのよ」
 どうやらよほど高価なものだと思っていたらしい、相変わらずの金銭感覚おんちのほどを露呈して、
逆に批難がましくジャルディンを横目で見つめ返してきた。
旅の間宿の食堂で積極的に注文しなかった理由が、それか。旅の資金がそのせいで
一夜にして不如意になるとでも思ったか。
財布を握っているこちらも迂闊だったにせよ、そこまで面倒みれるか。
「オスタビオは」
「若旦那さまでしたら、このお時間にはいつも守護隊を率いて港の見廻りに出ておられます」
「今度、新造船をもつとか」
「アカラの造船所で造らせている、最新式の艦船でございます」
 茶をはこぶ召使が入れ替わるのにあわせるようにして、屋敷の奥からラション家の奥方が現れた。
「まあ! ジャルディン」
「マーリン。連れが面倒をおかけした」
「何を仰るの。素敵なお嬢さんをお迎えできて、こちらこそ嬉しく思いますわ。
かれこれ二年ぶりかしら。貴方はますます男ぶりがあがったのね、ジャルディン・クロウ」
 豊かな髪を結い上げた奥方は、旧知のジャルディンと再会した歓びを隠そうともせずに、
街中の小娘のように頬に朱をのぼらせて感じよく、明るく笑った。
二十三歳と十八歳の息子を抱えたマーリン・ラションは、ラション家の家政をあずかる者として、
快活かつ実際家な人であり、客室は昨夜のうちに用意してあるので、まずは寛ぐようにと
ジャルディンの案内をはきはきと召使に命じた。
「主人はアカラに招かれておりますの。でも昼には帰ってくるはずですわ」
「港の方に宿をとってある。迷惑でなければ、エトラのことだけを頼みたい」
「いけません。お二人とも、ラション家の大切なお客様よ」
 琥珀の眸をきらきらさせて、しかし有無を云わせぬ迫力でもって、奥方はジャルディンの腕を
がっしりと掴んだ。
「本当に、もっとしばしば立ち寄ってくれなければ。海から身を引いたとはいえ、
貴方はいまでも一流の船乗りなのですから」
「いや」
「いいえ、夫のホトーリオもそう思っていてよ。大嵐に遭って船が突風に転覆しかけた時、
たまたま水夫として乗り合わせていた貴方が見せた、あの機転、あの統率力。
『折れた檣を海中投棄し、生きている帆をもどせ』、ほぼ垂直にまで傾いた甲板にあっても
冷徹に落ち着いているんですからね! 稲光が渦巻く空にまで届くかと思われた貴方のあの声、
雷雨を浴びていたあの姿、すっかりハレの語り草になっているのよ」
 夫からの伝聞のくせに、まるで見てきたかのようにマーリンは語り、そうしながらもぐいぐいと
ジャルディンを二階の客室へと引っ張って行った。
 客室からは、海が一望できた。窓を開いて見事な眺めをジャルディンに見せると、
マーリンは手づからジャルディンの上衣を脱がせ、旅汚れの目立つ
それらを召使に持って行かせた。
昨晩、娼家の下男が全部洗って、火のしで乾かしてくれたはずなのだが、
育ちのいい奥方の眼にはそれでも我慢できぬほどに色褪せて汚れていると見えたらしい。
衝立を立てまわし、風呂桶を運んで熱い湯と水を用意させると、マーリンは
半裸にしたジャルディンをそこに押し込んだ。
「さっぱりしたら、オスタビオのものを着てちょうだい。背格好が同じだから着れるはずよ」
 庭を見下ろせば、エトラが庭の端に歩いていくところであった。
この奥方の手にかかって昨日はおそらく同様かそれ以上の目にあったとみえて、身奇麗であり、
男物の衣を借りているのは相変わらずであっても、細部には手のこんだ女ものが選ばれて、
金銀の糸で織られた腰帯がよく似合っていた。上質の織物、上質の香料。
それはそのまま、ラション家の財と、ハレの豊かさを示すものである。

「ところでジャルディン、あのお姫さまとは、どんなご関係かしら」

 奥方マーリンはオスタビオの服を着せたジャルディンを自分のほうへと向かせて
出来映えを点検すると、いきなり核心にふれてきた。
当然の疑問である。笑顔を浮かべたマーリンの眸は好奇心に光っていた。
「こちらの家で、あずかってもらいたい」
「ええ、それは構いませんわ。でも、どうして」
「さる貴族の子女だが、お家騒動に巻き込まれ、ほかに行き場がない。
尼僧院が似合うようなしおらしい娘でもないし、かといって身分が身分だ。
出来ればこの家の養女として、ゆくゆくはこの家から適当な家に嫁がせてやって欲しい。
あんた達になら任せられる。そう思って連れてきた」
「あら」
 マーリンは笑い出した。
「お安い御用ですよ。わたしは娘が欲しかったのよ。
昨夜からうちの家の者たちはみんな彼女に見惚れてしまって大変なのよ。
生まれつきの女王さまのようね、素敵な子だわ。
下の息子のお嫁さんにもらいたいと云ったら、貴方はそれでもいいのかしら。
いずれにせよ、ホトーリオと相談してみましょう。
アカラから戻って来て貴方がいるのをみたら、主人はきっと歓ぶわ」
 アカラは、ハレとは戦時同盟を結んでいる新興の港街で、
ハレからは順風で海路二日の距離にある。
そろそろ領主の御座船であることを示す長旗を立てた船が海に見えはせぬかと彼らが
窓辺に出るのと、港湾の鐘が突然、巨大な音で鳴り出すのが同時であった。
 カーンカーンカーン。
空をふるわす重い音に、さっと奥方の顔色が変わった。
それは何度聴いても慣れることのない、黒い不幸の訪れ、異常事態を告げる鐘だった。
朝市に賑わうハレの街は一瞬、化石となったように静まり返り、街中の誰もが海を見た。
 カーンカーンカーン。
「敵襲! 敵襲」
 打ち鳴らされる鐘の音は海からの敵の来襲を告げるものであった。
ジャルディンと共に階下に駆け下りながら、マーリンは留守を守るラション家の奥方に相応しく
顔を引き締めて、鳴り響く鐘と不安に負けぬだけの声を邸内に張り上げた。
「誰ぞ、詳しく」
「奥方さま、船影は五、旗印なし。快速武装船」
 目のいい者が両手で数を示して、即座に庭先から応える。ジャルディンはもう支度を終えていた。
その間にも、帆をかかげた武装帆船は、糸でひかれるようにして、みるみる水平線上に姿を現す。
召使たちがうろたえた様子をみせるのへ、マーリンの叱咤がとんだ。
「領主さま不在とて、慌てるでない。ハレの防壁は破られはしません。
オスタビオが迎撃の指揮を執り、いつものように沿岸守護隊が撃退するでしょう。
海沿いの邑には避難勧告を発しなさい」
「防壁を閉じ、浜に誘い出して各個撃破を」
「ええ、ジャルディン」
「奥方さま、不審軍船は西の浜に向かっています。海賊です」
「西は手薄だわ。夫に随行してみんなアカラよ。民を誘導する兵が足りない」
「俺が行こう」
「お願い」
 全幅の信頼を寄せているものか、奥方はジャルディンに頼むことをそれ以上躊躇しなかった。
そうしている間にも帆を張った軍船はみるみるハレに近付いて、海岸に騎馬隊が
駆け回っているのが遠目に見えた。店をたたんで逃げ惑う人々の混乱が風にのってここまで届いた。
「奥方さま、あれを」
「分っています」
 海岸を望見する庭の突端でマーリンは唇を噛んだ。
ハレに接近してくる五隻の武装帆船のうち一隻が群れから離れ、ぐっと進路を変えて、
海上の獲物に襲い掛かろうとしている。
その先にあるのは岬を回って現れたハレ領主ホトーリオ・ラションの御座船だった。
展帆した武装船は、護衛艦を従えた領主の旗艦に迫る。
しかも、先が二つの三角に分かれた長旗を掲げたホトーリオの船は、沖合いに
遠ざかって逃げるどころか、まっすぐにその賊船との勝負を挑むつもりのようで、
速力をいっぱいに、護衛艦と共にこちらも帆走を速めているではないか。
折りしも強風が吹きつけて船は陸の方へと吹き流されており、船影は手で
手繰り寄せそうなほどにハレに迫っていた。
「守護隊長オスタビオ様からのご伝言! 『防壁を閉鎖し、海賊と交戦す』」
「ホトーリオ様の旗艦から旗旒信号! 『手助け不要。濱の守りを固め、抗戦せよ』」
 時をおかず、どん、どんという鈍い砲声が海と陸の双方から上がった。
海の彼方の超帝国と比べて技術革新がはるかに遅れているこちらの大陸における大砲は
射程が短く、また的中率も至近戦に持ち込まぬ限りはまぐれあたり程度で、投石と変わらぬような
原始的代物であったが、それでも鳴り響いたその音は、ハレの街を混乱に陥れるには
じゅうぶんな効果があった。砲弾はすべて海に落ちて、水柱が立つのが見えた。
 そこへ、オスタビオの弟クロータスが息を堰ききって走りよってきた。
「クロータス」
「母上、わたしもジュルディンと共に港に」
「いけません。貴方はラション家の次男です。父と兄に何かあった時にはあなたがハレの領主です」
「クロータス」
「ジャルディン、あれは最近近海を荒らしまわっている海賊だ。兄上が心配だ」
「クロータス、お前はここに残って、家を守れ」
 マーリンは後妻である。前夫の子クロータスを連れて、従兄であったホトーリオ・ラションと再婚した。
したがってオスタビオとクロータスの血は繋がっていないが、クロータスが異母兄オスタビオを慕うこと、
オスタビオが弟を可愛がること、家族の仲の良さは実の親子もかくやであった。
マーリンの前夫であり、ホトーリオの親友でもあった男は、ハレを襲った海賊と闘って死んだ。
遺体は焼き討ちにあった船ごと燃やされて還らなかった。赤子のクロータスを抱えて、その模様を
十八年前、マーリンは港を望む望楼から見ていたのだという。
 馬にとび乗り、丘の坂道を駈け下ろうとしたジャルディンは、ふと顔を上げた。
青空に薄紅色の花があった。その花木を透かして、敷地の柵に手をかけてこちらを見送っている
エトラと目が合った。少女らしい潔癖と少女らしからぬ孤高の威厳をもった、
沈着冷静なその無表情には、誰よりも前で海を見つめている美しい船首像のごとく、
何となく人心を落ち着かせるものがあった。
陽光がその短い髪に金の王冠をつくっていた。航海を見送る女が、よくこういう顔をする。
もう一度、今度は先刻よりももっと間合いを詰めて街の鐘がはげしく連打された。
ジャルディンは馬腹を蹴り、海に向かった。


 防壁に入れ!
 いそげ、防壁の内に入れ!
 城壁というには本格的には要塞化はしておらず、防波堤というには
分厚く聳え立って外敵を阻むハレの防壁は、港と人々が住む住居区画を遮断して、
海岸沿いに築かれていた。
天然の入り江を利用して築港されたこの港は、戦火で完全消失したことこそないものの、
その代わりご他聞にもれず海賊からの被害は免れえず、この治に赴任した
ラション家初代の命により海側に外塁が築かれたのがそのはじめである。
ハレ領は三方ではなく東西が山であり、風の流れは山並みに押し戻されることなく
街中を吹き抜けて涼をもたらすことから、堤を築くことが可能となった。
 海賊の主な狙いは埠頭に建ち並ぶ倉庫と、防壁を乗り越えての略奪である。
それゆえ、海賊が乗り込んでくる波打ち際が攻防戦の戦場となるのが常であり、海賊来襲ともなれば
一斉に街の鐘が鳴り響いて、ハレの住民は財宝袋を片手にできるだけ陸地奥深くへと避難する。
いつもなら船倉に荷を運ぶ荷馬車や荷役夫、船員や漁師が行き交う防壁の大門は、今は逃げ惑う
人々と軍馬が埋めていた。
「防壁に入れ。海賊だ、防壁に入れ」
「慌てるな、子供と老人を先に通せ」
 海沿いの小邑から家財や家畜を積めるだけ積み込んだ荷車とともに慌てふためく人々が
門に殺到するのを、怒鳴りつけて落ち着かせるその間にも、街の鐘は乱打され、
大砲の音が鼓膜を震わせて空に轟いた。はぐれた親を求めてわめき泣いている子供が
反対方向に迷おうとするその首根っこを引っ掴んで連れ戻し、戸板に病人をのせて兵に運ばせ、
「残った者はいないか、残った者はいないか!」
「門を閉めるぞ」
 ひととおり邑を巡回し終わったのは、海賊を迎え撃つハレの守護隊が埠頭に出揃った頃であった。
防壁の大門が内側から大急ぎで閉められるのを見届けたジャルディンは、すぐに海岸に馬を戻した。
黒髪をなびかせて港を駈ける傭兵に、とび付くようにして寄り添う騎馬がある。
大急ぎで身につけたらしい簡易の鎧をはいた、若い男だった。
「ジャルディン!」
「オスタビオ。すぐに出せる船はあるか」
「父を助けに行ってくれるか」
 占領を目的とした戦とは違い、海賊は決して長居しない。
略奪するだけするとさっと海に引き上げて、また別の港を襲い、
その間に復興した港町がまた肥え太るのを虎視眈々と待つのが賊の遣り口である。
ハレ側は小船に乗り移って次々と浜に殺到してくる海賊を追い返して、被害を最小限に抑えればいい。
しかし、領主が海賊の人質となれば、話は別である。
莫大な身代金を要求され、ハレの領主そうなったとあれば、海賊に対して毅然とした態度を保ってきた
近隣の港にも動揺がはしり、示しがつかない。ホトーリオ・ラションもそれを知るからこそ、むざむざ
拿捕されることを選ばず、海上での交戦に持ち込んだのであろう。
領民を見殺しにして逃げ、海賊の人質になるくらいならば闘死も辞さぬとは、
相変わらず領主ホトーリオは意気軒昂で達者なようだ。
 轟音が上がった。
領主の護衛船が賊船とすれ違いざま砲撃の直撃を受けて、その船体の上部が
木っ端微塵に破砕されたところであった。護衛といっても、旗艦に比べればもとより
装甲も武装も整わぬ儀礼的なお飾りである、まああんなものだろう。
領主のいる艦から離れずに、せめてもの楯となって敵船にくらいつき、
時間稼ぎをしてくれただけも艦長には勇気がある。
大木がなぎ倒されるような格好で帆柱を折り、主帆を失ったその護衛船が、
ぐらぐらと横揺れしながら風に流されるままに現場から離脱してゆく様を、砲煙と、
海と陸の双方から一斉に放たれた火矢の雨が隠した。
「ジャルディン、父を頼む」
「護衛艦を失い、孤立されたる座艦『夜の蝶々』号の救援にこれより向かう」
 オスタビオがこちらに割いてくれた百名の兵を二艘にふり分けて、馬を乗りすてた
ジャルディンは桟橋から先頭の長艇にとび移った。
「櫂につけ。漕ぎ方用意、号令!」
 云われるまでもない。
突然現れて指揮を執る黒髪の傭兵が何者かとも問い返すことなく、
海の男たちは一斉に櫂にとびつき、二艘の長艇は夜の蝶々号目指して力いっぱい波に乗り出した。
呼吸を合わせた櫂の動きひとつで青波に切り込んでいくこの抗力と推進力、
力強い律動とうねり、頬を打つこの波しぶきに、頭で考えるよりも早くからだが海原の
全てを思い出し、たちまちにジャルディンは陸のことを忘れた。海で男になった。帰ってきた。
 「艦尾に回り込め」
 夜の蝶々号はすでに湾内に入っていた。自ら囮となって攻撃側の注意を引き寄せるつもりなのか、
領主の座船であることを示す長旗を降ろしておらず、それどころか、ホトーリオ自らが夜の蝶々号の
上甲板に出て、舷牆に手をかけ、挑発的に胸をそらして海賊船を睨みつけている。
中甲板に隠れようともせず、そうやって悠然と潮風に全身をさらしている男の姿に、
海賊たちはますます闘争心をたぎらせ、功にはやって勇み立っていることだろう。
 舷側は強度でも船首から船尾の縦方向は脆弱なのが帆船の基本構造である。
真正面から砲弾を喰らわぬように互いにそれを避けながら、片舷側の大砲を打ち合い、
舷舷相摩して闘うのがこの時代の海戦ならば、横並びになったところで有無をいわさず乗り移り、
獲物を捕捉するのが海賊である。
耳をつんざき、腹を割るような轟音と共に、今しも横に並んだ両艦が激突し、
それに伴って海面におこった大波が、山から谷にすべりおとすようにして接近するジャルディンたちの
長艇を傾けたが、横転することなく全員無事だった。
海賊に乗り移られることを防ぐために、夜の蝶々号の甲板には防索網が張りめぐらされていたが、
その作業が間に合わず、それも途中で放棄されている。
きらめく武器を片手に喚声をあげ、海賊が夜の蝶々号に鉤縄と、梯子、渡り板をかけて
続々と乗り込みはじめていた。また或る者は綱にぶら下がっていた。とび移ろうというのである。
すでに夜の蝶々号の甲板は戦場と化しており、砲撃で壊れたものの破片に混じって、
周囲の海面に人間がばらばらと落ちてきては、二度とは上がってはこなかった。
近づく艘を見た海賊がこちらを指して口々に何かを叫び、矢を射てくるのを避けて、
ジャルディンは艇を夜の蝶々号の船尾舷側に横着けした。
 眼の前に鎖が垂れている。見上げる艦の側面は空を半分隠して聳え立つ壁であり、
はるか上方の雲のあたりで起こっているのは、城の攻防戦にも似た烈しい剣戟の音であった。
崖が覆いかぶさってくるような船の巨体を海面から仰いで高みを目指す、この瞬間が好きだ。
長艇の船べりから波の泡立つ間を飛び越え、片手で鎖を掴んだジャルディンは艦を昇り始めた。



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