[レムリアの湊]
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Yukino Shiozaki

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■V.


 舷縁を乗り越えて『夜の蝶々』号の船尾甲板に降り立ったジャルディンの眼に
まずとびこんで来たのは、彼らが無事に到達するまでその場を守ってくれていた水夫が
打ち倒されるところであった。太陽と、斧が頭上にあった。剣柄を掴まれたが、
ジャルディンはそれを掴ませたまま側溝に流れている血を跳ね上げて海賊を蹴り飛ばし、
引き抜いた剣をすかさずその胸に立てた。
 静索を伝って上がってくる後続の兵を上に引き上げ、後は彼らに任せると、
血塗れた甲板を回転しながら転がってきた手斧を拾い上げ、ジャルディンは船尾楼を目指した。
ハレ領主の御座船『夜の蝶々』号と海賊船は、どちらも大砲を積んでいたが、
こちらの砲を操作するものは片端から乗り込んできた海賊の白刃の下に倒れ、
一方的に斉射を受けているのは夜の蝶々号のほうであった。
どおん、という音がして、舷側と帆桁の一部が砲撃に吹っ飛ばされて海に落ち、
はね上がった破片がとび散りながら上から降ってきた。
甲板の上で蛇のようにのたうつ索具の切れ端をまたぎこし、ジャルディンは次々と海賊を切り伏せた。
大揺れしている艦はいたるところで白兵戦の真っ只中であったが、
その合間を掻き分ける間にも、直進しているがごとく、黒髪の傭兵の歩みには遅滞がなかった。
「サー・ホトーリオ・ラション。無事か」
「夜の蝶々号にようこそ」
 決死の覚悟で船尾楼を守っている回航員の輪の中から片手が上がり、
ハレの領主が姿を見せた。領主は濃青に金銀で模様を縫い取った礼服のまま、
すぐさまジャルディンと背中合わせになり賊と剣をあわせた。
周囲には砲煙が旗のようにたなびいており、指示を出すには大声を出さねばならなかった。
「ご覧のとおり少々とり散らかっている。ジャルディン、久しぶりだ」
「二艘で百人連れてきた。浜辺の指揮はオスタビオが執っている」
「結構」
 言葉はそれで足りた。
 ホトーリオ・ラションは四十歳とはとてもまだ見えぬ若々しい男で、二十三歳の長子オスタビオ、
後妻であるマーリン、その連れ子で十八歳になるクロータスを抱えるラション家の家長として、
この二十年ハレを統べてきた。近隣諸国から「海の狐」とあだ名されているとおり、
やや小柄な痩身ながら、炯々とひかる鋭い眼つき、陽にやけた逞しい身体、
俊敏な身のこなしと身丈を裏切る豪快な気性で、海の男たちの信頼を勝ち得、
彼らをよく束ねてきた。
 彼はひじょうに若くして息子オスタビオを得たが、オスタビオの母親については
産褥で死んだとしか知られていない。その年頃の海の若者がやることだ、どうせ
近隣の漁村の女であろうというのが定説になってはいるものの、その真相は不明である。
しかしそれはオスタビオの出自を何ら傷つけるものではなかった。
認知するだけ偉かったとかえって美談になっているほどであり、長子オスタビオこそは
ホトーリオが正式に嫡子と認めた誰憚ることのないラション家の世嗣、
かりに疑り深い者がいたとしても、両名を並べてみればその顔立ちの類似性からも、
彼らがまことに血の繋がった親子であることについては、認めざるを得なかったであろう。
ホトーリオとオスタビオはよく兄弟に間違えられて、彼らもそれを愉しんでいるようなところがあった。
 母を喪った子を、ホトーリオは実に可愛がって育てた。
どんなところにも乳母ごと息子を連れて行き、それこそ歳の離れた弟の面倒をみるようにして、
船の上、つまり海のゆりかごに男子の成長をあずけたが、ホトーリオはそうすることで
母のいないオスタビオに広い世界とそこを渡る船、海の男たちという仲間を与えたものである。
そして十八年前、夫をこの港で失った従妹のマーリンが後妻に入り、その乳飲み子であった
クロータスを得てからも、ホトーリオはクロータスを実子オスタビオと同様に船に連れて行き、
息子二人をわけ隔てなく海の男に育て上げた。
 このような勝手が大目に見られたのには理由がある。
ホトーリオは、実はラション家の三男であった。
兄と次兄がそれぞれ海戦と難破で帰らぬ人となったため、三男の彼がラション家の跡継に
思いがけなく昇格したのであるが、それはハレの街にとっては歓迎すべきことであった。
父の死後領主となったホトーリオは、幼い息子オスタビオを抱えた弱冠二十歳の若者ながら、
以後二十年の在位の間、立派にその期待に応えてみせたのである。
 そのハレ領主ホトーリオはただ今、ハレの港を襲撃した海賊と交戦の真っ只中にあり、
武装としては貧弱な礼装艦も何のその、海のきつねは猛然と海賊に掴みかかり、立ち向かっていた。
同盟国アカラから母港への帰路、ハレが襲われているのを見た領主は、引き返して
沿岸に逃げることをせず、座艦であることを示す長旗を堂々と大檣の頂きにひるがえしたまま、
船脚を速めて海賊船の群れの中につっ込むことを選んだのである。

「賊船をつきはなせ!」
 座艦、夜の蝶々号は巨大な丸太でもって横着けした海賊船を押し戻そうとしていた。
血ですべる甲板で無駄な努力をしている男たちには構わずに、動索の一つを使って
振り子のように空中から飛び込んできた賊を、ジャルディンは下で待ち受けて剣で串刺しにした。
桟橋から出発した二艘のうち、もう一艘の長艇は海賊船側に回らせたが、
甲板にまだ彼らの姿がないところを見ると、邪魔立てされて上には昇れないらしい。
「長艇に移られよ、ホトーリオ」
「この船を海賊どもに渡すわけにはいかぬよ」
 ホトーリオは飄々と足場を変えては次から次へと海賊の剣をなぎ払うことで応えた。
後ろで束ねてあるホトーリオの髪と、傭兵の黒髪が、また近くなった。
ホトーリオは顎で夜の蝶々号の船首を示した。海賊船がそこに曳索をかけている。
ジャルディンは船尾を見廻した。混沌となった甲板ではどこに誰がいるか分らない。
「艦長はいるか」
「ここです」
「転針用意だ。曳索のほうは俺が切る」
「艦長、こちらはわしの友人だ。彼の云うとおりにしたまえ」
「アイ・サー」
 奇声や喚声を上げて船に乗り移ってくる海賊の目的は、ハレ領主の身柄である。
目的が絞られている以上、いまや夜の蝶々号の甲板は領主をめぐる両者の激突による
局地的な烈しい戦場と化していた。
しかも領主ごと夜の蝶々号を奪おうとする賊どもは、砲撃の合間にも牽引用の綱を
両艦の間に架け終えており、艦を制圧するのを待って、艤装も美々しい夜の蝶々号を
戦利品として引っ張っていこうとしている。
海賊船に比べて礼装艦夜の蝶々号は小型であり、最新式の砲をもってしても、
賊船の装甲の分厚い腹を打ち抜くには届かず、丸太で押し返そうにも、あちらの巨体は
びくともしなかった。
 吹き飛ばされた帆柱の破片をかいくぐり、ジャルディンは下の海面をのぞいた。
幸いなことに長艇は砲弾による落下物の直撃を免れて、一旦は押し流されたものの、
熟練の漕ぎ手を数名残したまま、まだぴたりと艦につけている。
突然、女たちの悲鳴が後方から上がった。
女たちが固まって避難していた船尾船室の壁が、砲撃で吹き飛ばされたのである。
砲音のこだまが止むのにあわせて、半壊になった室から、眼のさめるように美しい貴女が現れた。
青空に金茶の巻き毛が流れるその様は、硝煙の黒い煙の中から花が咲き出でたようにも見えた。
貴女は、降り注いだ破片を髪やドレスから払い落とすと、すぐさま
机や椅子の破片をかきわけて、腰を抜かしている侍女たちを助け起こした。
「オスタビオの許婚、アカラのクラリサ嬢だ」
 新たな火薬を運ばせ、下部砲列から海賊船に向けて砲撃を加えるように命じてから、
ホトーリオはせわしく傭兵を振り返った。
「彼女たちを船から降ろしてやってくれ、ジャルディン」
「こっちへ来い」
 片手を伸ばすと、あたりの阿鼻叫喚を怖れるでもなく、クラリサはさっと走り寄ってきた。
後に続く歯の根が合わぬほどに蒼褪めて下を向いている侍女たちと違い、
クラリサは落ち着いており、その腕に細剣を握り締めて、甲板の攻防をしっかりと見つめていた。
 下方の長艇に合図すると、ジャルディンは手すりの合間から鎖梯子を下に投げ落とした。
通常女客の海上での乗降には舷門を通して椅子やたらいを使うのだが、
そんなご丁寧なことをしている暇はない。
「下を見るな。海に落ちてもみだりに動くな。すぐに艇の彼らが海中から拾い上げてくれる」
 足許に倒れている海賊の死体をまともに見た侍女が悲鳴を放ったが、クラリサはすぐに
海に背中を向けると、身をかがめ、梯子に飾りつきの靴先をかけた。馴れないものにとっては、
空中に放り出されたように感じるはずだ。
「手を貸そう」
 ジャルディンがクラリサの両腕を支えた。傭兵とクラリサの眼が合った。
「一段ずつ数をかぞえて降りろ。下を見るな」
「皆さま、お気をつけて」
 ジャルディンとホトーリオを見上げた冷静な眼が、その高慢さと気丈さと、それゆえにいっそう
女らしく映る小さな顔を、気高いものに見せていた。クラリサの手は強ばってはいたが
ふるえてはおらず、やがて艇に立ち上がってそれを支える者たちの手に引き取られ、
無事に長艇に降り立った。主人と同じく勇気のある侍女がその後に続いた。
何人かの侍女は海面までの高さと船の揺れを怖れて舷縁に近寄ることすらできなかったので、
ホトーリオは彼女たちに人をつけて下甲板に降ろさせた。
 クラリサを乗せた長艇が船尾から離れると、入れ違いに海賊に乗り込むことを諦めたもう一方の
長艇が漕ぎ寄って、続々とこちらの甲板に昇ってきた。
彼らの中には砲を扱える者もおり、心得のある者は味方の屍を乗り越えてまだ使える砲身に駆け寄ると、
大急ぎで砲弾を装填して、「撃てッ」、髭面の青年の指揮のもと、敵艦の甲板めがけて
次々と反撃を加え始めた。耳を聾する轟音と火薬の煙に、上空でばたばたと帆がはねた。
髭面は両腕を振り回して斉射を命じた。
「ぶっ殺せ、ひとり残らず地獄に送ってやれ、砲撃どんどん撃て」
「サー・ホトーリオ。港を」
 横静索をたぐって下から昇ってくる海賊の脳天を殴りながら、檣楼にいる水夫が叫んだ。
砲撃を受けた港の防壁の一部から煙が上がって、漁村からは火の手が空に流れている。
しかし、港の守護部隊は海賊を海に押し戻しはじめており、
遠めには砂粒のようにしか見えないものの、騎馬隊は海賊を浪打際に追い詰めて
そこで片端から討ち取っており、序々にその包囲を狭めているようだった。
略奪品を舟に満載した海賊の中には、すでに小船を出して母船を目指している集団もいる。
海賊を乗せた小船は火矢を射ながら退路を確保し、次々と湾内の軍船に収容され、退却を始めていた。
彼らの引き上げ時だ。とすれば、夜の蝶々号に横付けしている船も動く。
艦尾から船首へとジャルディンは走った。乱闘の中まともに甲板を突っ切るのは邪魔が多い。
ジャルディンは舷牆の手すりの上にひらりと乗ると、船の外に身を出して、
舷側に取り付けられた横静索留板から次の板にとび移るようにして、そこを駈けた。
掴んだ静索を後ろ手で送るようにしながら船の外側を走る傭兵の飛ぶような姿に、
闘いの最中からも愕いた顔が彼を見送った。雲をつくほどに高いところにある帆桁でも
支えの綱なしでその上を渡り歩いていた男に、これしきのことは何でもない。
 船首楼に辿りついて索を手放し甲板に降り立つと、ちょうど賊船と夜の蝶々号を繋いで斜檣に
架けられた曳索が、海賊の手で固定されようとしているところであった。
それを阻止せんと集結した船員がまだそこで頑張っており、彼らは堤防のように
人垣を作って、後から後から襲い掛かる海賊と剣を合わせていた。
「サー・ホトーリオ・ラション様の御座船に首縄をかけさせるような真似はさせぬぞ」
 その混沌の中に割って入ったジャルディンは手近な男に手斧を渡し、「大索を斬れ」と命じた。
両艦に渡された牽引索は強風にも引きちぎれることのない太綱である。巨木を倒すように斧で断つ。
「ジャルディンか」
 顔なじみの水夫長が彼に気がつき、愕いて声を上げた。顔半分を血に染めている。
蹴り倒した海賊の腹に脚を乗せて剣を立ててから、よろよろと起き上がった水夫長は、
ジャルディンの腕を掴んで声を張り上げた。艦層のどこをどう辿って此処まで辿り着いたものか、
料理長までもが参戦しており、鉄の調理器具を振りかざして応戦している。
後ろからぶつかってきた海賊を、ジャルディンと水夫長は力を合わせて肩越しに海に向けて投げ飛ばした。
「ジャルディン、ホトーリオ様とアカラのクラリサ様はご無事か」
「客人は海上に逃れた。領主のほうは心配ない」
「この船を渡すわけにはいかん」
「傭兵、索が切れたぞ!」
「よし、左舷開き」
「左舷開き、左舷開き」
「艦首風上、舵を切れ!」
 風を受けてジャルディンが後方に吼えた。たちまちそれが伝達され、まだ動けるものが次々と
転舷索に死にもの狂いでとびつく。
左舷開きとは、左からの風に合わせて帆の向きを変えることを指す。
右舷の転舷索と帆脚索が後ろに引かれ、左舷の隅索が前に引かれると、
向きを変えた帆が、左舷方向から吹きだした風をたちまちはらみだして、弓なりになった。
舷縁に引っかかっている鉤竿を叩き折り、道板を大勢で押し戻す。板に乗っていた海賊は
ひとり残らず狭間の海に落ちた。舳先を風上に向けた夜の蝶々号はずずっと波を分け始め、
すぐに船脚をつけた。帆桁なら怪我人にも動かせるが、技倆と熟練を必要とする
上手回しや下手回しなどをここでしている余裕はない。岬の崖にはね返る離岸流をつかんで、
海賊船から一気に離れようというのである。
船がまわり、雲と水平線がすっと視界の真横に切れた。この瞬間、世界を回しているような気持ちになる。
蛇をいっぱいにすることにより、舵輪索がぎしぎしと鳴り、帆船の進行惰力が急に増した。
潮の流れをよんでジャルディンが操舵長に伝えた操艦術は確かであった。賊船を突き放して
ぐんと距離をあけた夜の蝶々号の甲板は、うねりを帯びた海流に押し流されながらその成功に沸き返った。
彼らは喚声をあげた。
「みろ、海賊船が五隻とも諦めて逃げていくぞ」
「ホトーリオ様はご無事だ」
「ジャルディン、あれを」
 柱に背をつけて喘いでいた水夫長が喘ぎ声を絞って前方を指した。
見れば、船首の斜檣、ちょうど船首像の上に突き出ている斜め柱の先端に、少年がひとりぶら下がっている。
絡みついた曳索のひと束をほどこうとして、逆に片脚が索に絡まり、そこから戻れなくなったのだ。
ジャルディンはすぐさま片手に刀を持って斜檣に寄った。少年が傭兵に「たすけて」とふるえた声で訴える。
船が大きく回頭し、そばかす顔の少年は引きつった悲鳴を上げた。逆さまになったその眼がぐるっと回ると、
ほどけた索から少年は振りほどかれるようにして斜檣からはるか下の海面に放り出されて落ちた。
上衣を脱ぎ捨てたジャルディンは身を躍らせると、海に飛び込んだ。
 まっすぐに深い暗黒に一度沈みこみ、それからジャルディンは海面を目指して水を蹴った。
溺れている者は必死でしがみつくものである。しかし、見つけて抱き上げた少年は
ぐったりとして、海に落ちた衝撃で気を失っていた。
大波をかぶり、また沈み、少年を抱えてほどなく海面から頭を出すと、陽のかがやきよりも素晴らしい、
美しい顔がすぐ近くで待っていた。金茶の巻き毛が風に揺れた。
「手を貸しましょう」
 長艇からクラリサが両腕を差し伸べていた。


 その日、ハレの街は夜遅くまで灯りをともして祝い続けた。
多少の損害は出たものの、海賊の略奪横行を最小限に抑えたことは大勝利といってよく、
大祭の日のように往来にはそれを祝う人々が溢れかえって、今日という日を大いに祝った。
ふるまわれた祝い酒が人々の歓びの上に降りそそぎ、繰り出した屋台は大盤振る舞いで
新鮮なたべものを配りつづけた。何しろ大砲で気絶した魚が大量に浜に打ち上げられたために、
どれほど腹を満たしても食材が尽きるということがなく、それがさらなる歓喜を煽った。
大人も子供も誰もが頬をほてらせ、顔をかがやかせていた。
恐怖の後の安堵ほど人の心を強烈に弛緩させ、またその反動で浮き立たせ、わき返らせるものはない。
何よりも彼らがその眼でみた領主ホトーリオ・ラションの雄姿が、その晩の熱狂をさらに強いものにしていた。
海賊船の一隻を自艦に引き寄せ、そちらにも賊の注意を割かせることで海と陸に海賊を分散させ、
港の被害を抑えてみせたホトーリオの勇猛果敢は、防壁の内側から固唾をのんでその一部始終を
見守っていたハレの領民にとっては、拳をいくら振り上げても足りぬ、何よりも胸の熱くなる、
そしてハレあるかぎり末代までの誇りであり、語り草であったのだ。
 夜空の星にまで届けとばかりに、彼らは歓呼した。
「サー・ホトーリオ様に!」
「ハレ万歳!」
 そして光と歓喜がはじけるようなそんな街並みを見下ろす丘のラション家においても、
祝いの晩餐がひらかれていた。
無礼講ということで沿岸守護隊と船乗りたちの一部も邸内の庭に招かれており、
ありたけのご馳走と酒を前にして、彼らは口々にこの日の戦局や己の手柄を競って語り続け、
その時オスタビオ様がどうお命じになったか、その時ホトーリオ様がいかにお強かったか、
自分がそれに対してどう応え、どう活躍したか、身振り手振りのうちにも
話の規模を大きくしてゆき、そしてその合間には、「ホトーリオ様、万歳」、
誰もが盃を合わせてハレの領主を讃え上げた。
 二階の露台にラション家の一家が揃って姿を現したその時には、とりわけ万歳の声が
晴れた夜空に轟いた。「海の狐」ホトーリオ・ラションは鷹揚に片手を挙げて応えてやると、
後は諸君らで愉しみたまえとばかりに長居はせず、左右にオスタビオとクロータスの
二人の息子、隣りには妻のマーリン、そしてアカラから招いたクラリサ嬢を揃えて、
もう一度手を振って頷いてみせ、大歓声を受けながら踵を返して宴の最中の邸内に引っ込んだ。
「お前も彼らの前に姿を見せるといいのだが」
 ホトーリオは露台には出ようとしないジャルディンを振り返った。
ジャルディンは宴席の片隅で、ぐずぐず云う奥方マーリンに仕方なく着せられた礼服をまとい、
彼を取り囲む人々に所在無げに何か応えてやっていた。
暖炉の縁に片腕をかけてそうやって立っているさまは、彼こそが、屋敷の主のようであった。
苦笑して、ホトーリオはジャルディンに酒盃を渡し、盃を合わせた。
「いちばんの功労者であるのに」
「そうだ、ジャルディン。わたしの婚約者を救ってくれたのは貴方だった。
守護部隊も水夫たちも、皆今日のあなたのはたらきぶりに感心していましたよ」
 意気込んでオスタビオもジャルディンの手をかたく握り締めた。
防壁線を死守して海賊を撃退せしめたオスタビオは交戦中に怪我をしたとの話だったが、本人曰く
かすり傷だそうで、外からの見た目では分らなかった。
オスタビオは歓談中の人々をかきわけると、クラリサを連れて戻って来た。
「あらためて紹介します。ハレの同盟国、アカラの領主エブスタ・ゴールデンのご息女、クラリサ嬢です」
「クラリサ・ゴールデンです」
 金茶の髪を上品に結い上げ、黄色のドレスを身にまとったクラリサは、
今はじめて彼と会うかのように、黒髪の傭兵に向けて繊手をのばした。
今日は大変な目に遭ったというのに、その動揺の影もない。
身をかがめてジャルディンは儀礼どおりその手に接吻した。
最初の夫を嵐で亡くして、三年間修道院で悲しみの喪に服していたというが、そのせいかどことなく
クラリサには禁欲的な魅力がある。オスタビオよりは三つ年上とのことなので、女盛りといっていい。
ジャルディンを見つめるクラリサの青い眸は、しばらく何の表情も浮かべてはいなかったが、
不意にその唇を開くと、「助けて下さって感謝しておりますわ」、思い出したように付け加えた。
それに合わせて、クラリサやジャルディンと誼になろうとする客人たちが続々と周囲に集まってきた。
新たな料理と酒がはこばれ、宴はこれからである。
「さあ、今日は思う存分呑んでくれ」
「ホトーリオ。あなたはもうお休みにならなくては。お疲れでしょう」
「何とマーリン。わしが老人か否かは、寝所を共にしている貴女がいちばんよく知っているはずなのに?」
「クロータスは何処に行ったのかしら。オスタビオ、クロータスを知らなくて」
「無視なのか、マーリン」
「マーリン様。クロータスさんならば、先ほどご友人とご一緒に中庭に出て行かれましたわ」
「あらそう。ありがとうクラリサ、貴女よく見てるのね」
「母上、エトラは」
「それが、急なことでドレスが間に合わなかったのよ。本人は男装のままでいいと云うけれど、
そんなのわたしの美意識が許しません。クラリサのお針子をお借りして、大急ぎで昔のわたしの
ドレスを合わせているところです。でも、なかなか合うものがないのよね。
困ったわ、やはり一から仕立てなくては駄目かしら」
「それはそうでしょう、お母さんとは寸法が全然違うじゃないですか」
「お黙んなさいオスタビオ。昔はわたくしも腰が細かったのよ。あら、ジャルディン何処へ行くの」
 ジャルディンはマーリンではなく、ホトーリオに向かって返事をした。「港の方に宿をとっている」。
人垣の中からホトーリオはこちらを見ずに、軽く後ろ手をひらつかせることでそれに応えた。
さすがは海の男だ。話が早くていい。
 脱いだ礼装の上衣を通りすがりの召使に渡しておいて、屋敷の階段を下りていると、
ちょうど階下の小部屋からエトラが二階に上がってくるところであった。
クラリサのお針子が奮闘したらしく、沿岸地方の流行のかたちにしたがって、何とかちょうどいい
釣鐘型のドレスが出来上がっている。
今朝別れて以来顔を合わせる。踊り場でジャルディンとエトラは足をとめた。
エトラはジャルディンの前に姿をよく見せた。エトラの水色の眸に合わせた淡灰色のドレスで、
短い髪をごまかすために、髪には白い花が編み冠のように飾られてある。
普段男装しているせいか、見慣れた眼にも着飾った少女はきれいだった。
「どう?」
「悪くはない」
 グリタンザの許に行きたいジャルディンは適当に眺めた。女は、いなければいないで平気になるが、
いたらいたで気にかかる。時ならぬ戦勝祝いにあっても、グリタンザは通りには出かけずに、
天窓のあるあの部屋で手琴を弾きながら待っていることだろう。あれはそういう女だ。
「マーリンからも侍女たちからも散々訊かれたわ。貴方とは何処で知り合って、
どういう関係なのかって。こう答えたの。彼はわたしの護衛にすぎないと」
 ジャルディンは頷いた。間違いではない。エトラの従兄王からも重々頼まれていることだ。
充分過ぎる礼金ももらってある。手をつけずにおいてある。あの金は別れ際にエトラにもたせてやろう。
「怒った、ジャルディン」
「俺がお前に怒ったことがあるか?」
「何処に行くの」
「涼みに」
 エトラの眼を見ながら嘘をついた。今晩は戻らないがそのことを告げる必要もない。
踊り場で場所を入れ替わり、ジャルディンは階段を下りはじめた。その背にエトラが声をかけた。
「ジャルディン。わたしは、怒ってるわ」
 意味不明。
 それでも玄関から振り返ると、エトラのほっそりとした後ろ姿が灯りのきらめく二階へと、
消えるところであった。庭からは陽気な音楽がはじまっていた。
どこかの花瓶からいそいで侍女が抜きとって来たものか、歩廊には、エトラの髪を飾っていた
小さな花が波の雫のように、たくさんこぼれ落ちていた。


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