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■Ⅳ.
本格的な造船所を持たぬかわり、ハレには腕のいい船匠が揃っている。
港の片隅にある船渠にしずしずと引き込まれた『夜の蝶々』号は、
海賊の砲撃を受けて傷んだ箇所をまたたくまに復元されつつあった。
「本格的に改装してアカラの最新式を導入できると良いのだが、またこの次だな」
きびきびとした足取りで工廠を案内したホトーリオ・ラションは、馬を呼ばせると、
黒髪の傭兵を伴って突堤に向かった。埠頭ではたらく男たちが領主と傭兵に挨拶をして、
道の両脇にわかれ、尊敬をもって彼らを通す。
湾内に停泊している帆船は、修復中の『夜の蝶々』号の姉妹船、『小鹿の踊り』号である。
三本帆柱を備えた艤装はほぼ同じだが、『小鹿の踊り』号のほうが少し船体が小さい。
変わった艦名である。進水式の際に何処からともなく小鹿が現れて、そのあたりを
跳びはねていたからだとか何とか。
(本当の話かそれは)
ジャルディンが眉唾もので沖に投錨している帆船を眺めているうち、渡し舟が回ってきた。
年季のはいった舟を桟橋に横づけさせると、船頭は帽子を脱いだ。
「ホトーリオ様。おはようございます」
「やあ、おはよう。あの船まで頼む」
何事にも気取らない性格のホトーリオは、そこらの漁村の者に気楽に渡し舟を頼んだらしい。
小舟はすぐに出た。老船頭は櫂を動かしながら、船尾にいるジャルディンに話しかけた。
「黒髪の傭兵ってのはあんたのことかね。一昨日のことは街中の噂になってますよ。
アカラのお姫さまを小脇に抱えて、大檣の帆桁のいちばん上から海に飛び込んだってね」
そんなことできるか。
しかしジャルディンを見つめる年老いた船頭の眼は少年のように輝いていたから、
あえてジャルディンは否定しなかった。沿岸地方の人間はとかく陽気な大法螺ふきである。
海賊の襲撃の後始末と復興はすでに始まっており、家を失った人々のために
救済小屋が建てられて、舳で櫂を操る老人も焼け出された家族と共にそこに住んでいるという。
銀貨を撒いたような波頭。内陸と違いどことなく重みのある新鮮な潮風。
青く晴れ上がった気持ちのよい日だった。
『小鹿の踊り』号には、すでにラション家の奥方と次男クロータス、大勢の賓客、
アカラのクラリサ嬢、それにエトラが乗船していた。
上甲板では出航準備に追われる船員が行きつ戻りつしており、陸から届いた新鮮な食材が
木箱や籠に詰め込まれて小船から船に引き上げられている。
エトラは、はじめて海を見て、はじめて船に乗った少年少女ならば誰でもそこを目指すように
舳先のほうにいた。男物の衣をまとい金色の髪を海風になびかせている美少女を、
口を開けんばかりにして船の若い男たちが見守っている。
クロータスの説明を受けて帆を動かす幾種類もの索や、大空に届くかとも思われるはるか高みの
檣を見上げているその横顔は、知的好奇心を満たして、今朝のエトラは機嫌がよさそうであった。
ホトーリオとジャルディンを得た船はすぐに帆を展開し、錨を上げた。
出だしこそ緩慢とも思える動きで出航する。女客を多く乗せていることもあり、船は
ゆっくりと波間をすべり出した。ハレの湾内を優雅に巡りながら、アカラからの客人の歓迎会をかねて、
今日は船上で昼食をとろうというのである。
幾ら波風が穏やかであっても、陸とは違う。
船の操行性状からもたて揺れよこ揺れは避けられず、しばらくすると踏みしめる足許と
揺れている周囲との感覚の狂いに、海に不慣れな者は蒼褪め、胃液は喉にせりあがってくる。
波の山を切るたびに、艦首が上下し、舳先がぐぐっと下がり、艦尾が持ち上がって、また下がる。
その間にも不確定要素としての横揺れが入り、つまり常に不安定に揺さぶられているのだ。
山から谷へと甲板が上下し、深く下がる時には、波しぶきが小雨のように降りそそいだ。
クロータスがエトラの手をとって、飛まつのかからぬ後ろにさげるのがみえた。
帆船に乗った歓びのほうがまだ勝っているとみえて、手すりから身を乗り出しているエトラの顔は明るかった。
ふと気がついた。そういえば、踊りを嗜むものは昔からふしぎと船酔いしない。
からだの均衡をとるすべに自然と長けているからだろうか。
つま先を立てて光の独楽のようにふわりと踊っていたエトラを思い出し、ジャルディンは船首甲板を離れた。
「飲み物をどうぞ」
礼服を着た若者がジャルディンに盆の上の盃を差し出した。
「ジャルディン・クロウさんだ」
「ホトーリオ様のご友人だ。あの人がそうだ」
どうやら、ご婦人方への美観も兼ねて、よい経験になるとばかりに、この航海には
若いものを多く乗せているようである。彼らは揃いの晴れ着に身を包み、先輩水夫の指導に応じて
動索や静索の間を駈けずり回っては、帆桁の向きを変えたり、もやいの始末を学んでいる。
途中いろいろと気がつくこともあったが、自分は船乗りではなく客人なので口出しすべきではない。
まだ見習いらしき小さな子が砂時計をひっくり返して真面目な顔つきで時間を測っているのが微笑ましく、
なんとも長閑な近海遊覧ではあった。
船尾甲板へ向かうと、何層かになっている船尾の屋上にはクラリサ・ゴールデン嬢しかいなかった。
装飾された手すりに手をかけたクラリサは、金茶の巻き毛を風になぶらせながら、
航跡が白い波となって残っている海面の波立ちを見つめていた。
独りになりたい者ほど、見晴らしがよく、風の強い其処を好む。
他の面々は下の船長室で寛いでいるとみえて、ほかには誰もいなかった。
本日は慰労をかねて船員の家族も招かれており、下甲板からは時折笑い声があがっていた。
ジャルディンは景色を眺めているクラリサには構わずに、反対側の縁に寄った。
陸から追いかけてきた海鳥が帆柱のまわりで戯れており、檣楼に立っている見張りの少年たちが
餌を与えるふりをして鳥をからかっていた。その鳥は舳先の方へもまわり、エトラとクロータスの
真上に翼をひろげ、ちょうど安定した帆のように、ゆらゆらとそのあたりで静止していた。
「クラリサ様。ジャルディンさん」
水夫に伴われて、少年が段を上がって来た。そばかす顔の少年は二人にむかって頭を下げた。
誰かと思えば、斜檣の先から海に落ちたあの時の少年である。
「良かったわ。もう元気になったのね」
意外にも、実にやさしい声を出して、クラリサはにこやかに応じた。
平生は笑顔も見せずに高慢を装っているが、それは最初の夫を亡くした女に世間から強要される
一種の擬態で、根はやさしい女のようだ。
「お二方がこいつを救って下さったそうで」
「ありがとうございました」
美しい貴婦人を前にはにかみながら、そして黒髪の傭兵へは憧憬のまなざしをこめて、
そばかすの少年はもう一度二人に礼を述べると、先輩に促されて立ち去った。
クラリサが「勇敢な子ね」、誰にともなく呟いた。
「あんな目に遭ったというのに、海が嫌いにはならないのね」
片手を手すりにかけて歩きながら、クラリサはジャルディンのいる左舷に寄ってきた。
二人きりでいるのに双方が正反対を向いて黙っているというのも具合が悪い。
ここは社交場ではないが、クラリサなりに気を遣っているのであろう。
「わたくしは、海も船も嫌い」
クラリサは腕に巻きつけてあったリボンで髪を束ねようとしたが、強い風にうまくはいかなかった。
風にあおられてリボンが手から離れた。ジャルディンは吹き流されようとするそれを掴み取って手渡した。
「ありがとう。いいえ、侍女は呼ばなくて結構です。あら、守護隊があそこに」
リボンの流れる先の沿岸の峰に、ちょうど騎馬隊らしき騎馬の影が動いていた。
街を守る防壁のほかにも、海岸沿いには砲台を備えた砦が幾つか配置されている。
沿岸守護隊を率いるオスタビオは陸に残って、今日も海賊被害の後片付けに奔走しており、
せっかく婚約者の許に遊びに訪れたのにこれではクラリサがつまらないだろうというので、
急遽、小鹿の踊り号でのこの遊覧のはこびとなった。
「だから皆さまにはとても云えませんでしたわ。海も、船も嫌いだなんて」
ほのかに笑って、クラリサはジャルディンを見上げた。金茶の髪と黒髪が触れ合うほどに近かった。
海が苦手なのに、ハレに嫁ぐつもりなのだろうか。
「苦手ではないわ、それが証拠に船酔いしてません。海辺で育った女ですもの。
ただ嫌いなだけ。ジャルディン、海から離れた貴方なら分ることもあるのでは」
「詮索はしない」
「夜の蝶々号に降り立った貴方を見た時、最初は海賊かと思った」
「あんたは落ち着いてた」
「本当は怖かった。海賊は大嫌い。わたくしの両親も海賊に殺された。
あら、ご存知ではなかったのね。わたくしはエブスタ・ゴールデンの実の娘ではないのよ。
十五年前に孤児院から引き取られた、養女です」
十二歳の時だったわ。そして二十歳の時に駈け落ち同然に最初の結婚をして、
二年後に嵐で夫を亡くし、三年間修道院で時を過ごしてから、またエブスタお養父さまの許に帰ったの。
「エブスタお養父さまは、お前はまだ若いからと縁談を用意して下さったわ。
それが同盟国ハレの、オスタビオ・ラション様との結婚。つまりこれこそが、幼いわたくしを
引き取った養父が意図し、長年望んでいた政略結婚というわけ」
「厭なら修道院に戻れ。そして、そのまま裏戸から出て行けばいい」
「人ごとだと思って簡単に云わないで。エブスタお養父さまには感謝しています」
「そう悪くない。年下だがオスタビオは信頼していい男だ。あんたともお似合いだ」
「そうね。いい方だわ。ご家族も」
帆を透かして見る太陽のように、クラリサのその笑顔には翳りがあった。
ジャルディンは気にも留めなかった。いったい女というのは悲劇ぶるのが好きである。
オスタビオを悩ませ過ぎぬ程度に、せいぜい最初の夫のことで嫉妬させるといいのだ。
「貴方には申し訳ないことをしてしまったかしら、ジャルディン」
クラリサは舳先で遊んでいるエトラへ眼を遣った。
「あの方を本当はオスタビオさまと娶わせたくて、貴方はエトラをハレに連れて来たのではないこと。
女心を知りながら知らん顔をする殿方にも困りもの」
「意味が分らない」
「ラション家にはもうお一人、クロータスさんがいるわよ。こうして見ていると、エトラとクロータスは、
まるで昔からのご兄妹のようね。マーリン様もホトーリオ様もエトラのことが気に入っている。
でも、エトラはそれで納得するかしら」
謎めいたことを云い終えると、クラリサは船首に視線を転じた。
ちょうど、クロータスが魚をとる網でもって水夫と一緒に鳥を捕まえたところであった。
脚に紐を結わえてしまうと、人に馴れているのか、海鳥は彼らにじゃれついた。
「見て、ジャルディン!」
白い上衣の袖飾りをひらひらさせて、エトラが腕に乗せた大きな海鳥をこちらに掲げて見せていた。
ジャルディンは頷き、クラリサはそちらに向かって笑顔で手を振ってやった。
船鐘が鳴らされた。船長室から船尾歩廊に出たマーリンが、真上にいる彼らに呼びかけた。
卓上に並べられる硝子の盃や銀器の触れ合う音が階下から響いて、
できたての料理のよい匂いがしていた。マーリンは上を仰いだ。
「其処に誰かいるのなら降りていらして。食事にしますよ」
「わかった」
何となく母親にうながされる子供のようにして、ジャルディンはクラリサを伴い船尾楼を下りた。
傭兵のその姿を、上甲板にいる少年たちが作業の手を止めてちらちらと魅入っている。
「水夫たちはすっかり貴方に心酔している。船の上を歩く貴方は、まるで海の王のよう」
傭兵の腕につかまったクラリサは、進行方向の前を向いたままだった。
話に聴いたことがあるわ。海の彼方の偉大な王は、貴方のような黒髪をしていると。
「はるか彼方の超帝国。貴方はまるでそこから来た人のよう。この海原の王のよう」
マーリンに呼ばれてこちらに駈けてくるエトラの姿が、帆の影に暗くなったり、
明るくなったりしていた。クロータスに頼んで放してやった鳥が太陽の輪郭をなぞるようにして、
檣の高いところで回っていた。エトラが帆船を気に入ったようで何よりだ。
それなら、ハレの街も好きだろう。
『小鹿の踊り』号は、ゆっくりと岩島の陰に入った。
「彼女はいったい何処の国のお姫さまなの? それとも、貴方の国の奴隷なの?」
縮帆中の帆がはためく音に、クラリサの声は近くの者には聴こえてはいない。
海中からジャルディンを長艇に引き上げた時、男の肌にこの女はそれを見たのだ。
もちろん、クラリサは冗談で云っている。そうでないわけがあるか。それが証拠に眼が笑っている。
女たちはこの手の話を好むものだ。グリタンザもふざけて同じことを云ったことがある。
肩にある火傷の痕。それがもし天頂の星をかたどった刺青ならば。
夕暮れに紫の雷雲の燃え上がる、あの海の風を連れて来たのなら。
「貴方は超帝国レムリアの王のようね、ジャルディン」。
ご婦人方の歓談の相手と給仕の役割は感心にもクロータスが引き受けてくれたので、
食事を終えたジャルディンは早々に船尾船長室から昼下がりの外に出た。
岩陰に投錨中の上甲板は涼しかった。索輪で固定した舵輪のまわりでは、
ホトーリオと、『小鹿の踊り』号の艦長、それと漕手からたたき上げの掌帆長が集まって、
煙草で一服しながら雑談をしていた。
「葉巻はどうです、ジャルディンさん」
「ジャルディンが外に出てきたということは、室に残されたうちの次男坊が貧乏くじか」
「そんなことはないでしょう。クロータス様はご婦人方に受けがいいし、あの年頃ならとりわけ
女の相手をすることが楽しいもんですよ。わたしも若い頃には覚えがあります。
ご婦人の香水の匂いを近くでかいで、貴女がたの胸の谷間を近くから拝めるだけで、
それだけで一日中気もそぞろで、ありがたかったもんだ」
「オスタビオもクロータスも、うちの男の子は女に甘くていかんな。先が思い遣られる」
「アカラのクラリサ様とのご婚儀は決定で?」
「まあ、そうだな」
「今度はアカラのエブスタ・ゴールデン様がこっちに来るんで」
「そうだ。クラリサの滞在中にな。名目上は安全な航路を確保するための、
海上封鎖対策についての相談だがね」
「オスタビオ様はすっかりクラリサ様に魅了されておられますな。当然かと」
「あれも亭主を尻に敷くたぐいの女だな」
「そりゃあいけない。嫁さんには今からびしっと言ってやらなきゃ駄目ですよ。最初が悪いと、
男の沽券に関わるってもんだ」
「しかし、クラリサの方がどうみても気が強いように思うが。あれは二度目の結婚で年上でもあるしな。
ジャルディン、お前はどう思う」
「女のほうがしっかりしてる。あれはいい嫁になる」
「駄目ですよ、そんなんじゃ。海の男はいちがいに母親と嫁さんには甘いと云われてますがね、
いったい誰が働いてお前たちを養っているのかと、女どもにもたまにはがつんと
思い知らせてやんなきゃあ。それはもう、日頃からの男の威厳がものをいうってもんですよ。
世の中にはねえ、嫁さんの靴下まで繕うような情けない男もいますがね、
たとえ漁網の手入れでそこらのお針子よりもうまく縫えたとしても、そんなこたあ、男がやっちゃいけない。
いいですかジャルディンさん。あんたがまだ独り身ならよっく聴いとくこった。
浮気のひとつや二つ、三つや四つ、愛人の一人や二人や、十人でがたがたぬかすような
了見の狭い嫁なら、浜に叩き出しちまえって話でさ」
「それよりも何よりも、まずはお前さんにそんな甲斐性があるのかね」
「ちょいとあんた、こんなところで領主さまや艦長さんの邪魔をしてたんだね!
最初に云っといたろ、皆さまがお寛ぎの間に、あたしの靴を磨いといてって」
「ああ、ああおまえ、そうだったね、ごめんよ。もうお腹いっぱい食べたかい」
「ついでに靴下も引っ掛けて穴が開いちゃったのよ。今のうちにこっちも縫っといて」
「すぐやるよ。や、まったくしょうがないなぁ、うちのやつは娘っこの時から靴下だけはよく破るやつで。
おーいおまえ待ってくれ、それはどこにおいてあるんだい」
嫁の後を追っていそいそと掌帆長が船内に消えてしまうと、
「それじゃわたしも休憩を終えます」と、船長も帽子をかぶりなおして離れていった。
ホトーリオはジャルディンを伴うと、ぶらぶらと小鹿の踊り号の甲板の散歩をはじめた。
よく磨きこまれた上甲板は淡い色に変わっており、下甲板へと通じる階段には、採光と通気をかねた
格子状の上げ蓋がはまっている。晴天の日中は眼孔を射るほどにまぶしく照らされる甲板も、
多層構造の下部へ下るほどに暗くなり、水夫、旅客の居住区、砲列甲板から順番に、
錨鎖や火薬格納庫のある最下層部まで降りると、昼夜問わず内部は真っ暗、
木造船の宿命たる垢水、汚水に浸されて、角燈の届く限り、船底は異様な臭気のただよう
不気味な洞窟と化しているものである。
格子の上げ蓋にしろ、波風が強い時には上から防水布で覆われるために、
下に閉じ込められでもしたら、転覆する船の中で何が起こったか分らぬままに、
まっさかさまとなって海の底となることもある。そして一旦海中に沈み込めば
水圧で二度と扉も開かず脱出不能、よほどの幸運により横倒しになった船から重量の傾きを
取り除かぬかぎり、浮力を失った船は、もう二度と海上に浮かび上がることはない。
見た目だけは悠然と海に浮かんでいる帆船は、巨大な建造物であると同時に
海の男たちの墓場としての運命を担い、人間の知恵と力によって辛うじて海原にその存在を
ゆるされている小さきものであることを、船乗りたちは誰よりも、その経験から畏怖と共に知っていた。
「アカラは、厳密には新興都市ではない」
長衣の裾をひるがえして、「海の狐」ホトーリオ・ラションは、舷縁に片脚をかけた。
「もともと造船所があったところだ。他国の新造船の興隆に追いつけず、永く寂れ果てていた。
エブスタの指導のもと、ここ十数年ほどで急激に息を吹き返し、今では造船業において
沿岸随一の技術を誇るまでに成長した。ハレとアカラが手を結ぶのは、間に挟まれた
海洋諸国にとっては脅威だろうよ」
「財と技術の締結か。クラリサの養父エブスタ・ゴールデンとは、どんな御仁だ」
「堂々たる体躯の、りっぱな男だ」
先刻エトラと遊んでいた海鳥が、少年水夫が投げてやった小魚をくちばしで捕らえて食べていた。
頭上には真っ白い午後の雲が流れており、海も空も、しずかな光を撒いたようだった。
「昔は船乗りだったそうだ。脚をいためて陸にあがり、貿易で築いた財を元手に
アカラの造船所を建て直した。寂れたアカラを復興させた功績が認められて、
十年前にアカラの領主となった。五日後に今度はエブスタのほうが招待に応じてこのハレに来るよ。
娘が嫁ぐ街を見学というわけだ。令嬢を危険な目に遭わせたお詫びをせねばな」
「精力的な野心家だ」
「悪いことがあるか。陸にあがった男もさまざまだが、エブスタは船乗りのままであっても、
高い地位についたことだろう。そんな男と縁を結ぶことがハレにとって吉か凶か、先日は
それを見極めに行ったのだ」
「首尾よく、オスタビオはクラリサ嬢を気に入ったようだ」
「わしもマーリンもな。そして、われらはエトラのことも気に入っているよ」
ゆるやかな風をうけて帆がはためく。静索の奏でる船の子守唄。
沖の青にジャルディンは眼をほそめた。
「ホトーリオ。あんたに頼みがある」
「この「海の狐」ホトーリオが見込んだ傭兵の頼みだ、何でもきくぞ。エトラのことだろう。
マーリンから聞いたが、あの娘は故国喪失者とか」
「詳しくは話せないが」
「構わんよ。歓んでうちであずかろう。だがなジャルディン、これはお前の希望よりは、むしろ
エトラの希いを大切にするべきではないのか。家内もクラリサも同意見だ」
「希いとは」
「わしが知るものか」
口の端に妙な笑いをうかべると、ホトーリオは先端を太陽に突き刺している大檣を見上げた。
船首から仰いでもそれははるかに遠かった。頂きまで登って鳥瞰すると、見下ろす船の全景は
紙細工のように、そして風にただようこの身は、大空に浮遊したように思う。
男なら誰でも思う。風を受け、波をはしり、このまま七つの海を駈け抜けたい。
それともいつか恋しくなるだろうか。木蔭の緑を、白き峰の山々、流れる小川と、アイリスの園を。
払暁とともに水平線に現れる白鳥が翼をひろげたかたちのあの故郷、神の夢のような、帝国を。
檣楼下横静索がゆらゆらと揺れるたびに、甲板にその影が網目模様となって錯綜した。
ホトーリオは手庇をつくり、前檣、大檣、後檣と続く、小山のような帆の連なりを見上げた。
「どうだ。久しぶりにあの大檣の上までどちらが早く辿りつくか、競争で登ってみんか」
「あんたがそうしたいのなら」
「自分からは登らないと?」
「空に用事はない」
「それが歳をとるということだ、ジャルディン」
実は、そうくると思っていた。ジャルディンは反対方向に余所見をしたが、ホトーリオはその肩に
腕をまわさんばかりにして、お前は腕のいい傭兵だがいつまでも身体一つでは稼げんぞ、
どうだこれを機会に所帯を持ってハレに定住せんか、などと予測どおりにハレ定住を口説きはじめた。
「蝶々と小鹿とどちらがいい。どちらの帆船でも好きなほうをお前にやろう。
ハレの鎮守は多ければ多いほどいい。お前なら申し分ない」
「生憎だが」
「事情があって海辺は避けているのだったな。だがお前が陸にあがってからもう何年経つ。
昔の遺恨など、もう覚えている者もいないだろう」
揺れ動く静索の影が、浅瀬の波あとのように彼らの足許を過ぎていた。
もしも怨みつらみを昨日今日で忘れ去ることができるとしたら、この世に争乱は起こるまい。
否定的なジャルディンの視線を受けても、ホトーリオは取り合わなかった。
昔は昔だ、ジャルディン。時は戻らんのだ。ホトーリオはジャルディンの肩をたたいた。
「クラリサも、マーリンも、最初の夫を亡くした。だが今はどうだ、
クラリサにはオスタビオが、そしてマーリンにはわしがいる。
夫を亡くし、幼いクロータスを抱えて途方に暮れているのをみかねて従妹のあれを
娶ったようなものだったが、今ではかけがえのない妻だ。
赤子を抱いたまま海を見つめて泣いていたマーリン、
養父エブスタの言いなりのようにしてハレに嫁ぐことを決めたクラリサ、
そのことをわしらが憶えていようと、そんなことはたいしたことじゃない。悲しみに沈んでいるよりは
辛くとも新しい道にすすむほうがずっとよい。過去は変えられんが、想い出は穢されんのだよ。
お前の器ならばハレといわず、海の覇者にもなれるかもしれんが、
本当は戦が嫌いなのだろう。港になじみの女がいるそうだな。その女でも誰でもいいから、
そろそろ身を落ち着けたらどうだ。だが連泊はいかんなジャルディン」
ホトーリオは顔を寄せて、ぎろりと傭兵を睨んだ。
「うちでエトラの機嫌が悪いのはそのせいではないのか」
せっかくいい話だと思って聞いていたのに、最後が悪い。ホトーリオはげらげらと笑い出した。
人のことはほっといてくれと云いかけて、船尾楼から上がった笑い声に、そちらを見返った。
クラリサ嬢とクロータスが何やら談笑しながら、風に吹かれていた。
令嬢の言葉に時折クロータスは頷いたり、首をふったりしており、
そうかと思えば戸惑った様子をみせ、作り笑顔で何かを一笑にふしたりしていた。
二人は風にあたりに外に出てきたようで、旨い食事に気分がよくなったものか、話も弾んでいるようにみえた。
マーリンの連れ子なので直系でこそないものの、マーリンとホトーリオはいとこ関係である。
一家はあながち無縁というわけでもない。
「マーリンの夫だった男とわしは親友だったよ。クロータスの名は彼に頼まれて、
生まれた時にわしが名づけたのだ。名づけ親から本当の親へというわけだな」
ホトーリオにとってはクロータスもオスタビオと同様に赤子から育てた子であり、親友の忘れ形見である。
可愛くてならぬようだった。満足そうにホトーリオは眼をほそめた。
「義姉になる人に気に入られたようだ」
クロータスに、クラリサが何かを囁いていた。クロータスはひどく愕いた顔をした。
彼はクラリサの言葉を熱心に聴いていたが、その顔は晴れず、
その午後の沿岸遊覧の続きの間にも、若者はずっと何ごとかを考え込んでいた。
沿岸遊覧から帰航すると、港には、オスタビオが迎えに出ていた。
漁師と談笑しながら、水揚げしたての魚を詰め込んだ籠を見ており、
そこから何匹か買い上げては従者にそれを持たせている。
陸と海を隔てる防壁の、海寄りにあるのは港と倉庫、漁師のすむ邑、それに魚の市場である。
ハレ湾は、大型船が埠頭に横づけ入港できるほど水深が深くはないものの、
沿岸には他によい港がないために、ハレは信用と伝統をもって、何百年もの間、
水食料の補給地と交易の要所でありえた。
海上から眺めても海賊の被害は痛ましかったが、倉庫の一部が半壊したほかは
守護隊にまもられて、港としての機能は無傷だったようだ。
「父上、ジャルディン、クロータス」
渡し舟から降り立つと、オスタビオは彼らに鮮魚を見せた。
ご婦人方には馬車が用意されている。
「お父さん見て下さい、この魚大きいでしょう。今日の夕食にどうです」
「お母さんにきいてごらん、オスタビオ」
和やかな会話であるが、彼らの前にある防壁には、ずらりと海賊の縛り首が並んで揺れている。
頭部のみ袋状の目隠しが被されてはいるものの、腐り落ちるまでそうやって
見せしめとして放置されるのだ。
海賊は即、縛り首。それが海の掟であり、海の領地を統べる国々の鉄則でもあった。
「ジャルディン、今日はうちに泊まってくれるでしょうね。みんな内陸の様子や、
戦のはなしをきかせて欲しがっている。いい酒があるのです、飲み明かしましょう」
「クラリサがいる間は行儀よくな。それと、港の損害報告をまとめるほうが先だぞ」
「わかってます。報告書はもう父上の書斎の机の上においてます」
「明日は怪我人が収容された病院を見舞う。クロータスも」
「はい」
「クロータス。どうした、元気がない」
「何でもありません、お兄さん」
「エトラとたくさん話せたか?」
兄の微笑みにも、クロータスは少し笑ってみせるだけで、その顔はふたたび心ここに在らずであった。
ラション家の料理人が早速さばいて酢でしめてくれた魚をつまみに、夜は酒がすすんだ。
ハレの街を一望する庭の木々に角燈をとりつけて、そこが男たちの宴席になった。
「あなた方はもう浜辺を駈け回っていた子供じゃないのよ。何ですか、家庭のある人まで。
うちの中で孤島の探検ごっこなんか止めてちょうだい」
ぶつぶつ云いながらも、マーリンは家人に命じて十人分の酒と料理をそこまではこんでくれた。
領主は青年たちの楽しみには干渉せず、クロータスは疲れたとかで、
夕食後はすぐに部屋に引き取ってしまった。
「ジャルディン彼らは守護隊の面々。みんな子供の頃からの幼馴染で、わたしの兄貴分だ」
「よろしく、ジャルディン」
「美少女を連れた傭兵か。かっこいいな」
盃を寄越す男に見覚えがあると思ったら、夜の蝶々号救援の際もう一艘の長艇を任せていた髭面で、
甲板では砲撃の指揮を大いにとっていた。すでに子持ちで、守護隊の副隊長とのことである。
「で、エトラ嬢とはどういうご関係で」
「そこだ。それが肝心だ」
「そこってどこだ」
「莫迦だな、これがみんな訊きたいところだ。つまりあれだな。やったのか」
「何を」
「ちょっと質問が直接的すぎたか」
「そうですよ、いきなり過ぎますよ」
「まあ呑んでくれ。そのうち口も軽くなる」
なるか。
「謎の美少女よりもオスタビオの問題のほうが先だな。いいかオスタビオ、
後家をもらう時には何といっても、初夜が肝心だ」
「そうそう。死んだ男のことなんか一発で忘れさせちまうことだ」
「野蛮人じゃあるまいし。ふつうにやさしくするつもりだけど」
「それがいかんのだ。いいから聞いとけ。遠慮をみせると女はここぞとばかりに亡夫のことで
めそめそして、いつまでもつけ上がる。そんな通夜をやられてみろ、涙じゃたつものもたたねえ」
「経験者は語るだな」
寡婦の多い海辺の街ならではの、ためになる猥談から、話は海賊のことになった。
屋敷はもう寝静まっており、丘の庭先から望むハレの街も、もう暗かった。
街の灯がおちると、月光をたゆたせた海の広さがかえって目立つ。
星空の下、吹く風に、木々に吊るした角燈が揺れた。
ハレには沿岸守護隊はあれど、海軍をもたない。街が防壁で頑強に護られているために、
侵略者とはいきおい、陸上での合戦に持ち込まれるからだ。
姉妹船『夜の蝶々』『小鹿の踊り』こそ艦装備を備えているものの、こちらも通常は軍務に就航しておらず、
したがって、その乗員も戦闘員の水兵ではなく、船乗り、つまり水夫で構成されている。
それもあって戦となれば闘うのは俺たちだとばかりに、オスタビオを隊長とする
守護隊の意気は高いのだった。
「奇妙だな」
髭面の副隊長が顎の下に手をあてて、思わしげに疑問を呈した。
「まるで海賊は、ホトーリオ様ご不在のあの日を狙ってたようだ」
「大掛かりだったからな」
ハレの繁栄は近くに良港がないことに所以している。その点から鑑みれば、
あれだけの武装船を有した海賊が、いったい何処に隠れていたのかが焦点になる。
「ハレの領主がアカラに出向したことくらい情報はすぐに洩れるだろうが、
アカラまでは片道海路二日。滞在は一日だ。あれほどの襲撃準備を整えて動くにはぎりぎりの日数だ」
「テッサコモなら、『夜の蝶々』号がアカラに入港することもいち早くつかんでいたかも」
「なるほど。テッサコモか」
テッサコモとはアカラの向こう、地理的にはハレよりも遠い港である。
こちらは治安の悪さから敬遠されて、堅気の商会ならば、まず荷を積んだ船を近寄らせない。
古代の遺跡を利用して造った港があるとはいえ、湾内は岩島に囲まれて視界も悪く、
海水の満干する洞穴の奥では何をやっているかしれないというのが、近くを通る船乗りたちの定説である。
「テッサコモからの通商の申し入れを断って、こちらはアカラと手を組んだからな。
あちらさんはそのことを根に持っているだろう。もとから無法者や流れ者が集まっている街だ。
テッサコモこそ海賊の根城ではないかという説は、俺のじいさんの時代からあった」
「ジャルディン。あんたは何か気がついたことがあるか」
「海賊団は略奪に慣れていた。だが、指揮系統が最近入れ替わったようだ」
「というと?」
ジャルディンは述べた。彼らがもし首領のもとに統率されている海賊ならば、
敵の船に乗り移ってからは、味方を傷つけぬように砲撃を制限して控えるはずである。
海賊には海賊なりの仁義があり、あれほどの大所帯を抱えているのならば、その掟の中には
主導者への絶対服従と共に、団結力としての仲間意識も不可欠のはずだ。
「戦闘中も甲板は狙われて、敵味方の区別なく砲弾が降っていた。海賊団の首魁は、
海賊たちの命などどうでもいいようだった」
「巨額の身代金をあてこめるハレの領主の身柄がそれだけ欲しかったのでは」
「不審はもう一点ある」
「なんだ」
守護隊の男たちは傭兵の意見をきこうと、身を乗り出した。
ジャルディンは手近の木の枝を折ると、端を軽く握り、それを彼らの前に動かしてみせた。
「何だ?」
「御座船に突撃してきた者の中には、訓練された兵の剣技をみせるものがいた。
それも一人や二人ではなかった。彼らが海賊たちに命令を発していた。
正規軍が海賊の中に混じっている例を、俺はしらない」
「どこかの国の脱走兵かな。それなら、海賊の命など惜しくはないだろうな」
「全員あの時海上で死んだ。確かめようもない」
「もっとも奴らがテッサコモを根城としている悪党どもなら、お宝第一で、
味方の命なんかはなからどうとも思ってはいないだろうがな。あれはそういう連中だ」
「領主のライヤーズは何かの黒魔術を信仰しているとか」
「子供を煮て喰うとか」
「うう、関わりたくない」
「あの、そのことで妙な噂をきいたことがあります」
「何だ、云ってみろ」
鼻のまがった若い隊員はしまったという顔をして、一同を見廻した。オスタビオと眼が合う。
「何だ。どうしてわたしを見る。遠慮はいらないから云えばいい」
「隊長に関わることなのか?」
「いや、その婚約者さまというか」
「クラリサ?」
「いえいえ滅相もない」
気まずそうに口を濁していたが、再度促されて、鼻のまがった隊員はちらりと寝静まった屋敷を振り返ると、
声を落として彼らに告げた。オスタビオは「まさか」と笑い、副隊長の髭面はいま聴いたことは外には
洩らすなと全員に誓わせた。
(誰も過去を知らないアカラのエブスタ・ゴールデンは、そのテッサコモのご出身とか)
その話が退け時となって、宴も解散となった。守護隊の面々は引き上げ、
オスタビオはまだ仕事があるからと書斎に向かい、ジャルディンは自室にひきとることにした。
ラション邸は眠りの中にあり、庭の池も星空を黒く区切るばかりであった。
対角の廊下に動くものを見つけて、ジャルディンは柱の蔭に隠れた。それは傭兵でなければ
到底気がつかぬほどの、ひそやかな変化だった。中庭をはさんだ向こうの棟は女たちの客室や私室しかない。
たとえ真夜中でなくても、男は滅多には近付かない。その暗がりがわずかばかり動いて、また閉じた。
盗み見するようで気が咎めたが、ジャルディンは見届けることにした。
人影は対角にいるジャルディンには気がつかずに、そっと回廊をまわると、暗がりに姿を消した。
廊下のわずかな灯りにその顔が見えた。深夜、クラリサの寝室からそっと出てきた若者。
クロータスだった。
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