[レムリアの湊]
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Yukino Shiozaki

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■X.


 ジャルディンは羽根ペンを筆皿にもどした。
透かし文様が刺繍のように入った紙面には法文が整然と記されている。
書斎の窓からは朝の海が見えた。海を背にしたホトーリオはジャルディンが
署名した内容を確認すると、自らも署名し、領主の印章が彫られた指輪を用いて隅に捺印した。
「語学に明るく、読み書きもできる傭兵。どこで字を習いおぼえた」
「船の上で」、そっけなくジャルディンは答えた。
「方々で重宝されたのではないか」
 丸めた書類を筒に入れると、ホトーリオは書記官に命じてそれに紐をかけさせ、書庫に納めさせた。
ジャルディンは机の上にひろげていた金や宝石を、ホトーリオと書記官立会いのもとに、
数え終わった分から袋に戻した。
「大金持ちだな。お前が略奪に手を染めるとは思えぬ。傭兵業は儲かるとみえる」
「遣うあてがない」
「賭け事」
「たまには負ける」
「そしてたまには補って余りあるほど勝つのだろう。お前らしい、ジャルディン・クロウ」
 袋におさめた金を専用の函に納め、鍵をかけた。函は三つに分けた。
一つはエトラ、一つはグリタンザ、残りは自分のために。最後の函がいちばん軽かった。
はじめは金庫を二つ用意してくれと云ったのだが、ホトーリオがそれでは承知しなかったのである。
「男は身代を持っておくものだ。お前とて年をとり、いつ動けぬ身体になるとも知れぬのだから」
 その時には何処かの山間で野たれ死ぬだけだ。そう思ったが、ジャルディンは口には出さなかった。
カルビゾンを出る際、エトラの持参金とはべつに、王は王女の護衛代として大金を寄越してくれた。
持参金と合わせて手つかずのままだったそれを、そっくりエトラ名義にしておいた。
これだけあれば、どこの名家にも嫁げる。それから、昔馴染みのグリタンザへは、
数年前にホトーリオに預けていた金を全部。後者あてには博打に遣わぬことの一文も
付け加えてやろうかと思ったが、あの女のことだ、例えまたひと財産をすったとしても、
面倒をみてくれる男はいるだろう。
自分の分には、カルビゾンの城の者たちが選別としてかき集めてくれた金をあてた。
後で雑嚢袋に詰め込まれたそれをひらいてみると、かなりあった。王族の誰かの心づけも
混じっていると思われた。そこから一部を差し引いてエトラの諸雑費としてホトーリオに渡そうとしたが、
「女の一人や二人、十人くらい、養えない家でないぞ」
 ホトーリオは受け取ってはくれなかった。
 毎度のことながら、金のことが片付くとすっきりする。今日や明日発つわけではないが、
済ませておきたいことだった。形式的にジャルディンはホトーリオと握手を交わし、
財産分与の手続きをそれで終えた。ラションは銀行家ではない。だが、安定した治世と信用が
保たれているハレならば、こういったことも頼める。
「エトラも宝石函に少し持っているはずだ。ものの相場がまったく分っていないので、
遣うなと云ってある。折りをみて、あんたが管理しておいてくれ」
「物価についてはマーリンが教えておるよ。花嫁修業だな」
「頼む」
「無駄になるかもしれんがな」
 書斎机に肘をつき、顎の下で手をくんだホトーリオはそんなことを云って、
意味深にジャルディンを見つめた。
 まだ仕事があるホトーリオをそこに残して、用事を済ませたジャルディンは書斎を出た。
回廊に囲まれた中庭から笑い声があがった。庭木を天然の天蓋にした涼しい木蔭で、
クラリサとエトラが、それぞれオスタビオとクロータスを相手に、ハレの伝統的なダンスの
稽古をしているところだった。四人は次々と相手を入れ替えながら、手と手を繋いでつくった
山の下をくぐったり、くぐらせたり、腕を組んで回ったり、お辞儀をしたりを繰り返している。
見ていると、エトラがいちばん巧かった。あの娘には独特な魅力がある。
水彩画のような印象と、力強さの調和。指の先から脚のつま先まで、この世の一切とは
切り離された掟に満たされて、誰も知らない歌に耳を澄ませている。
その充足と緊張には、ふしぎなものを見ているような夢心地の一方で、人々を高次の何かから
取残されたような、惨めで苦い気持ちにさせもした。しかしそれをも超越して、
少女のその踊りは薄絹をふるわせるようにして人々の心を掠めてどこかへと向かい、そしてこの午後、
いまみているものは、二度とふたたびはこの世に繰り返されはしないのだった。
ジャルディンには見えるような気がした。滅びた国の廃墟で独りきり、この娘が踊っている様が。
熔け落ちた硝子と崩れた石垣。焼け跡にそよぐ草木だけを観衆にして、幼い頃に見憶えた
踊り子の真似を、それから何年もの間忘れないように独りで繰り返している。
虚空の空の下にまぼろしの鈴の音を聴いている、その小さな影が。
「上手だわ」
 クラリサが手放しで賞賛して、エトラの頬に口づけた。
「今度はちゃんと女ものの服を着てね。貴女の場合は独りで踊るほうが引き立つのではないかしら。
専属の先生がいるといいわね」
「教師などいらない」
 四人ともへとへとになって、快いその疲れの中にいた。エトラは軽く息を整えながら、髪を耳にかけた。
(子供の頃に城で踊り子を見たの。金と銀の鈴を足首に結わえていた。その踊りはとても自由で、
何の戒律にも属していなかった。わたしの命の炎はわたしの内にしかないと云っていた。忘れられない)
 犯した罪は後々まで覆いかぶさってくるものだな、というのが、庭の彼らを眺めていた
ジャルディンの所感であった。選りにもよって踊り子の真似事とは。
空と大地のわずかな狭間に生きる小さきものが、空と大地を謳いあげるその哀しさを、
人は哀しみで伝えてゆく、ちょうどこの胸にあの少年の日の踊り子が、いつまでも鈴の音を
ふるわせて愛しいように。
「エトラ。エトラは何処」
「此処ですよ、母上」
「ちょっと来て。今朝の便で布が届いたの。貴女にどうかと思って」
「やれやれ、お母さんは本当に娘が欲しかったんだなぁ」
「いったい彼は何処から来たのかしら」
「クラリサは彼のほうに興味があるようだ」
「わたくしではなくて侍女たちがね。オスタビオ様もご存知ではないなんて」
「誰のこと」
「鈍いな、クロータス。もちろんジャルディンのことだよ」
「彼には異国情緒があるでしょう。侍女たちがお熱で大変なの」
「兄さん、そうは云っても過去が謎めいている人間なんて海にはごまんといるじゃないか。
クラリサさんの父上であられる、エブスタ・ゴールデン様だって」
「エブスタ様なら明後日ハレにご到着される。クラリサならお父上のことを詳しくご存知でしょう」
「義父エブスタのことは、養女のわたくしもよく知らないのよ。親子といってもエブスタ父上は
忙しくていつも家にいなかったし、どうせ訊いてもまともに答えてはくれないわ」
「せめてご出身がどちらかくらい」
「根掘り葉掘り、失礼だよ、兄さん」
「失礼なことあるものか。エブスタ様のご成功はゆるぎない。たとえ前身が何であれ、父上だって
彼のことを認めておられるのだ。以前は船乗りをしておられたとしか知りませんが、たとえそれが
偽りだったとしても、現在の彼を否定する理由にはなりませんよ」
 そこでクロータスは不意に立ち上がり、読みたい本があるからと断って、庭を後にした。
オスタビオが首をかしげた。
「最近、クロータスの様子がおかしいな。クラリサ、貴女は何か気がつかなかった」
「いいえ。あら、ジャルディンよ。ホトーリオ様との用事はもう済んだの」
「何処に行くのです、ジャルディン」
「船渠」
 今朝ラション家に遣いがあって、修復中の『夜の蝶々』号に用いる円材の径について意見がききたいと、
船匠から呼び出されているのである。ジャルディンとオスタビオの眼が合った。
オスタビオはかすかに首をふった。オスタビオは昨夜の話、すなわち、エブスタ・ゴールデンが
テッサコモの出身であるか否かをそれとなくクラリサに訊いてみたのだが、どうやら不漁だったようだ。
「ジャルディンさん、港へお散歩ですか」
 それならついでにお願いしますというので、お抱えの料理長から工廠への差し入れを持たされた。
籠を両手に抱えた下男を従えてジャルディンが船渠に着くと、そこには屋敷にいるはずの
クロータスがいた。


 -----マーリン様。クロータスさんならば、先ほどご友人とご一緒に中庭に出て行かれましたわ。
 -----あらそう。ありがとうクラリサ、貴女よく見てるのね。

 クロータスはジャルディンに気がつくと、「修繕の進みが気になって」と言い訳して、
片ながれの屋根の下にひきこまれている修理中の帆船を見上げた。
皆が口を揃えて云うには、クロータスはホトーリオの親友であった男、若くして海賊と闘って死んだ
マーリンの亡夫に面差しが似ているそうである。
真面目で誠実そうなその横顔からは、兄の許婚の室に深夜しのびこんでいた不貞はうかがえない。
「夜の蝶々号は、兄が十歳の時の誕生日に、そして小鹿の踊り号はわたしが十歳の時に、それぞれ
間に合うように造船され、進水されたのです。父から息子たちへの贈り物というわけ。親莫迦でしょう」
 夜の蝶々号と小鹿の踊り号は姉妹船である。並べて海に浮かべれば大きさの違いが分るが、
こうして屋根の下にあると、素人の見た目には沖の小鹿もこちらの蝶々も、同じ船に見える。
帆柱の一部を分解して外した船体の上では、職人たちが工具を手に木を削ったり、索具を
はめ込んだりしている最中で、時折あふれ出たかんな屑が芝居の雪のように舷側から零れ落ちていた。
「「海の狐」は、いい父親だ」
「そうですね。自慢の父です。わたしは実の父を知らないから、彼のことを本当の父だと思っています。
血を分けた子でないと愛せない親もいれば、父上のように、連れ子のわたしを溺愛してくれる人もいる。
貴方のお父上はどうでした」
「疎遠だった」
「悪いことを訊きました」
「特に不足はなかった。父親代わりになってくれた男がべつにいた」
「へえ。守役か何かですか」
「父よりもずっと近く、実の兄とも慕っていた」
 父の寵臣だったエクレム。語学に堪能で、学者肌のやさしい男だった。
彼が母に懸想していることを知っていた。それが嬉しかった。後宮で惨殺された女の亡骸を、
飛散ったその断片を、泣きながら床に膝をついていつまでも集めていたエクレム・クロウ。
(ジャルディン。黒髪の若者を探していた人たちがいたわよ) 
(ジャルディン。これ、どうしたの)
 肩にある火傷の跡に目ざとく気がつくのは、いつも女だった。
国を棄てる前、自分の手で焼き鏝をあてて刺青を焼き消した。
父王みずからがほどこす王子のしるし。奴隷女から生まれたジャルディンには
本来であれば与えられぬものだったはずだ。呪いにしか思えなかった。何の用だ。俺に、何の用だ。
大海を超えて、ここまで追いかけてくるとは。
(ジャルディン様、よろしかったですね。この刺青は父王さまの何よりのお気持ちです。
これで貴方にも、レムリア帝国の継承権が)
(ジャルディン様-----ッ。船を戻せ、その船を戻せ! ジャルディン様、ジャルディンさま-------)
 追ってくるとしたらお前だろうかエクレム。もう一度この世で逢えるとしたら、お前は俺に何を云いたい。
王に寵愛された女亡き後、もう用のない末席の王子であることは、誰よりもお前がよく知っていたはずだ。
(ジャルディン様。はじめまして、エクレム・クロウと申します。誠心誠意をこめてお仕えいたします。
偉大なる王の子。これは何と、よく似ておられますことか)
 細い指が、肩に刻印されたその痕を辿っていた。旅籠ではエトラと男同士を偽って個室をとっていた。
そのほうが心配がないし、実際にも兄弟のようだった。たまには一つの寝台を分け合うこともあったが、
エトラの寝つきは赤子のようによかったし、どちらも顔色ひとつ変えぬまま、さっさと掛布にもぐりこんで寝た。
(古い火傷の痕があるわ)
 或る夜、横になったエトラは、暗闇の中でジャルディンの肩の刺青の痕を指で辿っていた。
その疵跡に気がつくのは、いつも女だった。その水色の眸を月にひらいて、
星空の下、亡国の王女は傭兵の肩に触れていた。すぐ近くにあるエトラの身体はあたたかく、
遠い記憶を想い出すようなやさしい仕草も、火傷痕にふれる白い指先も、いつまでもこのままのような、
昔からそうだったような、懐かしみを帯びていた。
 眠れないわ。明日には海が見れるのね。わたしの、ジャルディン。
「グリタンザが?」
「うわ、傭兵ジャルディンが愕いてる」
「そうですよ。なんだ、貴方には内緒だったのか」
 休憩時間、日当たりのいい石壁に凭れ、ラション家の差し入れをほおばっていた船匠とその弟子たちは
面白そうに傭兵を見つめた。クロータスの言葉にジャルディンはラション家のある丘を肩越しに振り返り、
すぐに眼をそらした。
「傭兵のだんな、どうしたんで」
「いや」
「ジャルディンの友人が、午後に家に招かれているのです」
「その様子をみると、女ですか」
「女ですよ」
「女が鉢合わせたくらいで何です。うろたえるようじゃあ駄目ですよ」
 陰湿かつ嫉妬と嘲笑の渦巻く後宮で育った男に、そんな笑えない冗談を云ってくれるな。
金の始末をつけたその日に、早速グリタンザを招待するということはないだろうから、ホトーリオは
以前からグリタンザとの関係を知っていたということになる。
実に事務的だった書斎での今朝のホトーリオの顔を思い出して、ジャルディンは壁に凭れた。
そういえば娼家の婆が、「ラション家のお殿さまとお知り合いとか。どうぞご贔屓に」と揉み手していた。
あの考え無しの婆なら、誰かれともなく手柄顔でぺらぺらと喋るだろう。横からクロータスが慰め顔に、
「父は貴方のことが好きなのですよ。ハレに残って、沿岸守護隊の一員として
ハレを支えてはくれないかと、そう思っているのです」
 差し入れの籠から果物をとって渡してくれた。
「ははあ、ということはその女が、ジャルディンのかみさんになるわけだ」
「そうなると傭兵のだんなはめでたくハレの人ですね。こりゃあ心強い」
「式はいつですか。ぜひ呼んで下さい。どうです、夜の蝶々号での船上挙式なんて。花火もつけますよ」
「盛大にばばん、ばんと」
「ばばばばん」
「お前らつまらんことで傭兵のだんなにからむのは止せ。で、だんな、その女とはどういうご関係で」
 そこで休憩の終わりを告げる鐘がなり、監督官に叱られた職人たちがひやひやとこちらを見て
笑いながら去ってしまうと、あとには青い海がのこされた。心なしか波が高い。波浪警報の幻聴まである。
今ごろ屋敷で起こっていることを考えているせいだろうか。
「花火なら、ハレにお越しになるエブスタ様のご逗留中に、歓迎のしるしとして打ち上げるそうですよ」
 人畜無害な顔つきで、クロータスが気を引き立てるように云った。


 ジャルディン・クロウは決して善行ばかりを積んだ人間ではなかったが、
その日の午後には神助があった。ジャルディンが懇意にし、また金を譲渡しようとする女はどんな女か、
大金を分け与えるほどである、ひとかたならぬ情を通わせた仲に違いない、あわよくば
彼らを焚き付けていっそ所帯を持たせてしまえと悪気なく、しかし手ぐすねひいて待っていた
領主夫妻の許に、時ならぬ客人があったのである。
しかもその先触れは、守護隊から早馬でもたらされたものだった。
「いいえ、お構いなく。わたしのような者が領主さまのお屋敷に招かれるだけでも、
光栄なことでございました」
「本当にごめんなさいねグリタンザ」
 慌しい中、領主夫人はグリタンザを玄関から追い返すのではなく、その両手をとって
邸内に引き込んだ。今から訪れるのはよほどの要人なのか、いつも快活で明るい人であるはずの
夫人の様子には心配そうな憂慮の影があり、その笑顔もひきつっている。
しかし無理にも微笑みをうかべ、夫人はグリタンザに重ねて詫びた。
「また日をあらためてね。庭に軽食の用意はしてあったの。どうかそれだけでも受け取ってちょうだい」
「ホトーリオ様にも、お招き感謝しておりますとお伝えくださいませ」
 召使に案内されて庭に出た。不意の来客が誰であれ、グリタンザには関係ないのないことだ。
ジャルディンが不在とは思わなかった。さもなくば己の身をわきまえて、ラション家などには
足を踏み入れなかっただろう。
(渡らせた男は数あれど、ちょいと特別の男の子ってとこかしら。
身分ある、立派なご夫妻からもこのように篤く信頼されて、ジャルディンも大きくなったこと)
 手袋をとり、十年前にはなかった手の甲の浅いしわをこすった。
グリタンザは頬杖をついて木立の合間の海を眺めた。丘に吹き付ける風は涼しかった。
屋敷は不意の来客を迎えるために忙しく、そのくせ何かを恐れるように静まりかえり、
気のせいか、囁き交わす召使たちの声や様子にも、ただならぬ緊張感がある。
ハレ領主にここまで気を遣わせるほどの賓客とは、何者であれ、よほどの者に違いない。
「お茶のおかわりをいかがですか」
「ご馳走さま。もう帰るところ。歩くから馬車も結構です。領主さまご夫妻にはよろしくお伝えしておいて」
 どうやら客人が到着したようである。この隙に退散しよう。
ショールをもってきてもらうと、グリタンザはそれを肩にかけた。朝から早起きして身支度してきたが、
すべて無駄になった。かえってよかった。お体裁やお上品など窮屈だ。
土産話に庭をひとまわり散策したら、すぐに帰ろう。
 まさかそのお上品なラション家の庭で、客間を覗き見している不審者を見かけようとは。
「しっ」
 低木の茂みに身を埋めるようにして、一階の客間の窓の下に二人の若い女が身をかがめていた。
振り返った金茶の巻き毛をした年上のほうが、すばやくグリタンザを制止し、手振りで
身をかがめろとうながす。そのただならぬ様子にグリタンザも彼女たちに続いて草に膝をつき、
そのとおりにしてしまった。
客間の窓の下に隠れるようにして片手を壁につけている彼女たちは、両名ともハレでは
見かけぬ顔である。どうやら泥棒ではなさそうだが、ここで何をしているのだろう。
金茶の巻き毛の女はおそらくハレに滞在中のクラリサ・ゴールデン嬢だ。グリタンザはそう決めて、
もう一人の男装の少女の横顔をそっと盗み見た。すぐに知れた。
これほどに際立った美貌というのはそうはない。この娘が、街中が噂しているジャルディンの連れだ。
片方の膝をたて、澄みきった水色の眸を伏せ眼がちにして、飛び立とうとする鳥のように、
少女はじっとうずくまっている。
「もし、どうされたのです」
 云いかけて、二人から睨まれた。黙っていろということだろう。
その間にも、いったいこれはどんな事態なのか、客間の窓からは死角になる庭の木立の裏手にも
幾たりか人影が回るではないか。みれば、ラション家の召使たちである。彼らは皆、手に剣を持って
武装している。彫像の裏手では身振り手振りで人の配置を指揮しているオスタビオ・ラションの姿があり、
彼は客間の窓の下にはりついている三人の女の姿に気がつくと、口をぽかんと開けて、
次に大慌てで手を振り回した。そこから立ち去れ、の意である。
先刻、領主ホトーリオは客人を迎えたところであるが、ラション家の邸内に、このような
警戒が必要な異常事態とは何であろう。
 オスタビオの必死の合図を無視して、窓の下のクラリサ、それはまさにアカラのクラリサ嬢だったのだが、
彼女はそっと身を起こして窓枠に手をかけ、邸内を覗くと、すぐにまたしゃがんだ。
そして、いちばん近くにいるグリタンザの耳に、「テッサコモ」と小声で告げた。
よく聴こえなかった。クラリサはしかめ面をして、もう一度分るように繰り返した。
「客人は、テッサコモ領主。ライヤーズ」
 自分の喉を両手でつかんで、グリタンザはようやく声を抑えた。
テッサコモ。それはアカラより向こう、数々の悪行で名を馳せる海のやくざの巣である。
あからさまに目立った動きこそしないものの、海路の途中で輸送船を襲ったり、
陸路は陸路で、街道では盗賊まがいのことをしていると噂され、沿海からは蛇蝎のごとく
嫌われている街ではないか。つい先だっても、テッサコモからの通商の申し入れをハレが蹴ったというので、
嫌がらせとしてハレに向かう船が焼き討ちにあったところである。無論、証拠はない。だが、テッサコモとは
蔭に回ってあらゆる手段を尽くしては近隣の発展を妨害し、略奪を繰り返している街として、
「悪いことをしたらテッサコモに放り込む」そんな子供への脅しがあるほどに、評判が悪いのであった。
その悪徳の街テッサコモの黒い噂にさらにとどめをさすのが、
黒魔術に手を染めているという、領主ライヤーズの人物像である。

(近くの漁村から妊婦や子供を攫ってきては、生きたまま煮て食べているとか)
(黒魔術で嵐を呼びよせ、船を難破させるとか)

 ライヤーズについては昔から、胸の悪くなるような噂には枚挙にいとまがないのである。
もっとも、テッサコモはそう悪い街ではないし、ライヤーズも太古の黒魔術などとは関係ない、
犯罪者が流入しているからといって、何もかもをテッサコモのせいにするのは魔女狩り同然の
莫迦げたことだと理性的な意見を述べるものもいないでもなかった。もちろん、大衆心理というものは
そういった決してもの分りのよい一部の人たちの理知や正義には傾かず、垂れ流し放題に流れ、
人々の根に潜む悪意がそうあってほしいと望む姿、つまり批難や弾劾すべき対象として
醜聞に群がる野次馬と共に憶測は腐臭し、堕落し、無責任に腐敗してゆくものである。
テッサコモに対する偏見と理性を切り離せる人間はごくわずかしかおらず、またそれに
努めようとする者も、迷信が根深くのこる沿岸地方においては、ごくわずかしかいなかった。
「そのうちの一人が、他でもない、ハレ領主である父上です」
 エトラに続いてグリタンザも首をのばして窓から客間の中を覗き、ライヤーズ本人の姿を
見たか見なかったかというところで、こちらに回ってきたオスタビオに首根を掴まれ、
三人とも、強制的にそこから退かされてしまった。
誰にも声の届かぬ廊下の隅にまで来ると、オスタビオは怒って振り返った。
「好奇心も過ぎるとはしたないですよ」
「でも、ねえ」
 クラリサ嬢はエトラとグリタンザを見返って女の連帯を促し、グリタンザもそれには同意を示した。
謎に包まれたままの黒魔術領主の実物ならば、誰だって見たいではないか。
「そちらは、ジャルディンの友人のグリタンザですね。今日のことは他言無用に願います」
「貴女はライヤーズをみた?」
「少しだけなら」
「エトラは?」
「少し」
「話に聞いて思ってたよりもおどろおどろしくないわ」
「もっと強面かと思っておりましたわ。でも、湾にはテッサコモの船がありませんようですが」
「はるばる陸路から来られたそうよ。供人もほんの少しですって」
「んまあ、陸路から」
「皆さんが彼を観たのなら、もう気がすんだでしょう」
 女たちのおしゃべりを遮って、オスタビオは女たちを促した。
「母上のところにでも行って、しばらく部屋の外には出ないで下さい。目下、
テッサコモとハレは友好関係にあるとはいえません。父上は、領主自らこうして遠路はるばる
単身で訪れてくれたからには、よもや狼藉をはたらくためではあるまい、
相手の口上をよく聴いてみようと云われるが、わたしは心配だ。守護隊も非常召集して、
厳戒態勢をハレ領の周りに敷きました。いまのところ不穏な動きはないようですが、油断はできない」
「クロータスさんは」
「弟は部屋で読書をすると云っていたくせに、修復中の夜の蝶々号を見学しに、港に行ったそうです」
「それなら、ジャルディンと一緒かしら。わたくし、お二方にお報せしに行きましょうか」
「アカラとて、テッサコモとは没交渉ではありませんか。瑣末ごととはいえ、そのアカラの令嬢を
本件に関わらせるわけにはいきませんよ。これは外交問題です」
「それなら、わたしが」
 グリタンザとエトラが同時に手をあげた。あらためて、グリタンザはエトラの顔を真正面から見た。
美しい娘にもいろいろあるが、老若男女だれの心にも感動を与えるほどの美貌というのは、
人外のものとは云い過ぎにしろ、どこかしら超然として見えるものである。
愛想なく、特に関心もなさそうな無表情で、エトラのほうもグリタンザを冷淡に見つめ返している。
ふとグリタンザは、この少女はその気位に相応しく、そうとうに身分が高い者なのではなかろうかと思った。
ちょうど少年のジャルディンが彼女の前にはじめて現れた時に、彼にはじめて接する誰もが
そう感じるように、人心を従わせるのに慣れきった、独特の威圧感を覚えたように。
(そうじゃなきゃ、頭がおかしい可哀相な子だわ)
 ジャルディンの連れという言葉からグリタンザが思い描いていたどんな女の姿にも、エトラは合致しなかった。
まさかジャルディンと同格同種の、同じ階層から下ってきた匂いのする、お友だちとは。
グリタンザを制して、エトラがオスタビオの前に出た。それは不退転な、誰にも疑問を差し挟めない、
命令的な態度だった。
「わたしが報せに行くわ。馬を出して、オスタビオ」
「後悔なさいますぞ、ホトーリオ殿!」
 客室から起こった荒々しい怒声に、一同は振り返った。
「助力を乞われてもその時にはもう遅いですぞ! ハレに面倒ごともたらすその元凶はせっかくの
わしの好意を無碍にした御身であることを、近いうち、その身をもって思い知ることになりましょうぞ。
ハレを滅ぼした領主として、あなたの名声は地に堕ち、その愚かな悪名は末代まで語られることだろう」
「そうならぬように、尽力しましょう」
 扉をおさえて、ホトーリオは指を鳴らした。
「テッサコモのライヤーズ殿のお帰りである。供人をお呼びいたせ」
「ホトーリオ殿。よく考えられよ」
「さいわいなことに、ハレは魔術を用いずとも自衛が叶う街にて」
「ふん!」
 それは小太りの、頭が禿げ上がった、眼つきが悪く唇の色の悪い、つまるところ、
子供を煮て喰うよりは、勘定のつり銭や積荷の数をごまかしているのがお似合いの、小悪党の名が
ふさわしい容貌の初老の男であった。その顔を毛の生えた耳まで怒りでまっかに染めて、
感情の抑制が効かぬのか、ライヤーズは近くの花瓶を手で払い、中身を廊下にぶちまけると
その花を靴先で踏みにじって怒声を上げた。
「その思いあがりが、いつか御身の足許をすくうことになるのだ。
よいか、ホトーリオ殿。二十年前に三男坊の若造がハレの領主として登場したあの時に、
テッサコモはハレを襲おうとおもえば出来たのですぞ。それをせず、ハレの繁栄を頼もしきこととして
干渉もせずに長年見守ってきたこのわしに感謝もせず、ありがたい忠告にも耳を貸さぬとは、ふん、
「海のきつね」とはその知性も名ばかりよ。周囲の甘やかしと時勢の幸運にのった順風をさも己の
独力とはき違え、遺恨も忘れて遠路はるばるこうして駈けつけてさしあげた友人としてのわしの
親切も仇のように追い払う。何という器量の狭さ、その正体はちっぽけな世界のお山の大将ときたか、見苦しい」
「過大評価も過小評価もいたしませぬよ」
 ゆったりと、しかし断固たる口調で応じて、ホトーリオは襟元をつまんだ。
「父と兄二人が亡きあと、たまたま父の代から仕える者が大勢残って、心からの温情と賢明をもって
若輩者を盛り立て、ここまで支えてくれた。そのことを忘れたことはありません。しかしながら
ハレはわたしの統治する街であり、ハレの民のすべてに責任があるのは貴方ではなくわたしです。
他国からの過ぎた口出しはご無用に願います。今回だけではない、どこの誰であれ変わりなく
同様のお返事をいたすことでしょう。まことの厚情と利己的な親切の押売りを間違えるほどわたしの眼は
曇ってはおりませぬ。ハレは海神にこそ祈りを捧げますが、その他の支配については
金輪際お断り申し上げる」
「雄弁と自己欺瞞を混同されぬようにお気をつけられよ」
「ライヤーズ殿、よろしければ、お乗りになってきた馬ともども、船でテッサコモまでお送りいたしますが」
「いらぬわ!」
 彼らはあしおと高く玄関に突進していたが、そこで、海景色と向き合ったライヤーズの様子に
愕くべき変化が表れた。不意に、ライヤーズは口を閉ざした。
朱をたぎらせて顔が急激に醒めて蒼くなると、猛々しかった振る舞いがさっと沈静化し、
握り締めていたその拳がひらかれて、弛緩したもののようにだらりと両脇にたれた。
一度さがったその両腕は、ふたたび大きくもち上がった。人々は彼が見ている海を振り返った。
大袈裟な仕草で海にむかって両腕を突き出したまま、しばらくライヤーズは突っ立っていた。
全身に力をこめて、彼は硬直したまま何かを呼んでいた。眼をぎらつかせているその顔容には狡猾と、
復讐を味わう愉悦がじわりと浮かび、その額には汗が流れた。
やがて、嘲笑いがその乾いた唇から低く、不気味に、勝ち誇っておし出された。
「後悔しますぞ。必ず、必ずな。思い知るがいい」
 そのあまりの様子の急変化こそ、恐ろしかった。そこにいるのはまさに、無法者たちを束ね、
子供を煮て喰っていると囁かれる、黒魔術を行う怨み深い人物のもう一つの裏の顔に他ならなかった。
海は晴れていた。しかし、風はぬるく、そして湿りを帯びていた。水平線の向こうには、もやがかかり、
雲の流れが速かった。数刻もすれば雨雲がハレに流れこんできて、この街は雨に打たれるだろう。
ライヤーズの召喚に返事をするように、雨を呼ぶ風が吹きつけた。オスタビオが女たちを背中に庇った。
武器を手に駆けつけてきた召使も、守護隊も、荒れはじめた海の様子を見て押し黙り、唸った。
いまやライヤーズの口端には、したたるような憎しみと狂気がうかんでいた。
テッサコモから来た男は、腕組みをして泰然と構えているホトーリオと、海を睨んでいる
オスタビオを交互にながめた。呪いを浴びせかけるようなその小さな眼は、オスタビオの後ろにいる
女たちも順繰りに射すくめた。火を吐くようなその眼は、わしに逆らったものは全て踏みつけて
叩き潰してやるのだといっていた。白い雲がままたたく間におしやられ、太陽は雲のあいだに姿を消し、
海上は暗く翳りはじめた。波の上に、煙がねじれるような影がいくつも現れ、それはしだいに高くのびて
空を覆い始め、ゆっくりとハレの街の上に覆いかぶさろうとしていた。
ライヤーズは哄笑を放ち、海に指を突きつけてそれを教えた。ハレに禍いあれ、嵐あれ。
「見よ、黒雲が山のように」
「奇遇ね。あなたが嵐なら、わたしは雷までも、あの雲の彼方に見えるわ」
 海を見つめたまま、エトラが答えた。


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