■Y.
ハレに天候の急変は珍しくはないが、突然降り出したその午後の雨は、どことなく陰気だった。
明後日にはアカラから領主が来るというので、街中はその歓迎の準備に忙しく、修復中の
ハレの帆船、夜の蝶々号が入渠中の船渠も夕刻前には作業を終えて清掃をすませ、親方をはじめ、
船大工もみな帰ってしまった。
「今日は帰りたくない。女のところにも行きたくない。そうでしょう分ります、分りますよ、傭兵のだんな」
訳知り顔をした工房の男たちに囲まれて小雨降る中ジャルディンが酒場に拉致されてしまうと、
船渠の中は、クロータスひとりになった。含み笑いをたたえた職人たちに担ぎ上げられるようにして
退場した傭兵の顔を思い出すと可笑しくて、申し訳ないと思いながらも若いクロータスの気分は
しばし愉快であった。ジュルディンほどの男でも、女同士の鉢合わせは怖いのだろうか。
(うちの家族はみんな固定観念にこだわらないとはいえ、下町の人を家に招待するなんて、
父上も母上も開放的で、進歩的だな。グリタンザといったっけ。ジャルディンとは古馴染とか。
エトラは、どう思っただろう)
どこまでも精緻にととのった少女の顔を思い出して、クロータスはひとり笑いを引っ込めた。
傍にいなくとも、胸にその面影を思い浮かべるだけで何となく身をただしたくなるほどの美少女は、
鑑賞させてもらう分には申し分なくとも、少々、自分には過ぎている。かなりもとの身分が高いらしいという
母マーリンの言葉どおり、初対面の挨拶の折りも、あの水色の眸で正面から見つめられるだけで
非礼を犯していないのに何かこちらが失礼をしたような、そんな気おくれを覚えて気圧されてしまったものだった。
といって、べつだんその後のエトラの態度に気になるものがあったわけでもない。むしろ存外に気安く、
少年のようなあっさりとした口の利きようをするので、身構えていたこちらがどっと安堵したほどであった。
それでも、エトラにまつわるあの独特な雰囲気は、他人と一線を引いている。
兄のオスタビオは「恋人にどうだ」とからかってけしかけるが、父が云うように、あの子もジャルディンと同じく
かなり特殊な過去もちなのだろう、そのことは大勢の人間を見てきたクロータスにも薄々知れた。
海辺に生きていると時々、そういう人間に遭遇する。彼らは決して誰にも心をひらかず、強烈な印象をのこして、
幻のように通り過ぎてゆくだけなのだ。
夕暮れに向かうハレの街は、寂しく冷たい雨の中にあり、一旦は土砂降りになっていたその雨も
どうやらじきに止みそうであった。船渠に戻って工房の片隅に向かうと、クロータスは余った木片の中から
手ごろな大きさのものを選んで取り上げた。そればかりに没頭することはゆるされなくとも、
クロータスも工作は子供の頃から好きだった。母が欲しがっていた手芸箱を作る間、雨宿りをかねて、
監督官に頼んで船渠に居残らせてもらったのだ。
手作業に没頭するとあたりの物音は聴こえなくなる。
箱には仕切り代わりの内箱をつけ、蓋の上には持ち運びがしやすいように取っ手をつけることにした。
クロータスは簡単な図面をひき、鋸をつかった。工具にこびりついた木屑を払っていたクロータスは、ふと、
「夜の蝶々」号の船尾付近に人影があることに気がついた。船大工はもう全員帰ったと思っていたのだが、
誰かまだ残っていたのだろうか。
海に浮かんでいるのを遠くから望むぶんには小さな帆船も、陸に揚げれば海面下の階層部分まで
引き出されてくる分、その大きさに圧倒されるものである。組み継ぎ式の柱を全て外していても、その船体の
端から端は高さも幅も要塞ほどの規模があり、その影にいると、こちらからでは奥がまるでよく見えなかった。
ちょうど建設中の建物のように、修復中の夜の蝶々号の周囲には梯子や、そこで作業が
出来る板が渡されて、船大工たちの為の足場が船を網で包むようにきっちりと組まれてある。
見ていると、不審な人影は誰に断るでもなく何階建てにもなった足場の、その梯子を昇りはじめた。
「そこにいるのは誰ですか。門で許可をもらいましたか」
クロータスは作りかけの手芸箱を作業台に戻すと、奥の足場に向かって歩いていった。
雨はもう止んだようである。夕映えの色が天窓を染めていた。
「そこの方。失礼ですが」
下から呼びかける誰何にも動じず、足場に昇った人影は修理中の夜の蝶々号の傍から
離れようとはしない。仕方なく、クロータスも甲板とほぼ同じ高さに設えてある足場まで梯子を昇った。
奇妙なことに、クロータスが後ろに立っても、まったくこちらに気がつかぬふりをする。少し白髪の
混じりはじめたその頭髪は、丁寧に梳かれて後ろで結わえられており、この工房の者ではないのは確かだった。
「すみませんが」
肩をたたかれて、ようやくその者は振り向いた。
それは卑しからぬ、さりとてさほど高貴でもない、こざっぱりとした身なりの、穏やかそうな顔をした
見知らぬ男であった。守衛を呼ぼうかと考えていたクロータスは、その者の子供のように澄み切った眼と、
両側に少し小じわのある口許のやさしい笑顔に戸惑って、気勢をそがれてしまった。
「此処に何かご用ですか」
「申し訳ない。誰もいないと思った」
ゆっくりと時に疲れていったようなその見た目よりも、男の声は張りがあって若かった。
しかし聞き捨てならない。まずは、この部外者は、どうやって建物内に侵入したのだろう。
疑念に応えるように、男は上着を探ると隠しから紙片を取り出して胸前に掲げ、それを若者に見せた。
『湾内船渠工房見学許可証』
証書には確かにハレ領主の印がある。しかしクロータスはかえって疑いを強めた。
それが捏造された証書でないと誰に云えよう。何よりも、領主の次男である自分の
顔を見ても誰か分からないとは、これは完全なるよそ者である。問い質す声は厳しくなった。
「失礼ですが。あなたは」
それに応えて、男はきちんと礼をした。高いところにある狭い足場で行うには場違いなほどの
丁寧な仕草だった。面食らっているうちに、男は名乗った。
「テッサコモの船匠、ストロウと申します。テッサコモ領主に付き従って本日ハレに到着いたしました」
「テッサコモ」
「陸路から入りました。領主ライヤーズはただ今、ハレ領主さまのおいでになる丘の上の
お屋敷にお邪魔しております」
「何だって」
「わが領主が、思うところあって沿岸諸国には気づかれぬよう、極秘のうちにホトーリオ・ラション様との
談判を望みましたものです。陸路を選びましたのは、海路からでは途中アカラに気がつかれてしまうからです。
が、話し合いはおそらくは決裂、破談かと」
「そして、貴方は此処で何をなさっているのです」、クロータスはすっかり愕いてしまった。
ストロウはにっこり笑うと、船へと視線を動かした。
「修復中のお船の見学を」
それ以外には他意はないといいたげな、実に感じのよい笑みだった。それはあまりにも子供っぽい、
無邪気そのものの、幼子が船の模型を見て歓ぶのと同じ笑みだった。
この男は気違いか、それとも何処かの密偵だろうか。しかしストロウなる男は口舌もはっきりと、
自分はテッサコモから来たと云ったのだ。踏み出したクロータスの足許で足場の板がぎしぎしと鳴った。
「貴方がまことにテッサコモの方として、此処へはハレ領主の許可を得て?」
「お見せした、このとおりです」
もう一度許可証を掲げてクロータスに見せると、ストロウはそれを大切そうにたたんで、上着にしまってしまった。
夜の蝶々号を眺めているストロウの顔には、目下、船への興味しかないようである。
クロータスは思いついたことを試してみた。舷縁と同じ高さとなった眼前には、もうほとんど修繕が終わった
夜の蝶々号の甲板が広がっている。散々に海賊船から砲撃を受けたわりには、損傷箇所はどれも
すぐに取替えがきくものが多く、大急ぎで木造の家を建てるようにして、傷んだ部分は匠たちの手で速やかに
元通りにされつつあった。
「貴方は船匠とおっしゃいましたか」
「そうです。といっても、主に設計の方ですが」
「テッサコモのストロウさん。せっかくです、ご意見をお伺いしたいのですが」
「どうぞ」
「何かこの船について気がついたことでもありますか。随分と熱心にご見学のようです。
ハレの船とはいえ、建造は外注で、特に変わった仕様はこの船にはないはずですが」
「そうでしょうか」
ストロウは手を後ろに組むと、後ろにさがり、そして足場から落ちかけてクロータスに慌てて
引き戻され、甲板を見回し、船体に眼をはしらせた。甲板には組継ぎ前の檣がそれぞれに分けられて、
まとめられている。
「帆柱はまだ立ててはいないのですね」
「はい。しかし沖に投錨中の姉妹船、「小鹿の踊り」号とこれは同型です」
「その姉妹船を参考にするならば、檣の後方傾斜が前檣から大檣、後檣へと、扇を開くようにして
一度ずつ角度が増しているはずです。ご存知のように帆船は後ろからの風で進みます。
強風を受けた帆が前方に傾く時、檣が垂直ではないことは耐性の面からも肝要ですが、その傾斜角度が
大きすぎても小さすぎても不具合です。二度の角度で柱を立てるのが長らく主流でしたが、
それでは無駄に大きいように思われる。前から順に一度ずつ増やす設計は、風洞実験により二十年ほど前に
考案されたものですが、あいにくと、当時は旧式どおりの図面の船が新造船として多く進水した年で、
それを採用して実際に造られた船はまだ少ない。それをここで拝見できるとは思いませんでした」
クロータスはストロウの横顔を見遣った。船匠というのは嘘ではないのかもしれない。
ストロウは澄んだ眼をしばたたかせた。
「それから船底は銅で被膜してある。よろしい、腐食を防ぐために、釘も鉄ではなく銅釘にしてありますね。
海中微生物もそぎ落とされて、すっかりきれいに掃除が終わってある。新品のようだ」
足場から手をのばし、船体を掌で撫ぜんばかりにして、ストロウは夜の蝶々号を検分していた。
それは患者がどこの国籍の者かを問わず、病人ならば全力で治療に取り組む医者に似て、
この世界に首まで漬かり、船を誰よりもよく知る船匠こそがそそぎ込むことが可能な、不純のない、
船という創造物へのストロウの深い理解と情熱に他ならなかった。ストロウはじっと船の巨体を見つめた。
まるでそれが眠っている子供でもあるかのように、船を見る彼の眼は優しかった。
明るく澄んだその眼に老人の叡智をうかべ、やがて彼は船に囁きかけた。
「お前は何という優美な船だろう。しかしいつかは、この美しい船も古色蒼然として、新しい時代には
もう誰からも顧みられなくなるのだ。こうしてこのように大切に扱われ、波間を嬉しそうに駈けるお前は、
いったいどれほどの喜びを船乗りや私たちにもたらしてくれたことか。しかし、その命も、
その価値が分らぬ者たちの間では、ただのがらくたにしか過ぎなくなる日がやがて来るのだ。
いったい何艘の船の最期をわたしは見送ってきたことだろう。人の知恵と努力を尽くしたおおきなるものよ。
激浪にもまれ、海底めがけて真っ逆さまに落ちていった時も、砲火の業火に包まれて燃え上がった時も、
或いは嵐の中で手足をもがれるようにして帆柱を失うのを見た時も、わたしはお前が好きだった。
帆船よ、何枚もの羽根を大空に広げて、海原を走る白い船。檣楼で聴いた横静索の風に奏でる子守唄。
船乗りに独り者と無口が多いのは、きっとお前と過ごすことで得る興奮や安らぎに勝るものが
この世に他にないからだ。船を終生の友とする彼らの口笛、彼らの船唄、それもいつか消えてゆくのだろう。
心身の一部のようにして男たちが愛したこの船が、無用の長物としてその労を嗤われるような時代が
いつかきたとしても、わたしはお前を忘れないよ。空に響いていた船鐘の音。風のちからで星空を渡る船。
夜の蝶々号。いい船名だね」
「その船名は、四年に一度、ハレの海上を横切る蝶の群れにちなんで名づけられたものです」
ほっておくといつまでも船を眺めていそうなストロウの手を引くようにして、足場を降りた。
船の未来を愛惜しているストロウの口調には、混じりけのない深い想いがあり、
彼が腕利きの船匠であることを、クロータスはもう疑わなかった。
技術者を好んで優遇するあの父ならば、領主同士の談判の間、テッサコモの供人に自由に港を
見学する許可を与えることも、ありえない話ではない。
「ライヤーズ様が領主の許にお越しなのが本当ならば、どうぞ供人の貴方も、
このままラション家においで下さい」
水溜りが夕映えを朱く映していた。外を覗いても誰もいなかったので、クロータスは戻って来た。
日中は天窓からたっぷりと光がとれる工房も、もうすっかり暗かった。満潮の波の音がしていた。
クロータスは工房の中に呼びかけた。
「人を呼んで馬車を用意させます。ここで待っていて下さい」
「いえいえ。その必要は」
返事はすぐ近くだった。真後ろに誰か立ったと思ったら、片腕をひかれた。クロータスは後ろを見返った。
ストロウはにこやかなまま、ものすごい力でクロータスの腕を抑えていた。クロータスが腕を引こうとすると、
さらに力は強まった。柱の影に隠れていたストロウは若者の腕をねじり上げると、そのまま近くの台の上に
おし付け、身をかぶせるようにして動きを封じた。
「ストロウさん」
「ご注意をいただかなくとも、お名前は存じ上げております。クロータス・ラション様」
「ストロウさん。貴方は」
「テッサコモの船匠ストロウです。どこの国にも一人はいる、船に生涯を捧げる者です」
ストロウの上着には先ほどの『湾内船渠工房見学許可証』があった。隠しから半分のぞいているそれは、
角が擦り切れて、変色し、ずいぶんと古いものに見えた。少なくとも昨日今日のものではない。
「誰か! 誰か来てくれ!」
「お静かに」
クロータスはすぐに口をつぐんだ。喉許に、短剣が突きつけられていた。背中越しに腕を回して若者の喉に
刃先を押し当てたまま、ストロウはクロータスの耳に口を寄せた。掴まれた腕がみしりと鳴った。
それは設計師ではなく、まるで大きな銛を扱う漁師のような腕の力であった。
「すぐに失礼します。実は門衛の前を通っては来ませんでした。屋根づたいに天窓から入ったのです。
塗装を除けば、この夜の蝶々号はもうほとんど修理が済んでいるようですね。せっかくですが、
これをもう一度壊したい」
「何を云ってる」
「夜の蝶々をふたたび海に遊ばせるわけにはいかないのです。貴方にも協力して欲しい」
「莫迦な。そうだ、家は。父上たちは」
「ライヤーズの訪問は事実です。ラション家の方々はご無事ですよ。クロータス様もすぐにお帰しいたします。
危害は加えません。「夜の蝶々」号も、沖に投錨している「小鹿の踊り」号も、どちらもいい船だ。
このようなことをするのはしのびない。ですが、ものの価値の分らぬ者どもにこの船が散々に荒らされ、
薪にされる日を見るよりはましだ。クロータス様と此処でお会い出来たとは何という幸運だろう。
貴方はわたしのやることを見ていて下さればよいのです。夜の蝶々号に、これからわたしが仕掛けることを」
ストロウは片手をのばし、作業台の上から工具を取った。そこには先ほどクロータスが
作りかけていた、母のための手芸箱が残されたままになっていた。それを見てストロウは微笑んだ。
「上手ですね」
凄まじい腕力で捕らえた若者を動かさず、ストロウの眼は子供のように澄んだままだった。
祝いごとの或る時、ハレの鐘は特別の音色を鳴らす。
海に近い鐘から始まって、しだいに丘へと、鐘から鐘へ歓びを伝達するように、順送りに鐘が鳴るのである。
その朝、最初の鐘が防壁の砦からうたれると、街の鐘楼は次々と順番にその音色を繰り出し、ハレの街を
晴れやかな鐘の音で包み込んだ。
「船が見えたぞ」
「アカラ領主さまのご到着だ」
湾内にアカラの船がすべりこんでくると、最初の鐘の音を合図にして防壁の上に並んだ人々はいっせいに
手にした小旗を振った。先日の海賊のことがある。アカラからの一行は艦列を組んでいた。
御座船に加えて二隻の護衛軍船を引き連れてやって来た艦隊を、ハレ側からは「小鹿の踊り」号が
途中まで迎えに出て先導する。
白い帆を満帆にして、総計四隻の帆船が整然と港に滑り込んでくるさまは、見た目にも爽快であった。
投錨作業の終わったアカラの船へは、オスタビオとクロータスを乗せた小艇が迎えに向かった。
舷門のはしごを降りて、アカラの領主エブスタ・ゴールデンが身軽に小艇に乗り移ると、小艇はすぐに
波止場へと引き返してきた。波止場では、ラション家の領主夫妻と、クラリサが待っていた。
「クラリサ。出迎えありがとう」
「エブスタお父さま」
それは親子というにはよそよそしい、しかし実際には血の繋がりのない二人ならばそのようなものかと
思わせるような、父と娘の挨拶であった。
エブスタには妻子がおらず、海賊に身寄りを殺され施設にいたクラリサを養女としたのも、将来どこぞの国と
縁組させるために器量よしを望んで探したその結果とのことらしいが、肝心のクラリサが二十歳の時に
好き合った男と駈け落ちしてもクラリサを勘当せず、そしてクラリサが夫を嵐で喪ってからも、
彼は養父としての立場を崩さず、娘の哀しみが癒えるまで三年待って、ふたたびクラリサを修道院から
呼び寄せたほどであるから、赤の他人としての親子なりに、彼らの間には余人の知れぬ積もる年月の重みが
あるのかもしれなかった。
エブスタ親子に共通するのは唯一、その眸の色だった。クラリサの青い眼は何かを求めるように
エブスタの青い眼を見つめ、エブスタはクラリサを平然と見つめ返し、そしてクラリサの方からやがて、
「海路、波が穏やかだったとのこと。何よりでした」と、ぎこちなく微笑んだ。
「ハレにようこそ、エブスタ殿」
「ホトーリオ殿。そしてこちらが奥方さまですな。マーリンさん、先日の領主殿のご活躍、
この湾内での海賊との一戦については、わしもさかんに聞きおよんでおります」
エブスタ・ゴールデンは頑健な体格の、眉の濃い、顎のしっかりした、いかにもその全身から
昔は海の男であったことを漂わせる、堂々たる体躯の男であった。
男くさい魅力を放ち、どのような分野においても頭角をあらわすに足るだけの器量を備え、
外套をひるがえして歩く時、脚をいためた名残なのかやや鈍重であったものの、そのような
損傷は何ほどのものかとばかりに、彼はあたりを払うようなよく響く野太い声をして人を惹きつけ、
かといって粗野だけにはあらず、実におし出しがよかった。
「なあに、脚を傷めましたといっても、これでも若い者並みにすばしっこく走ることも出来ます。なあ、クラリサ」
「そうですわ、お父さま」
「オスタビオさん。あんたを婿殿と呼ぶにはまだ早いが、是非そうなりたいものです」
「そんな、エブスタさん。こちらこそハレにお迎えできて光栄です」
「クラリサ、お前はどうなのだ」
「オスタビオ様はよい方ですわ、お父さま」
「まあまあ、エブスタ様。お話は嬉しゅうございますが、このようなところで立ち話で」
「そうでしたな、奥方さま。どうもわたしは無粋者で」
「どうぞ馬車に」
「エブスタ殿、どうぞ。オスタビオはクラリサさんと。クロータスはお母さんとおいで」
「はい、父上」
そこで、エブスタをのぞく全員の眼が、先頭の無蓋馬車の御者台に向けられた。
実は昨晩、食後の席で、ホトーリオ、マーリン、オスタビオ、クロータス、さらにクラリサとエトラまで
加わって、是非とも明日の花道を走る馬車の先頭にはあなたが御者として立つべきだ、
それはもう全員一致で決まったことなのだと半ば脅すようにしてジャルディンへの説得を開始し、
月が中天に昇る頃、「このわがまま者」「信じられないわ」とまで傭兵は罵倒された挙句に、
ついに承知せざるをえなかったものである。
派手な衣裳を着せられ、羽根飾りつきの帽子をかぶせられたジャルディンは諦めた面持ちで
御者台にすわり、花飾りつきの無蓋馬車の手綱を手の中でもてあそんでいた。エトラはとみれば、
これもきらびやかな服を着て、こちらは最後尾の馬車の御者台にラション家の御者と共に腰掛けている。
青と銀の織りも見事なその晴れ着は、クロータスが少年の頃のものとのことだった。
掃き清められた道はきれいに花びらで埋め尽くされて、晴天のもと、一昨日の雨の名残はもうどこにもなかった。
あの日、ジャルディンは船渠の船大工たちに街の酒場で散々呑まされて、通りに出たところで今度は守護隊の
副隊長の髭面につかまり、結局、彼の家に泊めてもらったのであるが、そこではじめて、テッサコモ領主
ライヤーズがおしのびで領主の許を訪れたことを知らされた。
「それで」
「もう帰った。供人も残らず全員な。陸路からハレに来るには、何日も駈けどおしだったと思うのだが」
「何の用だ」
「知らん。ラション家の滞在もほんのわずかだった。オスタビオ様の命令で厳戒態勢を敷いていたのだが、
その布陣も整わぬうちに、あっさりと、雨の降り出す前にもと来た道を帰られたよ。
黒魔術領主と噂されるわりには街の親爺のような、冴えない人間のようにお見受けしたが、
いずれにせよ不意打ちの奇行だ。目的は分らんよ」
髭面の女房はハレを救った黒髪の傭兵を家に迎えたことが嬉しくてならぬようで、寝ていた子供まで
起こしてくると、ジャルディンに挨拶させた。子供たちは本物の傭兵に会えただけでも満足したとみえて、
傭兵の腕や剣にそろそろと触る。
「飾り紐」
黒髪のひと房にまきついている翠色の飾り紐を指して女の子が欲しがった。エトラが編み込んだものだ。
いつ外してもいいものが、いつまでも身にまつわっているというのも変な話だ。ジャルディンはそれを
髪から解いて女の子に遣ろうとしたが、女房に叱られてしまった。
「テッサコモのライヤーズ様も謎ならば、今度お越しになるアカラのエブスタ様だって、謎の多い御仁ですねえ」
子供たちを寝つかせてしまうと、女房は髭面の隣りに坐り込んだ。
「何でもアカラはおそろしく船脚がはやい船を造るそうじゃありませんの。いい技師をお抱えなすったのね」
「地理的にはアカラとテッサコモの反対側、ハレの東に位置するコルリスなどは、アカラの船をよく研究して
同型の帆船を造っているそうだ。コルリスは近年、小さな戦を重ねて大儲けしているからな」
「コルリスがこっちに攻め寄せてくることはないのかしら」
「来たとしても、ハレは地の利と防壁を生かして、陸上戦に持ち込めば勝てる」
「新興のアカラとしては、ハレと結ばれることで、諸外国の信用を得たいのでしょうねえ」
客間がない家であった。その晩は、暖炉の前で寝た。
鐘の音がふたたび鳴った。護衛に囲まれた無蓋馬車はゆっくりと動き出した。
「先頭馬車の御者は、黒髪の傭兵だよ」
「あれがアカラのエブスタ・ゴールデン様だ」
「ホトーリオ様、エブスタ様、万歳」
防壁の大門をくぐって街中の大通りへ入ると、家の二階から二階へと渡された花飾りの屋根が彼らを迎えた。
沿道の人々はいっせいに手にした花を馬車の上に投げかけた。
ホトーリオとエブスタは手を振り、続く馬車ではオスタビオとクラリサが仲良く領民の歓声に応え、
最後の馬車が通ると、人々はまず御者台の美少女に唖然と見惚れ、それからマーリンと
クロータス母子の笑顔に胸の温まる想いで、大喝采を繰り返した。家々は花綱で飾られて、通りからあふれ出た
人々は屋根にのぼり、二階の窓からも花を降らせた。エブスタの此度の来訪が、オスタビオ・ラションと
エブスタ・ゴールデンの正式な婚約のためであることは誰もが知っている。鐘の音に包まれたハレは歓びにわきかえり、
そしてその喜びに喜びを注ぐようにして、沖合いに停泊している『小鹿の踊り』号と、アカラの帆船の船上から
空砲が続けざまに打ち鳴らされた。花々が舞い、小鳥が飛び立ち、それは海の神に祝福された或る海辺の街の、
人々の記憶に永く残る、最盛期の一日であった。
丘の上のラション家の屋敷につくと、ホトーリオとエブスタは馬車を下り、海を見た。
アカラ領主歓迎の一行が街中を抜けて丘に向かうのを見届けて、ようやくアカラの船から
船員たちが陸にあげられているところであった。彼らは必要な人数を船に残して、交替で街中の
宿泊施設に泊まるのである。アカラから来たその数は船の当番と合わせて三百人ほどかと、
ジャルディンは長年の傭兵の癖で全体を見積もった。
「エブスタ殿。こちらがその合戦の折の傭兵ジャルディンです。もとは貴方と同じく船乗りでした」
「おお、君のことであったか。話に夢中で気がつかなかったよ」
エブスタはジャルディンの肩にずしりと手をおいて、豪快に笑った。それはそうであろう。
道中散々、海賊撃退の話で盛り上がっておいて、当のその黒髪の傭兵が彼らの馬車の手綱を
操っていたのである。見れば、ホトーリオはいたずらの成功に満足そうに、にやにやとしている。
「しかし。傭兵といっても、彼は素性悪からぬ立派な男ではありませぬか、ホトーリオ殿」
「ハレに留まれと説得中です。エブスタ殿からも勧めてもらえませぬか」
「いやいや、腕の立つ傭兵ならばアカラにも欲しい」
ジャルディンそっちのけの会話が続き、その間にも次から次へと馬車が到着して、すぐにラション家は
客人で賑わった。
「舞踏会もあるのよ」
「私たちも踊れるのよ。楽しみだわ」
待ちきれぬように女中たちの顔も明るい。三日三晩、ハレは歓迎会が続くのである。
ジャルディンを見つめる女中たちの眼は今からねっとりと輝いている。
舞踏会といってもせいぜいが樂人を呼んで庭で遊ぶくらいのものだが、木々に提灯を渡して
宵闇の中で男女が笑いさざめく様は、それだけで華やかで、召使たちはそういった機会を利用して
意中の者と恋仲になるのが常だった。
庭園では、エトラとクロータスが、もう一度ハレの伝統ダンスの練習をしていた。
オスタビオとマーリンがしきりに、クロータスの様子がおかしい、昨日、船渠から戻って来てからは
特に元気がないとこぼしていたが、ジャルディンの眼には、かえってクロータスの顔つきが今までよりも
しっかりしたように思われた。小さいとばかり思っていた下の男の子があることをきっかけとして男らしく成長し、
心身ともに変化したことに、家族がまだ付いていっていないだけなのかも知れない。
そう思って踊る二人を見ていると、そのきっかけの一因かもしれぬクラリサの声が、二階から聞こえてきた。
そこはエブスタが通された客室である。しばらくの間、小声で何かを云い争うような気配があった。
と思ったら女の小さな悲鳴が上がって、窓が乱暴に内側から閉められる音がした。
庭先からジャルディンはエブスタの室を仰いだ。屋敷は来客の応対で忙しく、誰も今の物音には
気がつかなかったようである。誰かに様子を見に行かせるべきだろうか。
その必要はなかった。ほどなくして、クラリサが庭に降りて来た。傭兵の腕に女の手が触れた。
何があったのか、クラリサは嗚咽を堪えているようであった。庭園の花々に囲まれて踊っている
クロータスとエトラを見つめたまま、女はそうやって誰かに縋っていないと、いまにもすすり泣きのうちに
崩れおちそうであった。
「どうか今晩、わたしの部屋に来て」
その声は掠れて、うつろだった。金茶の巻き毛がもつれたままになっており、女の手首は誰かの凄い力で
掴まれたように、赤くなっていた。
「女のほうから申し込むなんて淑女らしくないわね。でも、もう何もかもおしまいなの」
何度も練習を必要とするだけあって、ハレの踊りはやや複雑である。ジャルディンも以前に滞在した折りに
マーリンから直に教わったことがあるが、マーリンいわく、
「楽譜をよめて、楽器を巧みに弾けても音楽を奏でることが出来ない人がいるけれど、それと同じ。
ジャルディンは踊れない人間」
だそうで、本人の気のなさも手伝って、評価はあまり芳しくなかった。
「お願い、今晩、誰にも知られないようにわたしの部屋に来て」
傭兵の腕に身体を傾けて身を持ちこたえさせたまま、クラリサは重ねて云った。
真夜中にクロータスを寝室に引き入れていた一件といい、アカラの女は、どこもかしこも、支離滅裂であった。
オスタビオの立場はどうなる。言外にその意をこめて女を見ると、クラリサは青い顔をして唇をふるわせた。
「ジャルディン。わたしにはきっと恐ろしい天罰が下るわ。けれど、良心にそむくよりはいい。
でもまだ時間がある。最後の説得に一縷の希望を繋いでみようとしたの。でも駄目だった。
わたしの最初の結婚は駈け落ちだったと前に云ったでしょう。そうやってあの人から逃げようと思ったのよ。
なのに夫は嵐で死んでしまって、それはまるで、わたしの運命のような気がしたものだったわ。
あの人から解放されるためには、いいなりになるのがいちばんだと諦めて、わたしはエブスタの許に戻りました。
でも、もうこれ以上は耐えられない。ラション家の方々に会って、ようやくその心が決まったわ。
でももしかしたら、こんな決意も無駄になるかもしれない。もし駄目だったら、その時には
わたしが、わたしがあの人を------」
途切れ途切れにようようそこまで言葉を絞り出すと、クラリサはふらりと後ろに倒れかかった。
庭の木立にはもう提灯が吊るされて、淡い灯りが揺れていた。クラリサを抱きとめたジャルディンは
大声でマーリンと召使を呼んだ。最初に駆けつけたのは、エブスタだった。
二階から駆け下りてきたエブスタは、本人の言葉どおり脚が悪いなどとはとても思えぬ俊敏さを見せて、
庭先に乗り込んできた。彼はジャルディンからひったくるようにして気を失っているクラリサを腕に抱き取ると、
濃い眉の下からじっと傭兵を睨みつけた。
「娘が、何か云いましたかな」
「何も」、ジャルディンはエブスタの眼を見て答えた。
「それなら結構。これは昔から貧血がひどいのです。クラリサ、クラリサ。しっかりしなさい。誰か来てくれ」
そこへ大勢の召使やクラリサの侍女が間に合って、彼らは別の間に立ち去った。
「お医者さまを呼んで」
「いや、その必要はありません奥方さま。娘の部屋はどちらですかな」
屋敷は一時騒然となったが、クラリサが寝室にはこばれると、それもすぐに静まった。
その様子を、踊りをやめたクロータスとエトラが庭園から見ていた。
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