■Z.
四年に一度、ハレの海には、蝶の群れが現れる。
遠目には風に流れる花びらに見える。薄紫色の蝶は、ひらひらと群れながら、帯状となって
海上を横切ってゆく。それは大陸から大陸へ渡る、蝶の冬超えの旅だといわれている。
波の上を、薄紫の蝶はとぶ。薄翅を風の流れにのせ、陽の照り返しの合間をぬうようにして通り過ぎる。
空と海と雲が銀色につながる、光の中を。
少女だった日、マーリンは、群れからはぐれた一羽の蝶を見た。それは夜のことだった。
越冬に向かう蝶は四枚の翅を広げて、鱗粉をこぼしながら夜の闇を彷徨っていた。
真白い月を目指し、一羽の蝶はマーリンの見ているなか、夜の海のどこかに見えなくなった。
嘘だ、と少年は笑った。嘘じゃない、とマーリンはむきになった。この防壁に沿うようにして小さな蝶が
飛んでいた、満潮の上を、月に向かって飛んでいたわ。マーリン、それは波のしぶきの見間違いだよ、と
もう一人の少年が笑って云った。信じてもらえなくて少女は泣いた。
遠い昔、三人の幼馴染が防壁に腰をかけていた。
一人は大好きな少年、もう一人は彼女の従兄だった。後に二人の少年は二人とも、彼女の夫となった。
夜の蝶々。もう一度だけ、この湾でマーリンは夜の蝶を見た。それは夫が死んだあの日のことだった。
港から海賊を遠ざけようとした夫は巧みに海賊船を沖合いへと誘い出し、戦いはハレ湾の外で始まった。
海賊船は夫の乗っていた船を散々に砲撃した後に火を放ち、焔はあっという間に船全体に
回ったかと思うと、上げ扉から下に火が飛び込み、火薬庫に引火、夫を乗せた船は
底から持ち上がるような大爆発を起こして、四散した。真っ二つに折れた船体は破片を撒き散らしながら、
潮に流されて遠くに沈んだ。赤子のクロータスを抱えたマーリンは防壁の望楼から夫の船が海に沈むのを
見ていた。何もかもを見ていた。親友の最期に激怒した従兄のホトーリオが従者たちの止めるのもきかず、
マーリンの傍らを通り過ぎて自ら海に出てゆくのを、そして追い風を受けた帆船で海賊船の横っ腹に
体当たりした挙句、捕らえた海賊を一人残らず彼らの船の帆桁に吊るして、そのままそれに火を放ち、
親友の復讐を果たすのを。
蝶を見たのは、その夜のことだった。それは海を流離う人の魂のようだった。
小さな淡い光が夜の海にぽうっと浮かぶと、光はマーリンに別れを告げるようにして舞い上がり、
焼け崩れた船の残骸が漂い浮かぶ波の上を回って、月影に見えなくなった。
(この次にハレが持つ帆船には、夜の蝶々号と名づける。それが、彼との約束だった)
昼も夜もないような哀しみの底で、従兄のホトーリオは繰り返しそう云った。
彼は自失のうちにあるマーリンに代わり、赤子の面倒もみてくれた。クロータス、お前の名は
親友に頼まれてわたしがつけたものだ。うちにはオスタビオという男の子がいる。彼がお前の兄さんだ、
そしてこれからは、わたしがお前のお父さんだよ。
いとこ同士の再婚を、ハレの領民は静かに受け入れた。あの三人はいつも一緒だったからね。
それからの年月はとてもはやく過ぎた。オスタビオもクロータスも、すっかり大きくなってしまった。
クロータスの上にみるあの人の面影も、もうほとんどぼやけて分らない。子供の頃のほうがよく似ていた。
早朝の涼しい海風が部屋に入ってきた。空にはまだ朝の月があった。マーリンは小さな函の蓋をひらいた。
亡夫がくれた数々の手紙や、少年の頃の彼がマーリンのために描いてくれた蝶々の絵。薄紫色がなくて
うすめた青い色で塗ってある。あの人の肖像画。見るのも辛くて納めたままにしてあった数々のもの。
それからこれはレースで編んだ赤ちゃんの靴下。ホトーリオと再婚後、一度だけ懐妊したものの、
流産してしまった。女の子だったそうだ。
古ぼけた、たくさんのいろんなもの。他人にはがらくたにしか過ぎぬもの。あまりにも短かった
新婚生活のうちに遺されたいろいろなもの。マーリンは亡夫の肖像画を取り上げてみた。
マーリンは肖像画の若者に語りかけた。うちの長男はもうあなたの歳を越してしまってよ。そうよ、あの
オスタビオよ。ラション家の三男が突然連れて帰ってきて皆を絶句させたあの赤ちゃん。
どれほどわたしが訊いても彼の母親については二人とも固く口を閉ざしていたところをみると、
母親はどうせ何処かの港の、よからぬ悪所の女の人だったんでしょう。それを引き取ってしまうあたりが
ホトーリオらしいと、あなたの笑う声がきこえてきそう。あの小さなオスタビオはとても素敵な青年になったのよ。
そして私たちの、クロータスも。
函の蓋を閉めた。その上にマーリンは顔を寄せた。
どれほど想い出に浸ろうとも、十八年の歳月は、もう胸を軋ませはしなかった。この函に顔をおしつけて
嗚咽しなくなるまでに、十八年が要った。マーリンの胸裡に、いつかの小さな蝶が羽ばたき、
そしてそれも消えた。
ハレの街は朝から賑わっていた。
今日の午後には御触れどおり祝賀行事が行われるとあって、市場はその用意をする人々で
朝から混んでいた。領主に付き従ってアカラの船でやってきたアカラの船員たちが揃いの水夫服で
もの珍しそうに街中を闊歩している姿が見受けられる他にも、祭りともなれば、近隣からあらゆる人間が
流れ込んでくる。広場では大道芸人が口から火を吐いたり、とんぼ返りをしたり、幾つもの複雑な輪に
猿をくぐらせたりして、見物人から喝采を浴びていた。
エトラの求める薬屋はすぐに見つかった。ラション家の遣いで来たと告げて、
マーリンの書付を見せると、すぐに奥の部屋に通された。注文の薬が処方されるまでの間、
買い物客はそこで休憩し、茶でもてなされるのである。すぐにエトラの前にも甘い香りのする茶が出てきた。
この薬屋は山奥の修道院で作っていた薬が評判となって街中に店舗を構えるようになったものであり、
薬のほかにも石鹸や香水、ろうそく等を扱い、売り上げはそのまま修道院に還元されるとのことだった。
薬の店特有の、薄荷のような匂いがしていた。通された小部屋からは、古い噴水のある中庭が見えた。
包みを受け取ってエトラが店の外に出ようとすると、修道士らしく粗衣を着た番頭が
「ラション家のお遣いの方」
云いよどみながらも謹直な顔でエトラを引き止めた。
「お代は、後日にいたしましょうか」
どうやらマーリンの書付には、『はじめてのお遣いが行くからよろしくね』とでも書かれていたらしく、
店員は皆笑ってる。引き返してエトラは財布を取り出した。
毎晩宿でジャルディンに教わったので硬貨にも種類があることは分っているものの、エトラにしてみれば
所詮は算術の延長でしかなく、市場を見てもあれとこれと大きさもほぼ同じ野菜のどこをどう見れば
片方が高くて片方が安いのか、その値が適正なのか暴利なのか、旬の値として高いのか安いのか、
そこがまったく分らない。しかも物価は天候や戦争のいかんによっては一夜にして高騰したり
暴落したりもするそうで、ならば憶えても無駄ではないかという気すらする。
「ありがとうございます。ラション家の奥方さまにはご贔屓にしていただいております」
見送られて外に出ると、朝の緑がまぶしかった。賑わいの街中を抜けて、エトラの脚は海へと向かった。
守備砦を繋いだ防壁の上は、人が歩けるだけの幅がある。
敵襲ともなれば兵が並んで海から来る敵の頭上に矢を射掛けるその通路も、平生は領民の
遊歩道となっており、哨兵がいる望楼をのぞいては、自由に歩ける。
防壁に登ったエトラは胸壁に手をかけて、白い波が砕ける海を見つめた。峠を越えて真っ青な海原が
広がるのを見た時も、この世のさい果てと向き合っている気がしたものだ。
陸地に寄せる波音は、霧の寄せるカルビゾンとも、育った廃墟の草音とも違う、
胸の裡に空疎な淋しさをいざなう、単調で原始的な、永続の繰り返しだった。風は世界から吹きつけた。
そこに遮るものは何もなく、視界に寄せるのは、青い鏡を砕いて撒いたような波のうねりの、
冷たく無言の、永遠ばかりであった。海上から見上げる大空の、なんと限りなく、無限であったことか。
小鹿の踊り号に乗って沖から見ても、まだ信じられなかった。陸地があのように薄いものだったとは。
エトラは朝の海を見つめた。
丘の上の屋敷から見た朝焼けは、もうすっかり青空になっていた。今朝港から出て行った帆船の
小さな影が、水平線の向こうに沈むところで、他にも幾つもの船が帆を上げて行き交っていた。
複雑な紐の結び方を幾つも知っている傭兵は、この海から来たと云った。もとは、船乗りだったと。
信じられる時もあれば、そうでない時もあった。博学なのは船乗りに共通の特徴だから、変わったことに
詳しくても特にふしぎには思わなかったが、物腰や教養となると、別である。
文字の読み書きができる人間は滅多におらず、しかもジャルディンは多国の難しい修辞法まで解する。
語学は誰に習ったのかと訊いたら、
「帝王教育」
羽根ペンを手に俯いたまま面白くもなさそうに、そう応えた。それは冗談にも、そうでないようにも聴こえた。
エトラは無駄と知りつつ、つま先立ちをして、遠くを見ようとした。
幾ら眼を凝らしても、何も見えなかった。この蒼海の彼方に、その国があるという。
海から向かうと、朝霧をはらって暁に現れるその都は、翼を広げた白い鳥にも喩えられる。
偉大な王を戴く超帝国。ジャルディンはそこから来たのだろうか。
エトラは砦を振り仰いだ。朝の風に、砦の長旗がめまぐるしく翻っていた。エトラは凭れていた胸壁から
身をはなすと、薬の包みを手に、塁壁の石階段を降りた。ちょうど朝の荷揚げが全て終わったところで、
防壁の大門は明け方からの仕事をすませて家に帰る人夫や、交替で船から下りたところの船乗りたちが
大勢行き交い、通行許可証を門衛に見せていた。
エトラは坂をのぼって見覚えのある区画に脚をはこんだ。
アカラの領主を迎えた昨日は、夕方にクラリサ嬢が貧血を起こしたとかで、
晩餐もいささか生彩を欠くものとなった。今朝になってマーリンがクラリサの為の薬を街に
買いにやらせようとしているのを知ったエトラは、その遣いを引き受けた。物価を知るには
実地がいちばんというわけでマーリンもそれを許し、その代わり、従者を附けてくれた。
誰もが客人の用事をはたすのに忙しそうだった。エトラは一人で出てきた。
ラション家の召使たちはさすがにしつけが行き届いて口が堅かったが、クラリサの侍女たちの
噂話によれば、グリタンザなる女は、色街に住んでいるらしい。
「その人が、傭兵さんの奥さんになるの?」
「お見かけしたけど、とうが立った女だったわよ。十歳近くは違うんじゃないかしら」
テッサコモ領主ライヤーズの訪問により、思いがけなくも街に帰るところのその女とラション家の庭で逢った。
出るところの出た豊かな身体つきの、赤毛の女だった。朝空に響く手琴の音色を頼りに、エトラは細い路を
奥へとわけ入った。通りに面した二階の露台にその女がいた。手琴を弾く手をとめて、愕いてこちらを見ている。
しかも無礼千万なことに、女は手で追い払う仕草をするではないか。
エトラは構わず、眼を丸くしている化粧の濃い婆の脇をすり抜けて、海の生物を描いたモザイクの床を通り、
目についた正面階段から二階へと上がった。同じ扉が両脇にずらりと並んでいる。
そのうちの突き当たりの一つが内側から開いて、グリタンザが顔を出した。エトラはそこへ入ろうとし、
グリタンザはそれを阻止した。
「堅気の娘さんが見ていいような室じゃないわ」
扉の隙間からは、手前の小部屋の衝立と、大きめの鏡、小卓が見えた。かなり広く贅沢な部屋だった。
香炉から漂う、かすかな残り香。グリタンザは後ろ手にすぐに扉を閉めてしまった。
「無粋な女房みたいな真似するじゃないの。ジャルディンを探しに来たのなら、
彼は領主さまの用事で朝早くから出て行ったわ。もういないわよ」
グリタンザが声を大きくしたのは怒っているからではなく、隣室の男女の声が廊下に洩れ出たからだ。
明るい朝や昼を好む客というのも少なくない。グリタンザはエトラの腕を掴んだ。
「送るわ。行きましょう」
「ジャルディンはレムリア帝国から来たの」
「彼自身が人に話さないことを、どうしてわたしが他人に話せるの?」
今度は怒って、グリタンザはエトラを見返した。海の生物を描いたモザイク画を踏みしめて、
グリタンザは腕を掴んでいるエトラに言い含めた。
「わたしはジャルディンのはじめての女ではないけれど、一緒に暮らしていたこともあるわ。
その間、レムリア帝国などという名は一度たりとも彼の口から聞いたことはない。それをどうして、
いかなる僭越な思い上がりをもとに、貴女がそれを知らぬ他人の耳に軽々しく広めるの。
どんな話を、さも尤もらしく語りきかせようというのかしら。それによってどんな得意な気分を味わいたいの。
彼の知らぬところで」
「あなたもそこから来たのかと。グリタンザ」
グリタンザはエトラの肩に手を回して、娼家の外に連れ出した。
軒と軒が触れ合わんばかりになって建て込んでいる狭い街路には、朝の日差しが飛び石のように
落ちていた。グリタンザは早足にエトラを促した。朝の色街は、魔法が解けたようにどこかしら
白けて色褪せて、百年前の地震の爪あとも、斜めになったままの石段や、傾いたまま建っている
楼のうちによく目立った。ここは、女の子が一人で来るところではない。
「丘の上のお屋敷に送るわ」
「ひとりで帰れる」
「ジャルディンについて何を知りたいの」
結わずに背中に流したままにしている赤い髪をグリタンザは指先に巻きつけ、それをほどいた。
化粧をしていないほうが整った顔に見える女だった。ショールを肩にかけ直して、グリタンザは首を振った。
わたしだってあんたと同じよ。ほとんど、知らない。
「出逢った頃、わたしはジャルディンが罪を犯して国を逃亡してきた少年かと思ってたわ。
それでもよかった。どんなに隠していても、彼の身分の高さと気位は隠しようもなかった。
どこかの名家の隠し子なのかもしれない、政治的に失脚した一族の罪に連座した少年なのかもしれない。
誰かの大罪を負うているのかも、そうじゃないかもしれない。それとも殺人。放火。悪党の一味としての過去。
肩の火傷は、罪人の烙印を消した痕なのかもしれない。それでもいい、彼が何者であってもよかった」
並んで歩きながら、グリタンザの顔には昔を思い出す老けた感慨が浮かんだ。それは精一杯をやったという
己の過去への誇りであり、そしてそれはもう過去のことなのだと、とうの昔にけじめをつけている顔だった。
「いつか黒髪の少年は何処かへ行ってしまう。それでもよかった。とても好きだった。
わたしがやることは、誰かが彼を探しに来たら、闘っても彼を守ることだけだった」
「誰か探しに来たの」
「来たわ」
やや間をおいた後、グリタンザは頷いた。
その者たちは二人一組で港を回り、片端から尋ねて回っていた。剛の者でも縮み上がるような
暗い眼つきをした、そのくせもの静かな、懐に物騒なものを隠し持った陰気な男たちだった。
人々は彼らと目線を合わせるのを避けた。彼らは探していた。天頂の星の刺青が肩にある、黒髪の少年を。
その子を見つけたらどうするの、酒場で彼らの相手となった女が尋ねた。異国なまりのある男たちは
薄く笑い、低く応えた。それを教えてくれた女は唇まで蒼褪めて、それを聴いた人々は耳をふさいだ。
グリタンザはショールを胸元で重ねた。ところでエトラ、マーリン様のお遣いとは何だったの、
ああお薬ね。明日は楽しめるといいわね。舞踏会の後、海上から花火を愉しむ趣向なんですって?
わたしもお屋敷に樂人として招かれたけれど、立派な方々の前に出れるような女じゃないわ。
それに、お祭りのある日は稼ぎ時なの。
「グリタンザ」
「航海から戻って来たジャルディンは留守中のその話を聴くと、あるだけのものをわたしに
残して次の日に去ってしまった。レムリアとは何。そんな名は一度も彼からは聴いたことがない。
彼が何処から来たのか、それも知らない」
娼楼の家々の隙間から海風が吹き付けた。風は喋りすぎたグリタンザの赤毛を咎めるようになぶって
冷たく過ぎた。唇にかかった髪の毛をグリタンザは払った。彼が何者であってもよかった。
その名を聴いたことがないなんて嘘。あれはこの世で最も見たくないものについて、船乗りたちと
語っていた時だった。彼は云った。この世で二度と見たくないもの。レムリアの湊。
それは暁の夢の中に現れる、古びた蜃気楼なのだと。ジャルディン、あなたは何者だったの。
誰でもよかった。彼は船乗りだった。
「十年以上も前のことよ。聴いたら、忘れて」
「グリタンザ」
「異国人たちはこう云ったの」
その少年の上には、この世で考えられる限りの栄華か、身の毛もよだつような破滅が待っている。
その午後、ハレ領主嫡男オスタビオ・ラションと、アカラのクラリサ・ゴールデンとの
正式な婚約の儀が、街の中央にある海神の祠の前において滞りなく行われた。
集った人々の前に現れた若い二人は幸福そのものの姿で、祠の階段を下りる時には
オスタビオがクラリサを支えるように手を繋いで導き、何かを囁き交わして微笑む二人は、
すっかり仲のいいところを印象づけていた。
心配されていたクラリサであるが、貧血は昨日だけのことで、この日の午後はもうすっかり持ち直していた。
儀式そのものは伝統に基づき質素であっても、それはまさしく、ハレとアカラの友好のしるしであり、
ハレの財力と信用、アカラの造船技術の提携の始まりを内外に公に知らしめる日でもあった。
礼装のホトーリオと、アカラのエブスタは、人々の前で固い握手を交わした。
エブスタの本日の装いは赤に金という派手なものであり、しかしそれが彼の堂々たる巨体を
いっそう引き立てて、青に銀の衣をつけた「海のきつね」と並ぶと、ハレ領主のはれやかで飄々とした様子と、
エブスタのどことなく粗野な迫力ある風体とは、いい対照であった。
「若殿さま、ご婚約おめでとうございます」
「おきれいです、アカラのクラリサ様」
花婿になる予定のオスタビオのほうが嬉しそうであった。
彼は三つ年上の、しかも二度目の結婚であるクラリサにべた惚れであり、守護隊の面々の
挨拶を受けながらも喜びを隠そうともせず、彼らとクラリサを引き合わせるその間も、
ひやかされっぱなしであった。祠と役場の間の広場には簡単な料理と飲み物が用意されて
人々に振舞われ、街の主だった人々も晴れ着を着て集まっていた。
頭上にきらきらと輝いてこまやかな音を立てているのは、木々に渡された硝子の風鈴だった。
「オスタビオ様、クラリサ様」
オスタビオとクラリサが沿道で見守っている領民に応えて手を振った。
オスタビオの顔は明るく、クラリサも終始、微笑みを浮かべ、それは傍目にも倖せそのものといった
組み合わせであった。クラリサと養父エブスタは、付かず離れずの距離をとっており、ゴールデン親子の
その関係には、何の不審もないように思われた。彼らは一緒に酒盃を合わせることまでしていた。
陸路から押しかけておいてすぐにハレを立ち去ったテッサコモのライヤーズについて集まった面々から
質問を受けたホトーリオは、
「このまま滞在して、せがれの婚約式に是非ご臨席願いたいと頼んだのだが、はねつけられたよ」
肩をすくめてみせて、肝心のところを巧くぼかしたまま、一同を笑わせていた。
「テッサコモの領主殿ならば、アカラの隣りといってもいいところ。ぜひともお会いしたかった。
もっとも黒魔術はごめんこうむるが」
エブスタも機嫌よくホトーリオに追従して笑い声を上げた。そのエブスタが連れてきたアカラの水夫たちが
揃いの水夫服で、守護隊とは別の場所に固まっていた。彼らは盃を片手に仲間うちで歓談しながらも、
その様子にはどこかしらわざとらしいものがあったのだが、それに注意を払う者もいなかった。
婚約式にはエトラも列席していた。後ろのほうに控えて、ラション家の客人としての分限を守り、
傍観者としてそこにいた。役場の石階段に坐ったエトラは指先で花を回した。
それは列席者全員に配られた、朝摘みの白い花だった。午後の日差しに照らされた海は、ここから
眺めると銀色の野原に見えた。この花は、あの海の園から採ってきた花のようだった。
「エトラ。ジャルディンはどうやら間に合わなかったようだ。父上の話では、朝から兄さんの代理で
付近の砦を視察して回ってるらしいんだけど」
飲み物をエトラに手渡し、クロータスは広場を見回した。そこに、傭兵の姿はなかった。
傭兵は昨夜も屋敷には泊まらなかった。エトラを気遣って、クロータスは努めて声を明るくした。
「兄上ときたら、今からあんなに相好を崩してたんじゃ、この先の結婚式の時にはどうなることやらだよ」
「帰るの、クロータス。それなら、わたしも」
「君を送ってあげたいんだけど」
面持ちをあらためて、クロータスは口篭った。
「これから船渠に用事があるんだ。母上たちにはそう云っておいて」
クロータスが行ってしまうと、また一人になった。ラション家ほか見知った人々がそこにいても、
彼らは遠い存在であった。営業をゆるされた芸人が鈴の音を立てて踊りを始めたあたりで、
エトラは階段から腰をあげた。そして、海の祠の前を立ち去った。
------このままでいいの、クロータスさん
------あなたがそれを望むのであればクロータス、ご家族に内緒で、わたくしあなたの力になりますわ
今日と明日は祝日扱いとなっているため、船渠は一昨日と同じように誰もいなかった。
沖合いから戻ってきた「小鹿の踊り」号が、隣りの船渠に停泊している。こちらも隅々まで清掃されて、
客人を乗せる明日に備えていた。
船渠に入るのに、最初は隣りの建物から屋根伝いに天窓から侵入しようかと思ったが、怪我でもしたら
取り返しがつかないので、それは止めておいた。
「クロータス様。どうかされましたか」
物音を不審に思って船渠の警備兵が近付いてくるあし音に、テッサコモの船匠ストロウは
落ち着いて短剣を鞘におさめ、すばやく身を翻して駈け去った。
「クロータス様。お呼びになりましたか」
船尾側の床にへたり込んでいたクロータスは、気力を振り絞り「なんでもない」と、立ち上がって
警備兵に手を振った。
「転んだんだ。工具棚をひっくり返してしまった。ありがとう、怪我はないよ」
「お手伝いしましょうか」
「いいんだ。もう帰るよ。すまないが馬車を用意して。歩いて帰るつもりだったけど、少し疲れたから」
何とか警備兵を追い払うと、クロータスは振り返って暗がりの物音に耳を澄ませた。
すっかり静かになってしまうと、ほどなくして、天井がかすかに軋んだ。それは鳥がとまったほどの
音であったが、屋上採光窓に誰かが通り過ぎる影が一瞬だけみえた。
あの時には後で見ても、どこからどう辿ったのかまるで分らなかったが、ようやく侵入路を見つけた。
船渠に隣接する物置き場の屋根から雨どいを渡って船渠の屋根にのぼり、割れたままになっている
天窓の隙間から手を差し入れて鍵を開き、そこから天井の梁を渡って、一階へ降りる梯子への道筋だ。
ストロウはそうやってしのび込んだのだ。
事態が一段落したらさっそくに天窓の鍵をすべて取り替えさせ、格子を嵌めなければ。
クロータスは天井を睨んだ。それにしても、あの高所の梁の上を支えもなしに歩いて横断するとは、
帆桁を渡る命しらずの水夫並みである。船の帆の縮帆と展帆くらいはクロータスも実際にやったことがあるが、
揺れる船の上であれを行うのは、そうとうに度胸がいることなのだ。
必要に応じて帆はたたんだり下ろしたりするが、その作業はすべて、帆桁の少し下に渡されている
一本の綱を足場にして、両脇の下に帆桁を腕で丸ごと抱え込むようにして、あの高みを
移動することで行われる。何もない一枚の布に見える帆にも、その裏側には等間隔に紐がついており、
たたむ時にはそれを順繰りに手繰り寄せ、広げる時には括帆索を解き放つのであるが、
その作業の間にも風は遠慮なく吹き付けて、足場の綱は隣りの者の動きに合わせてぐねぐねと揺れ動き、
さらには予測不可能の船の縦揺れ横揺れも加わって、視界が傾きっぱなしときては、
不慣れな者ならそれだけでも正常な感覚を失い、目をまわしてはるか下に墜落しそうになる難業。
足場綱にすがっていてさえ、これである。それだけに、あの高い帆桁を手ぶらで渡ることは、
男たちの勇気と無謀と腕試しのみせどころでもあった。
揺れ動く船の上で帆桁の上を命綱なしに歩く、それどころか先端まで走ってみせる姿は、
はるか下方の甲板からは人というよりは鳥か獣の動きに近く見え、そしてそれはもはや
船乗りというよりは、軽業師のわざに近かった。
それをやってのける男たちは、口を揃えてこう云う。恐怖は感じない。空を歩いているような気がする。
雲にまでのびあがり、この命を隅々まで晒しているような、敬虔にも似た気持ちがする。
語る彼らの顔は静謐に満たされている。お前さんたちには決して分らないよ。また、彼らはこうも云う。時々思う、
ここから飛んで、この海を眼に焼き付けながら、この至福に包まれて、死んでしまいたいと。
クロータスはぼんやりと、修復中の「夜の蝶々」号を見上げた。
四年に一度ハレの海を横切る蝶の群れが、船名の由来であると告げた時、ストロウは納得したように頷いていた。
これは父が兄の十歳の誕生日に合わせて作らせた、ハレご自慢の船だ。
そして隣りの船渠の水路で休んでいる「小鹿の踊り」号は、自分が十歳の時に。
「弟にも船を造ってやって」、兄のオスタビオがそう父に頼んだからだ。
「良かったなクロータス。おそろいの船だよ。お前の「小鹿の踊り」号のほうが少しだけ小さいけれど、
そのぶん、速いんだ」
船材の香りも新しい「小鹿の踊り」号。あの日の真っ青な海と、母と兄に手を引かれて乗船した、
木の色のままの新品の甲板。抱き上げて舵輪に触らせてくれた父。
海賊の襲撃は今までにもあったことだったが、先日ほど、恐ろしかったことはなかった。
御座船「夜の蝶々」号が砲撃を受けているのを母と手を握り合って丘の上の屋敷から見ていた。
父が救われたのを見た母は、安堵のあまり咽び泣いた。そこには、紛うことなき母の父への愛があった。
夜の屋敷で、アカラから来た女は、そんなクロータスの膝にすがって泣き崩れた。
クラリサは両手を合わせてクロータスに懇願した。
(クロータス。もう一度だけ、わたくしは彼を説得してみます。あと一度だけ彼に頼む機会を与えて。
でもそれが駄目だった時には、貴方の思うようにして頂戴)
壁際の棚には、あらゆる工具が整頓されて並んでいる。
あの日、テッサコモのストロウはクロータスを短剣で脅しながら、それを吟味し、僅かでも手入れが
悪いものを見ると、顔をしかめていた。そんなに時間はないのだと云っていた。彼は苦笑した。
何故ならば、おそらくはわが領主ライヤーズと、ハレ領主との談判は、すぐに決裂するでしょうから。
(この船をふたたび海に遊ばせるわけにはいかないのです。貴方にも協力して欲しい)
棚から鋸と斧を選んだ。道具を手に、クロータスはストロウがやったように、夜の蝶々号の船尾に回った。
監督官には、先日の工作の続きをするから少し音が出ると断ってある。
何本もの巨木を横に並べて入渠させた船体の最後尾は、両脇から木で固定されている巨大な舵だった。
帆船の舵輪は船尾楼の直下にあり、操舵の重心はそのために不安定で、転覆する帆船も少なくはなかったが、
ストロウいわく、夜の蝶々号の舵はその改良版であるという。クロータスは人の力で造ったとはとても思えぬほど
大きな帆船と、大人三人分の高さはあろうかというその舵をしばし途方にくれた眼で見つめた。
それから工具と角燈を持ち、彼は足場の梯子を昇りはじめた。舷縁を乗り越えて甲板を降り立つと、
若者の姿は修理のほぼ終わった夜の蝶々号の船内に消えた。
やがて、砂を摺るような音と、何かを断ち切る音が、夜の蝶々号の船内から響き出した。船渠にはひとけなく、
船の後尾付近から起こる不審なその音を聴くものは誰もいなかった。作業に没頭していた若者は、
船内にしのびこんだ者が階段の上から声を掛けるまで、その気配に気がつかなかった。
「何をしているの」
手斧を握り締めてクロータスは振り向いた。金の髪が真上から覗いていた。
夜の蝶々号の船内にしのび込んだのは、エトラだった。梯子のように傾斜の急な階段をクロータスのいる
船底まで下りてくると、エトラは床一面に散らばっている縄の断片を眼にして、小首をかたむけた。
クロータスがそこで何をやっているのか、まったく分らないようだった。クロータスは全身汗だくで、
肩で大きく息をしており、斧を握り締めたまま、エトラを血走った眼で見つめ返した。
作業をよく見ようとして、エトラは踏み出した。
「此処で何をしているの、クロータス」
クロータスの許に遊びに来たというよりは、修理の済んだ船を見たかったのであろう。エトラは脇に
片付けられた隔壁をに片手をおいて、狭苦しい内部を覗こうとした。その前にクロータスが立ちふさがった。
額から流れる汗に、若者の髪の毛は濡れたようになっていた。そしてその手には、斧があった。
「クロータス」
「見るな。帰れ」
大きな音がした。それは投げ棄てられた斧が、床に突き刺さる音だった。頭上で灯りが揺れた。
「クロータス。どうして、船を壊しているの」
エトラは眉を寄せた。巨大な糸巻きのようなものがそこにあり、クロータスはそれに向かって斧を
ふるっていたようだった。いつもは隔壁に隠れて、見えない部分だった。何か問いたげなエトラの肩を
若者の両手が掴んだ。荒い息がエトラの首筋にかかった。
「エトラ。逃げてくれ」
「クロータス?」
エトラの肩に顔をうずめてクロータスは呻いた。真上からあしおとがして、大勢がこちらに降りてくる音がした。
エトラは昇降階段のある後ろを振り返った。船艙甲板の天井を見上げようとしたエトラを、若者が引き戻して
腕の中に抱きとめた。手に武器を持った男たちが天井の四角い枠から階段を蹴るようにして大勢、
船底になだれ込んできた。クロータスは懐から護身用の短刀を引き抜くと、エトラを片腕に抱いたまま奥の
壁際にさがった。背中と壁の間にエトラを庇い、彼は駆け込んできた男たちに短刀を向けた。
「この子は関係ない、手を出すな!」
「ご協力感謝いたします。クロータス様」
「お前の指示どおりにした」
クロータスは中央にいる者を睨みつけた。男たちを従えているのは、テッサコモの船匠ストロウであった。
「この子は関係ない。船のことは何も分らない。帰してやってくれ」
「危ないものをお仕舞いなさい、クロータス様」
「彼女を解放するのが先だ」
「失礼。クロータス様」
進み出てきたストロウは、自身の短剣をすらりと抜くと、床を蹴ってひとっ跳びに若者の懐まで入ってきた。
はっしと剣と剣がぶつかり合い、火花が散った。若者の脚が払われて、短刀が跳ね上がり、クロータスの
身体が横に突き飛ばされた。襲い掛かった男たちはクロータスとエトラを引き離した。
「ストロウ、やめろ」
「話に聞くところによると、ハレには腕の立つ傭兵がいるとか」
男たちの手で四肢を押さえ込まれたクロータスを横目に、剣を鞘に納めたストロウは、
クロータスに云い聞かせた。
「この娘さんは、傭兵への牽制に利用させてもらいます。その者、何をするか分らぬようですから」
船内に侵入したテッサコモの船匠は、床に刺さったままになっている斧を取り上げた。
それから床に散らばっている索の切れ端と、奥の間を見て、そこに鎮座している装置の様相に、
彼はいたましげに顔をゆがめた。ストロウは率いてきた男たちに床を掃除し、証拠を消して、
隔壁を元通りにするように命じた。エトラが、「クロータス」と声を上げた。ストロウはエトラに縄をかけている
手下たちに、扱いをもっと丁重にしろと嗜めた。
「少女の髪か、服を切れ。そうだな、髪がいい」
刃物が閃き、エトラの髪がひと房切り落とされた。ストロウはそれを丁寧に布で包み、クロータスに持たせた。
これをお持ち帰りになり、領主殿にお見せなさい。さすれば、貴方の話も信じてくれるでしょう。
「この男たちはテッサコモから連れてきた、わたしの工房の弟子たちです。
彼らは領主よりも師であるわたしに忠誠を誓い、わたしの手足となってはたらく、熟練の船乗りでもある。
卑劣な真似をするのは本意ではありませんが、しばし彼女を預からせてもらうことをご辛抱下さい」
「ストロウ」
「そろそろ満ち潮ですね。潮風の匂いが変わった」
二人を引き立てて夜の蝶々号の上甲板に戻ると、ストロウは隣りの水路に停泊中の「小鹿の踊り」号を見て、
嬉しそうに眼を輝かせた。磨き上げられた帆船は明日の出航に合わせて、しばしの休息の中にあった。
「何てかわいい船だろう」
後ろ手に縛られたエトラを見る眼も、斧で傷つけられた船体を確かめる際も、帆を立てた艦を眺めまわす時も、
ストロウのその澄み切った眸は、まったく同じものを見ているようであった。
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