■[.
貴方は、王の子。
誰かの手が伸びて、母から自分を奪って連れてゆこうとする。
こちらへおいでなさい。
従順な病人のように、いつもは為されるがままの後宮の女が、その時ばかりは頑強に抵抗を示して
彼を奪われまいとする。おゆるしください、おゆるしください。この子に残酷なことをさせないで。
女の懇願ははねつけられる。これは、王の思し召しです。王の子としての嗜みであると
お心得なさいませ。声はなおも冷然と女に告げる。わかりませぬか、王の子として認められることが、
この王子のお立場を宮殿でこれから護ることになるのです。
少年の小さな手に渡されたのは、弓と矢だった。
眼前の柵の中に押込められているのは、先日の戦で捕らえられた敗残の将と、
その妻子だと知れた。柵のこちらでは、大勢の兄弟のうち、彼と同じ年頃の小さな王子たちが
同じように弓矢を構えて並び、奴隷女の胎から生まれた黒髪の少年を軽蔑で迎えた。
-------さあ、狩りをするがよい
頭上に照りつける太陽が命じたとしても、そこまで王子たちの頭を恐怖で熱くはしまい。
年長の王子から順番に、彼らは柵の中の人間を射殺した。狩られる捕虜たちは、狭い柵の内側で
射られるままに逃げ惑い、死んでいった。王子たちはしだいにその様子に悦びを覚え、
獲物の無様な様子を指して嗤いながら彼らを射抜き、その数を競って弓をつかいだした。
彼らは、王の子であった。
-------ジャルディン
背後から父が見ていることを、黒髪の王子は知っていた。
(ジャルディン様。王の御心にできる限りかなうことが、御身と、御母君を護ることになるのです。
王の寵を失い、王の不興をかった女たちがどれほど悲惨な処遇を受けるか、貴方さまも
知らないわけではないでしょう。母上さまのためにも、おやりなさい)
ジャルディンは弓をひいた。老人の胸に矢は吸い込まれた。老人はもがき苦しみながら倒れた。
女も子供も石でぶたれるようにしてそうなった。黒髪の王子はよく狙った。続けて射た。
必ずしとめてみせる。柵の向こうが、はやく静かになるように。
戦の絶えぬ国の王が幼い王子たちに教えたのは残虐ではなく、耐性であったことに、今なら気づく。
王の子であるかぎり、いかなるものに対峙しても、たじろいではならぬ。おじけることなく、退いてはならぬ。
もう少し年長の兄王子たちの二輪戦車が、生きたまま一列に横たえられた捕虜や奴隷の上を駆け回り、
馬のひずめの下に彼らを跳ね飛ばし、踏みにじり、引きずりながら皆殺しにするさまを、罪人の首を断つ
斧のひらめきを、火炙りを、闘技場で定期的に行われるその一部始終を、王子たちは王の隣りで
まっすぐに立って見ておくことを、幾度となく求められた。
レムリアの版図の落日は骨まで染めるように赤かった。後宮に戻されるたびに少年は、
「とても愉しかった」と答えた。
ハレの街に夕暮れが訪れた。
海上を染める空は、ばら色で、夜に向かう藍色へと次第に紫を濃くして金色の星を浮かべ、
そこから吹き付ける夕方の風に、庭の木々に飾られた提灯が大きな星のように揺れた。
それは、誰の胸にもどこか頼りなくて懐かしい、やさしい気持ちをいざなう夕焼け空だった。
舞踏会は盛況であった。
内陸部の洗練された優美なダンスとは違い、伝統的なハレの踊りはもともと人に化けて浜辺に
遊びに来た魚たちが波打ち際で繰り広げた求婚の踊りがその発祥というだけあって、
嘘かまことかは知らねど、このダンスを経て結ばれた男女には、海神のご加護があるという。
黄昏の空の下、彼らは手を打ち合わせ、背中合わせになったり、手と手を繋いでつくった
山の下をくぐったり、相手を目まぐるしく変えながら、腕を組んでくるりと回り、互いの位置を入れ替えた。
それは優雅なダンスというよりは、子供の遊びの延長のようだった。
それだけに、根源的で単純な歓びを動きの中に呼び込んで、湧き水の上に浮かんだ花舟のように
次から次へと音楽の流れに乗って踊り続ける人々の顔は、誰の表情も明るかった。
「恩着せがましい人間の典型ですな」
書斎の椅子に深く腰をおろして、鼻を鳴らしたのは、アカラのエブスタである。
楽団の奏でる音楽とさんざめきは書斎にまで届いていたが、主だった客人はみんな
庭に集まっており、時折召使が歩廊を行き交うほかはひっそりとして、書斎に集う男たちの
密談を知る者はいなかった。
「招かれざる客というだけでも迷惑なものを、押しつけてきた恩をこちらが平身低頭して
感謝しなかったというので、次は嫌がらせ行為に及ばんとするとは。テッサコモのライヤーズめ、
筋違いも甚だしい」
「猫なで声で恩を売りつける人間、ならびに、不自然なほどに親切な顔をして人間関係の間に
割り込んでくる人間は、もとより二つの道しかこちらに用意していないものです」
卓を挟んで向き合ったホトーリオは、エブスタに頷いてみせた。
書斎には、オスタビオとクロータスも顔を揃えていた。兄弟は並んで、父親の椅子の後ろに立っていた。
ホトーリオは気楽に脚を組んだ。
「その者の口上をよく聴いていたら分ります。たとえば今回、テッサコモのライヤーズが、いかにも
ハレの為を思ってと出来合いの口説を並べ立てながらも、うるさいばかりで、何一つわたしの心には
そのありがたみが届かなかったようにです」
「実質的にも、ライヤーズはその口舌に見合うほどの善いことは、何もしておりませぬからな」
エブスタが鼻で嗤った。
「しなくてもよい干渉を得意がってする者は、どうせ自分のことを他人に過干渉ができるほどの、
よほど高位で重要な存在だと誤認しておるのでありましょう。その者共は、他人の話をすることで
人より上に立ったような気分になり、そんな己の姿を世間に向かって大声で自慢しているだけなのだ」
「それは彼らの話の内容にも明らかです。さも人のことを考えてやっているような風を装いながら、
いつの間にかその話の焦点は、いかに自分のほうが物事に精通しているか、いかに自分が偉いか、
そんな自分語りの、単なる自慢話に落ちているはずです」
悠々と、ホトーリオは続けた。
「このためにも、相手は常に己よりも下位の存在として公衆の面前に曝け出され、突き飛ばされ、
比較されなくてはなりません。それだけ、そんな話をわざわざ陰口で流さねばならぬほど、
彼らが信用のおけない、実のない人間だという証でもあるのですが」
「つまり、頼みもしない恩を着せてくる者たちや、聞かされなくてもいい話を吹聴して回る
人間の目的は、相手を常に自分の下においておくことにあるのですな」
「左様です。それが証拠に、彼らは自分のものさしで人をはかり、そのものさし以外の価値観や、
もっとべつの基準があることを、決して認めようとはいたしません。相手はすべて自分よりも
劣れるものとして彼らの中では片付いており、その劣れるものたちの為にこれだけ助言をし、
これだけ見守り、これだけ理解してやっているのにと、自分のための美談を得々と作り上げ、根回しに
励むわりには、肝心の相手の立場や意思や、感情はこれっぽちもそこに考慮されてはおりません。
要約すれば、相手のことをまったく認めてはいないのです。彼らが求めているものは、ひとえに
誰かを蹴落とすことで、他ならぬ自分たちが称えられ、得をし、重んじられることだけです。
相手の為には何ひとつ為になることをしていない、それどころかむしろ必死になって相手を傷つけ、
親切をまぶした中傷によりその脚を引っ張っている。これが詮索や過干渉の真意というものです」
「そして、そういう者ほど都合が悪くなると、すぐに相手を悪しざまに云い、これも運命ですとばかりに、
何の責任もとらずに、知らん顔を決め込むのだ。此度のライヤーズのように」
「仰るとおりです」
ホトーリオはエブスタに葉巻を勧めた。
彼らの前には酒盃があったが、すすんではいなかった。エブスタはオスタビオが差し出した
銀の鋏を受け取り、葉巻の吸い口をきった。
「もとより相手のことなどまったく考えてはおらぬのならば、やることなすこと相手に迷惑ばかりを
圧しかぶせる結果となるのも当然ですな。いかにも思い遣り深い面をしながら歪んだ噂を垂れ流し、
相手を窮地に落とせばおとすほど、労せずしてご親切な自分だけは高く評価され、
お偉くみえるというわけだ」
「人を突き飛ばして得をする。過干渉にはげむ者は決して己を省みることがなく、
また反省もしないのですが、それだけ過干渉行為というものはどちらに転ぼうとも、自分だけは、
決して損をすることがないからです」
「損をしない、と申しますと」
「うまくはこべば自分の御蔭。悪く転んでも、だからあれほど親切に教えてやろうとしたのに、
ですよ。相手に二つの道しか用意していないというのは、そういうわけです。
一つは、あの者の功績はすべてわたしの御蔭だと、人の努力を奪いとって自分の手柄にしてしまう道。
もう一つは、こちらの意に沿わなかった人間は、もちろん不幸になるべきだ、という道。
あらかじめ道筋を用意した上での、他人へ干渉なのです。どちらにおいても己の優位性は揺るがず、
どちらの結末であれ、損はしません。かように、過干渉者の利害ははっきりしております。
人の評判をわざわざ傷つけ、その噂の中で、巧妙に相手を低く落として語り、そしてそう語ることで、
自分を有益な人間であるかのように見せかけることができる。人の運命を決め付け、そのようにしてしまう。
特定の人物の人生や名誉を犠牲にした上で、虚栄心を肥え太らせているのです」
「ライヤーズの下劣さはそこですな」
「ご随意にご想像下さい」
「なるほど。過干渉とは、相手を下位な存在においておく為のものなのですな。
他人の頭を踏みつけ、踏みにじることで、いつまでもうまい汁が吸えるのだ、止むはずもない。
どこまでも自己中心的で、厚かましいことですな」
「万事把握してる様子を装いながら、相手を自分にとって都合のいい偏見で包囲し、
実際にも生き難く、不遇にしてしまわなければならぬ手段。そうしておいて、ほら見たことかと、
人を見下し、したり顔をする遣り口です」
葉巻の煙をくゆらせているエブスタの顔を見つめながら、ホトーリオ・ラションはそこまで云うと、
ほのかな笑みを口許に浮かべ、「さて」と後ろにいる息子たちを振り返った。
「息子たちよ。少々、屋敷にご滞在中の皆さまには、危険な目に遭ってもらわねばならぬようだ」
「すみません」
クロータスは、父と兄の前にうな垂れてみせた。
お前のせいではないと父と兄から慰められたところで、彼の顔は暗いままだった。
クロータスは、エブスタへもう一度説明をした。それは対外的にまとめ上げた言い訳であったが、
なかなかよく出来ていた。昨日、海神の祠の前で執り行われたオスタビオとクラリサの婚約式を見た後で、
エトラが修繕の終わった「夜の蝶々」号を見たいと云った。そこでクロータスはエトラを連れて船渠に行った。
そこには見かけぬ男たちがいて、他に誰もいないと思っていた彼らは、「夜の蝶々」号の傍らで
悪事の相談を始めた。
「彼らは偽造した許可証を携帯しており、アカラからの客人であると名乗ったので、門衛も
特に不審には思わなかったとのことでした。しかし彼らの話を聞いていると、その話の内容から、
彼らがテッサコモの人間だと知れました」
立聞きしていたところを一味に見つかり、抵抗したが、若者がラション家の者だと知ると、
彼らはクロータスを解放した。その代わり彼らは、連れのエトラを人質として攫っていった。
そして彼らはこう脅した。邪魔をすればこの少女を殺す。たかが船一艘、ハレには惜しいことでもあるまいと。
「しかし、夜の蝶々号はハレの象徴であり、我々の誇る船です」
クロータスは唇をかみ締めた。
「ハレきっての筆頭帆船がテッサコモに奪われるなど、戦で負けるよりもひどい末代までの屈辱です。
エトラには悪いのですが、エトラの命よりも、わたしはそちらのほうが大事です。夜の蝶々号は兄さんの船だ」
「クロータス」
「はい」
「いささか難問ではあるが、お前がこの父と兄を信じて打ち明けてくれたことに対して、
わしは父としても、男としても、応えなければな」
「父さん」
「まあそれには、お前の協力も要るということだ。エトラがテッサコモの手の者に攫われた報を
聞いた途端、ジャルディンめ、出て行ってしまったからな」
「やはり父上が発案したあれがまずかったですか」
「なに」
「派手な羽根飾りつきの帽子をかぶせて、彼を馬車の御者台に坐らせたこと」
「所詮、傭兵ですからな」
大柄な身体をゆすって豪放磊落にエブスタが笑った。
「あの者たちは信義ではなく、金やその時の風向きに応じて動くのだ。これだから
大局が見えぬ小物は困る。エトラ嬢を人質にされたかくなる上は、彼はハレではなく、
テッサコモに寝返ることを選ぶやもしれませぬぞ」
「このような騒ぎとなり、申し訳ないですな。エブスタ殿」
「構いませぬよ。せっかくアカラから砲を積んだ軍船を持ってきておるのです。
存分に使っていただきたい。それにしてもライヤーズとはまことに愚かな御仁なのですな。
直談判でハレとの提携を求めたはよいが、それを再度はねつけられた腹いせに、
ハレの船渠を占拠し、ハレの船を奪い去ろうと企むとは。まったく悪徳領主の名にたがわず、
海賊まがいの泥棒行為、常日頃から評判が悪いだけあって、あの者には常識も道義も
通じぬとみえる。いやまったく」
「後悔することになるぞと啖呵を切っておられたが、まさかそれが、花火と夜陰に乗じて船を
持ち去ることを意味していたとは、思い至りませなんだ」
「返り討ちにして痛い目をみせてやりましょうぞ」
彼らは卓上に広げた海図の周りに集まった。
海図には、ハレ湾を中心とした沿岸の地形が描かれてあり、オスタビオがその上に
船の位置を書き印した。エブスタが引率してきた船は御座船を合わせて三隻である。
こちらは「小鹿の踊り」号一隻。その他、哨戒の小型船もあるだけ繰り出して、
テッサコモ方面を重点的に、湾を囲む東西の岬に分かれて布陣することで合意した。
「なるべくご迷惑をおかけしたくありません。アカラの船は岬の向こう側で、待機を願います」
海図に俯いて点を打ちながら、オスタビオは前髪を払った。
そうやって厳しい顔をしていると、彼はまことに父親と容貌がよく似ていた。
「湾内に停泊中の商船には既に退去命令を出しました。今夕、花火を打ち上げるためと
説明してあります」
「これで、花火にまぎれて船を奪い去ろうという賊どもを、海上封鎖できますな」
「船渠で一網打尽にしてもよいのですが、人質となっているエトラ嬢の件を除外しても、
テッサコモの狙いが「夜の蝶々」号か、「小鹿の踊り」号か、どちらにあるのか、いまひとつ
不明なのです。クロータスの話を信じるならば、「夜の蝶々」号のほうでしょう。しかし、かりに
「夜の蝶々」号であったとしても、船渠の水門を開いて水位を増し、小船に牽引させて
船渠からテッサコモに向かうには、ハレ湾を横切らなければなりません。わたしはむしろ、
連中は「小鹿の踊り」号の奪取を企んでいるのではないかと、そう睨んでいるのです」
「可能性はありますな。しかしそうなると、「小鹿の踊り」号の今宵の出航はどうなりますかな」
エブスタも、ホトーリオほどは悠然と構えておられぬ様子で、彼はさっきから何度も海へ気を配り、
何かの前兆がそこに見えはせぬかと夕闇の沖合いに船影が見えるたびに眼を凝らし、
それがハレ船籍の商船であっても、その航跡に気を奪われ続けていた。
「海上で花火見物を愉しむ趣向は中止にしたほうがよいのではないのですかな」
「中止? とんでもない」
エブスタと、ラション家兄弟の視線が、まっすぐにホトーリオに向いた。
立ち上がったホトーリオは窓に向かうと、「花火に加えて、捕物も楽しめそうだ」、
事も無げにそう付け加えた。
エブスタと、兄弟が書斎から去ってしまうと、残ったホトーリオは、独り言を云い出した。
続き部屋の書庫へ通じる扉に向けて、彼は口を利いた。
「エブスタ殿は、協力して下さるそうだ」
椅子の背に深くかけて脚を組むと、彼は尚も云った。
「不確定要素は幾つかあれど、これで狙われているのは「小鹿の踊り」号だと決まったようだな」
扉を開いて書庫から出てきたジャルディンは、机を挟んでホトーリオと向き合った。
傭兵は机に両手をついた。
「あんただったのか」
「何だね」
「派手な羽根飾りつきの帽子」
「似合っておったが」
しれしれとホトーリオは机の上に広げてあった書類を片側に寄せた。
「オスタビオはともかく、クロータスは演技派だとは思わんか。わが息子ながら巧いものだ。
エブスタはすっかりクロータスの話に騙されたようだ」
「騙せばいい」
「そうするとも。奴の傲岸な顔と、人を中傷し、追従する時だけ腐った女のようによく回る無駄口には
うんざりしていたところだ。それにしても可愛げのない、それは困るくらいのことは云えばいいものを、
オスタビオの決めた艦の布陣を見ても、顔色ひとつ変えなんだ。よほど引き連れて来た護衛艦の
操行性能に自信があるとみえる」
ホトーリオは肩をすくめた。
「皮肉だな、それもこれも、その者が設計したのだから」
ジャルディンは海図に目を走らせた。船は確かにその性能や搭載した砲門の数に左右される。
しかしそれを操る人間の腕が悪ければ、船も海に浮かぶただの木切れである。よしんばアカラの船の
総員が熟練の船乗りであったとしても、これから起こるのは夜の海戦なのだ。
こちらは浮標と航路標識がなくとも水路を熟知している水夫を揃えており、場所は自前の庭とくれば、
地の利がハレにある限り、艦の数では負けていても勝算は五分か、それ以上であろう。
しかし、彼らの懸念はそこにはなかった。
「砲台の準備は終わったかな」
「守護隊がついている」
「お前が昨日借りに行った船の方は」
「入り江に隠してある」
「ハレは武装船が少ないからな。護衛艦の一つは先日海賊に打ち壊されて操行不能であるし、
どうやら今夜、またしても大切な船を一つ失うことにもなりそうだ。それもこれも、
陸側には軍事同盟を結んだ強国が控えて他国の軍隊の侵入を赦さず、海側にはなまじ堅牢な
防壁があるせいだな。今後は、少し考えるとしよう。お前が傭兵組織に顔がきいて助かった」
昨日、ジャルディンは傭兵のつてを頼って南方に赴き、使えない護衛艦に代わる堅牢な船を一隻、
旧知の領主から借りてきたのである。深夜に戻ってからは、沿岸守護隊に作戦を伝え、
湾岸の大砲で運搬可能なものをひそかに馬車でひいて岬の向こうの砦に移動させ、
近海に遊弋している船をすべて召集した上で、
「防壁さえ死守すれば、最悪でもハレの街だけは守れる」
ところにこぎつけるまで、望楼を司令塔としてオスタビオと共に、文字どおり不眠不休であったのだ。
走り回らせてすまんな、とホトーリオはねぎらった。
「その間に、エトラのことはこちらの不注意で、申しわけないことをしてしまった」
「クラリサを信じるしかない」
ジャルディンは海図から眼を上げなかった。
「その船匠、船のことだけでなく、剣の方も腕が立つそうだが、むやみに殺しはせぬ男だそうだ。
エトラのことは、あんた達が気にしてくれなくていい」
「テッサコモの船匠、ストロウか」
口の中でその名を反芻し、ホトーリオは拳で机をこつこつと叩いた。
「敵か味方かはまだ判然とせぬが、その男、奇人だな。腕利きの職人に偏屈者は珍しくはないが、
それとも天晴れな職人魂と云うべきか。先刻の話ではないが、信念の為には長年の恩人も見限り、
裏切るとはね。船は職人の誇りが宿りしもの、下劣な侵略の道具に利用されるものであってはならずとな。
立派な男かも知れぬが、わしのような小心者の凡人には、かえって何を仕出かすか分らぬ気がして、
危ぶまれる気がするよ。今夜は、忙しい夜になりそうだ」
そこで、ホトーリオは決然と椅子から立ち上がると、ジャルディンに向けて手を差し伸べた。
ハレは傭兵を雇う。ちょうど此処に、一人いる。ホトーリオは酒を盃につぎ、それをジャルディンに手渡した。
ジャルディンが飲み乾すと、同じ盃でホトーリオもそうした。空になった盃を手に、ホトーリオはしばし、
眼前の黒髪の青年の顔をはじめて見る者であるかのように凝視した。かりに戦場で敵将と
あいまみえたとしても、それほどまでには見つめはせぬであろうと思われるほどであった。
「船を借りた領主も、『ジャルディン・クロウと同じ盃で酒を呑んだ者』か?」
傭兵を推しはかるハレの領主の眼つきには、どことなく咎めるような調子もあった。
彼は重々しい顔をした。
「もしもお前に、覇権を争う肉親や同胞がいたら、さぞかしお前の存在は怖れられ、疎まれたことだろう。
わしなら、真っ先にお前を殺すだろう」
傭兵は無反応だった。ホトーリオは「冗談だ」と茶化して、肩をすくめた。
「さてと、まだ音楽は続いているようだ。ちょっと下に行って一度だけ踊ってくるとするかな。
マーリンの機嫌を損ねてはいかんからな。故人がいい男であっただけに、そんな女をもらうと、
これでもいろいろと大変だ」
「ホトーリオ」
「分っておるよ」
ホトーリオは片手をふった。
「ハレとエトラツィアを比べて、エトラの方が危なければ、迷わずエトラをとるがいい。怨みはせぬよ」
上着に袖を通しながら、ホトーリオはジャルディンを振り返ることなく、書斎を出て行った。
庭から、音楽が流れていた。
(とても愉しかった)
それは宮殿で生き抜くための、ひとつの処世術であった。後から何を訊かれても、感情を
窺わせることなく、少年はそう応えた。あの時も、あの時も。もう一度逢いたかった踊り子。
誰もが怖れる王の前で、小さな鈴の音だけに心を澄ませて、淡雪のように舞い踊っていた娘。
卓の上には、クロータスが持たされて帰ったエトラの髪があった。
ジャルディンはその包みを手に握ると、室から出て行った。
「小鹿の踊り号だ」
庭で踊っていた人々は、小艇に引かれて湾内に入ってきた船を見ると、
丘の上から手を振った。薄暮の中、小鹿の踊り号の船体が白っぽく浮き上がっていた。
これから彼らはあの帆船に移動して、海上から花火見物をするのである。
一旦部屋に引き取って化粧直しをしていたマーリンは手鏡をおいた。長椅子の後ろには、
仕立て上がったばかりのエトラのドレスが飾られたままになっている。エトラもジャルディンも
昨晩から姿を見せないが、前の宿場町に忘れ物をしたとかで、二人はそれを探しに
行っているのだそうだ。それが夫や息子たちの嘘であることは分るものの、では、二人は
何処へ行ってしまったのだろう。応える者もいないまま、窓からの風に、エトラのドレスが揺れた。
「マーリン様。馬車が出ますわ」
「今行くわ、クラリサ」
燃え尽きた夕陽の残りがどこかに混じっているような、ぬるい風が吹いていた。
乗船を速やかに行う都合からも、ハレとアカラの領主を含める男たちの馬車列は
もう先に出発しており、残っているのは、女たちの馬車ばかりだった。
庭ではふたたび音楽が始まっていた。全員が船に行くわけではなく、招かれているのは
主賓と限られた招待客のみである。彼らが出て行った後には、召使たちにも庭を開放して、
羽目を外さぬ程度に遊んでいいと云ってある。マーリンは風に乱れた髪を気にしながら、
後のことを執事に頼むと、クラリサの待つ馬車に駆け寄った。
「クラリサ、婚約式の昨日の貴女、とてもきれいだったわ」
馬車の中で髪飾りを直し、マーリンは向かいのクラリサに微笑みかけた。
「安心したわ。わたしも最初の夫を亡くしたから」
寡婦は、人前では笑ってはいけない。少しでも笑顔を見せたり、愉快なことで笑っては、
何を云われるか分らない。若い女が夫を亡くすとは、そういうことだ。
哀しみを押し殺した像のように、常に堅い態度を保持していなければ、死んだ男を
もう忘れている、ふしだらな女だ、あのようだから夫を亡くすのだ、反省の色がない、
そんな陰口を叩かれる。そのくせ人は囁くのだ。あの女は高慢だと。
マーリンはクラリサの膝に手をおいた。
「修道院に三年もいたのよ。喪はもうおしまい。これからは、倖せになって」
「マーリン様」
「結婚式が待ち遠しいわね」
しかしクラリサは深刻な、暗い顔をしたまま、膝の上で手を握り締めていた。
何かおかしい、とマーリンが気がついたのは、海の祠の前で馬車が道を曲がった時だった。
マーリンは馬車から顔を出した。護衛の騎馬隊もマーリンの馬車を囲んだまま、港への道をそれてゆく。
御者台に声を掛けようとしてマーリンは腰を浮かせた。そのマーリンを、クラリサが止めた。
窓から振り返ると、後続しているはずの他のご婦人方を乗せた馬車列も、いつの間にか消えている。
「クラリサ、これは、どういうことかしら。波止場に行くのではなかったの」
「マーリン様。わたくしたちは船渠へ向かっているのですわ」
「船渠ですって」
「そこには、クロータスさんもお待ちですわ」
「クロータス? あの子なら、夫とオスタビオと一緒に、先に「小鹿の踊り」号に向かったはずよ」
「マーリン様、オスタビオ様も守護隊のご用事で、途中で馬車を引き返されました。
「小鹿の踊り」号にはホトーリオ様と、わたくしの養父しか乗船しておりません」
「どういうこと。まるで分らないけれど」
「すぐに分りますわ。すぐに」
船渠の敷地に馬車が到着すると、護衛の守護隊はマーリンに一礼し、
「我々もこの先には行けないのです。船渠に立ち入ることは禁じられております。
奥方さま、どうぞご無事で」
ほかに大事でもあるのか、大急ぎでもと来た道を引き返していった。それどころか、クラリサも
マーリンをそこに残して、ふたたび馬車に乗って行ってしまおうとする。これは只事ではない、
やはり何かがあったのだ。守護隊が委細承知らしいところをみると、夫も承知の上であろう。
マーリンも領主夫人として有事に備えてきた女である。面持ちを引き締めた。
「クラリサ、貴女は大丈夫なの。危ないことがあるのなら、一人では行かせませんよ」
「マーリン様」
クラリサは馬車の窓からマーリンの手を握り返した。
黄昏に浮かび上がる船渠の建物は黒々として、常ならば詰めているはずの門衛の姿も見当たらない。
「マーリン様。わたくしは、「小鹿の踊り」号へ向かいます。マーリン様、わたくしは、もしかしたら
余計なことをしているのかもしれません」
クラリサは最後に何かをマーリンに伝えようとして、言いよどみ、そしてやはり、何も云わなかった。
一行は去ってしまった。残されたマーリンは、船渠の内部へ足を踏み入れた。
建物内の柱廊には、二段構えで松明が燃えていた。奥からざあざあと水の流れる爆音が
響いているところをると、水門が開いているのだ。片流れの屋根の下に出ると、まだほんのりと
空に夕焼けの色が残っていた。
「クロータス。そこにいるの?」
船渠に入ったマーリンは、はっと息を呑んだ。かすかな朱色を残した夕空に、その細やかな
静索の影をくっきりと浮き立たせて聳え立つ、美しい帆船。星空に向けて今より出航するかのように、
帆を用意し、そのほっそりとした舳先を毅然と夜の海原に向け、大檣の先端には、強く輝く
宵の星を戴いている。
(夜の蝶々号。-----違うわ、これは、小鹿の踊り号だわ)
二艘の船は大きさが少し違う。見慣れたマーリンの眼にはその差異がすぐに分った。
しかし、一体どういうことだろう。此処にあるのが小鹿の踊り号ならば、さすれば、沖に停泊しているのは、
小鹿の踊り号ではなく、夜の蝶々号ということになる。
夜の蝶々号の修繕は殆ど済んだと聴いてはいたが、直前になって取り替えるとは、
小鹿の踊り号に何か不備でも見つかったのだろうか。
マーリンが船を見上げていると、母の姿に気がついて、船首の方からクロータスが走ってきた。
彼はそこで水位を見ていたのだ。
「お母さん」
「クロータス。どういうこと。これは、小鹿の踊り号だわ」
クロータスは母の手をとり、船の傍へと導いた。
「お母さん、この船内には、エトラがいるのです」
「エトラが」
マーリンはもう一度船を見上げた。夜の蝶々、もとい、小鹿の踊り号は出航準備を整えて、
海に出てゆこうとしている。いったい誰が船を動かしているのだろう。
船上に動く人影は人数こそ少ないが、てきぱきとした無駄のない動きで、甲板の前後の舷弧から、
甲板の左右の梁矢へと、機敏にはたらいて回っている。
「お母さんはどうして此処に」
「どうしてって。クラリサが貴方が此処にいるからと。エトラは無事なの? エトラがいるなら、
お母さん、船に乗りますよ」
「奥方さま」
後ろから声が掛かり、クロータスとマーリンは振り向いた。
頭髪を後ろで束ねた男が、ゆっくりと歩み寄って来ると、マーリンに礼をした。少し白髪の
混じりはじめた髪と、口許の皺が、かえって男を上品にみせていた。
「マーリン様ですね。ご令息がご心配で様子を見に来られたのでしょうか。恐縮です」
「あなたは」
「テッサコモの船匠。名をストロウと申します。奥方さま、マーリン様」
「あなたは」
後ずさってマーリンは喘いだ。
「テッサコモですって。船匠ですって」
口許の皺をのばして肯定の笑みをつくり、ストロウは儀礼的に頷いた。
「その前は、アカラにおりました。つい最近まで」
「アカラに」
驚愕を顕わに浮かべて、マーリンは顔を手で覆い、首をふった。ストロウは続けた。
「小さな邑で船工房をやっていたところ、アカラの領主エブスタ・ゴールデンに見出され、
長らくアカラにいたものです。しかし現在は、テッサコモの人間です。ハレ領主の奥方さまに
この場を借りてついでに申し上げておくならば、テッサコモ領主は噂ほど、悪い人間ではありませんので」
「……あなたは」
「どうしたの、お母さん」
「嘘です」
マーリンはストロウの顔を見つめながら、強く首をふった。嘘です、嘘です。そんなマーリンを
澄んだ眸でストロウも見つめ返した。しばらく、彼はマーリンだけを見ていた。やがてストロウは
マーリンに小さく微笑みかけた。終始一貫、まったく感情のない、恬淡とした船匠の態度であった。
「奥方さま。せっかくです。どうぞ、クロータス様とご一緒に小鹿の踊り号へ。花火が始まってしまいます」
「嘘です。ストロウと仰る方」
マーリンは唇をわななかせた。眼をみひらき、クロータスの腕につかまりながら、隣り息子がいることも、
背後にどうどうと流れ、つめたい飛沫を上げて水位を増している海水の音も、聴こえていないようであった。
マーリンはふるえながら、掠れた声でストロウに繰り返した。
「あなたは、あなたは、嘘をついていらっしゃいます」
水が止まった。小艇に曳かれた「小鹿の踊り」号の船体が、ゆるやかに、水路に浮き出した。
それを見ていたストロウは、マーリンが何を云っているのか、さっぱり分らないようであった。
彼は微笑み、そして黙って、静かに、首を振った。
濃紺の夜空の一部に色彩の花が咲いた。
光の花は金銀の粉を落としながら海面を照らし、次から次へと咲いた。
糸筋のようなものが花火師を乗せた舟から打ち上げられると、やがて星々の間に
放射上の火の色が走り、それはしだいに円周を大きくしながら広がりのびて、
端から細かく零れ落ち、垂れ下がっていった。
「小鹿の踊り」号の船尾楼には、花火を愉しむ、エブスタ・ゴールデンとホトーリオの姿があった。
沿岸守護隊隊長のオスタビオと、役職にはまだ就いていないものの見習いとして兄と行動を共に
することが多いクロータスの姿はそこになかったが、守護隊の方に用事が出来て兄弟はそちらに
出向いたとの説明に、疑いを差し挟む者は誰もいなかった。また、領主夫人マーリンも
客人の接待で手が回らないので屋敷に残ることにしたとのことだった。
何でも、出掛ける寸前に誰かが海の怪談をひとくさりやったとかで、女たちの多くはその話に
ふるえ上がり、夜の海を怖れて誰ひとり、馬車には乗らなかったのだという。
「とても恐い怪談でしたのよ」
最後の渡し船で乗船してきたクラリサは、みなの前で事情を説明し、身をふるわせてみせた。
「夜の海には死んだ海賊の霊が悪霊となって漂っていて、波の上を死んだ時の姿で
歩いているんですって。この前の海賊の縛り首が、まだ防壁に晒されておりますでしょう。
だから女の人たちは船に乗るのを嫌がって、屋敷に戻ってしまいましたの」
「皆様が揃わぬとは残念なことだ。女人はクラリサ嬢だけとは」
頭のかたい者が不平を述べたものの、エブスタ・ゴールデンはホトーリオに(予定どおりですな)と
いった意味の目配せしながら、
「構いませぬよ。遊興にかまけて、領地の防衛が疎かになっては何のためのハレ守護隊でしょう。
ご婦人方にせよ、魔物が潜むという恐ろしい夜の海にわざわざ出てくるよりは、家の中から
花火を見ることを選ぶのもご尤もなことです。ダンスのほうがいいに決まってますからな」
如才なく朗らかに笑ってみせた。
「それにしても、沖から眺めるハレの海上花火は実に見事ですな」
「東西に岬があるので、その影がちょうど額縁の役目を果たし、色彩を引き立てているのです」
星空に花火がまた上がる。その音に混じった異音に、小鹿の踊り号の客たちは、ふと目線を下げ、
海上を見回した。男たちが顔を見合わせる。その音は上空の花火とは違い、低いところから夜の海を
轟かせたものだったのだが、山が崩れるような余韻の出所がまだ判別できぬうちに、その余響も、
次の花火の打ち上がる大きな音にまぎれて、不明になってしまった。
「何か、聴こえたようだが」
「うむ。今のは大砲の音だった」
船客は舷縁に寄り、打ち上がる花火の合間のわずかな静寂に、じっと耳を澄ませた。
しかし広がる夜の海は、二度と、先ほどの音を此処まで運んではこなかった。
海面は花火の色に照らされて、色硝子をはめこんだように、きらきらと揺れていた。
「花火の、誤発ですかな」
陸と海とを交互に見比べて安堵していた人々のその顔が、驚愕に変わり、さあっと蒼褪めたのは、
花火が終わった直後であった。
「見ろ! あれを」
水夫がどよめいて唸った。群青色の夜に忽然と現れ出でた、艦隊の影。
水平線上に、横並びにずらりと浮かび上がった艦船のかたまりに、誰もが息をのんで、声もなかった。
月と星を湛えた群青色の夜空を背景に、点々と小石を置くようにして並んだその数は二層艦だけでも
十を超え、海賊の亡霊よりも恐ろしい姿で、ハレを遠巻きに窺っているではないか。
夜明けを待つつもりか、艦隊はそこから動かず、横陣を組んだまま錨を下ろして、海上に停っている。
テッサコモの船泥棒を海上封鎖するつもりでいたものが、その輪の外にさらに半円を描くようにして、
こちらが思いもよらぬ新たな敵に包囲されたというかっこうだった。
「何ということだ…」
頭上の花火に気をとられている間、それは粛々と暗闇をぬってハレに押し寄せ、小鹿の踊り号を
陸地の間に挟むようにして、きれいに布陣を終えていた。闇に並んだ点のようなそれを遠目にして、
夜目が利くものが声を上げた。
「あの旗のかたちを見ろ。あれは、コルリスだ」
「コルリスだと!」
コルリス、それは、征服欲の強い領主の許、大国との覇権を競う内陸寄りの野心国である。
近年になって本格的に海に乗り出してきたコルリスは、アカラの船を参考にし、
強固で速い新式の軍船を建造しては、次々と海に繰り出しているとの話だった。
ハレからみて東にあるコルリスが、もしも海の覇者を目指すなら、ハレは見逃すことのできぬ
補給地であり、要塞としても使える、要衝である。
「コルリスの軍船だ……」
もしも小鹿の踊り号が風下にあったなら、彼らは火薬の匂いを嗅ぎわけ、そしてもう少し湾より外に
船を出してそこから陸側を振り返ったなら、彼らは岬の向こうに燃えている、その焔も見たであろう。
ハレの海は燃えていた。ジャルディンの立っている崖の真下には、夜の海を油のように照らしつけて、
轟々と燃えているアカラの船があった。それは熔けて崩れるようにして二つ折りになり、見ているうちに、
ずぶずぶと海中に沈んでいった。
「アカラの二番艦、轟沈」
「敵旗艦は砲弾を回避、海上に逃れました」
「伝令! 三番艦は後檣を失ったものの、御座船目指して転進中」
「岬の向こう、オスタビオ様の艦、一番艦と交戦に入りました」
火災が起こった時に起こる上昇気流が傭兵の髪をなびかせた。
夜空を覆う砲煙の合間に火の粉がふぶき、それも船が海中に没するにつれて、闇に吹き流された。
岬の反対側に固めてあったアカラの船に降伏勧告をすること三度。応じぬとみたハレは、
花火が上がる中、砦の大砲で入り江のアカラ船を一斉砲撃、二番艦を沈めたものの、旗艦の一番と
三番を仕損じた。高地をとっての砲撃とはいえ、大砲自体の精度が悪いので、一隻でも沈められたことは
夜襲において幸運だったといえよう。
「街中のアカラ兵は全て取り押さえたぞ。アカラめ、予測どおり、奴らは防壁を内側から破壊しようとしていた」
守護隊副隊長の髭面が成果を報告しに、馬から降りて駆け寄ってきた。
花火が終わり、静かになった。
水平線上にコルリス艦隊の影を認めたジャルディンは、踵を返した。
「髭面」
「俺にも一応、名前があるはずなんだが、まあいい。何だ」
「行くぞ」
岩陰に隠してあった帆船がゆっくりと砲煙をわけて彼らの前に現れた。
ジャルディンが借りてきた帆船は、帆の色が赤かった。ジャルディンは崖を蹴り、
その甲板にとび移った。髭面があとに続いた。炎を映したような赤帆の船は黒髪の傭兵を乗せて、
火炎の残る夜の海へと波をきった。
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