[レムリアの湊]
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Yukino Shiozaki

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【最終回・上】


 艦の名は、「赤月」。
昨日、早朝からジャルディンはハレの小型快速船を操って、昔同じ隊にいたことのある
知人の傭兵隊長の許を訪れた。ジャルディンの頼みを聴いた傭兵隊長はただちに領主の許へ
馬を走らせ、某国の領主は二つ返事でその申し出を快諾した。
あの黒髪の傭兵のことならばよく憶えておる。よくはたらいてくれたものであった。
今はハレにおるのか。そのハレの危機とな。宜しい、一艘貸し出してしんぜよう。存分に使うがよい。
 それだけでなく、傭兵団は途中まで帆船をガレー船で曳き、復路にかかる時間を
大幅に短縮してくれた。そのお蔭で半日は時を稼げた。帆船が風の力で動く船ならば、
ガレー船は帆と櫂の力で動く船である。微風時の直線において、人力のガレー船の速度は
風任せの帆船を軽く凌駕する。そのガレー船に曳かれ、海岸線に沿って超高速で北上してゆく
赤帆の船を、沿岸の人々は愕きの眼で見送った。
 ジャルディンが帆船「赤月」を選んだのは、以前、その船を操艦したことがあるからだ。
上甲板を埋め尽くす大量の索にしろ、熟練の船乗りならばたとえ初めて乗る船であったとしても
ひと目見るだけでそれが何の索かを見分けるが、船にはやはり、舵輪ひとつとっても癖がある。
操舵するのは慣れた船であることに越したことはない。赤い帆を持つ帆船は、この夜ふたたび、
黒髪の傭兵の指揮下に入った。
 男たちの前には、夜の海があった。
砦からの砲撃で損傷しながらも岬を回りきり、海上の「小鹿の踊り」号を目指しているアカラの船、
旗艦一番と、三番。その一番艦に追いすがるオスタビオ指揮の船。しかし、手負いであっても
アカラの船は機敏で、おそろしく船脚が速かった。
 いかに夜が更けて月が輝こうとも、暗闇は暗闇である。波の上に跳ねる船を照らし、
互いの位置を見分けるものは、ふたたび上がった、金銀の花火であった。
夜目が利くものは照り返しが邪魔でかえって視界が悪くなると不平を云ったが、そこはおさえて、
等間隔で花火を打ち上げ、前の火が消えぬうちに次の花火を打ち上げて海面を明るく照らすことで
敵味方の船の位置を確認できるよう、あらかじめ花火師に命じてあったのだ。
 小鹿の踊り号の船客たちは、上級水夫の誘導で下甲板に降ろされた。客人の中には
転桁索くらい扱えると自ら挙手して、残る者もいた。上甲板ではアカラの領主が手すりに
身を乗り出して、こちらを目指して近付いてくるアカラの一番艦と三番艦に目を凝らし、
そして沖合いで傍観中のコルリス艦隊の、ずらりと舳先を並べて投錨しているその遠い影を、
狂おしい目つきで交互に見比べていた。
依然として、コルリス艦隊は船首尾線と直角に縮帆した帆桁を並べたまま、海に浮かぶ
要塞のようにして、整然と静止していた。
 ずどんずどんと砲弾の音が轟き、夜の海面が火の色で照らされた。
花火と花火の合間には、きれいな月光が波を青白く染めた。それはまるで、ぎらぎらと
黒く塗れて光る黒い鏡の中での、手探りの戦いのようであった。いうまでもなく、帆船は風の力で
動く船である。帆を失うことは、ガレー船における漕手を失うことに等しい。
「速い! アカラの船は速いぞ」
「三番艦、逃した」
「面舵!」
 艦尾を寄せて一度は敵旗艦と平行したものの、オスタビオの船はアカラ一番艦の
片舷斉射を受け、砲撃の際の斉射反動と、敵艦からの砲撃で、頭の真上から海水を浴びるほどの
傾きをみせて、大きく波間にかしいだ。その間に反対側にいた三番艦は砲煙を突き破り、艦首三角帆を
ひるがえしながら、オスタビオ艦の脇をすり抜けた。湾岸で受けた砲台からの砲撃により三番艦は
損傷していたが、後檣の上半分を吹き飛ばされていてさえ、三番艦はその走航性を失ってはいなかった。
「畜生、後帆を失ってもこれなのか」
 アカラの造船技術は沿岸随一。その高名に違わず、先方の船の桁違いの機動性に、
オスタビオ艦の男たちは眼をむいた。旗艦一番艦はオスタビオ艦にとどめを差さず、操舵手に命じて
その場を見棄て、硝煙の煙を後にひきながらも三番艦に続いて、「小鹿の踊り」号を目指した。
通り過ぎてゆくアカラの二隻は、船尾が角型ではなく丸型となっていて、大檣が高く、
中央よりも船尾よりに立っており、その分、後檣がやや低いつくりになっている。
それは船を城に見立てて飾り立て、権威の象徴として重厚に見せかけた船首と船尾の高い
従来船とは異なる、余分なものをそぎ落とし、極めて洗練された、風と海のためにこそ、その艤装を
ほどこした、新しいかたちの船であった。逆風でも操行可能な三角帆を膨らませ、
花火と夜の波をむしろ歓ぶようにして、アカラの船は小鹿の踊り号へと吸い寄せられていった。

 「来るぞ!」
 最初の砲撃音が起こると、小鹿の踊り号の砲列甲板は少ない水夫たちを総動員して
台車に乗せた砲台を滑車装置で送り出し、迫り来るアカラ艦に備えた。
花火に照らされて時折白々と浮き上がる船尾楼に留まっているエブスタの顔は、ホトーリオを
間近から睨みつけて、怖いほどであった。
「ホトーリオ殿」
「いつ計略を見抜いたかと仰いますか。なに、夕方の会談の折にお話していたこと、そのままですよ」
 ホトーリオは水夫に命じて、エブスタの腰から武器を取り上げさせた。
エブスタの剣を海に放り投げてしまうと、ホトーリオは自らも闘いに備えて、礼服の上着を脱ぎ、
剣を帯びた。
「すなわち、利己的なものや露骨な下心を隠している親切は幾ら口巧くとも疎ましいが、
真情をこめたものならば必ず伝わる、ということです。ほんの些細なところで、根底から
似て非なるものであるとでも申し上げますか」
「聖人気取りですかな、ホトーリオ殿」
「なんの。他ならぬわたしこそ俗物ゆえに、かえってそれがよく分るというだけのことです」
 ホトーリオは傍で控えていた少年に、「もう下に降りていなさい」と声を掛けた。
そばかす顔の少年は、眼の前で繰り広げられている海戦に昂奮した顔をして、
「ここに居させて下さい。ぼくもハレの男です」
 しっかりした声で領主に頼んだ。領主は、「それでは、船の灯を絶やさぬように、灯りをよく
見張っておいで」仕事を与えて少年を船尾楼から立ち去らせた。
エブスタはぎりっと唇を噛んだ。ホトーリオは手すりに肘をついた。敵艦の性能への
感嘆を隠さず、ホトーリオは闇の中から堂々と迫り来るアカラ艦への賞賛を口にした。
「お国が厚遇しておられた船匠。いや、もとアカラがお抱えであった船匠と申し上げましょうか。
見上げたものです」
「この期において皮肉ですかな。そうか、彼が裏切ったのだな」
 エブスタの額に汗が流れた。
「引き止めるのもきかず、テッサコモに亡命したあの男が、何もかもを台無しにしてくれたのだな」
「はてさて。果たして、彼のような男が歩む道を、我々のような低俗な次元での裏切りと同じに
呼べますかどうか」
 睨みあっているホトーリオとエブスタの向かいでは、クラリサが両手を揉み絞って、
暗い海面のあちこちを見ていた。
「オスタビオ艦、操舵不能。しかし、オスタビオ様はご無事です」
 花火を透かしてそれを視認した檣楼からの報を聞くと、クラリサは柱に手をかけたまま、
安堵のため息をついた。ホトーリオはそんなクラリサに声を掛けた。
「クラリサ、そこにいては危ない。船長室に入っていなさい」
「いいえ、いいえ」、クラリサは首を振った。
「わたくし、此処で見届けますわ」
「クラリサ! お前が」
 咄嗟にすべてを悟ったエブスタは大股に船尾楼甲板を横切ると、クラリサに掴みかかり、
その大きな手で娘の細首を掴んだ。たちまち彼は水夫とホトーリオによって引き離されたが、
クラリサに殴りかからんばかりであった。
「お前が、今夜の計画を洩らしたのだな。クラリサ、お前がこの父を裏切ったのだな。
お前を引き取り、養ってやったこのわしを」
 エブスタの狂乱を前に、クラリサはがくがく身をふるわせた。クラリサは追い詰められた父の
猛々しい顔を見た。いかなる男であろうとも、エブスタは彼女の恩人であり、養父であり、
そしてまだ幼い少女の頃から、たとえ対外的なものにせよ、家族として長年共に過ごしてきた人間であった。
男の強い性格は、一種の支配をクラリサの上に与えており、少女の頃からクラリサは
この男の言いなりになっていた。たとえ最初の夫を殺されたと知っても、それも運命だと唯々諾々と
受容するほどに、逆らえなかったのであり、またエブスタの方も、この手の性格の男に特有の独占慾でもって、
クラリサを自分の操り道具と見なしていた。それを裏切るにあたっては、クラリサの中でも、
余人には窺い知れぬ悲痛なまでの苦悩と、葛藤と、勇気が要ったのだ。彼女は胸を押さえた。
そこには、いざとなればエブスタと刺し違える用意の、短刀を持っていた。
ホトーリオはそれに気がついており、ふたたび厳しく彼女に命じた。
「クラリサ。いいから、船内に入っていなさい」
「ごめんなさい、お父さま。でも、わたくしはもう、お父さまの悪事にこれ以上加担することは出来ない」
「悪事だと!」
 エブスタは恐ろしい声で吼え立てた。
「悪事だと! わしの興したアカラを大国にのし上げることが、悪事だと」
「エブスタ殿。貴方には少々ご同情いたしますよ」
 ホトーリオはクラリサを責めるエブスタを遮った。花火がまた上空で散った。
「天才的な造船技師を見出し、寂れていたアカラを興隆させた貴方は、さらなる夢をみた。
それは軍事強国としてのアカラです。それにはまず、海の要所であるハレを取り込む必要がある。
貴方はクラリサをハレへ嫁がせることで、その足がかりにしようとした。この時点では、まだ貴方は
そこまで大それたことは考えてはいなかったはずだ。そんな貴方の野心に最近になって
擦り寄ってきたのが、他ならぬ、コルリスだったのでしょう」
 沖合いに居並んだコルリス艦隊は、朝を待っていた。戦の帰趨がはっきりするまでは
手を出さぬことをあらかじめ取り決めていたものか、花火の下に閃き始めた砲火にも動じず、
艦隊にはまったく動きがなかった。
「陸だけでなく、海へも侵攻しようとしたコルリスは、近海に詳しい海賊までも配下に取り込み、
軍備を揃えているところだった。そしてコルリスは、アカラの優れた造船技術に眼をつけた」
 ホトーリオは続けた。
「貴方の心は動いた。娘のクラリサをハレに送り込み、機が熟せば、コルリスの大軍と共に、
ハレを侵略しようと。しかし、ここで思わぬ誤算が生じた。肝心のアカラの造船技術者が、
工房の弟子を全員ひき連れて離反し、アカラを出て行ってしまったのです。そこにいたるまでに、
どのような貴方がたの激しい口論があったのかは存じません。クラリサの話を聞くかぎり、
その船匠、信じるものの為には一歩もひかぬ頑固者ということですから、いかなる貴方の甘言も
脅しも説得も、彼にはまったく無駄であったことでしょう。或いは自分の船がいつの間にか
戦争の道具としてコルリスに無断で売られていたことに対して、誇り高い彼は激憤し、
それが許せなかったのかも知れません。船匠はアカラを出て行きました。
肝心の船を造る技術がなければ、コルリスはアカラには見向きもしない。貴方は困った。
そんな貴方に、コルリスは最後の取引を持ちかけたのです。ハレの防壁を開き、ハレ領主を
捕らえるならば、コルリスはハレを陥落後もアカラを攻撃せず、アカラをコルリスの傘下に
組み入れてやろうと」
 沖合い遠方のコルリス艦隊の影は、いかにも、優位を誇って、高みの見物を決め込んでいた。
コルリスとしても、強国と軍事同盟を結んでいるハレをうかつには強襲出来ない。それ故、
アカラの弱みにつけ入るかたちで、ハレの防壁の攻略をエブスタの手に押しつけたものとみえた。
領主を人質にして、防壁の明け渡しを求める、または、内側からのアカラの手引きで防壁の門を開かせ、
強行突破で夜明けと共に街になだれ込む。首尾よく奇襲が成功すれば、ハレ占領の報は
コルリスの名を一躍高め、不首尾に終わったとしても、アカラの破滅になるばかりで、
コルリスには損はない。かようにしてアカラとコルリスは通じており、それが先日の、
ハレの防衛力をはかるための海賊襲撃の一幕でもあったのだ。
 ホトーリオは肩越しに後方をかえりみた。
なけなしのハレの船が総出で進路を邪魔立てしているものの、それも時間の問題であろう。
アカラの船は、あまりにも速く、自在な帆と、そして近距離からの砲撃にも耐えうる強固な側面を持っていた。
二隻の艦は、海と夜風を十全に生かしながら、ハレが海上に描いた包囲網を巧みにすり抜け、
かねてからの計画どおりに、領主たちの乗っている「小鹿の踊り」号を目指していた。
それへ向けて、ホトーリオは、遣る瀬無いような眼つきをくれた。
「素晴らしい船だ」
 彼は、深々と嘆息した。
「エブスタ、貴方の誤算は、あれらの船を造った者の心を解さなかったことだ。
その船匠ほど船をよく理解し、心血をそそいでいる者はおらず、そしてそれは、我々にも、
ついには分らぬ領域なのかも知れませぬ」
「あれほどに手厚く優遇してやったものを……!」
「侵略のために使われる船は造りたくない。その者の矜持は、ご覧なさい、その者が造った
あの船が、すべて表してくれているではありませんか。それは何人にも穢され、覆されることのない、
ある一筋の道に生きる者のみが可能な、船へ生涯を捧げる彼らの無心であり、信念です」
 どこか憧れめいたものを含んで、ホトーリオは闇に眼を透かした。夜の海は死後の世界、
金銀の花火に照らされて、或る技術者の見た船の夢が、そのままそこに、時を超えてあるようでもあった。
「たとえ誰からも理解されなくとも、彼らは船を愛するだろう、船乗りが、いつも海を求めるように。
何という見返りのない道だろう。それでも彼らは、船を裏切ることはない」
「アカラ艦、接近します!」
 真上の後檣楼から見張りがどなった。
 それを聞いたエブスタ・ゴールデンは、水夫を突き飛ばし、甲板を走ると、「小鹿の踊り」号の
舵輪にとびついた。しかし、彼はすぐに絶望の大声を上げて、舵輪から手を放した。
舵輪はからからと大きく空回りし、風車のように回った。船の向きにはまったく変化がなかった。
「無駄です」
 ホトーリオは、甲板にいたエブスタの従者たちを一網打尽にし、喘いでいるエブスタに冷然と告げた。
「舵輪索が切れているのです。この船は、「夜の蝶々」号」
 エブスタの血走った眼が、空転している舵輪に向けられた。ホトーリオは噛んで含めるように、
もう一度エブスタに教えた。この船がこの投錨地まで小艇で曳かれていたのを、
貴方もご覧であったでしょう。
「この船の舵は利きません。アカラの船とも、コルリス軍とも、合流することは不可能です」
 そして波間に停泊する船は、この船を乗っ取り、ハレ領主を手土産にしてコルリスに引航しようとする
敵から逃げることも叶わないのだ。
 小鹿の踊り号、もとい、夜の蝶々号に、アカラ艦の二影が迫った。そこへもう一隻、
あらたに闇を分けて、赤い帆をもつ艦が月下の海域に現れた。


 その帆は、夜の中では闇よりも黒く見えた。
そして昼間においては、風をはらんだ帆が、赤い三日月を重ねて並べたように横から見える。
 ホトーリオが片眉を上げて見ているうちにも、疾走する赤帆の船は、ほとんど忽然と海上に現れ、
風向きに合わせて絶妙な方向展開をみせると、「夜の蝶々」号の前面に、さあっと滑り込んできた。
(あれが「赤月」か。ジャルディンめ、沿岸ぎりぎりに沿って近道してきよった。浅瀬に座礁したらどうするのだ)
 艦首を風下に落としておいて、曳船なしで、しかも夜の闇の中である。大輪の金色花火の下に、
舵輪を握り「赤月」を操舵する傭兵の姿が浮き上がって見えた。
「撃つな! 味方だ」
 それを聞いて、「夜の蝶々」号の砲台が慌てて引っ込められる。風向きが少し変わり、
ばたばたと上空の帆が鳥の羽ばたきのように強くはためいた。その帆影が落ちる直下の海から、
花火師の泣き言が上がった。
「領主さま、もう花火がありません。弟子らの舟も、次が最後の一発だと」
「ご苦労。すぐに退避してくれ」
 花火師を乗せた小舟が大急ぎでそこから離れる、その航跡がまだ消えぬうちに、アカラの船の
尖った舳先が突き出てきた。直進してくるアカラ一番艦と舷側を寄せるようにして、「赤月」が近寄る。
アカラ一番艦と「赤月」の舷側から砲が押し出され、二隻の艦の影が重なった。間髪入れず、
天地を引き裂くような轟音と、電光がおこった。
「伏せろッ」
 総員は頭を抱えて甲板に伏せた。上空を飛んだ破片は、「夜の蝶々」号の上甲板にも降ってきた。
海戦術においてもっとも有効な片舷斉射、放たれた砲弾は、炎と煙とともに両艦の甲板にどかどかと落ちた。
巌を叩きつけるような音が起こり、あたりは砲煙に包まれ、霧の中となった。
鞭がうなるような音は、引きちぎれた索具が揺れ動く音だった。最後の花火がそこで尽きた。
火炎の影も風にかき消え、あたりは月明かりばかりになった。その間、「赤月」は一番艦の真横を
すり抜けると、大きく回頭して向きを変え、月光を頼りに波間を蹴立て、一番艦と三番艦の
わずかな隙間に船体を入れた。そこから回避しようとする三番艦の船尾と、「赤月」の船首が
ぶつからんばかりになった。
「接近、敵艦右舷」
「砲撃用意」
「全帆風をぬき、微速漸進を保持。狙え」
「撃てッ」
 そしてまた闇になった。海はふたたび耳を聾する轟音に揺れた。
交戦を回避ざま一番艦が「夜の蝶々」号の目前に迫り、あわや衝突かと思われたところを、
ぎりぎり抜けた。三番艦と「赤月」は舷縁を擦れ合わんばかりにして砲撃を交わし、撃てるだけの
弾を敵に浴びせかけた。「赤月」の砲員は狙いをすませ、三番艦の露天甲板および、残れる前檣を
灼熱の咆哮でなぎ倒した。狭いところにひしめく船の動きにより、嵐の時のような波が起こり、
交差海面では船体が揺さぶられ、船首楼が波を被り、また持ち上がった。ふたたび「赤月」は
その赤い帆に風圧をとらえて、正横から襲う波を艦尾で蹴散らし、ふたたび艦首をまわした。
空中に飛散った船体の破片は、ばらばらと豪雨のように夜の蝶々号にも降ってきた。
その一つが夜の蝶々号の大檣を直撃した。もともと急遽こしらえた檣である。傾いた。
格子状に編まれた静索に火が移っていた。大檣の下部が燃え上がった。
「火を消せッ」
 彼らは矢のように降り注ぐ破片と、焔を乱反射している弾幕、火の粉ふぶきの中、「赤月」の甲板を見た。
黒髪をなびかせた傭兵が片手を伸ばし、紫の光を浴びて立っていた。「赤月」の右舷砲列が火蓋を切った。
砲火の雷光は海面と水平に走った。「赤月」は、アカラ艦に挟撃されようとする夜の蝶々号の前に
立ちふさがり、迅速な操舵と片舷全砲斉射を駆使し、単艦で夜の蝶々号を護っていた。
アカラの船は勇猛であったが、今やどちらも半壊となっており、主要な甲板は引き裂かれ、常ならば「赤月」は
このまま二艦を封じたであろう。だが船底を銅で覆った細身のアカラ艦は、未知の夜の海にあってさえ、
その機動性と数で優っていた。船尾から火炎を噴き上げながら、アカラの一番艦が戻ってきた。
舷縁では、アカラの乗員が斬り込み隊を編成して、武器を手に立ち上がっている。
夜の蝶々号の上甲板は騒然となった。
「乗り移ってくるぞ!」
 アカラ艦が「夜の蝶々」号に接舷しようとした、その時、「夜の蝶々」と瓜二つの帆船が
海上に現れて、幽霊船のようにアカラの一番艦に後方から接近し、真横からの砲撃で
一番艦を轟沈せしめるのを、その炎と、鳥のくちばしのように船首を波の上に突き出して沈む
アカラの船を、人々は、夢のように見送った。眼前を通り過ぎる、月に照らされたその船体を見つめて、
ほうけたように誰かが云った。
「「夜の蝶々」号。いや、「小鹿の踊り」号だ……」
 夜の蝶々号とすれ違った小鹿の踊り号は、帆を月光に青く浮き立たせ、氷の上を回るような
見事な上手舵で風上にまわると、残る三番艦の艦尾をとって迫った。
ふと、ホトーリオは思った。自身が設計し、いつくしんできた船を、気にくわぬ者共の手に
渡すよりはと、その手で沈めることを選ぶ人間とは、いったいどのような心の持ち主なのであろうかと。
砲音が夜空に連なり、火炎が海上に流れた。
 煙が流れ去った後には、大きく傾いて海中に沈んでゆくアカラの船と、ハレの姉妹船「夜の蝶々」号
「小鹿の踊り」号、そして帆船「赤月」が、海に残されていた。

【最終回・下】に続く

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