■T.
狼が、吠えている。
風の音だと、誰かが囁く。その声はやがてひとつの唱和となる。
貴方は、王の子。
列柱の先には意趣を凝らした小さな扉が並び、月光を満たした泉の風紋が
回廊の天井に波模様となって映っている。海に潜り珊瑚礁と魚の間を
くぐり抜けている時に似て、少年は歩みをとめない。この息が続くかぎり深く、もっと深く。
魚のひれの代わりに千尋の底の暗がりからひらめく色鮮やかな衣。
草葉がすれるような招き声が少年をふたたび奥へと誘う。
こちらへおいでなさい。
哀願を帯びた声と、鼻腔をくすぐる香のにおい。
柱の影からしなやかな腕が少年を掴む。両側から、前から、後ろから。
本当に、本当に、貴方さまはあの御方の子。よく似ておられます。
退路を断たれた少年の黒髪を、誰かのふるえる指がすく。さざめきの中に入り混じるのは、吐息と呪詛。
敷布の上に横たえられた女がいる。むきだしにされた女のほそい肢の間に、
少年は女たちの手で押しつけられる。若い女は眼を閉じて細首を傾け、
胸や腹の上に少年が手をのせてもぴくりとも動かない。
踵に触れてみると、それは水の中に漬けられた石のようにひえていた。
(薬を盛ったな)
少年は眼を細める。宴の間、彼の前を行ったり来たりしていた踊り子。
すべらかな踵と、薄紅色の足の爪。踊り子が足首に巻いていたはずの鈴は、
いまは取り除けられていた。
この者が、お気に召したのでございましょう?
少年の黒髪を撫ぜる女の手が、少年の背をなで下ろす。
女たちの指が少年の身体から衣を剥ぎ取る。浅黒い肌の上に降るのは女たちの接吻。
誰かが彼に触れ、もう一度、踊り子の開かれた脚の間にみちびく。
ああ、王よ、閉じ込められたわたくしたちには、このような愉しみしか赦されませぬ。
今宵あの女の生んだ貴方さまの子に、わたくしたちの復讐と、祝福を。お父上があの女にするように、
貴方もこの賤しき女をお愉しみなさいませ。
遣る瀬無いため息があたりを包む。自由を奪われた踊り子が幾たびか、身の下でかすかな呻きをもらす。
吹き込む強風が敷布の端を波打たせ、踊り子を組み敷いた少年の黒髪が、嵐の中の海草ように
大きく躍り上がり、乱れてはためく。真珠のような汗に濡れはじめる少年のその背を後ろから見つめる
女たちの影、その沈黙。
影がうねる。少年が喘ぎを放つ。
外は風の夜。狼が、吠えている。
地に押し付けられた少女が苦しそうな声を上げるのを、どこか遠くで聴いていた。
男の腰に手を回し、「ジャルディン」と切なく仰いでいるのは、知っている声だ。
重いわ、ジャルディン。
少女の手は覆いかぶさっている男の背を抱いた。不精して伸ばしたままにしてある
青年の黒髪を、少女の指先が下からやさしく掬い上げる。
愕いて青年が身動きすると、起き上がるその拍子に肘か膝でもどこかに当たったのか、
下になったままの少女がうっと小さな声を上げた。
「大丈夫だ」
声は意外としっかりと出た。退いてと云われぬ前に、いそいで身をはね起こして立ち上がった。
何でこんなことになったのかよく想い出せぬままに二三歩ふらりと後退したところで、
背が木にぶつかった。その衝撃で花びらが雨のように上から降ってきた。
足許に、美しい少女が横たわっていた。
草の上に四肢を広げたまま、じっとこちらを見上げている。
少年の衣を着ていたが、それがほっそりとした身体つきによく似合う、そんな娘だった。
花の雨の中、少女はその水色の、きれいな眸を細めて微笑んだ。
海の中で見る青い光よりもまだ清く、そしてどことなく深遠なものを秘めた色だった。
短くしているのが惜しまれるほど美しいその金の髪の上に、花びらがひらりと落ちた。
軽く握るかたちにしたまま、草の上に投げ出しているその白い手においた花と同じ、
薄紅色の花だった。
ジャルディンが差し出した腕に掴まると、少女は身軽に身を起こし、
「あそこから、落ちたのよ」、大樹の上を指した。けっこう高い。
立ち上がった男装の少女は、髪や衣についた花びらをはたき落としながら、
「あなたがいけないのよジャルディン、あそこに登れば海が見えるなんて云うから」
恨みがましく、木漏れ日の中で不平を述べる。
大樹は花盛りであり、それを見ているうちに、二人で登ろうということになった。
枝先には、雫のかたちを重ね合わせたような花が満開に咲いていた。
木登りの途中で、少女はそれに手を伸ばした。
「そしてお前が枝から手を滑らせ、それを俺が支えようとし、二人とも木から落ちた、と」
「貴方がわたしの下になってくれたのはいいけれど、地面の坂でさらに一回転ころがって、
わたしが貴方の下敷きに」
「俺のせいか?」
草をかきわけ澄んだ音を立てている小川に歩み寄ると、少女は手に持っていた花房を
せせらぎの上に浮かべた。
花は挨拶をするように一度回ると、舟のようにするりと水の上を流れはじめた。
その間、ようやく頭がはっきりしてきたジャルディンは手近な樹に片手をついて、
腕や脚を屈伸させ、怪我や異常がないことを確かめた。傭兵稼業はからだが元手である。
木蔭から振り返ると、水の流れを見ている少女の華奢な背が、陽光に包まれて常よりも細くみえた。
ジャルディンは木の根元に立てかけてあった荷袋を担ぎ、剣を腰に佩いた。
小川の淵から少女を呼び戻すと、彼は大真面目に少女に云い渡した。
「エトラ。前に云っていたように、俺に何かあったら、『ジャルディン・クロウと同じ盃で
酒を呑んだ者』を頼れ」
「ジャルディン、怪我は」
「掠り傷だ」
エトラは軽いとはいえ、人間ひとりを抱えて高所から落ちたのである。
打ちどころが悪ければ頭を打っていた。下が柔らかな草地の斜面でなければ、
こんなすり傷程度では済まなかったであろう。実に莫迦なことをしたものだ。
木登りなど、いい歳した男がやるものではない。少年のなりをしているせいで、ついエトラにも
それを赦したが、これまた嫁入り前の若い娘がやって褒められるようなことでもない。
「せっかく海が見えると思ったのに」
「高いところには二度と登ってくれるな」
念をおしておいた。それには応えず、エトラも自分の荷も担いだ。
馬は少し離れたところに繋いである。
『もしも不測の事態でもあって離れ離れになるようなことになっても、俺を探すな。
その時はジャルディン・クロウと同じ盃で酒を呑んだ者を頼れ』。
以前にも一度そう申し渡した時、エトラはちらっと笑ったものである。
それはそうするとも、しないとも、どちらともとれない笑みだった。
貴方と同じ盃で酒を呑んだ者とやらを、一体どうやって探せばいいのかとも、訊き返さなかった。
男装の上着をひるがえして先に立って歩き出したエトラは、
「ひとりでも生きていけるわ」
唐突にジャルディンを振り返った。
カルビゾンの王女、エトラツィア・シルヴィ・カルビゾン。これが、この少女の名である。
「貴方のお友だちを頼らなくても、私は生きていけるわ」
ジャルディンは頷いてやった。
それはそうであろう。それほどの容貌とカルビゾン王家の血統を持ってしてならば、何処にいようとも
人々が競ってエトラの面倒をみようとするだろう。下心だろうと、利用価値を見込まれてであろうと、
路頭に迷うことはあるまい。
しかし、荷を馬の背においたエトラは別のことを考えていたようだ。
少女はおもむろにジャルディンの眼の前でつま先を立て、もう片方の脚を内側にまげると、
姿勢をすっとのばし、重心を崩さぬままその場で優美に、実にかろやかに、身体の中央を主軸として
鮮やかに一回転してみせた。水の上に回る花のように、虚をつかれた男の前で、続いて、三回転。
闇夜に羽根が舞うような、すずしげで媚のない、動的なうちにも緊張した精神の高さをひそませた
なかなか見事な一幕であった。まるでそこだけに妙なる音楽が鳴り響いているかのように、
金色の髪をヴェールのように揺らし、エトラは踊った。
「楽器も少し弾けるわ。文字を教えてもいい」
エトラは動きをとめた。薄紅色の花の影がその上に降り落ちた。
「この足首に、金と銀の鈴をつけてもいい」
-------それは、踊り子のしるし。
「道で踊るうち、招かれて、どこかの宮廷で踊るかもしれない。踊り子になって評判が立てば、
別れ別れになったとしても貴方は私を見つけることができる。ジャルディン、迎えにきて」
(あの芸人には、褒美を与えて宮殿よりさがらせました)
それで、踊り子は殺されたと知れた。
新しく埋め戻された跡のある後宮のひと隅を掘り返すと、土の下から金と銀の鈴が出てきた。
宴のあの夜、踊り子の足首で凛とした音を立てていた細鎖の輪は、鋭利な刃物で断ち切られていた。
これがわたしの命、これがわたしの命、これがわたしの命そのもの。
羽根のように軽々と、そしてそこに限りない飛翔への憧れをこめて、あの夜若い娘は
鈴の音だけを友にして踊っていた。酒を酌み交わす男たちも、囁きかわす女たちも、
そしてそんな踊り子から眼が離せなかった篝火の蔭の少年も、誰もが怖れる王も、
誰の姿も見えてはいないようであった。これがわたしの命、踊ることこそわたしの命、
わたしから踊ることを奪わないで。
不浄の門へと、少年は歩いて行った。
王の逆鱗に触れた者や、ひそかに殺された者がそこから運び出される大門は閉ざされて、
永遠にそこにあるような、ぬるい風が吹いていた。
思い直して少年は馬を引き出し、王と、王に許された王族の男子にしか出入りをゆるされぬ
大門から後宮を飛び出した。泥のつまった鈴は、握り締めた手の中で、もう二度と鳴らなかった。
「踊り子になっても生きていけるわ」
ジャルディンの前で片脚を大きくひいて、エトラは踊りの終わりを告げるお辞儀をした。
妙に自信があるらしい。踊りはどうでも、その美貌だけで見物人から手堅く小銭は稼げそうである。
男装の踊り子というのはなかなかいける。存外、何処に行ってもやっていける娘なのかもしれない。
「海が見たいわ」
「木には登るな」
ジャルディンは馬に乗った。
港は夕暮れを迎えていた。
夕陽の濃淡に彩られた街路を歩いている黒髪の青年が人を探していることに
気がつく者はいなくとも、海を臨む市場の人波をかきわけているジャルディンの顔には
あせりがあった。
(ハレの港に行くか)
エトラに水を向けてみると、エトラはあっさりと同意した。数日前のことである。
こちらの意図も知らずに、エトラは宿の壁に架けられた古地図を見上げていた。
「海が見える街ならどこでもいい。あなたはその港町に行ったことがあるの」
「ある。その地図ならこのあたりだ」
「ハレ領。古い港なのね」
食欲旺盛なエトラのために、こちらの皿から副菜を分けてやると、それもせっせと食べていた。
そのわりには肉類にはほとんど見向きもせず、巷の女たちのように甘いものを
欲しがらないのは感心だったが、
「肉や甘いものは癖になるから」
男装がさまになるほど細いのに節制しているのだと知り、ジャルディンは厨房に向けて手を叩いた。
「果実のパイをくれ」
「ジャルディン」
「俺は太ってる女のほうが好きだ。豊満で、胸も尻もばんと張った、むっちりとした大柄がいい」
「あそこにいる、おかみさんみたいな」
「ついでに、もっと年増が好きだ」
「ああ、そう」
お上品に果実のパイを口にはこびながら、「思いがけなくも貴方の女の好みを知れて嬉しいわ」、
エトラは壁の地図を見遣った。地図には舷側の孔からずらりと櫂が水面上に突き出た、
古代の軍船の姿が描かれていた。
「ハレの港では、大きな船が見れるかしら」
「軍港じゃないが、貿易用の帆船なら常に停泊している。もとは補給地として栄えた街だ」
「そのまま船に乗って、何処かに行ける?」
「船酔いを経験したらそんな口も利けなくなる」
「太陽と月が青い海原につくる光の道。風をはらむ帆で、一筋のその幻想を渡れるといい」
しげしげと地図の海を見つめていたエトラは、それともあの時には、こちらの思惑に
とうに気がついていたのだろうか。
港の夕暮れは、色街も鮮やかな朱に染め上げていた。
街と海とを隔てる防壁門を超えて港にまで行ったとは思えぬので、このあたりのどこかに
迷い込んだ可能性もある。太陽がとけたような空に背を向けたジャルディンは、
少し戻って坂道をのぼった。
廓街に踏み込んだ途端、化粧の濃い女たちがまたたく間に見慣れぬ顔を取り囲み、
笑い崩れながら黒髪の傭兵の袖を引いた。
「お兄さん。誰かをお探し?」
「俺は太ってる女のほうが好きだ。ついでに年増がいい」
「あら、じゃあ、あたしたちの誰でもいいじゃない」
港街の娼婦たちは明るく笑い崩れた。
影の濃い狭い道の両側には、窓や入り口に意匠を凝らした女郎やがぎっしりと建ち並び、
まだ時刻がはやいとあって、ここを目指して坂道をのぼってくる客の男よりも、
ぶらぶらしている女の数のほうが多かった。
二階の露台に出揃った早出の女たちは下を行き交う男に目配せをしたり、向かいの店の女と喋ったり、
あられもなく前をはだけたまま洗濯物を取り込んだりしている。
着飾りが終わった者の中でも椅子にかけて編み物をしている者や、花に水を遣っている者もいて、
本格的に色街が賑わうには、まだ空が明るかった。
建ち並んだ女郎屋の丘側はもともとは露台から海を望むために少し高台に造られていたそうだが、
百年前の地震により地面が傾き、現在では軒の高さが海側とほぼ変わらない。
それでも伝統的に海が見える側の店のほうが格が高く、いい女が揃っていると決まっている。
しかし勝手知ったる船乗りたちはたいてい両脇の、より暗い路地へと入る。
彼らいわく、
「お大尽じゃあるまいし、高い金を出してまで気取った女のご機嫌をとりたくないぜ」、というわけだ。
それに対抗するように、通好みはそれこそが醍醐味なのだと云い張って
海側の店への贔屓を止めず、意地っぱりな海の男たちに支えられて、ハレの色街は
丘側も海側も、それぞれに潤っているようだ。
勾配のついた道なりに枝道がさらに分かれた魔窟は、夜が更けるほどに別の顔をみせはじめる。
港が封鎖されることでもない限り、港街の娼家が潰れることはない。
それはまるで、飽くことなく口を開けっ放しにしている女が、そうやって待っているような場所、と
隠語のうちに呼ばれている。どこの港町であっても、長く退屈な航海を終えた男たちが、
陸にあがった時にまず財布を握って駈けつけるのが、此処だからだ。
夕空の下に、海風がぬるく吹いた。
紅色の提燈に火がともされる刻が、色街の目覚めである。
娼家の合間には屋台や小料理屋がひしめき合い、そこからおいしそうな匂いが立ち込め、
それは定めしこのようなところを知らぬ少女の眼には、興味深い、
お祭りのような、それこそ幻想の街の一角に見えることだろう。
女たちは概ね陽気で親切なので、エトラがこの界隈に迷い込んだとしても外に誘導してくれるか、
または面倒をみてくれるとは思うのだが、それにしても、エトラは何処へ行ったのだろう。
身寄りのない女とみれば巧みに騙して船に乗せ、異国に売り飛ばすことしか考えていないような人買いが
徘徊しているのが港なのである。ジャルディンの母も、そうやって、海の彼方にはこばれた。
(稀にみる幸運な女だ)
郷里のことはほとんど何も幼い息子に話さない女であった。
教えてもらったことも断片的にしか憶えていないが、戦で破れて奴隷となり、
売り飛ばされて船ではこばれて来たらしい。
そのまま酷使され、死ねば襤褸切れのように棄てられるのがいいところであった或る日、
女の前で脚をとめ、その首鎖に手をかけた王がいた。
植民地を視察中であった若い王は鎖ごとその女を連れ帰り、そのまま後宮にその生涯を繋いだ。
有力な豪族や王族が競って献上する美姫たちがひしめいていたあの後宮で、それがどれほど特殊で
赦されざることであったのか、何度か命を狙われてみて、幼いジャルディンにも身に沁みたものだった。
残虐な王に怯えつつも、その身も心も捧げ尽くして女は逝った。後宮中の女たちから怨まれ、
あのような死に様を晒したとしても、概ねは倖せであったろう。
(幸運な女だ。七つの海にその名をとどろかす、超帝国の王の寵を一身に受ける栄誉に浴すとは)
名もなき女。もはや知る者もいない。
ジャルディンはハレの港の娼婦街を見渡した。ハレは全体的にかなり美しい街ではあるが、
生まれ育った後宮に比べれば、区画のすべてを重ねても第一門の曲輪の規模にも届かず、
ましてやその美麗、その洗練さにおいては言わずもがなである。
海の彼方の王宮に比べれば塵溜めのようなそこにも夕闇がしのびより、
黄昏の空ばかりがまだ明るかった。
「お腰のその剣。あなたは船乗りじゃなさそうね」
「傭兵さん。年寄りなら選り取りみどりよ」
「あんた達に尋ねたい。青い服を着た十六、七の若いのを見なかったか」
「男の子? 女の子?」
「あら、その子なら知ってるわよ」
長い髪に布を巻きつけた女が思いがけず手を上げた。
「ラション家は何処かと訊かれたので、丘の上のお屋敷までの道を教えたわ。
そうよ、見たこともないほど、きれいな子だった」
「金色の髪に水色の眸の」
「連れと市場ではぐれたと云ってたわ。あたし心配だったから、ちょうどそっちの方角に
用事のあった店の下男に送らせたのよ。確かに、その子がラション家の門の中に
入るのを見届けたそうよ」
ジャルディンはその女の手に礼金の硬貨を落とした。もう此処には用はない。
踵を返そうとした傭兵の脚がとまったのは、ふいにこぼれた手琴の音色のせいだった。
「尋ね人はもう何処にも行かない。だから、ゆっくりして行けばいい」
少し早口に投げかけられたそれは、この地方の言葉ではなかった。
もう一度かき鳴らされた樂の音に、女たちが静かになった。音は、燃え尽きようとする空へとのぼり、
雲を弾くようにして、唄のように響いた。
娼楼の前の低い石段の上に、手琴を抱えて坐っている女がいた。
女は琴をつまびく手をとめて、赤い唇をひらいた。夕陽よりもあでやかな色だった。
「懐かしいわね、ジャルディン」
「グリッター」
「その名で呼ばれるのは久しぶり。憶えてくれていて嬉しいわ」
女のまとう薄ものが揺れた。立ち上がった女が黒髪の傭兵の腕をとるのを見て、
群れ集っていた女たちはため息をつき、引き上げた。「グリタンザ姐さんが出てきたんじゃあ敵わないわ」。
化粧をほどこした女は、長身のジャルディンと並んでも見劣りしないほどの背格好があり、
豊かな胸と腰、大腿から足首にかけてすらりとひきしまった脚をもっていた。
尻がみえそうなほどに切り込みの入った衣から大腿を出して、グリタンザはむきだしのその膝を
ジャルディンの脚にすりよせ、腕を引いた。
開かれたままの店の入り口には、海の生物を描いたモザイクの床が濡れたように青く光って
旅人を奥の暗がりへと招いてた。吹き抜けになった通路の奥の四角い窓には、薄暮の海が見えて、
ちょうど一枚の絵画のようにそこだけがくっきりとまだ明るく、沖に停泊している帆船をみせていた。
「いつもはもっと遅く出るの。早出した甲斐があったわ」
湯上がりとおぼしき女の髪は少しもつれたままになっていた。汐風に長くなびくその色は、
日没の空と同じ赤だった。その女の目じりの皺にジャルディンは気がついた。数年前にはなかった。
「俺はお前に金をやったぞ。何でこんなところにいる」
「博打ですったのよ」
「おい」
「ハレの港に、ようこそ」
手琴を小脇に抱えてグリタンザは艶やかに笑い、ジャルディン・クロウを娼家の中へと引き入れた。
差し出された水煙管を傭兵はとらなかった。
半裸のままで起き上がったグリタンザは、「じゃあ、香を焚くわ」香炉を取り出した。
「これは儀式みたいなものね。紫煙の中で、夢をみる」
壁いちまいを隔てて聴こえる娼家の声や物音は、方々でかき鳴らされている樂の音とあいまって、
界隈は明け方近くまで静かになるということがない。
波の音はここまでは届かぬが、夜風に下の通りで売っている魚の煮込みの匂いがほのかに混じり、
鼻腔にそれをおぼえると、いかにも海の町に来たという気がする。
ハレの港町。海の記憶を引きずる者が上陸後にまずさすらう色街は、陸でもない海でもない、
薄紅色の灯りがゆれる、幽明の境だ。天窓からのぞく浩々と輝く白い月が女の指先を照らしつけ、
ほのかに浮かびあがる裸体の輪郭を、香の煙がかすめて過ぎる。こうして狭い個室の薄暗がりに
女と横たわっていると、深海の底にうごめくものになったような気がいつもした。
グリタンザは金には不自由していないようだ。
その長い赤毛を梳く櫛も高価な珊瑚なら、紫煙を細く立ち上げている香も、
見たところ上質の香木のものであり、この室も共有ではなく、専用のものであるようだった。
年上の女はジャルディンの上に身をかがめた。
「ラション家のホトーリオさまは外遊中だけど、明日ならお屋敷にいらっしゃる。ご一家はお変わりないわ。
逢いに行くといいわ。あんたの顔を見たら、ラション家の方々はきっと歓ばれる」
その腿を開くとゆっくりと腰の上に乗ってきた。女のからだは波の上の舟のようにたっぷりとして、
心地よく、すぐに強い大波をはこんできた。互いに想い出すこともあった。
夜半過ぎに短い睡りからさめると、視界に赤い雨が見えた。
背中まである赤毛を櫛で梳かしながら、真上からグリタンザが覗き込んでいた。
「お父さまと同じ」
女の膝に頭を休ませたまま見つめ返すと、グリタンザはジャルディンの髪を撫でながら首を傾けた。
あんたは前にそう云っていた。お父さまも闘いをなりわいにしていたと。
「ご両親のどちらに似ているのと訊いたあの時、あんたは迷わず、父に似ていると。
お父さまも戦士だったと」
この腕のかたちも、浅黒いこの肌も。
黄金の鎧に身を包み、二輪戦車を操って空と大地の間を駈けていた、あの男に。
黒髪をなびかせ、叛逆者や異教徒を容赦なくその剣で屠っていた超帝国の王に。
-----まことによく似ておられます。ほかのご兄弟王子の、誰よりも。
それ故、ジャルディンは色の白い若い女だけは遠ざけてきた。
この腕がべつの男の腕と重なり、女の繊細な肌をさまぐる手があの男のものとなり、
そして身の下ですすり泣いているのは父が愛した女に、女を抱く影に別の男の影が重なり、
莫迦げた錯覚だと知りつつも。
「グリタンザ」
船乗りから傭兵に転身する際、別れ際にジャルディンは有り金の全てをグリタンザに遣った。
「お金なんかもらわなくとも、密告なんてしなかったのに」
珊瑚の櫛を取り上げると、グリタンザは膝の上のジャルディンの黒髪を櫛で梳かした。
出逢った頃はまだ傭兵ではなく、そしてまだ少年だった。昔にそうしてくれたような仕草だった。
「あんたの過去などどうでもいい。悪いことをして海に逃げた少年なんて腐るほどある話だわ。
もうあれから十年以上経ってるのよ。諦めたに違いないわ」
黒髪のひと房には翠色の飾り紐が編みこまれてある。それはエトラが荷の中から見つけ出し、
「貴方に似合う。眸の色と同じだから」、気まぐれにジャルディンの黒髪に結わえたものが何となく、
そのままになっている。本来は女ものだろう。だからグリタンザの眼も笑っている。
エトラは男装を止めようとはしない。せっかくの美しい金髪を短くしたまま、好んで男の姿をしている。
少年に見えるので旅には都合がよかったとはいえ、いつまでもそれが続くわけがない。
口に出して話し合ったことはないにせよ、エトラとてそれは承知のはずだ。このままでいいはずがない。
海が見たいと云うので海に連れて来てやった。もういいだろう。
男の肌に残る霧雨のような汗の名残を、室にくゆる煙がやわらかくつつんだ。
「グリッター。俺はこの街には長居はしない」
「いいのよ」
グリタンザは珊瑚の櫛を床に落とした。
沖合いには帆を巻き上げた帆船が、うずくまる鳥のようにして、夜明けを待っている。
「ジャルディン……」
梳かしたての髪を惜しみなく寝台に乱して、追いつめられた赤毛の女は背をしならせた。
ジャルディンは女の熱い肌に唇をつけた。
>続[U]へ >目次
Copyright(c) 2008 Yukino Shiozaki all rights reserved.