◆二.氷河の谷
下賤な人間に執着する妖魔は、魔族から軽蔑される。しかし、魔族の
長たる魔王だけは別だった。
水晶の塔からバベルを奪い去ったのが、バミューダと呼ばれる魔族と人間の
混血であると知ると、バベルを奪われた魔王はすぐさま居城に戻り、地下牢に捕えて
あったバミューダの捕虜たちを八つ裂きにして、その残骸を野に晒し、報復を誓った。
「バベルを取り戻す」
渦巻く霧に、魔王の声がとどろいた。
「バベルは、余の血を与えた娘だ」
居並ぶ魔物たちの眼が光った。
明け方に降っていた雪は、氷の上に薄い膜をつくっていた。
見渡す限りの白だった。月に来たようだとバベルは思う。氷の星のようだと。
「何をしている、バベル」
凍りついた地面を作具で掘り起こしても、得るのは、濡れた黒土ばかりだ。
バベルに声をかけたのは、親切な牙男だった。牙男は寄って来た。後ろ姿は
人間そのものだが、前から見ると、顎が突き出し、唇からは上下の犬歯が
長く飛び出している。
-----そなたのこの歯は、このままにしておいてやろう
水晶の塔で魔王はバベルの唇をめくり、すっかり退化した人間の小さな犬歯を
おもしろそうに弄った。魔族に下った獣は、隷属のしるしに犬歯を抜かれるのが
決まりだった。
バベルは作具を振り下ろした。ようやく雪の下に何かの根が出てきたが、それは
腐っていた。
どこもかしこも脆弱な、短い爪とよわい膚しか持たぬバベルを膝にのせ、
魔物とも獣とも違うひ弱いそのからだに魔王は飽くことがなかった。ふもとの村から
女を攫わせて来るのとは違い、竜神の娘であるバベルを手なずけ、側において
おくことが、バベルへの所有感と愉快を増しているようだった。
魔王は、足枷がバベルの足首を傷つけているのを知ると、枷の内側に
毛皮を貼らせた。バベルの足首は相変わらず動くたびに擦り傷を負ったが、
閨のうちにそれを掴み上げ、滲んでいる血を舐めとる魔王の接吻は、力をいれぬ
やさしいものであった。
バベルは牙男に応えた。
「食い扶持が増えた分、自分の分は自分で調達しようかと」
「そんなところを掘ったって何も出てこないよ。バベルは、街の子だな」
「二重の城壁に囲まれた、鐘楼の街から来たの」
「運河をめぐらせた城砦都市だな。新しい領主が去年立ったところだ。ついておいで、
バベル。魚が釣れる湖がある。今からそこに行くところだった」
牙男はバベルを背に背負うと、ひとの三倍の速さで雪の山岳を走り出した。
陽が差して、雪の残滓が白く輝いた。雲の上のようだった。
バミューダの戦士たちの根城は、千年氷河の峡谷にあった。
時をかけてはるか彼方の海に向かってゆるやかに流れている氷塊は、地に
おいて白い帯となり、谷間の両崖を削りながら、分厚い冷気をあたりに漂わせる。
魔物たちの多くは、寒さが苦手なのだ。
「この娘は、竜神の末裔のバベルだ。ぼくたちと一緒に戦ってくれる」
水晶の塔から逃げて峡谷に辿り着いた頃には、日も暮れていた。
サイレンは、バベルに手を貸した。バベルは若者につかまって妖竜の背から降りた。
そこは崖に穿たれた、秘密の洞穴の入り口の前だった。
洞穴の中は迷路のように広く、そして鍾乳洞とは違い、どの壁も通路も金剛石で
切り出されたような垂直と平面で出来ていた。
若人サイレンの呼びかけに応えて広間と呼ばれる空間に集まってきたのは
魔族と人間の混血の、バミューダの子どもたちだった。見た目は限りなくひとに近いが、
牙男のように、どこかが異質だった。
「裏切り者。ぼくたちは魔族からそう呼ばれている。そして人間たちからは、魔性の子と」
そのあいまいは、竜神の騎士の血を受け継ぐバベルにとっては、親しいものだった。
竜神の騎士はその数々の武勇と伝説ごといまでも尊敬されていたが、子孫の
絶対数が少ないために、畏敬されるよりは、敬遠されるのが常だった。
混血といっても、魔人とひとの間に生まれた者ほどその姿は人間に近く、
片親を妖獣に持った者ほど、そのかたちは、魔物のおぞましい特徴を備えていた。
彼らの母は人里から攫われて来た人間の女で、これから外れる者もいなかった。
「あのひとは、人間なの?」
バベルが指した男を見て、牙男は首をふった。外見は人間にしか見えなかったが、
その皮膚には、鱗があるのだという話だった。そんなものがたくさんいた。
人間はバベルひとりだった。
根城の洞窟は、氷の崖の下にあった。
水晶の塔とおなじ翡翠や瑠璃色のふしぎな光源にぼんやりと明るい
洞窟には、天井を壊して地上と繋いだ縦穴もあり、かれ井戸の底に降り注ぐ
それのような乏しい太陽の恵みの下で魔性の子たちは地上から持ち込んだ
土をひろげ、囲いの中で乏しい畑もやっていた。
失った白竜のかわりに、バベルには新しい竜が渡された。妖竜はすぐに
バベルに懐いた。竜を飼育する男は愕いた。
「君のもつ、竜神の血に従っているのだ」
バベルは、にび色の鱗を持つその妖竜に名をつけた。バビロンと。
「魔王は追ってくるかしら」
「わからない。来るとしたら、ぼくたちバミューダを絶滅させる気でかかるだろう」
魔物はしばしば、魔族の裏切ものであるバミューダたちを
襲ってきたが、数では圧倒している魔物の盛んな攻勢も、サイレンが
指環をかざせば、それ以上は侵攻してはこなかった。それでもバミューダの
戦士はひとり、またひとりと、個別に斃されていった。
「ああやって少しずつ、ぼくたちの戦力を殺ごうというのだ」
妖魔は寒さに弱い。雪山と氷河がこの場所を辛くも妖魔たちの侵略から
まもってきたのだろうか。
魔獣たちを追い払った指環を握り締めて、サイレンはバベルに首を振った。
「此処が、魔族にとっての聖地だからだよ」
千年氷河の上に黄金の雲が流れる。
空を見上げるたびに、バベルはそれを探したものだ。黄昏刻に過ぎるという彗星を。
魔人サイレンの影を。それを斃せば、千枚の金貨が手に入る。人が魔物の恐怖に
怯えずに暮らせる日がくるのだと。
サイレンはバベルを誘い、根城の洞窟を隠している崖の上にのぼった。
濃紺の空には夕方の風が吹いていた。はるか彼方には氷の山を浮かべた
北の海が、青いかすみとなって、大陸の終わりを告げていた。
「バベル。あの星から、魔族はこの星にやって来た」
夕闇に強い光を放射している金星。
その頃はまだ、赤くかがやく目玉を持ち、口からは焔を吐く竜神がこの地を
統べていた。その翼のおこす風は山河を吹き飛ばし、その鉤爪は掴むもの
すべてを砕き、そしてその巨体で太陽を隠して、毒の息で空を黒く変えたという。
「竜神が斃されると、竜の血を呑んだ騎士たちがこの地を分けた。
彼らは互いに愚かな戦いを繰り返し、二千年のうちにその数を減らして、
やがて自滅していった。ちょうどその頃、魔族は永い眠りから目覚めた。
この洞窟の中で」
夕風にバベルは髪をおさえた。入り日は薄れ、世界は吸い込まれそうな
星空に変わろうとしていた。
「わたしは思っていたわ。サイレンとは、斃すべき魔人の名なのだと。
わたしの地方では昔からそう呼ばれていたわ。あなたのことだったなんて」
「ぼくは追われたのだ。ひとの世界に近づき過ぎて、姿を見られた」
金眸の若者を迎えたのは、武具を手にした人間たちだった。
「ぼくは大勢殺してしまった。ぼくは病に罹ったぼくの母を、魔境から彼女が生まれ
育った村に帰してやりたかった。『お逃げ、サイレン』。深手を負ったぼくを妖竜の
鞍に押し上げて、母は竜からとび降り、ぼくを逃がすために囮となった。
母は彼女のふるさとの人々の手に捕まり、惨たらしく殺されたよ。千枚の金貨が
欲しいかい、バベル。それなら、ぼくは君のために、人間に捕まってもいいよ」
サイレンは、新しい剣をバベルにくれた。
「かつて、この地に生きた竜神の騎士の遺物のひとつだ。この赤剣は、竜神の
騎士の後継である君が持つにふさわしい」
銀河の下、剣は炎の色を撥ね返した。
整然と並んだ、玻璃の窓。壁面を叩くと、壁は金属の音がする。
氷河の下に隠された、バミューダたちの根城。彼らが潜んでいるこの直線的な
洞穴迷路は、かつて金星から星の海を渡った妖魔たちの乗っていた、星の船
だったのだという。
バベルは棺を見廻した。星を渡る旅のあいだ妖魔たちがそこで眠っていたという
氷の褥は、いまは全て蓋がひらいて、孵化したあとの殻のように、あちこちの
室に打ち棄てられたままになっていた。
バベルはサイレンに訊ねた。
「どうして、彼らは金星を後にしたの」
「金星の山々が活性化して、棲めなくなった。高熱に耐え得るものだけが残り、
残りの妖魔は方舟に乗った」
足枷のために傷ついたバベルの足首に新しい包帯を巻いて、サイレンは
バベルを見上げた。金色をした彼の妖眼は、二つの細い月のようだ。
「彼らは望んだ。故郷と、もっとも似た星を。彼らはこの船にそれを命じた。
新天地にわれらを連れてゆけと。そして眠りについた。舵の行方を
見届けることもせずに」
バミューダ。それは、この方舟の船号だった。金星から飛んできたバミューダ号。
妖魔たちにとってこの星は、ふるさとの金星に比べてかならずしも棲み心地のよい
世界ではなかった。金星は熱すぎたが、この星は寒すぎた。
妖魔たちはおのれたちをこの星へ連れて来た方舟を呪った。この星へ降り立った
日を呪った。バミューダの戦士とは、裏切り者の混血たちがこの船を根城にしていると
いうだけでなく、魔族たちが憎々しげに呼び棄てるべきもの、その呪いの対象に
与えられる、永遠の蔑称でもあった。
「ぼくたちは、魔境から逃げてきた。人にも魔族にも属さぬぼくたちだが、
人間だった母親たちが、どれほど人の世界を恋しがっていたかは知っている。
魔族を斃しても、おそらく人々はぼくたちを魔族と数え、そうと見做すことを止めぬだろう。
それでも、ぼくは人の世界を愛したい。妖魔が金星を懐かしむように、ぼくは、女たちが
語った人の世界を懐かしむ。手にとどかぬ星のように、ぼくの憧れのすべてをこめて」
床に膝をつき、サイレンはバベルの傷に巻く包帯の手をとめた。
君は、人間なんだね、バベル。
俯いて囁くサイレンの声は、何かが絡んだように低かった。
粉吹雪の中、哨戒当番に出たバベルとその日組んだのは、一角鬼という名の、
頭に角を持つ大男だった。一角鬼は気のいい男で、その異相も嘆くよりは
むしろ自慢にしていた。
走りにくい雪の上の戦いも、竜神の血を持つバベルにとってはさほど苦ではなく、
器用な牙男が工夫してくれた鋲つきの靴先で雪原を駈けると、岩の上から
飛び降りて、魔獣の退路を絶った。
魔族は寒さを忌避するが、寒さを好む魔物もいる。狼に似た魔獣が牙を剥き、
四つ足を縮め、バベル目掛けて跳躍した。バベルの後を追いかけてきた一角鬼が
大声を放った。
魔獣の鋭き爪と牙がバベルの真横を過ぎた。バベルの手から赤剣が離れた。
それは青空を一回転して、獣の背に跳び乗ったバベルの手におさまった。
後ろむきに獣にまたがり、バベルは暴れる獣の急所めがけて剣を振り下ろした。
「護城兵の役に就いていたの。街に近づく妖魔を始末するのが役目だった」
片端から退治していかないと、魔族はその領域をどんどん人間界に
割り込ませてくるのだ。
それが好物だという魔獣の心臓を生のままで食べている一角鬼の傍らで、
バベルは魔獣の毛皮を剥いだ。生肉を切断し、空に向かって口笛を吹く。
降りてきたバベルの妖竜バビロンに、バベルはそれを餌として与えた。
この凍てついた谷底も、行き場なき者には、安らぎの郷。
「サイレン」
サイレンを探して迷い込んだ方舟の下層部で、バベルはそれを見つけた。
時がきても、何かの不都合で玻璃の蓋が開かぬままだった、氷の棺の幾つか。
その棺の主たちこそは、いまもまだ、金星の夢の眠りの中にある。
氷河の谷に隠された方舟の中には、女たちもいた。
魔人の血を持つ女たちはみな見目がよかったが、人間の女のようなそれではなかった。
女たちは、人間の娘であるバべルに泣き暮らしていた母の姿を重ねたものか、
バベルを人里に還すことをしつこく願い出た。
「いちどでも魔族に攫われた女が、ひとの世界に戻れると思うのか」
そんな際、女たちを遮り、怒鳴りつけて追い払うのは、いつも同じ、青髭の男だった。
青髭は魔属だけでなく、人間も強く憎んでいた。
「バベル。気をつけて。青髭はバミューダの戦士を束ねているサイレンのことが
嫌いなの。だからサイレンが連れて来たあなたのことも、気に入らないのよ」
実際、青髭はいつもバべルのことを見ていた。牙男や一角鬼も、青髭には
近づかぬようにとバベルに警告した。
バべルは気にもしなかった。
帰るところもないために方舟に居ついているものの、青髭はいちど人里から
手酷く追い払われたことがあり、それもあって人間が嫌いなのだ。だから人間の
バベルが方舟をうろついていることが疎ましいのだろう。
「バベルが人界に戻れるものか。何しろ、バベルは魔王のお手がついた女なのだからな」
ことさらに強調し、侮蔑的にそう云ってこちらを見ている青髭のまなざしに滲む
粘っこいもの。それと同じものをバベルは知っている。兵舎でも、同じ手合いの男は
いたものだ。
「サイレンが持っている銀の指輪を、青髭は狙っているの。あれがあれば、彼は
わたしたちや妖魔を従わせることができるから。彼には気をつけてね、バベル」
女たちが編んでくれた防寒服を受け取り、礼を云いながら、バベルは青髭のことは
もう考えないことにした。
それよりも、遠くの森からバベルの為に冬の花を摘んでくるバミューダの子どもたちの
ほうが面倒だった。バベルに付きまとう子どもたちは、人間への撞着そのままに、バベルに
人間界とはどのようなところなのか、魔王に代わる王さまはいるのかと、あまり語りが
うまくないバベルを質問攻めにするのだった。
城砦の皆はどうしているだろう。帰還せぬ一兵卒のことなど、もう忘れたか。
バベルの腕には、兵士の認識番号が刺青されたままになっている。
一角鬼と共に夜警についたバベルは、月光が照らす氷河に、街の運河を重ねた。
二重の城壁に囲まれた鐘楼と運河の街の領主は、その夜、
恐怖の客を迎えた。
野心を抱く若領主は、戦争好きをはじめとするあまたの欠点はあれども、
臆病者の誹りを受けたことだけは一度もなかった。
「どうやって此処まで入ってきた!」
寝所の壁から得物を抜き取り、渾身の力で領主が投擲した槍は、魔人の
片手で掴まれた。青褪めた月よりも、露台に立つ魔人の金色の眸は妖しかった。
「うぬ」
魔人に槍を折られた領主は寝所に控えていた小姓の首がことごとくきれいに
落とされているのを見て、はじめて事態の重さを知ったが、その闘志だけは
いや増して盛んであった。領主は護衛兵の死体から剣をもぎ取った。
剣を持ち出してきた領主の前に、魔人の影が近寄った。優雅なしぐさで魔人は
領主の剣先に指先をかけた。魔人はわざものを手にしてはいなかった。
「ちっぽけな城砦をおさめる者よ。この世界の半分を、お前のものにしてやろう」
尊大に、魔人は領主を見下ろした。領主の剣を指先ではさむと、魔人はそれを
生木のように曲げてしまった。
遠い森から流れる夜風が、領主の驚愕をからかって吹き過ぎた。
「お前を人間界の王にしてやろう。余の妃のひとりを、お前の王妃に据えるのだ。
余は魔王。この星の覇者がだれなのか、これを機会に知るがよい」
「惑わしにはかからんぞ、魔人」
剣を奪われ、領主はさすがに身にふるえが走ったが、数々の下等妖魔をその手で
斃した自信から、剛毅にも持ちこたえ、手近な水差しに駈け寄ると、魔人目掛けて
投げつけた。
「妖魔ぞ。衛兵、衛兵」
叫んだはずの声は、しかし、平生の彼の声とは思えぬほど、すぐにしぼんでしまった。
冷水を苦手とするはずの魔物は、全身ずぶ濡れになったまま、にいっと笑ったのだ。
魔人は樂の音のような声音で領主に囁いた。お前に、余の妃のひとりをくれてやろう。
「その者が余の子を生んでから、お前にその女を下げ渡してやろう。お前の王座の
となりに魔王の王子の母が坐るのだ」
笑う魔王の髪から水が床に滴った。
「魔族の世嗣を生んだ妃を、お前の王妃にすることによって、お前はこの魔王の
眷族となる。魔族をも従える力を持ち、妃を通じて、魔境にも影響を持つだろう」
領主は唖然として魔王を仰いだ。乾いた唇を湿して、領主はようよう云った。
「魔王の、お前の妃をくれるだと」
「お古は好かぬとは云うまいな」
「魔族の女など……」
「人間だ」
魔王は笑った。
「余がお前に与えるのは、人間の女だ」
「……」
「手や脚がなくとも、さして不都合あるまい。二度と逃げ出さぬよう、その者には
たっぷりと行儀を仕込んでから、お前に下賜してやろう。お前がそれを信じるように、
この城砦都市には、明日よりもう魔物が近付くことはない」
喜悦といってもいい笑いをもらしたのは、はたしてどちらか。
やがて領主の居城の上空に妖竜の影が浮かび上がると、月に向かってそれは
吸い込まれるようにして消えていった。
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