◆三.バベル
バベルは方舟の外に出て、雪原のような千年氷河の上を走っていた。
この分厚い氷の河があのはるか高い山脈から少しずつ流れ出し、やがては
遠い海に落ちてゆくものだとは信じられない。もっと信じられなかったのは、
バベルを探して、人間の女がひとり谷をさ迷っていると牙男から訊いた時だ。
わたしはティティア。バベルを知りませんか。
振り向いた牙男の顔つきに怯えて、女はバベルの許へ案内してやると
云う牙男に応えることなく、隠れてしまったそうだ。
「ティティア。わたしよ。どこ」
「バベル」
鐘楼と運河の街から氷河の谷にまでやって来た女は、バベルの姿を
確認すると岩陰から出てきて、バベルに抱きついた。バベルはひえきった
ティティアの頬をさすった。
「どうやって、此処まできたの」
ティティアの肩を掴んだバベルの眼は険しかった。
街から此処までは、馬でも一生分かかるほどの距離があるはずだ。
何よりも、どうやってあの雪山の屏風を女の脚で越えたのだ。いやそれよりも。
「娼家からどうやって抜け出してきたの、ティティア」
女の足首には、足枷がついていなかった。
ティティアは眸を潤ませた。その唇が震えているのは、寒さのせいばかりでは
なかった。やわらかな髪とやさしい声をした、年上の娼婦。バベルの恋人。
ティティアは訴えた。
「突然、領主さまの前に連れて行かれたの。そこには竜騎兵がいたわ。
領主さまは云ったの。お前の友だちのバベルは、とても大切な任務を担っていた。
魔人を追いかけたまま戻らぬバベルは、もし生きていたら、魔城に捕らえられているはずだ。
あの者が魔族に利用され、あの者の口から、この国の機密が知られては困る。
ティティア、お前はこの竜使いらと共にバベルを探し、その生死を確認するのだ」
「機密」
「そうおっしゃったわ。街を魔物たちから護る、大切なことなのだと」
バベルは首をかしげた。
海の妖魔と違い、内陸の妖魔たちは水と寒気を苦手とする。城壁の水堀、
それに街中に張り巡らせた、網目のような運河。街をまもるこの双方を制御する、
水門のことだろうか。
水門の元締めは、城の地下にある。
確かにバベルはその場所を知っていた。だがそれは、城護兵の役に就いた
者ならば誰でも水門の開閉手順とともに知っていることだ。
内陸の魔物が冷たい水を避けるといっても、しかしそれも、決定的な
守備にはほど遠い。好んでは近寄らぬというだけで、実際、人間を愚弄するかのように
冬の河の流れの中を渡ってゆく妖魔たちも少なくない。
「どうして、ティティアが領主からそれを命じられたの。わたしを魔境に探すのなら、
軍隊の出動が適当だわ」
「わからない。けれどきっと領主さまは、わたしなら街から追い出しても惜しくないと
思われたのではないかしら。寄って来る魔人を捕まえて、バベルの行方を聞き出せと
お命じになったわ。竜騎兵の隊長も、若い女の血の匂いに魔人のおとこどもは
寄って来る、おびき寄せる餌として、お前を使うのが丁度いいと」
「嘘がへたね」
バベルは眉を寄せた。そんな甘っちょろい作戦、誰が立てたのだ。
「魔人はその気になれば、いつでも麓から女を攫うわ。竜騎兵に護られた女に
興味など示さない。罠だといっているようなものだもの」
ティティアは「うそじゃないわ」と引き攣った声を突然上げた。
「みて」
ティティアは腕を捲り上げた。バベルは眼を眇めた。女の白い二の腕には、
縛られた縄目の痕があった。
「あいつら、あの男たち、どうせ妖魔に喰われる女だからって、此処まで来る途中の
野営でも、ひどいのよ。隊長もそれを止めないの。笑ってみてたわ。女のこの声を
聴けば魔人もそれに惹かれて森からやって来るだろうと云って」
「ティティア」
「抗ったら雪に顔を突っ込まれたわ。彼らの云うとおりにしないと、食事もくれなかった」
バベルはティティアを抱き寄せた。わたしよりも十も年上のひとなのに、ティティアは
からだつきもその心も、少女のようだ。だから好きだった。
「金貨を千枚もらったら、真っ先にあなたを遊館から身請けするつもりだった。
でもティティア、どうして一人なの。竜騎兵たちはどうしたの」
「魔獣の群れに遭遇して、みんな、わたしを置き去りにして飛び立ち、逃げてしまったの」
うそだ。
竜騎兵はそんな軟弱もの揃いではない。バベルはただちに女の話を心中で
否定したが、女が無事でよかったという想いのほうが強かった。
先輩兵士に連れられて訪れた娼館。新規兵の少女をいちから導いてくれたティティア。
「バベル。わたし、竜に乗って空を飛んだわ」
「うん」
「怖くて怖くて、連中に笑われるくらいわたしを同乗させている竜騎兵にしがみついて
いたけれど、思い切って眼をひらいたら、雲の野原に出たの。夕映えときたら、黄金の
海に漕ぎ出したようだった」
夜の虹をたくさん見たわ、天狼星にまで昇れそうだった。バベル、あなたが教えて
くれたとおり、空には青い清浄があるばかりだった。
「わたしがもう一度見せてあげる。あなたを連れて行ってあげる」
冬空に向かってバベルは口笛を吹いた。
「バビロン、おいで」
空の高いところで鳥を捕まえていた妖竜が、優美に滑空して、氷の原に降り立った。
方舟に加わった新しい人間の女を、バミューダの戦士たちは温かく迎え入れた。
一角鬼が木材と乾いた藁を調達し、牙男がティティアのために人間用の寝台や、
そのほかのこまかな道具を作った。女たちがティティアに防寒用の衣を縫い、人里から
奪ってきた小物を渡した。
青髭だけは気に喰わぬ顔でティティアに文句をつけたが、赤剣の遣い手バベルが
睨んでいるので、表立っては余計なことは何もしなかった。
兵役についていたバベルは何処ででも眠れる。いまは冬眠用の妖魔たちの
棺のひとつを、蓋を開けたままにして使っていた。そういった空き室はいくつもあった。
「バミューダたちが気持ちが悪いの。人間そっくりなのに、魔物とおなじ水かきがあったり
鱗や角があったり。魔人との混血はまだましだけど、彼らはわたしたちとは違う」
「そのうち見慣れるわ。でも今日は、わたしと一緒に眠るといいわ」
ティティアはバベルの棺の中に入ってきた。
娼家でそうしていたように、二人は抱き合って眠った。棺の中も悪くない。
しんと静かで、貝殻の中のよう。このまま氷河の下で眠りつづけるような
安らかな気分だ。
方舟の中は、朝も夜もなかった。竪穴から見上げる星の運行と空の色で
夜明けを知った。
「ティティア。どこ」
或る日ティティアを探していたバベルは、棺の間のひとつで、その姿を見つけた。
ティティアと、尾をもつバミューダの若者のひとりが親しそうに抱き合っていた。
方舟の光源に、女の裸体がぼんやりと青白く浮かんだ。尾っぽのある若者が
何かやさしい言葉をティティアの小さな耳に囁きながら、獣の部分にティティアの手を
触らせていた。
ティティアは怖がらず、若者の尾を撫ぜた。若者がティティアの頬に唇をすべらせた。
水の中で絡み合うもののように、バミューダの若者は女を棺の寝床に横たえた。
「とめないのか」
背後に立ったサイレンの声は静かであった。バベルは無言で首を振った。
「あのひとは、もう自由なのよ」
ティティアはバミューダの子どもたちから、まるで、彼らの母のように慕われていた。
そしてティティアは相手が誰であれ、自分を求める者を断るすべを奪われて生きて
きた籠の鳥。
バべルはおのれの腹に手をあてた。ほっそりとしたバべルにはその変化が
目立つことはなかったが、からだの異変は知れた。煙を咬んでいるような嘔吐感。
「バベル」
サイレンの片腕がよろめいたバベルを支えた。
何ということもなく、バベルの眼からは、涙が零れ落ちた。バベルは通路の壁に
片手をついた。サイレンの金の眸がバベルの顔をのぞきこんだ。
「人里が恋しいのかい」
「バベル」
室から出てきたティティアが愕いて、からだに布を巻きつけ、ほどけた髪のまま、
白い腕でバベルを抱きしめた。
「どうしたの、バベル」
「ティティア」
女のやさしい手を、バベルは自分から払いのけた。バベルは後ずさった。
「近寄らないで。わたしは魔王の子を身篭ってる」
「バベル」
「こないで」
バベルは方舟から飛び出した。妖竜バビロンの背に飛び乗り、天空に舞い上がる。
上空の強い風がバベルの頭の中をうねりとなって渦巻いた。
「待つんだ、バベル」
すぐにサイレンがそれを追った。バベルは氷山の浮かぶ北の海を目指した。
余とそちのあいだに生まれる赤子は、魔族と竜神の血の結合。真紅の魂と
黄金の眸を持つ、この世を統べる強きもの。バベル、そなたをこの星の后にしてやろう。
幽火ただよう水晶の塔の闇の中、なんどそれを結合のうちに聴いただろう。
「呑むがよい」
なんどあの忌まわしきものを呑んだだろう。魔神の血を。
呻きのような悲鳴のような声を上げて、バベルは妖竜をはしらせた。
「バベル。あぶない」
雲の波濤を過ぎ越し、飛び過ぎながら、バベルは下の世界を見た。湾曲した
大陸の果てと、そこへ続く氷の大河、寒々しい三日月湖が見えた。海は一面の
青灰色だった。簡単だ。失敗しない。あそこへ行ってバビロンの手綱を放すだけでいい。
誰にも、もう捕まらない。
「バビロン、バベルを落とすな」
バベルを乗せたにび色の妖竜が蛇行した。鱗あるその翼が右に左に、大きく傾斜する。
妖竜の背に立ち上がっているサイレンの姿が視界を掠めた。サイレンは片手の
手綱さばきだけではばたく獣を御し、上空で立居を保っていた。海がせまった。
「邪魔をしないで、サイレン」
バベルは沖合いを目指した。もっと遠くへ。もう二度と戻っては来れぬ深海へ。
サイレンは片手綱を振りほどき、風に逆らってバベルの竜にとび移った。
バベルから手綱を取り上げたサイレンは、バベルを片腕に抱いて、妖竜バビロンを
おおきく迂回させた。サイレンの妖竜がその後に続いた。
サイレン、サイレン。
バベルは耳が千切れそうな風の中、サイレンの肩にすがり、声を振り絞った。
「わたしは魔王の子など生みたくない」
「その子は、魔族と竜神の血の結合だ。魔王は、きっとその子を次の魔族の長にする。
君の胎の子は、魔神の力と、竜神の力を持つだろう」
「わたしを殺して、サイレン」
古のいいつたえを思い出して、白い雲海を眺めながら、バベルは身震いした。
胎にその気配を感じた時にはもう遅い。ひとの母体が死んで腐っても、魔物の
赤子は墓場から出てくると。
「わたしを、このまま、海に沈めて」
雲の流れる空は、つめたい色だった。いつも思っていた。空はつめたい色をしている。
だからこれほどにわたしの心を裂いて、空は慕わしく懐かしい。
しだいに遠ざかる海を見つめ、バベルは泣き咽んだ。
「もどって。錘をつけて、二度と浮かび上がらぬ、氷の海にわたしを沈めて」
「君を殺させやしないよ、バベル」
「近くの人里に降ろして。そうしたら、その村の人たちがわたしを裁き、どうしたら
いいか決めてくれる」
「落ち着いて、バベル」
「誰かきっと知っている。呪われた赤子ごと、魔物と通じた女を殺す方法を」
血が欲しい。
すすり泣いているバベルの、サイレンにしがみ付く力が強くなった。その細指が
若者の首を抱え込む。
岩崖に妖竜の翼をやすませ、サイレンはバベルを草の上に横たえた。
そこは雲に覆われた、高い崖の上だった。
遠い昔、人間がつくった寺院が廃墟となって残っており、崩れ果てた石壁の
間には、冬枯れの草が小さな露をすずらんのようにつけて雪の中に揺れていた。
サイレンの金の眸が、咎めるようにバベルを射た。バベルは赤い唇をわななかせた。
「バベル。君は、魔王の血を呑んだのか」
「サイレン……」
遺跡に霧が流れた。太陽の光はその霧を透して、淡い金色の帯となって廃墟に
降りそそいだ。
情熱的な恋人のように、バベルは両手をおよがせ、自分がなにをやっているのか
分からぬ者のように、サイレンを苦しく見上げた。バベルは、泣きながらしがみついた。
あなたの血が欲しい。
サイレンは、抱きつかれるままになっていた。男のからだに合わせて少女の
からだがしなり、どうしたらよいか分からないといいたげにサイレンの首に腕を回し、
バベルは途切れ途切れにかれの名を呼んだ。滅ぼすべき災禍の名を。
ふるえる手で、掠れた声で、バベルはそれを求めた。その媚態は、きっと、
水晶の塔で魔王の情けを受けていた時に覚えたものだ。
「サイレン……」
祈るようにバベルはサイレンの首筋に唇をおしつけた。溺れゆくものが懸命に
息を求めてもがくようにして、少女はその唇をサイレンの唇を重ね、むさぼった。
それはバベルにも、もう止めようもない、苦痛に似た渇望だった。身をすりつけて
バベルは咽び泣いた。サイレン、お願い。
「あなたの血が欲しい」
廃墟の石柱にまといついていた霧が晴れた。
サイレンは、金の眸をほそめ、どことなく憂いた様子で「いいよ」と応え、喘いでいる
バベルに口づけを与えた。
バベルが魔王の子を身篭っている。
すぐにそれはバミューダの全てに知れるところとなった。
「その胎の子を殺してやろうか」
青髭がバベルに持ちかけた。
青髭の名のとおり、体毛がすべて緑青色をした男は、バベルの行く手を塞いで、
通路の反対側に脚をかけた。
「知ってるぜ。魔物の子の堕ろし方」
「それに失敗したから、あなた方バミューダの子どもたちは生まれたのではないの?」
ひややかにバベルは通り過ぎようとした。
魔物の子を宿した女たちは、恐怖にかられ、何としてもその子を堕胎しようと試みる。
共同体においては、孕んだかどうかも未定のうちに、魔物に穢された女ごとそれを
屠る手段が選択される。バベルも見たことがある。孕み女の火炙りや、串刺しの刑を。
もっとも有効なのは、極寒の時期に、氷の浮かぶ冷たい河や、冷え切った泥土の
底に母体を沈めることだ。
妖魔たちは寒さを厭い、赤子はさらに抵抗力がないというのがその理由だったが、
大昔にそうやって処分された女の遺体がたまに泥土の中から掘り出されてみると、
どの女の顔も二度と見られぬ苦悶にゆがみ、その腹は内部からの力によって、半ば
裂けていた。
どの刑においても、女が生きたまま、それは行われる。
自害にせよ処刑にせよ、母体に異変があると刑の遂行の前に魔性の子が
胎を食い破って外に出てくるからで、さらには、古い倫理観と迷信を礎とした
共同体の律法においては、たとえ強姦されても女がそれを受け入れなければ
子を孕むことはないとされていたからだ。
受胎こそは、交歓のしるし。胎の子こそは、そのけがらわしい所業の証。魔物と
交わることで悦びを得たふしだらな女にも厳罰を与えるのがふさわしいと。
バベルは淋しく自嘲した。
そのとおり。水晶の塔でも、風吹く遺跡でも、そうでなかったといえば嘘になる。
魔王も、サイレンも、わたしが異種と知りながら、わたしにやさしかったのだから。
「異端とみれば殺してかかる。人間とは残酷で怖いものだな。おれたちバミューダを
生んだ人間の女たちは、孕んだ後も魔城に大切に飼われていたぞ。もっとも、
女たちのほとんどは牢の中で発狂したり、生みの過程の中で死んでいったがな」
「どうやって、お腹の子を殺すの」
「お前のそれは魔王の子だから、ふつうの方法じゃ無理だ」
青髭はにべもなかった。
「たとえ氷の浮かぶ井戸に身を投げても、その子はお前の胎から生きて出てくる」
「どうしたらいいの」
「ついて来な」
罪悪感につけこまれるようにして、青髭の誘うまま、バベルは青髭の後に
ついて行った。
そこは船の最奥部であった。
そこは他の室と違い、地上のように明るかった。そう思えるのは、たくさんの
光源が壁一面に明滅しているからだ。
「ここだけがまだ生きている。船の心臓だ」
祭りの夜に打ち上げられる花火や、夜空の星座を小さくして集めたような箱が
たくさんあった。それらは強弱の火花を放ちながら、いきもののように伸びたり
縮んだりしていた。
青髭は、壁面一面にはしる光を見つめているバベルの両肩に手をおいた。
教えてやろう。どうやったらお前の胎の子を始末できるかを。
「簡単なことだ」
バベルの耳に青髭の息がかかった。押されるようにしてバベルは室の中央に立つ
透明な柱に凭れかかった。バベルの背に、青髭が覆いかぶさった。金や銀の花火が
室一面に満ちて、小さくなったり大きくなったりしている。目眩がする。
「サイレンの持っている銀の指環があればいい」
「指環」
「知ってるだろ。妖魔たちを制する力をもった、あの指環さ。あれさえあれば、魔王も
こちらのいいなりになるぜ。サイレンが好きなんだろう、バベル」
手をついた柱の下部に、そこだけ刀で真横に切り込みを入れたような薄い
隙間があった。何らかの目的で、最初からそう造られているものだった。
柱のこの溝には何がそこに差し挟まれていたのだろう。
「サイレンもまんざらじゃないらしい。とんだお笑い種だ。魔王の子を孕んだ女は、
魔王の許に戻るしかないのにな」
「どうして……」
「魔王の血を呑んだろう、バベル」
どことなく嬉しそうに、青髭はバベルの髪を引っ張った。
「欲しくて欲しくてたまらなくなったろう。もっともあんたの竜神の血が、今までは
それを中和してたみたいだがな。胎の子が大きくなってきたら、さあ、それもどうかな。
あられもない格好になって魔王にそれを懇願するあんたが見てみたい」
「バベル!」
サイレンの声がした。
方舟の心臓部にとび込んできたサイレンは、青髭を突き飛ばし、その手から
バベルを奪った。
「やあ、サイレン」
悪びれもせず、青髭はサイレンの片手にはまっている指環に眼をむけた。
「いま、その指環の話をしていたところさ」
バベルを背後にやり、サイレンは指環を外すと、それを青髭の前に突き出した。
室の中央にそびえ立つ白い柱は室内の明滅を映し、それ自体が光源のように
光っていた。
サイレンは指環を青髭に向けた。
「これが欲しいならくれてやる。バベルには手をだすな」
「冗談」
青髭は両腕を後ろに回して、にやにやとそれを断った。
「おれがその指環を所有したところで、この船の連中はお前に心酔してるから、
誰もおれには従わないさ。それに、その指環だけあっても仕方ない」
「では、この指環をもって妖魔どものところへ行け」
透明な箱や、壁に閉じ込められた花火が、サイレンに賛同するかのように
盛んになった。
「この指環を手土産にして、魔王の許に行け」
ようやく、青髭にもバベルにも、サイレンが本気で怒っていることが知れた。
魔族のしるしである金の眸を苛烈なまでに燃え立たせ、サイレンは青髭に銀の
指環を突きつけた。
「とれ。そして船から出て行け」
「待ってくれ。サイレン」
「バベルはひ弱い人間だ」
サイレンは青髭を睨みつけ、指環を床に叩きつけた。銀の光を引きながら、
サイレンの指環は青髭の足許に転がった。
「人間を傷つけるなというぼくの命令にお前は背いた。拾え。そして船から出て行け」
「サイレン。青髭はわたしに、この室を見せてくれただけ」
二人のあいだに割って入ったバベルは唐突な激情にかられて、サイレンに
向き合った。床に転がっているその指環。その指環があれば、胎の中にいる
魔王の子を殺すことができる。青髭から聴いた話が本当ならば、どうしてサイレンは、
わたしにそのことを教えてはくれないのだろう。
「サイレン」
「君をまもるためだ、バベル」
サイレンはバベルの顔を見ずに応えた。
「魔物の子の堕胎は、ひとの母体には危険すぎる。何人もの女がそうやって死んだのを
ぼくたちは見てきた。青髭に騙されるな。彼は、指環が欲しいだけなのだ」
「違うね」
青髭は唇をゆがめると、諦めた顔になり、床から指環を拾い上げると、それを
サイレンの手に返した。
「おれにはこれは使えない」
バミューダ号を後にする青髭は、謎めいた言葉を残して、肩をすくめた。
「なるほどね。指環がなくても、いまのあんたにはバベルがいるってことか。魔王の子を
バベルに生ませて、その子を魔王に匹敵するバミューダの戦士に育てようというわけだ。
竜神の血は強いからな」
「黙れ」
「バミューダの長。とんでもない。あんたこそは、魔王の息子。魔王と人間の女の間に
生まれながら、父王に叛旗をひるがえした、災禍の王子さ」
「出て行け、二度と顔を見せるな」
「本当のことを打ち明けずして、女を利用しようなんて、ちょっと甘いんじゃないか?」
青髭は船から立ち去った。
箱に入った花火の明滅が、サイレンの表情を隠し、その妖眸の上に別の色を与えていた。
サイレンは青髭が戻した指環を手の平において眺めていた。
「君がいたあの水晶の塔に、ぼくの母も、昔いた」
暗闇にちらちらと光ってまわる金銀の幻燈。サイレンはバベルを見つめ返した。
魔王と同じ、その眸で。
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