◆四.祈りの町
氷の棺の中で眠っていたバベルは、ティティアに起された。
どうしても人里で手に入れたいものがあるのだという。
「入用なものを買ったら、すぐに戻ってくるから」
「では、ティティアはそのまま人間の世界に戻ったらいいわ。遠い街に
降ろしてあげる。せっかく娼館から出られたのよ。ひとでなしの領主の
許になど戻ることないわ」
バベルの弁に、ティティアは首を振った。バベルもすぐにそれは
無理であることに気がついた。一度でも魔界に踏み入った女が人の
世界に戻ることはゆるされない。
「ティティア。ごめんね。わたしのために」
「どうしてバベルが謝るの」
牙男が作ってくれた櫛をつかい、いつものように、ティティアはバベルの
髪を梳かした。
それから或ることに気がついて、二人は顔を見合わせた。
「お金ならあるよ。行き倒れた人間たちの荷物に入っていたものだ」
牙男がくれた革袋には、硬貨がぎっしり詰まっていた。
「人里に降りるなら、旅人のふりをして、目立たぬようにするんだぞ」
「バベルとティティアが人里に行った?」
牙男からそれをきかされたサイレンは空を仰いだ。妖竜の影はもう見えなかった。
「山脈越えをして、運河と鐘楼の街からは山ふたつ離れた、同じ領主が
おさめる小さな町に行くと云っていたよ。そこには、霊験あらたかな寺院が
あるそうだ」
「ティティアがそれを決めたのか」
サイレンはもう一度、空を仰いだ。
「サイレン。どうした」
「嵐になる。ぼくが戻らなければ、一角鬼をバミューダの指導者に」
サイレンは鋭く口笛を吹いた。雪を巻き上げて、妖竜が氷河の谷に降り立つ。
サイレンを乗せて、妖竜は空に翔け上がった。
空を飛ぶことはもう怖くないわ、とティティアは竜の鞍の上でバベルに
しがみついた。
雲の上に出たバベルは遠方に眼を凝らした。快晴だったが、この大気の
流れには嵐の気配がある。方舟に戻るまで天候が持ちこたえてくれるといい。
「もう竜も、バミューダも怖くないわ」
「あいかわらず、ティティアは嘘がへた」
「そんなことないわ。尾っぽのあるバミューダの若者が、わたしに夫婦になろうと云うの。
もう少しでわたし頷きそうだった。彼は、人間とほとんど変わらないのだし」
「尾っぽの彼と仲がいいのに、いやなの?」
思いがけなくティティアがバベルを振り返り、バベルに接吻した。そういうことか。
「はじめてバベルが遊館に来た日のことを忘れないわ」
うっとりとティティアは回想した。
「お店の中で喧嘩をはじめて、とげとげしくて、いったいこの女の子はどうしたの
かしらと思ったわ。でもそのうちすぐに気がついたの。バベルはいやな客からわたしを
庇ってくれたんだってことに。その晩、その女の子がわたしを指名してくれた時
とても嬉しかった。少年のようにかわいくて、あら変な比喩ね、とにかくかわいかった」
山脈を越えて大河と森を過ぎ、寺院の伽藍が見えてきたところで、バベルは
妖竜を山の峰の陰に下降させた。
「ここから下山して歩きましょう。日が暮れるまでには戻って来れるはず」
外套の防寒頭巾を頭からかぶると、バベルは竜をそこに残して、ティティアと
雪の吹き溜まりのできた山道を下り始めた。
ティティアが買い物をしている間、バベルは町の広場で待っていた。
四方を山に囲まれた山間の古い町だ。灰色の石を積上げた寺院は何百年という
年月に黒ずんで、目立たぬ格好をした巡礼者たちがその前を行きかっている。
噴水を囲む枠に腰を掛け、バベルは屋台から買ってきた久しぶりの
人間らしい食事をとっていた。生肉が食べれないバベルとティティアのために
バミューダの子どもたちは気を遣って食材を集めてくれていたが、こうして小麦の
麺麭と葡萄酒を口にすると、今までどれほど人間らしい味覚に我慢を強いて
いたのかが、身にしみてわかる。
外套の頭巾からのぞく町の人の素朴な営みも、しみじみと懐かしかった。
やはり、ティティアは人の世界にかえそう。
俯いて、バベルは麺麭を齧った。
魔王の子を孕んだ自分は無理でも、ティティアは人間の中にいるのがいい。
城砦都市と同じ領主が治めるこの町は無理でも、もっとずっと遠く離れた、
よそ者が多い大きな街ならば、流れ者のティティアもそう不審に思われずに
受け入れてもらえる。ひどい雇い主や非情な夫から逃げてきたとでも云えば、
篤志家が面倒をみてくれるはずだ。
ティティアの帰りは遅かった。久しぶりの人里に、心が弾んでいるのだろう。
凶作をこうむった村から子供の頃に売りに出され、十年以上も娼家にいた女なのだ。
魔王の子さえ身篭っていなければ、このまま何処かに二人で住み着いて、
ティティアの為にはたらいて暮らしてもよかった。
噴水の水がとまった。
頭巾をかぶったまま、ぼんやりとしていたバベルは、広場から人がいなく
なったことに気がつくのが遅れた。
「バベル」
聞き覚えのある人間の男の声だった。
「バベル。バミューダの子どもたちの根城にはもう戻ることはないぞ」
顔を上げたバベルの頭巾が左右を固めた兵士の手で取り払われた。
鐘楼と運河の街の、城砦都市の領主がそこにいた。
「領主さま」
「女を立たせろ。外套をはぎ、武器を取り上げろ」
それはただちに実行された。兵士に腕をとられて領主の前に突き出された
バベルを領主は無遠慮に眺めた。
「やせっぽちな娘だ。バミューダどもはお前にろくなものを食わせなかったのだな。
腰もほそい。とても孕み女には見えん。しかし、かわいい顔をしている」
領主の手が、バベルの頤をつかんだ。
「なにをする」
「それが未来の夫君に対してきく口か。元気だけはあるようだ」
豪快に領主は笑い、兵士が取り上げたバベルの剣を検分した。
「これはバミューダの鍛冶屋がこさえたものか。刀身が赤いとは珍しい。
吸い付くような輝きをしているな。わたしの宝物の一つに加えよう」
領主は鞘に刀身をおさめた。その機をバベルは逃さなかった。
両側にいる兵士の腕を逆にひねり、足先で領主の手にした剣を蹴り上げると、
後ろに跳んで、落ちてきた剣を掴んだ。
「やるな。ではさっそく、じゃじゃ馬ならしといくか」
好戦的な領主は大喜びして、自らの剣を抜き放った。バベルは広場を見廻した。
兵に囲まれて、完全に退路を絶たれている。
「領主さま。あなたがわたしの処に寄越したティティアはどこです」
「あの女は役に立ってくれたぞ」
領主はバベルに向かって剣を突き出した。バベルは赤剣の先で領主の
剣を撥ね退けた。ほそい路地からティティアが兵に囲まれてまろび出てきた。
「ティティア」
「バベル」
買い物かごを持ったティティアはぶるぶる震えて、両手を胸の前で揉み
絞っていた。
「領主さま、話が違います。お約束どおりバベルを連れてきました。
彼女をこの町に連れてくれば、バベルの罪は不問だとおっしゃいました。
はい、確かにバベルは魔王の子を身篭っております。生まれる子は、
魔王の力にも匹敵する強い兵士になるはずです。領主さまの御許で、
領主さまがそのようにその赤子をお育てになるはずです。その代わり、
バベルは殺さぬとおっしゃいました。バベルはゆるすとおっしゃいました。
これではお話が違います。バベルを傷つけないで下さい。剣をお収め下さい」
「この小娘のほうから先に抜いたのだ」
大股に領主は間合いをつめて、バベルに打ちかかった。戦好きを
自称するだけあって領主はたいへんな剣豪であった。バベルが竜神の
血を引く娘であることを知りながら、彼はバベルに負けるとも思わず、
怖れもしなかった。バベルは噴水の淵に追い詰められた。
「逃げて、バベル」
ティティアは悲鳴を上げた。
「安心しろ、売女」
領主は舌なめずりした。バベルは眼をほそめた。相手が領主なので遠慮して
いただけなのだ。
「五体満足なこの娘の姿を見るのもこれ限りかも知れぬので、少しは愉しみたいだけよ」
「ティティアをはなせ」
領主の剣の下をかいくぐったバベルの剣先が、眼にも留まらぬ速さで
領主の喉許にぴたりとあてられた。バベルは広場を取り囲んでいる兵士たちにも
それが見えるようにした。
「ティティアをはなせ。領主さま、わたしたちに構わないで。もう二度と人間界には
近づかないと約束するわ。だから、わたしたちを放っておいて」
「ははは。惜しいな。いい腕をしているのに、次に逢える時には、お前はお人形さんに
なっているとは。だが構わんぞ。それに不憫でもある。たくさんのおべべを用意して
着せ替えてやる。宝石で飾ってやる。お前はわたしの王座の隣の、王妃の席に坐るのだ」
ぬるい風が広場に吹きすぎ、日の傾いた空が暗くなった。嵐になる。
バベルは口笛を吹いた。届くだろうか。すぐに空の上から妖竜の強いはばたきがした。
バベルはそれを待っていた。しかしそれは山の峰においてきたバベルの妖竜バビロン
ではなかった。ごうっと強い風が吹き荒れ、噴水盤の水が波立った。
「サイレン」
「バベル!」
それは追いかけてきたサイレンだった。
舞い降りてきたサイレンは妖竜を広場すれすれに旋回させると、竜の翼と鉤爪で
包囲していた兵士たちを片端からなぎ倒した。
「乗れ、バベル」
「待って。ティティアが」
頭を抱えてうずくまっている領主の背を跳び越えて、バベルはティティアを探した。
兵士たちはおおかた竜に吹き飛ばされて、立てる者も、路地に逃げ込んで
しまっていた。
「ティティア」
足許に、ティティアの買い物かごが転がっていた。蓋があいて、かごの中身が
石畳にこぼれ落ちていた。ティティアがバベルのために欲しがったもの。
霊験あらたかなこの町の寺院の、安産のおまもりの鈴。
「バベル」
地に転がった鈴が風にふるえて小さな音を立てた。
忘れようもない、低くひびく、楽の音のような声がそれにかぶさった。バベルは
ティティアを捕らえているそのものを見上げた。ティティアは気絶していた。
あたりは夕闇に暗くなり、にわかに湧き上がった黒雲と湿気た風が、山に嵐の
おとずれを告げていた。
「ティティア……」
意識のないティティアのやわらかな髪が風に揺れた。風には、きな臭い匂いも
混じっていた。なにかが燃えている。この町を囲む山々が燃えている。
人々の絶叫が最初に山肌をふるわせた。火事だ。
変事を告げる鐘の音の連打の中、魔王は、片腕に意識のないティティアを抱え、
バベルに手を差し伸べた。町が燃えている。
「来い、バベル」
炎の冠のように、山火事は町を包囲していた。町はみるみる燃えた。強まる風に
大量の火の粉がどうっと広場にも流れ込んできた。
「バベル!」
魔王に怯えて動かぬ妖竜の背から、サイレンは懸命にバベルを呼んだ。
指環の力で下等妖魔どもを撥ね退けながら、サイレンはバベルを呼んだ。飛獣は
標的に群がる蜂のように、空中でサイレンを押し包んだ。
「ティティアはあきらめろ。魔王に下っては駄目だ、バベル」
「サイレン。お前にかわり、お前の父たる余がこの村に復讐をしてやるぞ」
魔王はサイレンに向かって云い放った。逃げ惑う人々は、逃げ場をなくし、
四方から押し包む山火事の焔と煙にしだいに呑まれはじめていた。山から吹き付ける
熱気が自然発火をひきおこし、人々の衣服や髪がまず燃えた。高熱に窓が割れ、
強風と熱の流れによる上昇気流が竜巻と火柱を生み、通りに出た人間は塵のように
その渦に巻き上げられた。
引き攣った悲鳴や、生きながら焼かれる呻きが大気をふるわせた。焔はますます
轟々と高くなり、焔は町に向かって鉢の底に向かうなだれのごとく押し寄せ、熱と煙が
そこに密閉の蓋をした。親とはぐれた子どもが泣いていた。お母さん、お母さん----。
サイレンは青褪めて、魔王を睨んだ。
夕闇と火炎のあかりに半身を浮き立たせ、魔王は哀れむようにサイレンを見上げた。
「この村で、お前は母を失ったのだ。お前の浅慮で水晶の塔から連れ出した女だ。
この村のものどもがお前の母を惨殺したのだ。この広場をあの女の血で染めたのだ。
そのことをお前も忘れてはおるまい、サイレン」
「ぼくの罪だ」
サイレンは唇をかみ締めた。
「あれは、ぼくの罪だ。母を殺したのはぼくだ。この村の人々は、関係ない」
「人間を庇うのはバミューダの特徴だ。その指環。それは余がお前の母に
与えたものだ。その指環こそは、お前が余の息子たる証だ」
「魔王。用があるのは、ぼくのはずだ」
吹き付ける大量の火の粉に、サイレンの姿は揺らいでみえた。煙の何処からか、
領主が「撤退、撤退!」と命じている怒鳴り声がしていた。
「この町はもういかん。活路をひらく決死隊を組め、撤退だッ」
「お前が用があるのは、ぼくのはずだ。バベルとティティアを解放しろ」
「サイレン。青髭の話では、方舟の動力はまだ生きているそうだな」
炎の津波に、魔王の妖眼がひかった。
「その指環の持ち主こそが、星の船の主。余の息子にしてバミューダ号の船主よ。
王子サイレン、バミューダ号を動かすのだ」
「それは、できない」
火炎に煽られて妖竜バビロンが叫び声をあげた。上空で妖竜の手綱を懸命に
手繰りながら、サイレンは首をふった。業火は小さな町を天火の地獄と変えていた。
「あの船はこの星を変えてしまう。それはできない。魔王、氷河の底から船を
見つけたぼくは、お前にそれをさせないために、バミューダたちを率いることを選んだ」
「裏切り者めが」
「魔王、あの船はもう星の海に漕ぎだすことはない。あぶない、バベル」
燃えながら飛んできた板切れを、バベルは辛くも避けた。魔王のほうへと。
転倒したバベルは、そのまま火影の流れる石畳に膝をついた。逃げ惑う兵士たちに
踏み砕かれた鈴は、もう音を鳴らさなかった。
「ティティアをはなして」
竜神の娘は魔王の前に這いつくばった。たとえ今さら剣を腹に突き立てたとて、
魔物の子は生まれてくる。それに、さっきからのこの喉の渇き。覚えのある、この悪寒。
足許にひれ伏し、臓腑を火の粉で焼かれているかのような強い飢餓感に喘いでいる
バベルを魔王の金眸が見下ろした。
「つらいか、バベル」
「魔王。その人を、ティティアをはなして」
「逃げるんだ、バベル」
「魔王。ティティアをはなして。サイレンを逃がして。何でもするから」
「魔物の子は成長が早い。そちと余の子は、あれなるサイレンのような反逆者には
なるまいぞ。バベル、お前ももう逃げることはない。余の血を呑み、この女がいる限りはな」
腕の中にティティアを抱え、魔王はしもべたちにバベルを捕らえさせた。
「バベル!」
「そこで余の復讐を見届けるがよい、サイレン」
黒々と、魔王の怪鳥が空に舞い上がった。
前鞍にティティアを横たえ、バベルを乗せた魔物たちを従えた魔王は、劫火に
沈みゆく祈りの町を上空から睥睨し、煙火に隔てられているサイレンに云った。
「そこで見ているがよい。お前の母を殺した人間どもが焼かれゆくさまをな。指環は大切に
持っておけ。バベルに子を生ませた後に、バミューダどもの始末は考えよう」
「魔王!」
「お前のこともな、サイレン」
祈りの町から飛び去る妖魔たちには、地上の地獄など、枯葉がいちまい燃えて
いるほどの瑣末でしかなかった。彼らは燃え盛っている山から立ち去った。
「バベル!」
嵐の後には、豪雨がおこった。
バベルの名を呼ぶサイレンの声は、祈りの町の消滅と共に、山の底に遠くなった。
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