[金星のサイレン]
******************
Yukino Shiozaki

>TOP >完結小説倉庫


◆五.月下の空戦


 魔王はバベルを水晶の塔ではなく、分厚い霧が渦巻く魔界の奥処の
魔物の城へと連れ帰った。
 バベルは黒曜石の壁に囲まれた室に閉ざされた。そこには青白く燃える暖炉と、
天蓋つきの大きな寝台のほかは、窓もなく、扉もなかった。
「ティティアは無事?」
 バベルはそれしか訊ねなかった。それは魔王の訪れごとに繰り返された。
魔王は窓も扉もないその室に、いかなる魔力をもってか、音もなく出入り
するのであった。
 魔王はバベルにもはや枷もつけなかった。ティティアがその代わりであったから。
 黒曜石の壁に囲まれたその室の床には、柘榴の種を散らしたような一面の
さざれ石が敷き詰められていた。それは囚われた人間が逃げようとすれば
その音でそれを知らせ、その足を傷つけ、外にいる見張りの妖魔にそれを
知らせるのだった。
 かような用心をしなくとも、バベルは他へは行かなかった。
食事も魔王の腕の中でとり、水も魔王の差し出す盃からのみ、その眠りも魔王の
ものであった。
 あいかわずバベルの腹はふくらみがなかったが、魔王は毎晩のようにそれを
確かめにきた。そのからだも、ようやく新月の弧を描くようになった。
 魔族の胎児ははやく成長し、はやく生まれる。ほどなくしてバベルはその時を迎えた。
みどりごはすぐに魔王に持ち去られ、バベルはその姿もみることが叶わなかった。
疲れきった頬を伝う涙は、聴いたか聴かなかったかの赤子のうぶ声であり、
何もかもが夢の中で過ぎ去ったような脱力感と、空疎だった。
 植物のようになったバベルを、魔王ははじめて城の高座へと連れて行った。
雲の上に突き出た天守は霧の上であり、そこからは星の運行と、陸地の果てと
海原がくまなく見渡せた。バベルは魔王の肩に抱き上げられてそれを眺めた。
 魔城の天守の中心部には、バミューダ号の心臓部で見たのと同じ雪を固めた
ような白い柱が立っていて、そこから放射される光により、森林や、見たこともない
砂丘が、色のついた影となって壁に揺れ動き、室内にいるのに星空がバベルの
見上げる天井に広がることもあった。
 魔王はティティアも牢から出した。
 魔力によって天守に生み出された夕方の海で、砂浜に身をかがめ、波打ち際で
貝殻を拾っていたバベルは、ティティアを見ると、ようやく少し生気を取り戻した。
 バベルはティティアに集めた貝を渡した。
「首飾りにして」
 それは地上のいかなる貝殻とも似ておらなかった。ばら色や銀色に輝くそれらの
貝殻は、金星の海のものだった。


 夜空にたくさんの怪鳥の影が浮かび上がったとみるや、それは整然とした
編隊となり、空を覆いつくした。
 棲み分けができているのに、どうして魔族はバミューダに攻撃を仕掛けるのかと
ふしぎであったことは、バミューダ号の秘密と共にバベルにも知れることとなった。
 氷河に沈んだ魔族の聖地バミューダ号は、心臓部がまだ生きていた。そこに
棲みついた混血たちをバミューダの子どもたちと呼んで憎むと同時、魔王は船を
奪還したいのだ。
 指環の主が、船の主。そして王子サイレンは魔王を裏切り、船を渡すまいとして、
バミューダを率いて魔王に抵抗している。
「卑怯者」
 罵るバベルに、魔王は赤剣を渡した。
 バベルのための妖鳥が魔城の天守に寄せられて、繋ぎとめられていた。
「魂を取り戻したな、バベル。そなたが戦果をあげて帰ってくるまで、ティティアは
大切にあずかっておくぞ」
 ティティアは立つこともできぬ狭い檻に入れられて、天守の天井から吊るされていた。
 鳥かごのようなその檻の中から、ティティアは格子を両手で掴みバベルに懇願した。
運河の街でもそうしていたように、明けない夜を待っていた。
「わたしのことはいいのよ。バベル、彼らと戦わないで。そのままバミューダの
人たちの処へ戻って」
「凛々しきいでたちぞ、竜神の騎士よ。バミューダを殺せ」
 無言で魔王の手から赤剣を受け取り、妖竜に乗ったバベルは、鞍の上から
魔王を振り返った。
「わたしにして欲しいことを云って。それをするから」
「サイレンを殺せと命じれば、それを果たすのか?」
 からかうように魔王は笑い、妖竜のあしから鎖と留め具を外した。
 魔王はバベルに命じた。その金の眸は、サイレンのものと同じだった。
「方舟は余のものだ。指環とともに、王子サイレンを捕らえよ。生かしてな」
「それがお望みなら」
「余の息子は強いぞ。サイレンに一太刀なりと浴びせることがかなったら、
ティティアの檻にもう少し余裕をやろう」
「バベル」
「待ってて。ティティア」
 鬼火をかき分けて星空の高みに踊り出たバベルの後方から、ぴたりと
魔獣の翼を張りつけたのは、氷河から追放され、バミューダの内部情報と
引き換えに魔族の仲間に戻った青髭であった。
「お目付け役ってとこだ」
 怪鳥の編隊に続いて上機嫌に雲を翔けながら、青髭はなれなれしく
バベルに話しかけた。
「船は確かにまだ生きていることを、魔王に教えた。密告したのはそれだけだ。
バベル、サイレンは殺すなよ。サイレンにしか船は動かせない。指環ごと生かして
捕らえよとの魔王のお達しだ」
「あの指環がなにか、青髭、あなたは知ってるはず」
 バベルの問いに青髭は肩をすくめた。
「あの指環は、星船バミューダ号の動力をおこす鍵さ。船だけでも
指環だけでもいけない。たとえ魔王があの指環を使っても船は動かない。
昔、あんたと同じように水晶の塔に閉じ込められていた人間の女がいた。
魔人は人間の女のやわらかな膚を愛でるのが好きなのさ。魔王の寵愛かぎりなく、
魔王はその女に指環を授けた。女はそれが何か知らなかった。何か知らぬまま、
魔王との間に生まれた混血の王子にそれを与えた」
 望郷のあまり病にかかった女は、やがてその故郷で人間たちに殺された。
あとには、王子と指環が遺された。
「だが少年はその指環が何かを知っていた。彼は母からきいていた。星空を
飛ぶことがかなう指環なのですよと」
 月あかりに山脈の尾根が白々と何処までも伸びていた。風の流れに悠々と、
怪鳥の群れは妖魔を乗せて夜をわたり、その影は獣の移動の群れのように
下界の峰を走った。戦場の空でバベルはいつも思う。この空のどこかに、魂の
霊苑があるといい。それなら、その門をくぐるために、わたしはこうして空を飛び、
何でもしよう。
 灰色にかがやく月下の雲が、浮島のように空を流れていた。
 この飛行の厳粛までな静謐と、その後に続く戦いとの落差には、ひたすらに
魂をけずられる畏怖と戦慄のほか、何の違いもない。

 山おろしの風が吹き付けてきた。青髭は風からバベルを庇い、風上にたって
月光の照らす山間をすり抜けた。
 寒さを苦手とする妖魔たちである。飛獣を操っているものも、その種族が
限られていた。
「魔王の王子サイレンは、妖魔たちが近寄らぬ氷河の谷にその船を見つけた。
船は長い間、崖下に埋もれていて、その上を氷河が覆い、天然の要塞となっていた。
彼は内部に入り、船の心臓部に辿りつくと、指環をつけたまま制御板に手を触れた。
この瞬間、船の持ち主は入れ替わった。魔王からサイレンへ。もし他の誰かが指環を
取り戻して船に辿りついたとしても、指環をはめた手で制御板に触れなければ、
船を動かせるのは依然としてサイレンさ。サイレンはそれに気がつくと、制御板を
バミューダ号の支柱から取り外し、隠してしまった」
 花火や星座が光を放っていた船の心臓部。白い柱の下部にあった、刀で
掘ったようなあの薄い溝。あそこに制御板が差し込まれていたのだ。
「魔王もそのことを知ってる」
 吹き付ける風に、青髭の声は遠くから聴こえた。
 たとえ魔王がサイレンを殺し、サイレンから指環を取り戻しても、制御板の
在りかがわからなければバミューダ号は誰にも動かせない。サイレンを
生け捕りにしなければならないのはそのためだ。
「誰も王子が隠した制御板の場所を知らない。バミューダ号の船主で、
銀の指環の持ち主である魔王の王子、サイレンだけが知っている」
「サイレンを捕らえろと魔王から云われたわ」
「制御板と指環さえ揃えば、魔城からでも船の操作は可能だそうだぜ。
もっとも捕まったところで、あいつが制御板の隠し場所を素直に白状するとは
思えないけどな。とはいえ、魔王にとってサイレンは亡き女の面影をやどした
息子のはずだ。なにしろ、水晶の塔に幽閉していたその女が人間に殺されてから
あんたが来るまで、あの塔は無人のままだったほどだ。サイレンに対する魔王の
気持ちは、愛憎なかばってとこじゃないか」
 雪に覆われた針葉樹の森の上空を通過しながら、バベルは祈りの町を
思い起こしていた。サイレンが母を失った町。魔王がサイレンの前で寺院の
伽藍を崩し、焼き払ってみせた町。
「どうして、魔王は船を欲しがるの」
 魔王はあの船を手中にし、何をしようというのだろう。
「きたぞ、バベル」
 遠くかすかに、北の海の水平線が、漆黒の影となって見えてきた。
 魔鳥たちが左右に分かれ、二列横隊となる。現れたバミューダの迎撃隊は
枝を裂いたような裾ひろがりの三角編隊。妖眼の彼らは夜でも眼がみえる。
竜神の娘バベルも夜目がきく。月光に照らされた雲がこれだけ流れていれば
視界がきかぬということはない。そして、バミューダ隊の先頭には、サイレンの
姿があった。真っ向からぶつかる路にいる。
 月の光を跳ね返す妖竜のうろこは、飛んでくる星のようだった。
「会敵。バベル、陣頭にサイレンだ。お前のバビロンに乗っている」
「わたしがやる」
 妖竜の手綱を片手に巻きつけ、バベルは妖竜を前に出し、赤剣を抜いた。


 翼を傾け、バベルの竜はサイレンの妖竜を掠めた。
妖竜バビロンが吼える。サイレンは反転して戻ってくる竜の乗り手を認めた。
 愕いてサイレンが叫ぶ。
「バベル」
「バベルは、魔城にティティアを人質にとられてるのさ」
 青髭は高みの見物を決め込んで上方へ昇り、衝突を始めた魔獣たちの戦いの
雄たけびに負けじと声を張り上げた。それだけじゃないぜ。
「バべルは魔城で魔王の子を生んだ。魔族と竜神の婚礼だ。その王子は
誰よりも力を持つだろう」
「バベル」
 サイレンがバベルを避けて、妖竜バビロンを操り大きく斜めに逃れる。
はね風が耳の後ろに切れてゆく。バベルはサイレンを追って竜の頭をまわした。
妖魔に斃されたバミューダが墜落して視界を過ぎ、竜の肉片が石のように落ちた。
やかましい羽根音が一帯の空域に立ち込め、うろこと生臭い血が月下に飛び散った。
「バベル。魔王が君を戦場に寄越したのか」
「わたしと一緒に魔城へきて、サイレン」
 バミューダの戦士が放った矢をバベルは剣で打ち落とした。「やめろ」と
サイレンが弓兵にそれを止めさせる。
「バベルに従い、魔王に下れ、サイレン。指環を魔王に渡し、バミューダ号を
魔王に献上しろ」
「サイレン、わたしがあなたの助命を魔王に願うから」
「父が、人間である君の頼みをきくと思うのか」
 しずかな怒りを金の眸に湛えて、風の中、サイレンはバベルを見返した。
「母を水晶の塔に閉じ込め、その衰弱を知りながら塔から出さなかったあの魔王に、
君の頼みがとどくと思うのか。こうして君を戦いの場に出すような、あの魔人に」
 バベルはサイレンに応えなかった。もはや、話すこともない。サイレンを捕らえ
なければティティアが殺されるのだ。それ以外のことを思い煩っても、もうどうしようも
ないことだ。
 闇にバベルの赤剣がひらめいた。サイレンは魔王の子。そしてわたしは竜神の娘。
相手にとって何の不足もない。
 牙男と一角獣の竜が二人の間に立ちふさがり、バベルの進路を阻んで、
交互に飛び回った。
「やめるんだ、バベル。ティティアのことはあきらめろ」
「船に帰ろう、バベル」
「お前ら邪魔するなよ。これはいい見ものだぜ」
 青髭は舌なめずりをした。
「サイレンの乗っていえる妖竜バビロンはバベルの竜だ。果たしてバベルに
サイレンとバビロンが斃せるかな」
 斃せる。
 眼をほそめ、バベルは標的を妖竜バビロンに定めた。障害となるバミューダたちを
一刀のもとに進路から退ける。最年少にして兵士だった。生まれながらの戦士だった。
だてに護城兵をつとめていたのではない。
「青髭、サイレンの上空をおさえて!」
「よし」
 山脈の稜線と平行に青髭の飛獣が妖竜バビロンの真上に並び、妖竜に
下降を強いる。舞い上がる雪に月の光が青褪めた虹を生み、妖竜バビロンの
翼が山の尾根にすばやい影をつくった。二尾は戦場から離れた。
「このまま逃げろ、サイレン」
 戦いの喧騒から遠のきながら、青髭がサイレンを促した。
「バベルが大切なら、そうしろ。魔王に捕まったら、お前は制御板の在り処を
訊かれて拷問にかけられるだろう。バベルが苦しむことになる。いけ、このまま
氷河に戻り、もう戦場には出てくるな。お前が出てこないんじゃ、バベルにも
お前を捕まえようがない」
「教えてくれ」
 サイレンは空の上の戦いを振り仰いだ。うろこを光らせて竜が絡み合うさまは
流星群の衝突のようだ。
「教えてくれ。魔王は、父は、バミューダ号がまだ星の海へ漕ぎ出せると、そう信じて
いるのではないのか。それは間違いだ。船は腐って、そんな力はもう残されていない」
「知るものか!」
 山の峰が切れた。星空がぐんと広くなり、眼下に渓谷と広大な森林が横たわる。
大地に走った亀裂のような深い峡谷から黒々とした風が吹き上げ、竜の翼がゆれた。
その崖下から忽然と浮かび上がり、サイレンの行く手を阻んだ竜の影。
邪魔だてする牙男と一角鬼を振り切り、光とどかぬ危険な暗い谷底の狭隘をぬって
高速で先回りしてきたバベルだった。
 高らかにはばたくその影は、月を隠した。
「バベル……!」
 妖竜と妖竜がすれ違った。少女の剣はサイレンの手綱を切っていた。
潔くサイレンは手綱を手放した。結露を撒いたような星の海に流れる赤い
流星は、バベルの剣光だった。
 妖竜の手綱を失ったサイレンは、ついに鞍の上で剣を抜いた。魔王の血を
授かったサイレンは勇猛で強い。それを知る青髭は眼を覆いたくなった。
 空と地の間隙に二頭の影がふたたび迫った。谷底から吹き上がってくる風と
上空の風が相殺されるのをとらえ、戦士の剣と剣が吸い寄せられるように引き合い、
火花を放つ。その音は一度だけであった。青髭が叫んだ。
「バベル、サイレン!」
 バベルの赤剣をサイレンは素手で掴んだ。そして剣ごとバベルを抱き寄せた。
絡まる竜の翼から、ふたりの姿が落ちた。彼らは互いを庇うようにしっかりと抱き合い、
互いを離さぬまま、川音のするはるか下方の冬の闇へと消えた。


 天窓に広がる銀河には、銀を散らしたような星が満ちていた。
 魔城にのこされたティティアは、暗い檻の中でバベルの無事を祈っていた。
 吊り檻は狭く、立ち上がることもかなわなかった。魔王は出ていく時に
ティティアの檻を床に降ろしていたが、檻の鍵はそのままだった。
 月光を照り返して雲が流れた。
 ティティアはびくりと身をふるわせた。誰かが天守にあがってきた気配がする。
人間の女は妖魔たちの好物なのだ。地下牢に入れられていた時にも、魔物たちが
かわるがわるティティアを眺めにきていたものだった。
「近付かないで」
 侵入者を咎めるティティアの声はふるえた。この鉄格子はどこまで安全だろう。
ティティアは格子を両手で握り締めた。影は優美に歩み寄ってきた。魔城の天守に
入れるのは魔王だけのはずだ。
「だれ。魔王のゆるしを得て入ってきたの」
「あなたが逃げるから、魔王は、あなたを檻に入れているの?」
 青い幽火の中に現れたのは、十二歳ほどの、金の眸をしたすらりとした
少年だった。高い襟に囲まれたその面差しには、どことなく親しいものがあった。
「侍女たちが噂している人間の女とは、あなたのこと?」
「だれ」
「あなたが、そうなのですか」
 少年は檻に歩み寄ると、格子を掴んでいるティティアの手に、その手を重ねた。
鋭い爪をあてぬように気を遣いながら、少年は恐怖に硬直しているティティアの手や、
その首筋をそっと撫ぜた。
「すぐに出してあげる」
 檻の中の女をしばらく見つめていた少年は、それから、ティティアの檻を
気にくわなげに一瞥すると、魔王がおろした頑丈な錠を力任せに引っ張った。
ティティアは悲鳴をあげた。
「だめよ。怪我をするわ」
「人間の女は、甘いにおいがするというのは本当ですね。やさしいひと。わたしの母上」
「わたしはバベルじゃないわ……」
 愕然としてティティアに、少年は首を振った。
「天守にいる人間の女がわたしの母だときいています。あなたが、わたしの母上です」
 魔王とバベルの子は片手の動きひとつで、檻の錠をねじ切った。


>次へ >目次扉へ


Copyright(c) 2009 Yukino Shiozaki all rights reserved.