◆六.サイレン
水色の空がみえた。
サイレンの声がした。
バベル。指環をあげる。これは君のものだ。
針葉樹の森から雪が落ち、雪けむりが立った。
バベルは眼をあけた。頭上に朝焼けの空があった。その空に向かって
手を伸ばした。指環の夢をみていた。だが、バベルが両手を空にかざして
探してみても、指環などなかった。サイレンの姿もなかった。何の夢を
みていたのだろう。
深い森の中だった。バベルは河べりの、風のあたらぬ乾いた岩場に
寝かされていた。
近くには赤剣がおかれてあり、怪我には手当てがされていた。
朝日にきらめく森を見廻して雪の踏み跡をしらべると、サイレンのものと、
妖竜のものとがあった。いってしまった。
やがて竜騎兵が降雪の悪路を踏み越えて、バベルの前に現れた。
「おお、バベル」
氷の浮かぶ川の淵で待っていた城砦都市の領主は、担架に乗せられて
森から救出されてきたバベルを自らの駕篭に招き入れた。それは特に
訓練された四頭の竜に前後から綱を引かせて飛ぶ空の駕篭で、専用の
竜の養育と訓練が難しいことから、王侯しか乗れぬ贅沢なものであった。
駕篭は下部がそりの仕様になっており、獣に曳かせてそのまま氷の上を
滑ることもできる。天秤の原理を利用した工人の巧みな工夫により空中でも
駕篭の安定ははかられていたが、領主はバベルの怪我が心配であるようで、
少しでも駕篭が揺れると窓をひらき、専属の竜使いたちにもっと静かに動かす
ようにと怒鳴った。
馬車のような駕篭の内部は暑いほどに火鉢で暖がとられていた。四頭の竜が
同時に地上を離れると、森と河はすぐに遠くなった。
「それ、口にするがよい」
手づから果物の皮をむき、小さく切って、担架ごと座席にはこび込まれた
バベルの口に入れてくれもする。竜神の血はありがたい。子を生むまでは
飢えていたバベルだが、その後は、もう魔人の血を欲しなかった。
「領主さま。どうしてあそこに」
「魔王の使い魔がお前の場所を教えてくれたにきまっておろう」
領主は鼻を鳴らした。
「青っぽい奴だったぞ」
「青髭」
「そう。それっぽい奴だ。ともあれ、お前はわたしの王妃となる大切な身だ。
もう無茶はするなよ。竜に乗ることも禁じる。忘れておるやもしれぬが、お前は
まだ護城兵なのだからな。領主の命令には従えよ」
上掛けをめくって、領主はバベルの腕に刻まれた兵役番号の刺青を指し示した。
バベルは額に手をおいた。沈黙の森に降っていた、朝の雪。
「領主さま」
「なんだ」
「祈りの町は」
「住民全滅で、焼け落ちたわ」
苦々しく、領主は顔をしかめた。
「ひどい有様だった。焼跡に残った死体なぞ、炭の塊でしかなかったわ」
領主はバベルに与えた果実の残り半分にかじりついた。よく見れば、領主の
前髪は部分的に縮れ、その顔にも火傷の痕がある。
「子供のひとりでも助けられはせぬかと、兵を叱咤したのだがな。あのまま
残っていたらこちらまで焼け死んだわ。風向きが少しでも広場に向いたら、
わたしも此処にはいなかっただろう。村の全滅は残念であった」
「よくぞご無事で」
「バベル。魔王の子を生んだそうだな」
バベルは、空を飛ぶ竜駕篭の天井を仰いだ。そこには、太古の竜の姿と、
装飾的な植物文様が絡み合い、古典的な技法を用いて細密に描かれていた。
黒谷の魔城。渦巻く霧とながれる幽火。窓も扉もない暗い部屋。夜ごと現れては
バベルのからだを見ていた金の眸の魔人。
『出て行って。せめて、ティティアを呼んで』
『人間の女の羞恥心とは分からぬものだ。ここで生むのだ。余の見ている前でな』
「バベル」
バベルを、領主はいたわって慰めた。
「悪い夢をみたと思って、すべて忘れてしまえ。何といっても人間は人間の里で
養生するのがいちばんだ。わたしはそう悪い夫ではないぞ」
あまりの皮肉にバベルは笑い出しそうになった。魔物に穢された人間の女が、
領主の妻、世界の王妃とは。
それを何ととったか、領主は「ようやく笑ったな」と安堵をみせた。
「領主さま。魔王と、どんな取り引きしたのです」
「氷河の谷のバミューダの根城から、お前を連れ戻せと。バベルが魔人の子を
生んだ後で、その王子の母たるおなごを人間界の王妃として下げ渡してやると。
ふん、偉そうに」
「そのために、ティティアを酷い目に」
「あの女、いなくなったぞ」
「いなくなった?」
領主は身じろぎしたバベルを、慌てて担架におしつけた。
「夜のうちに、魔城の天守から姿を消したそうだ。お前の生んだ、魔王の王子と
一緒にな。その少年は名をカラベというそうだ。魔族の子は成長がはやい。
カラベ王子はティティアを檻から出すと、ティティアと共に城から失踪したそうだ」
「何処にです」
「わからん」
領主は窓をひらくと、果実の皮と種を窓の外に棄てた。
「カラベも魔物と人間の子、つまりバミューダだからな。二人で氷河にでも
行ったのではないか。ティティアはお前を魔城に繋いでおくための人質だった。
そのティティアがいなくなったので、魔王はひとまずは、バベルは人間界で
静養させたほうがよいという青髭の意見を取り入れて、お前をわたしに預けて
寄越したのだ。城に戻ったら手厚く看護してやるぞ。ひとつ床でな。魔王とひとりの
女を共有するなど、おつな話ではないか。年代記にも特筆させておこう」
「降ろして」
「莫迦を云うな。怪我人が」
からからと領主は笑った。
サイレン。サイレン。
バミューダの子どもたちと、バベルの声が交錯し、また遠のいた。
氷河に白い風が吹いていた。風の彼方には、銀河がみえた。
バベル、君はもう、大丈夫。
燃えてゆく祈りの町の赤黒い焔が、瞼を満たした。
それはサイレンの身を貫き、引き裂き、末端の神経までを焼き焦がした。
繰り返し炎や刃がひらめいた。両手両脚の枷は重く、鞭がふるわれるたびに
魔城の地下牢に血肉が飛び散った。
「さすがは余の息子と、褒めてつかわすぞ、サイレン」
魔王は拷問を中断させ、獄吏に命じてサイレンの枷を解かせた。
石床に崩れ落ちたサイレンを、揺れ動く炎の影が黒く包んだ。
「ティティアを取り戻しに、単身で魔城に乗り込んでくるとは見上げたものだ。
生憎とティティアの行方は知れぬ。人間の女ひとりならば追跡も造作ないが、
カラベが生意気な小細工を敷いて追手を撒いておるようだ」
サイレンには冷水がかけられた。瞼を閉じているその横顔を、魔王は
見下ろした。
「異母弟王子に逢うこと叶わず残念だったな、サイレン。あれは余よりも、
バベルに似ておるぞ」
バベル。
想念の中で、少女のやわらかな唇がサイレンに寄せられた。
満ち足りた、よろこびの霧の中でそうされた。少女の唇がその名紡いだ。
熱い肌をひとつにして、彼を求めて呼んでいた。サイレン。
脳裡にふたたび白い霧が満ちた。
「……」
「何か云ったか」
魔王はサイレンを抱き上げた。その手には、捕らえたサイレンから取り上げた
銀の指環があった。
「サイレン。お前も生みの母のほうに似ておる。水晶の塔の中で泣き暮らし、
嘆きながら、それでも余の血を呑んでいたあの女にな。この指環をやった女だ。
あらためて指環を授けてやろう。サイレン、お前を魔族の次の王にする」
「断る」
掠れた声でサイレンはそれを拒んだ。
魔王は構わず、サイレンに衣を着せ掛けると、その片手を取り上げた。
「サイレン王。バミューダの長にして、魔族の帝王。これでは不服か」
「魔王。あの船はもう動かない」
サイレンは魔王を見上げた。拷問に傷ついても、サイレンは眼の光を
失ってはいなかった。
魔王は血の伝うサイレンの指に、銀の指環をはめてやった。
「氷結の眠りから目覚めた星の船」
地下牢の石床からサイレンを引き起こし、魔王はサイレンを両腕に抱き上げた。
王子を抱いて薄暗い魔城の階段をのぼってゆくその影に、魔族たちはひれ伏した。
「指環があっても、制御板に触れなければ船主の変更は不可能である。
あの船はお前にしか操れぬ。指針柱から制御板を外すとは考えたものよ。
選ぶがよい、サイレン。余に従い船を動かすか、制御板の隠し場所を白状するか」
「あの船はバミューダにとってのふるさとだ。魔族が襲って来ぬ限り、バミューダは
魔族とは戦わない」
サイレンは顔をそむけた。口端から血を流しているその唇が紡ぐ言葉は、力のない、
囁き声でしかなかった。長い間鉄枷で拘束されていたその腕は、指輪の重みにも
耐える力がないかのように、だらりと垂れていた。
「誰かが船を奪う気ならば、ぼくは魔族の聖地であるあの船を、深海の底に
沈めるつもりだった。今度こそ、船が腐り落ちてしまうように」
「あまり滅多な口を利かぬがよいぞ、息子よ」
「バベルは、ぼくの血を呑んだ」
魔王は傷ついたサイレンを魔城の天守に連れてゆき、窓辺の寝台に横たえた。
挑むように、サイレンの金眸が真下から魔王を射た。
「胎の子はお前のものだ。だが、バベルはもう自由だ。此処は、バベルが
居た天守なのか?」
「意識が混濁しているようだな。あの女の面影のあるお前をこれ以上拷問に
かけて苦しめるのはしのびない。余に従え、サイレン。さすれば赦してやるぞ」
「制御板は海に棄てた」
「余の望みを叶え、方舟を操るのだ、サイレンよ」
バベル。君の姿がみえる。ばら色の茜さす金星の海岸で、貝殻を拾っている。
君はもう、大丈夫。
サイレンのひび割れた唇がうごいた。
「ぼくが死ねば、もう誰にも、船は動かせない」
「サイレン」
「船は無人だ。バミューダたちは一角鬼に命じて、氷河の谷から他へ移した」
サイレンは眼を開けた。
「ぼくは金星の夢をみない」
寝台からはね起きたサイレンは、ティティアが閉じ込められていた檻にまで
一気に跳んだ。天守に入った直後から隙をうかがっていたのだ。
サイレンは檻の鉄格子を掴むと、腕に力をこめ、柵の一本をそこから引き千切った。
無理をしたそのからだからは、ぼたぼたと血が落ちた。
魔王は哄笑した。
「サイレン。この父に敵うと思うのか。人間の血をひくバミューダのお前が」
しかし魔王のその手は、剣を抜きはなっていた。サイレンは檻から取った
鉄棒を武器にして持ち構え、足場を変えた。剣と鉄棒が打ち合った。
対峙した二人の眸は、同じ色であった。
魔王は剣を繰り出した。
「息子サイレンよ」
「魔王。あなたにも分かっているはずだ。妖魔を連れて星を渡ったあの船は
氷河に沈んだ時に壊れてしまい、もはや星への航行が不可能であることを。
あの船はふるさとを持たぬバミューダたちにとって、唯一の拠りどころであるという他、
何の役にも立たぬことを」
「動力が生きているとあらば使い途はある」
魔城の天守に、はげしい闘いの音が打ち響いた。サイレンと魔王はそれぞれの
業物を手に、位置を入れ替え、その力を競った。
剣がわりの鋼鉄を振るたびに、過酷な拷問により傷を負っているサイレンは
その身から血を流した。
「バベルがいることを忘れているのではないか?」
魔王の剣の下にサイレンはいなかった。サイレンは身軽に跳び上がると、
魔王の剣を避けて、魔鳥のごとく跳んだ。そうやって魔王の斬り込みを
かわしながら、彼は、着実にある一点を目指していた。
「お前の代わりに、バベルを拷問にかけてもよいのだぞ」
王子を追って、魔王は踏み込んだ。サイレンが剣を受けて飛び退る。
「あの竜神の娘を人柱にしてやろう。お前が余の意向に逆らえば、そのたびに
地下牢でバベルの皮膚を剥ぎ、爪をはがし、その悲鳴をお前に聴かせてやるのだ」
「そんなことはさせない」
魔城の天守に、戦うものたちの強烈な気が満ちた。鳥のようにサイレンは宙を横切り、
魔王目がけて鉄棒を横殴りにふるった。軽々と魔王はそれを避け、月光が二人の間を
青く裂く間にも、互いの得物は眼にも留まらぬ速さで火花を散らし、脳天を衝く激音を
立て続けに放って真っ向から絡み合った。
天守は室内でありながら、その天井いっぱいに夜空の星の運行を映していた。
剣に押されてずりさがったサイレンが息を切らしているのを見て、魔王は
さらに上から圧しかかった。獣の素早さでサイレンは真横にすり抜けてそれを逃れ、
片手を床につくと、遠くへ降り立った。
「サイレン、方舟を人間界に落とせ。この星をわれらのものと変えるのだ」
「この星の大地を干上がらせ、金星と同じ環境にすることがあなたの望みか。
そんなことはさせない」
サイレン。お母さまの故郷は、人里にあるのです。山間の小さな村。
祈りの町と呼ばれています。あなたにも見せてあげたい。町中が薄紅色に
包まれる、お祭りの夜のぼんぼりと、夜空の花火。
「ぼくは知っている。この魔城も、方舟と同じ仕組みを持っていることを。はるか
彼方に離れながら、連動して鼓動し、指環の主を認めることを」
サイレンは天守の中央に立っていた。そこにはバミューダ号の心臓部と同じ、
白い柱が建っていた。その柱とは、水晶の塔の柱とも同じものであった。
闘いながら、少しずつサイレンがそこを目指して向かっていたことに、
魔王はようやく気がつき、はたとその意図を察した。
魔王は唸った。
「サイレン!」
「わが名はサイレン。災禍を招く王子」
サイレンは鉄棒を投げ出し、銀の指環のはまったその手を上げた。
凄まじい形相で雄叫びをあげて、魔王がサイレンに跳びかかった。黒々とした
その影は、天守の天窓にまで伸び上がった。
「まて、サイレン」
「方舟を護る。ぼくの死と引き換えに、バベルを護る」
冴え冴えとした金の眸でサイレンは迫り来る魔王の姿を見つめ返した。
サイレンは指環をはめた手をさっとかかげた。
「バミューダ号の船主として命じる。魔城よ、指環の主に従え」
魔王が掴みかかるより、一瞬早く、サイレンの手が柱に触れた。
魔境におこった轟音と大地震は、魔城の天守の崩落によるものであった。
幽火が吹き飛び、雷が噴火のごとく噴き上がって、青白い炎がぶ厚い霧を突き破って
天空の雲という雲を吹き払った。爆発の衝撃は天地を貫き、山が崩れ、河が溢れた。
魔界を襲った大地震は人間界にも届いた。人々は愕いて家の窓から首を出し、
折れ曲がった針金のような放電が踊っている、遠い、暗い空を見上げた。
玻璃の雨が降っていた。崩壊する天守に佇んで、サイレンは破片に打たれていた。
崩れ落ちるあらゆるものの向こうから魔王がサイレンに手を伸ばしていた。おそらくは、
サイレンの容貌に漂う、女の面影に。
サイレンは指から指環を外し、魔王に返した。その頭上に柱が倒れ、天井と壁と
天守の床が崩れ落ちた。
魔王はサイレンの腕を掴んだ。
「サイレン!」
瞬く間に天守は四方に衝撃音を轟かせながら崩壊し、破滅の炸裂は竜巻となって
雲と霧を切り裂き、渦巻いた。破片ははるか彼方の山頂まで吹っ飛んで、そのうちの
幾つかは暴風によって運ばれ、人間の里にも降り注いだ。
魔城は下半分を残して、瓦礫の山と化していた。
妖魔たちは怖れて、不気味な静寂を保っている天守の廃墟を遠巻きにしていた。
渦巻く灰色の霧の下から、やがて、魔王の声がした。きいきいと妖獣たちが鳴いた。
魔王の声は瓦礫の底から聴こえてきたのだ。
天守の残骸が持ち上がり、そこから魔王の手が見えた。次には腕が。サイレンを
抱えた、魔人のからだが。
王子サイレンは頭から血を流して全身を朱に染め、その瞼はかたく閉じていた。
王子を抱きかかえて魔王は吼えた。それはまるで、暗い地底の底からの咆哮であった。
魔王の声は魔境の地割れという地割れから噴き出し、魔の渓谷を地獄の鐘の音のように
ふるわせた。
雷鳴がふたたび起こり、つめたい雨が降ってきた。
雨の中、魔王はまだかすかに息のあるサイレンを小脇に抱え、怖ろしい声で
妖魔たちに命じた。
バベルを連れて来い。
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