◆七.魔の王子
日暮れの森に、冬梟が鳴いていた。すぐ近くから狼の遠吠えが聴こえたが、
雪をかき分けて枝を集める少年は、それをまったく怖れてはいなかった。
「寒いのですか。母上」
かじかむ手に息を吹きかけているティティアを見て、魔王とバベルの子
カラベはすぐに石を打ち、火を生み出した。
「これでは駄目なのかな」
かき集めてきた枝の束に火を移しても、外にあった木はなかなか
燃え上がらず、小さな青い火が枝にそって這うばかりだった。
「里に降りて薪を取ってきます」
「いいのよ、カラベ」
ティティアは森の洞穴の中で、カラベを抱き寄せた。寒さを防ぐ外套は
カラベがティティアのために揃えたものだ。これを着ていた旅人がどのような
運命を辿ったかは、ティティアは考えぬようにした。
その代わり、ティティアはカラベに云いきかせた。
「みだりに人間を傷つけてはいけないわ。あの人たちは、わたしと同じ仲間なの。
あなたのお母さんと同じ仲間なの」
「わたしの母はあなたです、ティティア」
カラベはティティアが母だと信じきっていた。魔城の天守に幽閉されている
人間の女が母だと教えられて育ったのだ。
ティティアはカラベ王子をバベルに逢わせてやりたかった。魔人の子と
いっても、カラベは姿かたちもほぼ人間であり、あの怖ろしい魔王よりは
バベルに、そして異母兄にあたるサイレンにも似ていた。
バベルは何処にいるのだろう。
バベルに逢いたいという母ティティアの願いを、カラベは叶えるつもりだった。
魔城に戻っていないところをみると、バベルは魔族と人間の混血たちが
立て篭っているという、氷河の谷のバミューダの根城に捕らえられて
いるのだろうか。
「母上、氷河に行きましょう」
カラベは母に云った。
「わたしはバミューダたちを成敗し、母上がお求めのバベルを助け出します」
「違うのよ、カラベ」
ティティアは首を振った。どうやってカラベに説明したらいいだろう。
焚き火がようやく熾った。ティティアはカラベを抱き寄せ、外套の中に少年の
からだを入れてやった。バベルの子。
「バベルに逢ったらきっと分かるわ。あなたはバベルに似てるもの。バベルは
竜神の血をもつ娘なの。でもわたしにとっては、いとしい、かわいい、女の子」
寝顔も似てるわ。ティティアは胸にあるカラベの鼻梁や唇に指をおいた。
カラベは獣の仔がそうするように身を丸めて、ティティアに抱きついた。
これをあげるわ、カラベ。
ティティアは首からさげていた首飾りをカラベの首にかけた。
「バベルにもらったの。きれいでしょう。これは、金星の貝殻なのよ。夜空の
あの星が、妖魔の故郷」
「母上は、ちがうの」
「この星で生まれた、バミューダのあなたもね」
花びらのつぼみの形をした貝殻は洞窟の闇の中にもばら色に耀いた。
「わたしたちは皆等しく星空の子。これはバベルが云ったことなの。だから
ティティア、あなたの命のかがやきを粗略にするものを、わたしは赦さないわって。
此処だけの話だけど、あの子には随分とお金を遣わせてしまったのよ。兵役の
お給料のほとんどは、娼館に払っていたのではないかしら」
「あなたと一緒にいたかったからでしょう」
カラベはティティアの胸に顔をうずめた。母上は、よい匂いがする。
女のやわらかなからだに身を寄せていたカラベは、愕いて顔をあげた。
「母上、どうして泣いてるの」
「バベルは何も云わなかったけれど----」
ティティアは白い腕でカラベを抱きしめて、すすり泣いた。
「わたしのせいなのよ。バベルは魔人を退治して、千枚の金貨をもらう
つもりだった。わたしを遊館から身請けしてくれるつもりだった。栄達のために
生還率の低い危険な任務ばかりを選んでた。父も母もいないから、ティティアの
ところに戻って来るわとそう云って。運河の朝霧の向こうに消えるあの子は
いつもそんな顔をしていた。きっと帰ってくるからと。うそよ、大空にいってしまうのに」
「バベルを取り返してあげます」
カラベはティティアの肩に抱きつき、その頬の涙を魔物の舌でぬぐった。
「だから泣かないで、母上」
獣の仕草で、カラベは涙に濡れた女の手の甲も舐めた。少年は大切な母に
抱きついて懸命に慰めた。
「わたしはすぐに大きくなります。母上を苦しめた魔王にも負けぬでしょう。母上が
いてくれたら、何もいりません」
ティティアが眠ってしまうと、カラベはそっと身を離し、ティティアの身をありたけの
外套で暖かく包んで壁に凭せ掛けた。
カラベは、洞穴の外に出て、低く口笛を吹いた。
夜の森に現れた金の妖眼をもった王子の召集に応え、夜の妖魔たちが頭を
たれて静かに集まってきた。
「竜神の騎士の娘を探せ」
魔物の中には、魔王をはばかり、幼年の王子への服従を渋るものもいた。
カラベは眼を光らせた。
「次の王は誰になるのかを考えろ」
カラベの言葉は氷柱よりもつめたく、竜神の炎よりも強かった。
「バベルを探せ」
カラベの命を受け、妖魔たちの影が四方に消えた。
バベル。
崩れた破風から、黄金の光が遺跡に降り注いでいた。金色の渚のようだった。
バベル。君は人間なんだね。
バベルは光を見上げた。からだの隅々にまで淡い光が入ってくるようだった。
大丈夫よ、サイレン。
バベルを抱くサイレンにバベルは腕をまわした。音もなく光の波が包み、
揺り動かし、露珠が風に流れた。重ねた手の中には、指環があった。
鐘楼と運河の街の領主は、椅子に腰を据え、剣を磨いていた。
二重の城壁に囲まれた街は、このところ魔物の襲来もなく、夜間も
静かだった。
腕にも自信があるが、武具の扱いにも領主は自負がある。何といっても
鍛冶屋まで呼び寄せ、砥石をはじめとした手入れ方法を基礎から覚えたのだ。
戦好きだけあって領主は武器全般にもなみなみならぬ熱意をもっており、剣の
手入れも従者には任せず、全て自分ですることにしていた。
ついで、領主は、バベルの剣も磨いてやることにした。紅玉から
彫り起こしたかのような赤い刀身である。眼の覚めるようなそれを
念入りに砥いで整えながら、領主は隣の寝所をうかがった。
バベルは眠っているようだ。
「怪我の恢復がはやい。なるほど、この方は、竜神の血をお持ちの方でしたか」
医師の見立てはバベルが竜神の騎士の末裔であることを裏付けていた。
伝説の御世、竜神の血をひく女は宝物を山と積まれて一国の中に迎えいれられ、
その血脈はたいそう尊ばれたそうである。それは領主の自尊心をくすぐった。
いい嫁を得たぞ。高貴な女にふさわしく、わたしの王妃となるがよい。
武具の始末が終わると、いそいそと領主は立ち上がり、隣の寝所を覗きに行った。
バベルを閉口させた豪華絢爛な寝具は、そこで眠るバベルを小さな少女のように
みせていた。
「うむ。こうして眠っているところは本当にまだ子供だな。王子さまの口づけは
いらぬか。ははは、冗談だ、冗談」
ひとりで笑ってみせても、バベルの瞼は閉じたままだった。
何となくうろうろとバベルの回りをうろついておいて、領主はまた居間のほうへ
戻ってきた。何ぶんにも、がっついてはいかん。焦っては品がない。
手順を踏んで、貴女に対してそうするような求婚を重ねてやれば、バベルとて
しだいに女らしくなって、男の愛を知るのではないか。何しろ今までは下町の
しょうもない娼婦か、あの魔王しか知らぬのだからな。これでようやく
バベルもおさまるところにおさまるというわけだ。それはもちろん、この領主さまの
胸の中というわけだ。つまりわたしはバベルの初めての男というわけだな。
ふふふ、ふはははは。
ひとりで勝手にそこまで決めて、領主はふたたび剣の手入れに取り掛かった。
そこへ、従者が深夜の訪問者の訪れを告げにきた。
その名を聴いた領主は眉をひそめた。が、思いなおして、城に入れて
やるようにと命じた。
「ああ、その前に、その者を風呂に入れ、こざっぱりとしたところでドレスも与えて、
未来の王妃の侍女にふさわしい格好にしてやれ」
二人だけにしてやるか。
領主は赤剣をバベルの寝所に戻して、残りの武具をかき集めると、別室に退いた。
深夜になり、月が昇った空には、風が出てきた。
城の寝所でバベルが目覚めると、そこには、ティティアがいた。
「ティティア」
豪奢な寝台から、バベルは微笑んだ。
「どうしたの。ドレスをきて、まるでお姫さまみたいにきれい。魔王があなたを
寄越したの?」
「バベル」
ティティアは寝台の傍らの床に膝をつき、バベルの手を握り締めて泣いていた。
「どうしたの、ティティア」
「バベル。愕かないできいて。サイレンが、死んだの」
窓の外に吹く夜風がすうっとバベルの胸を掠めて過ぎた。あの幸福な夢。
月光の下、竜の上で闘い二人で落ちた、あの森の朝。
「森で……」
ティティアは首をふった。
「魔城に捕まっているわたしを助けに来て、魔王に捕まったの。サイレンは
バミューダの長として、魔王と刺し違えをはかり、彼だけが」
あとは泣いて言葉にならなかった。ティティアはバベルの腕を引っ張った。
「ティティア」
「此処にいてはだめ。わたしを魔城から連れ出してくれた少年がいるの。
その子がわたしを街まで連れて来てくれたの。森で待ってるわ。その子を魔王に
渡したくないの。三人で何処か遠いところへ行きましょう」
「サイレンは、生きているぞ」
突然、露台の窓がひらき、青髭が城の寝所にとび込んできた。ティティアは
蜀台を掴んでバベルの前に立ちふさがった。
「出て行って!」
「妖竜に乗ってきた。此処から脱出するなら、おれの助けがいるはずだぜ」
「魔城にはもう戻らないわ。出て行って」
魔界で味わった恐ろしさそのままに、ティティアは蜀台を青髭に投げつけた。
さらに花瓶を投げつけようとするティティアを、バベルがとめた。
「サイレンは、生きているの?」
「生きてる。ただし、半死状態だがな」
青髭はティティアの投げつけるものを避けて、バベルをせかした。
「魔王は瀕死のサイレンを連れて、バミューダが退去した氷河の洞窟に入り、
サイレンを氷の棺の中に眠らせて、その命を繋いでいる」
「どういうこと」
「その女が云ったまんまさ。サイレンは魔王を道連れに自決をはかり、魔城の
天守を吹き飛ばした。魔王は助かったが、サイレンの意識は戻らない」
じれじれと青髭は窓の外をしきりに気にした。
「早くしろ。魔王がバベルを呼んでいるんだぜ。サイレンの覚醒にバベルを
利用する気だ」
「騙されないわ。その迎えが、あなたのくせに」
ティティアが青髭を突き飛ばそうとして、逆に青髭に抱え込まれた。
「ちゃんと話をきいてろ。脱出する気なら、おれが助けてやると云っているんだ」
外が騒がしい。
鐘の音がする。
確か、魔王との取引により城砦都市にはもう魔物は近寄ることはないと領主は
云っていたはずだ。しかし、城護兵のバベルの耳はそれを聞き分けた。あれは、
魔物が襲ってきた時に鳴らされる城の半鐘だ。
城が俄かに騒然とする。それに加えて、領主の大声が寝所の外から
聴こえてきた。それは中にいるバベルたちに、変事を知らせようとしている
ものだった。
「待て。バベルは絶対安静だと医師から云われて、薬で眠っているのだ」
机や衝立で障壁を築く音につづいて、それが突破される音。
「いま動かしては命にかかわるぞ。帰って、魔王にそう伝えるのだ」
猛烈な獣の怒号と剣の音が上がった。
「領主さま、魔人兵がやって来ます!」
「致し方ない、ものども抜刀だ。この通路を死守せよ。夜中に押しかけて
来るような無礼ものは、たとえ魔王の使者とても、容赦せぬ」
「早く!」
ティティアはバベルを衝立の裏で着替えさせ、露台に立つ青髭のところへ
急いで連れて行った。
「急いで飛ばすなら、妖竜に三人は乗れないぜ」
「バベル、行って」
ティティアはバベルの両手を握り、バベルに接吻した。
「森で待っている少年がいるの。わたし、その子のところに帰らなきゃ」
「ティティア」
「わたしを待っているはずよ。約束したの。とてもやさしくて強い子なのよ。
バベルも逢ったらきっと好きになる」
月光が、小姓姿のバベルと、ティティアの涙を照らした。
青髭の口笛に応え、木々を揺らして妖竜が降りてきた。騒動は次の間まで
迫っていた。隣室からは寝所の扉を守って、妖魔ども相手に領主が奮闘して
いるらしき、ものすごい音がする。
「この魔物どもめ。女のいる寝室にそんな物騒なものをぶら下げて
集団で押し入ろうとは、礼儀知らずにもほどがある」
「ティティア、だめよ、一緒に」
「魔人兵を蹴散らせ、一歩も入れるな!」
「その男の子、バベルに似てるの。わたしの大好きな、竜神の騎士に」
「ティティア」
二人の手が離れた。
青髭は妖竜の鞍にバベルを無理やり乗せて、城砦の上空に出ると、妖竜を
いそがせて翼の音もせわしなく、見る間に城の尖塔から遠ざかっていった。
領主がまだ叫んでいた。寝所の扉が乱闘のあおりを受けて大きく揺らぐ。
ティティアは扉に走りよって大声をはり上げた。
「領主さま。ご安心ください。バベルは無事にお城から出ました」
「なに、逃げたのか」
「はい。無事に」
ティティアは踵を返して露台に向かい、夜空に眼を上げた。バベルを乗せて
天の河を超えてゆく竜の影がかすかに見えたが、それもすぐに、星々の海に
見えなくなった。ティティアは祈った。その胸に、ぱっと鮮血が広がった。
「バベルを逃がしたな」
ざらついた魔物の声がティティアの耳を掠めた。外壁から蔦をのぼってきた
四つ足の魔物はティティアを倒すと、その首に噛み付き、女の胸に深々と爪を立てた。
「薄汚い人間めが」
「何ということだ」
衛兵に扉をまもらせて寝所に踊りこんできた領主は、ティティアのからだの上に
圧し掛かっている魔物を見るなり、寝台に走り寄り、力まかせな一刀で魔物を斬り伏せ、
魔物を蹴り退けた。領主は身をかがめてティティアを腕に抱き上げた。
「これ、しっかりするのだ」
女の眼が星座を浮かべる星空をさまよった。
「……バ、ベ、ル」
「よしよし、バベルは無事に空に逃れたぞ。よくやった、ティティア」
ティティアはほのかに微笑んだ。そして、一筋の涙を零すと、領主の腕の中で
力つき、絶命した。
領主はうろたえて、ティティアを抱きしめ、揺さぶった。
「眼を開け。そなたもバベルと同じく、これからわたしの許でらくをさせてやろうと、これ」
「領主さま、魔人兵を撃退いたしました!」
「これ、ティティア。きいたか。もうよいのだぞ、頑張らずとも」
女のやわらかな髪は、夜風に揺れるばかりだった。領主はティティアの亡骸を
そっと露台に横たえた。
「お前が、殺したの?」
聴き慣れぬ、少年の声がした。
領主はあたりを見廻した。
城を包む木々のあちこちに、幽火が灯った。それはいつの間にか城の周囲に
集まった、魔物たちの眼であった。何百もの魔獣の目玉は、怨念の炎に陰気に燃えて、
城の周囲をみっしりと取り囲んでいた。
領主は剣を握り締め、そろそろと立ち上がると、露台から身を乗り出して
下方を見た。城の尖塔を振り仰いだ。もう一度露台に眼を戻した領主の眼の前に、
金の眸をした少年が立っていた。
「誰だッ」
領主はとび退った。少年は領主を無視して露台を歩き、死んだ女の傍らに
膝をついた。
「お前は誰だ。何をするつもりだ」
再度の領主の誰何にも、少年は振り返らなかった。ティティアの顔を見ていた。
喉笛と胸を朱に染め、口許にかすかな笑みを浮かべて、ティティアは眠るように
死んでいた。月光に青褪めたその顔を少年はじっと見つめ、小さな声で何かを
呼びかけた。女の唇は閉ざされたまま、もう少年には応えなかった。
「おのれ、魔人。哀れな女の遺体を喰う気だな」
領主は剣を振り上げた。木々のざわめきに、少年の呟きがもれた。
「バベルのために、ティティアは死んだ」
「なに?」
「バベルが、ティティアを殺したのだ。わたしの母上を」
「母上だと」
領主は息を呑んだ。
「お前は。その顔、そういえば」
少年は立ち上がった。それに合わせて領主の城を包む幽火がいっせいに
燃え上がった。少年の眸が金から赤く変わった。それは、怒れる竜神の誇り
高き眼であった。炯々と眸を燃やして、少年は口を開けた。口腔には尖った
牙が見えた。
城を囲む魔獣どもが少年の怒りに合わせて歯咬みする奇怪な音が鳴り響き、
その怪異に、城の方々から恐怖の叫びがあがった。
「バベル。殺してやる」
「いい加減にしろッ」
今度という今度ばかりは腹の底からの怒りにかられて、領主は地団駄をふみ、
少年に剣を向けた。
「いますぐにその莫迦げた逆恨みをやめろ。バベルがティティアを殺しただと。
健気にも寄り添って生きていた女二人をこのようにしたのは、魔王ではないか。
精一杯生きていたバベルの平穏を踏みにじって壊したのは、魔王ではないか。
ティティアはバベルを魔王からまもって死んだのだぞ。お前はバベルの生んだ
魔王の子カラベだな。お前の父親が、バベルを苦しめ、この女を殺したのだ」
少年の面は、ひややかであった。その怒気は領主の言葉に鎮静するどころか、
いや増していた。
少年は竜の去った星空を睨み上げた。
「魔王とバベルが、わたしの母上を殺した」
領主を見返したその金の眸は逆鱗の血が滲んだように、真紅であった。
闇の中にそこだけが滴る怨嗟の炎とかわり、二度と閉じぬもののようであった。
夜空の星までもが少年の怒りを怖れて怯え、白く凍えながら空に縮こまっていた。
いまだかつて、領主はさほどの深い哀しみを、いかなる人の上にも、獣の上にも
見たことがなかった。突如、少年が天を仰いで激情のままに吼えた。
怒りと哀しみに引き裂かれた少年の憎悪の唸りに、城の窓硝子が片っ端から
粉々に割れて吹き飛んだ。
耳を塞いでいる領主の眼の前で、少年は飛び立つ黒鳥のように露台から身を
躍らせた。魔獣の咆哮と、青い鬼火が突風のように城を吹き過ぎた。駈け付けた
衛兵にまもられて領主がようやく眼を開いた時には、少年の姿はもう風の騒ぐ
夜の庭の何処にも見えなかった。
人里が遠くなると、バベルと青髭は入れ替わり、竜の扱いに長けた
バベルが竜の手綱を握った。
青髭は暗い顔をして、渋り続けた。
「本当に、氷河の谷に行く気かよ。あっちは戦場になってるんだぜ」
襟を立て、ついでにバベルの襟も立ててやり、青髭はなおもぐずった。
「方舟も爆発したんだ。せっかくサイレンが事前に方舟からの撤退を命じたのに、
方舟を占拠した魔王からサイレンを救い出すために、バミューダたちは一角鬼を
大将に立てて氷河に戻ってきやがったんだ。谷は、魔族とバミューダの激戦地に
なってるぜ」
夜空を翔けるバベルは、氷の音がしそうな凍てついた星空の片隅に
水晶の塔の残骸をとらえた。
「魔城の天守崩落と共に、あの水晶の塔も壊れたのさ。サイレンがやったことだ。
方舟と、魔城と、水晶の塔の支柱は見えない糸で繋がれるようにして指環の
主の命令に従うようになっている。あいつはそんな方法で、魔王と刺し違え、
お前とバミューダたちを護ろうとしたんだ」
戦場の様子がはっきりする朝を待とうという青髭の言を聞き入れて、
バベルは近くの峠に妖竜をとまらせた。
彼らは星々の合間に、小さく動くものを見分けた。それははるか遠くを
山の端に沿って飛んでいる竜の孤影だった。その竜は、たくさんの魔獣たちに
追跡されていた。
「バビロン」
魔竜に追われながら大急ぎで飛行している竜は、バベルの妖竜だった。
芥子粒のようなその影は、すぐに山の向こうに見えなくなった。
「やはりな。夜を待って谷から出てきたんだろう。乗り手はきっと、牙男さ」
「魔竜に追われていたわ」
「サイレンは魔城に向かう前に、方舟の秘密を一角鬼と牙男に打ち明けて
後事を頼んだ。おそらく牙男は探してるのさ。サイレンが隠した、制御板を」
夜明けはまだ遠く、星の銀を散らして、銀河は静まり返っていた。
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