[金星のサイレン]
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Yukino Shiozaki

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◆八.バミューダの戦士


 船の中は、無人だった。
 バミューダたちは一角鬼と牙男に率いられて方舟からの退去を事前に
完了しており、魔城天守の崩落に連動した方舟の爆発に巻き込まれる
災難を免れていた。
 氷河の底に沈んでいた船はもとより壊れており、天守と同時に自爆装置は
作動したものの、途中で伝達が切断されたものか、一部が損傷したのみであった。
それでも影響を受けたその一帯は、氷片が散らばり、船を隠していた崖も落雷を
受けたかのように、真上から見ると縦に大きく裂けていた。
 空が白み、夜が明けた。朝風に混じるのは、雪のにおいばかりではなかった。
「ひどい有様だ」
 妖竜の鞍から身を乗り出して、青髭が絶句した。
 氷の谷に点々と散らばるものは、夜の間に凍りついたバミューダと魔物たちの
死骸だった。
「あいつら、船とサイレンを取り戻そうとして」
「魔王は方舟の中?」
「ああ。サイレンを連れて洞窟に入ったきり、外を魔族の兵隊に固めさせて
出てこない」
 朝焼けに浮かび上がったバベルたちの妖竜の影に、下界では魔人兵が
迎撃体勢を整えている。地上に設置された巨大な投石機から飛んできた大岩を
避けて、バベルは妖竜の高度を上げた。
「畜生。あれのせいで、バミューダも空からは容易に近づけないんだな。
何基もあるんじゃ、一度に潰すのは無理だ」
 一角鬼たちは何処だろう。飛獣たちの哨戒から見つからないところに潜んで
いるはずだ。上空から、竜神の娘の視力はそれを見分けた。高嶺と湖が
交わる森かげに、小さく動くものがある。
「バベル。バベルだ」
「青髭も」
 暁の空から降り立ったバベルたちに、バミューダたちが駈け寄った。
 方舟から突然出て行ってしまった青髭のことを、バミューダの子どもたちは
何の疑いも抱いていなかった。以前から、しばしば青髭はふらりと船から
いなくなることがあったのだ。サイレンは必要のないことは云わない。したがって、
青髭の真の追放理由は誰も知らなかった。
 しかし、サイレンから主導権をあずかった一角鬼および、月下の空戦に
参加したものたちの、青髭を見る眼は厳しかった。
「確かに、青髭は森の深部からサイレンを助け上げてくれた」
「戦域から離脱したサイレンの居場所を教えてくれたのは青髭だ」
「だがその後、サイレンはおれたちに方舟からの撤退を命じ、青髭の手引きで
魔城に向かった。そしてサイレンは魔王の手におちた。青髭が裏切り、サイレンを
魔王に引き渡したからだ」
 サイレンはおれも置き去りにして、単身で魔城に行ったんだよ、という青髭の
苦いぼやきは彼らに無視された。
「魔王は瀕死のサイレンを連れて方舟の中に入った。捕虜の話では、
サイレンを氷の棺に入れているそうだ。サイレンは死んだも同然だ。青髭、
お前のせいだ」
 方舟の爆発に続き、戦闘で仲間を大勢失った一角鬼たちは気が立っていた。
サイレンが彼らに望んだのは、彼らが船を棄てて氷河の谷を離れ、新しい安住の
地へと移住することであったが、サイレンを慕うバミューダたちは魔王から船を
取り戻したいと願って、こうして戻ってきたのだ。
「青髭、何もかもお前せいだ」
 血の気の多いバミューダの若者が最初に青髭を蹴った。それを合図にして、
バミューダたちは青髭を取り囲んだ。
「青髭はサイレンを裏切ってなどいない。わたしを街から救い出し、危険を
おかして氷河の谷まで連れて来てくれた」
「バベル」
 バベルは、一角鬼をはじめとするバミューダの面々を見廻した。
「魔王はわたしを攫いにきた。わたしなら方舟の中に入れる。魔王はわたしを
使ってサイレンを目覚めさせようと試みるはずよ。これ以上犠牲を出さず、
あなたたちはサイレンの意志に従って氷河の谷を離れて」
「バベル。それはいけない」
 一角鬼がバベルの肩を掴んだ。
「サイレンが最後まで護りたかったのは君だよ、バベル。サイレンはそのために」
 すずしい風が谷に吹いた。バミューダたちは押し黙った。彼らを見つめ返した
竜神の娘は、朝の空に残された白い月のようだった。バベルの望みもまた
彼らと同じであった。サイレンの許へ行くことのほか、何も望まないと。

 雪の結晶が、花びらか、踊り子のまぼろしのように朝風に流れ過ぎた。
「諦めるな。制御板さえ見つかれば、まだ魔王と対抗できる余地がある」
 一角鬼は、戦闘準備をバミューダたちに命じた。
「方舟の入り口は魔人兵に塞がれている。バベルを方舟まで送り届ける。
バベル、銀の指環が魔王の手に渡っても、制御板がなければ、魔王には船は
動かせない。サイレンは牙男に制御板の隠し場所を教えてあった。牙男がいま
バビロンに乗って、それを探しに行っている」
 バミューダが異論をあげた。
「それなら、牙男が帰って来るまで待つほうがよくはないか」
「帰って来ないかもしれない」
 一角鬼の声には苦渋があった。
 青髭とバベルが夜間に見かけた妖竜バビロン。しかし牙男を乗せた
その影は、妖魔の群れに見つかって追われていた。
 バミューダの主力兵器は剣と石弓だった。彼らはそれを手にとった。
「賭けだな」
「魔王の手に制御板が渡るくらいなら、牙男は、そのままそれを持って活火山の
噴火口にとび込んで死ぬと云っていた」
「無事に帰ってきたら、制御板を餌にして、魔王に谷からの撤退を求めよう」
「バベル」
 鐘楼と運河の街の領主が砥いでくれた赤剣を腰にはき、戦闘の支度をしている
バベルの許へ、バミューダの若者が近づいてきた。
「ティティアは一緒じゃないのかい、バベル」
 尾っぽのある若者だった。ティティアは人間界の街に残されたと知って、若者は
気がかりそうに顔を暗くしたが、それ以上は控え、何も云わなかった。
「空から投石機を壊す。その間に、一角鬼は洞窟前に突破口をつくって」
 バベルは妖竜の背にとび乗った。青髭が別の竜に乗り、補佐としてそれに続く。
 青髭がバミューダたちに念を押した。
「いいか、バベルが方舟の中に入るまでの間だけでいいんだぞ。それを
見届けたら、すぐにお前たちは撤退しろ」
 二頭の妖竜が空に上がった。荘厳な夜明けだった。
「バベル。金星だ」
 青髭が教える方角にかがやく明星を、バベルは一度だけその眸におさめた。


 氷河の静寂は、戦闘の雄たけびに破られた。
 妖竜の背から、バベルは鉄矢を放った。投石された大岩が唸りながら妖竜の
翼の横を過ぎる。それに続き、地上の弩砲から放たれた鏃つきの矢が豪雨の
ごとく飛んできた。
 バベルと青髭は交互に竜の位置を入れ替えながら、魔物たちの操る投石機の
真上をはしった。耳鳴りがするほどの急傾斜を竜の翼にかけて、鞍の上から
バベルが狙い定めた矢を打ち込む。鮮やかに決まったそれは魔物を狙った
ものではなかった。バベルの放った矢は、投石機の太綱の元締めを断ち切っていた。
だらりとぶら下がった綱の先にはじかれて、妖魔たちが放水を浴びたように倒される。
「お見事、さすが護城兵。だが、次はそう巧くはいかないぜ」
 空からの攻撃に構え、下方の弩砲から飛来してくる矢はさかしまの雨のようだった。
一角鬼率いる地上のバミューダはそれを突き崩そうと魔物の群れに正面衝突を
かけており、洞窟の入り口付近で接近戦になだれ込んでいる。
「バベル、あれを」
 朝空に、別方向から飛来してきた魔物の操る怪鳥の群れが見えた。それは次々と
せわしなく洞窟前に降り立ったとみるや、縛り上げたバミューダを鞍から引きずり
降ろして、引き立ててゆく。
「みろ、あれは牙男だ」
「妖竜の中に、バビロンがいないわ」
「しまった。制御板」
 サイレンが隠した制御板を探しに行った牙男は、追いつかれ、ついにそれを
妖魔の手に奪われてしまったのだ。
 牙男を連れて、魔人たちは魔王の待つ船の中に入っていった。
 一角鬼たちの奮戦むなしく、洞窟の入り口をまもる二重三重の防御陣はまだ
破られそうにもなかった。
 バベルは妖竜を崖の高みに上げた。バミューダ号を隠していた崖は爆発の際に
幾つにも裂けて、黒々とした深い裂け目をみせている。
「あそこから船内に入る」
「おい、バベル」
「太陽の光をとっていた竪穴があったはず」
「バベル!」
 青髭が見ている中、バベルは妖竜の鞍から跳び下り、井戸のように黒く口を
ひらいている崖の竪穴に身を躍らせた。


 太陽の光を採りこみ、バミューダが洞窟内で細々と作っていた作物は、
船の爆発に合わせて無残にも鉢ごと吹き飛んでしまっていた。
 採光孔から船に降り立ったバベルは、不気味に静まり返った通路に出た。
爆発の際の衝撃で船は大きく破損し、壁も歩廊も斜めになっていたが、
船の深部に進むにつれて、被害は半壊から無傷と代わり、目立った外傷は
見当たらなくなった。
 指環と制御板が揃えば、方舟の主はサイレンから魔王に移ってしまう。
しかし、やがてバベルの耳に届いたのは、魔王の逆鱗の声であった。
「こやつの口を割らせて、制御板の在り処を訊きだせ」
「それが、制御板じゃないだと」
 牙男が抗弁している。
「それが制御板ではないというのなら、一晩中バビロンの尾を追い回していた
あんたのしもべたちにはご苦労さまなこった。そんな薄っぺらい、贋物の板切れ
一枚のために」
 魔王は怒って、手鏡ほどの大きさのものを床に叩き付けた。
「本物の制御板ならば、この指環に反応をみせ、船主の移管をただちに
認めるはずだ。その役立たずのバミューダを外に連れてゆけ」
 魔人に連行されてゆく牙男の背中が見えた。バベルは魔王が通路の奥に
向かい、船の心臓部に入るのを見届けてから、あしおとをしのばせて、
同じ深部にある別の室を目指した。
 そこは、バミューダ号の貴賓室だった。
 船の心臓部より少し手前にある部屋で、以前、そこが王の座所だとバベルは
きいていた。
 あれほどの爆発もこの区画には被害を与えておらず、内部は神聖な静寂に
満たされていた。
 祭壇に据えられているのは、冬眠用の王の褥であった。低い台座の上に
青い玻璃で覆われた棺が据えられていた。サイレンは、そこにいた。
「サイレン」
 棺の中で眠るサイレンは、血も拭われて、安らかに眠っていた。両手を胸の上に
重ね、青褪めた顔をして、静かに瞼を閉じていた。
 駈け寄ったバベルは、棺の玻璃ごしに、サイレンの顔に手を添えた。
薄青い光に包まれているサイレンは、死んでいるようにも、生きているように見えた。
透明な蓋ごしに、バベルの指は、サイレンの鼻梁を、閉ざされた瞼を、その唇を
なぞった。サイレン。
 あなたは、バミューダの王。
 サイレンの指には、指環がなかった。それは魔王の手に渡っていた。
「サイレン王。あなたの一の騎士が、指環を取り戻しに、こうして御許に馳せ参じたわ」
 バベルは囁いた。棺の中のサイレンが小さく頷いたようにみえた。サイレンが
命を賭して戦ったもの。この船を魔王に渡してはならない。
 背後に影がさした。バベルは赤剣を抜き放って振り向いた。
「だれ。青髭」
 見知らぬバミューダの少年がそこに立っていた。
 警戒の構えを解いて、バベルは剣先を床に向けた。一角鬼が船を棄てた時に
置き去りにされた子供だろうか。バベルは金の眸をしたそのバミューダの子どもに
歩み寄った。
 バベルが近づくと、少年は、一歩、後ろに下がった。
 立派な円柱を建ち並べた貴賓室に、バベルのあしおとが響いた。
「どうしたの。皆は外にいるわ。採光の竪穴からなら、地上に出られる」
 案内しようというバベルの手を、少年は払いのけた。少年の首から下がっている
ばら色の貝殻を見て、バベルは顔色をかえた。ティティアの首飾り。
「どうしてあなたがその首飾りを持っているの」
 まさか、ティティアが後を追って氷河の谷に来たのだろうか。こんな危険な
戦場に。
 少年はバベルを睨み上げた。その金の双眸は血の涙を流しているかの
ように、かあっと赤かった。
「ティティアは死んだ」
 王の間に、少年の声はするどく放たれた。
「わたしの母上を殺したのはお前だ、バベル」
 この少年はいま何と云ったのか。ティティアがどうしたと云ったのか。
 バベルは剣柄を握り締めた。強い哀しみの予感につめたく胸が塞がった。
「あなたは、だれ」
「魔の王子カラベ」
 とてもやさしくて強い子なのよ。バベルも逢ったらきっと好きになる。
 避ける間もなかった。跳びかかってきたカラベの両手がバベルの喉許に
巻きついた。凄まじい力でバベルは床に引き倒された。バベルの手から赤剣が
放れて飛んだ。
 カラベはバベルの上に圧し掛かった。少年の手がバベルの喉を絞めた。
尖ったその爪がバベルの首筋に突き刺さり、襟を破り、ぶつりと低い音を
立てて、くい込んだ。
 少年の膝がバベルの胸の上に乗ってきた。その重みに肋骨がきしんだ。
抗っても上になった少年のからだはびくともしなかった。真上に魔物の眸があった。
怨嗟にゆらゆらと燃え上がっている、竜神の逆鱗のまなこが。
 首を一気に絞め上げてくる少年を引き剥がそうと暴れ、バベルは腰を浮かそうと
したが、カラベによって床に頭を打ちつけられた。焼きついた息が脳裡を赤く染めた。
ティティアがどうしたというのだろう。この少年はだれだろう。少年がもう一度、バベルの
頭を床に叩きつけ、抵抗を封じた。
 息を求めてバベルの瞼が痙攣をおこした。
「ティティア……」
「死ね」
 カラベは憎悪の眼をバベルに据えた。
「ティティアがそうされたように、同じ方法でお前を殺してやる。この爪で、
お前の胸部を食い破ってやる。死ね」
「何をしている!」
 バベルの後を追って同じ道から船に降り、王の間に駈け込んできた
青髭が、仰天し、カラベの背に剣を振り下ろした。刀身は降りきる前に
カラベの片手に掴まれていた。
「ひい。素手で」
 カラベは邪魔をする青髭の姿を見遣ることすらしなかった。片手でバベルを
床に押さえ込んだまま、カラベは腕のひと振りで、掴んだ剣ごと青髭のからだを
砲丸のように反対側の壁にまで投げ飛ばしてしまった。
 バベルの指先が無意識に床を探った。赤剣。ティティア。
 剣は遠く離れた祭壇の下に落ちていた。
「しぶといな。さすがは竜神の娘。母上が云ったとおりだ」
 少年が首からさげている貝殻の首飾りがバベルの頬に触れた。青髭が
咳き込みながら少年を止めようとして、床を這った。
「やめろ、お前は魔王の王子カラベだな。その女は、お前の」
 暗くなってゆくバベルの脳裡に、何かの音が聴こえた。かすむ眼がとらえたのは
祭壇の床から、別のものの手によってゆっくりと拾い上げられる赤剣の影だった。
 何かの異様を感じて、カラベが振り向いた。その眼が愕きを浮かべるよりはやく、
少年の首筋には赤い光を放つ剣があてられていた。
「なんだ、お前は」
 カラベは飛び退り、立ち上がって剣を抜いた。
 喉の痛みに咽びながら半身を起こし、バベルはふるえる両手をそのひとに伸ばした。
「サイレン……」
 氷の棺から起き上がったサイレンは、つめたい金の眸で少年を見据えた。
その衣にはふたたび鮮血が滲み、その血は王の間の床にもつたい落ちた。
サイレンはバベルを背に庇い、少年に剣を向けた。
「船から、去れ」
 カラベに命じるその眼光は、魔王の直系のものであった。竜神の赤にも負けぬ、
強くかがやく金色だった。
「バミューダの戦士……!」
 カラベと青髭が同時に上げた驚愕の叫びが方舟に響いた。


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