◆九.制御板
氷の棺から起き上がったものの、サイレンの顔には血の気なく、
気力だけで持ちこたえているその身は、とても助かるものとは思えなかった。
王の間に、剣戟の音が鳴り渡った。異母弟の剣を兄がかわし、両者は
怪鳥のごとく飛び離れては、ふたたび対峙した。
「あなたが、サイレン」
カラベ王子の眸が興を覚えてくるめいた。
「わたしに兄王子がいる話は、魔城でも噂に聴いていました」
「やめろ、お前たち」
壁際でバベルを介抱しながら、青髭が彼らを怒鳴りつけた。
「よせ、カラベ。サイレンは重傷だ、それが見えないのか」
「わたしは聴いていました。わたしが次の魔王になるには、兄王子である
あなたが最大の障壁であり、邪魔者であり、最強の敵になると」
絡み合った剣が、眼にも留まらぬ速さでもう一度逆方向に絡み合い、
二人の王子は剣を立てて間近から睨み合った。サイレンは大きく息を
ついていた。兄を突き放しておいて、カラベはつめたく哄笑した。
「ふらふらじゃないですか。そんな御身体でこのわたしを斃そうと?」
カラベに絞められた喉を押さえ、バベルは床を這い、声を振り絞った。
「サイレン、やめて」
バベルを震撼させているものは、かつて覚えのない恐怖だった。
ふるえる膝を立たせてバベルは二人の間にとび込もうとした。青髭に腕を
とられて抑えられたバベルは、床に打ち伏してサイレンに懇願した。
「そんなからだで闘わないで、サイレン。死んでしまう」
兄の斬り込みを余裕でかわし、カラベは剣を持った手の甲を舌先で舐めた。
「どうやらあなたを殺せば、魔王とこの女の双方に、復讐が叶うようだ。
魔王の座などどうでもよいが、この女を絶望に叩き落とせるなら、あなたを殺そうか」
凍りついているバベルを横目に、カラベの口端が半月型につり上がった。
少年がどうしてこうまで魔王とバベルを怨みに思い、執拗に思いつめているのか、
バベルにはまだ理解できなかった。復讐とは何だろう。ティティアのことだろうか。
領主の城に残してきたティティアは、本当に死んでしまったのだろうか。
もしそうならば、それは、ティティアを置き去りにしたわたしのせいだ。
バベルはわなないた。
カラベは嘲笑した。
「兄上。その女を護るために、わたしを殺しますか」
カラベはバベルを見下ろし、それから瀕死のサイレンに視線を戻して、
冷淡に告げた。
「もっとも手を下さずとも、あなたはじきに死ぬだろうけど」
事実、サイレンはもう口をきくだけの力もないようだった。バベルの赤剣を
斜めにさげ持ち、サイレンはカラベの方へと身を傾けた。倒れそうだった。
やめて、サイレン。死んでしまう。
それは声にはならなかった。バベルは身動きもできなかった。
サイレンの背中が、不意に大きく見えた。闘志の瀑布をまとい、サイレンの
気迫が引き締まったと見るや否や、サイレンは床を蹴っていた。
カラベはとんできたサイレンの一刀を辛くも受けた。だが、次を受けとめることは
できなかった。赤剣の軌跡を捉えることもできなかった。反転してサイレンが
持ち替えた剣は眼にも留まらぬ速さで、カラベの胸部を刺し貫いていた。
牙を剥き出してカラベが吼えた。
「サイレン!」
突風に吹き飛ばされるように、二人はもつれ合って壁にぶつかった。
サイレンの赤剣は壁にまで突きとおっていた。カラベが血を吐いた。
「兄上……ッ」
眸を紅に燃やして、カラベは腕を伸ばし、獣の爪を兄の肩に突き立てた。
踊りを途中で止めた者のように彼らは抱き合った。サイレンは渾身の力で
少年の胸に柄まで剣を叩き込んで動かず、カラベの獣の爪は掴みかかった兄の
肩を砕き、その腕を裂いていた。
やがて、カラベは低い唸り声を上げ、サイレンの腕に凭れるようにして動かなくなった。
カラベから赤剣を引きぬき、サイレンは抱きとめた少年を床に横たえた。
「殺してはいない」
剣で身を支えて、サイレンは息をついた。
「彼からは、ティティアのにおいがした」
倒れたサイレンにバベルはとびついた。赤剣が床に落ちた。
「サイレン……」
「上の方で騒ぎが大きくなってる。おそらく戦局に変化があったんだ。見てくる」
サイレンの様子に息を呑みながらも、青髭がいそいで室から出て行った。
そのあしおとが遠ざかると、サイレンの末期の息だけが王の間に響いた。
「……バベル」
バベルはサイレンを背負い、氷の棺に戻そうとした。床の血で足許がすべった。
サイレンは棺の台座に寄りかかり、無駄なことをしようとしているバベルを
隣に抱き寄せた。
「バベル。牙男が持ち帰ったのは、贋物の制御板だ」
新手の軍勢が戦闘に加わったらしき騒ぎが上方からかすかに聴こえていた。
バベルにはもうどうでもよかった。サイレンしか見えなかった。氷の棺に背をつけて
床に崩れ落ちたサイレンの手を、バベルは必死に握り締めた。
「牙男はぼくの指示に従って、時間かせぎをしてくれた。制御板の在り処は
誰も知らない。ぼくしか知らないことだ。バベル」
バベルは眼の前が滲んだ。サイレン、死んでしまう。
サイレンはバベルの頭を抱え寄せた。
「バベル。この船の主は、もうぼくじゃない」
喋るのもやっとのサイレンの声が、バベルの耳朶を掠めた。サイレンは
指先をのばし、バベルの頬に触れた。
「この船の主は、君だ。バベル、ぼくの遺言をきいてくれるね」
「サイレン、もう喋らないで」
「魔王にこの船を渡さないで。いいね」
バベルの頬に片手をそえて、サイレンはなおも続けた。バベルの涙を拭うその
指先にはもう力がなく、その眼も半ば閉じ、薄い膜がかかったようになっていた。
「サイレン、いや」
「船の心臓部に行って。魔王から指環を取り戻し、船に命じるんだ」
「サイレン、サイレン」
「バベル。指環の主は、君だ」
サイレンは氷の棺に凭れて息をついた。消えてゆく命の残り火がふたたび
バベルの姿をとらえた。金色の眸が、バベルを見つけた。バベルはサイレンの
傍らに膝をつき、サイレンの手を両手で握り締めた。
「サイレン。わたしを、おいていかないで」
「バベル。泣かないで」
末期の力で、サイレンはバベルの手を握り返した。手を重ね、バベルの
手を包んだ。バベルはサイレンを見つめた。サイレンはやさしく頷いた。
掠れた声がバベルにそれを告げた。サイレンは微笑んだ。
「……君に、あの時に」
「いやよ、サイレン」
バベルはサイレンを胸にかき抱いた。
「わたしを、おいていかないで。サイレン、サイレン」
サイレンは、何かの夢を回想する眼をしていた。その金の眸が霧に
沈むようにしてゆっくりと閉じた。サイレンの指先が力を失い、バベルの
膝の上に落ちた。災禍の王子はかすかに息をつき、その名を唇にのせた。
「バベル。ぼくの、金星」
サイレンはバベルの腕の中で、こときれた。
地上の様子を見に行っていた青髭が上層部から走って戻ってきた。
「鐘楼と運河の街の領主がどういう風の吹き回しか、大勢の兵隊を
引き連れて氷河の谷に現れて、バミューダ側に加勢してる。蝙蝠をつかう
竜騎兵の参戦により、地上はひどい混乱だ」
バベルは、バミューダの指導者の亡骸をそっと床に横たえた。青髭は
サイレンの死を知ると、黙り込んだ。
床に落ちていた赤剣をバベルは拾い上げた。
「バベル。何をするつもりだ」
「魔王から指環を取り戻す。あれは、あのひとの、サイレンの指環だから」
「殺されるに決まってる!」
「あなたは方舟から退去して。そして、みんなを連れて氷河の谷から
遠ざかるようにと一角鬼に伝えて。それが、サイレンの遺志だと」
バベルは壁際で気を失っているカラベを見つめた。
ティティアの首飾りをつけて現れた王子。自分の生んだ子であるという
意識はかぎりなく希薄であったが、ティティアの想い出に繋がる少年だった。
バベルはカラベを抱き上げた。魔族の成長は早い。少年とはいえ、
そのからだはバベルには重かった。
青髭の腕に、バベルはカラベを渡した。少年の首に引っかかっていた
首飾りの紐のもつれを、バベルはなおしてやった。
ティティアの弔いの為にこんな遠いところまで。ティティアの云うとおり、
やさしくて強い子だ。
「青髭。この子を連れて、方舟の外に出て」
有無を云わせぬ態度だった。
「さっき云ったことを、皆に伝えて。城砦都市の領主さまにも」
青髭とすれ違うバベルは眼の底に静かな光を湛えていた。
「バベル」
「サイレンを、ひとりでは逝かせないわ」
竜神の娘の姿は崩れ落ちた通路の奥に見えなくなった。
バミューダ号の心臓部は、まだ稼動していた。
花火や星座を閉じ込めた箱が整然と並び、壁一面にも光が動いていた。
金銀の灯りの明滅を浴びながら、魔王は室の中央に佇んでいた。
「爆破も、この室には損傷を与えなかったようだ」
「サイレンは、死んだわ」
入ってきたバベルの言葉に、魔王は反応しなかった。サイレンが助からぬ
ことはどこかでもう分かっていたかのようだった。
室の中央には、魔城や水晶の塔にあったのと同じ、霜を固めたような
白い柱が立っていた。
「魔王。わたしはサイレンから、制御板の本当の隠し場所をきいた。
その指環をわたしにくれたら、その在り処を教えるわ」
バベルは赤剣を床に放り出した。それは降参ではなく、交渉の合図だった。
丸腰で恐れ気もなく魔王に対峙するバベルを、魔王は見つめ返した。
「サイレンの形見の、その指環をわたしに渡して。そうしたら、制御板の
隠し場所をあなたに教える。地上の魔物たちに停戦を命じて。あなたは
制御板を取り戻し、わたしはサイレンの形見を持つ。ひとまず、ここは
引き分けましょう」
「それが、サイレンの遺志か」
「立派に戦って死んだわ。あのひとは、バミューダの戦士だった。わたしは
サイレンに代わり、バミューダと共にこれからあなたと戦う」
バベルは魔王を見つめた。両者のあいだには、赤剣が落ちていた。
やがて、魔王が口をきいた。その手には、銀の指環があった。
「指環を渡せとな」
「指環と制御板を分け持つの。それが引き分けのしるし」
「そなたがまことの制御板を持って来れば、考えてやろう」
「あなたが指環をわたしにくれるのが先」
バベルは白い柱を仰いだ。星座のような光の配列が柱の表面に木漏れ日の
ような模様をつくっていた。サイレンは去る前に、バミューダたちに伝えた。
『魔王は船を人間界に運んで落すつもりだ。あの船の機関部は有害な毒素で
動いている。船の爆発は地表に高熱の嵐を起こし、海面水位を上昇させて、
洪水の後には、旱魃と日照りを呼ぶだろう。魔王に船を渡してはならない』
遠い夜空の、あの星と同じ環境に。
「谷の戦いを止めさせたいの。たとえ拷問にかけられても、制御板の在り処は
指環と引き換えでないかぎり、明かさないわ」
バベルは一度床に投げ出した赤剣を拾い上げると、鞘をはらい、切っ先を
自分の胸に向けて、剣の柄頭を魔王に差し出した。肋骨の隙間から確実に
剣先が心の臓に入るように、腕を伸ばして剣を支え持ち、魔王を睨んだ。
「指環を渡し、氷河の谷から兵を撤退させて。さもなくば、わたしは此処で自分の
胸を突いてサイレンの後を追う。サイレン亡き後、制御板の在り処はわたししか
知らない。わたしが死ねば、この船は永久にあなたの手には渡らなくなる。
どちらがいいか、すぐに決めて」
「ずいぶんと虫のよい取引だな。竜神の娘よ」
魔王の影が、バベルの方へと踏み出した。バベルは剣をおのれの胸に
あてたまま、その場から動かず、じっとしてた。魔王の影がゆっくりとバベルの
上に被さった。水晶の塔で重ねた夜と同じように、魔王はバベルをその腕の中に
捕らえようとしていた。
室内を満たす金銀の光が遮られて暗くなった。バベルは動かなかった。
「その物騒な剣をしまえ。制御板の隠し場所を教えるのだ、バベル」
「あなたが指環を渡してくれたら、そうする」
「制御板の在り処を訊き出した後で、もう一度そなたから指環を取り返すことなど、
余にはたやすいことだ。方舟から逃げてはどうだ?」
「わたしは、竜神の騎士の娘」
バベルの眸はまっすぐに魔王を見ていた。
「背中を向けることはしないわ」
魔王は口端をわずかに吊り上げた。バベルは剣を下ろさなかった。
魔王は嗤った。
「余に抗うつもりか。では、その剣をなぜ余に向けて、剣を交えようとはせぬのか」
「魔物たちを氷河の谷から撤退させるにはあなたの命令がいる。それに闘った
ところで、わたしはあなたには敵わない」
竜神の娘は外の戦の返り血を浴びたままだった。
「どうするか、すぐに決めて」
魔王に選択を突きつるバベルには覚悟の凄みがあった。剣の先を
胸にあてて、バベルは待った。
ややあって、魔王は身をかがめ、銀の指環を手から外した。
「そなたが死ぬというのなら、渡すほかあるまい。剣を棄てよ、竜神の娘」
魔王はバベルの片手をとると、やさしいといってもいい仕草で、バベルの
指にそれを通してやった。
魔王から指環を受け取ったバベルは、すぐにそれを自分の手の中に固く
握り締めた。魔王は次にバベルが何をするのか、愉しみに待っているようであった。
わざわざ室外に出る退路もあけて、バベルの出方を見ていた。
「わたしは、護城兵だったわ」
バベルは赤剣を近くの箱の上におくと、船の心臓部の白い柱へと歩いていった。
叙任式に打ち上げられた、夜空の花火。近衛よりも、運河の護り役になるよりも、
わたしは空に出たかった。
「だから、妖竜に乗れる、前線勤務を志願した」
そこでなら、小さな星の命として、精一杯生きられるような気がした。
星の風に親しむことは、二度と地上に安住できぬ身になることだと忠告されても、
何とかして地べたに引き落とそうとする重力から、少しでも離れたかった。
「制御板は、サイレンの言葉に従い、サイレンの任命した航海士の指示に従う」
「バベル。何をする気だ」
「サイレンの遺言伝える」
バベルはたくさんの金色の花火を見上げた。回転している星座を見た。
「船よ、金星に還れ」
バベルの指環をはめた手が、柱に触れた。
身をひるがえすバベルを、魔王が追った。船の心臓部に残された赤剣が
床に落ちた。金銀の花火がこれ以上ないというほど箱や壁の中で跳びはねて燃え、
船の心臓を太陽の中のように熱く変えた。動き出したその重低音と振動は、瞬く間に
船の中に伝播していった。
バベルは王の間に駈け込んだ。そしてサイレンの亡骸の上に覆いかぶさった。
氷の棺がずり落ちて、土石流に流されるように傾いた。揺れる床を踏み越えて
追いついた魔王がバベルをサイレンから引き剥がそうとした。バベルの手を
掴みながら「船を停めろ」と魔王が怒鳴っていた。バベルはサイレンから離れなかった。
船底から轟音がわき上がった。その音は、夕闇の氷河の谷を震わせた。
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