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◆一.魔王
少女は、竜の背にとび乗った。
飛竜がその翼をひろげる風が立つ。翼のかたちから飛竜は蝙蝠とも呼ばれる。
竜のあぎとから首にかけた枷の手綱を握り、城砦都市をまもる少女兵は猛る竜に命じた。
「白竜、あの魔人を追え」
鐘楼の鐘が竜の翼のおこす風に煽られて不規則に鳴りはじめる。
飛竜の尾が地を離れた。誰だ、そこで何をしている。そんな騒ぎが聴こえる頃には、
竜に乗った少女の姿は砦を離れ、乱調の鐘の音ひびく天空はるかに高かった。
「バベル」
兵舎から出てきた男たちが空を仰いで少女の名を呼ぶ。
運河を有した城砦の城下は夕餉の時刻だった。バベルはちらりと下方の街を見て、
短く切った髪をなびかせ、雪山に沈もうとする夕陽の方へと竜の向きを変えた。
胴のながい飛獣を覆う鱗が銀色に照りかがやくさまは、まるで鳥の群れだ。
「飛べ、白竜。日没の、あの雲の中へ」
白竜を操る少女は、風よりも速く空を翔ける。
津波のように押し寄せる夕映えの雲を切り、探すは、災禍を招く魔人サイレン。
流星のように頭上を過ぎていった。
「大変だ、魔物が来るぞ」
「また人が殺される」
夕焼けの空にバベルもそれを見た。人界に禍をもたらす魔族の魔人が、怪鳥の背に
乗って過ぎるのを。
「魔人を討ち取ったら、王から金貨を一千枚」
しかし誰もまだ、それを果たした者はいない。
「噂じゃ、南の離島の漁師が海の魔物を網で捕獲したそうだ」
「陸に戻る途中で妖魔の仲間に追いつかれ、岸辺に漂い着いた舟の中には
漁師の肉片と、水魔のうろこしかなかったそうだ」
「バベル、お前なら魔属を討てるかも」
「果たせたら、わたしをここから出して頂戴、バベル」
格子のはまった娼家の窓から、女の手がバベルを掴む。床をこする足枷の音。
何人もの男が通り過ぎた後の寝台のにおいは、夜明けの青い風にも見棄てられている。
下町の遊館は運河に面し、夜の女がそこから逃げることは足枷がなくとも不可能だ。
兵役に就いている若者の遊び方は男でも女でも区別ない。少女兵バベルは
男娼よりも、女を選ぶ。疲れて何も考えたくない時に、女に優しくされながら
眠るのは気持ちがいい。
「とても辛いの」
陽にあたることのない女の白い顔。昨晩も、足枷だけはそのままだった。
運河に流れる霧はまだ晴れない。バベルは馴染みの女の手に接吻して、娼家と別れる。
「ここから出して。そして、わたしにも御空の世界を見せてちょうだい」
まっぴら御免。
空は戦場だ。
城砦都市の鐘楼が地平にうせた頃、雪山の前方に、目指す妖魔の
しもべの翼が見えた。飛竜とよく似た魔獣の背から、魔人が振り返る。
山肌ぎりぎりに沿って、バベルは竜を飛ばせる。飛行軌跡に沿って雪が
直線に舞い上がる。夕陽に染まって延々と続く地表の山脈は、恐竜の骨のように白く尖り、
高山の起伏は地表に浮き出た世界の根のごとく下界の視界を覆いつくしている。
太陽の影に入り、雪に覆われた急斜面は青褪めたつめたい色にかわった。
魔獣が滑空を開始した。岩肌にそって斜面を落ち、それを追うバベルと白竜を
あざ笑うようにして、妖竜は尾をふり、なだれを起こしながら、暗い谷間へ降りてゆく。
山岳に夕方の雪がまた降り出した。バベルの頬を雪のかけらが叩く。
少女の飛竜と魔人の操る怪鳥は、垂直落下する二つの岩とも見まがう速い影を引いて
夕闇の谷底へ向かって急降下した。
翼の音が耳の鼓膜を掠め、それは不意に、岩場から掻き消えた。真上にその影。
「サイレン!」
「それは余の名ではない」
急上昇する時特有の鈍痛を、バベルは歯を食いしばって耐えた。
舞い上がる雪の中ではじめて聴く魔人の声は、低く響く樂の音のようだった。
ばら色に燃える山岳の上空に出たバベルが放った鉄の矢を、魔人は避けもしなかった。
鐙に足をかけて身を支え、バベルは竜の背の上で次の矢をつがえる。
はばたく妖竜にまたがる魔人は燃えたぎる夕陽を背に嗤った。
「蝙蝠ごときで、よくぞ此処まで追いついて来たもの。きこう、なぜ余を追う」
太陽に向かってバベルは弓矢を放った。
バベル、お前は遠い昔にこの地にあまたおられた、竜神の騎士の血をひいている。
妖魔と互角に闘えるのは、騎士の黄金の血を受け継ぐ者だけ。お前なら、魔物の中の
高等種族である、魔人も斃せるかもしれないね。
「災禍を招く魔物め」
「勇敢だな。余のしもべがお前に怯えているところをみると、竜神の末裔か」
黒髪をなびかせて魔人が笑った。その双眸は鮮やかな金だった。
下方からでは不利だ。バベルは弓を棄て、竜の手綱を片手に巻きつけた。
あいた片手で剣を抜き放ったバベルの凛々しいかんばせを、夕暮れに散る雪が彩った。
妖竜の下を旋回し、その死角をとらえる。
「太古の眷属の不幸な落し物だな。余はそこらの魔族ではない。余には敵わぬぞ」
「白竜、行こう」
飛竜が翼をはばたかせて咆哮し、魔人の妖竜めがけ翔け昇った。剣を持った少女を
乗せて攻城兵器の砲弾のように直下から妖竜に爪をたて、その首に噛み付く。
その衝撃でバベルの身が鞍から浮き上がった。竜と竜が絡み合う雄たけびと、剥れた
うろこが雪景色の上空に飛び散った。
バベルは剣を振り上げた。至近に魔人の顔があった。少女の一撃を魔王は篭手で
防いだ。息を吐いているのはバベルだけだった。すばやく剣を両手に持ち替え、
竜の背に立ち上がった少女を見て、魔人は片眉を吊り上げた。
魔人はその手をバベルにのばした。
「落ちるぞ」
耀く雪は、夕陽を凝縮した金色をしていた。それは妖魔の眸の色だった。
二頭の竜が吼え、翼が風をはらんだ。魔人の妖竜の尾が一面に生えたその刺で
バベルの竜を打った。白竜がはじき飛ばされ、飛竜の鞍の上に立ち上がっていたバベルは、
落下する竜の背から真横に投げ出され、はるか下方に吹っ飛ばされた。
途中でバベルは剣を失った。墜落の勢いごと新雪の積もる傾斜面を転がり落ちて、
絶壁の淵でようやく止まった。白い雪の上に点々と零れる落ちる血を、引きずられてゆく身で
バベルは眺めた。
「まだほんの子供ではないか」
妖竜の口ばしからバベルを受け取り、渓谷で待っていた魔人は
バベルの髪をはらった。残照がふちどる少女の顔は、頬にすり傷を負っていた。
ひとの数倍ともいわれる寿命をもつ魔人は、少女のすべらかな頬を指でふちどった。
太陽は燃え尽き、雪は止んでいた。
「そなたの白竜と、そなたの剣は谷底に消えた。降参するがよい、娘よ」
「バベル」
「それがお前の名なのか」
「妖魔の巣に連れて行かれるくらいなら、ここで殺して」
「勇敢な娘も、魔物の城は怖いとみえる。積もった雪が幸いしたな。竜神の血を
ひいているならば、この怪我もほどなく快癒しよう」
魔人はバベルを小脇に抱えて、魔獣の背にまたがった。バベルを前鞍に横たえる。
妖竜はすぐに飛び立った。その姿は、空を翔ける流れ星に喩えられる。
黄昏の山脈が眼下に遠くなり、つめたい夜風がバベルの唇に滲む血を凍らせた。
バベルは薄めをひらいた。暮れる空には、魔人の眸と同じ金色の星が強くかがやいていた。
とても、辛いの。ここから出して。
鉄格子の隙間から手を伸ばしていた女の切実が、同じ境遇になってようやく
分かるとは。
魔人は、魔物という魔物を統べる長、魔族の王だった。
雪山で怪我を負ったバベルを、魔王はその居城ではなく、人界と魔界の境に
孤立して建つ水晶の塔に閉じ込めた。
魔王と交わることに、バベルは厭わしさを覚えなかった。それはただ、気だるく、
苦しいひと刻だった。
「眼を閉じていてもいい?」
「かわいい子だ」
熱い霧の中をくぐっているような交合の最中、息苦しいその合間に、
バベルは眼を開けてみることもあった。繭のような帳に灯火が映し出す
妖しきものは、ひとの形であってひとでなきものの、猛々しい何かだった。
与えられた裾のながい薄物をはじめ、ひとに必要なものは
全て塔に揃っているところをみると、水晶の塔の天辺に繋がれた
人間の女は、バベルがはじめてではないようだった。
墜落の際に負傷した少女の怪我の手当てをし、人間の口に合う食事を
用意させる魔王は、ちょうど人間が森から連れ帰った傷ついた小動物に対して
そうするような手間と吟味をかけて、満足げであった。
「バベル」
行為の最後に、魔人はおのれの手首を尖ったその歯で咬み切ると、溢れる鮮血を
バベルに呑ませる。従順な奴隷のように、バベルはそれに従う。赤い唇をひらいて、
魔王が口の中にそそぐものを一滴のこらず呑み下す。交歓の悦びも、表情もなく、
バベルはそうする。
バベルの片方の足首には、水晶の塔に連れて来られた日からずっと鎖つきの
足枷がはまっていた。その端は室の中央を貫くいっぽんの白い柱に繋がれており、
身動きするたびに耳障りな音を立てた。その鎖の重みは、魔塔に幽閉された身に
無力を教え、命が朽ち落ちるまで、そうされるのだった。
バベルは長い鎖を引きずりながら室の隅々を歩き回り、諦めることなく武器に
なるものを探した。この焦燥こそが、厭わしい。
幾夜過ぎただろう。
蜘蛛の網に似た金糸銀糸の妖糸で織られた幾重もの見事な帳を払いのけて、
バベルは塔の露台に出た。風吹く群青の空には金の星があった。魔族らは、夜明けと
日没にくるめくあの星から、この星にやって来たのだという。
手すりに手をかけて下をのぞけば、雲のたなびく眼も眩むほどの奈落であり、
底も知れないその白濁の中には、塔の見張りらしき飛獣が何匹も飛んでいる。
バベルは露台に坐りこんで、柱に額をつけた。護城兵の役に就いた時に、肩までの
長さに切ってしまった少女の髪が、風になぶられた。
氷柱を積み建てたような塔の天辺に閉ざされたバベルの身の回りの世話をするものと
いえば、人語を解さぬ下等の妖魔ばかりであったが、どうやらこの塔は魔王が特に気に
入った女を飼っておく檻なのだと知れた。そうでなくば、魔王に手向かった人間など、
とうに引き裂かれて殺されていただろう。
「ここから出ることはできないの?」
「余に刃向ったものには仕置きがいる」
「わたしが竜神の血を持つから?」
おそらくはそうなのだろう。かつて、魔族もひとも従えていたという尊き竜神の血を
バベルはその血脈にもっている。その竜神を斃して、竜の黄金の血を呑んだのが
竜神の騎士であり、バベルはその末裔だった。
卑しき人間の血と、竜神の血を同時に征服する悦びが、魔王がことさらバベルに
執心し、興をおぼえる理由なのだ。
バベルは膝を抱え、遠い金の星を見つめた。真珠色に流れる夜の雲の他は
空をみても、動くものとてなかった。
そのうち否応なく、唯一の訪問者であるあの魔人を待ち望み、その訪れを
乞うようになるのだろう。飼いならされて、その夜を恃みに、心待ちにするように
なるのだろう。惨めに、こうしているように。
時を忘れたような日々が過ぎた。
雲のうかぶ青空に、めずらしき妖竜の影があった。
その尾のかたちが魔王のしもべのものとは違うことに気がついて、バベルは
露台に出て行った。塔の番人の怪鳥たちが下から上昇してきて、たちまちのうちに
見知らぬ妖竜に威嚇の咆哮をかけたが、それを突っ切り、水晶の塔に向かって
妖竜はすごい速さでぐんぐん近づいた。
バベルいる露台に、竜の翼の影が大きく落ちた。
吼えかかる飛獣の群れ中、まっすぐにバベルの処にまで飛んできたその
妖竜の背には、ひとりの若者が乗っていた。手綱を握るその者の見た目はひとと
変わらなかったが、その眸は、魔族であることを示す、うすい金色をしていた。
見張りの魔物が集まる驟雨のような音が塔を包んだ。数を増やし、耳障りな
奇声をあげて、翼ある魔獣たちが若者の妖竜に襲いかかろうとしている。
「魔王が寵愛している人の子とは、君のことか」
若者は竜の背に乗ったまま、水晶の塔の手すり越しにバベルをじろじろと眺めた。
侵入者を咎めて周囲を飛び回っている飛獣たちを若者は一瞥すると、威厳のある
仕草で彼らに向けて手の平をかざした。バベルからは、何かの光しか見えなかった。
若者は手の中に指環の光を隠した。
「魔王にはこれは通用しないが、下等な妖魔には効き目がある」
飛獣たちは奇怪なことに、その指環の光に貫かれると、一尾のこらず水晶の
塔から遠のいた。
バベルは手すりと竜の距離をはかった。若者は剣を帯びている。あれを奪えれば。
「ぼくを突き落として、竜を乗っ取るつもりかい」
察しよく若者はそれを見抜いたが、バベルから離れず、さらに妖竜を塔の露台に
近寄せてきた。妖竜の翼が立てる風にバベルの衣の裾がまき上がり、塔に繋がれた
足枷があらわになった。
少女のほそい足首に嵌められた足枷をみると、若者の顔が曇った。
「どうする、ぼくと来るか」
「どこに。一度でも妖魔とまぐわった女を、人里は決して入れないわ」
「だから云った。ぼくと来るかと」
若者の眸は金色だった。彼は、魔族なのだ。
塔の番人たちがふたたび吼えだした。雲の果てに、魔王の竜が現れたのだ。
それを見て、バベルは露台のほそい手すりの上に立ち上がり、長い鎖を外に投げた。
氷を砕くような音をたて、少女の足枷の鎖を若者はただちに剣によって断ち切った。
バベルは若者の妖竜めがけて宙をとんだ。
お前は竜神の血を持つ娘。
若者は両腕でバベルを抱きとめ、妖竜の背に迎え入れた。騒ぎ立て、止め立て
しようとする飛獣たちを、かざした指環の光で制止する。
「力あるものを、ぼくたちは歓迎する。ぼくたちは、バミューダの戦士。魔物と人間の
あいだに生まれた混血で、妖魔たちと戦っている」
バベルは若者の腰に手を回して、しっかりとしがみついた。水晶の魔塔が遠ざかる。
魔王とはまだ距離があった。妖獣を急がせながら、魔王が空に向かって呪いの言葉を
上げていた。バベルを攫った若者を、魔王はその名で呼びつけ、激怒していた。
「サイレン!」
バベルは若者を仰いだ。金の眸をした若者は、魔王を振り返ることなく、前方の風に
眼をこらしていた。
サイレン。
「そう。それが、ぼくの名だ」
サイレンは妖竜の手綱を操り、またたく間に、バベルを連れて雲の中に入ってしまった。
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