黒水仙
W.風雲



 パトリス剣士隊の宿舎で、アンドレは手紙を書いていた。
セヴランは兄のレオンと共に街に下宿しており、オクタヴィアン少年は
父君オリバーレス伯爵の末妹である叔母の家に寄宿していることから、
三人のうちで宿舎を使っているのは、アンドレ一人である。
 剣士隊の宿舎は、旧廃兵院の跡地を利用したもので、時代がかった
彫像やら古い時代の碑文などが、あちこちに残ったままになっていた。
 漆喰の剥げかかった壁と板張りの床に午後の陽ざしがまだら模様を
つくっているこの部屋は、「幽霊の間」と呼ばれている。夕方になると
壁際に幽霊が通るのである。何のことはない、天窓の位置と光の加減と
壁のしみがそう見せるだけなのであったが、かつて戦争で傷を負って
廃兵院に収容されてきた男たちの眼には、それは心をおびやかす
怖ろしいものとして映り、彼らを苦しめた。
 「幽霊の間」は相部屋である。
「アンドレ。恋文か」
「そうだ」
 アンドレは末尾を書き終えた。
 ------愛しいオデットへ。 
 呼び鈴を鳴らして従僕を呼ぶと、アンドレはその手紙を意中の君へと
届けさせた。
「君の恋人はいつもオデットだな」
「呼ぶ時に間違えずにすむ。相手が変わるたびに同じあだ名をつけてやる」
「ひどい奴だ」
 アンドレと同室の男は、ファブリスといって、アンドレと同年の凛々しい
若者であった。
 ところが、いつも朗らかで感じのよいファブリスであるのに、その彼が
不眠の証拠である青いくまを眼の下に作り、試しにアンドレが鞘入りの剣を
投げてみても、受けきれずに取り落とすといった具合で、このところ、
夢遊病者のような有様なのだった。
 従僕がアンドレの手紙を持って部屋の外に出て行くと、ファブリスは
そこまで持ちこたえていたものが細糸が切れるようにして失われ、がくりと
床に膝をついた。
「ああ、僕は不幸だ」
 アンドレは薄情な男ではなかったので、いそいでファブリスのところへ行った。
ファブリスは床を叩いた。
「アンドレ。どうか、テレーズを救い出してくれ」
 姿を消した修練女テレーズには秘密の恋人がいたが、その恋人とは、
まさに、このファブリスなのであった。
 セヴランに約束したとおり、あっという間にアンドレはテレーズの恋人を
剣士隊の中から割り出してみせたが、その相手が同室のファブリスだったと
知った時は愕いた。
「安心したまえ」
 アンドレは青褪めているファブリスの両肩に手をおいた。
「同室者であるこのわたしの眼を今まで騙しおおせていたほどだ。君が
ブーティリエ家のお嬢さんと交際していたことは、他の誰にもばれてないさ」
「テレーズがいなくなったのは、僕のせいなのだ、アンドレ」
 髪をかきむしってファブリスは後悔にくれた。
「僕がテレーズを、尼僧院にまで送り届けたのだ」
「それにしても、よく家から連れ出せたな」
「貸し馬車を待たせておいて、まだ星の残る早朝に……テレーズは
寝静まった家から屋根を伝って塀を乗り越えてきた。あのまま彼女の手を
放すのではなかった。テレーズの義兄たちからテレーズを守ってやるつもり
だったのだ。なのに、あんなことになるなんて」
「君がやったことは、後日迎えに行くと約束して、彼女を尼僧院に送り届けた
だけなのだな」
「そうだ。尼僧院の門の向こうにテレーズの姿が見えなくなるまで、夜明けの
坂の下の田舎道から見送った」
「ファブリス。ひとつ訊きたい」
「何でも」
「テレーズ嬢と外で逢いびきする時にも、隊服を着て行ったのか?」
「まさか」
 アンドレの言葉を呑み込んだファブリスは眼を丸くして、大急ぎで否定した。
「外で逢いびきだなんて、そんなことするものか」
「ふうん」
「本当だ。いつも塀ごしに手紙を渡し、彼女の姿を窓辺に見るばかりだった」
「しかし、他の何者かが、テレーズが尼僧院に居ることを知っていた。つまりだ、
君にはもしかしたら恋敵がいたのだ。テレーズをずっと付け狙い、一日中
彼女の家の周りに張り付いていた、何者かの存在が」
「そうに違いない。畜生、彼女を誘拐したのが山賊の仕業でないのなら、きっと
尼僧院へ向かう馬車も、最初からテレーズを狙う何者かに尾行されていたのだな」
「そしてその者は、テレーズの恋人が君であることも、かねてより知っていただろう」
「信じてくれ、アンドレ。僕はテレーズを誘拐などしていない。
古物商にブローチを売った男とも別人だ。何者かが、僕を陥れて、修練女
誘拐の罪を着せようとしているのだ。剣士隊の名誉を損なおうとしているのだ」
 アンドレはファブリスの身を支え、寝台へとはこんでやった。
「信じるとも。君はそんな大胆不埒なことを女相手に出来る男じゃない。
たとえ「幽霊の間」を怖れぬような豪胆者であってもだ」
 掛け布の上からファブリスを叩いて励ましておいて、アンドレはきらりと
眼を光らせた。
「あとは、わたしに任せておいてくれ」


 王室道場に行くと断って宿舎を出たアンドレは、オクタヴィアンを
迎えに行くことにした。
 数年前、新しく入隊した者の中に際立ってかわいいのがいると聞き及び、
アンドレとセヴランが道場にひやかしに行くと、対戦相手を片っ端から
打ち負かしているのがいて、それがオクタヴィアン少年であった。
 オクタヴィアンはちょうど、叔母のマリーと一緒に午後のお茶をとっていた。
オリバーレス伯爵の末妹マリーはまだうら若き女人であり、オクタヴィアンに
似て繊細な顔立ちをした、つまりは万人が美人と認める、そんな方であった。
 外交官の夫は大使に随行して外国へ出ており、その不在中、マリーは
弟ともかわいがるオクタヴィアンを話相手としても用心棒としてもよろこんで
何処にでも伴い、連れて行ったが、この二人が揃って出かけると、必ず姉弟と
間違われた。
「アンドレ」
「マリー」
 アンドレはマリーの白き手に接吻した。マリーの手の上にとどまる
アンドレの唇は、礼儀の範疇を超えていささか長く、熱いものであった。
 眼を伏せている黒髪の青年を一抹の困惑と期待とともにマリーは眺めた。
財産契約と家系保持を主目的とした貴族間の婚姻には珍しいことながら
マリーと夫君の仲は良好で、十五歳年上の夫は美しい若妻を友のようにも妹の
ようにも愛し、信頼し、夫妻は精神的な合致と互いの尊敬という幸福に恵まれた。
 マリーの夫には愛人がいる。しかも両刀の方で、男色家でもある。そのことは、
こっそり夫君の後をつけたことのあるアンドレだけが知っている。夫婦の調和と
男の趣くところは別というわけで、当時の慣習からはそれは咎められるべきことでも
何でもない。しかしながら美しき若妻は気の毒である。というわけで、アンドレが
マリーを見る眼つきには、処女でなくとも心ふるえるような、何かのあやしい
熱がこもっていた。
 マリーがそれに気がつかぬわけがない。外交官の夫はもとより不在がちである。
しかし生来の貞淑で慎ましい性格から、マリーはさり気なくアンドレから身を引いた。
 そこへ、セヴランもオクタヴィアンを誘いにやって来た。堅物に見えるセヴランも、
マリーに逢うのが目的なのである。
 二人の青年はこの貴婦人に心からの崇拝を寄せており、ちらちらと互いの姿を
視野に入れては互いを牽制しつつも、マリーが微笑めば、初恋をおぼえた少年の
ごとく、ほっとして微笑みを返したり、むすっと黙り込むといった具合であった。
 居間には、この家の主であるマリーの夫君の肖像画が架かっていた。樫の葉
文様の金枠の中におさまっているのは、男でも惚れ惚れするような、男ぶりのいい
貴人の姿であり、マリーはマリーで、まるで小さな少女が大人の男にそうするように
この男を敬慕しているのだったから、なおさらアンドレとセヴランにとっては憎らしい、
不倶戴天の敵とも思う、どこぞの外国の山道で馬車が横転して谷底に消えてくれは
せぬものかとつい願いもする、そんな男の肖像画であった。
「アンドレ。セヴラン」
 マリーは潤んだ眸で、いつものように二人の青年剣士を見上げた。
「オクタヴィアンのことをお願いしますわ。お腹をこわすので冷たい生水は
飲ませないように、気をつけてやって下さいな」
 仕度をして出てきた元気いっぱいのオクタヴィアン少年を伴って一同が
向かった先は、王室道場ではなく、剣士隊の詰所であった。
 そこには、大鷲級の「むっつり」のヴィクトルと、「お獅子」のユーグが
待っていた。
「お兄さまは?」
「レオンはパトリス様に呼ばれて、お屋敷だ」
「ノアイユ伯爵夫人の家?」
「大人の情事に口を出さない」
「さて、困ったことになったぞ」
「駈落ちでなかったからには、やはり誘拐事件だ」
「しかもだ。テレーズ嬢の恋人がファブリスと決まったからには、誘拐の疑いは
まっすぐにファブリスに向かってしまう」
「彼がテレーズ嬢を殺したのでは」
 金髪のユーグは冷淡にさらりと陰気なことを推理した。
「尼僧院から連れ出すつもりでいたところ、気が変わったテレーズ嬢が
彼の愛情を拒んだ。かっときたファブリスはテレーズを殺して森に埋め、
捜査をかく乱させるために、テレーズ嬢のブローチを都で売った」
「もしそうならば、最悪です」
 セヴランがいやな顔をした。
「そうなっては処分はファブリスだけでなく、パトリス剣士隊にまで及んでしまう」
「だから、そうならぬようにこうして集まっているのではないか」とヴィクトル。
「ブーティリエ家の兄たちがやはりあやしいな」
「残念ながら、兄弟の全員に不在証明が立っています」
 オクタヴィアンがその疑いを否定した。
「テレーズさん誘拐後も、彼らは都から離れず、家と店を往復するほかは
とくに目立った行動もとっていません。テレーズさんが尼僧院にいたことは
本当に知らなかったようです」
「では、やはりファブリスしかいないではないか」
「馬車の馭者」
 アンドレが帽子を手にとった。
「それだ!」
 全員が立ち上がった。


 大陸における交通手段は馬車ではなく、まず、河船から発達した。
 都市が必ず大河沿いに発展したのは肥沃な大地と水の恵みを得る
ほかにも、移動、移送手段として河が大いに利用できたからで、整備
されない陸路を乗り物でゆくことは、乗り物自体に重量があるために、
今日想像する以上の、大変な難業であった。
 かつての古代大帝国が内陸に張り巡らした舗装道路は帝国の衰退と
ともに打ち棄てられて、街道のほとんどは往時の栄光の遺物として半ば
草に埋れて消えてしまい、都市部などの限られた区域のみで利用されていた
馬車が都市と都市を繋ぐ道の整備によってようやく長距離移動手段として
復活し、定着しはじめたのは、ここ数十年のことである。
 馬と馭者は宿場にて一組で雇う。馬車がないのなら、貸し馬車を得る。
投げ上げた貨幣の裏表で決めた者がそちらの調査に向かうことにして、
居残り組となったアンドレとセヴランは、「むっつり」ヴィクトルと一緒に
印章を商っているブーティリエ店に行ってみることにした。
 印章とは、手紙を封印する際に蝋燭をたらし、上から持ち主の印を
押し付けて使うものであるが、頭文字のほかにも、花や動物などの
凝った意匠のものもある。
「印章なぞ、いらないが」
「そういう問題じゃないですよ」 
「ファブリスはこの店で店番に出ていたテレーズと出逢ったそうだ」 
 アンドレら三人は連れ立って玄関に入った。
 ブーティリエ店は表通りに面した堂々たる店構えで、印章は注文に応じて
在庫から出してきたり、特注を受けて一からお抱えの工人に作らせたり
しているようであった。印章の持ち手のところには、ブーティリエ製である
印として店名が小さく彫りこまれている。
 番号札を受け取り、待合で待っていると、やがて上っ張りを着た店員が
御用聞きに現れた。
 待っていたのがパトリス剣士隊の者たちだと知ると、店員は一旦
奥に引っ込んで、代わってブー家の長男と次男が揃って応対に出てきた。
「これは、皆さん」
「あずかっていた、テレーズさんの置手紙を返却に参りました」
 薬缶をさげた番頭が彼らにお茶を振舞うのを待って、セヴランが
テレーズの手紙を彼らに返した。次男が落ち着きなく身を乗り出した。
「それで、テレーズの行方は分かりましょうか」
「実は」
「実は?」
「テレーズさんには駈落ちの疑いが出ています」
「なんだって」
「相手はこの店の客であろうと思われます。受注名簿を見せていただきたい。
ところで、もうお一方はどちらに」
「下の弟は遣いに出ております。ノアイユ伯爵夫人の家です。それが、その
受注名簿を持って出かけてしまったので」
「ははあ」
 アンドレとセヴランとヴィクトルはちらりと目配せをしあった。ノアイユ
伯爵夫人の屋敷には、隊長のパトリスと、レオンがいる。これは、パトリス
自ら動き出したということである。
 長男と次男は不安そうに、しかしこちらには何の落ち度もないのだ、文句は
云わせぬぞといった傲岸な顔つきで黙り込んでいたが、アンドレが念のために
ファブリスの特徴をあげて、「こういった男が印章を作りに来たはずだが」と
訊いてみたところ、意外な答えが返ってきた。
「いえ、手前どもの店には、そのような方はお見えになりませんでした」
「印章を注文しに訪れたはずです」
「はて。それはどのような印章でしょう」
「頭文字か、何か。とにかく最近のことです」
 ブーティリエ家の兄弟の顔はますます頑強にこわばっていくようだった。
「台帳をご覧いただければ分かります。当店は基本的に先代より
引き続いてご贔屓にあずかっている方としかお取引しておりません」
「新規客はなかったと」
「ファブリスというお名前の方はお越しになっておりません。剣士隊の方もです」
「結構です。どうも」
 そこで、三人はブーティリエの店を出た。顧客名簿を繰っているであろう
パトリスとレオンの方から、何か得られるかもしれない。
 それを待つつもりで、溜り場にしている居酒屋『鯨のはらわた』へと彼らは
移動した。最初の料理の皿が出てこぬうちに、馬車の馭者を調べに行っていた
ユーグとオクタヴィアンが駈け込んできた。
「どうしたのだ」
 アンドレとセヴランが止める間もなくオクタヴィアン少年は卓にあった
冷たい水をごくごくと飲み干してしまった。
「大変です」
 オクタヴィアンは息をつきながら、声をしぼり出した。
「テレーズさんを山の尼僧院に送り届けた馭者は、その日のうちに、酔っ払って
河に転落し、溺死してしまったそうです」
 それを聴いたアンドレはもう立ち上がっていた。
「アンドレ、何処へ行く」
 セヴランたちに応えず、アンドレは陽の傾いた街を走った。宿舎の廊下では
剣士たちが軽く汗を流して剣稽古をしていた。長い影を壁に映しているそれらの
剣の柱をかいくぐり、すいかずらの咲いている庭を駈け抜けて、アンドレは
「幽霊の間」にとび込んだ。出かける時には寝台で眠っていたはずの同室者の
姿はそこにはなかった。少し部屋を外したのではない証拠に、掛け布がきちんと
たたまれて、寝台の足許のほうに寄せられていた。
「ファブリス!」
「ファブリスさん!」
「これはいかん。やはり、ファブリスが下手人か」
 追いついてきた仲間と共に宿舎を探し回ったが、ファブリスはいなかった。
 ファブリスを無実と信じるアンドレは、唇をかみ締め、ファブリスを疑う
一同の前にそれを突き出した。それとは、ファブリスの机の上にあった、
まだ真新しいブーティリエ製の印章であった。


>次へ >目次扉へ >TOP

Copyright(c) 2009 Yukino Shiozaki all rights reserved.