黒水仙
X.極楽の苑



 店に引き返して印章のことを問い詰めようという彼らを、アンドレは引き止めた。
何ごともないのならば、ブーティリエ家の彼らが隠蔽工作をするはずがない。
「おそらく、彼らは何者かからファブリスのことは黙っておくようにと
口止めされたのだ」
「何者かとは、何者だ」
「それが通用し、さらには国王陛下にお仕えする我らの邪魔をする者が、
あの人をおいて他にいるだろうか」
 アンドレはあえて口にしなかったが、全員が、デギュイヨン枢機卿の
石像のような影絵を脳裡に思い浮かべた。
「しかし、何のために」とユーグ。
「嫌がらせだろう」とヴィクトル。
 デギュイヨン枢機卿とパトリスは不仲である。捜査の妨害をされたとしても
数々の過去の不愉快ごとから鑑みて、いっこうにふしぎはない。
「では、ファブリスのこともか。ファブリス君は何処へ行ったのだ」
 そこへ、宿舎の門衛が顔を出した。
「アンドレさん。お戻りだったんですか」
 そこにいる男たちの剣幕に腰が引けつつも、禿げ頭の門衛は手紙を
アンドレに差し出した。
「ファブリスさんが、これをアンドレさんにと」
 引ったくるように受け取って手紙をひらいたアンドレの手許を、大鷲と
若鷲と、ついでに禿げ頭の門衛までがのぞきこんだ。
 『アンドレ。僕のところに使いが来て、テレーズに逢わせてくれるという。
  もし戻ってこなければ、もう帰らぬものと思ってくれ。
  迷惑をかけてすまない。僕は修練女誘拐事件とは無関係だ。
                         ファブリス』
 禿げ頭の門衛のはなしによると、ファブリスは使いの者と二言三言短い
言葉を交わすなり、すぐに外套を羽織って宿舎を出て行ったという。
「これは、ファブリスが敵の手におちたということだろうか」とユーグ。
「河で溺死した馭者の二の舞になるぞ」とヴィクトル。
「王弟オルレアン公に頼んで、国王陛下から警視総監に市内封鎖の
勅令を出していただきましょう」とオクタヴィアン。
「そんなことをしたら、枢機卿の思う壺だ。パトリス隊から不心得ものを
出したということが、あっという間に知れ渡る」とセヴラン。
「ここに居たのか」
 そこへ現れたのは、パトリスに呼び出されてノアイユ伯爵夫人の屋敷に
行っていた、大鷲のレオンであった。
「あ、お兄さま」
「兄さん」
「レオン」
 レオンはアンドレの手から、ファブリスの印章と手紙を受け取った。
「パトリス様とご一緒に、ブーティリエ店の顧客名簿を探っていたのだ」
「兄さん、それで、どうでした」
「ファブリスの名はなかった。しかし、その頁だけ改ざんされた可能性もある。
あるいは、彼が偽名を使っていたとか」
 レオンは印章をひっくり返した。
「枢機卿が我々の邪魔立てをして、ファブリスの痕跡をブーティリエ店から
消させ、なおかつ店主たちに知らぬ存ぜぬをきめこませただと。莫迦な。もしも
デギュイヨンがパトリス様を破滅させたいのなら、むしろ大いにテレーズ嬢と
ファブリス君の関係を暴露して、修練女失踪事件の責任をこちらになすりつけ、
そう思わせるようなかたちで喧伝するはずだ」
「それはそうですが」 
「レオン、むしろこう考えたら。デギュイヨンはパトリス剣士隊の弱みを
握っておいて、いつか使える時がきたら、そのことをちらつかせて
パトリス様を脅すつもりなのだと」
 ユーグがまた陰気なことを云い出した。その間も、アンドレはファブリスの
机を引っ掻き回していた。それは頑丈な樫の木で出来ており、引き出しの
底が二重底になっていた。
「アンドレ、何をしている」
「あったぞ」
 アンドレが取り出してきたのは、きちんと紐をかけられて束ねられた
手紙の束だった。
「あ、駄目ですよ」
 オクタヴィアンが慌ててアンドレの手からそれを取り上げようとした。
「それはファブリスさんに宛てて書かれたテレーズさんの手紙でしょう。
人の恋文を盗み見るなんて。やっていいことと悪いことがありますよ」
 抗議する少年をヴィクトルとユーグに預けておいて、レオンとアンドレと
セヴランは次から次へと手紙を開いて読んでいった。

 『ファブリスさん。
  今日、お店に、外国の方が来られました。
  その方は応対に出たわたしのブローチを見るとひどく愕いた顔をして、
  それはどうしたのか、誰からもらったのかなどと、失礼なことを訊くのです。
  母の形見だと申し上げましたら、貴女にぜひ話したいことがあると云って、
  宿泊先を教えてくれました。それを聴いて、わたしのほうが愕いてしまったわ。
  「極楽の苑」といえば、外国からおみえになった要人しか泊めない最高級
  旅館ではありませんか。そのような方が、いったい、わたしに何の用が
  あるのでしょう。もちろん、行かないつもりです。』
  
 『ファブリスさん、大変なの。例の外国人の話を兄たちに相談したら、
  兄たちはひどく誤解をして、その外国人はお前を誘惑するつもりなのだ、
  お前がその男に色目を遣ったからだろう、そう云ってわたしをひどく
  責めるのです。もうお店にも顔を出してはいけないと云われました。
  それどころか家の外にも出てはならないと。
  これでは、まるでわたしはブーティリエ家の虜囚です。
  塀の隙間に毎日入れて下さるファブリスさんの手紙を庭に取りに行くのも、
  見つからないようにこうしてそこにお返事を入れておくのも、やっとなの。
  それに、二番目の兄さんが夜になると、わたしの部屋の扉を叩くように
  なりました。』

「あの野郎」 
「今度あったら次男を殴ってやろう」
「『万事承知しました。そのとおりにします。愛をこめて。テレーズ』 これが
最後の手紙だ」
「尼僧院へ行く直前だな」
「ひどいですよ、皆さん」
 オクタヴィアンは、自分が傷ついたような顔をしていた。
「女の人の手紙を勝手に読んだりして。わたしはそういったことが嫌いです」
 しかし、誰もきいてはいなかった。
「諸君、ようやく手がかりが見つかったぞ」
「うむ」
「ブローチのことで何かを知っている外国人は、まだその宿にいるかな」
「『極楽の苑』か」
「宿の名にしては、いかがわしい名ですね」
「英雄が死後にそこへ行くという、伝説の極楽浄土のことだ」
「せっかくの手紙をこんなにばらばらにして」
 少年は行方不明になった修練女の手紙を丁寧に重ねて、紐をかけ直した。
多感な年頃の彼には、まるでそれが不吉のしるしであるかのように
思われるのだった。
「ところで、オクタヴィアン。腹はこわしてないか」
「何を云ってるんですか?」
「これから荒っぽいことになるかも知れないぞ」
「だから何です。わたしは剣士隊の一員ですよ」
「冷たい水を飲んだら……」
「それは子供の頃の話です。マリー叔母さまだな」
 オクタヴィアンは少女のように赤面した。
「そうだ、アンドレさん」
 禿げの門衛が思い出した。
「ファブリスさんに面会に来たその使いの者ですが、ほんの少しだけ
外国人なまりがありました」
「決まったな」ユーグが頷いた。
「水晶のブローチの由来を知っているらしき、その外国人が怪しい」
「ファブリスは、その外国人に呼び出されたのだ」
「躊躇している暇はない。馬で行くぞ」レオンが号令をとった。
「お獅子はパトリス様のところへ行って、今までのことを伝えてくれ」
「承知した」
 日の暮れた空は、春のすみれ色であった。ノアイユ伯爵夫人の
屋敷へと向かうユーグと途中で別れ、アンドレたちは大急ぎで
『極楽の苑』のある、極楽通り(シャン=ゼリゼ)へと馬をはしらせた。


 ファブリスは、暗闇の中で物音に耳を澄ましていた。
宿舎に迎えに来た男は辻に待たせていた馬車にファブリスを乗せると、
扉を閉めて鍵をかけ、自分は馭者台の隣に乗ってしまった。その馬車には
窓があったが、外から目張りがしてあり、中からは風景が見えないように
なっていた。
 恋する者の愚かしいまでの一途と情熱、そして勇気から、ファブリスは
テレーズの許へ導いてくれるはずのその馬車に乗った。何よりも、おのれが
尼僧院にテレーズを送り込み、そこでテレーズは難に遭ってしまったのだという
自責の念があれ以来彼をずっと苛んでいたので、たとえこれから行く先で
殺されたとしても、それは当然の罰のように彼には思われるのだった。
 随分と長く、馬車は走った。
 舗道の音を聴いているうち、ファブリスは悟った。同じ道を何度も巡って、
わざと遠回りしているのだ。
「のこぎりの目立て、のこぎりの目立てに御用はございませんか」
「古着、古着はいらんかねえ」
 聖歌のように最後にすこし合間をあけて、間延びした節をつけて歌われる
哀愁を帯びた物売りの声。それらの生活の歌は、この国の名物である。
馬車が同じ場所を巡るたびに、同じ歌声を三度、ファブリスは聴いた。
「りんご、もぎたての、赤いりんごぉ」
「のこぎりの目立て、のこぎり屋でございぃ」
 灯りのない馬車の中でそうやって聴いていると、よりいっそう胸に
沁みてくる歌であった。やがてそれらの歌声も、遠い時代の渦の中に
かき消えるようにして、遠のいた。
 代わって今度は、きちんと舗装された道に轍が規則ただしく
回る音と、しんと静かな、まるで森の中を通っているかのような、
木々のざわめきが馬車を包んだ。
 ファブリスは剣を握り締めた。宿舎の「幽霊の間」を怖れなかったのは、彼の
他にはアンドレだけである。しかも今の彼にはテレーズを救い出すという
強い目的もある。先を怖れるよりは、そちらへと向かっていることに、いよいよ
彼の覚悟はかたまった。馬車が停まった。
「降りて下さい」
 馬車の扉が開くと、真向かいに建物の戸口が開いていた。あたりはすっかり
夜になっており、扉を開けた男が持っている松明のまぶしさに眼がまだ
慣れぬうちに、ファブリスは馬車から建物の中へともう入ってしまっていた。
「テレーズに逢えるのでしょうね」
「お静かに」
 蝋燭を手に持って先に立ち、廊下を案内する男は、もう振り返らなかった。
 最初にファブリスが思ったのは、ここは王宮ではないかということであった。
剣士隊といっても素性はさまざまで、大貴族の子も、貴族とは名ばかりの
地方育ちの田舎者もいる。入隊においては身分を問わぬといっても、それは
貴族階級における身分の上下のことを意味しているのであり、幼少の頃から
剣稽古を受けられるのはもとより限られた階級の者であることから、剣士隊の
構成員は貴族の子弟ばかり、ファブリスもその例外ではなかった。
 訊いてもにやにやと笑ってはぐらかえしてしまう元聖職者のアンドレとは
違い、ファブリスの身元ははっきりしている。田舎領主の子である。
 そのファブリスとても、パトリスに連れられて王の前に出たことはあるし、
お遣いであったり褒賞であったり、何かと王宮や大貴族の屋敷には出入りが
あったので、今歩いているところが惜しみなく贅をかけた、王宮に匹敵する、
しかし王宮ではない立派な建物の中であるということだけは、容易に知れた。
通路の灯りすらも、獣脂ではなく、高級な蜜蝋の蝋燭である。案内の男は
幾つもの小部屋を通り、幾つもの階段を上り、黙ったまま彼を導いた。
 ----大侯のお屋敷でなければ、やはり、「極楽の苑」だな。
 もはやそれを疑わなくなったファブリスの前に、その扉が待っていた。


 極楽通りに着いたアンドレたちは、まっすぐに「極楽の苑」へ向かった。
そこで、彼らは慇懃な支配人から締め出しをくらった。
 「極楽の苑」の一帯は、都市計画により森を切り開いて作られた区画である。
辺りにはまだたくさんの森の名残があり、つまり夜ともなれば、文目も分からぬ
黒い森に落ちたかのように真っ暗になってしまう。しかし古代神殿を模した
柱の建ち並ぶ「極楽の苑」の表玄関には、何がしかの権威の象徴であるかの
ように夜を昼間と変えんばかりのかがり火が明々と燃えており、明かりを
反射させる鏡を張り巡らした玄関の間では、これから観劇に向かうものか
着飾った貴婦人たちが、煌々たる吊り蝋燭の下で馬車を待っていた。
 支配人は玄関まで足をはこんできたが、階段の上に立ちふさがって
そこから一歩も中には入れてはくれなかった。
「どこのどなたをお訪ねであるのかも判然といたしませぬようでは、
お取次ぎもご案内もいたしかねます」
 もっともである。彼らは、テレーズに声を掛けたその外国人の名も
知らぬのだ。
「待て。わたしが知っている」
 昼間パトリスと共にブーティリエ家の受注台帳をくっていたレオンが
或る外国人の名を挙げた。が、それを聴くなり、支配人の顔はいっそう
固くなるばかりで、しまいには、「警察を呼びますぞ」とまで云われてしまった。
 レオンは怒りをおさえて頼んだ。
「ためしに、その外国人、おそらくはいずれかの貴人の随行の方だと
思うのだが、その方にブローチの件で話があると、そうお伝えいただけぬか」
「お泊りのお客さまは、そのお連れさまを含めてですが、皆さまやんごとなき
ご身分の御方ばかりです」
「ブーティリエ印章店の件とだけ伝えてくれればよい」
「面会についても、伝言につきましても、ご紹介状なき方はお通しするわけには
まいりません。何しろこちらにお泊り下さっているのはお一人様残らず、国賓
待遇の方ばかりなのでございます」
「その紹介状とは」
 支配人はうやうやしく頭を下げた。
「もちろん、デギュイヨン枢機卿さまの封印つきのご紹介状でございます」
「オルレアン公フィリップ様に頼もう」
 追い払われた彼らは、すぐにそう決めた。もちろん、その前にはパトリスを
通さねばなるまいが、オルレアン公は剣士隊の果断の士たちが大好きで、
訪ねて行けば比較的気さくに目通りをかなえてくれるのである。
 品性賤しい成金は恩着せがましく、しみったれて、おのれを高く見せる機会は
外さぬとばかりにもったいぶるが、生まれつき身分にも容姿にも、また快活な
性格にも恵まれた貴公子は、下の者が自分を頼って何かを願いにきてくれる
ことが嬉しく、惜しみない援助をその者に与えるものである。
ましてや、オルレアン公はパトリス剣士隊の後ろ盾であることを自認している。
なので今回も、自分がその冒険に参加できぬことを悔しそうにしながらも、公は
彼らの為に便宜をはかってくれると思われた。
「パトリス様には、後からご説明すればいい」
「王弟殿下から王に頼んでもらい、王命でデギュイヨン枢機卿に新しい紹介状を
書かせるのだ。もちろん、それを使うのは我々だ」
 ここで、何かにつけて彼らがオルレアン公を便利に頼っていると思わないで
いただきたい。踏むべき手順を踏まねば目的に達せぬ、しかもそれが火急の
件ともなれば彼らはそれを踏むだけなのであり、むしろ志操の持ち主である彼らは、
オルレアン公や他の誰かに対しても、安易な願い事を重ねることを、恥と思うほど
であった。
 しかし、その夜の彼らには運がなかった。
ノアイユ伯爵夫人の屋敷にパトリスを訪ねる時間も惜しいとばかりに、代表に
選ばれた「お兄さま」レオンが馬を駈けとばして王弟のすまう宮に行ってみると、
オルレアン公は廷臣の一人に誘われて、遠方の森に狩猟の旅に出かけて
しまった後であった。


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