黒水仙
Y.闇をひらく水晶
オルレアン公の許からレオンが帰ってくるまで、アンドレたちは
二手に分かれ、「極楽の苑」を遠巻きにして監視していた。
ランテルヌ灯にせよ、やがてそれに代わって台頭してくるレヴェル
ベール灯にせよ、公共照明が徹底していない都の夜は、真っ暗闇である。
通りに面した家は窓辺に灯りを置くようにという勅令が何度も出されたのにも
かかわらず、高い建物はまるで大木のように夜空を隠して、田舎よりも暗かった。
夜警は毎夜、十を超える死体を道端から発見したし、共同墓地に
葬られるもの以外にも、河に投げ込まれてもう二度と浮かび上がってはこない
犠牲者を数えては、都の夜こそは人間狩りが横行する、怖ろしい狩場であった。
「アンドレ」
彫像の蔭から「極楽の苑」を見張っているセヴランがアンドレに
話しかけた。オクタヴィアンは大鷲級のむっつりヴィクトルと一緒に
反対側の通りの角にいる。ユーグはノアイユ伯爵夫人の屋敷に
パトリスを訪ねて行ったので、現場に残ったのは四人だった。
「古物商に水晶のブローチを売りに来たという若い男。あれも、テレーズに
話しかけたという、その外国人だろうか」
松明に照らされた「極楽の苑」の玄関は、そこだけが夜の中に明るい
かまどの口のようであった。
アンドレは彫像の台座に凭れて夜を仰いだ。春の月が出ていた。
月夜には蝋燭節約の為にさらに灯りが消されるので、建物や石畳が
ぼんやりと白っぽくその輪郭を闇の中に浮き立たせている。この街は、
冥府のようだ。
セヴランは外套を身に巻きつけた。
「ブーティリエ店を訪れた外国人は、テレーズと話がしたいと云った。
彼女はそれには応じなかった。しかし外国人は諦めなかった。彼女に
近づく機会を狙ってブーティリエ家を見張っていた。そしてテレーズが
ファブリスに連れられて尼僧院に入るのを見届けると、これ幸いと、
ひと気がないところを狙って、テレーズを森から連れ去った」
返事の代わりにアンドレは相槌をうった。
この区画はもともと森をひらいて、農地にしたり、庭園を造っていた
ところである。都市計画によって開発中といっても、まだまだ森の名残を
とどめて閑寂としており、夜の静寂のうちにも、小川が流れる音や、ふくろうの
啼き声も聴こえていた。
「その外国人はこの国の内情によほど詳しい人間だ。過去に贋作ブローチ
騒ぎがあったことを含め、あのブローチの由来を知っているのだから」
「それは、どうかな」アンドレは口を挟んだ。
「外国人は、テレーズのブローチを見て愕いた。もしブローチに何らかの
価値を見出しているのならば、そのブローチを古物商などに売りに出すだろうか」
「それもそうだ」
セヴランは口を曲げて腕を組んだ。
「ではブローチなど口実に過ぎず、アンジュー伯のことも関係なく、最初から
テレーズ嬢が目当てだったとか」
「それでは、ファブリスには用はないはずだ」
「あ、そうか」
お手上げのしるしに、セブランは星月夜に眼を向けた。
「古物商にブローチを売りに来た若い男とは誰なのだ。やはりファブリスが
疑われても仕方がない」
アンドレの眼がきつくなったので、セヴランは慌てて口を閉じた。
冷淡に見えて、アンドレは同室者想いなのである。
アンドレは懐を探って包みを取り出し、くるんでいた布をほどいた。
水晶のブローチはつややかな光を帯びて、小石のように月の下にあった。
アンドレは彫像の近くの松明に歩いて行くと、明かりを頼りに短剣を
取り出して、水晶をブローチの台座から外しはじめた。
「アンドレ。何をする」
愕きつつも、セヴランはアンドレの手許を見つめた。アンドレはブローチの
外枠の留め具を起して水晶の下に剣の切っ先を差し入れている。
「怪我するなよ」
ブローチは金の枠に留められていたので、少し力を入れると真鍮よりは
楽に動いた。
「牡蠣の身をはがす時みたいだな」
「ファブリスの机の引き出しが二重底だったのを見た時に思いついた」
石を留めていた台座が外れた。水晶を取り除き、それを載せていた
楕円形の平たい円盤を、アンドレは裏返した。
「何か書かれてある」
「暗くて見えない」
二人して小さな楕円を明かりの方へとかざした時だ。
「アンドレ。セヴラン」
反対側の建物の蔭からオクタヴィアンが小さく叫んで、手を振っていた。
彼らが振り返ると、そこへやって来たのは、デギュイヨン枢機卿の腰ぎんちゃく、
枢機卿の親衛隊のカンタンであった。
カンタンは偉丈夫で、見るからに剣の猛者であった。
アンドレとセヴランはその前にとび出した。レオンやユーグがこの場に
居たなら、彼らに代わってそうしたはずである。
下僕に提灯を持たせて歩いてきたカンタンは、道を塞いだ人影を見て腰の
剣に手をかけたが、相手がパトリス剣士隊の若鷲だと知ると手をおろした。
「パトリスのところの、若いのか」
「カンタン殿。夜分どちらへ」
「答える必要はない」
偉ぶって、カンタンは顎をそらした。
「その方らこそ、「極楽の苑」の前で何をいたしておるのか」
「カンタン殿こそ、「極楽の苑」に何の御用です」
「用があるから来たのだ」
「デギュイヨン枢機卿の紹介状を持っておられますね」
直感であったが、あたりのようであった。アンドレとセヴランは同時に
剣を抜いた。カンタンも顔色を変えて左右に眼をくばる。
「喉から手が出るほど欲しい紹介状をカンタンが持ってやって来るとは」
「飛んで火に入る夏の虫とはこのことだ」
アンドレはセヴランと囁きを交わすと向き直り、カンタンに剣先を向けた。
「渡してもらいましょう」
「はて、何を」
「お持ちのところの、枢機卿の紹介状を」
欲しい、それが欲しい。こうなった時の若者の衝動と闘争本能と
いうものは、止められたものではない。カンタンがデギュイヨンの私兵中
もっとも腕が立つ者であることは百も承知であるが、こちらは二人である。
人数で勝っていることがアンドレとセヴランを突き動かした。
「紹介状をおいていけ、カンタン」
「断る」
「カンタン様」
闘いが始まった。提灯持ちは、逃げるべきか、その場に踏みとどまって
明かりを掲げておくべきか散々まよった挙句、提灯を石畳の上において、
巻き添えにならぬ場所にまで走った。逃げた方角というのが、オクタヴィアンと
ヴィクトルの待っているところであったから、彼はたちまち漁網にかかる魚の
ようにして、ヴィクトルとオクタヴィアンに捕まってしまった。
「枢機卿から何を命じられてカンタンは此処に来た!」
二人からしめ上げられても、下僕は「知らない」の一点ばりであった。
本当に知らないのであろう。その間にも、キンキンと、金物売りが立てるような
音を続けざまに立てて、アンドレたちは夜道で大立ち回りをやっていた。
「セヴラン」
「くそっ」
「お兄さま」レオンが警戒するだけあって、カンタンはさすがであった。
二人の剣士を相手に、一歩も譲らず、彼は右手に長剣を、左手に短剣を持ち、
彫像を盾がわりにしながら、右から左から、両手の剣を操って彼らの攻撃を
かわし、かと思えば蛇が獲物に襲い掛かるがごとき跳ね上がった鋭い突きを
入れてくる。凄まじき剣さばきとその技量に若鷲たちはおされた。カンタンの剣が
セヴランを掠めた。アンドレはセヴランとカンタンの間にとび込んで、セヴランを
沈めようとするカンタンの剣をはね除けた。
「紹介状を出せ」
「出せといったら、出せ」
「君たちは追いはぎか」
アンドレたちの方が悪い。悪いが、隊士ファブリスの命がかかっている。
無言でアンドレはカンタンに打ちかかっていった。
「大丈夫でしょうか」
はらはらしながら、オクタヴィアンはそれを眺めた。暗いので、月光に
人影が飛んだり跳ねたりしているばかりであるが、時折きらりきらりと剣の
光がひらめいて、まだ勝負がつかない。アンドレの額からは汗が流れた。
「右や左のだんな様」
場違いの歌声が聴こえてきたのは、その時だ。
「哀れな花売り娘にお恵みを」
売れ残った花を籠にいれた花売り娘が夜道に現れて、美しい声で
うたいながら彼らの回りをひいらりと、蝶かまぼろしのように漂った。このあたりにも
物乞いたちの棲み家があるのであろうか。踊る娘の淡色の髪が夜の虹のように
月の下に流れた。むき出しのその腕は林檎の花のように白く、歌声を紡ぐその
唇はさくらんぼのように紅かった。そして娘の眸は、たおやかな外見には
似つかわしくないほどの、何かの強い輝きをその底にひそめていた。
娘は踊りながら、萎れた花をあたりにふりまいた。
「花売り娘にお恵みを、手ぶらで帰ればおっかさんに箒でぶたれてしまいます」
「邪魔だ、怪我をするぞ」
カンタンが気をとられたその一瞬の隙を、アンドレたちは逃さなかった。
後ろからセヴランがカンタンを羽交い絞めにし、アンドレと花売り娘の手が、
いっせいにカンタンの懐に伸びた。
「あった!」
手早く縛り上げたカンタンの上衣から、アンドレは紹介状を、そして
花売り娘は財布をぬき盗っていた。
剣を仕舞うと、アンドレは笑顔になって、花売り娘を抱き寄せた。
「よくやった、オデット」
「アンドレのためだもの」
花売り娘はぱっと顔を明るくしてアンドレを見上げた。
「此処に来ればアンドレに逢えるって、禿げ頭の門衛さんが教えてくれたの」
アンドレが現状維持の恋人に「オデット」の名をつけることは知る人ぞ知る
有名な逸話である。少女とアンドレを見比べてセヴランの眼が丸くなっていたが、
アンドレはカンタンの始末を残りの仲間に任せて、枢機卿の封印のある紹介状を
片手に、篝火に照らされた「極楽の苑」の玄関階段を駈け上った。
途中でアンドレは、さっき分解した水晶のブローチを取り出した。台座の
楕円を裏返すと、文字があった。それを読み取ったアンドレは脚を止めた。
しかしアンドレはブローチを元通りに布に包み直して上着の隠しにしまってしまうと、
「極楽の苑」に入り、守衛に支配人を呼ばせた。
枢機卿の封印つきの封筒を支配人に差し出し、アンドレは先程レオンが
口にした外国人の名を、注意深く発音した。支配人はレオンのずっと後ろの
方にいたアンドレの顔を、よく憶えてはいなかった。
「ヘンリー・アイアトン卿に取次ぎ願いたい」
「ストラフォード伯のご随員の」
「そうです」
伯の名など知らなかったが、アンドレはさも知っているかのように頷いた。
アンドレが堂々としているので、支配人はすっかり信用した。まことに
枢機卿の紹介状こそは、すべての扉を開く魔法の鍵である。
紹介状を持って支配人がストラフォード伯一行が借り切っている階に
去ってしまうと、それを待つ間アンドレは玄関横の待合室に入り、王宮も
かくやと思われる見事な調度を眺めていた。
「お待ち合わせかしら」
女に話しかけられた。鏡の前からアンドレが振り向くと、そこには
あでやかに着飾った年配のご婦人が立っていた。「極楽の苑」に宿泊
している外国婦人である。
貴女はこの国の言葉を流暢に操り、皺のある目元をほころばせた。
「上の部屋から見ておりましたの。通りでの、ご決闘」
アンドレはひやりとした。暗闇のことではあったが、カンタンから
紹介状を取り上げたところも、きっと目撃されていただろう。
貴婦人は手扇を片手で閉じたりひらいたりした。
「二対一とは、少し卑怯ではございませんか」
「名誉がかかっておりましたから」
「あの花売り娘に、見覚えがありますの」
思いがけず、くすくすと婦人は笑った。
「ブルゴーニュ座」
貴婦人はからかうような眼つきで扇の先をアンドレの肩においた。
「新人にして、ラシーヌの十二音綴の、あの美しい台詞を見事なまでに朗々と
再現していた女優さんならば、咄嗟に機転を利かせて下町の花売り娘に
化けることもたやすいでしょうね」
「おっしゃる意味が分かりません」
「彼女ならば、王立劇団も相応しい。わたくしから推挙してもいい。
変幻自在の恋人を持つと、あなたも飽きがこなくて楽しいのではないかしら」
「ご想像にお任せします」短くアンドレは応えた。
「素晴らしい舞台だったわ」
外国婦人はその眼に尽きることのない美や芸への称賛と歓喜をたたえ、
もう一度それを見ているかのような、魂を奪われた顔になった。
「ラシーヌの綴る言語の奇跡を、不貞への欲望に引きずられてゆく神話の中の
女の姿を、格調高いあの劇本のしらべにのせて、彼女は舞台の上に描き出して
みせました。夜空にかがやく星の物語をその言霊にのせて、まるで生きながらにして
遠い昔の女の霊と化したかのように。太古の砂まじりの風をまとって舞台に立っていた、
あれこそは、役者の品格というものです。若い役者が古典をいくら学んでそらんじて
みせようが、決して到達することはない、選ばれた役者にのみ刻まれた、芸の炎と
いうものです。彼女の演技は、わたくしの胸に生涯消えぬ感動をうち立てました。
それで、その恋人であるあなたの為に、わたくし、ちょっとしたことを教えてあげられると
思いますの」
「失礼ですが、マダム」
「ストラフォード伯爵は、わたくしの夫です」
アンドレの顔を真正面から見つめて、さらりと伯爵夫人は云ってのけた。
「ヘンリー・アイアトンはわたくしの甥にあたります。お疑いならば、おととい、
ブルゴーニュ座で花束を渡した外国婦人のことを、あの花売り娘に訊いて
ごらんなさい。小耳に挟みましたのですが、剣士隊の皆さまは、ヘンリーに
何か用事があるようですわね」
「ストラフォード伯爵夫人」
「ああ、支配人が戻って来たようです」
伯爵夫人は何がおかしいのか、さらに笑い出した。
「ご苦労でした、支配人」
「これは、どういうことでしょうか」
気の毒にも、支配人は青褪めて、汗びっしょりであった。
「何処を探しましても、伯爵さまとご随員の方が、見当たりません。それどころか
お手荷物もいつの間にか、幾つか減っております」
「本当に、申し訳ないことをしましたわ」
ストラフォード伯爵夫人は扇を片手に、実に貴族的な態度でもって
呆気にとられている支配人とアンドレの顔を交互に見つめた。
「夫たちは、一足先に、帰国いたしましたの」
「ご帰国……」
「今ごろは港へ向かう旅の途上ですわ。わたくしはもう少し買い物や観劇を
愉しみたいからと、一人残りましたの。夫はしばしば、そういった悪戯を
するのです。変装して裏口から一人ずつ抜け出して、誰かが探しに来てみると、
部屋はもぬけの空というわけ」
「ご出立はいつ頃のことです」するどくアンドレが口を出した。
「正午頃です」
平然とストラフォード伯爵夫人は応えた。
「ヘンリー・アイアトン卿も?」
「ええ、同行しております」
そこで、伯爵夫人は意味深な目配せを、アンドレだけに分かるように寄越した。
「それから、この国で手に入れた、新しい小間使いも」
「失礼ですが、マダム。伯爵一行が向かわれた港はどちらか、ご存知でしょうか」
伯爵夫人は嫣然と微笑んだ。
「いまこそわたくしがお役に立つ時ですわね。あのね、夫はこう云っておりました。
『砂の教会』と」
「ありがとうございます」
「極楽の苑」から飛び出しかけたアンドレは、いそいで戻って来ると、
伯爵夫人と支配人にそれぞれもう一度訊ねた。
「伯爵とヘンリー卿は、ファブリスという男を伴っておられませんでしたか」
「いいえ。もしその方が小間使いの恋人であるならば、わたくしはあなたに教えて
あげたことと、同じことを伝えたことでしょう」
「ありがとうございます。ところで支配人、今夕、ファブリスという名の若い男が
ヘンリー・アイアトン卿を訪ねてこちらへお邪魔したはずなのですが」
「いいえ。そういった方はお見えにはなっておりません。剣士隊の方であろうと
なかろうと、さきほど伯爵夫人がお話になったように、その頃には伯爵はもう
「極楽の苑」にはおいでではなかったということですから」
「結構です。どうも」
「お友だちが見つかるとよいですわね」
ストラフォード伯爵夫人は扇をひるがえした。アンドレは伯爵夫人に丁重な
挨拶をすると、身を翻して外に出た。
彫像の蔭で彼を待っていたのは、セヴランとオクタヴィアンであった。
「花売り娘が、君によろしくと云っていた。彼女はすぐに帰ったよ」
「カンタンとむっつりは?」
「カンタンはこちらの隙をみて隠し刀で縄を解き、走って逃げた」
「ヴィクトルさんはカンタンを追いかけて行きました」
ヴィクトルは息を切らしながらすぐに戻ってきた。
「橋のところで見失った」
「どうせ枢機卿の屋敷に逃げ戻ったのだ」
逃げたカンタンにはもう構わずに、アンドレは彼らに得た情報を語った。
「ブーティリエ店でテレーズ嬢に声を掛けたヘンリー・アイアトン卿は
ストラフォード伯爵と共に帰国の途についてしまったそうだ。テレーズを
連れている。カレー海峡を渡られては追いかけようもない」
アンドレは夜空を仰いだ。晴れている。
「明るい月夜だ。今すぐに追いかけ、夜の間に距離を詰めよう」
「宿を一軒一軒あたるよりも港を抑えたほうがよさそうだが」
「ル・アーブルそれともカレー港」
「港は分かっている。ダンケルクだ」
砂の教会というのがそのまま地名となったダンケルク港からは、隣国への
船が出ている。
大鷲のヴィクトルはレオンが戻って来た時のためにそこに残ることにして、
アンドレとセヴランとオクタヴィアンの三人はそのまま詰所から馬を出し、夜を
徹してダンケルクに向かうことにした。
「金はあるのか」
ヴィクトルの問いに、セヴランが財布を揺らして音を立ててみせた。
その財布とは、先程オデットがカンタンから失敬した、その財布であった。
オデットは、女優とばれぬように、最後までスリになりすましたのだった。
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