黒水仙
Z.誰がために
背もたれの高い椅子にかけ、痩せた両手を机の上で組んでこちらを
見つめている人物は、緋色の猊下であった。
それを見て、ファブリスはこの屋敷が「極楽の苑」ではないことを
ようやく知った。
「すっかり夜になってしまった」
下僕が椅子をすすめにきても、ファブリスはまだ茫然と立っていた。
目隠しをされた馬車で連れまわされて、てっきり「極楽の苑」に来たものと
ばかり思っていたら、枢機卿が出てくるとは。
「王宮からなかなかさがれなかったのだ。知ってのとおり、わたしは
忙しい身なのです。パトリス剣士隊のファブリス君」
ようよう、ファブリスは相手が確かに本物のデギュイヨンだと認めて、
頭を下げた。
「デギュイヨン枢機卿さま」
「まず、君の誤解を解いておかねばならないね」
そこは、デギュイヨンの住居であった。もちろん、彼が拝領した広大な
領地に建てた壮麗壮大な屋敷ではなく、都に構えた小屋敷である。
質素倹約は公的な場においての標榜だけであるらしく、変哲のない
屋敷の外観を裏切り、内部にはこの男の趣味のままに、各国の王室や
好事家垂涎のまとの名画名品がずらりと飾られていた。
「見る目のない者にいい加減な扱いをされるよりは、わたしの許に
あるほうが、これらの絵も幸せだろうからね」
他の者が口にすれば鼻持ちならぬところであるが、ファブリスの見る限り、
世にきこえた名品の他にも、無銘の品もあり、それらが枢機卿の心眼によって
ふるいにかけられて収集されたこの部屋には、一定の緊張感と、「俗物お断り」
といった権威的な圧力を入室者に覚えさせる、窮屈めいた効果もあった。
「枢機卿さま」
てっきり「極楽の苑」に連れて来られたと思っていたファブリスは
勇気を振り絞ってそれを訊いた。
「テレーズ・ブーティリエに逢わせてやると云われてやって来たのです」
「そうだろうね。使いに出した者には、そう云わせたから」
「彼女に逢わせて下さい」
「テレーズ嬢は旅に出たよ。都にはもうおらぬ」
デギュイヨンは机の端を神経質な指の動きで撫でた。
「海を渡らずに、まだ国内にいることはいる」
「猊下」
「政治的な問題でね」
緋色の猊下はファブリスを見つめ返した。
「テレーズ・ブーティリエ嬢にはぜひとも、この国から出て行ってもらわねば
ならないのだ。もちろん、生涯不自由なく暮らせるように充分な手当ては
渡した上でね。彼女もそれに承知したのだ」
「では、猊下が、最初から」
ぐっとファブリスは拳を握り締めた。
「テレーズの家を見張っていたのも、テレーズを尼僧院から攫ったのも、
猊下の仕業なのですか。蛮行だ」
「蛮行とは、何という言い草」
デギュイヨンは不快のしるしに眉を吊り上げた。
「このデギュイヨンが行ったことで、この国の為にならなかったことが
ありますか。もしあるならば、その事例を挙げ、過去現在未来における
難点を指摘した上で正々堂々とこのわたしを批難し、論破してみせることだ。
君たちなどよりも、このわたしの方が何倍もこの国の行く末のことを思うて
いるのだからね。男子の興す一大事業として政治ほどやりがいのある仕事はない。
一介の黒水仙にしか過ぎぬ君が、わたしの息子ほどの年齢の君が、それに
文句をつけるつもりなのか」
「今回のことです、テレーズのことです」
負けじとファブリスは言い募った。
「修練女を誘拐したのは、あなたなのだな、デギュイヨン枢機卿」
「君は事情を知らぬのだから、その無礼も許してあげよう」
怒りを堪えているファブリスの前に、デギュイヨンは机の上の手紙を
指先で取り上げて、ひらつかせてみせた。
「読むかね。といっても、あちらの国の言葉で書かれてあるから、君には
すらすらとは読めまいね。読んであげよう」
「誰からの手紙です」
「ストラフォード伯爵のご親戚、ヘンリー・アイアトン卿からだよ」
それは海を渡った国の、貴族の名である。
ストラフォード伯爵のご親戚とやらが、テレーズ失踪事件に何の
関係があるのだろう。まだ何のことやらさっぱり分からないでいるファブリスの
顔を見ながら、デギュイヨンは説明した。
「ストラフォード伯爵は今回の旅に、奥方の甥にあたるヘンリー・アイアトン卿を
伴っていた。ヘンリーは印章を買い求めてブーティリエ店を訪れた。店番に
出ていた若い娘がヘンリーに応対した。娘は胸に水晶のブローチをつけていた。
それはヘンリーにとって、愕くべきいわくつきの品だった。ヘンリーは大急ぎで
そのことをストラフォード伯爵に伝えた。そしてヘンリー・アイアトンは考えた。
この国でいちばん偉いのは誰か、相談が出来、頼りになるのは誰か、
オルレアン公か、いやいや違う、あんな自分の姿が見えぬおしゃべり屋の
詭弁家ではありえない。それでは誰か、それはむろん、国王陛下のみならず
各国の王室から深く信頼され、国内外の王国貴族から深く尊敬されている、
デギュイヨン枢機卿である。そして彼は、このわたしにこうして手紙を寄越して
きたのだ。賢明な御方だ」
「テレーズは何処にいるのです」
「あの娘には、この国を去ってもらいます」
枢機卿の小さな眼球は、蛇の目のようになり、冷酷非情な光を湛えて、青年を
射すくめた。わなわなとファブリスはふるえた。
「それではまるで罪人扱いだ。テレーズが何をしたというのです」
「彼女や彼女に関わった君たちが、幽閉や暗殺処分にされぬだけでも、君は
わたしに感謝するべきだ。テレーズを尼僧院へ送って行った時に君が雇った
馬車の馭者がいるだろう。気の毒に、彼は河に落ちて溺死したよ」
「馬車の馭者が溺死」
ファブリスには初耳のことでであった。
「殺したのか、あなたが殺したのか」
「問題のある要注意人物は近くにおいて、監視するのがいちばんです。
そうしておけば、いつでも簡単に始末が出来るからね。枢機卿に仕えることが
許されたあの男は、その夜、先払いされた支度金で喜びのあまりに痛飲し、
勝手に橋から河に転がり落ちたのだ。わたしについて黒い噂が流れていることは
知っていますが、何でもかんでもわたしのせいにすることこそ、聞いたことを
そのまま鵜呑みにして頭を働かそうとはしない、腐った眼をした愚者の仲間
入りですぞ」
枢機卿は顎をそらして傲然と構えた。その眼光は冷ややかなままであった。
今の話もどこまで本当か分かったものではなかった。枢機卿ならば、馭者を殺害
することなど、何の痛痒もなしにやってのけるのに違いなかった。
ファブリスは腰の剣に手をかけた。
彼はてっきりテレーズもこの男に殺されてしまったのだと思い込んだ。
「ブーティリエ家を見張り、尼僧院からテレーズを攫ったのは猊下なのですか」
「疑うなかれと云っているそばからすぐこれだ。パトリス殿は客人として
遇している相手にそんな口を利けと剣士隊の諸氏に教えているのか」
「どちらなのです」
「わたしは聖職者だ」
緋色の猊下は身じろぎもしなかった。
「なるべくなら血はみたくない。最大限、未来ある若い人たちには配慮して
あげるつもりです。最初に云ったとおり、テレーズ嬢に逢わせてあげるよ。
君がわたしの頼みごとをきいてくれたらね」
「頼みごと」
「きくがよい」
法王もかくやといった威厳をみせるデギュイヨン枢機卿の声音の厳しさは、
戦場においては雷のように響きわたると云われたものであった。
「テレーズ嬢の水晶のブローチ。古物商からパトリス剣士隊の手に渡った
あれを、取り戻してきてもらいたい。確か、君の同室の男があずかっているはずだ」
「アンドレ」
「そう、その男。その男からブローチを取り戻すのだ。手段は問いません」
手段は問わない、というところに、緋色の猊下は微妙な意味を持たせていた。
その声はますます平坦になり、その眼光はますます強くなり、相手を捻りつぶさん
ばかりに、デギュイヨンは苦しい選択をファブリスに突きつけていた。
テレーズ嬢はいわば、人質であった。デギュイヨンはブローチを求めており、
ファブリスに対して、アンドレとパトリス剣士隊を裏切れと云っているのであった。
乾いた声でファブリスは何か抗弁しようとしたが、出来なかった。
デギュイヨンは指先で机を軽く叩いた。
「責任はわたしがとる。ブローチを取り戻してくれたらテレーズ嬢に
逢わてあげるし、金子の褒美もあげる。なんなら、そのまま二人で外国へ
行っておしまい」
「一つおききしたい」
「何なりと」
「ストラフォード伯爵は、敵なのですか、味方なのですか。ブローチを
テレーズから取り上げて、古物商に売り渡したのは、伯爵の指図なのですか」
「騎士道精神を発揮してブーティリエ家から尼僧院に乙女を送り届けた
男の軽挙と同様のものであったと、わたしは信じている」
痛烈な厭味に、ファブリスはぐっとつまった。デギュイヨンは重ねて云った。
「アンドレからブローチを取り戻すのだ」
「断ったら?」
「いいかね。若鷲」
デギュイヨン枢機卿は緋色の僧衣に包まれたその痩身を立ち上げて、
机を回り、ファブリスの前に出てきた。
枢機卿はけっして大柄な男ではなかったが、不気味な石像のような迫力で
ファブリスに迫った。
「わたしは、この国の為にはたらく。この国が、わたしなのだ。わたしの命令は
この国の浮沈を左右するものだと心得ることだ」
「猊下」
「何人たりと、たとえ王であろうと、このわたしには命令できぬ。わたしは
テレーズ嬢を殺してしまうことも出来たのだ。君をこの屋敷から一歩も出さずに、
人知れず、葬りさることも出来るのだ。お前がブローチを持って来なければ、
テレーズ嬢の命は保障せぬぞと云っているのだ。それもこれも、お国のためなのだ。
でなくて、どうしてわたしがこのような苦労を背負い込もう。お分かりか」
「猊下」
ファブリスはいよいよ事が修練女誘拐といった範疇を超えていることを
知らねばならなかった。枢機卿がこうまで強引に、そして有無を言わさぬ態度で
出る限りは、ことは本当に国家の一大事なのだ。デギュイヨン枢機卿は多少の
欠点はあれども、大義がみえぬ男ではなく、国のために大局を考える男である。
この国のために尽くすというその姿勢は、敵側からも認めざるを得ない公平さと
賢明さと潔癖さをもっている。その枢機卿が国家安泰の為にブローチが
欲しいというのならば、それは是が非でも、そうせねばならぬのだ。
「アンドレからブローチを取り戻せば……それをあなたにお渡しすれば」
「そうするのだ」
「そうすれば、テレーズを返してもらえるのですね」
「誓って。ブーティリエ家の方は、わたしの方から口止めしてある。たとえ君たちが
外国に行こうとも、君たちの安全はこの緋色の僧衣の下に護られていると
信じてくれて構わんよ」
若鷲の剣士は唇をかみ締めた。アンドレにうまく持ちかければ、それは
不可能なことではないと思われた。アンドレを傷つけることなく、ブローチを
手に入れることは容易いかと思われた。テレーズの身につけていたものだから
自分が持っていたいのだとでも云えば、きっとアンドレはそうしてくれるだろう。
「お引き受けします」
何よりも、テレーズの為だと云い聞かせた。アンドレを裏切るわけじゃない。
悄然としているファブリスの肩を力強く叩いて、枢機卿は笑顔になった。
デギュイヨンは上機嫌で、下男を呼ぶと、ファブリスの為に葡萄酒を
用意させた。
「さあ、気を楽に。恋人のことを心配してあまり眠ってはいないのだろう。
君の為に食事を用意してあげるから、そこの椅子にかけて、少し休憩したまえ」
「今すぐに、宿舎に戻り、アンドレからブローチをもらってきます」
「急がずともよいのだ」
ファブリスを椅子に導いて、デギュイヨンは薄く笑った。
透明な盃に葡萄酒を満たし、手づから枢機卿はそれをファブリスに差し出した。
「テレーズ嬢を連れたストラフォード伯爵とヘンリー・アイアトン卿は、そうすぐに
海を渡ることはない。わたしが沿岸封鎖の命令を出しておいたからね。それに
宿舎に帰ったところで、アンドレ君は部屋には戻ってはいないだろう、なぜなら」
意地悪く、枢機卿は曖昧な云い方をした。
「うちの親衛隊のカンタンが、今宵、アンドレと剣を交えてね」
「カンタン殿が」
もちろん、ファブリスはカンタンが若鷲と大鷲級の誰もが警戒する剣の達人で
あることを知っている。ファブリスは最悪の結果を想像した。
「「極楽の苑」の前で、アンドレをはじめとする、パトリス隊の者たちに
やり込めれてしまったそうだ。相手が多勢ではいかなカンタンでも仕方がない。
自力で抜け出して来たそのカンタンの話によると、どうやらアンドレたちは
そのまま夜道をぬって、街の門の外に出てしまったようだよ。港を目指してね」
「港に?」
「パトリス殿は、精力的な精鋭を揃えておられる」
少し羨ましそうな口ぶりになって、デギュイヨンは盃に口をつけた。
意外ことばかりを聞かされている青年に同情のまなざしをくれて、枢機卿は
先程の、ヘンリー卿の手紙を取り上げた。
「読んであげよう。伯爵と卿はとっくに都にはいないがね。カンタンは、まだ
「極楽の苑」にご滞在中のストラフォード伯爵夫人に、わたしからの挨拶を
言上しにゆくところだったのだ。この手紙を読めば、わたしが王とこの国を
裏切っていないことがよく理解してもらえるだろう」
「是非とも、わたしにもそれをお聞かせ下さりたい」
突如扉が開き、力強い声が真後ろからした。
黒い隼のように部屋の中につかつかと割り込んできた武人は、ファブリスと
枢機卿の間に立ちふさがり、その顔を聖職者に向けた。
「夜分に失礼しますぞ、デギュイヨン枢機卿どの」
それは「黒水仙の君」パトリスであった。
「早かったですな、パトリス殿」
「隊長」
ファブリスは椅子からとび上がり、直立不動となった。これは見ように
よっては裏切り行為の現場を押さえられたに等しい。
「隊長。パトリス様」
常日頃、パトリスは剣士隊の男たちに、自分のことを隊長と呼ばせている。
パトリスはそんなファブリスをじろりと睨み、しかし何も云わず、まだ手つかずで
あった葡萄酒の盃をファブリスから取り上げて、デギュイヨンを睨み据えながら
一気に飲み干してのけた。
パトリスは手の甲で、口許を拭った。
「うちの若いのに、毒でも盛りましたかな。おかしな密談に引き込まないでいただきたい」
「とんだ挨拶ですな、パトリス殿」
「あなたの関与は最初から疑っておりました、猊下」
「いつものように、をそこに付け加えなさい。あなたとオルレアン公はいつもそうだ。
悪いことは全て枢機卿のせい。少しは大人になられたらいかがです。せっかく
親切にお招きしたのに、最初からそう喧嘩腰でこられては、招待した甲斐もない」
さすれば、パトリスが登場したのは、枢機卿に呼びつけられたということだろうか。
「ファブリス」
「はい」
海賊の頭領といった雰囲気のパトリスに恐い声で名を呼ばれて、ファブリスは
冷や汗をかきながらパトリスの後ろで背筋を伸ばした。
「控えの間に、大鷲のレオンとユーグとヴィクトルがいる。彼らを呼んで来なさい」
「はい」
ファブリスが部屋から出て行った。
パトリスは卓上にあったヘンリー・アイアトンの手紙を見ると、証拠確保とばかりに
素早くその手に取り上げた。
「失礼する」
パトリスはその場で封筒を開き、中の手紙を取り出した。
デギュイヨンは、やや勝ち誇った顔をしながら優美に両手を広げてみせて、
手紙を読み下すパトリスを止めなかった。
アンドレたちの旅の模様は手短にして詳細は省こう。
道が舗装されていない時代である。ダンケルクまでは、駅場ごとに
馬を替えて飛ばしても、夜分に出立したその日から数えて二日はかかる。
その間に、デギュイヨン枢機卿とパトリスがそれぞれに駿馬を用いた特別製の
馬車を仕立てて、それぞれの隊士を引き連れ、古代の戦車競争のように
彼らを追い越していたことなど、彼らはあずかり知らなかったことである。
「すごい勢いで、いま馬車が……」
休憩をとっていた宿屋でセヴランが葡萄棚の下から街道を見たが、
アンドレとオクタヴィアンがそちらへ顔を向けた時には、もうもうたる土煙が
空高くのぼって、後に残っているだけであった。
先王の時代ほどではないが、諸外国との緊張は続いているご時勢である。
アンドレとセヴランは幾つかの国の名をあげて、海上か国境線上にその軍影でも
見えたのだろうと、あまり気にも留めなかった。というのも、彼らは別の
問題で頭を痛めていたのだ。
「馬がない」
宿場の主はパトリス剣士隊の彼らに申し訳なさそうに言い訳をした。
「いまの、街道を飛ばして過ぎ去った方々の、その従者の方たちが、替え馬を
すべて持ち去ってしまわれたのでして」
並足ならともかくも、走らせた馬は休憩させて使うものである。宿場ごとに
馬を乗り捨て、替え馬を乗り継ぐのが、この時代の旅の急ぎ方である。
「困ったな」
「河から船で行く手もあるが、かなり後戻りをしなければならないし」
アンドレとセヴランは近くの農家に交渉して馬を借りることにして、よい馬が
いる家を宿場の主から教えてもらった。
二人は辺りを見廻した。オクタヴィアンが見当たらない。
「お連れさまなら、あちらに」
宿場の主が指した方向を振り返ると、オクタヴィアン少年は、貴人の乗る
瀟洒な馬車の近くに立って、何やら馬車の中の男と喋っているところであった。
美少年の白い頬を、馬車の窓から伸びた男の手がいやらしく撫でた。危ない、
オクタヴィアン。
アンドレとセヴランが駈けつけて少年を馬車から引き離すより早く、
馬車の扉が開いて、中から背の高い貴人が階段も使わずに、若々しい
仕草で降りてきた。
「アンドレ。セヴラン」
育ちのいい笑みを見せた人物。オクタヴィアンの「マリー叔母さま」の夫、
アンドレとセヴランの恋敵、シュヴルーズ伯爵フェルディナンであった。
趣味に生きる両刀の男色家である。ただし、その趣味の良さは王弟オルレアン
公やデギュイヨン枢機卿も一目おいて仰ぐところで、ようは、風流人である。
「フィリップ王弟殿下と決定的に違うところは」
オルレアン公と差をつけてやろうともったいをつけて、デギュイヨン枢機卿は
ことさらにあてつけがましく、己の手柄ででもあるかのように、重々しく
自画自賛をこめて云ったものであった。
「シュヴルーズ伯爵におかれては、その趣味の良さが、高雅の域に達して
おられるところである。控えめにしても薫陶が薫る、あれぞ粋人というものだ。
その別が分かるのは、この国では、公爵と同じほどに美術工芸に理解ある
このわたしくらいであろう」
「このようなところで、君たちに逢えるとは」
涼やかな声でフェルディナンは彼らに微笑みかけた。鄙びた景色が
一気に天界の銀世界と変わるかのような、素晴らしい男ぶりである。
とくにフェルディナンがアンドレとセヴランを見るまなざしには、彼らの内心の
嫉妬も知らず、その道の手ほどきへの明るい誘いがある。
「オクタヴィアンが世話になってるね。君たちも、元気でしたか」
「おじさま、馬車を貸して欲しいというお願いの件ですが」
時間が惜しいとばかりに、オクタヴィアンがねだった。
オクタヴィアンはこのおじを慕っており、おじの方もまた、妻マリーに似た
この少年が好きであった。といっても、フェルディナンは節度ある御仁であり
妻の親族には手を出す気はなく、また幸いなことに、少年愛好者でもなかった。
フェルディナンは気楽に、馬車から自分の荷物を降ろした。
「いいよ、もちろん。わたしのほうは帰国の予定が早まったほどで、マリーに
逢いたいという他は、とくに急ぎの用事もないのだし」
「しかし、それではフェルディナン様はどうやって都にお帰りに」
荷物を降ろすのを手伝いながら、セヴランが訊いた。
「この近くに友人の領主がいるので、そちらにお邪魔することにする。
火急の用事なのだろう。行きなさい。気遣いをありがとう」
余計なことは何も詮索しない。申し分のない貴公子ぶりであった。
アンドレとセヴランとオクタヴィアンは揃ってシュヴルーズ伯爵に礼をすると
譲られた馬車に乗り込んだ。
「黒水仙の諸君を、ダンケルク港までお送りするのだ」
フェルディナンが馬車の御者に命じた。
「首尾よからんことを」
立ち去る馬車を見送って、フェルディナンは会釈を寄越し、軽く手を
振って彼らと別れた。
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