黒水仙
[.砂の教会
マリーの夫、シュヴルーズ伯爵フェルディナンから借りた瀟洒な馬車は
軽快に道を走った。
左右はなだらかな丘陵地帯、青空の下に緑の起伏が続き、野原を
覆う春の草花が、一面に風にそよいでいる。
「マリー叔母さまが馬車に酔うので、おじさまが外国の職人に発注した
特注の馬車だそうです」
幾ら幹線道路がある程度整備され、馬車が改良されたといっても、馬に
鞭をくれて走らせた時の乗り物の揺れは時化の海よりもまだ酷い。
馬車の中で三人は吊り紐を握り締め、車輪が障害物の上を乗り越える
たびに座席から跳ね上がり、額と額をぶつけ合いながら、尻の痛みに
ひたすら耐えた。
夜通し走ったおかげで、やがて朝風にのって潮の香が鼻腔をくすぐる
ようになった。
「ダンケルクだ!」
視界の半分を真っ青に染めて、海が迫った。
オクタヴィアンはその日まで海を知らなかった。河とは異なり対岸の見えない、
空に消えてゆくような大海原の広さに、馬車を降りた彼はひたすらに眼を
奪われていた。
砂の教会というのが地名の由来だけあって、ダンケルクには砂丘がある。
平たい石を積上げた古い時代の堤防を乗り越え、ざぶざぶと砂を洗う
透明な水に手をあらい、オクタヴィアンは海風を吸い込んだ。
小舟が魚をとる網を海中に投げていた。空には紙凧がとんでいた。
水色のリボンで束ねた髪をなびかせて、オクタヴィアンは誘われるままに
地元の子供たちに混じって一緒に凧を揚げはじめた。何もかもが、少年には
目新しく、珍しいのであった。
「あまり遠くへは行くなよ」
海と戯れているオクタヴィアンをほっといて、堤防の上に腰を下ろした
アンドレはセヴランに水晶のブローチを取り出して見せた。
「これを見ろ、セヴラン」
アンドレはブローチの台座の楕円をひっくり返し、そこに彫り込まれた
文字を上に向けた。
「小さな字だな」
太陽光の下にあちこち動かして、セヴランはようやくそれを読み取った。
愛の言葉と、名前があった。刻まれたことの意味が分かると、セヴランは
しばらく黙り込んだ。
「アンドレ、これは」
セヴランは口許をゆがめ、日光に虹色に輝くブローチの台座を握り締めて
アンドレの顔を見返した。台座の裏に刻まれた二つの紋章と名。
それこそがテレーズのまことの両親であった。
「これが本当なら、大変なことだぞ」
「テレーズ嬢の父は先王の庶子アンジュー伯ではなく、先王その人だ」
「そして母親は、隣の島の王女さまか。現国王の妹君だな。しかしその方は
生涯独身のまま、十年前にすでにお亡くなりになっておられるはずだ」
島とは、広大な版図を誇った古代帝国の衰退の後、互いに領土を
奪い合い、何百年もの間戦争と休戦を繰り返している、お隣りの国のことである。
複雑な背景と確執の積み重ねにより、たとえ平和が保たれている時であっても
「敵」といえばカレー海峡を挟んだ眼と鼻の先のその国のことを指すのであり、
どこかで戦の火の手が上がれば、それに便乗してまず真っ先に互いの領土に
攻め入るといったように、常に不穏と緊張が隠せぬ、油断できぬ関係にある。
その島国の王女と、戦神と呼ばれたほどの先王が、子をなしていたとは。
セヴランは愛の言葉が刻まれたブローチの台座をしげしげと見つめた。
「いつ、親しくなられたのだろう。先王がご在位の間は、あちらの国とは
ずっと戦争状態だったはずだ」
「短期間の休戦はあった。その時じゃないか?」
アンドレは片膝を立て、堤防の上から砂浜に小石を投げた。
「亡くなられた王女とは随分と年齢差があるが、ありえないことじゃない。
何しろ先王ときたら風貌もご気性もご立派で、お年をめされた頃でも世界中の
女人たちから熱狂的な人気であられたそうだからな。敵国の王女は人知れず
王の赤子を生み落とし、それをアンジュー伯が自らの庶子としてこの国に
連れ帰り、モンバゾン家に預けた」
「先王とアンジュー伯は親子ではあったが、年齢は十四、五歳しか
変わらなかった。なので先王の最晩年の子をアンジュー伯の子と偽っても、
とくに疑いはもたれなかった」
「先王とアンジュー伯は数年違いでお亡くなりになり、海の向こうの王女も
十年前に果敢なくなられた。そして真相を知るは、水晶のブローチだけとなった」
「ロマンスだな」
「問題はそこじゃない」
アンドレは青い海の彼方を睨んだ。最初に赤子のテレーズを養育していた
モンバゾン家の両親は、海難事故で亡くなっているのだ。もしかしたらそこにも
何かの黒い作為がはたらいていた可能性も否定できない。たとえばモンバゾン
家の養父母はテレーズの実の母が誰なのかを知っており、先王とアンジュー伯の
死後、あちらの王室を強請ろうとした、或いは、口封じに殺されたなどの。
しかしそれは今となっては追求不可能である。
「ともあれ、赤子は生き残っていた。テレーズは養育院に送られるところを
向かいのブーティリエ家に引き取られて養女となった」
「ブーティリエ印章店でテレーズを見かけた隣国のヘンリー・アイアトン卿は
ぴんと来た。年齢、容貌、何よりもその水晶のブローチ。もしや、知る人ぞ知る
王女の過去のロマンス、あの時に生まれたあの姫ではないのかと」
「彼らはブーティリエ家を見張っていた。そしてファブリスがテレーズを修道院に
送り届けるのを見届けると、そこからテレーズを連れ去った。おそらくこれは
ヘンリー・アイアトンの仕業だな」
「ヘンリー・アイアトン卿とはどんな御仁だ?」
セヴランがアンドレに訊いた。
よく知らないと云う代わりに、アンドレは首を振った。
「「極楽の苑」で出逢った伯爵夫人の口ぶりでは、まだお若い方のようだ。
古物商にブローチを売りに現れた身分賤しからぬ若い男とは、おそらく彼のことだ。
親戚のストラフォード伯爵は王室ともゆかりが深く、亡くなられた王女とは
幼馴染としても親交があっただろうから、それ経由でヘンリーは昔話をいろいろと
聴いていたのではないか」
「何かといえば戦争を起こしている敵国の王と契ったことなど、やんごとなき
ご身分の王女さまが迂闊に人に話すかな」
「だから、ストラフォード伯爵と王女は特別に親しい仲だっただろうと推理した」
「なるほど」
セヴランは腕を組んだ。
「あちらの国の王室には現在、確か、御年二十六歳の独身皇太子がいるはずだ」
「そう、そこだ」
アンドレは頷いた。彼はセヴランの眼を見てゆっくりと云った。
「もしそこに、こちらの王朝の血と、あちらの王室の血を引く姫君が現れたら?」
アンドレの言葉に、セヴランは息を呑んだ。ようやくアンドレの云わんとする
ことを理解したのだ。
婚姻によって派生する権利がどれほどの戦を引き起こし、いかほどの領土が
それによって分割、分断、略奪されてきたかは、歴史が語るとおりである。
テレーズがもしも本当に先王の王女、現国王とオルレアン公にとっては
異母妹、そしてあちらの島国にとっては、王妹を母に持つ姫であるのなら、
両王家の血を受け継ぐ王女テレーズがあちらの国の皇太子妃となった場合、
その夫となる王は先王の遺産と、財宝、この国の領土を正面から要求できる
立場となってしまうのだ。
「教会の前で認められた正式な婚姻であったかどうかなど、この際、関係ない。
おそらくは、ヘンリーがひと目でそうと察したほどに、亡くなられた王女と
テレーズ嬢は顔が似ているのだろう。ヘンリー・アイアトン卿とストラフォード伯爵は
誘拐したテレーズ嬢を連れ帰って、この事実をひろく国内外に告知するつもりに
違いない」
「先王のお血筋をあちらの国の皇太子妃などにされてみろ。夫君にわが国への
過度な権利を握られてしまうことになる。ストラフォード伯爵とヘンリー卿の
二人は、テレーズの後見人の名乗りを上げて、うまい汁を吸うつもりなのだ」
「しかし、分からないのは、水晶のブローチだ」
水晶を手の中で転がしてアンドレは呟いた。
「それなら何故、ヘンリーはこのブローチを古物商に売った?」
アンドレとセヴランは、祖国の浮沈に関わりかねないものとなった水晶の
ブローチを、海風の中、無言で見つめた。
海峡に吹く風の中、オクタヴィアンが砂浜で土地の子供たちと一緒にまだ
凧を揚げていた。
デギュイヨン枢機卿の湾岸封鎖命令が行き届き、地元の漁舟の他には
海に浮かぶものもない。波の穏やかな朝の海に、水仙の徽章をつけた
剣士たちの黒い上衣がはためいた。
アンドレは、島国の王女の名と先王の名、それに彼らの秘密の婚姻を
極秘に認める先王の言葉が刻まれたブローチの台座を裏返し、楕円を
外枠にはめ、水晶をその上に留めてブローチを元通りに直した。
そうしてしまうと、もう外からは何も分からなくなった。
「テレーズ嬢の身元を何よりも証明するのは、このブローチのはずだ。
これがなければ、王女とテレーズの容貌がいくら似ていたとしても誰もそんな
話は信じない。むしろストラフォードとヘンリーは贋者を仕立てた詐欺師として
罪を問われるのがおちだ。つまり、テレーズを誘拐した異国人たちにとっては
このブローチが何よりも必要なはずなのだ。それがどうして、古物商に売りに
出されたのだろう」
テレーズが大切にしていた水晶のブローチは、修練女誘拐後、何者のかの
手によって、いかなる理由でか、古物商に売られた。
茫漠たる空と海は何も応えない。ふたたび二人の青年がブローチを前に
黙り込んでいると、不意に透明な水晶の上に人影が差し、声がした。
「そのブローチを、僕にも見せてくれ」
アンドレは顔を上げた。そこに立っていたのは、ファブリスであった。
アンドレは立ち上がった。堤防の上を歩いてきたらしきファブリスは
眩しそうに、そこから見える海を見た。
「ダンケルクというだけあって、砂丘があるんだな」
「ファブリス。無事だったのか」
アンドレはしっかりとファブリスを抱きしめた。
その二心ない、心からの友情の滲み出た言葉と態度に、ファブリスは
苦しそうな顔をしたが、ちょうど吹き付けた強い風にオクタヴィアンの凧が
流されて、アンドレとセヴランはそちらに気をとられていた。
「心配していた。良かった」
「アンドレ」
ファブリスはつとめて笑顔をつくり、片手を差し出した。
「パトリス様が君にあずけたその水晶のブローチを、僕に渡してくれないか」
アンドレはファブリスの顔を見た。
「ブローチを?」
「うん。それはテレーズが身につけていた物だから。僕が持っていたいのだ」
「その前に、今までどうしていたのか聞かせてくれ」
「オクタヴィアン、そろそろ戻って来い」
セヴランがオクタヴィアンを呼びにその場を離れ、堤防から砂浜に降りた。
陽が翳り、また晴れた。アンドレは注意深く、ファブリスの顔を見つめた。
「ファブリス。顔色が悪い」
逆光に顔を向けてファブリスはごまかした。
「あまり寝てないんだ。旅も強行軍だったし」
アンドレはブローチをファブリスから遠ざけるようにして、手の中に握り締めた。
「誰と此処まで一緒に来た、ファブリス」
「もちろん、ひとりで」
ファブリスはアンドレの視線を逸らして、下を向いた。彼は言い添えた。
「テレーズの姿をダンケルク港で見たという一報があったのだ。それで」
「誰からその報を得た?」
アンドレの厳しい追求に、ファブリスは仕方なく苦笑した。陽射しを仰いだ
彼の手が落ち着きなく腰の剣の上に伸びたのを、アンドレは見逃さなかった。
「ファブリス」
「アンドレ。ごめん」
ファブリスはもう一度、アンドレに頼んだ。
「詳しくは話せない。ともかく、そのブローチが欲しいのだ。僕にくれないか」
アンドレは慎重にファブリスと距離をとった。
ブローチの中身を知る前であったなら、アンドレはファブリスにブローチを
渡したのであったが、台座の裏に刻まれていた秘密を知った限りは、忽然と
この地に現れ、ブローチを要求するファブリスの方こそが、あやしかった。
アンドレは声を厳しくした。
「断ると云ったら?」
「君はそんなことを云わないさ」
軽く愕いた顔をして、ファブリスは、今度は彼の方からアンドレを探るような
眼つきになった。
「アンドレこそ、きかせてくれないか。どうして僕がブローチを持っていたら
いけないのだい」
「剣から手を離せ、ファブリス」
「君こそ、アンドレ」
「ファブリス、修練女を誘拐した者たちと接触したな」
「違う」
「彼らに脅されて、そんなことを云うのだろう。そうに決まってる」
子供たちに凧を返して戻ってきたセヴランとオクタヴィアンが、二人の
剣幕を見て脚をとめた。
「アンドレ、分かってくれ。これはもう僕とテレーズだけの問題ではないのだ」
「最初からわたしはそんなもの問題にしてないさ」
アンドレは云ってのけた。
「古物商に売られたアンジュー伯のブローチ。全てはこれから始まった。
裏に刻まれていたテレーズの名。行方不明になった修練女。故アンジュー伯に
ゆかりの方とあっては放っておくわけにもいかない。だから、王はパトリス剣士隊に
内々の調査を求められたのだ」
「枢機卿にもね」
苦々しくファブリスは付け加えた。
「しかし王は、パトリス様の方を先に王宮に呼び、ブローチはパトリス様に
渡してしまった。パトリス様はそれを、尼僧院に調査に向かう君に預けた」
「隊長から預かったものだ。勝手に人に渡すわけにはいかない」
「それが僕であってもか、アンドレ」
アンドレの態度は頑としたものだった。
「たとえ国王陛下が求めてもだ。ファブリス」
「「幽霊の間」を怖れぬ者であっても、恋には臆病」
ファブリスは疲れた顔で自嘲した。彼のその手は、剣柄を握り締めていた。
それを見て、アンドレも剣に手を沿わせた。ファブリスは顔を上げた。
「しかし、それ以外のことには勇気ある男だったと認めてもらおう。ご存知の
とおり、アンドレ、僕よりも君のほうが腕が立つのだからね。セヴラン、そして
オクタヴィアン、君たちが証人になってくれ」
ファブリスが剣を抜いた。
「アンドレ、ブローチを寄越せ」
隊服の裾が旗のように浜風にひるがえった。アンドレも無言で剣を構えた。
石を積上げた幅の狭い堤防の上で、二人は剣稽古の時のように顔の前に
剣を真直ぐに立てた。
セヴランが止めようとしたが、その時にはもう両者は踏み出し、剣先を
絡み合わせていた。
「莫迦。何やってる。二人とも止せ」
「船だ」
「船が来た」
浜辺で子供たちが海峡の一点を指して騒いでいた。
「船影です、セヴラン」
オクタヴィアンが慌ててセヴランに告げた。
「こちらへ向かっています。二日前から枢機卿の命令で湾岸は封鎖されて、
船は出航も寄港もできないはずなのに!」
「どこの船籍だ」
「旗なしです。いや、違う、あれはブリタニアの旗!」
「白い崖をこっちに向けてるお向かいさんか!」
「岬を回りきった。中型艦です。砲門がこちらを向いている」
「アンドレ!」
セヴランが堤防に乗りあがり、堤防の上で剣を交えているアンドレと
ファブリスの間に自らの身を割りいれた。
「そこまでにしておけ。外国から戦争を仕掛けられてるぞ」
ちょうどそれに合わせて教会が非常事態を告げる鐘を打ち鳴らし、どおん、
どおんと空を震わせて湾岸守護隊が警戒の号砲を撃ち鳴らした。
さすがにアンドレとファブリスは剣をおろした。さらに彼らを愕かせたことには、
太鼓の音がどろどろと砂丘に鳴り響き、幻の軍勢のようにして、大勢の騎馬を
率いた貴人が、ダンケルクの砦の向こうから馬を打たせてやってきたのであった。
それは、親衛隊を引き連れた、デギュイヨン枢機卿であった。
「枢機卿だ」
「どうして、こんなところに」
黒びかりする鎧装束の上から緋の僧衣をまとい、海を睥睨するその姿は、
遠目にも見間違いようもなかった。アンドレは身をかがめ、セヴランの帽子を
深く下げさせた。
「ここは逃げよう」
「何故、逃げる。アンドレ」
「見てみろ、後ろにカンタンを連れてるぞ」
彼らはつい先日、「極楽の苑」の前でカンタンに無体をはたらき、枢機卿の
紹介状を取り上げたばかりである。
「財布も盗ったしな」
「お前の恋人がな」
彼らは大急ぎで堤防の反対側に降りて身を隠し、その場を走り去ろうとした。
それでなくとも、緋色の猊下と黒水仙は犬猿の仲なのである。都を離れた
このような田舎で出くわしては、どんな言いがかりをつけられて罰せられるか
分かったものではない。
「ファブリス、急げ」
ファブリスは、海岸沿いの一軒の旅館を見つめて放心したように立ち尽くしていた。
「ファブリス、どうした」
アンドレはファブリスが見つめているものを追って振り仰いだ。旅館の
露台で一組の男女が抱き合っているのが遠くに見えた。
「テレーズ」
男は若い女の腰を抱いて、その肩や首筋に接吻していた。女は海を
見つめて、されるがままになっていた。
ファブリスはそれを見て狂ったように叫んだ。
「テレーズ、テレーズ!」
「見つかった。カンタンが先駆けしてやって来ます」
「そりゃ復讐心に燃えているだろうさ」
「アンドレ、あれは、テレーズだ」
「待て、ファブリス」
テレーズの姿を見つけたファブリスは、そちらへと行こうとした。旅館の
露台から海を見ていた男女は、もう部屋の中に姿を消していた。
「テレーズだ。あれは間違いなく、テレーズだった」
「男と一緒だったぞ」
セヴランが気まずく指摘した。アンドレはファブリスの腕を掴んだ。
「ファブリス、落ち着け。あれがテレーズ嬢だったとしても、今のはどう見ても
一夜明けた男と女だった」
「そんな」
「間違いない」
自信満々に、アンドレは云い切った。
「恋仲かどうかは、ひと眼みれば分かる」
「アンドレは何を威張ってるんだ?」
「でも、説得力がありますよ」
後ろで囁き交わすセヴランとオクタヴィアンには構わずに、アンドレは
飛び出して行こうとするファブリスを凄い力で掴んで離さなかった。
「きつい状況だが、ここは聞き分けろ、ファブリス」
その間にも、砂を蹴散らして、カンタンの馬が迫った。
「よし」
きらりと眼をひからせて、オクタヴィアンがふたたび堤防によじ登った。
少年は堤防の上に立ち上がると、剣を空に振り回し、そのよく通る澄んだ
声で呼ばわった。
「ここだ、カンタン」
そうしておいて、オクタヴィアンは下にいるアンドレとセヴランに
すばやく云った。
「わたしが時間稼ぎをします。その間に、ファブリスさんを連れて行って下さい」
「怪我するなよ」
アンドレとセヴランは、少年を見損なっていた。というのも彼らは、
オクタヴィアンがちょうど鬼ごっこをする時のように、堤防の上をあちらこちらと
逃げながら、カンタンを翻弄するものだとばかり思っていたのだ。
だが、オクタヴィアンは剣士隊の中でも上から数えたほうが早いほどの
剛勇な気性と剣の腕前を持っていた。見た目を裏切る剣の達人である。
彼はひそかに、剣士隊でしばしば名のあがる親衛隊のつわものカンタンと
手合わせをしてみたいと望んでいたのであり、先日の「極楽の苑」におけるアンドレと
セヴランの立ち回りもよく見ていて、わたしならこうする、ああすると、頭の中でよく
勉強していたのであったから、そのカンタンがやって来たとなれば、おとなしく
しているはずもないのであった。
アンドレたちが立ち去ったのを見届けて、オクタヴィアンは海側の砂浜に
降り立った。波に湿った砂が足許で音を立てた。
「カンタン殿。わたしが相手です」
「若鷲の雛が何の用だ」
しかし馬から降りたカンタンは、恐れ気なく澄み切った眼をして剣を
構えている少年を見て、侮ってやろうとしていた顔つきをあらためた。
オクタヴィアンはまこと、人が変わったようであった。着実な修練によって
自信をつけてきた若者は、若者ならではの恐いもの知らずにより落ち着き払っていた。
海風にオクタヴィアンの水色のリボンがひらひらと流れた。
彼らが剣を交える前に制止の声が掛けられたのは、少年にとって、そして
もしかしたらカンタンにとっても、幸いであった。
彼らの決闘を止めたのは、枢機卿その人であった。
「国難において、このようなところで何をいたしているのか」
彼らを咎める枢機卿の顔は険しかった。
カンタンとオクタヴィアンは渋々剣をおさめて、枢機卿の前に出た。
デギュイヨンはオクタヴィアンに眼をとめた。
「枢機卿閣下」
「黒水仙隊所属の、オクタヴィアンと申したか」
「はい」
オクタヴィアンは帽子を片手に進み出た。なにぶんにも相手は
国王の信頼をうける聖職者の権威である。
「オリバーレス伯爵のところの」
「はい」
オクタヴィアンは応えた。
「では、シュヴルーズ伯爵とその美しき奥方はお元気ですか。独身貴族を
貫いておられたフェルディナン殿がご結婚された時には、宮廷中が大いに
愕いたものだった。夫人のマリーは君にとっては叔母にあたるのだね」
「はい」
緋色の猊下があらゆる貴族の係累関係を把握していることに
感嘆しつつ、オクタヴィアンは頭を下げた。
「オクタヴィアン君。君の仲間のレオンとヴィクトルとユーグはすでに
反対側の西の砦で配置についていますぞ。パトリス殿の指揮下に
今すぐに入りに行くがよい」
「パトリス隊長が?」
パトリス様までダンケルクに来ているのか。オクタヴィアンは愕いて
ばかりだった。黒水仙は、本来ならば王と王都の守護にあたる役である。
「パトリス殿は、此度はこのわたしの手助けをしたいと、自ら沿岸の防衛に
名乗りを上げて下さったのだ」
デギュイヨンは偉そうに馬上から云った。
「さあ、行くがよい」
「枢機卿さま。これは何事でしょうか。あれなる海上の艦影は、何を
意味するのでしょうか」
まさか戦争に。オクタヴィアンは馬上のデギュイヨンを仰いだ。
峻厳といった面持ちで、デギュイヨンは申し渡した。
「そうならぬように、こうしてわたしが自らダンケルクに来たのです。
君もその勤めを果たしたまえ」
緋色の猊下は手綱を握り、海に現れた中型艦を睨み据えた。
またしても、砲台から沖合いの船影に向けて警告の砲号が上がった。
空をふるわせるその音に、オクタヴィアンは急いで枢機卿に礼を云い、
帽子をかぶるとその前を辞して、西の砦を目指して走って行った。
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