黒水仙
\.愛の調べ




 ダンケルクの街中の鐘が鳴り響く中、旅館の階段を駈け上がってきた
人物は、大声でその名を呼ばわった。
 小さな宿である。二階は左右に二間しかなかった。
「ヘンリー、ヘンリー何処だ」
「伯爵」
 ヘンリー・アイアトンが部屋から顔を出した。
「なんだ、まだ寝てたのか。昨日からわたしが隣の村で大活躍して
いたというのに」
 麻の上衣を羽織ったなりのままで出てきたヘンリー・アイアトン卿の
片腕をひっ掴むと、ストラフォード伯爵は大急ぎでヘンリーを
宿の露台へと引っ張って行った。
「見ろ。この国の清教徒の隠れ里にしのんでいたわが国の間諜が
さっそくに仕事を果たしてくれたぞ」
 海原には、彼らの国の武装艦が帆を張って浮かんでいた。
「港が封鎖された限りは仕方ない。こちらの海軍があれに気を
とられている隙に、我らは近くの漁村から用意の船で脱出するのだ。
ヘンリー、急いで仕度を」
「分かりました」
「ヘンリー」
 ストラフォード伯爵は、ヘンリーを呼び止めた。
「わたしが不在にしている間、テレーズ嬢の面倒をみてくれただろうね。
まあ、いきなり父は先王だの、母は島国の王女だの何だの云われても
騙されたような話だろう。とにかく、テレーズ嬢を国に連れて帰ることが
肝要だ。テーレズ嬢は向かいの部屋かい?」
「ええ」
「先に行って、船を用意しておく」
「すぐに追いつきます」
 伯爵の姿が完全に階下に消えてしまうまで待って、ヘンリーは
自分の部屋に戻り、念のために扉に内鍵をかけた。
 続き部屋の寝所は、まだ鎧戸を下ろしたままになっていた。
「テレーズ」
 寝台には、ドレスに着替え終わった若い娘が腰をかけていた。
 ヘンリーは娘の隣りに腰をおろし、床の一点をじっと見つめている娘の
髪を撫ぜ、その額に接吻した。
「迎えの船が来た。国を捨てることに、後悔はないね」
「もし、後悔するのならば」
 小さな声で、テレーズは床を見つめて応えた。手をついている寝台には
まだ昨夜の熱が残っているようだった。
「こうして秘密のうちに、あなたの求婚を受け入れることはありませんでした」
 それは尼僧院から姿を消した、修練女テレーズであった。
 夜中のあいだ、テレーズは自分の胸に手をおいて、この寝台の中で
考えていた。婚前のうちに男と一つ床に入るふしだらな娘が、世の中に
どのくらいいるのだろう。暗闇の底から聴こえてくる波音がやがて接吻となって
テレーズを包み、砂の中に埋もれてゆくような窮屈の中に落ちてもなおも、
テレーズはそのことだけを考えた。
 どのくらいいるのだろう。他の男の面影を胸に抱きながら、それを
別の男の胸の中で捨てる娘が。
「テレーズ」
 テレーズは唇を重ねてくる男の愛撫に眼を閉じた。きっと思っているよりも
多いに違いない。国と恋人を振り切るためという、申し訳ない、身勝手な
理由からでも。
「ストラフォード伯爵は、すっかりその気だ」
 抱擁をほどいたヘンリーは、言葉を濁した。
「つまり、君を連れ帰り、両国の王家の血を引く方であることを白日のもとに
さらして皇太子と婚約させ、ゆくゆくは王妃として」
「いやです」
 即座に、テレーズは拒絶した。修練女であった若い女は寝台についた
ヘンリーの腕に凭れて、そこに顔をおしつけた。
「いやです。こうして他の方のものとなった以上、それはもう不可能なことです。
ヘンリー、わたしを苦しめないで下さい」
「すまなかった」
 すぐにヘンリーは彼女にとって不快な話を打ち切った。
「ただ心配なのだ。テレーズ、君は本当にこれで良かったのか」
 テレーズはヘンリーの手を解いて寝台から身を起した。今さらの話であった。
鏡の前にテレーズは坐った。ほんの半月ほどの間に、別人のようになった
若い女の顔がそこにあった。ブーティリエ家の兄たちを捨て、想いを寄せて
くれる若者を捨て、生まれ育った国を捨てようとしている亡命者。自分のやって
いることを、遠くからもう一人の自分が見ているような顔をして、鏡の中で
眸ばかりを張り詰めておのれの姿を見ている若い娘。
「わたしが君を求めたのだ」
 慰め、力づけ、励ますように、ヘンリーは云った。
 旅の間繰り返し重ねてきた求愛と求婚にテレーズがようやく応えたのは、
ストラフォード伯爵が隣村に行って不在となり、宿に二人きりとなった
昨夜のことであった。
「もし、そのお心に偽りがないのなら。もし、ヘンリー様が本当にわたしを」
 夜おそく部屋を訪ねてきたテレーズにみなまで云わせず、ヘンリーは
テレーズを引き寄せて、そして寝室の扉を閉めた。

 ヘンリーは寝所の鎧戸を開け放った。朝の海が見えた。
 この一件がばれたら、無事でいられるかどうか分からない。そんな
危機感が、海を眺めるヘンリーをかえって朗らかに、強気にしていた。
「ブーティリエ店で初めて君を見かけた時から、こうなると思ったのだ。
わたしはストラフォード伯爵を裏切り、祖国を裏切り、君を選んだ」
 たっぷりとした涼しい海風が、鏡の中のテレーズの顔にまで光をはこび、
娘の髪を艶やかにかがやかせた。
「命がけの恋というやつだ。一目惚れだった。愚かしいことだが、男子の
一生をかけて、全てはその為にしたことだ。だからテレーズ、君が
思い悩むことはないのだよ」
 鏡台の前からテレーズは掠れた声を出した。
 いいえ、いいえ、違います。
「わたしが、ヘンリー、あなたを巻き込んでしまったのです。自暴自棄の
気持ちから、過去と未来を捨てるために、あなたを利用したのです」
 王家の者になどなりたくない、何処か遠くへ行ってしまいたい。
そればかりの我侭で、何かに急き立てられるように。
「あのブローチさえなければ、貴女はわたしの物になると思った。
決心は早かったよ」
 古物商に水晶のブローチを売りに来た男。それはアンドレが
推測したとおり、ヘンリー・アイアトン卿であった。
 窓辺に肘をついて、ヘンリーは海鳥を眺めた。波音がすぐ近くに聴こえた。
テレーズは想った。わたしはこの朝を忘れることはないだろう。夜通し
からだの中に親しく刻まれた、この波音を。
 テレーズは云った。
「わたしが、アンジュー伯の隠し子であることは、かつての乳母から聞いて
知っていました」
 しかしその時にはアンジュー伯はもうこの世の人ではなく、テレーズにも
それを知ったところで何ができるわけでもなかった。
 それだけに、両親の形見だとして大切に持っていた水晶のブローチの真相を
ストラフォード伯爵からきかされたテレーズは、ふるえ上がった。
 ストラフォード伯爵はテレーズの母である王女とは幼馴染であり、王女の
死後、異国にいるはずのテレーズのことを、人知れず、ずっと気にかけて
いたのだという。
「亡くなった王女の想い出のために、故人が叶えられなかったことを
わたしは果たして差し上げたい。二つの国を婚姻の絆で結ぶのだ」
 ストラフォード伯爵はテレーズに皇太子妃となることを勧めた。
 亡き王女のために。それは半分は真実、半分は建前であった。両王家の
血をひくテレーズを王妃にすることで、島国とその後見人は、この国に対して
王位継承権をはじめとする、あらゆる特権を持つことには違いないのだから。
 そこに、ヘンリー・アイアトン卿の助け舟が出されたのだ。
「逃れる道がひとつだけある」
 ヘンリーは尼僧院から連れ出したテレーズの前に、作法どおり片膝を
ついて結婚を申し込んだ。
「君が、わたしの妻になることだ」
 テレーズが誰かと極秘結婚してしまえば、いかにテレーズが亡き王女と
似通っていようが、皇太子妃の候補からは外される。そしてこのことは、
ヘンリーとデギュイヨン枢機卿が密談して決めたことなのだという。

 政治の駒になどなりたくない、ましてや、故国の将来に重大な影を
落としかねぬ他国の皇太子との結婚などもってのほか。
 テレーズの意志が固いとみたヘンリーは、思い切った手段に出た。
それは、この国の中枢にいるデギュイヨン枢機卿に包み隠さず全てを
打ち明け、協力を仰ぐことであった。
 ヘンリー・アイアトン卿はひたすらにテレーズの為にそのようにしたのであった。
ストラフォード伯爵がテレーズ姫の存在を世に公にした時、政敵の立場からみて
真っ先に考えられることは、テレーズの排除である。案の定、デギュイヨン
枢機卿が最初に考えたのは、テレーズの暗殺であった。
 デギュイヨンはそのことを密会したヘンリーにその場で伝えた。
「わが国にとって重大な不利益をもたらしかねないテレーズ嬢を暗殺または、
生涯監獄に閉じ込めておくことも出来るのです。ただしヘンリー卿、あなたが
そうまでおっしゃるのでしたら、あなたにテレーズ嬢の身柄をお預けし、アイアトン
家と縁組するという条件でのみ、テレーズ嬢を自由にし、その出国を認めます」
 また、枢機卿はこうも云った。
「ブローチを古物商に売ったのはまずいことでしたな。あれは王の手から
パトリス剣士隊に渡ってしまった。まあ、取り戻す手立てはいくらでもある。
証拠となるブローチを完全に押さえてしまわなければ安心とはいえませんが
それはこちに任せてもらいましょう」
 もう二度と、この国の地は踏まぬこと。島国の皇太子妃ともならぬこと。
それが、枢機卿がテレーズに求めた出国条件であった。
 幾多の書類が書かれ、改ざんされ、そしてテレーズ・ブーティリエは
修道院から行方不明になったまま、別の名前で、さる貴族の養女となった。
 テレーズの最初の養父母が海難事故で死んでいる以上、証拠の
ブローチがなければ、ストラフォード伯爵とてテレーズの血統を証し
立てることは出来ない。しかしそのまま放置していては、いつなんどき
秘密を知る者に利用されるかわからない。デギュイヨン枢機卿にしてみれば、
テレーズ・ブーティリエは生かして利用するよりは、殺しておいたほうがいい、
火薬庫のようなものであった。

 枢機卿に殺されるか。それとも、別人となって外国で生きるか。

 ヘンリーは求婚したが、テレーズに無理強いはしなかった。
君の心が変わるまで待つし、無理であっても、枢機卿に約束したとおり
君を妹にして面倒をみると、彼は云った。
 いきなり思いもよらぬ運命の渦に巻き込まれた一人の無力な娘にとって
ヘンリー卿の申し出に応えることのほか、何ができただろう。そしてそれは
テレーズがいつの頃からか、心の奥底で望んでいたことでもあった。
 何処か遠くへ行ってしまいたい。
 修道院でもいい。外国でもいい。
 ブーティリエ家の兄たちや、召使たちの好奇や詮索の眼の届かぬところへ、
受け取るにはあまりにも真直ぐすぎた若者の愛情を、このわたしには受け取る
資格なしと、遠ざけてしまえる、遠い何処かへ。
 はやく何もかもが終わるといい。
 深夜、ヘンリーの部屋の扉を叩いたテレーズに迷いはなかった。
 テレーズには、はっきりとした、これまでとの断絶が欲しかった。先へ進むため、
後戻りできぬまでの、決心ときっかけが必要だった。
「ヘンリー」
 あちらの国についたら、すぐにヘンリーと式を挙げてしまうのだ。
枢機卿がテレーズに国から立ち去れと云うのならば、そうせねばならないのだ。
海難事故で死んだモンバゾン家の人々のように、誰にも、もうこれ以上迷惑が
かからないように。とりわけ、黒水仙の徽章を誇らしげにつけていた、あの人に。
 朝風の中に一輪挿しの花が、小卓の上で頼りなく揺れていた。
 テレーズはずっと気になっていたこと口にした。
「ヘンリー。どうして水晶のブローチを、古物商に売ったの?」
 ヘンリーはそれには答えず、明るい声でテレーズを露台に手招いた。
「こちらに来てご覧。海が青いよ。いい船出になりそうだ」
「ヘンリー」
「何もかも、時がきっと解決してくれる」
 ヘンリーはテレーズを抱き寄せ、勇気づけるようにその頬や首筋に接吻した。
 彼は自惚れやではなかったので、テレーズの中に芽生えつつある
こちらへの愛情を誤解なく、よく分かっていた。それはまだ愛と名のつくほど
強固なものではなかったにせよ、少なくとも、深い愛情へと変わりつつあるものだった。
 テレーズは自分という男を信じてくれている。そうでなくて、どうしてこのような
心細い顔を、隠さずに自分に見せてくれるだろう。
 露台から見える海原は、胸の奥まで染めるような青だった。
「水晶のブローチだって!」
 ブーティリエ印章店で見かけた売り子のことを話すと、ストラフォード伯爵は
とび上がった。テレーズの年格好を詳しく話すと、ますます伯爵は慌てだした。
「その娘はぜひとも、わが国にお迎えしなければならん。このことを知って
いるのは我々だけだろうか」
「さあ。しかしテレーズ嬢にはナイトがいるようです」
 ヘンリーは見たままを伯爵に告げた。ブーティリエ家の周りをうろついている
若い男がいると。
「枢機卿の間者には見えませんでした。塀ごしに手紙の遣り取りをしています。
テレーズ嬢の恋人のようです」
「現在テレーズ嬢は、兄君たちの監視下にあるといったな。彼らは駈落ちでも
する気なのではないか」
 人を雇って見張らせていると、本当にそうなった。
 森に現れたヘンリーを見た修練女は、悲鳴も上げず、逃げもしなかった。
しかし修練女はその顔に、別の男を待っていて、そうではなかったことへの
失望と諦念を浮かべていた。
 三日後、ヘンリーはストラフォード伯爵に隠れて、古物商にテレーズの
ブローチを売った。アンジュー伯のブローチならば、過去の贋物騒ぎの
こともあり、調べが入るはずだ。剣士隊にいるテレーズの恋人の知るところと
なるかどうかは運命しだいだろうが、少なくとも、何らかのかたちで恋敵に
対しては良心に恥じぬかたちにしておきたかった。
「自己満足の、騎士道精神というやつだ」
「ヘンリー?」
「いや、こちらの話。さあ行こう、船が待っている」
 ブローチの台座の裏に刻まれていた愛の文句を、ヘンリー卿は露台で
テレーズに囁いた。
 あの日の朝の波音のように、いつまでも、君を愛す。


 空の星がしだいに薄れ、細い月だけがまだ白かった。
 静かな朝焼けの海上に、女の声がした。
「王さま、こちらにいらしたの」
 船の舳先に立つ王の髪が風になびいた。風下からその背にすがる
女の二の腕は、まだ若さを充分にとどめていた。ひえきった王のからだが
いたわしく、別離の予感の寂しさをこめて、女は昨日と同じように王に身を
あずけた。
 水平線を見つめたまま、王が優しく応えた。
「まだお眠りかと思っていたが」
「貴方がいないのに、どうして独りで下で眠れましょう」
 女は甘えるように、愛人の腰に両手を回した。少し風があった。錨を降ろして
停泊した帆船は、秘め事の明けた朝を隠し、ゆったりとゆりかごのように
揺れていた。王は女の手に手を重ね、女は夜の間ずっとそうしていたように、
王の手に指を絡ませた。
「岸の砦から見えたらどうするね」
 しかし王は女を抱き寄せ、離さなかった。そんな王の胸に頬をつけ、
女は星の残る空を見た。
「ドーヴァー海峡の夜が明けるまでには、まだ間がありますわ」
 王は、海を隔てた国の王であった。そして女は、ひと月前まで王の国と
敵対関係にあった国の、国王の妹であった。
「アンジュー伯は、本当に素晴らしい方。心から父である貴方を大切に」
「粋な計らいではあるが、この父の年を考えろというのだ」
「アンジュー伯は笑っておられました」
「誰かに似て、命がけの冒険が好きなのだ」
「それでも、貴方はこうしてわたくしに逢いに来て下さった。この船にいざなう
わたくしのあの手紙が、何かの罠だとはお思いになりませんでしたの」
「王女」
「はい」
「貴女の名を疑うことは、かつても、それからこれからも、ただの一度も」
 心うたれ、王を見つめる王女の眸は、明けの明星のようであった。
 別れの刻が二人に迫るのを怖れるかのように、王女は他の話をした。
「貴方の甥にあたられるパトリス様に宮殿でお逢いいたしました」
「大使に同行させたのだ」
「まだご遊学したいとおっしゃって、後日の船でお帰りになるそうです。
凛々しい貴公子。こちらでもお国と同様に黒水仙の君と呼ばれて、すっかり
宮廷の貴婦人たちの人気者に」
「そう呼ばれると彼は怒る」
「むっとされます。騒がれることがお嫌いのご様子」
「淑女がたを相手にけしからんね。年に似合わず渋いふりなどしよって
格好つけが。あれだけは止めるようにとわたしからも云ってあるのだが」
「そこがまた良いのですわ。気概と自負心のある青年。先が愉しみですわ」
「その先を見るまでは、わたしは生きてはいないだろうがね」
「おっしゃらないで」
 王女は王の背中に抱きついた。
「そうなったら、わたくしも生きてはいられません」
「五十を過ぎたこんな老体をつかまえて。父と娘ほどに年が離れていることを
お忘れかな」
「いいえ、いいえ」
 外見にも身のこなしにも、数年後の死に至るまで、王のどこにも目立った
老衰は感じられなかったことは、万人が認めるところであった。
 戦神と呼ばれた男の腕に、王女はすがりついた。そこには刀傷や矢傷が
あることを、王と肌を重ねた女は知っていた。
「まだわたくしが小さな少女だった頃に、庭で転んだところを貴方に
抱き上げてもらったあの日から、わたくしの心は貴方のもの。その頃の貴方は
まだ王ではなく、内乱によりこちらの国に亡命していた、一人の王子でしたわ」
「そんな大昔のことをよく憶えているね」
「つい昨日のことのように。ひと時も忘れることなく」
「離宮での日々が懐かしい」
 青みを増してゆく海に王は眼を据えた。
「国に戻り、傀儡政治を行っていた大臣たちを倒すべく立ち去る日、小さな
王女にわたしは約束したのだ。内乱に乗じて貴国はわたしの国に攻め入ろうと
するだろう。たとえ戦により分かたれようとも、王女、貴女の倖せを心よりお祈り
申し上げていると。七つの海を征することは叶わなかったが、わたしの国と
その民のために、何よりもわたし自身の命のために、神から与えられた義務を
わたしは精一杯尽くしたつもりだ」
 男は王妃を持つ身であり、そして女は、なさぬ仲の隣国の王女であった。
 朝焼けの海と空はばら色と金色に輝いて、黄昏の中であるかのように
抱きあう二人の影を一瞬だけ濃く変えた。
 朝風の中、女にも分かっていた。今生ではおそらくこれ限りであり、もう二度と
逢えぬのだと。
「心に他の殿方の面影を抱く身で、どうして他の方に嫁げましょう」
 あらゆる求婚者を退けて、王女はよく、幼馴染のストラフォード伯爵に
そのように語ったものであった。

 数ヶ月後、王女は島の西南の保養地から海の向こうのアンジュー伯に
宛てて手紙を書いた。
 密かに海峡を渡って来たアンジュー伯は、王女にあるものを差し出した。
 古代帝国が拓いた保養地からは、青い海が一望できた。
「お生まれになる赤子は、わたしの庶子といたします。しかし王は、その
赤子に両親が愛し合ったしるしを与えたいとお考えです。王はこの水晶の
ブローチの台座に、王と、そして王女さまのお名を刻まれました。赤子は
確かに王と王女さまのお子であると、お認めになられた証でございます」
 王女は感謝して黙って頷いた。子を生むにはご年齢からもご丈夫とはいえぬ
お身体であったが、医師のすすめを断って、王女はその子を何としても
生むつもりでいた。
 やがて生まれた赤子は女児であった。
アンジュー伯はその赤子を連れて帰国し、おのれの庶子として、富豪の
貿易商モンバゾン家に預けた。モンバゾン家の養父母が海難事故で
亡くなると、アンジュー伯はその赤子を向かいのブーティリエ家に引き取らせた。
 王女は海を臨むその保養地で王の死と、数年後のアンジュー伯の死を
知った。それを見届けるようにして、彼女もまた、天に召された。
 一度もその成長を見ることのなかった娘のことを、亡くなる直前に王女は
幼馴染のストラフォード伯爵にだけは、ぽつりと洩らすことがあった。
 何処に預けられたのかも知りません。水晶のブローチを持ったその娘が
つつがなく成長して、両国の懸け橋となってくれたならと、そう思うこともあります。
名はアンジュー伯に頼んで、わたくしがつけたの。
「テレーズ」
 一度でもいいから、そう呼んで抱きしめることができたら。お母さまとお父さまが
出逢ったあの離宮で、暮らすことができたら。
「老嬢の夢の話だと思っているのね、ストラフォード伯爵」
 でも、それはとても素敵な夢なのよ。幼い頃から、わたくしが大好きだった
異国の王子さまの子を、あの方の子を、わたくしは生むことができたのですから。
「船が、迎えに」
 ストラフォード伯爵に見守られて、王女は息をひきとった。


>次へ >目次扉へ >TOP

Copyright(c) 2009 Yukino Shiozaki all rights reserved.