黒水仙
T.修練女




 山脈の麓、尼僧院の鐘が空に鳴り響いた。
 修練女たちは、森の中で薬草を摘んでいた。
鐘の音は遠く、僧院の塔も木々に遮られて見えなかったが、鐘の音は
空を重く満たして、被り物に隠れた彼女たちの耳にも届いた。
「お祈りの時間だわ。帰らなくては」
「まって、もう少しで籠がいっぱいになるから」
「あんまり欲張ると、山賊に攫われてよ」
 顔を見合わせて少女たちは憂鬱に肩を落とした。本当にそうなるの
ならば、どれほどいいだろう。心の片隅でそんなことを願ってしまうほどには、
僧院の生活は、質素で単調だ。
 網目状に木漏れ日がちらちらとさしこむ森の中は、昼なお暗く、小鳥が
枝から飛び立つ音がするたびに、修練女たちはびくりと身を寄せ合った。
 尼僧院の貴重な財源である薬や化粧品を作るための薬草は、僧院の
畑だけでは間に合わない。決められた日ごとに修練女たちは籠を手にして、
こうして深い森に入るのだ。
「ひなげしが咲いてるわ。僧衣の赤。デギュイヨン枢機卿の色ね」
「では、わたしは紫すみれを選ぶわ。王弟オルレアン公の色よ」
「ついでに、水仙はいかが」
「色は黒でね」
「黒水仙。それこそは王弟オルレアン公の友にして、デギュイヨン枢機卿に
とっては目の上のたんこぶ、シャルル王陛下のお従弟にして懐刀、
近衛隊長パトリス様の色なりけり」
「お従弟といっても。黒水仙の君は、私生児じゃないの」
「俗世のことは口にしないこと」
 年長の修練女が唇に指を立てたが、少女たちのおしゃべりは止まなかった。
 誓願前の修行中の身である。尼僧の監視の眼から逃れられるこのひと時は
少女たちにとっては息苦しい僧院生活の中の、唯一の息抜きだった。
「あんたはいいわよ。一度でも、街中で娘らしく暮らしたことがあるのだから」
「お父さまが再婚したことで、財産を独り占めしようとする高慢ちきな義母と
その親族にやっかい払いをされただけよ」
「孤児のわたしには、それでも羨ましく思うわ。大聖堂のある水の都に
住んでいたなんて、素敵だわ」
「遅くなるわ。もう帰りましょう」
「テレーズは?」
「鐘の音は聴こえているはずよ。いつものように後からすぐに追いついて来るわよ」
「テレーズは、自主的に発心して此処に来たのよね。変わってるわ」
「見て!」
 背中を向けていた修練女のひとりが、膝の上に溜め込んでいた花びらを
膝かけごと空中に高く投げ上げた。少女たちは固まって森の天井を仰いだ。
「花の雨ね」
 薄色の、こまかな花びらは、光を吸い込みながら、木漏れ日の青い天蓋から
少女たちの頭上に降ってきた。日陰の草の上に散り落ちる花びらを、籠を
手に、修練女たちは俯いて見つめた。

 森に入ることを、どうして他の子たちは嫌がるのだろう。
 木々は廻廊の柱。泉のまわりは花のモザイクを敷き詰めた舞踏会の間。
このひんやりとした緑の苑は、森のまぼろしが見せる翡翠色のお城なのに。
 誰も見ていないので、頭から被りものを外した。陽ざしの中にテレーズの髪が
絹糸のごとく輝いた。
 テレーズが摘んでいるのは、精製水と秘薬を混ぜて、婦人用の化粧水や
香水にするための春の花だ。年若い修練女たちは自分たちでつけることもない
化粧品を作ることをむなしいと云うけれど、テレーズは花摘みも、石鹸作りも
嫌いではない。
 修練女のまとう前掛けつきの黒灰色の質素な衣も、かたく編みこんで
頭部に巻きつけたままの長い髪も、人はテレーズを見るたびに「もったいない」と
云うけれど、テレーズは山奥の尼僧院に駈け込むことで、ようやくブーティリエ家の
三人の兄たちから逃れることができたのだ。
「テレーズは、妹だぞ」
「それがなんだ。妹といっても血は繋がっていないではないか」
「どうせ兄さんたちだって、互いに監視してるんだ。テレーズは誰にもやらないと」
 テレーズが娘らしくなるにつれて、どうかすると自分を熱い眼で見ている
彼らが怖かった。養父亡きあとブーティリエ家の家督を継いだ長兄はともかくも、
次兄や三男はテレーズと二人きりになりたがり、誰もいない廊下ですれ違うと、
抱きついてくることもあった。
 ふざけたふりをしていたが、彼らのその眼は笑っていなかった。
 親族たちの無言の批難も、家中の者たちの好奇の視線も、重苦しく、
わずらわしかった。
 だから訪れたはじめての恋に、十六歳のテレーズはすぐに夢中になった。
「嵐に遭って船が遭難しましてね。お向かいに住んでいたこの娘の両親は
積荷ごと帰らぬ人となりました。引き取る親族もなく、いとけない幼子が救済院に
預けられようとしているのを亡父が見かねて、我が家で引き取ったのです」
「もちろん、テレーズは俺たちの妹さ。お前はよちよち歩きの頃から、この家で
育ったのだからな」
「妹なら、兄の云うことをきくものだ。テレーズは家にいればいい。テレーズ、お前、
もしや俺たちの知らないところで男と逢ったりはしてないだろうな」
 太陽が雲に隠れて陽が翳った。
 それだけは修道院で私有が認められた、生みの母の形見の水晶のブローチを
前掛けの隠しから取り出して、テレーズはしばらくの間、泉の縁で木漏れ日を
浴びていた。
 やがて、テレーズは髪を隠す被りものを頭に戻してピンで留め、ブローチを
しまった。予鈴の鐘の音が鳴っていた。籠を持って立ち上がった。
もう、帰ろう。
 その時、かすかな口笛の音がした。
 テレーズは立ち止まり、あたりを見廻した。口笛はもう聴こえなかったが、
脚を止めたおかげで、テレーズはべつのことに気がついた。
「忘れ物」
 衣が汚れぬように膝の下に拡げて使う小さな布を、草をはらった後で
岩の上にそのままにしていた。取りに戻ったテレーズは、泉のそばで途方にくれた。
確かにこのあたりにおいたはずの布がみあたらない。
 緑をわたる小鳥のほかには、他に動くものとてなかった。
 その日の太陽が傾いて、修道女たちが松明を手にした寺男と共に戻らぬ
修練女を森の中に探しに来た時、夕焼けを甘い色で映す泉のそばには、
花を満たした籠が落ちているだけだった。


 雪山の麓の尼僧院で起こった怪事件は、王の耳にまで届くところとなった。
「それしきのことで、このような田舎に還俗した僧を派遣しようとは」
 旅外套から埃を払うのも早々に、庭先で雪どけ水を水車が回している
旅籠に乗り込むなり、その青年は眼についた女給をさっそく呼び寄せて
隣に坐らせ、愚痴と酒の相手をさせた。
 宿の窓からは黄昏の空と、白い花をつけた林檎の木が見えた。
「あら、あんた、元はお坊さんだったの」
 酒の相手などいつもならばごめんだが、今宵の客は若く、剣を帯びては
いても粗野な振る舞いはなく、王都の流行にも詳しく、ついでに前金の
払い方もよかったから、女給はよろこんで、彼の話し相手になった。
「元お坊さんだったなんて、そんな風には見えないわ」
 その青年は精悍と優美を足して二で割ったような容貌で、黙っているよりも
笑った時のほうが、大人びてみえた。
「もと坊さんだったから、尼僧院への遣い役に選ばれたのさ」
「いなくなった修練女のことね」
 熱い煮こみ料理が青年の前にはこばれてきた。卓や椅子は年月に
磨り減っていたが、床は砂もよく掃かれて、暖炉にも惜しみなく薪が燃え、
繁盛しているだけあって小奇麗な部類に入る宿である。木をくりぬいた器に
盛られた田舎風の夕食も、粉っぽい麺麭も、見た目よりは不味くなかった。
「どうして修道院に?」
「父の再婚相手のその妹が美人でね。その女、顔を合わせるたびに、
こんな感じで流し目を」
「ああ、なんとなく想像ついたわ。それでお仕置きに僧院に入れられて
しまったのね」
「ところが、こいつが稀代の毒婦だった。寝台で仲良くしているところへ、
じゃーん、女の婚約者殿のご登場。いたのか、そんなの。いたのよ、なのに
貴方が無理やりわたくしを、ひどい、ひどいわ。許せん決闘だ。ちょっと待てよ
こちらは知らなかったことだ。現場をおさえられておきながら言い訳するとは
男の風上にもおけぬ奴。そうかいそうかい、ならわかったよ」
「で?」
「ぐっさりと。遠慮なぞしなかった。屈辱を受けたのはどっちだい、わたしの
ほうだろ?」
「まあ、あんた、怖いわ」
「怖くない、怖くない」
 快活に青年は笑い、女給の腰を抱いて酒をあおると、ご機嫌になって
喋り続けた。
「激怒した父によって山の向こうの僧院に預けられた。僧院の生活は
単調でね。心身を清めるどころか邪心ばかりが夜毎にたかまり、このままじゃ
伝説の狼男になるんじゃないかと泣き言を書き送ったら、僧院に行ってまで
お前はそんな奴なのかと呆れ果てた父によって勘当が解かれたはいいものの、
都に戻ってみれば、今度はパトリス剣士隊の若鷲級に入隊せよとの仰せが
待っていた。パトリス剣士隊。王弟オルレアン公の友にして、シャルル王陛下の
お従弟であられる、パトリスさまの剣士隊だ。そのパトリス様とわたしの父が
戦場で杯を酌み交わした仲なんだと。それで、この麗々しい黒水仙の徽章を
身につけることに」
「ちょっと待って」
「なんだい」
「あんた、年いくつよ」
「パトリス剣士隊の若鷲級所属って云ったろ。大鷲級じゃなきゃ、十四から
二十六歳までの間のどこかさ」
「少数精鋭のパトリスの若鷲級は、身分と素行を問わない代わりに、大鷲級と
違って途中入隊ができないはずよ」
「それが何か」
「まあまあ呆れた。ということは決闘したり何だりの、今までの話って全部、
あんたが十四歳よりも前のことじゃない。んまあ、そりゃあ親御さんもさぞや
あんたのことで頭が痛かったはずよ。とんでもない悪たれだ」
 青年の眸は悪びれもせずに明るく澄んでいた。暖炉の火を見つめている
その横顔は癖のない黒髪に縁取られ、まったくもって勇敢と忠誠を兼ね備えた
王の剣士の図として描きとめておきたいような、そんな様子であった。

 食事を終えた青年は鍔広の帽子を片手に立ち上がり、酒に酔ったふうもない
しっかりした足取りで、二階の部屋へ行こうとした。
「剣士さま、お待ちを」
 片脚を階段にのせたところで、宿屋の亭主が青年を呼び止めた。
 田舎町を訪れた今宵の客が、都に数ある剣士隊の中でも国王直属の
近衛隊、デギュイヨン枢機卿の親衛隊とは花形の座をわける黒水仙、すなわち、
王従弟パトリスの剣士隊からやって来たと知って、亭主は緊張気味であった。
 王の寵臣デギュイヨン枢機卿と、王従弟パトリス。
 同じく国王を補佐する立場にありながら対立している両名は、それぞれの
僧衣や徽章から、緋色派、黒水仙派と、それぞれ呼称されていた。
 この村は、王弟オルレアン公派である。そして王従弟パトリスは、下々に
人気のオルレアン公の親しい友である。よって亭主は青年にいい酒を出したが、
もしも宿の亭主がデギュイヨン枢機卿派であったなら、不意に訪れた
よそものに対して、温かい食事といい部屋が用意されたかどうかは分からない。
 パトリス剣士隊の勇壮さは、このような田舎にまでとどろき渡っている。
呼び止められた青年は階段から振り返り、人が変わったような眼つきで
亭主を見つめたが、亭主が宿帳を掲げ持っているのを見ると、まだ宿帳に
名を記していなかったことに気がついて、青年らしい、すがすがしい笑みを
みせた。
「馬の世話も頼むよ」
 すらりとした身を傾け、青年はさらさらと亭主が差し出す宿帳に署名すると、
階段をのぼり、あくびをしながら突き当たりの客室に引っ込んだ。
 あとで女給が宿帳をこっそりのぞくと、そこにはこうあった。
  ----狼男。

 部屋に入った青年は重たい装束を脱ぎ捨てて、剣を寝台近くの壁に
立てかけると、水差しの水を洗面器に移して手を洗い、顔を洗った。
 がたつく鎧戸を苦労してひらいた。春の夜風にのって庭のりんごの
花が香った。
 藍色の星空に白い稜線をくっきりと描く山脈が、愕くほど近くに聳え立っていた。
尾根の先が白鳥の首のようになっている、あのあたりが、森から失踪した
修練女のいた尼僧院の在処だ。青年は鎧戸に半身を凭せ掛けてしばらく
夜の山を眺めた。
 まだそれは、怪奇とも、ただの誘拐事件ともつかぬ、曖昧なものであった。
 森から修練女が姿を消してから三日後、都の古物商に出物があった。
売りに来たのは、人品賤しからぬ、若い男であったという。その古物商は
特に何も疑問に思わずそれを買い取った。
 それは姿を消したテレーズが肌身離さずいつも大切に持っていた、水晶の
ブローチであった。


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