エデン・ズ・ノア
---中---
アカシア、逃げよう。
双子の弟アケロンが現れて手を取った。オリオン王が王妃を守ってくれと
弟に頼んでいる。
何度も王を振り返りながら、アケロンに連れられて王宮の外に出た。
一人で逃げるのはやはり不安だ。弟が来てくれて、ほっとした。
ライサンダーが離宮を訪れたその晩、懐かしい河の音で
アカシアは眼がさめた。
河音だと思ったのは、庭を流れる水路の音と、侵入者の気配だった。
「アケロン」
口から悲鳴を迸らせ、アカシアは頭上に落ちてきた刃をあやうく避けた。
「アケロン、あなたが」
どうしてその名が口をついて出たのか、アカシアには分からなかった。
そしてその名を呼ぶたびに、喉許にまでこみ上げてくる、何かの苦い後悔と
憎しみの正体も。
剣は枕を裂いた。アカシアは寝台をとび降り、咄嗟に手鏡を握った。鏡は
すぐに叩き落された。砕けた鏡の破片が腕をかすめ、倒れた椅子が大きな
音を立てて転がった。
壁際に逃げたアカシアは扉にとびつき、呼ばわった。
「誰か」
王を守れ!
隣国ノアヴァラが裏切ってエデンに攻めてきた、日蝕はその予兆だったのだ!
「誰か、誰か」
「アカシア様」
衛兵がなだれ込んで来た時には、侵入者はアカシアを残して窓から
逃げた後だった。駈けつけたイリアスは、アカシアが腕から血を流して
いることに気がついた。
「大丈夫か」
イリアスはアカシアを両腕に抱え上げた。アカシアを抱いて奥の間へと
はや足に向かいながら、次々とイリアスは部下に指示をとばした。
「篝火をあるだけつけろ。ルキアノス、離宮を第一級の警固体制に」
「賊の追尾を、イリアス様」、部下のルキアノスが求めた。
イリアスは退けた。
「立て篭もるほうが先だ。いや、一番隊のみ追え。伝令」
「はっ」
「離宮襲撃さると王宮のネクタリオス王に伝えよ。しかしアカシアは無事だとな」
「ははっ」
「アケロンとは、誰のことだ」
夜警が交代する隙をつかれた。責任はイリアスが負うことになるだろう。しかし
イリアスは、よくて減給解雇、悪くて牢獄か鞭打ちの刑だろうとすばやく肚を
くくってしまうと、もうそれ以上そのことで思い煩ったりはしなかった。
手早く布を裂き、アカシアの腕に巻きつけながら、イリアスはアカシアに訊いた。
アケロン。それが王の寵妃の暗殺を企てた者の名であるならば、是非とも
詳しいところをこの女の口から訊かねばならない。
「アケロンとは誰なのだ」
別室の長椅子にはこばれたアカシアの身体は冷え切っていた。女の声を
聴き取ろうとイリアスは耳を近づけた。アカシアは唇をふるわせた。
ひたひたと胸を浸してくる暗い過去。炎を噴き上げる黒い呪詛には、拭えぬ
憎しみが篭っていた。その名こそ永遠に呪われろ。
「アケロンとは誰なのだ。アカシア」
重ねて問いかけるイリアスに、アカシアは涙に濡れた眼を向けた。
王とわたしを楽園から追い出し、王を殺した、裏切り者の名です。
ライサンダー王子は馬を走らせた。青年のくれる荒鞭に馬が地を蹴立てる。
蒼穹に浮かぶ太陽は低潅木の生い茂るカッサルシャの平野をくまなく
照らしつけ、街道の脇では農夫と工人たちが施工主任の指示に従って
畑地灌漑に励んでいた。
リメス=サザンビリス河は、今日も青かった。
離宮が夜襲を受けたときいて、ライサンダーは見舞いに行くところなのだ。
口実をつけて、またアカシアに逢える。そのことが、ライサンダーの心を
熱くしていた。心配されたイリアスのことも、将軍のとりなしにより今回に限り
罪は不問にされるということで決着がついていた。それには、アカシア
からの口添えもあった。
「わたくしから、庭に面したあの部屋を望んだのです。イリアス様から
それでは死角が多いと繰り返し思いなおすように云われておりましたのに、
無理を通してしまったのがいけなかったのです」
イリアスは抗弁しない男なので、アカシアのその弁護がなければ、寵妃を
傷つけられたネクタリオス王の寛大もはたらいたかどうかは分からない。
それにしても、あの話は本当なのだろうか。
「アカシア様を探している不審な男が街にいるのですって」
囁き交わしていた女官たちは、ライサンダーの姿を見ると、ぱたりと口を
つぐんでしまった。その夜ライサンダーは女官の一人を寝所に呼び入れ、
短刀を見えるところにおいて、詳しいところを喋らせた。
女官は王子の眼光に怯えながら、脅されるままにこんな話を王子にきかせた。
「舟で女が河を漂ってこなかったかと、市場で訊き回ってる流浪の民を下男が
見かけたそうなのです」
「流浪の民だと」
「その格好をしていたそうです」
流浪の民とは、武芸や歌曲に優れ、たいていは一匹狼で、畏敬されたり
迫害されたりしながら、国から国へ、街から街へと漂っている、根無し草のことである。
「それで」、王子は女官をうながした。
「それはアカシア様のことかと下男が口を挟むと、男は物陰に下男を連れてゆき、
アカシアの居場所を教えろと迫りました。下男は男が怪しいと思い、何も答えずに
男を蹴りつけ、市場の雑踏に紛れて王宮に逃げ帰ってきたそうです」
「どんな男だった」
「若い男としか。砂漠を旅する格好で、眼だけを布から出していたそうですわ。
言葉は流暢でしたが、わずかに異国訛りがあったとか」
では、その男が離宮を突き止めてアカシアを襲ったのだろうか。しかし、何のために。
一刻の後、女官は起き上がり、髪を結いなおした。
「ライサンダー様、夜伽ならわたくしなどより後宮のアリアドネ様をお召しになって
下さいませ。手引きいたしますわ」
ネクタリオス王の奴隷の一人アリアドネは、まだ少女といっていい頃に後宮に
入れられた女で、控えめなところが気に入られ、王に可愛がられている女であった。
しかし王の赦しなく王の女に手をつけることは、たとえ王子であっても死罪である。
ライサンダーは片眉を上げた。
「おかしなことを云う。誰に頼まれてそんなことを」
「あのう。それは」
言葉を濁す女の胸に顔を埋め、ライサンダーは察した。アカシアに寵を移した
ネクタリオス王自身がそう云ったのだ。
ライサンダーは馬の手綱を引いた。野にたくさんの赤い花が咲いている。
馬から降りた王子は剣を抜いた。その剣柄は、かがやく翠玉石で飾られていた。
摘めるだけ摘んで、茎を革紐で束ねると、水筒の水を上から振り掛けて鞍の
物入れに投げ込んだ。
ライサンダーは花びらに唇をつけた。女の肌のように柔らかかった。
街中でアカシアのことを尋ねまわっていたという流浪の民のことは、イリアスにも
伝えておかなければ。
「花がしおれてしまう。とばすぞ」
馬の首を叩くと、ライサンダーは陽光に温まった馬鞍に跨った。
王妃。河を下って先にお逃げ。
王よ、すぐに追いついて下さいますね。
待っています、サザンビリス河のほとりで、いつまでも。いつまでも。
眼の奥まで薄青に染まりそうな緑の庭には、木漏れ日が宝石のように
落ちていた。
アカシアを訪ねたネクタリオス王は、処刑の話からまず始めた。離宮を
襲った刺客がカッサルシャの国境を越える手前で、イリアスの兵に捕まったのだ。
王の女に手を下した者は、王に危害を加えたも同然。惨たらしい拷問の上で
公開火刑に処したという王の話を、アカシアは俯いて聴いていた。
離宮の庭に流れる人口の小川を見つめながら、アカシアはネクタリオス王
に訊ねた。
「その者は、アケロンという名ではありませんでしたか」
ネクタリオス王は答えた。
「暗殺を生業とする者だった。名も、誰に頼まれたかも白状しなかった」
王は暗殺者を締め上げるよりは、直ちに処刑を行うことで、王の権威を
国中に示すことを選んだ。
「おそらくは、後宮に女をおさめている貴族が、裏で糸を引いたのだ」
後宮に納めた一族の女が王の子を生めば、その実家は政治的に強くなる。
王の関心が後宮から離れることをゆゆしきことと思う者は、アカシアが王の子を
孕む前に、王の寵妃を亡きものにすることを望むはずだった。
それを煩わしいと思うのが、ネクタリオス王は重鎮の家から贈られた妻や
娘や奴隷には手をつけず、アカシアが現れる前に寵愛していたアリアドネも、
戦場で拾った少女だということだった。
「わたしを狙っている者は他におります」
アカシアは、市場に現れた若い男の話をイリアスから訊いていた。処刑された
暗殺者は背の低い中年の男であったから、下男の証言とは一致しない。
「ふしぎな女よ」
ネクタリオス王は、アカシアの頤を掴んだ。
「何も憶えてはおらぬくせに、時折、誰かの名を口にする。イリアスから
訊いたぞ。アケロンという者が、お前を殺そうとしたことがあるそうだな」
イリアスは、不吉なことを王に伝えることは憚られ、アケロンとは王を殺した
者だというアカシアの言葉をそのまま王に伝えてはいなかった。
「怖い」
嵐にたおれる花のように、アカシアはくたりと王の膝に取りすがった。
「王さま、どうしてでしょう。何かが、とても怖いのです」
木漏れ日が女の細首や胸元をちらちらと染めた。滅多に甘えぬ女が見せた
か弱さに、王は眼をほそめた。
「アカシアよ。いかなる女よりも、そちだけが余を慰める」
「ライサンダー王子を追放して下さいませ」
閨で囁かれる女の頼みごとには一切耳を貸してこなかったネクタリオス王
であったが、その夜のアカシアの懇願にはついに折れた。何かに怯える幼い
子供のように、アカシアは熱心にそれを頼んだ。
「王がご不在の時を狙ってライサンダー王子は足繁く離宮にやって来ては
わたくしに関心をみせるのです。あそこに飾ってある赤い花も、剣も、王子が
離宮にもたらしたものです。嘘だとお思いならばお調べ下さいませ。わたくしは
ライサンダー王子が怖ろしい。王子は、ご父君の国がカッサルシャに
滅ぼされたことを怨みに思い、いつの日か、この国と王の上に禍をもたらす
つもりなのです」
「莫迦なことを」
はかなく身をふるわせ、女は可憐に王に取りすがった。いつかの河の音が
アカシアを不安にさせた。大好きな、王さま。
「王さま。あなた様を失ったら、わたくしも生きてはおれません」
アカシアはひとふりの見事な剣を王に見せた。翠玉で飾られたその剣は、
ライサンダーが父王の形見として、大切に持っていたものだった。
赤い花と宝石の剣。ライサンダーが護身用にとそれをアカシアに渡したのを
見た時、イリアスは口笛を吹いた。これは王子もあの女に本気だな。
わななきながら、アカシアは灯りにかがやくその剣を怖ろしげに指差した。
翠玉の剣は、そんなアカシアの顔につめたい光を投げかけた。
「ライサンダー王子を追放して下さいませ」
ネクタリオス王は慎重に調査した。
花の咲き乱れる野に輿をとめて街道を見張っていると、眼の前をライサンダー
王子の馬が離宮の方へと駈け過ぎた。
王の寵妃を穢すことで、余とカッサルシャに復讐しようてか、ライサンダー。
耳に囁かれる甘言がどれほど女の操をとろかすか、王はよく知っていた。
若きライサンダーに篭絡されたアカシアが、寝所でおのれの上に跨り、あの剣を
振りかざしてこの首を取るところまで、ネクタリオス王はまざまざと思い浮かべる
ことができた。
「ライサンダーより王子の称号を剥奪し、王宮より追放せよ」
国を滅ぼされた悲運の王子ライサンダーに人知れず深い想いを寄せてきた
後宮の少女アリアドネはそれをきくと、床に伏して泣き崩れた。
ひそかに離宮から出していた部下のルキアノスが、イリアスの許に
戻ってきたのは、それから数日後のことであった。
あれほどの美貌である。アカシアが何処の女であったかはすぐに分かる
だろうと踏んでいたのだが、荒地に点在する小部族の結束は固く、止む無く
ルキアノスはカッサルシャ王の名をちらつかせながら白状させなければ
ならなかった。
ルキアノスをねぎらって退出させると、イリアスは椅子に腰を据えて
考えこんだ。
ルキアノスがもたらした情報は、意外といえば意外であり、アカシアの横顔に
暗い蔭を覚えていたイリアスが得心できるものでもあった。
「族長の長男の首をかき切って逃げてきたそうだな」
花瓶から散り落ちた赤い花びらを手で集めていたアカシアは、部屋の入り口に
現れたイリアスを振り向こうとはしなかった。
「男は死んだそうだ。その細腕で、やるじゃないか」
東方から絹の道を通ってはこばれてきた青磁の壷には、この国では見かけない
口ばしの長い優美な鳥の姿が絵付けされている。
女の指先が、花を揺らした。
無理やり妻にされた。天幕の中に閉じ込めれて、もう我慢できなかった。
河の音を聴くたびに、此処にいてはいけない、此処じゃないと、その一念
ばかりが強くなっていった。
或る日、太陽が消えた。太陽神への唱和が天地に響き渡る中、日蝕の暗闇に
紛れて近づき、祈りを上げている男の首筋を切っていた。半月刀を投げ出して舟で
逃げてゆく女に気がつく者はいなかった。
「石打の刑は覚悟の上だったのか」
アカシアはようやくイリアスに向き直った。女の眸は、イリアスがかつて見た
どのような女よりも澄み切っていた。
イリアスとアカシアの間にも、花瓶からこぼれた赤い花びらが落ちていた。
「市場に現れた若い男とは、きっとその部族が放った刺客だろう。砂漠の部族の
掟はカッサルシャの王の威光よりも強い。その男はお前を殺しに来るだろう」
イリアスが愕いたことに、アカシアは、静かな笑みを浮かべた。
「イリアス様。今宵も、王はこちらにお越しになります」
女は微笑んだ。枯れ落ちた赤い花がその足に踏まれていた。最初からあまり
気に入らなかったが、ライサンダーが追放されたことでこの女への疑いと
悪感情を決定的に募らせていたイリアスですら、その美にはうたれた。
それは王の寵を得た女の勝利であり、女の愛の勝利だった。
「たとえ時を戻しても、ネクタリオス王にお逢いできるのならば、わたくしは
同じことをする。王に巡り逢った時に、サザンビリス河のほとりに生まれてきた
意味を知ったのです」
赤い花が風に吹き流された。散り落ちる花びらの中、アカシアはイリアスを
見つめ返した。それは、女王の威厳であった。
王宮から放逐されたライサンダーは、カッサルシャの下町に潜んでいた。
おしのびで何度も通っていたので、顔見知りも多く、ほとんどの者は王子の
境遇に深く同情していたから、みな親切だった。
ライサンダーは少しも意気銷沈していなかった。もとより肩身の狭かった
王宮暮らしである。追い出されて、かえって清々した。
「これからは、王子ではなく、ひとりの男として生きよう」
口に出してそう云ってみると、蜘蛛の巣のように溜まっていた永年の胸の
つかえが霧散し、自由の新風が吹き付けてきた。ずっと抑えつけていた力が
肚の底からわきおこり、それはライサンダー自身も戸惑うほどの、解放の
明るさに満ちていた。
護衛のイリアスとも友人付き合いをしていたほどであったから、ライサンダー
には下町の気儘な暮らしが性に合っていた。そのイリアスからも、見舞い金と
手紙が届けられていた。イリアスの手紙を、ライサンダーは握り締めた。
『アカシアは族長の息子を刺して逃げてきた罪な女ではあるが、ネクタリオス
王への愛はどうやら本物だ。』
勝ち目はないとは思ってはいた。しかし、こればかりは遣る瀬無い。
「忘れられないものは仕方ない」
「王子、女の話ですか」
「王子、呑みすぎでございますよ」
「うるさい。わたしはもう王子ではない」
「どこからどう見ても王子ですよ。前にも云ったでしょう。身をやつしておられても
ライサンダー様には王家の方の気品が備わっておいでだと」
素焼きの壷に入った酒をぐっと呷り、ライサンダーは懊悩ついでに
アリアドネからの手紙もひらいた。
もともとアリアドネはカッサルシャの遠征に従軍したライサンダーが戦場で
拾った少女であった。馬の蹄にかけられようとしたところを、ライサンダーが
救い上げた。
宴の席でネクタリオス王はアリアドネを求めた。滅ぼした国の王子であり、先王の
妹の子であるこちらの忠誠を試しているのだとライサンダーには思われた。
王の不興をかえば、カルサッシャの客分の身である自分も、自分の庇護下に
あるアリアドネも無事ではいられない。
アリアドネは泣いて抗ったが、ライサンダーはアリアドネを後宮に差し出した。
酒場の外では、アリアドネの遣いの者が道端で待っていた。ライサンダーは
その者を呼びつけると、アリアドネが手紙に添えて寄越した耳飾りを押し返した。
「金には困っていない。王から賜った品を勝手に人に渡すなとアリアドネに
伝えてくれ。もう二度と、手紙も寄越すなと」
それがどれほどの危険をおかして果たされたことなのか、王宮にいた
ライサンダーにはよく分かっていた。後ろ盾がある女ならば実家を通して
さまざまな便宜もこっそりはかれようが、アリアドネは異郷から連れて来られた
身寄りのない奴隷である。
遣いの者は悪い心の者ではなかったから、宝石つきの耳飾りをおのれの懐に
着服したりせずに、
「きっとアリアドネ様にお返しするでしょう」と律儀に応えて帰っていった。
酒場に戻ろうとしたライサンダーはふと視線を感じて、通りの雑踏を見廻した。
王の手の者だろうか。今のことを見られていたのならば、殺して口封じしなければ
アリアドネが危くなる。
剣に手をかけたライサンダーの眼は、ひとりの若い男の上に留まった。
流浪の民。その名がライサンダーの脳裡に浮かんだ。
「ライサンダー王子ですね」
若い男の声だった。すらりとした身のこなしのよい男はライサンダーに近づいて来た。
背中に剣を背負い、女官の話どおり、砂漠を旅する格好で眼だけを出している。
「わたしに何の用だ」
ライサンダーは剣に手をかけた。
身構えたライサンダーの前で、男はおもむろに両腕をあげ、顔から被りものを
取り去った。男の髪があらわれ、顔があらわれ、ターバンが風になびいた。
鼻筋のとおった流浪の民の凛々しいその貌には、どことなくアカシアの面影があった。
「お前は、誰だ」
剣を握り締めて、ライサンダーは若い男を凝視した。男は涼しげな眼をしていたが
堅気の者ではありえぬ物騒な光が、その眼光に鋭く宿っていた。
「名乗れ」
男は歩み寄った。ライサンダーは乾いた声でもう一度吼えた。
「名乗れ!」
「アケロン」
流浪の民はそう応えた。
隣国ノアヴァラへの積年の疑いは根深く楽園の王オリオンを蝕んだ。しかし
オリオン王にとっては、王妃アカシアの存在と、その微笑みこそが全てであった。
----王よ。ノアヴァラが盟約を裏切り、エデンに攻め寄せてきました。
昼間の日蝕はその予兆。エデン・ズ・ノアの最後の日でございます。
王妃の弟であり、側近であるアケロンの報告を、玉座のオリオンは何かを
堪えるようにして聴いた。
アケロンは王に申し出た。王の前に差し出したアケロンの剣はかがやく翠玉で
飾られていた。
----オリオン王。どうかわたしを信じて王妃をおあずけ下さい。姉のアカシア
ともども下民の身分からわれら双子を引き立てていただき、今日まで格別の寵を
賜りました。
----友とまで呼んで下さったそのご恩に応え、決してアカシアをノアヴァラの
手には渡しません。もし果たせぬ時にはこの剣でアカシアを殺め、黄泉の
入り口で王を待たせることでしょう。王よ、もはや王宮にノアヴァラの兵が迫ります。
どうか、わたしを信じて王妃アカシアをおあずけ下さい。
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