エデン・ズ・ノア
---前篇---




 楽園の王オリオンと、その妃アカシアがすまう宮殿は、陥落間近だった。
 瀟洒な宮殿を包囲した将軍は、兵士たちに王の首をとれと命じた。
 押し寄せた兵士たちの鎧と剣は、夜の河を泳ぐ魚の鱗のようにぎらりと闇を
脅かして低く過ぎ、その炬火の炎は、大量の火の粉を振り落としながら
長い竜のごとく宮殿を取り囲んだ。
「王よ、必ずまたお逢いできましょうね」
「アカシア、早く」
 王妃アカシアは、双子の弟アケロンの手に引かれて涙ながらに王と別れ、
外階段を駆け下りた。
 空中庭園をとおり過ぎ、河へと降りてゆく間、星空の中にさ迷いでたような
心地が王妃にはした。兵も将たちも、楽園を護る者はもう残されてはいなかった。
 大河は月に照らされ、銀の帯となって眼前に迫った。
 何かがおかしい。
 夜風に脚をとめた姉のアカシアを、弟アケロンは振り返った。
「アカシア、いそげ」
「アケロン」
 宮殿から火の手が上がった。その火は、アカシアとアケロンの立つ岸辺の
対岸にも揺れ動いていた。河を染める炎は、風のまま、人魂のごとくに
右に左に、夜に漂い流れた。
「舟に乗れ。アカシア」
「アケロン、あなたは」
 炬火を掲げて向こう岸に待ち伏せている兵士たちの鎧かぶとが、にぶく
光って夜の底にうごめいた。
 身をひるがえして宮殿に戻ろうとするアカシアの腕を、アケロンが捕えた。
「アケロン。裏切り者」
「もう遅い。王は死んだ。あの喚声がそのあかしだ」
「捕えられるよりは死を選ぶ」
 きっとなってアカシアは弟の腕を振りほどいた。髪を夜風になびかせた
王妃の姿は、楽園にあっては月の女神と讃えられたものだった。
「オリオン王が黄泉に下られたと。ならば、わたくしも王の供をしましょう」
 王妃は弟の手から剣を奪った。
「アカシア」
 不穏を察して対岸の兵たちが灯りを掲げ、身を乗り出した。王妃は闇にも
かがやく翠玉の剣を握り締め、堤の上から彼らに呼びかけた。
「見るがいい。これが楽園の王妃の死に様です」
 王妃の声は、銀河までふるわせるようであった。
 アカシアは翠玉で飾られた剣柄を両手で持ち、剣先を胸に突き立てると、
夜の河に身を投げた。


 境界線の意味を持つリメスの名を冠した、リメス=サザンビリス河は、数千年の
あいだ変わることなく、ゆるやかな流れで大地を潤していた。
 砂塵と岩盤だらけの乾いた地表に肥沃な土壌をもたらす清流は荒野を
流れ、長い旅路の果てに、大海へと流れ込む。
 肥沃なこの一帯は古くから土地を争う戦が絶えなかったが、二百年前に
騎馬弓兵を揃えた新興のカッサルシャが諸国の統一を果たすと、かつてない
平和と繁栄を誇るようになった。
「イリアス。あの山の麓辺りが、はるかな昔、楽園の空中庭園があった処だ」
 鞭で指し示された方角を、馬上からイリアスは眺めやった。
 身分ある者にしかまとえぬ金飾りを、馬に乗った二人の青年はどちらも
身に着けていた。風になびく青い衣は彼らの若さを引き立て、青空の下に
鮮やかであった。
 イリアスは付き合い程度に、もう一度見た。何も見えぬのは陽炎のせいでは
なかった。
「何もないぞ、王子」
「当たり前だ。征服者が草木一本残さずに焼き尽くし、破壊し尽くしたそうだからな」
 鞭をしならせ、ライサンダー王子はわざと明るい口調で付け加えた。
「このカッサルシャに、わたしの父の国がそうされたように」
 河の両側には緑の木々が生え、熱の遮られた水辺の木陰では、牛追いたちが
長閑に午睡をしていた。
「楽園の最後の王の名は伝わってはいない。もともと閉鎖的な国で、王の名は
神官をはじめとする限られた側近しか知らなかった。征服者は柱という柱、
壁という壁から、楽園の王を言祝ぐ碑文を全て削り取り、消し去った。こんにちに
おけるカッサルシャの破壊行為は、おそらくそれを真似しているのだ」
 徹底的にだ、とライサンダーは涼んでいる木陰から河に石を投げた。
 ライサンダーとイリアスは王子とその護衛という間柄であったが、ライサンダーが
滅びた王国の者であることと、イリアスの母が、先代王の手をつけた奴隷女で
あったこと、それらの不遇の境遇が両者を親しく結びつけ、すっかり言葉も
態度もくだけていた。
 ライサンダー王子は顎を上げて空を見た。
「わたしも、わたしの母がカッサルシャの先代王の娘でなければ、国と共に
滅びてこの世にはいなかっただろう。母と共にカッサルシャに引き取られは
したが、時々こうして一人生き残っていることが心苦しくなる」
 自分のことをまるで他人事のように語るライサンダー王子の横顔から
眼を逸らし、イリアスは、リメス=サザンビリス河へと視線を戻した。
 ライサンダーが亡国の王子ならば、イリアスは奴隷女を母に持つ身である。
 先代王は飽きのきた奴隷女をその赤子ごと早々のうちに臣下へと押し付けたので、
イリアスは長じるまで、下級官吏を父だと信じて育った。どちらでもよい話だ。
王のお胤など腐るほど野に埋もれている。イリアスは独立独歩の気概を胸に
少年の或る日兵舎の扉を自分で叩いた。
 リメス=サザンビリス河はここ数百年、または数千年、氾濫を知らない。
 水は高いところから低いところへ流れると学者は云うが、カッサルシャの国土を
蛇行しているこの広い河を見ていると、まるで平らな大地を長い水蛇が彷徨って
いるかのようだ。
 水音が上がった方を見遣ると、近くの邑の子供たちがはだかになって、ふざけ
あいながら河に跳び込んでいた。
「暑いな」
「こちらも、泳ぐか」
 イリアスとライサンダーが上衣を脱いだ時、陽光に白く照らされた河の彼方から、
一艘の小舟が流れてくるのが眼に入った。
「舟だ」「漕ぎ手がいないぞ」
 空舟と見えたものは、近づくにつれて、そうではないことが分かった。たっぷりとした
水量に浮かぶ舟はその底に、ひとりの若い女を横たえて漂っているのであった。
 控えめな銀波を立てて、舟は彼らのいる岸辺をゆっくりと過ぎようとしていた。
「女だ」
 イリアスとライサンダーは同時に声をあげた。子供たちが騒ぐ中、二人の
青年は同時に河の水に身を躍らせていた。


 乾いた熱風が吹きすぎるその午後、カッサルシャの王ネクタリオスは新しく
手に入れた女の許をはじめて訪れた。
 王は丈高い偉丈夫で、戦場においては鎧で固めたその身を敵陣に割り込ませ、
血吹雪を上げては鬼人のごとく手向かう者を怖れさせるという話であったが、王都に
おいては特に荒ぶることもなく、ただ冷酷非情さをもって知られた。
「何処かの部族の女だろう。掟に触れて、追放されたのだ」
 小舟から見つかった若い女について人々はそう噂したが、肝心の女に記憶が
ないために、それ以上のことは分からなかった。
「典医に診せようと王宮に連れ帰ったことが、王のお眼にとまることになるとは」
 無念とも未練ともつかぬ口調で、ライサンダー王子は頭から井戸水をかぶった。
「どこかで逢ったことがある女に思えると、そう仰せだった」
 厩舎の壁に凭れていたイリアスはライサンダーに云ってみた。
「王子。俺から頼んでやろうか?」
「何を」
「ネクタリオス王に、女を譲ってくれるようにと」
「あの女、自分の名だけは憶えていたな。アカシアと」
 あれ以来忘れたことはなかったくせに、ライサンダー王子は興味のないふりをした。
 女は他に幾らでもいる、というのがライサンダーの信条であった。王が召し上げた
女を欲しがるような真似はすまい。物欲しげな、そんな卑屈だけは。
 ネクタリオス王は、膝をついた女を見下ろした。
「後宮に入るか、それともその身ひとつで砂漠に戻されるか、選ぶがよい」
 王宮の露台から見渡せる夕空は、早出の星が火を噴き出さぬのがふしぎなほどに
色濃くまぶしかった。茜色に染まったリメス=サザンビリス河がそこからも見えた。
 ネクタリオス王の問いに、女は小さく応えた。
「ほかに行くあてもありません。王のお情けにすがるばかりです」
 王に抱かれるその顔は、夕暮れの中に夢みて眠るように安らかであった。


 アカシアは後宮には入れられず、王より離宮を賜り、ひっそりとそちらへ移った。
 数日後、将軍に呼び出されたイリアスは、ライサンダー王子の許を離れ、離宮の
警固をするようにと将軍から命じられた。
 長年、ネクタリオス王に仕えてきたカッサルシャの老将は、いわばイリアスの
親代わりともいうべき人物で、叩き上げて育てたイリアスをライサンダー王子の
護衛役に推挙したのも彼であった。
 拝命を受けたイリアスは戸惑った。
 王がアカシアに与えた離宮は、贅を凝らしたことで有名なものである。
 河から引き込んだ水が軽やかな音を立てて大理石の上を流れ、人口の
滝と小川をつくっている他にも、属領から運ばせたたくさんの樹木と花に彩られ、
それはまるで砂漠の地に咲く緑の苑だという話であった。
「女と離宮を護る役目など、俺には似つかわしくない」
「お前に恋焦がれている都中の女が泣くぞ」
 ライサンダー王子にからかわれながら、イリアスは隊を率いて離宮へと発った。
 二百年前は新興国にしか過ぎなかったカッサルシャにも、幾多の伝承がある。 
 イリアスの馬は、街の外へと続く大門をくぐった。見上げるほどに高くそびえ立つ
列柱は、無蓋のまま城壁の外へと繋がって、砂漠からやって来た交易隊商が
砂まみれの長い列でその下をすれ違い、荒野の何処かへと列柱を通り抜けて
消えてゆく。
 ----サザンビリス河よ、いつの世か、余は王妃を探しに還ってくる。
 カッサルシャが興るよりはるか昔、此処には国があった。エデン・ズ・ノアと
呼ばれる古代王国は、古サザンビリス河に沿って拓け、たくさんの塔と
神殿を築き上げて、東方の遠国にまで「黄金の楽園」として、その美と栄華を
仰がれていた。
 その滅亡は一夜のうちであった。
 隣国ノアヴァラと、王妃の双子の弟が王を裏切り、砦が一度に攻略されたことにより、
孤立したエデンの中枢部までノアヴァラ軍が押し寄せた。
 王の死を知った楽園の王妃は双子の弟の眼前で自害、或いは、弟と待ち伏せていた
敵兵が王妃を惨殺したとも伝わるが、王家の断絶をもって、エデンは滅び去る。
 砂漠に夕陽がゆらぎながら落ちる時、燃え上がる空に黒い影となって浮き上がる
カッサルシャの列柱大通りこそは胸迫る光景であったが、かつてのエデン・
ズ・ノアには規模も贅もはるかに及ばないのだと、イリアスは子供の頃から老人に
きかされて育った。
 伝承には、イリアスも知らぬ続きがある。
 

 アケロンは楽園の宮殿に引き返し、玉座の間へと進んだ。護衛の姿すらなかった。
石像を並べた廻廊には、先駈けの兵が朱に染まって倒れていた。
 楽園の王は血刀を引っさげて、そこでアケロンを待っていた。
「わが王妃は死んだか」
「オリオン王」
 灯火が照らす王の顔からは、哀しみはうかがえなかった。
「雪山の離宮に、いつかアカシアを連れて行ってやりたいと思っていたが。
黄泉の国にもあるといいが」
 剣を持ち直すと、オリオン王はアケロンにゆっくりと近づいた。ノアヴァラの兵が
それを取り囲んだ。
「王妃の魂を独りにはさせておけぬ」
「こうなってはもう逃れる道もございません。せめてわたしの手で。王よ、お覚悟を」
「アケロン、一度そなたと思う存分戦ってみたいと思っていた」
「では、お望みのままに」
「この場に現れなかった征服者に云ってやるがよい。臆病者、自ら戦わぬ王の
首など、道連れには不要だと」
 互いに獣のように吼え、オリオン王と臣アケロンは剣をあわせた。凄まじい力で
鋼の打つかりあう衝撃は、鐘の音のように王座の間に鳴り渡った。居合わせた
兵はその激闘に声もなく、見守るばかりであった。
 石像がふるえ、石柱と篝火が交互に彼らに影を投げかけた。アケロンの剣は
楽園の王の胸を貫き、王の剣はアケロンの首を刎ねていた。
 雲が白みはじめ、夜が明けようとしていた。
 首尾を果たしたにしてはうなだれて戻ってきた一行を、ノアヴァラの王は
荒野に張った陣屋の天幕で迎えた。将軍はその両腕に、ずぶ濡れの
アカシアを抱えていた。
「息があられます。お妃さまには、まだ息が」
「すぐに医師を!」
 ノアヴァラ宮殿の一室で、アカシアは目覚めた。
 栄華栄耀を極めたエデンが破壊される音は、山を越えたノアヴァラにまで
夜通し響き、街を焼き尽くす炎と煙は、ノアヴァラの夜空からも星を消し去った。
「王、ばんざい」
 戦勝祝いは華やかに執り行われた。その花吹雪がまだ街に舞っているうちに、
ノアヴァラの王は美しいアカシアを求めた。
 止め立てする医師と女官を追い払い、敵の王が寝台にのり上がり、その身を
重ねてきた時も、アカシアは窓から見えるサザンビリス河を見ていた。
 楽園の王オリオンはその絶命にあたり、予言を遺している。
 サザンビリス河よ、いつの世か、余は王妃を探しに還ってくる。


 王都の賑わいから隔絶された離宮はひと気なく、閑寂としていた。
 アカシアは離宮の庭を逍遥していた。
 廻廊に囲まれた緑の苑は、離宮全体が少し高台にあるために、古代王国の
空中庭園のようだと云われている。実際に街から仰げば、遠目には樹木の茂る庭が
空に浮いているように見えるのだ。しかしアカシアには外からそれを見る術はない。
外界と隔てられた光と緑の牢獄にアカシアを訪ねる者といえば、ネクタリオス王と
その親族の王子の他になく、その静寂こそが、アカシアには安らぎであった。
 庭の花木が盛りだった。
 サザンビリス河のほとりから移植したサラサの木は、睡蓮色の花を咲かせる。
 アカシアは、歌を唇にのせた。南方の海は碧く、北方の山は雪に白い。
それから、続きは何だっただろう。
「南方の海は碧く、北方の山は雪に白い。されども天界だけは雲の城を建て、
風の果てへと無窮をいざなう」
 思いがけず、交差する小道の向こうからライサンダー王子が現れて、よい声で
すらすらと続きを歌った。
「千の鐘を打ち鳴らして君を呼べども、空は応えず、鳥の声に振り向けども、
失われし君、影すら見えず」
 ライサンダーはアカシアの行く手を塞いだ。馬を飛ばしてきたのだろう。
若々しいその肉体と血潮の熱さが、離れていても伝わってくるようだった。
「友人に逢いに来た。貴女の護衛のイリアスに」
 いつもの口上。アカシアはその澄んだ眸でライサンダーを無表情に見つめ返した。
ライサンダーは立ちふさがったまま、道を譲ろうとはしなかった。
「ネクタリオス王はしばしば、こちらの離宮にお渡りだとか。それほどお気に
召されたのならば、身近な後宮においておけばよいものを」
 風が吹き、サラサの木から花びらが降ってきた。薄色の花影が空の欠片の
ように揺れた。ライサンダーの手が伸びて、アカシアの髪についた花びらを払った。
優しい仕草だった。風から一輪の花を庇うような加減であった。
「わたしはずっと優しいつもりだ。なのに、貴女は少しも打ち解けない」
 打つ手なしといったような笑みを浮かべて、ライサンダーはアカシアの眸を
覗き込んだ。眼の前が暗くなった。
「でも、嫌われてはいないようだ」
 アカシアは王子ではなく、空を見上げた。花々の向こうに、太陽は変わりなく
青空にあった。
 ライサンダーは手を離した。気分を害した風もなく、王子はちょうどそこに咲いて
いた花を手折ると、アカシアの編み上げた髪にさした。
「ご機嫌うかがいに来ただけだ。王の眼をぬすんでね」
 一歩さがって女の髪につけた花飾りの出来ばえを確認してそれだけ云うと、
それ以上アカシアの散策の邪魔をせず、来た時と同じようにライサンダーは音もなく
庭から立ち去ってしまった。
 緑の苑はふたたび、静かになった。
 小川のせせらぎを聴きながら、アカシアは王子が去った小道を見つめて佇んだ。
 昔、同じことがあった。
 こみ上げてくる感傷が、アカシアを花の雨に打たせるままにした。
 昔、同じことがあった。誰かが、この髪に花を飾ってくれた。
 しかし想い出は庭一面に揺れ動く花の影ほどに、かたちになってはくれなかった。


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