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朝から降り続く雨のために、壁の漆喰はじめじめと湿り、天井にはしみが浮いていた。
滝のように流れ落ちる雨粒に額をつけるようにして、ジョゼフィンは、硝子ごしに宿の庭を見ていた。
薔薇や春の草木にまじり、雨に打たれている青紫陽花が、少し重たげに葉をひらつかせていた。
「あの葉をひっくり返したら、カタツムリがいるかしら」
あとでやってみよう。
雨がやんだら。虹が出たら。
庭には、ブリキのじょうろが転がって、喧しく雨音をはじいていた。ジョゼフィンは雲の流れる空を見上げた。
雨脚は強いが、筋状に少し陽がさしてきていた。あの日の、空のようだった。
その人がはじめてジョゼフィンのいる施設にやって来たのは、枯れ葉舞う、晩秋のことだった。
この方があなたの後見人ですよ、と修道女から紹介された。山から眺める下界の景色は青くかすみ、
雪の稜線ばかりが、折れ曲がった銀糸のように、地平の彼方に消えていた。
「お前は、裏切り者のあの女に似ている。これからもっと似てくるだろう」
ジョゼフィンを見るなり、彼はそう云った。薄い火傷をしたように、ジョゼフィンの心は軋んで傷んだ。
ジョゼフィンは黒髪の青年を仰いだ。
「お母さまのことをご存知なの」
「もちろん」
彼の返事には、微量な苦々しさがあった。それに気がつくほど、ジョゼフィンはまだ大きくはなかった。
此処から連れ出して欲しい。
十歳のジョゼフィンは願った。赤子の時からこの山にいる。外に出たい。
「七年後、修道女になる儀式の前に、もう一度来て下さい」
「七年後に考えよう」
彼は外套をまとい、帽子をかぶった。彼が持っている黒い杖には、十字軍の御しるしに似た十字模様が、その杖頭に刻まれていた。
七年後、猛威をふるった疫病が、まず麓の村を全滅させ、次に山奥の修道院を襲った。
床についたジョゼフィンは弱った視力で、四角に区切られた小さな窓から、山霧の立ち昇る外をみた。夜は嵐になるだろう。
霧の中、菜園に咲く花々は輪郭をなくし、淡い彩りだけになっていた。誰の影もなかった。やがて、花の散乱の上に、陰気な雨が降り出した。
昨日、ミュラが工房を訪ねて来たと工房長からきかされたシマは、一旦街に戻って、ミュラの様子を見てこようかと迷った。
勤務中にミュラが洗濯工房に訪ねてくるなど、それまでなかったことだ。昨夜は家に来なかった。具合でも悪いのだろうか。
「ああ、あの人が、義理の姉さんかい」
「はい。兄の奥さんでした」
「用はないと云っていたが、顔色が悪かったよ」
「そうですか」
やっぱり。
仕事が終わるのを待ちかねて、シマはミュラの家へと自転車を飛ばした。家は近所だ。兄のカイとミュラは幼馴染で、彼らは高校を卒業してすぐに結婚した。
兄弟の両親ははやくに亡くなり、兄のカイは、年の離れた弟のシマを夜学に通いながら育ててくれた。
「シマ。これは、カイがあなたの学費にと貯めていたお金。満期になったから。それと、これは消火活動に従事し、殉職した者に授与された勲章」
避難勧告により、研究所の火災発生の翌日から、住人は全員が街からの立ち退きを命じられた。火事の煙の中に、有害物質が含まれているという説明だった。
「夫が研究所の火を鎮火し、戻ってくるまで、家で待っています」
訴え続けたミュラも、非常事態の渦に呑まれるようにして、シマと共に馬車に乗せられた。
避難した街の人は、それきり、街に戻ることができなかった。ミュラは義弟のシマを手放そうとはしなかったが、調停委員に説得されて、シマを施設にあずけた。
シマは奨学金を得て、大学に進み、集団就職で遠方に行っていたミュラと再会したのは、二年目の夏季休暇だった。
こんなに小柄な人だったのかと、背伸びして兄の勲章を首にかけてくれるミュラを見て、シマは戸惑った。胸に迫ってくる懐かしい想い出に、動揺して戸惑った。
「あんなに小さな男の子だったのに、すっかり背が伸びて。やっぱり兄弟ね。カイに、よく似てる……」
「兄は火から逃げなかった。兄さんのことは、誇りにしています」
その時ミュラは、男の子はいいわね、そんな笑みを浮かべた。彼を誇りに想うことで、それだけで、あなたの中のカイの追憶は心にしっかりと根をはり、あなたを支え、
もう揺るがないのね。
ミュラは、街に戻ると云った。老人を中心に、生まれ育った故郷で残りの人生を過ごして死にたいと願う人々のために特別措置が
とられており、その申し込み期限が明日までなのだという。シマもそれは知っていた。
「行くの、ミュラ」
「ええ。両親も死んだし、何よりも、カイとの想い出がつまった、懐かしい街だから」
この世の誰よりも、幼馴染のカイとミュラは、親しい仲だった。その夏の終わりまでにシマは大学に退学届けを出し、下宿先を整理して、
ミュラの後を追っていた。
「殉教じみた純愛だな」
酒場で偶然逢ったアドリアンは小莫迦にしたような顔つきで、そんなシマの話をきいていた。
ミュラの行方は思いがけず、そのアドリアンが知っていた。ミュラの家に到着すると、アドリアンがいたのだ。
「入院」
「すぐに退院できるそうだ」
アドリアンは箪笥を引き出して、女の肌着を選んでいた。もとは兄とミュラとシマの三人で暮らしていた家だった。
ミュラの部屋はシマの屋根裏部屋と大差ないほどに殺風景で、寒々しかった。
花瓶には、色褪せた花が首を垂れて、そのまま枯れていた。切れた電球や、欠けた茶碗、壊れたものも、壊れるままに、部屋の隅に片寄せられて、
まるで物云わぬ子供のように、カイがいた頃の物だというだけの理由で、そこに積み上がっていた。
ミュラの家に来ると、いつも壁際のそれから眼を逸らしてしまう。古新聞から切り抜かれ、額の中で色褪せるままになっている、若い消防士の写真。
アドリアンがミュラの持ち物を探りまわっていた。鏡台の引き出しも開けられた。
「何してるんだ……」
「どっちが届けに行く?」
アドリアンはシマの前に、衣類と、櫛や手鏡などの化粧道具を詰めた鞄をおいた。ようやく思い当たった。
「ミュラの入院用の着替えか」
「他に何がある。そうとう抜けてる。それでよく、都の大学に入れたな」
「ジョゼフィンは」
「病院でミュラに付き添っている」
シマはアドリアンを見つめ返した。彼らは、何のつもりなのだろう。アドリアンとジョゼフィンは、何をしに、この街に来たのだろう。
「街見物と墓参りがすんだら、出て行け」
苛立ちをそのままアドリアンにぶつけた。壁に架けられた兄の写真。ミュラは自分の上に、時を止めたままの兄のカイしか見ていない。
「お帰りなさい。遅かったのね」
夕食を整えてシマの下宿で待っているミュラ。莫迦げたままごと。それもミュラのためだった。夫を、家庭を、永遠に失った女のための。
「この街から出て行け。この街は、あんた達がいるような処じゃない」
花柄の壁紙が剥がれかけていた。編みかけの編み物がおかれた卓上には、消えないしみがあった。
アドリアンはミュラのつましい住まいを軽蔑的に眺め回していた。シマは鞄を引っ掴むと、ミュラの家の扉を乱暴に閉めた。
どうして、あんな男と旅をしているんだい。
あんな男って、アドリアンのこと?
夕陽に色づいた河の水面に、給水塔の長い影が黒鏡のように揺れていた。シマの問いに、ジョゼフィンは笑って応えた。
彼が、わたしを憎んでいるから。彼らが、わたしを憎んでいるから。
薄紅色に染まった浅瀬の漣には、夕風にそよぐ木々が映っていた。音もなく雨上がりの雫がふり落ちた。ジョゼフィンはシマから離れて河岸へ降りた。
わたしは、裏切り者の娘なの。
正門に青い電球を灯した病院からの帰り道、夕闇に包まれた石畳の道を、ジョゼフィンは急いでいた。
「ジョゼ」
「アド」
街灯の陰から現れたアドリアンに腕を掴まれて、ジョゼフィンは脚をとめた。
アドリアンはジョゼフィンの顔色を見て、「奴らを見たな」と訊いた。ジョゼフィンは頷いた。
「あの人たち、病院の、廊下に立っていたの」
「何人」
「五人。それを見て、すぐに裏口から出てきたの」
行き交う人々の中に彼らの後をつけて来る人影はなかったが、いまにも薄暮の向こうから、ぬっと現れそうだった。
「ソバルトか」
「エンデルの方」
「ジョゼ、お前はこのまま宿に帰れ」
アドリアンは一本の黒い杖を取り出した。劇場へと向かう都の紳士がもつような、純銀の飾りのついた黒檀の長杖だった。
「アド、病院ではやめて」
黒檀の杖がくるりと宙に回った。歩み去りながら投げ上げたそれを片手でとめたアドリアンは、ジョゼフィンを振り返らなかった。
裏切り者。
わたしとアドリアンは、彼らからそう呼ばれているの。わたしの母は彼らを裏切ってわたしを生み、そしてアドリアンは、そんな彼らを
裏切って、わたしを護っている人だから。だからわたしたちは二人とも、裏切り者と呼ばれています。どう説明したらいいかしら。永遠の灯火をもつ、不死の一族のことを。
シマは、病室で眠るミュラの、疲れた顔を見つめた。
ランプの灯りが照らす女の顔は、哀しみの漂い着く果ての果てといったような、終息の安らぎすら浮かべているようだった。
病棟の一階は静かだった。この街の病院が人を治すことはない。毒素に蝕まれた人間をしばし休ませ、延命させるだけの宿だった。
シマは掛布の上に出ているミュラの手をとった。やせ細ったその指先に、熱い唇をおしあてた。灰の雪が降る前の、夏の日々の想い出と共に、あなたは
この街の失われた倖せの記憶そのもの。
机の花瓶に、ジョゼフィンが活けた花があった。春の香りがした。
ジョゼフィンの語ったことはシマを愕かせることも、納得させることもなかった。要約するに、どうやらジョゼフィンの母はアドリアンを騙して連れ出し、
さらにはアドリアンを棄てて、他の男との間にジョゼフィンをもうけたということらしい。しかしそれでは彼らの年齢差がさほどないことの説明がつかない。
王族のように傲慢に振舞っているアドリアンとジョゼフィンは、二人して
国を追われるような罪でも犯し、
この世を劇と見立てて、その場限りの偽りの芝居をして生きているのだろう、街から街へ、逃亡の旅を重ねながら。
「永遠の灯火をもつ一族。それは僕たち人類のことだ」
シマはミュラの顔を見つめた。
「そうなるはずだった。研究所の研究成果が、それを裏打ちするはずだった。新時代の熱と光が、この街をその恩恵で包むはずだった」
その希望を胸に、研究所は設置された。河のほとりの村は短期間で街となり、大勢の人間が移住して栄えた。
「カーンビレオ、ソバルト、エンデル」
まじないのようなその語句を、シマは唱えてみた。他にもジョゼフィンは幾つか名を挙げていたが、はじめて聴く外国語のようで、憶えきれなかった。
アドリアンはカーンビレオと呼ばれる最高位の血霊騎士だったの。そしてわたしの母に、仕えていた。
「それは、裏切り者の名だ」
病室の戸が開き、五人の男たちが入ってきた。シマは椅子から立ち上がった。付添い人以外の面会時間は終わったはずだ。
「誰です」
「エンデル」
刃が見えた。咄嗟にシマは、そこにあったぶ厚い工学教本を取り上げた。大学を中退する際、未練たらしく荷物の中に入れて
持って来たものだ。娯楽や読書をしないシマにとっては
唯一の慰めになる本だった。その本が二つに割れて、床に落ちた。銀色の剣をさげた男たちは、博物館でしかお目にかかれぬような衣を着ていた。
「何だ、お前たち!」
シマは彼らを見廻した。狭い病室に五人も入ると、逃げ場がなかった。五人の男たちがシマに向かって踏み出した。
彼らは一様に端整な顔をしており、その双眸には、どことなくアドリアンに共通する、非情と冷酷があった。シマは思い出した。
事故後まもなく死亡した次局長が事故報告書に言い残した言葉。『制御室に悪魔が現れた。その者は若く、古風な衣裳をつけていた。』
シマは大声をあげた。
「誰か。侵入者だ、誰か来てくれ」
「カイ」
エンデルたちが、シマをそう呼んだ。
「この顔。憶えているぞ。あの焔の夜、お前はあそこにいた」
「お前を、憶えているぞ。いちばん最初に息を引き取った」
「現場に踏みとどまり、鎮火作業を続けていた」
「誰かッ」
「カイ」
男たちは、暴れるシマを押し包んだ。シマは声を上げようとしたが、喉を掴まれた。対面のエンデルを両手で突っ張り、押し退けた。寝台が揺れた。
倒れた花瓶が足許で真っ二つに割れた。足許が滑って、寝台の上に倒れた。シマはミュラの上に覆いかぶさった。シマは恐怖に眼をみひらいた。
エンデルたちの両目は白目までもが、したたるような赤だった。
「出て行け。僕はカイじゃない。人違いだ」
「カイ、ジョゼフィンは何処だ」
「アドリアンは何処だ」
声にならない悲鳴を放ち、カイは両腕を振り回した。出て行け、化け物め。エンデルたちはシマを取り囲んだ。
「あの夜の生存者だ」
「カイ」
「生きていたのだな。カイ」
血霊騎士たちの剣先がシマの首許で交差した。ぷつりと喉に剣があたった。動きを封じられた。その名を呼ぶな。僕を、その名で呼ぶな。
そんなことをしたら、そんなことをしたら。
「カイ……」
背後から、女の声がした。
空を歩ける?
兄の恋人からそう訊かれた。シマははにかみながら、首を振った。そんなこと誰にも出来っこない。
わたしは歩けるわ。見てて。
手押しポンプで汲み上げた水を庭土に撒き散らし、ミュラは水たまりの上を歩いてみせた。水に映る青空は、ミュラの靴先の下で波打った。
「ずるいよ」
子供心にも、幼いことをする人だと思った。ミュラは笑って云った。これ、カイが昔わたしにやってみせたことなのよ。
二人で力を合わせ、ポンプから水を出した。ミュラは靴を脱ぎ、素足をバケツの中に入れた。こうすると気持ちがいいわ。シマもそれにならった。
安物の綿で出来た、ミュラのスカート。夏の水たまりの中には、兄の姿も、建設中の研究所の影もなかった。
頬を濡らす水は、花瓶から零れたものだった。床に倒れていたシマは、寝台の脚を掴み、ようやく起き上がった。
病室の窓が開いて、そこから夜風が流れ込んでいた。ミュラの姿はなかった。乏しい明かりが照らす庭には、
こちらに背中を向けている、五つの影があった。
「ミュラ」
一階の窓枠から、シマは庭にとび降りた。着地するや否や腹に重い塊がぶちあたり、シマはそれごと病院の外壁に叩きつけられていた。
衝撃で息が詰まった。
「シマ。立てるなら、離れていろ」
「アドリアン」
アドリアンの姿は古い石像の台座の影だった。黒杖の握り手に片手を添えて、黒髪を風になびかせて立っていた。
獣のように吹っ飛んできてシマの腹にぶつかったのは、アドリアンに斃されたエンデルだった。エンデルは死んでいた。シマは叫んだ。
「気をつけろ、アドリアン。そいつら全員、本物の剣を持っているぞ」
「黙ってろ」
「裏切り者」
エンデルたちが剣先をアドリアンに向けた。ジョゼフィンがシマに語ったとおり、彼らはアドリアンを、「裏切り者」と呼んでいた。囲まれたアドリアンは
先細りした黒杖を持ち構え、台座の上から彼らを睥睨した。その両目は赤く闇に燃え、その唇は嗤うように吊り上がっていた。
「裏切り者のカーンビレオ」
「懐かしいことを云ってくれる」
男たちが迫った。武器の風が鋭く過ぎて、石像が傾いた。続けざまに月が砕けるような音がした。大きく跳んだ黒髪の騎士のふるう杖の握り手には、
銀飾りの頭に、十字の印が刻まれていた。
ジョゼフィンは、宿に帰りつけなかった。真直ぐ帰るところを、用事を思い出して、ミュラの家に向かったのだ。
病院で借りた花瓶は大きすぎる。一輪挿しと取り替えようとミュラと約束していた。ついでに、留守の間の家の掃除もしておこう。
ミュラからあずかった鍵を手に、ジョゼフィンは街を横切った。
研究所のあった中州へと続く石橋の中央に、背の高い、優美な影が一つあった。無人の廃墟が要塞のように夜に聳え立っていた。
ジョゼフィンは立ち止まった。男の髪は、夜眼にも鮮やかな白髪だった。
「ソバルト」
ジョゼフィンはその爵位を口にした。ソバルトは、その気高い佇まいから、ひと目でエンデルと区別がつく。
「ジョゼフィン。君こそ、ひと目で分かる」
ソバルトはジョゼフィンに向かって歩いてきた。石橋は音ひとつ立てなかった。
「本当に君は、火炙りになったあの王妃に似ている」
ジョゼフィンはさっと橋の左右をうかがい、身を屈めた。その手を喉元にあてると、そこから、隠していた小さな細剣を引き出した。敵は一人だ。
少女の長い髪が夜風に流れた。
「やる気なのか」
橋の上で、ソバルトは手招きした。
「では、おいで。裏切り者の娘よ」
星空に向かって走ったのは、一本の、燃える矢だった。ソバルトはそれを片手で打ち落とした。空たかく跳ね上がった剣は、
落下地点に駈け寄ったジョゼフィンの高く掲げた手におさまった。
踵を返し、ジョゼフィンはソバルトの胸元にとび込んだ。ソバルトが捕える前に、すりぬけて、橋の欄干まで鋭い剣の軌跡ごと引きさがっていた。
下流の岸で夜釣りをしていた釣り人の眼には、一連の動きは、何かの不審な光が一瞬見えただけだった。ソバルトは腕を持ち上げた。
袖に入った切れ目に、その赤眼がほそまった。
「さすがは、王妃の子。それとも、アドリアンの仕込みがいいのかな?」
「この街に、何の用」
「もう息切れか。半分は人間の血だから、それも仕方がない」
「わたしは、アドリアンから霊気をもらったわ」
細剣を握り締めたジョゼフィンは、手首を唇にあてて噛み切った。小さく鋭い、犬歯が見えた。石畳の上に、ぽたぽたと赤い血が落ちた。
「その為にアドリアンは力の多くを失ったのよ。彼に手を出さないで」
「自分で自分の血を補完するのか。おぞましい」
ジョゼフィン。
棺の中に伸ばされたアドリアンの手。人形を抱くようにして首筋にあてられた、冷たい唇。納骨堂に満ちていた嵐の音。
太古の海に落ちてゆくような生ぬるい再生。雨のにおいがした。
「ソバルト。わたしたちを追うことは諦めて」
「カーンビレオ、ソバルト、エンデル」
ソバルトは、口端から血をたらしているジョゼフィンの顔に眼を据えた。
「空席が出ない限り、我らは上座には昇れない。カーンビレオの地位は羨望の的。たとえ裏切り者の席であろうとも」
病院の庭で、シマは茫然と、地面に溶けて消えてゆく死体を見ていた。シマはアドリアンを仰いだ。
エンデルたちを瞬く間に斃して片付けたわりに、アドリアンは少し疲れているように、シマの眼にはみえた。
「シマ」
「あ、ああ」
「ミュラを探す。お前は、ミュラの家に行け」
アドリアンが下げもった黒杖の先がこちらに向いているのを見て、シマは思わず両腕で頭を覆った。先刻、それは黒い剣となって
隼のようにアドリアンと共に飛び、エンデルたちを一刀のもとに斬り、両断していったのだ。
恐る恐る顔を上げた時には、アドリアンの姿は、もうなかった。
闘いはジョゼフィンに不利だった。
ソバルトの姿が消えた。古典的な衣裳が視界に入ったと思った時には、ジョゼフィンの手首は掴まれ、細剣が地に落ちていた。
間近からソバルトとジョゼフィンは睨み合った。
「冥府で高い名誉を得ていたはずの男と女が、火の扉をうごかした」
ソバルトはジョゼフィンの腕を放さなかった。
「ひとりは冥界の王妃。ひとりは黒髪の血霊騎士。地上に出た王妃は人間たちの手で火炙りにされたが、その前に人間の男と契り、
女の赤子を生んでいた。君だ。アドリアンは君を墓から甦らせるべきではなかったな」
「わたしが望んだことだわ」
「皮肉だな。王妃はアドリアンを愛さなかったのに」
波の静かな、星月夜の晩だった。もっと単純で、簡単なことだわ。ジョゼフィンはソバルトを見つめ返した。わたしは、わたしを憎んでいるアドリアンを、憎んでいるもの。
わたしを見てくれないアドリアンを、憎んでいるもの。互いの弱みが相殺されることで、わたしたちはこの何百年という間、うまくいっている。
それの他に、どうすることができて?
病床でミュラは、ジョゼフィンに打ち明けた。
この街を出て行った時、シマはまだほんの男の子で、そしてわたしはカイの妻だった。
あの人を見ながら、どうしてカイではないのかと想う。わたしを見ながら、どうしてカイではないのかと、そんな顔をしている。
旧住民が死に絶えたら封鎖されることが決まっているこの棺の街で、未来のない汚れきったこの街で、他にどうすることができて?
「憎しみは新鮮な焔を煽る風」
ソバルトはジョゼフィンに手を伸ばすと、両腕にジョゼフィンを抱き上げた。
「賢い方法だ。倦怠と退屈だけは避けられるからな。君を連れて帰れば、王は、君にも、そのように接するだろう。
王妃はアドリアンを誘惑し、冥界から出て行った」
河風が吹いた。夜空から吹いた。冥界に聳え立っていた赤銅色の火の扉。王妃と黒髪の騎士は十字の印が刻まれたその扉を開けて、王の許を去っていった。
「君は、王妃に生き写しだ」
「アドリアンからも、そう云われるわ」
ジョゼフィンはソバルトを蹴りつけると、後ろ手に欄干に手をつき、その勢いごと月光を映す下方の河に身を躍らせた。
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