棺の街 (前)


 給水塔を横切って陽が沈み、残照が雪どけ水の流れる小川を朱色に染め上げた。
 林檎の白い花びらが空を掠めて風に舞う野辺の道を、一台の幌つきの馬車が、黄昏に降る花吹雪を分けるようにして現れた。
 御者台で馬を操っているのは、黒髪の若い男だった。きつく整った顔立ちをした男は、手綱を引いて馬車を停めると、夕暮れの野に向かって 口笛をふいた。
 木陰から現れたのは、古めかしい外套を羽織った、うら若い乙女だった。その頬は雪のように白く、澄んだ眸は 森の泉よりも蒼く、ゆれる長い髪は、夕空よりも淡く透きとおった色だった。少女は、彼を見るまで外套の胸にあてていた手をはなした。そこには、 細剣が隠されていた。少女は馬車に駈け寄った。
「アドリアン」
 アドリアンが腕をひいて、少女を御者台に上がらせた。
「この先にあった農家は、十年の間に、無人のままに朽ち果てていたわ。馬車が手に入ってよかったわね」
 宵の星が出ていた。乙女は空を見上げた。
「大火の日も、あの月は、雪山の頂きに昇っていた」
「埋葬の灰を噴出していた、火刑の日にも」、短くアドリアンが応えた。
 黒髪のアドリアンは、御者台に乗り移ってきた少女に、後ろへ行けというように、顎を動かした。
「隣りにいてもいいかしら。そんなに寒くないし、街まで、もうすぐだもの」
「ああ」
 アドリアンはけだるそうに手綱を持ち直し、つめたい眼を前に向けた。
 少女は揺れ動く馬車の御者台から、薄暮に暗く沈みかけている遠くの地平を指差した。
「アドリアン、研究所の廃墟が見えてきたわ。給水塔に灯りがともってる」
 風が吹いた。
「事故以来、誰もいなかったのに。街に人が戻ったのね」
「まだ人間がすんでいるとは、愕きだ」
「離れたくなかったのよ。故郷を」
 林檎の花びらが蝶のように、少女の髪にとまった。少女はそれに気がつかなかった。
「彼らが、もう、扉を開くことを諦めているといいわね」
「ジョゼフィン」
 青年の手が伸びて、少女の髪からはじくようにして花を払った。花びらはすぐに風に離れて、 夕闇にかすれる昏い何処かへと、風に消えた。



 煉瓦造りの洗濯工房の曇り硝子は、もうもうたる湯気のために、昼夜問わずいつも湿って濡れていた。
 洗剤および漂白剤として水に溶かされた石灰、灰、アンモニアとしての馬の尿。中世さながらの方法にこだわるのは、大災害の後、河川をこれ以上 汚さぬようにとの、住民の配慮だった。それだけでなく、街には電気もろくに通ってはいなかった。もとより公式には復興が認められておらず、 地図からも消された街である。僻地へ供給する発電所からの送電には、制限があった。
 日没を告げる、晩鐘が鳴った。
「シマ。あがっていいよ」
「はい」
 洗濯工房の仕事は三交代制だ。青年シマは、肩に担いでいた重たい籠の中身を水槽にあけた。若い腕で額を流れる汗を拭う、そんなシマの姿を、 汚れを落とすたたき台、流水を満たしたすすぎ槽の陰から、洗濯物を足で踏んで汚れを落としている女たちが、そっと眼で追った。 天窓から差し込む夕暮れの色が、女たちの足許を染め上げた。
「ちょっと、頼りなくないかしら」
「そんなことはない。男はあれくらいが可愛いよ」
「シマが頼りない。可愛い」
 家に大きな子供が五人いる女が笑い出した。十年前のあの事故以来、空疎に響く、この街特有の笑い声だった。
「彼、もとは選抜試験に合格して、都の大学に通っていた秀才なのよ」
「今日の給金。お疲れさん」
 会計でシマは日当を受け取ると、硬貨を革袋にしまった。外はすっかり暮れていた。洗濯工房は河に面した街外れにある。鉄門をくぐったところで、シマは脚を止めた。
 煉瓦塀に沿って、一人の少女が、建物を見上げながら歩いてくるところだった。東の空には、星を連れた真珠色の月が 雪山の上にもう昇っていた。シマは眼をしばたたいた。少女はそこから降り立ったかのように見えたのだ。
「こっちだよ」
 シマは片手を挙げた。娘の小さな顔がこちらを見た。夕闇の中にひらいた、花のようだった。
「入り口がどこか、分からなくて」
 シマのところまで来ると、少女はほっと笑った。
「君は、この街の子じゃないね」
「ええ。夕方に着いたの。洗濯工房は夜通し開いていると宿のおかみさんからきいて、散歩がてら、自分で出てきたの」
 シマは少女が抱えている洗濯物を受け取った。男物の外套だった。都でも滅多にないような上物だったが、古物商から引き出してきたもののように、すっかり色あせている。 少女は自分の着ていた外套もその場で脱いだ。そちらも、古びてくたびれているのが眼についた。
「追加料金はかかるけど、仕立て直し、元通りの黒に染め替えることも、うちではやってるよ」
「そうしてもらえるかしら」
「待ってて」
 洗濯工房には、洋裁と、染色工房も併設している。シマは少女から宿泊先の宿の名を訊くと、工房に引き返し、少女からあずかった洗濯物を出してきた。
 戻ってくると、シマは預かり書を少女に渡した。
「もう道が暗い。宿まで送るよ」
「ありがとう」
 春とはいえ、夜はまだ寒かった。少女はどことなくその様子に古風な美をもち、化粧けなく、薄着しか身に着けてはいなかった。 シマは自分の首巻を外して、それを少女の肩にかけてやった。
 宿が見えてきた。上階の西端の窓に灯りがついており、遮光布越しに街路を見下ろして、 こちらをうかがっている人影があった。すらりとした若い男の影だった。
「君のお兄さん?」
「いいえ」
 遮光布はもう閉じていた。少女が宿の窓を見上げた。
「彼の名は、アドリアン。わたしたち、ずっと昔から一緒にいるの」
 シマはぞくりとした。ずっと昔からというその昔が、はるか遠い昔なのだと、そう思われたのだ。

 手狭な住居が密集する解放居住区には、春の夜風が吹いていた。再移住が認められた地区は 河に面しており、その対岸の中洲には、研究所の廃墟が、黒々と聳え立っていた。
 管理人室で郵便物を受け取ると、壁面のすすけて漆喰の剥げ落ちた建物の階段を、シマは上までのぼった。 見晴らしがよいので選んだ屋根裏部屋だった。
「お帰りなさい」
 一間しかない部屋では、近くに住んでいる義姉のミュラが、いつものように夕食を整えて待っていた。シマは手を洗った。
「遅かったのね」
「ごめん。少し寄り途をしていたから」
「温めなおすわ」
「自分でやるよ、ミュラ。後片付けも、僕がやる」
 ミュラは黙って食卓に皿を並べると、部屋の隅の椅子に腰掛け、編み棒を取り上げて編み物の続きをはじめた。彼が食べ終わるまでは、いつも ミュラは家に帰らずに、そこにいるのだ。夜の風に、硝子窓ががたがたと音を立てた。
「林檎の花がね、満開になったよ」シマはぽつりと呟いた。
「そう」
 労働の合間に若者が一人で眠るだけの部屋。シマがスープを口にした。ミュラは、ランプに照らされた編み物の目から眼を離さなかった。



 棺の中にいることを知ったのは、外からの、斧の一撃だった。
 大嵐の晩だった。豪雨と雷の音が轟く地下の納骨堂には、真新しい棺が海底に沈む石のように、幾つも並んで横たわっていた。
 ジョゼフィンは棺の中で、真上に起こっている音を聴いた。ふたたび斧が振り下ろされた。はげしい雷鳴がそれに重なった。
 隣りの病室で賛美歌をうたっていた友だちの声がしなくなってから、どれほど経ったのか、いつ地下に降ろされたのか、ジョゼフィンには分からなかった。
 打撃で破片が内側にもくい込んだ。納棺の際にきっちりと編みこまれた髪に、木屑がからまった。 最後の斧がふるわれ、蓋が壊された。開いた隙間から、新鮮な風が流れてきた。真上から、涙が落ちてきた。
 それは、ずぶ濡れになった者の髪から滴り落ちる、外の嵐の名残だった。棺の蓋をこじ開け、その者は棺に眠るジョゼフィンの頬に手を添えた。
 ジョゼフィン。
 呼びかけは、静かだった。ジョゼフィンの閉じた瞼に、唇に、雨の雫がふり落ちてきた。
 ここで彼に応えることは、生き返ることを意味しない。永い永い、旅の始まりだ。それでもいい。首筋に唇が触れた。棺の中から、ジョゼフィンは手をのばした。 その手を、彼が掴んだ。納骨堂の天蓋が見えた。
 ずっと待ってたわ。アドリアン。七年後に迎えに来てくれると約束してくれた、あの遠い、秋の日から。
 外は嵐だった。どちらの手も、氷のようにつめたかったことを、憶えている。



 夜勤明けの朝、シマは中州の廃墟へと向かった。
「お疲れさん、シマ」
「自転車を借りるよ」
 門衛に断り、洗濯物を届けるための自転車を一台借りて、シマはまだ暗い早朝の坂道を下った。巨大な給水塔の端から、ちょうど太陽が昇ろうとしていた。
 熱気や蒸気、水の音。女たちのかしましい話し声。洗濯工房の仕事はきついが、大学での研究業からかけ離れていることと、夜間学校に通っていた頃の兄がそこで 働いていたという点から、迷うことなく選んだ仕事だった。兄のカイはそうやって、シマを育ててくれたのだ。
「すごいねえ。さすがは、都の大学の工学部にいただけのことはある」
 洗濯工房での労働を、シマは気に入っていた。無遅刻無欠勤の働きぶりと、ボイラーのちょっとした故障をすぐに治したことがシマの評価を上げることとなり、 給金も女たちより多くもらっている。シマはもらった給料を、そのまま義姉のミュラに渡していた。
 シマは自転車でがたつく石橋を越え、中州に渡った。早朝の涼しい風が、廃墟にはびこる草の間を過ぎていた。研究所が河の中に建てられたのは、 大量の冷却水を必要としたからだ。海がある国ならば、臨海にそれは建てられる。この国の海は冬に凍結するので、それで針葉樹林に囲まれたこの大河が 実験場所に選ばれた。
 外塀のところで自転車をおりた。十年の間に、すっかり寂れてしまった建物は、無人の要塞と化していた。
 内部からの爆発と、その後の自然崩落によってあたり一面に飛び散った破片が、まだそのままになっており、さながら戦場の跡地のように、 何もかもが風雨に打たれ、錆びれていた。
 半壊した建造物を横に見ながら、シマは崩れ残った外壁を曲がった。この先に、事故後にたてられた墓碑があるのだ。
「ジョゼフィン」
 冷却池のそばに、少女が立っていた。ジョゼフィンはその手に、花束を持っていた。
「おはよう。シマさん」
「そんな格好では、危ないよ」
 シマはジョゼフィンのスカートから出ている素足と絹靴を心配し、「落ちている破片で怪我をするよ」と眉をよせた。 ジョゼフィンは「きれいでしょう」、と花束を彼にみせた。
「宿のお庭に咲いていたのを、もらってきたの」
「アドリアンに逢ったよ」
 シマはジョゼフィンと並んで歩き出した。足場の悪いところでは、ジョゼフィンに手をかした。 少女の身は愕くほどに軽かった。
「仕上がった君たちの外套を宿に届けに行ったら、部屋に通してくれた」
 アドリアンは宿の窓辺に肘をついて街を見下ろしていた。
 この街の連中は気がしれない。アドリアンは皮肉を云いながら代金をシマに与えた。
 二間からなる宿の部屋は、奥が寝室になっており、アドリアンが居間の寝椅子を、ジョゼフィンが奥を 使っているようだった。開いたままになっている寝室の扉からは、きちんと揃えられた女ものの道具しか見えなかった。二人は どういう関係なのだろうかと、シマはいぶかった。
 アドリアンは窓を叩いた。ここは死の街。
「研究所の爆発の後、奇病が流行ったろう。森の恵みは毒と変わり、田畑の豊作は豊作ではなく、井戸水すら使えない。それでもお前たちはこの廃墟にしがみついている。 まがいものの歴史を紡いで、作り笑顔で生きている。自虐敵な郷土愛だと思わないか」
 シマはむっとして、云い返した。
「たとえ林檎の木が実らせるのが毒りんごであろうとも、この土地は僕たちのふるさとだ。よそ者のあなたに何か云われる筋合いではありません。 あなたがたは何故この街に来たのです。何の用で。僕はそう訊いた。アドリアンはこう答えた」
「彼、なんて?」ジョゼフィンは小首を傾けた。
「墓場見物に、と」
 空が青く晴れてきた。ジョゼフィンの顔は花束に隠れて、見えなかった。

 その墓碑は、殉職者たちの名を刻みつけ、地面に平らに埋まっていた。
「この石の下に、僕の兄さんが眠っている」
 シマはいつもそうするように身をかがめ、墓の表面を拭いた。ジョゼフィンは黒い石碑の上に、花束をおいた。
「棺には、遺体から土中への二次汚染を防ぐために、鉛が流し込まれた。この一帯の土も川も汚染されていて、 半永久的に、どこもかしこも、汚染されているというのに」
 僕の兄は、街の消防士だった、とシマは墓に刻まれた名を撫でた。僕は兄の家庭に引き取られていて、あの日まで、一緒に暮らしていた。
「発電研究所からの第一報は、火事だった。それで兄は呼び出された。その時にはもう、炉の暴走は制御不能になっていた」
 雪が降ったよ。シマは眼をほそめた。
 春なのに、大雪が。汚染された火事の煙がはこぶ、灰の雪が。
「僕はそれを家の窓から義姉と共に眺めていた。街の消防隊員は、子供たちにとっては英雄だった。 兄がその一員であることが誇らしかった。ただの火災ではなさそうだと大人たちが騒ぎはじめても、まだ僕は、 出窓にもたれて夜の雪を見ていた。時折、研究所のある真上の雲間に、とてもきれいな 雷が走るのを、どうしてあそこだけが嵐なのだろうと、不思議に思いながら」


 ミュラは勤め先の惣菜やから早退した。立ちくらみを起したのだ。店先に並べられた食料は、すべて他所の土地から運ばれたものだ。
「すみません」
「ああ、いいよ。帰って休みな」
 店主が気前よく惣菜を包んで持たせてくれた手籠が、いつもより、腕に重く感じられた。ミュラは迷った末に、洗濯工房へと向かった。
「シマなら、夜勤明けでもう家に帰ったよ。明日まで非番だから、今日はもうこっちには来ないだろうね」
 番頭はミュラにそう告げた。そうですか、とミュラは頷いて、重たい手籠を持ち直した。もしシマがいたら、この食料を渡して、今夜は 行けないと伝えるつもりだった。
「伝言なら、あずかるが」
「いえ」
 工房長と門衛に礼を云って、ミュラは工房から出た。
 視界が揺れた。足許も揺れた。並木道に沿って歩く間、何度もうずくまりかけた。泥人形になったように、歩いているのがやっとだった。 子供の頃、シマの兄のカイと手を繋いで駆け回っていた並木道が、あの頃よりもずっと長く、果てしなく見えた。この小川で魚釣りをした。 そこの木に登って、果実をもぎとって食べた。カイと遊んだ夏休み。今はもう、そんなことをする人はいない。この街には子供がいない。
「研究が小規模で、爆発の被害も最小限だったのが、さいわいだった」
 事故後に流れた報道は、すべて情報規制の管制下にあった。死んだ消防士たちも英雄と讃えられた。
 視界が半回転した。ミュラは、仰向けに草むらに倒れた。明暗の強い木漏れ日が脳裡を染めてゆくのが気持ちが悪かった。 このまま、少し休憩しよう。そう決めて息を整えていると、眼の前に、落としたはずの籠が現れた。 ミュラは薄めを開けて、覗き込んでいる黒髪の若い男を見上げた。見知らぬ男だった。
「病院に連れて行って下さらないかしら」
 ミュラは弱々しく頼んでみた。
「それが無理なら、あそこに見える洗濯工房から、人手が借りれると思います。わたしの名はミュラ。そう伝えて下さい」
 男の返事は簡潔だった。
「病院に行っても無駄だ」
 知ってるわ。この街の誰もが、そのことは。寝転んだまま、ミュラは緩慢に髪をなでつけた。職場から直接出てきたので、髪は後ろで束ねて 固くひっつめたままになっていた。それも乱れてほどけかけている。この男はきっとシマが云っていた旅行者だろう。 命しらずにも、好奇心から、汚染された街を訪れる人間がたまにいる。連れの女の子はどうしたのだろう。
「いつから、わたしの後をつけていたの」
「街中から」
 青年の声音には、何の感情もなかった。雲の流れを追っているその横顔は、彫像のように硬く、若かった。
 ミュラは可笑しくなった。この男は、何をしに来たのかしら。十年前に時を止め、巨大な墓地となった街。そこに戻って来て棲みついた 塵芥のようなわたしたちに、何の用があるのかしら。
 草むらに倒れたまま、ミュラは吐息をついた。女の頬に伝う涙を、アドリアンは見ているだけだった。


 その日の夕べ、洗濯工房では臨時の夕礼が行われた。
工房ではたらく女の一人が、当番明けになっても帰宅せず、家人が探したところ、川で死んでいるのが見つかった。
 遺体の首筋には、錐を刺したような深い孔が二箇所あり、肺には水が入っていなかったことから、溺死ではなく 失血死と判断された。
 人々はさして動揺しなかった。平均寿命が短いこの街の住人にとっては、どのような死も、早いか遅いかだけの違いであり、 たとえそれが猟奇的な事件であったとしても、来るべき日が来ただけのことだった。
 今後は、集団で帰宅するようにとの工房長の言葉に、女たちは頷きあった。



 線量計が故障している。
 作業員の眼には、そう見えた。欠陥品だな、針が振り切れている。職員たちは怪訝そうに計器を見つめた。緊急警報が作動した。
「予定どおりです」
「そうだ、この警報は、実験にともなう予定のうちだ」
 いや、違う。引き抜き過ぎた制御棒が仇となり、炉が止められないのだ。下がっていたはずの熱量が、指数関数的に上昇し続け、 高温度の蒸気をつれて跳ね上がった。
「熱出力が」
「炉が爆発を起こしました」
 飛び散る亜鉛。最悪の事態。実験手順と平常運転、安全規約、それらの 文書が迫り来る強烈な不安の中、宿直室から駈け付けた彼の脳裡でシャッフルする。順不同にどろりと溶けてゆく。
「避難して下さい!」
「君らこそ、避難しろ!」
 突入してきた消防隊員に、彼は怒鳴っていた。大変なことになった。振り切れた計器どころではない。この頭が、この施設が、この街全体が、 怖ろしい方向へと、二度とは戻れぬ崖下へと、転落しようとしている。
「火事だ」
 敷地内では、何が起こったのかまだ知らない非番の職員たちが、焔を吐き出している施設の屋根を見上げながら、 夜の火事見物に集まっていた。
「次局長、これは」
 制御技師たちが彼に続いて、次々と室にとびこんできた。
「炉に、冷却水を」
「回路が絶たれた。水が送れません」
「わたしは所長に報告してくる」
 彼は右往左往している制御室の職員たちを叱咤し、廊下に走り出た。所長室のある棟へと向かう途中、 点々と危険物が燃えている灼熱の路上で、若い消防士とぶつかりそうになった。
 地方新聞で見たことがある顔だ。人命救助が表彰され、新聞の写真記事になった、若い消防士。両親の死後、夜学に通うかたわら働いて、 幼い弟を自力で育て上げた。幼馴染と結婚したという。若夫妻の名も憶えている。『カイとミュラ』。
 家に帰れ。そう云おうとした声は、喉にもつれた。家に帰れ、奥さんと弟を連れてすぐに街を出ろ、遠くへ行け。
「次局長」
「しっかりしろ」
 お前こそしっかりしろ、と彼は自分自身を叱りつけた。膝がふるえた。砂礫を飲み込んだように胃がざらついた。 脳の芯だけが発火したように熱かった。鎮火作業中の消防士たちの健闘ぶりも、その勇敢さも、何もかもが悪夢のようだった。 連中は何も知らないのだ。鳴り止まぬ警報。息をするのも苦しい。
 ひややかな声がした。
「扉が開くかと思ったが、違ったようだ」
 何処から入ってきたのか、白髪の男が彼の隣りに現れて、銀灰色の計器盤に片手をついていた。
 古い時代の絵画の中でしか見たことのないような、袖の広い衣裳をまとっていた。長い髪は背まであった。明滅する計器の光を見入っているその顔は 作り物のようであり、その佇まいは、場違いなほどに優美だった。男は奇妙な親しさをこめて、立ちつくしている彼を振り返った。
「六百年の呪いのはじまりだ。おかしいと思わないか。これほどの焔も、心に潜む劫火を消せない」
 男は、すぐに、室から出て行った。
「……消えた」
「次局長、街に避難勧告を。退去命令を。避難を」
 彼はその後、もう一度だけ、幻影をみた。
 搬送された病院で、隔離され、大量の管で繋がれて末期の時を過ごしている彼の許に、それは訪れた。
 いつものように、不恰好な防護服を大仰につけて身を護り、何を云っているのかもよく分からない、都から派遣された 事故調査委員会の人間が尋問にやって来たのかと思った。あしおとが羽根のように軽いのでそうではないことを知ったが、 彼の爛れた瞼はもう、それを視るために持ち上がることはなかった。昼なのか、夜なのか、それすらも分からなかった。
 後に、調査委員会が都に提出した報告書には、死亡した次局長の証言として、こう書き残されていた。『あの夜、制御室には、悪魔がいました』
「彼らが、来なかった?」
 思いがけず、透きとおるように可憐な、少女の声が近くからした。
「扉を開きに、来なかった?」
 胸の中を奏でるように、その声はやさしかった。
 彼らとは、誰のことだね。
 彼はそう訊ねようとしたが出来なかった。声帯も眼球も、機能を止めていた。おじさんは火傷をしているんだ。 真っ黒になって、きっと、不細工だろうね。初夏の緑が脳裡にひろがった。針葉樹林に囲まれた美しい故郷。鳥の歌声。 君はどうやって、厳重な警備をくぐり抜けて来たのかな。あの白髪の男は。
 少女の手が、焼け爛れた彼の手の上に重ねられた。もういいのよ。と、少女は云った。彼が眠ってしまうまで、それは囁き続けていた。 本当に、きれいな緑ね。おやすみなさい。わたしにもそれが見えるわ。懐かしい河と、森の夕陽。



>中へ >完結済小説倉庫へ >TOP

Copyright(c) 2009 Yukino Shiozaki all rights reserved.