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祝祭の獣 (中)


『三十歳位とみられる若い男が橋を渡り、ヴェーゼルフォルテから町に入って来た。この男は極めて上等の服を着、 美しかったので、皆感嘆したものである。男は奇妙な形の銀の笛をもっていて、町中に吹きならした。するとその笛を聞いた 子供たちその数およそ百三十人はすべて男に従って、東門を通ってカルワリオあるいは処刑場のあたりまで行き、 そこで姿を消してしまった』

   -----十五世紀リューネブルグの手書本
      十三世紀にハーメルン市で起こった出来事についての記述



「わたしの名を騙るとは」
 訪問者を前に、子爵は朗らかに笑ってみせた。
「おそらく、何処かの保養地で、その男と宿が同じにでもなったのでしょう。 それで贋子爵はわたしの名を利用することを思いついたのではないかな」
「つまり、本件について子爵さまは、まったくの無関係で」
「そのようです」
 貴族らしい寛容さと拒絶でもって、子爵は卓上の鈴を鳴らした。
「外国旅行から戻ったばかりで、まだ荷物も解いていないのです。おもてなしもできず。 ともあれ貴族の名を騙り、盗みを重ねていた贋者子爵が成敗されて何よりですよ。 殺されたのも因果応報。盗人の死体を森に放棄した賊には感謝せねば」
「子爵さま」
「この方々を玄関までお送りいたせ」
 現れた召使に、子爵は客の見送りを命じた。
「面白い話をありがとう。公爵とは面識があります。そのうちわたしの方から公爵家にお見舞いに伺い、わたしの名を 騙って宿泊までした不届きなる泥棒について、笑い話にすることでしょう。 そうだ、お帰りになるなら延期なさるといい。街はただいま夏至のお祭りの最中で、最高潮は明日です」
 遠路はるばる訪れた地方行政官を屋敷から追い出すと、子爵は窓に歩み寄った。そこからは遠い山が望めた。 手漉きの硝子越しに、霧に包まれた山の輪郭は青灰色に濁り、内部に何かを孕んだ煙のようにゆらいで見えた。 山の頂きはまるで三本の槍を並べたようだった。
「従妹のいる修道院からも、あの山が見えるそうだ」
 茶の用意を持ってきた召使は、子爵の独り言に愕いた。
「お従妹さま、ですか」
「お前は知らなかったか。わたしの父の妹が下男との間にもうけた娘で、町人の家に養女に出されたのだ。 賢い女でね。修道女になって、今は修道院の尼僧長となっている」
「それでは、たまに届く女人の手蹟によるお手紙は、そのお従妹の修道女さまからで」
「そうだ。ちょうどここに一通きている」
 子爵は卓上に届けられた手紙を指先で叩いてみせた。
「隣国で起きた子供たちの集団失踪事件は、一年をかけて、 ようやくわが従妹殿のいる山間でも噂になっているそうだ」
「あの百三十人の子供が消えた事件ですか。まことにふしぎなる、奇怪なことで」
「そうでもないさ。戦火や災害でもない限り、内陸において大勢の人間が忽然と消え失せることなどあり得ない。 たとえこれが千年の後の世にも語り継がれるような怪奇事件であろうとも、真相はあっけないものだと思うぞ」
「子爵さま。これはいかがいたしましょう」
 荷物をほどいていた召使が小さな包みを取り上げた。
「あ、それはちょっとしたお土産ものだ」
 子爵は片手を差し出して、召使から細長い包みを取り上げた。


 召使をさがらせて一人になると、子爵は修道女から届いた手紙をひらいた。
 『お従兄さま、子爵さま』
 いつものように二種類の呼びかけからその手紙ははじまっていた。
『子爵さま。異国の都市で起こった百三十人もの子供たちの失踪につき、わたくしが思い起こすのは、その日が、 夏至祭の日であったということです』
 従妹の理知的な眼を思い出し、子爵は肩をすくめた。 顔立ちはわたしに似てよいのだ。一度でいい、あの女に化粧をさせ、着飾らせてみたかった。
『子爵さまもご存知のように、祭りの日には往々にして行方不明者が出るものです。 民衆はそれを「祝祭の獣」と呼んで悪魔のせいにしていますが、事実は往々にして、悪心をもった者が 祭りの喧騒にまぎれて、ひそかに犠牲者を誘拐したにすぎません』
 手紙を黙読しながら、子爵は部屋の中を歩いた。広場のある方角からは、賑やかな楽の音がきこえはじめていた。 祭りは数日続き、明日がその最後とあっては、そろそろ狂気じみた乱痴気騒ぎになる頃だ。
『常日ごろの鬱憤や不満を忘れて騒げる祝祭の日は、民にとって 忘我の悦びをもたらす解放の日であると同時に、悪事を行う者にとってはかっこうの温床。 しかしながら、夏至の日に隣国の或る小都市から消えてしまった子供たちについては、 まず子供たちの数に注目しなければなりません。 百三十人。百三十人もの子供を人知れず一度に誘拐することなど、不可能ごとかと思われます』
 子爵は頷き、次の文字を追った。
『本件は、子供たちが誘拐されたのではなく、自主的に街から出て行ったと考えるほうが自然です。 おそらくは魅力的な誘惑者の甘言に騙されて、子供たちは示し合わせた上で親の眼をぬすみ、都市から集団逃亡したのです。 神の天啓を受けた少年に率いられた子供たちが、鼠の群れのようにして聖地巡礼に出かけた事件もまだ記憶にあたらしいところです。 百三十人の子供が一度に蒸発した本件、新しく開拓された植民地へひそかに子供たちが大移動して行ったという説を、わたくしは支持したいと思います。 どちらも貴重な労働力としての若者を親や市が喜んで手放すはずもないことから、 それは極秘裏に、祭りの喧騒に紛れて行われたのではないでしょうか。笛の音の合図と共に』
「祭りは、悪事を行うかっこうの温床か」
 子爵は苦笑いを浮かべ、修道女の手紙を丸めた。彼は鏡の前に立つと、髪を撫でつけ、口ひげをひねった。
「贋子爵は盗賊に襲われて死んだか……。契約したばかりの盗人とはいえ、あえない最期だったな。 しかしまさか誰もその贋子爵と、本物の子爵が手を組んでいたとは思うまい」
 口笛を吹きながら、子爵は窓辺に引き返した。
「公爵家の家人が盗難に気がついて泥棒を追いかけた時には、わたしは反対側へ逃げている。 贋子爵をおとりにして、本物の子爵であるわたしは、盗品を持ってそのまま長期旅行へ。我ながらうまいことを考え付いたものだ」
 子爵は先刻、召使がほどいた荷物の中から探し当てた、小さな包みを手に取り上げた。 布にかけた紐をほどくと、中からは、宝石つきの小さな笛が出てきた。それは水晶結晶のように白く、 雲母を散りばめたような光沢を持っており、十字のしるしが裏面に刻まれていた。
「これが例の、捨て子の笛か」
 笛の正面には青い宝石が嵌め込まれており、その宝石は見たこともないほどに 細かな輝きで、月光の欠片を埋め込んだかと見紛うばかりに眩かった。
「生まれつきの盗賊とはわたしのことだ。美しいものや珍品に眼がなく、盗む算段をつけるのが楽しいのだから仕方が無い。 これでわたしの宝物庫にまた一つ宝が増えたぞ」
 子爵は満足げに笛を見つめた。彼はそれをちょっと吹いてみようと思ったが、すぐにやめた。子爵たるもの、楽を吹き鳴らすなど、そんな 賎しいことができるか。
 背中を氷の爪で撫ぜられたような気がした。子爵はあたりを見廻した。 風だろうか。窓も開いていないのに、今の冷気は何処から入ってきたのだろう。



 笛を吹け。鼠を集めよ
 笛を吹け。子供を集めよ

 まあいやだ、とおかみさんたちが幼い子供たちをしっかりと抱きしめて、家に入り戸をたてた。
「楽師たちときたら、すぐにああやって面白半分に歌にする」
「子供たちを攫って行ったのは、町から町へ移動する鼠とり男なのかねえ。不吉な歌だよ」
 もう少し大きな子供たちはおとなしく家の中に閉じ込められてはいなかった。彼らは いつもそうやって遊んでいるように、母親の手を逃れて家から外に走り出した。
「だってお母さん、お祭りだもの」
「しょうがパンと干ぶどう。サフランで味つけしたパイの屋台が出ているもの」
「あ、笛の音!」
 子供たちは歓声を上げて、音の鳴るほうへと走っていった。
 春の名残をとどめて天頂に向かうほどに色うすく、雲ひとつない初夏の夕空。フィーデル弾きや七弦琴を 奏でる楽人、動物つかい、腹から火を噴出したり、とんぼ返りをきめる大道芸人、祭りの稼ぎをあてこんで集まってきた占い師たち。 大陸中を彷徨い歩く道化師や遍歴楽師たちは、祭りとみればその村に滞在し、 ささやかな見世物や音楽を提供して祭りを彩ることで、上層市民から食料や衣類を褒美にもらう。 「笛吹きだ」
「なんてきれいな音だろう」
 そよ風が野の花を揺らすように、広場から聴こえてくる楽しげな笛の音色が子供たちの鼓膜をくすぐった。
 子供たちはうっとりと楽師を見上げた。広場に現れたその笛吹き男は若く、旅芸人にしては立派であった。 曲芸を売り物にする芸人同様、楽人の彼らもまた名誉や裕福とは無縁の 賎民であったが、何らかの事情で地位を失い転落した元市民や、詩吟を愛する放浪学生なども大量に混じっているため、 思いのほか出自や教養が高いこともある。
 その夕べ、街にふらりと現れた笛吹きは、そんな一人とみえた。
 他の者たちのように垢じみた古着ではなく立派な服を着ており、上品な様子と物憂げな顔立ち、 笛を吹くその姿は姿勢よく、物腰にもおかしがたい気品が備わっていて、独り者だった。 広場に集った富める者も貧しき者も、瞑想するように伏目がちに笛を吹く彼には一目おいて、彼の笛の音に耳を傾けはじめた。 この時代の音楽とはその場かぎりの即興であったから、聴いたこともない曲なのは当然にせよ、それにしても それは妙なる調べであった。よほど特殊な笛なのか、空を奏でる明瞭な音色は天上のもののよう。笛吹き男の肩口で切り揃えてあるその髪は 見事な白髪で、それが浮世ばなれした彼の顔にはふしぎとよく似合っていた。
 広場は男の笛の音を聴くために静まった。ふと、笛吹き男は羽根飾りのついた帽子を傾け、視線を一方向に向けた。 笛の音は人ごみの中にそれを見つけた。夕闇の空の下、黒い外套を羽織ってこちらを見ている一人の少女。
「ソバルト」
 小さく喘ぐなり、少女はすぐに立ち去ってしまった。
 笛吹き男は笛を吹き続けた。前列では、貧民層の子供たちが熱心に笛を聴いていた。


 ジョゼフィンは仮装した人々の流れをかきわけて、街の外へと向かった。
「何処へ行くの、お嬢さん!」
 広場へ向かう青年たちが現れた。彼らはみな仮面をつけており、道や家の戸をからかって叩くための枝を持っていた。 若者たちは仮面をつけた顔を突き出してジョゼフィンの道を塞ぎ、両手を広げて通せんぼをした。 かかしのような藁人形を持っている者もいた。ジョゼフィンは彼らを押しのけようとして、逆にはね返された。
「どいてちょうだい。通して」
「一緒に、お祭りに行こう」
「藁人形を燃やそうよ」
 お祭り騒ぎの一週間の終わりは、罪の一切を藁人形に転嫁して人形を燃やす火祭りになる。仮面の群れはジョゼフィンを広場へと押し戻しはじめた。 道は狭く、逃げられるような脇道は両側になかった。
「車輪に火をつけよう」
「丘の上から太陽を転がそうよ」
 酒が入って上機嫌の若者たちは腕を組んで壁をつくり、ジョゼフィンの行く手を塞いだまま押し寄せて来た。 祭りの熱気と悪酔いが彼らから分別を失わせており、広場から鳴り響く楽の音が、酔っ払いの悪戯をさらに焚きつけた。
「夏至の妖精だ」
「お御輿に乗せて連れていこう」
 少女を担ぎ上げようとして、青年たちの手が伸びた。ジョゼフィンは周囲に ひと気がないことを確かめると、数歩後ろに下がり、それから軽く地を蹴って跳躍した。 青年たちはどよめいた。少女は大きく跳ぶと背の高い青年の肩を蹴って反対側へと降り立ち、夕闇を越えたのだ。
 向こう側に着地したジョゼフィンは、そのまま彼らを振り返ることなく走り去った。
 菫色の空には、金色の星が瞬いていた。荒野には風が吹いていた。ジョゼフィンは野原の中の教会を目指して野を走り、教会へ駈け込んだ。
通いの神父が街に帰った後で、アドリアンとジョゼフィンは夜のあいだ教会の屋根裏を宿がわりにしていたのだ。
 かつでジョゼフィンはアドリアンに訊いた。野宿ではいけないの。わたしは空の下でも平気だわ。雪風の音は、やさしいし。 アドリアンは風を遮る屋根の下に少女を入れて、ジョゼフィンを外套で包み込んだ。
「お前は半分は人間。そして人間は戸外では眠らない」
 血霊は暗闇でも夜目が利く。ジョゼフィンは屋根裏へ続く梯子を駈け上がった。アドリアンに聞いてもらいたいことがたくさんあった。 ソバルトを見たの。広場で笛を吹いていた。それから、さっき黒猫のように高く跳べたわ。
 太い梁が交差する狭い屋根裏の床に手をかけた。ちょうどアドリアンが降りてくるところだった。彼が降りてくるので、ジョゼフィンは後ろ向きに梯子をさがらなければ ならなかった。最後の段はとび降りて床に足をつけた。小さな靴先が床に届いたと思ったら、外套を肩にかけたアドリアンに腕を引っ張られていた。
「アドリアン」
「街へ行く」
「ええ?」
「屋敷に灯りがついている。笛を持っている子爵が、街に戻って来たようだ」



 お祭りなんて、つまらないわ。
 従妹はそう云って、彼の鼻先で窓を閉めた。

「子爵さま!」
「やあ、今晩は」
 広場では松明行列が出てきたところだった。大松明から振り落ちる大量の火の粉が広場を赤銅色に照らしつけ、酔っ払った 人々の顔を広場中央の巨大な焚き火が染めあげた。
 祭りは無礼講である。子爵は椅子代わりに並べられた樽の上に腰をおろすと、 街の人から木の器にそそがれた酒を受け取って、早速に飲み干した。
「子爵さま、もう一杯」
「子爵さま、踊りましょうよ」
 踊りといっても、手を繋いで巨大な焚き火の周りをぐるぐると回り、二重円陣の外側と内側でたまに相手を入れ替えるだけの 素朴な田舎踊りである。音楽に合わせたその単純な運動は極度の昂奮と忘我を煽るようで、速度を上げた円陣から放り出され、笑い崩れながら ひっくり返って重なっている男女の姿がそこかしこで見受けられた。
 この広場ではたまに罪人の処刑や魔女の火刑も行う。そんな時も、同じように人々は円陣となって刑台を囲み、 興奮を隠せぬ顔をしながらその残酷な一部始終を見守っていたものだ。
「奴隷を死ぬまで闘わせ、それを飲み食いしながら見物していたという古代帝国の闘技場。その時代と現代を比べて、人間の本質に どれほどの違いがあるというのでしょう」
 軽蔑でもなければ、憂慮でもない、ただ事実を淡々と告げて祭りを横目にしていた女がいた。 彼女だけはどうにも苦手で、苦手なその分だけ心惹かれ、祭りに誘うこともそれ以上ふざけることも許されず、ついに最後まで告白が出来なかった。
 或る秋の朝、小さな鞄一つを手にして、彼の屋敷に別れの挨拶に現れた従妹。お従兄さま、子爵さま、と女は云った。
「養父母も亡くなりました。修道院に入ります」
 見送るほかなかった。せめて馬車で送ろうと申し出て、山奥の修道院まで附いて行った。思いがけず従妹が入ったその修道院の 名を耳にしたのは、隣接する伯爵領の城で開かれた、宴会の席でのことだった。
「公爵夫人の笛?」
「それはもう見事な品で。ほら、公爵家は代々、ご先祖さまが設立した 女子修道院に多額の寄付を続けておられますでしょう」
「そういえば、子爵さま。何でも、子爵さまのお従妹さまがそちらの修道院の副院長になられたとか」
「ええ。尼僧長に。その節はこちらの伯爵さまからのご推挙をちょうだいしました」
「いやなに。修道院長は老齢。孤児院もあるのだ。推薦がなくとも、若くて有能な尼さんでないと 尼僧長は勤まらぬと思っていたのでな」
「それで、公爵夫人の笛とは」
 子爵はさりげなく話を戻した。
 子爵は天性の泥棒であった。信条は二つ。大貴族しか狙わない。人を殺さない。
 悪事に手を染める者の中には、狩りや賭博と同様に窃盗行為を純粋に愉しむ者がいるが、子爵もその類の男であった。 子爵が美術工芸品に造詣が深いことは有名であり、さっそくに宴はその話で盛り上がった。
「公爵夫人の許にね、珍しい笛がありますの。捨て子の笛と名のついた」
「捨て子の笛」
「わたくしも拝見したのですが、それはもう、美しい笛で」
 その話を要約すれば、こういうことであった。
 公爵家が金銭支援している孤児院では、書置きがない限り、預けられた孤児たちの私物は寄付とみなされる。
 五十年前の秋の朝、一人の赤子が修道院の門前に捨てられた。赤子を包んでいた外套には金貨の入った袋と 宝石付きの笛が添えられており、赤子は孤児院へ、そして金袋と笛は規定どおり、修道院の預かるところとなった。
「ただしその笛の細工があまりにも見事であったので、もしや由緒ある品ではなかろうかと、当時の修道院長はそれを 公爵家へ差し出したそうですの」
 以来五十年、その宝石付きの笛は公爵家の家宝となり、 現公爵夫人が嫁入りする際、結納の品の一つとして現当主より奥方に贈られ、公爵夫人の持つところとなったのだそうである。
 捨て子に添えられていた、宝石付きの笛。
 子爵は大いに食指がうごいた。
 何よりもその笛が従妹のつとめる修道院とかかわりが深いということが、なおさらの如く、子爵の物欲と運命論をかき立てた。 それは是非ともわたしの物にしたいものだ。いやしなくてはならぬ。初恋のままに去ってしまった、あの女のかわりに。
 子爵は笛を手に入れた。手を組んだ贋子爵の不遇の死については、実に貴族らしい驕りから、何の良心の咎めも感じなかった。 あの男は見るからに年季の入った悪党であったのだし、窃盗の他にも殺しもしていたようだ。 いずれは街道沿いに吊るされるべき極悪人だった。それが早まっただけのことだ。
 ざわざわと人波が乱れた。子爵は人ごみに眼を向けた。
「どうしたのだ」
「子爵さま。子供がまだ家に帰らぬとかで、おかみさんたちが広場に子供を探しに来たようです」
 祭りの日に迷子はつきものだ。広場の楽しげな歓声に、子を探す母親たちの哀れな声がまじった。
「ぼうや、ぼうや」
「森や、河に行ったのでなければよいのですが」
「それは心配なことだな。なに、朝になったら戻ってくるだろうが、明日になっても見つからぬようならわたしも協力しよう」
 樽から腰をあげて、子爵はあくびをした。夜は冷える。旅先から戻ったばかりで今日は疲れた。祭りは明日で終わりだ。 周囲の人々に軽く手をあげると子爵は従者を連れて広場をあとにし、疲れたからだを引きずるようにして屋敷へ戻った。 屋敷には、客人が待っていた。


「客だと。こんな夜遅くに」
 昼間の地方行政官が戻ってきたのだろうか。不快を隠さず、子爵は上着だけ着替えて応接間へと降りて行った。
応接間から漏れている灯りがどうも多い。蝋燭の無駄遣いだ。あとで執事を叱ってやろうと決めた子爵は、 しかし一歩中に入った途端、執事が蝋燭を増やしたわけが分かった。
「子爵」
「今晩は。お邪魔しています」
 そこにいたのは、兄妹とも思えぬ、しかし極めて類似性の強い美貌と気品をまとった、見知らぬ青年と少女だった。
  青年はすらりとして、無愛想であった。そして少女のほうは、そのまま時をとめてしまいたいほどの美少女であった。
  「……わたしが子爵だが。わたしに何か、用があるとか」
 彼らが何者か見当もつかず、困惑しながら子爵は椅子をすすめた。彼らは立ったままだった。
 貴族であり目上の人間に対する彼らの態度は不遜であり、かといって無礼や不快な感じは微塵もなく、といって 身分高き者とも思えぬことは、供人が一人もいないことで分かる。彼らは馬車も使っていなかった。
「見かけぬお顔だが」
「子爵さま。わたしたちは子爵がお持ちの、宝石つきの笛をいただきにきたのです」
 思いがけないことを単刀直入に云い出した少女の微笑みは、湖のほとりに咲く白い花のようだった。
「笛」
「贋子爵が公爵家から盗み出した捨て子の笛のことだ」窓際から黒髪の青年が冷ややかに云った。
「殺されたくなければ手放すことだ。あの笛はこの家に禍をもたらす」
 ジョゼフィンがとりなした。
「子爵さま。あの笛は、わたしのものなの」
「はて。何の話かな」
 子爵はそっと呼び鈴のある卓上へと後ろ向きに下がっていった。この者たちはさては、贋子爵の仲間か。
「お願い、子爵さま。人を呼ばないで」
 いつの間にか前後を青年と少女に挟まれていた。彼らは最初からその位置にいたかのように、そこにいた。子爵はごくりと唾をのんだ。 酔いの幻覚のせいにしようとしても、あまりにもまざまざと、彼らは現実にそこにいた。
 扉と子爵を遮断するように、青年が背後に立った。魔のように。笛を手にした時のような冷気が子爵を襲った。
(これも盗みを重ねてきたことに対する、神の裁きか)
「よかろう」
 観念して子爵は冷や汗をぬぐった。泥棒は往生際が肝心だ。しかし、ただでは口惜しい。
 愛想よく笑い、子爵は卓にあった酒壜を取り上げた。
「まあ落ち着いて。とりあえず、ご馳走させてはくれまいか。名も知らぬ君たちよ」
  「わたしはジョゼフィン。彼はアドリアン」
 少女はほっとした顔をして、子爵に感謝の眼をむけた。
「笛を返して下さるのね」
「あの笛の正当な権利者が君ならば、返さぬわけにはいかぬからね。ところで、 本当に君のものなのかね。そのあたりを分かるように説明してもらいたいのだが」
「あれはわたしの父母のものなの。わたしは山奥の修道院にいました」
 少女はその修道院の名を告げた。子爵の従妹がいる修道院だった。子爵は笑い出した。これはおかしい。彼らも酔っているとみえる。
「それで。あの笛は五十年前に公爵家に移管されたものだというのに、お嬢さん、君の父母の笛だと云うのかね。 それではお嬢さんは年をとっていないことになる」
「そうよ」少女は頷いた。
「年をとらぬ。まるで魔物だ」
「そうよ」
「本当かどうか確かめる術はないがね。試すくらいはよいだろう」
 子爵が首から外して掲げた十字架をジョゼフィンは何なく受け取ってみせた。子爵と少女は笑い出した。
「わかったわかった。こちらもすねに傷のある身だ。悪いことばかりをしているので訴えられては敵わない。笛は君に返してあげるよ。その代わり、条件がある」
 泥棒子爵は両腕を広げた。広場ではまだ音楽が続いている。明日が祭りの最終日だ。子爵はジョゼフィンに片手を差し出した。 お祭りなんて、つまらないわ。そう云って閉ざされてしまった窓。あれ以来、一度も踊っていない。
「明日の晩、このわたしと踊ってはくれぬかな。そうすれば、笛は君たちに返してあげよう」
 ジョゼフィンに片手を差し伸べて子爵はそう云った。アドリアンは小莫迦にしたようにわずかに片眉をあげた。ジョゼフィンは微笑んで 子爵に頷いた。
「分かりました。明日広場で。笛を持ってきてね、子爵さま」
「子爵」
 アドリアンが窓辺から子爵を呼んだ。
「笛を狙っている者たちだ」
 子爵が窓から外を見ると、外には五人の男がいてこちらを見上げていた。月明かりに彼らの顔は気味が悪いほどに青白かった。
「なんだ。あやつらは」
 子爵が訊ねようとして振り返ると、青年の姿はもうそこにはなかった。そして優美なお辞儀を残して少女が扉を閉めてしまうところだった。



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